《第十次{44}釜山・南海岸》オレンマネ・デジクッパブの日/富山倭館(東)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

Beomil 2番出口より

山大を発ったのは1322。
 1324,温泉場。ここから東莱の辺りが日帝時代は日本人歓楽街であろう町。それ以前は東莱を中心に地方政治の本拠地だった場所,と昨夜の論文で読んだ。
 これに先立つ江戸期,つまり李氏朝鮮時代の釜山の下町が釜山鎮。これを元に日帝時代に北へ伸びたのが釜山鎮と釜田の市場。韓国時代になってその間を埋める形で発達したのが西面──という時系列でしょうか。
 分からない。しっくりしない不整合面が幾つもあります。けれど,政治的な紆余曲折に関わらず,倭館時代の賑わいから継続して現在の釜山の町があるらしき点は,ぼんやり感じとれてきます。
 1344,西面から2駅,Beomil 범일。えーと?2番出口から出ることにします。

▲1353 Beomil 범일の2番出口。西門よりぐっと韓国田舎臭さが増す。

일로 Beomil-ro を南行。これは片側三車線の車道脇です。
 バス停Busan Bank Beomil Branch 부산은행범일동지점,조방타운 という赤い半月ゲート。これは通過。
 歩道橋の交差点。南西角にビックビジョン。ここだろう,左折。道はJaseonggongwon-ro 자성공원로。

朝鮮紡績位置図(昭11)

山でお昼を」で後に知ったところですけど,このBeomilの辺りの,殺風景なのに妙に田舎じみてる雰囲気のエリア──以前はナクチポックムを食べに通ってた界隈は,大正6年に創業された朝鮮紡織株式会社があった工場城下町でした。上記地図からは国鉄の引込線が工場内に入っている事が分かり,官民一体の一大地域開発だったことが分かります。
※出資者:馬越恭平、山本条太郎、山本悌次郎、柵瀬軍之佐、野田卯太郎、和田豊治
当初資本金:500万円
工場敷地:4万8千坪
工場及び付属建築物:54棟
紡機械台数:39,376台
織機台数:1,132台

 この朝鮮紡織㈱と海側の大韓製油㈱が閉鎖され,両社の計8万坪の敷地が,3万余坪が道路に転用,残り約5万坪が市から公売されたのが現在のこのエリアです。

工場の周りには多くの食堂がありました。名物がナクチポックンです。この料理のことを釜山では「朝紡前」と称していたそうです。

※ 釜山でお昼を/> 街角の風景 > 釜山広域市東区 > 凡一洞
朝鮮紡織株式会社

75beon-gil 자성로75번길

Walking qi-yue
本目の南北道 Jaseonggongwon-ro4。
 明らかに雰囲気が違う。道のアスファルトを固めてる最中。ひとまずスルーして東へ。山の崖が見えた。石垣も見えるけど──戻ろう。城を見たいわけじゃない。今の道だと思う。
 1413,Jaseonggongwon-ro4を南行。
 1414,すぐの左折路へ。Jaseong-ro 75beon-gil 자성로75번길。

▲1417 路地道 Jaseong-ro 75beon-gil 자성로75번길

0mで南へ折れ,さらに西へ折れる。
 75beon-gil の38に戻った。さらに南行を続ける。
 東の高地が釜山支城。子城台とも小西城とも呼ばれる倭城です。

▲1418倭城西側の崖道

南の国境 国の錠

420,公園。脇のトイレを借りる
「金壘關」とある大きな石門。脇に石柱があり,案内板。

壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の後,釜山鎮支城を築城した際に建てられたものと推定される。石柱には『南徼咽喉』,『西門鎖鑰』と刻まれており,『ここは国の喉元に当たる南の国境であるため,西門は国の錠のようなものである』という意味である。壬辰倭乱の後,日本への警戒心が強かった時代の考え方を反映している。この石柱は本来,釜山鎮支城の西門の位置した,城南小学校の校庭にあった

 城南小 성남초등학교 の校庭が西門?つまり西の線路までの広いエリアです。
※ 부산진지성(釜山鎭支城) 금루관(金壘關)
URL:http://www.newsbusan.com/m/view.php?idx=871
금루관 터(金壘關-) – 부산역사문화대전
URL:http://busan.grandculture.net/Contents?local=busan&dataType=01&contents_id=GC04203169

 西行。Beomil-ro 64,この辺りは普通の市街です。

▲1446歩道橋から北(ボムネゴル,西面方向)

444歩道橋を西へ渡る。下は,北の西面から南へ一直線に伸びる車道。
 この道で旧倭館域は分断さらている形です。

釜山鎮市場南縁の場末

▲1448 부산진시장 BusanJin Market付近

西北の屋内市場に부산진시장 BusanJin Market Since 1913と青い看板が見えます。入りたい衝動もあるけど,そのまま西,地上へ降りる。
──とこの時はスルーしたつもりのこの市場は,観光的には「韓服を作るならここで」と紹介される釜山繊維業のメッカであったらしい。韓国産業の興隆期,釜山鎮の絹織物がまずその草分けとなったといいます。なぜここの繊維が有名なのか?

市場が生まれた頃(1913年ごろといわれています)は、繊維関係ではなく、韓国内のどこにでもある小規模な在来市場だったんだそうです。(略)1964年に民営化され、現在の韓服を扱う繊維市場へと変わってきたんだとか。
また、民営化されたときに、市場そのものの位置も草梁(チョリャン)から現在の位置に移動し、1970年に現在の鎮市場の建物が建設され(略)
※ 釜山鎮市場[プサンヂンシジャン]の |韓国釜山ショッピング・買物-プサンナビ
URL:https://www.pusannavi.com/shop/2124/

 つまり戦後,「草梁」の繊維業がここに集団移転してきたからです。
 草梁とは何か?この時はまだ理解していません。

▲1449釜山鎮市場南縁へ歩道橋を降りる

1450さっきの門対面の道へ。Beomil-ro 65beon-gil。この賑わい……と言っても店だけ多くて人通りはない。でもこれは市場です。おそらく釜山鎮市場の外に溢れたもののでしょう。

中華料理南门閣

▲1451場末感漂う「市場」

華料理南門閣」?
 階段下に「福」字が見える。看板は日本と同じ漢字(門)ですけど,シャッターに隠れかけてる文字は簡体字(门)です。華人,それも共産中国以降の中国人がいることになります。

▲1453「中華料理南門閣」

の時はそれだけしか気にしてませんけど──「南門」? 先の釜山鎮支城の案内からすると,この辺りが城の南門だった位置に当たる訳です。その地名だけが,車道に分断された後にまだ残っているんでしょうか?

▲1456釜山鎮市場南縁の寸景

5beon-gil33で階段。この東は線路になってます。旧倭館域は格好の空地として,道路と,さらに線路用地に当てられたらしい。
 ただ,この階段は,おそらく真東へ線路を越えて続いてるようです。

▲1459線路をまたぐ陸橋

山でお昼を」サイト(後掲)によると,西側城壁が完全になくなったのは,明治期に路面電車の軌道として使用された際だったとあり,そうだとすれば日本側の指示で撤去した可能性もあります。

明治中期(開港直後)の釜山鎮市場。方向は西から東で,奥手の山が子城台

明治の半ば頃には海側の城壁は無くなり左の陸側だけ残っていましたが 路面電車の軌道を通す為にこれも撤去されました。
※ 釜山でお昼を/釜山鎮市場
URL:http://busan.chu.jp/korea/old/fukei/ton/b1/itiba.html

■史料:東莱富山浦之図とその辛い読み解き

 15C末に申淑舟が著した「海東諸国紀」の絵図に,「東莱富山浦」のページがあります。
▲申淑舟撰「海東諸国紀」中「東莱富山浦之図」
※ 同「熊川薺浦之図」\《第十次{32}釜山・南海岸》/馬山

 大変に簡素な図です。おそらく申は,「あの辺に倭館がある」という程度の情報しか得ていない。
 この図では,倭館の南に湾があり,それが釜山湾の最奥として描かれています。ただ,その他の情報については,相当部分を諸資料で補完しないと実態に近づけそうにありません。──なぜこの位置に倭館があり,いつまであり,何をしていたのか?

wiki:富山浦倭館に関する記述

 まずwikiの「倭館」を見てみます。このページは近世と近代の倭館をインデックス的に一応網羅しています。
※wiki/倭館
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E9%A4%A8
※※ wikiは出典を明らかにしていないけれど,脚注を見る限りベースにしている書籍は,村井章介「中世倭人伝」(岩波新書,1993年)と思われる。

富山浦倭館:後には釜山浦倭館とも呼ばれた。現在の釜山広域市東区子城台に所在し、行政的には北方にある東莱(トンネ)県城、軍事的には西方にある万戸営庁の管理下にあった。1494年には450人程度の日本人が居住していた。1510年の三浦の乱によって一時閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって薺浦が再開された後、1521年に富山浦倭館も再開された。釜山浦倭館は1592年の豊臣秀吉による朝鮮侵攻まで存続し、三浦倭館の中では最も長く日本人が住んでいた。

 三浦中,日本人居住者が最大だったのは齋浦であったことは先に見ましたけど,最長の歴史は釜山(富山)が有します。当時の日本籍の人数のカウントの仕方によりますけど,マーケットの大きさや朝鮮出兵時の拠点だったことなどを考え合わせるなら,機能面ではやはり三浦中最大の日朝国境交易地だったのではないでしょうか?

朴:釜山倭館に関する推論集

 朴海玉という方が「釜山の都市プランの変遷」論文中で倭館に関する先行研究をまとめておられました。次にこの内容を読みます。

「プサン」という地名

〈富山〉とい う地名は、高麗恭愍王17年(1368年)に講究使李夏生が対馬島に派遣する時、白米千石を富山浦から搬出したという記録から最初の〈富山〉という地名が発見できる。そして『世宗実録地理志』にも〈東莱富山浦〉と記録さ(ママ:れ)ている。[前掲朴]
※ 同注16。朴はその引用元を「港都釜山大探険」東洋文庫,釜山インポネッ出版企画部,2000,15-16頁からとする。

 海東諸国紀の百年前,単なる初出記述ですけど,この手応えは齋浦とも共通します。
①「地点」として最初に文書化されていること :行政名でも領地名でもない。陸上国家の中心から遠い,というだけでなく,秩序外の場所と捉えられています。また,それ以上の興味を示されていないように見えます。
②交通ルートの一点として認知されていること :両記述とも,航路の発着地点として記述される。特に後者は,東莱の港を指して「プサン」と言っています。東莱⊃プサンなのです。
③「プサン」の初出が対馬との交易記事であること :まず対対馬の外交関係があって,その文脈での地点としてプサンが浮上する,という認知順序になっています。
 14Cのプサンにして,これほどに陸上の歴史からは遠い。外交や防衛上,たまたま記述に引っ掛かった,という地名なのです。朝鮮王権にとっての対馬海峡は,前期倭寇の問題が注視されるようになった後に初めて,やむを得ず認識されていった地域だと推定できます。

日本の富山とは無関係

 プサンの旧漢字名「富山」は,日本の県名になっている「富山」とは関係がないようです。朝鮮のプサンが「外山」と呼ばれた痕跡はありません。

 中世において「富山」は「外山」と記されていた。
 その初見は、応永5(1398)年、吉見詮頼(よしみあきより)が能登守護であった父・氏頼(うじより)から譲られた越中国「外山郷」の地頭職を、京都東山の東岩蔵寺に寄進した文書『吉見詮頼地頭職寄進状』とされる。
「外山」が「富山」となったのは、天正9(1581)年、佐々成政(さっさなりまさ)がこの地を治めた時代で、「富山寺(ふせんじ、のちに普泉寺)」の土地に城を築いたことから「富山」の地名が生まれたとされる。

※ BEST TiMES(ベストタイムズ)/【富山「地名」ケンミン性】中世までは「外山」佐々成政の治世に佳字の「富」に改める《47都道府県「地名の謎」》
URL:https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/663541/

三浦から四代目までのプサン倭館

 プサンの富山倭館は,朝鮮出兵を挟み,本文でも触れた草梁倭館に引き継がれます。でもそれまでにいろんな記述があり,結局何がどうなって富山→草梁に移ったのか分かりにくい。
 そこはこういうことらしい。プサンの倭館は四代の推移があります。

朝鮮半島における朝日両国の外交・貿易機能を有する地域である倭館は朝鮮太宗7年(1407年)に釜山浦と乃物浦が設置されていた。そして、太宗18年(1418年)には監浦が増設されていた。しかし、壬辰倭乱以後、一時的に閉鎖され、釜山一港のみに制限されていたが、また釜山に倭館が設置 されることとなる。[前掲朴]

 ここまでの,いわゆる三浦時代は何度か見てきました。問題は江戸期,朝鮮出兵後のプサン倭館です。

釜山における倭館の位置変動は、
釜山浦倭館(1407年~1592年)
→絶影島倭館(1599年~1607年)
→豆毛浦倭館(1607年~1678年)
→草梁倭館(1678年~1876年)
である。[前掲朴,改行・丸付数字は引用者]

倭館の位置の変遷

※ 前掲朴 図 倭館の変遷 尹珍淑「日帝下釜山市の都市構造」から引用
 簡単に言えば,15・16Cの二百年は富山浦にあったものが,朝鮮出兵後80年は小規模な形態で豆毛浦(その前8年のみ絶影島)に置かれた時代を挟み,江戸期の大半は草梁に置かれた。
 ちなみに三浦も,三浦の乱や蛇梁の倭変などの転換点で閉鎖を繰り返しています。なので外交的には次の表のようになります。
倭館×年代クロス表

※ 李泰勳「釜山浦と機張の上長安窯址」
 朝鮮出兵時,特に日本撤兵後にはさすがに三浦は壊滅したらしい。でも他の場合は,そこに住んだ日本人が,こんなに一朝一夕の変更の度毎に,一気にゼロになったとは思えません。
 ともあれ大きな倭館は,中世の富山倭館と近世の草梁倭館の二つになることは分かります。この両倭館とはどんなものだったのか?

富山・草梁両倭館の大きさ

豆毛浦倭館の地域規模は、東西126歩、南北63歩であり、宴亭大庁と東館、西館などの建物が建られていた。草梁倭館は1675年に着工し、1678年に完工された。建物規模は、東西372間、南北256間であり、主要公館は宴大庁と東館や西館そして客舎などの日朝折衷式建物が建られていた.草梁倭館の面積は豆毛浦倭館の約10倍で、約11万坪にもなっていた。そして、館守・代官などの約454人が定住していた。
※ 前掲朴 注12
※※引用元(同注1)金鉄権「開港期・日帝強占期の釜山市街地変遷に関する研究」東亜大学校大学院 碩士学位論文,1998

 豆毛浦倭館から草梁への移転で,日本人居住地面積が十倍以上に拡大したことはあちこちに書かれます。では富山倭館に比べるとどうだったのか?──という点は,あまり定かではないらしく書かれたものがない。史学的考証が難しいのでしょう。
 ならばこちとら素人なので,前記の案内板(西門=城南小学校)と「南門閣」から想像を逞しくしてみます。これらから富山倭館の門の位置は,ぼんやりとは分かっています。
 草梁倭館11万坪の位置は,後に掲げる明治期の地図である程度判明しています。道の基本形が同じなので,現代の地図にも落としていけます。→《第十次{49}釜山・南海岸》オレンマネ・デジクッパブの日/PIFF通りの段差/草梁倭館位置図
 この2つを,同縮尺のKONEST MAPで並べると次のようなことになります。

上:富山浦倭館vs下:草梁倭館の広さ

 両者とも丘陵地を抱える(内城的な位置に置かれたのでしょうか?)ものの,大まかに草梁倭館は富山倭館の2倍ほどの面積です。
 両者の疎外度とスペックの違いも計算に入れた方がいい。富山浦は東莱との連携下に置かれた地勢で,外港だったわけですけど,内陸に入り込み水深は浅かったでしょう。これに対し,草梁は南の海の最端で,東莱を本地とする統治者側から見ると僻地に追いやった,「狭い狭いと騒ぐ倭人を目に付かないところに追い払った」感じですけど,水深は外航船に適した深さがある。
 倭館構築前の草梁がどんな場所だったのかはっきりしませんけど,前頁の南埔道写真手前に移るような漁村だったのではないでしょうか。
 つまり,草梁倭館移設により近代港湾都市・釜山が生まれた訳です。

(再掲)明治初期の南埔道~中央駅付近の入江

朴:倭館と「亀」地名考

 しかしこれでは倭館の当時の生活まではとても見えてきません。位置以外に何か手掛かりはないのでしょうか?
 朴さんは,倭館近隣の「亀」名地名の頻出性を指摘しています。

京釜線鉄道駅名には〈亀浦駅〉,〈倭館駅〉,〈亀尾駅〉という駅名があり、朝鮮時代における倭館の存置と関連深いことから作られた地名であると思われるが、倭館存置の分布状況などが推定できる地名であるかもしれない。 というのは,〈倭館〉の地名はいうまでもないが、〈亀〉とい うのは海を表わす神聖なもので、ある意味の象徴でもあると思われるが 、「倭館」とむすびつけて考 えるのは臆測かもしれないが、しかし草梁倭館の北の方にある山の名が「亀峯」であるし、海洋貿易人の象徴として使われていたのではないかと思うことに無理があるであろうか。[前掲朴]

朴論文図3:朝鮮時代の釜山景観

(図3の)c.亀浦には壬辰倭乱の時、築かれた日本軍の座城が立地している。そして、朝鮮時代後期、〈場市〉が造成された所でもある。
 以上、朝鮮時代の釜山地域性を釜山景観の構造形態から抽 出してみようとした。しかし、今のところ、不明な点が多いので確言できるものはあまりないと思われるが、古来からの釜山地域性を考える場合、貿易を主にしていた海洋集団勢力の商業力 と「倭館」という存在を無視して考えることはできないといえよう。[前掲朴]

 ワシの関心もそこにあるのは確かなんで同調したいんどけど──亀=海生物=海人との関係,という連想が正しいなら,海人,少なくとも対馬海人に同様の痕跡が見えてもいいのに
①対馬本島で「亀」の付く地名は上島仁田の「亀ノ岳」くらいで,頻出しない。
②亀を神聖視する観念は,漢民族が長寿にあやかる発想を持つほかは,妙見信仰※がある程度で,海人信仰の中には(浦島太郎の他には)例が見受けられない。
※ 例えば,中世長州の大内氏は妙見信仰があつく,1487(長享元)年に大内政弘が,鷹の餌として、鼈(スッポン)・亀・蛇を用いることを禁じる政策を公示している。妙見で尊ぶ玄武(亀蛇)にちなんだものという。
※※山口県文書館「大内氏と亀」

といったことを考え合わせるなら,少なくとも補足材料なしには苦しい議論だと思います。
 ただ,倭館や倭城が現住民にとってどれほど「なかったことにしたい」歴史かを考え合わせるなら……今後も強力な補足史料の登場はなかなか期待しにくいと思います。