《第十次{46}釜山・南海岸》オレンマネ・デジクッパブの日/影島山手(下)

倭館跡を見下ろす鄭撥将軍

▲日新基督病院入口付近

新基督病院,と漢字で掲げる病院がありました。
 釜山鎮駅前です。
 何てことない病院ですけど,どことなく韓国にしかないセンスの病院です。院内にHerry’s Cafeがある。
「日新」の字は日本を指すのではなく,日々新たなり,という程の韓国語。朝鮮戦争中にオーストラリアの宣教師が医療を受けれない妊産婦や子供をメインに開業したものが,今も続いているキリスト教系の病院のようです。
※ goo blog/Ilsin christian hospital (イルシン キドク病院 ・ 日新基督病院) – Komeditour
URL:https://blog.goo.ne.jp/komeditour/e/da8f2927f94bb6508afd7ece066fe4d8

▲廟から市内

院の先で唐突に石垣。1540。
 古い。間をセメントで詰めてあり,文化財保護的な是非はともかく……後から補修して守ってる,という気持ちは分かる。
 案内板には「鄭公壇」とあります。壬辰倭乱(秀吉の朝鮮出兵)時に殉節した釜山僉使・鄭撥将軍の祭壇,と書かれてる。この人は釜山鎮城の防衛責任者だった人です。
※(再掲)ameba/知られざる日本式石垣  ー釜山鎮城ー 2019-10

▲慰霊碑群

愛国心教育小路

しかないけど釜山鎮郷友會の看板。市民や募集兵の碑も中壇右手に並んでます。
 ここの案内板には日本語だけがない。中国語での記載を見ると「公曰 吾當爲此城之鬼 敢復言棄城者斬」──文語的で分かりにくいけど,日本兵に守備兵が惨殺された様を語ってるらしい。

▲日本水軍イメージ

うやら,この辺りからが釜山鎮倭城へ登る導線になってるらしい。地下鉄駅へ左折していくと,路地道に水軍のアートペイントが連なってます。
 駅すぐの,おそらく最初に目に入るであろう絵が……またひどい。

▲路地裏の兵隊さんたちの絵

から,例えば韓国人の小学生・金ちゃんが釜山鎮倭城に遠足に行く時,駅から降りて,まずこの絵画群で歴史認識を深めてから,その現地に登っていく訳です。
 近代の朝鮮併合と織豊の出兵は全然背景が違うし,まして豆毛浦倭館はどちらかと言えば,少なくとも陶業などの文化的には日本が朝鮮に劣っていた時代に,主に対馬人が抑圧されていた場所です。イメージだけで愛国教育してると,現実の歴史を見失ってしまうと思います。
 ただ,観光的にはマイナーなこの場所には,歴史が重層化し過ぎてるのも確かです。

タデホ・ビーチには行きません

▲劉さんだろうか?マスコット化されてる。

6時を回ってしまった。
 地下鉄1号で佐川좌천から南浦남포へ。今は「タデホ・ビーチ」と行き先アナウンスが流れてます。行ったことないなあ。
 さらに……釜山驛の前の駅で「国際旅客ターミナル」と日本語アナウンスが入る。そうか,ここが最寄り駅になったんだなあ。一瞬,船を降りて「中央洞」駅まで歩いてた時代を懐かしむ。
 1623,南浦。地下街のきらびやかさが昔と大違い。ハイセンスになっとる!
 今日はもう一ヶ所立ち寄っておきたい。6番出口を出ると,正面に,ロッテモールがそびえ立つ。

~~~~~(m–)m影島編~~~~~(m–)m

まんへんさむかり下車

▲南浦バス停にて

島へのバスを待つ。1628。
 영도대교(남포역)ヨンドデギョ(影島出口?)で乗ってOenamu pharmacyで降りればいいはず。この乗り場は影島への橋の手前だから,とりあえず島へは間違いなく行くはず。
 ……頼りないですけど,影島のバスルートはどうも自信がない。過去2回は,いずれも結構酷い目にあってます。
 1634,82路に乗る。
🚐
島大橋を渡る。島側の片側は三車線,これがメインストリートです。
 Taejong-ro。かなり大きな町並み。乗降客多し。ただ正直少し田舎っぽい。路地も起伏を帯びてる。
 中国語で景勝ポイント右折と表示。
 1639,右折。バス停ナンヘン市場。ちらりと西への暗がりが見えた。
 高架下。左右はアパート。高架の先は西への橋だろう。
 左折。ロータリーで右折。道は細くなる。……行きと帰りのバス停が違うらしい。帰れるのか,ワシ?
 1644,前方に左手に登る坂。これを左折。右手に高層マンション。
 海が広がる。急坂。
 1646左折。高みのアップダウン道。もうどこで降りてもいいと思う。選んだ寺のラインはもう一つ高い。

▲1652下車ポイント:Sinseonchorong-gil 신선초롱길

649,下車。バス停문현삼거리 まんへんさむかり?
 と……とりあえず東行して坂を登る。Sinseonchorong-gil 신선초롱길。
 半ばの等高線ラインへ入る。Geumjandi-gil 금잔디길。
 とりあえず……西日が美しいですけど──あれ?おおおっ!

▲1655路地裏道 Geumjandi-gil 금잔디길

長崎よ この坂を恐れるがいい

っ,これはまた……凄い裏道があるぞ!
 ここに目隠しで連れて来られたら,イタリアかどこかと間違ってしまいそうな色彩の道です。湾曲が,先行きを悟らせない胡乱さもマニア向けには好ましい。

▲1659長崎も真っ青の坂道

の車道に出た。1658。
 この,長崎も真っ青な坂を,バスがぎゅんぎゅん走っていきます。これも長崎真っ青です。是非交流試合をしてほしい(?)。
 ところで……ダミーの目標にしてたのはこの対面の寺か?道はGeumjandi-gil 5 재흥사。
 とりあえず着いた。ここ,想像より凄いところだぞ!

▲1700第一目標のお寺

■レポ:広島県瀬戸内海エリア発朝鮮南海岸行

 前章の倭館の推移の中で,朝鮮出兵直後にこの影島が倭館とされていた時期を紹介しました。期間からしても最悪の時代状況からも,その痕跡を現在,見出だすことはほぼ不可能でしょう。
 ただ,17C初からこのプサン対岸の土地に,港湾機能が存在したことは推測される訳です。
 その機能が,明治になってから一気に開花したらしいのです。
 そのことを知り得たのは,金柄徹さんの書く家船についての論文からでした。

 1876年(明治9)釜山の開港後,釜山牧ノ島に漁業者が任意来住したが,それが最初の移住漁村とされている。その後,移住漁村は次第に増加するようになった。例えば,1914年(大正3)の場合,移住村は57カ所に達しており,戸数と人口がそれぞれ951戸,3,778人という規模にまで成長した。そして,1921年(大正10)には,朝鮮における日本漁民の漁獲高2,327万円のうち80%を移住者があげていたのである[中井1985:38,60-1]。
※ 金柄徹(キムピョンチョル)「家船の民族誌━現代に生きる海の民━」(財)東京大学出版会,2003

 1910年の朝鮮併合直後で4千人。後掲の戦前188か村という数字から大正以後の増を3倍と見込めば,12千人規模の移住漁民がいた可能性がある。
 その他にも注目されるのは
牧ノ島※がその最初の移住地だったらしいことです。
※ 単に「牧島」とも。日本名。旧・絶影島。現・影島である。

「牧ノ島」の名称

 牧ノ島は,通説としては,15Cから李氏朝鮮が倭寇対策として採ってきた「空島政策」(刷還政策とも)のために無人島で,馬の放牧場だったために日本人が名付けた,とされます。
 ただ,この空島政策というのは,その語感からも分かる通り,清朝の遷界令並みに徹底した政策だったのかは疑問が残ります。政策としては李氏朝鮮の末期まで続いたとされる。──竹島に朝鮮人居住者がないけれど領有はしていた,という主張の補強材料として浮上してきたらしいけれど──でも4百年も居住を禁じる,というのは,普通の感覚では島嶼部への支配圏を放棄したのと同義なんじゃないだろうか?
 また,島を丸ごと放牧地又は牧畑地にするのは,例えば隠岐や瀬戸内では見られる方法です。沖縄でも「人の住まないことにしている島」というのはよくあります。
 陸人にとって「空島」だった島が,実際は倭寇の巣窟としても便利に利用された,というのが実態だったのではないでしょうか?
 だから,おそらくは漁業移民も,明治になって「突然」激増したものではありません。その時期から公然化し,陸から把握される形で定住できるようになった。ではその規模と範囲はどのようなものだったか?

朝鮮移住漁村の全体像:計188か村

朝鮮に建設されていた移住漁村を示したものである。図では任意に発生立地した自由移住漁村と,地方自治体・水産団体などが計画的に建設した補助移住漁村とが区分されている。移住漁村は全部で188カ所(自由移住漁村141,補助移住漁村47)あるが 7),その多くが南海岸に集中していたことが図からわかる。[前掲金2003]

 補助移住漁村,後掲の行政の財源で公認されたものは東海岸に多い。対して南海岸,全体からしても集中している地域の移住地のほとんどには任意で移住しています。
 このうちどれほどのシェアで,元々出漁していた人々がいたのか,それは朝鮮の空島政策と日本の鎖国政策の狭間ではっきりとしないけれど,少なくとも(密)漁の航路が知られていなければこれほど円滑に展開することはなかったように思えます。

7)吉田はこの図について具体的な説明を省略しているが,彼が付録に付けた移住年表[吉田1954:463-79]を参考する限り,この図は(188カ村というのは)敗戦までのすべての移住漁村を表していると思われる。[前掲金2003,注釈7]

 では南海岸では,どのエリアに出漁・移民が集中していたのでしょうか。

南海岸の漁業移民村分布

▲前掲図の南海岸アップ及び現在の地図(KONEST)(凡例再掲 ○:任意移住漁村 ●:補助移住漁村)

 巨済島に移住漁村が集中しているのが分かる。
 また,任意移住漁村は鎮海湾からその東西の岸を這うように点在しつつ拡がっているのに対し,麗水沖の島嶼部と巨済島には補助移住漁村が集中的に建設されています。この配置は,まず補助外の移住民が何らかの意味で良い場所を陣取った後に,補助漁村が残った部分に密度の濃い形で造られたように見えます。
 おそらく「補助移住」というのは,漁業振興の側面も持ちつつ,本質的にはあまりに激しい任意移住の流れを行政側が管理する必要上,後付けで慌てて行われたものだったのではないでしょうか。
 さらに,今度は彼らがどこから来たのか,という点を追ってみます。

瀬戸内から朝鮮へ魚を釣りに

 明治のいつ頃から広島県漁民による朝鮮海出漁が行われるようになったのかは定かではないが,管見の限り,坂村漁民の進出が初めてのものと思われる。坂村漁民坪川甚三郎ら4人が,対馬への出漁中,釜山まで渡航し,漁業上必要な事柄を調査したのは1877年(明治10)のことであった。その翌年にはタイ・フカなどの釣りの目的で出漁し,また1883年(明治16)からは網漁業を目的に朝鮮海に渡っていた[坂町1985:40]。
 通漁規則(1889)が公布された直後の広島漁民の通漁実績は既に表3-1に示した通りで,広島県は出漁船数において、1890年(3位),1891年(1位),1892年(1位)の3カ年合計で全国1位となっており,それ以降も,朝鮮海出漁の実績において首位を占め続けた10)。例えば,表3-6のように,1898年から1907年までの10年間の活動をみても,広島県は全国1位の成績を上げている。出漁船数や人員の割合においても,常に全国の20%前後という高率であった。[前掲金2003]
10)初期の朝鮮海出漁においては,先述の坂村の網漁民が大部分を占めていた。例えば,1912年(大正1)には,春期と秋期にそれぞれ15隻と,10隻がその(引用者注:広島県の)奨励費の補助で朝鮮海に出漁しているが,春期には,豊田郡能地の打瀬網の2団体10隻と佐伯郡字丸林の延縄1団体5隻が,4月8日宇品を発し,4月18日釜山に着き,帰県するまで(それぞれ9月と11月)釜山・三千浦などを根拠地として操業し,秋期には,能地の打瀬網2団体10隻が10月から朝鮮への出漁を行っていた[広島県水産会1912b:24-6][前掲金2003]

※ 三千浦市外バスターミナルの地図と場所情報 | 韓国地図コネスト→konest

▲[前掲金 表3-9]仁川旧市場客帳調(原典:明治38年度広島県水産試験場事業報告)データから前掲金2003で広島県漁民を抽出したもの。つまり当時の仁川の市場に魚を卸していた漁船登録数とその本拠地。なお,瀬戸町(現・福山市備後赤坂南部)からの多数の卸の背景は,金もそれ以上を述べておらず,他の記録にも地域名がないため不明。

 様々に読み込める情報です。
 牽引役になったのは,はっきりと広島からの出漁者,特に坂町の漁民たちであるらしい。同時代の移住史に,坂町の名は何度となく登場します。
 広島漁民の遠出と言えば──別稿で,江戸期,能地・二窓漁民が瀬戸内海全円に移住して枝村を作っていたことに触れました。
※ m19Pm第三十五波m鬼城忌や空新しく貼られけりm忠海二窓&幸崎能地(上)/源流:漳州で考えた家船のこと/(再掲)(漳州)m龍眼营再訪/能地・二窓移住居留地図(原典)
 
 先に言うと,なぜ広島湾奥の小さな漁民集団にこんな「遠征」があり得たのか,とうてい想像が及びません。実際に,中世の二窓・能地に匹敵する躍進を坂漁民は実現しています。

広島発→朝鮮南岸ルート

 まず広島の漁民が,主にどこへ行ったとされるか,金論文を確認します。

 広島県の移住漁業は,後の1926年(昭和1)には,移住戸数538戸,出漁船数109隻,漁獲高300余万円の規模にまで成長するようになった。広島漁民は,県水産会経営の統営広島村(山陽面美修里),麗水東広島村,麗水西広島村(鳳山里)の他に,巨済島内の城浦・蜂谷村・松真浦,因城郡の壮佐,釜山牧ノ島,統営入佐村,欲知島,馬山機張郡大辺,方魚津,巨文島,南面,莞島郡青山島,木浦,済州島楸子面などに移住したのである。なかでも,慶尚南道が998戸,1,990人で,全体移住者の約7割を占めており,(略)[広島県水産試験場1926:13-4][前掲金2003]

 南海岸と言いながら,相当広い範囲です。そこに,何と麗水に至っては2か所も「広島村」が出来ていたというのです。
 釜山の牧ノ島も名を連ねてます。済州島から木浦にまで出ている。
 広島県史民俗編(宮本常一監修)は,広島湾北部の仁保・坂・海田の漁民が明治初めから対馬に出漁していたと記します。朝鮮へ,というプル要因だけでなく,域外へ,といったプッシュ要因が広島湾北部一般にあったように見えます。
 そして,それを最も実行に移したのが,坂だったようなのです。
※ 広島県史民俗編(昭53)では,広島県漁民が多かった(明治33年:日本全体の1893隻に対し広島からが626隻)とはしながらも,朝鮮近海出漁の「漁船は,広島湾内の漁村と鞆・田島・横島から多く出漁していたといわれる。」とし,坂の地名を特別には挙げていない。

坂漁民の規模と動態

 坂町HPでは,1916(大正5)年に「韓海に出漁」した規模を漁船41艘,1600人と記します。同HPの1906(明治39)年の行に「(このころ)坂村の戸数は1471戸,人口は7698人」と書かれているので,人口の約2割が朝鮮へ渡っていた計算になります。
 また,同じく1890(明治23)年頃の数字として「坂村では395人,漁船86艘が出漁している(広島県下としての出漁舎数は1237人,漁船295艘)」とするので,明治後半から大正初めに四倍規模にまで拡大するブームがあったことになります。
※ 坂町HP/坂町の沿革|町政情報| - 潮の香りと緑豊かな坂町へようこそ –
URL:https://www.town.saka.lg.jp/cyousei_info/toukei_chousa/enkaku/1.html

 移住者ではなく出稼ぎ漁の形態の者も相当いたらしい。前者と後者の比が判然としないけれど,上記の坂町HPの書き方は出稼ぎ漁の規模に思えます。
 なお,二窓・能地両集落の移住先に,坂は入っていません。
 家船を有したかどうかは記録に乏しいけれど,同じ広島湾北部の仁保について,広島県史民俗編は家船集落ではなかったと明記してます。ということは,一時滞在する場合でも上陸拠点は必要だったわけです。
 また,同民俗編には広島湾北部では漁に女性が携わらなかったとあるので,先の出漁人数は成人男性のほとんどに当たることになる。

明治から戦前にかけて、横浜地区の漁民は朝鮮網に出かけていました。今の韓国プサンの東、統営(トンヨン)です。そこでイワシをとりイリコを製造していました。その期間は春から秋まで。冬場は地元横浜に帰っていました。2月に宝海寺(その当時はまだ西林寺の説教所)でイワシの法事を営み、イワシの供養をしていました。
※ ameba/春を告げる横浜住吉神社まつり 2018-03
URL:https://ameblo.jp/shokokai-saka/entry-12362759094.html

 これも出稼ぎ漁として記述してます。冬場に一斉に帰国していたのだとすれば,まさに尾道・吉和並みの漂泊性を持つ人々です。

(再掲:吉和港)正月の帰港

※ 参照:m19Qm第三十五波m鬼城忌や空新しく貼られけりm幸崎能地(下)&尾道吉和
「横浜住吉神社まつり」で書かれる統営の地名は,他の記録にも登場します。金論文で,もう一つ広島村があったとされる場所です。
 また,出発地としては,この住吉神社のある坂町の横浜と呼ばれる小さな浦が挙がることがままある。坂では最も大きいけれど,他と比べれば小さな浦です→坂町横浜港:GM.。二窓や能地と同じく,とてもここから朝鮮まで渡る移住漁村が出たとは想像もできません。
 でも,前掲坂町HPは他にも次のようなデータを挙げていて,ちょっと疑いようがありません。

明治28年(1895年)朝鮮近海漁業坂村同業組合が組織される
(略)
明治38年(1905年)対馬沖で暴風雨に遭遇し、58人が溺死する

 なお,坂から朝鮮への大規模な出漁・移住は,中国新聞が平成22年に「漁業移住者の資料発見」という連載をしてから,有名になったようで,今はやや誇大に語られている可能性もあります。それ以前に,坂が広島湾中で特別に鰯網の盛んな浦だった痕跡はありません。──そもそも,鰯網は大芝漁場(現・呉市阿賀~東広島市・三津)から上浦漁場(現・呉市蒲刈~広島市仁保)の広い海域で12C末から行われてきた古い漁法です。
 なぜ坂だけが朝鮮海域にこれほど突出して進出したのか,率直に言って,想像ができません。

福山市内海町田島:マニラに行かなきゃ嫁が来ない

 おそらく宮本常一が古老から収集したと思われる田町での語りから,客観的には推し測り難い当時の坂での熱狂ぶりを想像できるかもしれません。

(引用者追記:田島からの出漁者の操業は)マニラ湾でも主業は打瀬漁であった。そして,とれた魚はマニラをはじめ沿岸の町や村へ女子たちが売りあるいた。たいてい夫婦で出稼ぎしたのである。ことばは初めのうちは通じなかったけれども,大したトラブルもなく,みなそれぞれ成績をあげ蓄財する者も多かった。そこで相ついで渡航する者がふえ,若い者はみな出かけていった。島ではマニラいきの経験を持たない者は嫁に来てがないといわれたほどであった。
 このようにして多くの人がマニラにわたり,送金をして来て,家を改築した者が少なくない。田島の町家がりっぱで,しかも白壁造りが多いのは,明治から大正へかけて,マニラ渡航者の送金による改築が多いためといわれている。
[宮本常一監修「広島県史民俗編」広島県,昭53]

広島側の一般的プッシュ要因

 最後に,坂と二窓・能地を結びつける共通項というか背景を考えてみます。
 一般に,江戸期の日本の通常の漁民は,漁業権とセットにして特定の浦に固着させる加子浦(水主浦)の制度下で統制されていたとされる。ただこれらは海賊を抑制するため,江戸初期に各藩がとったもので,安芸藩や松山藩は「加子役」,つまり漁業権使用料を納めさえすればよい,という制度をとりました。

安芸藩は漁場を小さく区切らなかったことが、漁場争いのいざこざを少なくしたばかりでなく漁業権も持たぬ家船仲間が海上を漂泊しつつ生計をたてられたのも漁場の境争いや権益争いにまきこまれることが比較的少なかった為であろう。[宮本常一「海に生きる人々」『日本民衆史 三』未来社,1964]

 宮本さんの推測でも,この加子役制度と,水上生活者や出稼ぎ漁従事者の存在のどちらが原因で結果なのかは断定的でないけれど,どちらかと言えば,後者の方が先行したからやむを得ず採った,という見方です。ただ少なくとも,江戸末期まで出漁者が多かったのは加子役制度を採っていたことで可能になった,と見ています。
 なお,宮本さんは,出漁者の中には加子役を納めない者や集団もあったとは書いています。
 広島湾の漁民も二窓・能地のそれも,この漁業権慣行下で遠海に乗り出す行動様式を形成できた点は共通しています。
 この制度下で,坂などの広島湾北部の漁民が開発したのは,鰯網の漁法そのものではなく,獲れたイワシの加工法だったらしい。

 広島湾沿岸のイワシ網業者たちはやや大きな船に、イワシを煎るかまどを据えて,船上ですぐ煎ることにした。この船を煎リ船とも釜船とも言っている。広島湾の広島県側のイワシ網船はみなこの釜船を同道して、沖でとったけだものをその場で煎って腐敗をとめるのが大きな特色でもあった。蓋し漁獲物の加工船としては、世界でももっとも古いものではないかと思われる。[前掲宮本]

 イワシの加工場を海上に設ける。この技術が,朝鮮出海にどのくらい有利で,他の漁民集団にどれほど受容されたかは情報がありません。
 ただし,前掲広島県水産会にあるように,坂に遅れて能地の打瀬網も朝鮮(釜山・三千浦(泗川付近))で操業している記録があります。

付記:「経済侵略」としての朝鮮出漁

 末尾で申し訳ないけれど,もちろん,明治後半というこの時期は,東シナ全般で日帝の地政学的位置の上昇と連動した側面は否定できません。
 wikiによると,済州島では

1887年に日本の漁船がアワビを採集するだけでなく、漁民が島に上陸してニワトリ・ブタを強奪し、抵抗した地元住民1名を殺害したことが問題となった。
※ wiki/朝鮮出漁
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%87%BA%E6%BC%81

 どの位の頻度かは不明で,偏向・誇大してる恐れも十分あるけれど,事実とすればまさに倭寇の再来。
 本稿では結局,影島=「牧ノ島」の斜面集落そのものには全くたどり着けませんでした。朝鮮出漁者のものである可能性を提起する程度です。
 古写真も当たってみましたけど,そこでヒットしたのは次の一枚のみでした。

磯の香漂う情緒豊かな