《第十次{49}釜山・南海岸》オレンマネ・デジクッパブの日/PIFF通りの段差

差について,釜山のそれを特集的に見てみたいと思います。
 釜山は歴史ある港町だけれど,中世~近世のそれと近代以降とは,それこそ大きな落差があります。機能や管理者のみならず,面白いのは位置的に大きなズレがあること。
 ということは,後世の開発で既存の遺物が滅却されることなく,地層のように封印されて残っているわけです。
 現実には,既存の位置にも別の開発の波が来ている例も多い。でもその複雑な薄皮を丁寧に剥がしていくと,どうなるでしょう。

PIFF広場北の小さな段差

[地点]GM.:住所表示はWangbok-ro 16beon-gil
(以下「モーテル街」という。)
▲モーテル街不規則交差部から出口へ続く石積

の明るい通りがPIFF(BIFF)通り,広場から二百mほどの地点です。
 モーテルが数軒,不規則に連なる路地裏から,PIFF通りまでは数十cmの傾斜になってます。

▲モーテル街路地の石積

道にはZ字の曲がりがあります。二段の石積が合わせて数十cm。その上部の壁には煉瓦が露出しています。

▲モーテル街出口の段差と石積

ぎはぎされてるけどこの煉瓦が元でしょう。だとするとこの2~3段の石積はこの東西方向に連なって,その高い場所がPIFF通りということになるのか?

近隣類似地形:東西の微々高地

IFF通りは東西に小高いラインになってます。微高地というほどではない,僅かな段差です。南のチャガルチ駅や北のチョッパル通りからは緩く登ってくる形になってる。
▲PIFF広場北の傾斜

IFF広場南,チャガルチ駅からの大きな通りは広すぎて写真にならないけれど,歩けば傾斜は分かります。これが,チョッパル通りからだと上の写真のような明瞭な坂になってます。
 この道は,広場から東は細くなる。

▲HollysCoffeeの段差

IFF広場側に残る類似の段差を探すと,それらしいものは幾つかあるけれど,広場すぐ西のHolly Coffeeのものが分かりよく残ってます。
 店の敷地面が僅かに高くなってる。
 ただこれだけだと,地盤を固めるためとかの建築的な意図から盛り土をしたかもしれないのですけど──

▲HollysCoffee西側の路地裏の段差

の路地,というか隣店との隙間に入りこんでみると,こんな感じでした(良ゐ子は真似しないでね)。
 だから段差は,別のブロックにあるモーテル街からずっと続いてるらしいのです。
 他所で言うならば,福岡の唐人町で見た車道と商店街の段差に似てます。

▲(再掲)福岡唐人町の段差
※ m012m第一波mm虹橋中转/唐人町の暗きょを嗅ぐ

東西ライン:海田コプチャン~元山麺屋

ーテル街の東西路地が,東西に通れる訳ではありません。というか通りたくない細さになったり,通ると怒られそうな私道になったりしてます。
 だから以下5枚の地図(kakao map)上で辿ってみます。

チャガルチ~南浦全体位置図

差しの位置が,以下4枚の東端と西端に該当します。
 複数枚に渡るのは,この大きさまで拡大しないとこの線が見えてこないからです。
①海田コプチャン~モーテル街~holly coffee

指差がモーテル街です。
 現実に道として入り込めるのは,HollyCoffee西側の路地だけで,既にこのブロックでも「隙間」に過ぎませんけれど,筆のラインとしてははっきり確認できます。
②Holly coffee~pulatinumホテル

側が先に挙げたPIFF広場北の段差(→画像)の辺りです。
 東の部分,つまり広場北東角側はやや膨らみ,小さなパティオ状になってますけど,場所柄,何か大きな建物が立ち,その後に撤去された跡地でしょうか。
③pulatinumホテル~南埔参鶏湯北

じような乱れが見られます。東のパティオ状も,西のと同様に出来たものでしょう。
 次の④になると,②③のパティオ状が出来る前の状態と思われる。ラインを跨ぐ建物が連なることで,ジグザグの路地を形成してるようです。元山麺屋の界隈へ行かれた方なら雰囲気がご理解できると思います。
④南埔参鶏湯北~元山麺屋付近

 この辺りから先は,線を終えません。おおよそグワンボク路が三叉路になる地点の南辺りです。
 他所の類似としては──この感じの,表の車道に並走する路地は,瀬戸内海の港脇には珍しくありません。大体それは,昔の海岸線を意味します。
愛媛県高浜・松山観光港南の並走路地

海岸線はどこにあったか?

ので,まずこのラインがかつての海岸線であることを疑いました。
 江戸期の草梁倭館の位置図をみてみます。

草梁倭館絵図

岸線は龍頭山のすぐ南にあります。これを西に延長すれば,すなわちグワンボク路・チョッパル通りか現PIFF通りのラインになりそうです。
 昭和10年の地図でさらに見てみます。
昭10地図

※ 釜山でお昼を/釜山の町名改定(昭和10年) 昭和10年慶尚南道報号外告示
立した大橋通1~4丁目と昭和通1~5丁目の住所表示をする告示です。
 モーテル街からPIFF通りの南側が,昭和通3丁目の埋立地になってます。つまり,昭和10年の埋立時の海岸線が,モーテル街段差のラインにほぼ重なると考えてよい。
 問題は,この告示にある埋立地の新区画北に描かれる道が,現・PIFF通りなのか,ここまでで見た隙間ラインなのかですけど──告示のラインは現・PIFF広場辺りで東西の直線道と交差して,少しブレてます。このブレは現・PIFF通りにはない。対して,隙間ラインはここでパティオ状にブレてます。
 ただ,微かな違いなので決定的ではありません。そこで,埋立から少し経った戦前の地図をもう一枚見ます。左手が北です。
戦前の富平町住宅地図

※ 釜山でお昼を/富平町(戦前)と富平洞(現在)を地図で比較

い線が路面電車の線路です。左側が長手線、右は大廳町線です。
中央を流れる川は寶水川です。寶水川までが富平町です。

 後に触れますけど,モーテル街西の緩やかな湾曲路は1986年まで寶水川という川でした。路面電車・長手線が走っていたのが現・チョッパル通りだから,画像右側赤線の左手,川の下側のホームベース型ブロックがモーテル街の位置です。
 拡大します。

同拡大図

9と41と番地が記されている間が,モーテル街からPIFF通りへの路地になります。
 現・PIFF通りの南北(図左右)で筆の形状が全く異なるのが分かります。埋立前と後の区画の差です。
 驚くべきことに,隙間路地はこの段階に既に存在します。先の昭10告示では存在した東西直線道はもう消えているのに,隙間路地は生きている。つまり「使われていた道」だったと思われる訳です。
 瀬戸内海の裏道は,表の車道が主に使用されるようになってもなお生活道として使われ続けてるものが多い。モーテル街の裏道も,戦後しばらくの間は存在し続けた後,建物の隙間に消え,あるいは消えていきつつあるものと推測されます。

国際通中通りの傾斜

 さて次に,上の地図で触れた寶水川のことです。「釜山でお昼を」著者によると旧・富民橋の跡が確認出来ると言います。
※ 釜山でお昼を/寶水川 (宝水川)
 それは見た記憶があるけれど,ここでは傾斜を問題にしていきたいと思います。
▲国際市場中通りの傾斜

から南に向かって撮ったものです。写真左手,東側が明らかに沈下しています。
 工事の性格上やむを得なかったのか,不良工事の結果なのかは,建築関係の方に見て頂くとして──この通りが寶水川に蓋をして作ったことに原因しているのでしょう。

寶水川の流れていた頃の情景

山の道としては極めて異例なこの湾曲路は,1986年まで上の写真のような,かなり太い自然水流でした。
 昭和までの富平町の格子状ブロックの中の筆の形を見ると,東西南北の線からすると斜めに走っているものがままあります。おそらくこれは,寶水川の岸に平行に並んでます。川岸のラインを基調にした道の並びがあった時代があるのではないでしょうか。
 ただ,だから清らかな市民の憩いの場所だったかというと,そういう訳ではなかったようです。

PIFF通り西に何があったか?

「特別区域」位置図[釜山でお昼を/富山町遊郭の歴史]

※ 釜山でお昼を/釜山の遊郭の歴史 1
別区域」と書かれた赤い区画がある場所は,モーテル街のホームベース状ブロックの北西です。この地図には寶水川が書かれていないけれど,モーテル街から川を渡った西向こうになると推測されます。
 ここが,明治45年に緑町に移る前に釜山遊郭があった場所です。
 そう思って筆の作りを見ると,モーテル街側の東岸より遥かに粒が大きく出来ています。
遊郭第一号「安樂亭」チラシ

昼を」では遊女の総数280名,特別料理屋の軒数7という数字を挙げます。富平町が通称「地獄小路」と呼ばれたのもこの由縁らしい。
 その初代・上野安太郎の行業として次の記述もありました。

広島に渡り遊女を10数名雇って初代「安楽亭」を開きました。

 つまり釜山で最初の遊郭の遊女は広島出身者が占めていたらしい。これは,先に触れた坂など広島漁民の移住行動と関わるものなのでしょうか。

推定・富平遊郭末期の現実の規模

間の短さ,施設の性格から,この遊郭の情報はどうも曖昧です。ただ先に触れた筆の粒の大きさや,明治末期に問題視され緑町に移転させられた件,さらにその移転先の緑町の規模から考えて,「お昼を」が示す特別区域(おそらく公認かつ当初の区域?)の広さよりはかなり大きかったように思えます。
 上の図はそのイメージで,富平町西半分をほぼ埋める。「地獄小路」という通称とも釣り合う,大規模な無法地帯が存在したのではないでしょうか。

大廳路への段差

▲(次章再掲)0657国際市場北側対面の坂道
廳路は,国際市場の北を東西に横切る直線道です。
 この道は,国際市場の面より数m高い。
 さらに写真のように,その北側へ向けても登っています。これが分からない。

草梁倭館位置図[wiki/倭館]

の道はどう考えても人口物です。
 東西に伸びているのは,草梁倭館の境界線を定める際に,東西にバサッと仕切ったからでしょう。
 でもそれが,なぜ段差になっているのか?
 北の山並みは波打っているから,自然に出来た高低差ではありません。とすると人口でまっすぐな段差を造ったことになる。
 そんなことをする目的は,倭館とそれ以北を分断する壁としてわざわざ構築したとしか思えませんけど──

▲「昔の海岸線」著者の推定海岸線
※ 昔の海岸線の散歩
URL:http://busan.chu.jp/korea/fukei/toko/sea.html

梁倭館は中央に龍頭山という高地を持つ領域で,長崎の唐人屋敷のような谷ではありません。それにこの程度の高さなら,倭人を監視し通行させないという目的にはいかにも半端です。

▲同昔の海岸線

すると,誰かがどこかの時代,山も川も海岸も湾曲したこの土地に,相当な労力を投下して東西の直線とその南北の段差を造り出したことになります。
 ここに,なぜそんなことをしたのか?
 現在の格子状街区の基準になっているように見えるこの東西直線は,なぜここにあるのでしょう?

西面・田浦カフェ通り東詰の段差と傾斜

▲西面東の車道脇の段差
の段差は,西面駅から東南東,田浦駅北辺り,次章で田浦カフェ通りを訪れた際に見かけたものです。
 調査不足ですけど……大まかな位置はこの辺り。

田浦カフェ通り東の段差の位置(南北の赤ライン)

だ,率直に言ってこの傾斜の変化ぶりは,魅力的でした。
 この位置ではこの位の軽い段差であるものが,北に進むにつれまんべんなく登っていく地形に転じます。
▲西面北東の傾斜
の傾斜が,釜田駅まで来ると,ご記憶の方も多いと思うけれど──この駅から東へ下る雄大な斜面になっていきます。
 これが 釜田市場の展開してる斜面です。

西面はどこにあるのか?

「面」というのは,朝鮮古語で「村」のような意味に使うらしい。漢族圏ではそんな用法は聞かないけれど,漢字の古法にあるんでしょうか?
 この由来とは別に,地名としての西面はかなり広範です。

 日本統治時代の慶尚南道東莱郡西面は,現在の釜山鎮区と南区のほぼ全域を管轄していた。

※ wiki/西面
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%9D%A2

※ 大陸西遊記/釜山
http://www.iobtg.com/K.Busan.htm

 明治以前もこうだったと仮定すれば,要するに現・西面以南で認知されていたのは西面だけだったから広域名に転用されていたと推定されます。
 これを裏付けるように,朝鮮時代の地図では,こう描かれます。
▲大陸西遊記/釜山の位置図

山鎮の北には何もない。
 支城北の山を東に道が迂回している。この道が山にぶつかる辺りが現・西面,東への迂回路が釜田のエリアでしょう。
 もう一枚見てみます。

朝鮮時代の狼煙台位置図

ミズのように無秩序に伸びるのが山稜を指すようです。
 釜山鎮の北で三本の川の上流になっている高地らしき場所が,西面や釜田です。現在,そうした分水嶺の雰囲気はとてもないけれど,本来の地形はかなり複雑だったはずです。
 田浦カフェ通り東詰の段差は,この川のうちの一本の上流の堤か自然堤防か,あるいは旧流域跡を指す可能性があります。古図面があれば大変面白い場所だと思うのですが,残念にもそういう資料が見つかりません。

 という訳で,どの追跡も多岐亡羊に終わってますけど,枝分かれする主な道までは拾えたかもしれません。「お昼を」著者がハマったのも分かります。釜山の今昔追跡は魅惑的です。
 さてさて,ようやく最終日のお話に移ります。

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