008-2岩屋\南薩編\鹿児島県

~(m–)m 本編の行程(再掲) m(–m)~
GM.(経路)

枕崎 速度制限 気にしない

▲市役所前の黒いイキモノ像

・キ・モ・ノ」というのがこいつの題名。この凶暴かつ理解不能な彫刻が,何と市役所の前面でぬめぬめと目を光らせてます。
 ホントにイッちゃってるぞ,枕崎市。
 今辿ってきた変なもの通りが市役所通り。ad住吉町。この企画は青空美術館というものらしい。「イキモノ」は第7回「風の芸術展」大賞作品。
 1603,大体駅に戻った。さらに南下を続けることに。

▲枕崎BT前。「速度制限 気にしない」と書いてあるのは方言で「気にしよう」ということ……でなかったらとても怖い。
本東の裏道を行く。これは車道よりまた3mほど高い。この微妙な高低は何だろう。
 それと──魚を焼く匂いがさっきから四方に漂う。これは集落にいる間,ずっと絶えることがありませんでした。どこもかしこも焼き魚なのか?

黙して語らねど枕崎の道

▲1608。やや高低差のある路地が続く。

折。1611,ほぼ東への道へ。
 町並みはやはり何ともとらえどころがない。
 車道。少し横からさらに東行。バス停グランド下。

▲1613無機質な町が続く。

226号へ出る。バス停虚空蔵。
 沖縄のうるま市に近い感じになってきた。今から目の前の緩い坂を登ってく。
 1629「しりなしばし」という小さい橋を渡る。川面は意外に深い位置。ad岩戸町。

なぎさ温泉露天からの海

▲1646七本根の大樹

635,ホテル岩戸。坂がきつくなる。バス停岩戸鉱泉。
 海。
 逆光。
 絶景。
 左手に「岩戸権現」の矢印。
根っこを七本,雄大に大地に刺す大樹。遠見番緑地※というのがここでした。その対面が,目指してた温泉でした。
※ 由来がついに分からない。語感からして江戸期のもので,だとすれば密貿易環視場所と推定できるのですけど……。

▲なぎさ温泉と裏山の黄色い岩肌

う~!!いいお湯でした。1728,なぎさ温泉を出る。
 400円。広さは銭湯並みに狭いけど──泉質が素晴らしい。効く。鹿児島市内とも別府とも違う爽やかな軽い湯上がり感。
 けれどそれをも上回るのが──露天の湯船からの眺め。まさに言葉を失う。

GM.掲載の一番近いイメージ

西の残照の火の神岬から町まで,全てが一望です。南から目を移せば,群青の水平線。火の神とその背後に沈みかけた天玉。軽くうねりながら高さを増していく岬。その手前をパラパラと埋める集落。もう一本のさらに高い尾根にそれが交わる方向で中心街が広がる。尾根の上にゆったりと回る風車数基。集落北の丘が木々を揺らす。さらに北に,これはそびえ立つという風の山々。
 何と豊かな彩りの夕景。

▲夜のいずみや前

鹿児島の変な味の濃縮

745,グリーンホテル福住北側すぐ,バス停・遠見番から乗車,帰路につきます。
 ……ついたはいいけど,ガクンと睡魔が襲い来る。この短い距離でよく起きれたと思うけど,一駅乗り越したので……ついでにこちらへ寄ってみました。
1820いづみや
ズコットチーズ,かぼちゃのチーズケーキ400
 宿に着くと,さすがに人がいたので無事チェックイン。エレベーター脇には変わらずにっこりしてるスロバキア的ないらっしゃいませマスコットキャラ(?)。

▲宿のおじさんマスコット

ずみやのケーキは……旨かった。
 この旨さって──ものすごく奇妙です。甘味がきりりと締まるというか,決して技巧的じゃないのに自然にコントロールされてる甘さです。
 チーズケーキってそもそもかぼちゃなんかと合わせられるものなのか?

▲かぼちゃのチーズケーキ

と言ってズコットみたいな純ヨーロッパものもほわりとした良い甘やかさです。
 さらに──ふくれの美味さにもこれは頬が落ちた。やはり荒く,「はいできました」的な木訥さの造りなんだけど妙に口が求める甘さです。黒糖もごく仄かなのに,これは何だろう。

▲ふくれとよもぎもち

もぎの美味さ,これにはこの南薩摩で参ってしまった。田舎じみたとこのものほど旨い。苦味のはずなのに甘い。
 鹿児島市内で感じてた独特の味覚が,半島南端のここではさらに色濃く濃縮されてる。そんな印象を確かに味蕾が受け止めた夜でした。

■解説:枕崎の概説記事

 枕崎市の歴史に関する記述は,意外なほど少ない。
 薩摩半島南部では稀なほど平地の多い場所です。ここに古くから開けた歴史がないこと,それ自体がこの地域を物語るとも思えます。

枕崎の地名由来

 これがまず漠然としてます。以下は,枕崎市HPが枕崎市誌から引いている3説です。
※ 枕崎市の歴史
URL:http://www12.synapse.ne.jp/makurazakis/rekisi/makurazakirekisi.htm

『枕崎市誌』には、次の3つの説があります。
①『昔、枕崎浦内に近瀬という瀬があり、ここに枕箱に入った小さな御神体が漂着したので、それを神社に配り、以後この辺りを枕崎』と呼ぶようになった。
②『昔、恵比寿様の御神体が箱枕の引き出しに入って、近瀬という瀬に流れ着いたので、その辺りを枕崎』というようになった。
③『沖合を通る船から見ると、地形が枕に似ているから、枕崎』になった。
[前掲枕崎市/第1章「枕崎」の由来,成り立ちや位置等]

 いずれも,陸にあった何かに由来してません。海からの漂着,あるいは海からの景観です。海路の未発達な時代,平地がいくらあっても,小型船には水深の深すぎるこの場所は「海路の通過点」でしかなかったことを物語ります。
 それにしても──「箱枕」又は「枕箱」に入った御神体の漂着とは,浦島伝説とも媽祖伝説ともつかぬ不思議な由来です。

枕崎域の中世

 驚くべきことに,中世の記述にも枕崎地名は登場しません。素直に読む限り,坊津の重心が重すぎて登場する余地がなかったのではないでしょうか。
 枕崎市ファイルには,旧名の「鹿籠」が14C頃からの地名として記され,鹿籠が六百年,枕崎が三百年の間使われてきた地名としています。

室町幕府は、当時の中国と貿易を行っていました(難しくは勘合貿易といいます)が、日本からの重要な輸出品の一つが硫黄でした。1468年には、島津氏は幕府に硫黄1万斤(1斤=約600g)を売っています。また、明に向かう船が坊津に立ち寄った際には、硫黄を積み込むことも命じています。
 坊津は当時の重要な港であり、硫黄の産地が硫黄島でした。
 そのような中で、硫黄島からの硫黄が鹿龍小湊の硫黄崎に運び込まれたこともあったと予想されています。
[前掲枕崎市/第3章 鎌倉時代~室町戦国時代まで]

 つまり,「硫黄崎」の地名がこの頃の硫黄交易に由来する可能性がある。ただこの地名も,現在の地図でヒットしません。

鹿籠の樟脳と金

 なお,交易品の産地としては,西洋からの来航が始まった後は,樟脳がこの地の産として知られたらしい。

西洋人が最もほしがっていた品は、樟脳でした。これはほとんどが薩摩産であり、鹿籠の花渡川沿岸は、産地の一つでした。[前掲枕崎市]

 ただ,なぜかあまり語られないけれど,鹿篭の地は金を産したとも言われます。

江戸時代には薩摩鹿篭金山が全国第2位の産金量を誇っていました(現在も鹿児島は産金の95%を菱刈(伊佐市)、春日・岩戸(枕崎)の3鉱山で採掘しています)。
枕崎の概略

 この産金量についての根拠史料を知りたいけれど,見つけることができませんでした。

鹿児島県薩南地方は古来鹿篭金山などにて知られた本邦有数の産金地帯であつたが,現在はその大部分のものが休山廃坑になり,住時の盛況を知る事もできない有様である。
 薩南地方の南部,枕崎市附近には,稼行中の春日鉱山(日本鉱業株式会社) ·赤石鉱山 (鹿児島県の人,·宮内敬太郎経営)の2鉱山があるが,このほかに休山中の2~3の鉱床がある。これらの鉱床は何れも塊状珪化母岩中の網状鉱脈で常に多少の金を産する。
※ 富永正之「鹿兒島縣枕崎地方春日鉱山・赤石鉱山の地質・鉱床」J-Stage,1954

 正面からは書かれないけれど,諸方面で朧に示唆されるのが,いわゆる坊津崩れで坊津が藩の摘発により壊滅した後,その多くが枕崎に移ってきた,という伝えです。江戸初期までに金と樟脳の産地として着目され初め,江戸中期以後に避難先として人口を吸収してきた,というのが枕崎の現実の創生史ではないかと思われます。

薩摩における倭寇のリーダー

 それにしても,この文書の著者はかなり際どい言い方までしています。未だにこの地で語られるという藩への避難者の怨念が,ポロリと漏れたのでしょうか?

 このような海外進出で、まず朝鮮との交通及び交易をしようとし、中心となったのが西九州の肥前(今の長崎や熊本)や薩摩の人々でした。
 坊津を中心とした南部の倭寇は、坊・鹿籠・川辺・加世田などの人が多く、刀剣や硫黄などを積んで交易(「明」が正式に認めた交易ではないので、正確には私貿易となります。)に出かけました。普通には商船として交易もしましたが、前述の制約もあったり、「明」の政府が私貿易地を攻撃したりすると、トラブルになり、時には荒っぽいこともしたのです。
 薩摩における倭寇のリーダーが、島津氏の当主(殿様)だったのです。[前掲枕崎市]

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