《第十次{45}釜山・南海岸》オレンマネ・デジクッパブの日/富山倭館(西)

~(m–)m 前編の行程(再掲) m(–m)~
Jinsijang-ro 20beon-gilの位置(kakaomap航空写真)

Jinsijang-ro 20beon-gil

と南の路地へ踏み込みたくなった。
 1500。Jinsijang-ro 20beon-gil。
 韓国では知らない路地裏の空気です。うねりもアップダウンも尋常じゃない。まるで中国老城です。

▲1501 Jinsijang-ro 20beon-gilの路地

れど中国南部の老城路地とは違って,生活感はほぼ感じられない。けれど中国北部のそれ,土塀の迷路とも違って,暗みがある。後者の部分では南部老城に近いのです。
 スラムのような危機的な貧しさも感じないし,危険な臭いもない。建物は崩れそうな古さではないし,石垣や古井戸があるわけでもない。

▲1502 Jinsijang-ro 20beon-gilの路地(2)

頁のJaseong-ro 75beon-gilといい,韓国の町にこういう路地がスポット的にでも残る理由があり得るのでしょうか?
※ 《第十次{44}釜山・南海岸》オレンマネ・デジクッパブの日/富山倭館(東)/Jaseong-ro 75beon-gil
 戦後の辺りの情況を微かにとどめる,という雰囲気は嗅ぎとれるんですけど,それがなぜそこに在るのか皆目分からない。
 混乱したままです。今もそうですし,今後もこの場所の「謎」は解かれはしないのでしょう。
「地図を少し睨む。やはり戻って階段を渡ろう。南にある,逆光で撮れないCafe retterのある三叉路にも惹かれるんだけど……」とこの時のメモもしばらく逡巡していました。でもとにかく話の方も,陸橋を東へ渡って参ります。

KR線路を越えて遠き城

▲再び歩道橋下。登る

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

段を登り陸橋を進むと,西正面に釜山鎮倭城の山が見えてきました。
 かなり高い!
※ ameba/知られざる日本式石垣  ー釜山鎮城ー 2019-10
 甑城とも呼ばれたこの城には,日本式石垣も残ってはいるそうです(※HP参照)。ただ,元は釜山鎮防衛用の朝鮮側山城で,開戦間もなく陥落したので日本側が改修したものの,実際の戦闘はなくてそのまま残ったというものらしい。富山浦倭館に近いようで遠い奇妙な城砦です。

道路と市場と線路でズタズタ

▲1512 陸橋西に続く道と釜山鎮城の山

いうことは,金壘關(前章)からこの釜山鎮城の間が古い,そして消えた町だったはずです。自動車道と市場と線路でズタズタに再利用されているとはいえ,けれどここまでのところ,はっきりその跡と推測できるものは出てきません。
「橋の階段西口下に10段の階段。単に二階への階段にしてはやや低い。でも推測は難しい。」
 下の写真の三角地など,不自然な地形はかなりありますから,古地図と比較すれば何かが見えそうな場所なのですけど──後の調べでも,とうとう見つかりませんでした。

▲1513陸橋西端から南を望む。

釜山軽工業全盛時代の夢の跡

520,バス停 좌전동。
 片道四車線の車道・Jungang-daero を,これは横断歩道で渡ります。
 その先の対面の路地を西行。道名はJeonggongdan-ro 정공단로。

▲1524 Jeonggongdan-ro 정공단로

具の小工場が連なっているようです。戦後の軽工業地の名残,といった地域かもしれません。
 まっすぐは厳しい登り。アパート街っぽい。メイン道は左折して南へ延びてると見る。
 左折しよう。

▲1525 Jeonggongdan-ro45(左折地点の先)

eonggongdan-ro45。
 うーん……。アップダウンは残ってるけど,何の変哲もない町並みになってしまいました。
「新興館」なる看板を一ヶ所見つけました。

▲1528漢字の「新興館」看板のある店先

ナクチ屋と豆毛浦倭館

クチ(韓国のタコ)の店3軒。
 古い民家。これもナクチ屋だったらしい看板の跡。
 돌솥영양밥?──意味は分からんけど写真は旨そう!だけど客いなさそう!──どうにも読めない界隈です。

▲1531ナクチ屋の並ぶ界隈

うやら,後から見る限りこの辺りに,17Cに豆毛浦倭館があったものらしい。東莱がナクチポックムの集中地となっているように,古・プサンの痕跡として僅かにその食文化が残ったものかもしれません。

豆毛浦倭館解説(釜山鎮駅前)

※ ameba/日韓友好の原点 豆毛浦倭館
2020-04
URL:https://ameblo.jp/yoa1003/entry-12477475585.html

お,この豆毛浦倭館は80年も立地していたとは言え,今は全然分からなくなっているようです。上記案内板や関係プログは「東支庁」の場所と書くけれど,その広がりは不祥ながら,次代の草梁倭館で十倍規模に拡大しなければならなかったということは,豆毛浦段階で実際的な商業・交易地が倭館から溢れ出ていたと想像できるわけで,それがどの位の範囲だったのか?という疑問が次には沸いてきますけど──。

▲1532 豆毛浦倭館……の残滓が,心の清い人にだけ感じられる(かもしれない)釜山鎮西山際の道

「《第十次{45}釜山・南海岸》オレンマネ・デジクッパブの日/富山倭館(西)」への1件のフィードバック

  1. Your article gave me a lot of inspiration, I hope you can explain your point of view in more detail, because I have some doubts, thank you.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です