m161m第十六波mスペクター基地深く入る龍灯かm丸木浜

本歌:夏の月深海探査艇潜る〔松山東〕

坊津の海は
美しかった。
スペクターが
いても仕方ない
美しさでした。
[前日日計]
支出1400/収入1400▼14[149]
負債 0/-
[前日累計]
-/負債 455
§
→十一月二日(六)
1202勝八(しょうはち)
魚フライ(しいら)定食550
1400喜久屋
カツ丼750×.8=600
2000坊津の店のよもぎもち300
[前日日計]
支出1400/収入1450▼14[150]
負債 0/-
[前日累計]
-/負債 405
§
→十一月三日(天)



拠居薩摩洲 僭號曰京 自称曰徽王
[万歴「歙志」載記一三]
王直が占拠していた地が薩摩洲とされ文字どおり解釈すれば薩摩洲は現在の鹿児島県に該当する。それを「京」といい,自らを「徽王」と呼んでいたとされる。
[松浦章「世界史リブレット63 中国の海商と海賊」山川出版社,2003]

[想定行程]
0640枕崎(泊循環)→0703泊
  (徒歩)→博多浦
0926(久志→)(今岳線)→中坊0952
①1128中坊(泊循環)→1158枕崎
 1345(なんてつ線)→1425加世田
②1332中坊(今岳線)→1355枕崎
 1500枕崎(枕崎線)→1631鹿児島中央
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

~~~~~(m–)m野間岳編
(南岸)
~~~~~(m–)m
ピンク地:野間半島

バス停と朝焼けとタイ語

津行きのために今回は来てます。
 でも遠い。本集落以外の集落となると,通常は車両が必要です。
 0545には起床。0620,リュックをフロント,正解には朝食用意中のおばちゃんに預ける。
 0641発の坊津→今岳行き,早過ぎだけど今日はこれでいい。この地域の移動はバス一本逃すと次が遠くて日程が成り立たなくなります。
 西本町バス停に立つ。

▲0622西本町バス停

にかく美しい町です。朝焼けが刻々町の色合いを変えていく。
 自転車で通り過ぎた厚着の二人の女。言葉はタイ語に聞こえた。昨日も見たけど,結構来てるんだろか。
 0642,やや遅れて入ってきたバスに乗車。
🚐

戦没者とエネオスと郵便局

渡橋(けどばし)というのが郵便局西の橋でした。蹴飛ばしそうな名前ですけど,渡る。0645。
 コインランドリーがやけに多く感じる。
 立神。やはり町は普通です。Aコープ。ファミマ。
 北に小さな独立峰。
 中央町。大塚の表示が出て右折北行へ。大地がうねりを増す。
 0648,左折北西行。行く手に風車八基がゆったり回る。
 緩い登り。家並み減る。
 太陽発電のパネル。
 風車の尾根を右北側に迂回してるようです。
 南さつま市の標識。0652。
🚐
中に戦没者慰霊碑の看板。草野集落入口の矢印。
 圃場整備記念碑前で時間調整停車。風車のほぼ北。0655。
 位置情報オン。──もうここが泊集落の東に当たる。このルートだとかなり低地を行けるわけです。つまり,瀬戸内と違い,山を越えなくても隣集落という地形です。
 0702,再走。エネオス。バス停・清原。清原小学校。
 かなりのアップダウン続いた後。──0708,泊下車。

▲0712集落「泊」到着

郵便局すぐ前です。中之坊まで2.3kmと表示あり。
 地図を確認した後,今降りて来た道を登り返す格好で北西へ。

泊と路地と海

▲0714泊集落の家屋群

落には古い石垣や煉瓦がかなり残っています。
 祠も多い。
 枕崎とはまるで違う感触を覚えます。

▲0715泊集落。路地の先に海。

の山側の家並の基礎が高い。石垣で高くしてあるというより,元の岩場を利用して高地を占めているように見えます。
 その後の改修の方が色濃くて,はっきりと残ったものはないけれど,この高低差は元の集落ラインだと思われます。

平原と清原と茅野

▲0716集落の高低差(1)

川の流域が,そのまま泊の集落になってます。
 ここでは先史代の遺跡も発掘されてます。主なものは平原・清原・茅野遺跡。これらは同名の集落に存し,全て泊の港より内陸部,この時バスで通った東側に位置します。

▲0716集落の高低差(2)

(上)泊集落周辺 (中)泊川中流・先史代遺跡発掘域 (下)泊川下流・現泊港付近

川の川原部の形成に伴って,東から西へ集落の中心が移っていったのでしょう。この時見た段差は,その最後・直近の時代に集落ラインになっていた微段丘で,ここから西が埋め立て地,という地域の地層だったと考えています。
 0717,枕崎へ折り返して行くバスとすれ違い,見送ったら,回りに人気が失せました。
 0719,泊集落全景を撮影する。その瞬間に風車山から日照。

▲0719泊全景

スペクターと赤パンとトンネル

ごしまロマン街道」と書いてある十字路。0721,さっきバスが集落に入った地点まで戻りました。距離表示「笠沙恵比寿31km」。
 左折北行。──って,坊津へ行くんじゃないのか?と上の地図で思われた方は地理を理解されてます。本日の行程は,北へ博多津(久志湾南端)まで歩いてから,バスで坊津へ途中下車,というものでした。なぜわざわざ歩くのかと言えば──

▲0723スペクターの岩礁

!まさに007「二度死ぬ」※のスペクター基地の岩礁。
※ 最後半シーンが坊津(主に秋目)で撮影された。冒頭3枚はそのカット
 赤パンの早足おじさんと挨拶を交わす。初めて見た人間の姿ですけど……それはランニングしてるのか?
 登りになった。0726。「海のキッチン」看板。消防の坊津分遣所。
 あっ!トンネルが見えてきました。0729。

▲トンネルを抜ける

れたのは,このトンネルに歩道がないというケースでした。だから事前にGoogleアースで確認しました──やはり右手に歩道がある。これを行けばいい。
 隊道名は「丸木崎トンネル」。
 意外に短いぞ?出口は見えてる,それに歩道は一応左右にあった。0731,突入(?)。さすればその向こうには──

▲0741丸木浜

煙と尿と静謐

木浦湾形をなして、安嶴なり、入七八町、濶さ六町許あり、且海口に近くして、舟船の出入に便なる故、琉球諸島に下る者、多く停泊して風を待といふ[三国名勝図会巻之二十六]

※ 後掲wikiより。→全文
 0738,トンネル出口がほぼ最高部でした。
 丸木浜が見下ろせる。ここにかつて,琉球の風待ち船が浮いていたのです。

▲0743丸木浦湾口の小島群

741,下りに入る。喫煙とトイレに適切な迂回路がありました。
 一服。
 静かです。
 さて?目指す博多浦はここから直下のはずですけど,まだ影も見えません。17C初めまで坊津に存在した唐人町の場所です。

▲博多浦バス停

泊港(三国名勝図会挿絵)

※ wiki/坊津町泊 鹿児島県南さつま市の大字
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E6%B4%A5%E7%94%BA%E6%B3%8A

■資料:三国名勝図会 泊港

 上の図は図会の挿絵ですけど,雰囲気は伝わるけれどよく分かりません。ただ,ここに付されている文章は,誠に興味深い。

泊港 泊村にあり、唐港の支港なり、唐港の海口と一にして、西尾の山觜其中に隔たり、両港を分つ①、此港の西北岸より、港内の西南へ、大巌觜鋭出するを五町許、丸木崎といふ、丸木崎の東西共に大灣をなす、其西灣を丸木浦といふ、丸木浦の西大海の方は、久志の地觜西北より東南に突出し、其觜端の海上大礁小嶼断続相連りて、海上を𢫵蔽す、故に丸木浦湾形をなして、安嶴なり、入七八町、濶さ六町許あり、且海口に近くして、舟船の出入に便なる故、琉球諸島に下る者、多く停泊して風を待といふ②、丸木崎の東灣を泊浦といひ、其渚を泊濱といふ、村落ありて、人烟頗る多し、泊浦入四五町、濶さ拾町許、然れども海淺くして、大船を繋ぎがたし、泊浦の東南に山觜あり、陸地より、西北海中に尖出すること一町許、宮崎といふ、此觜ある故、泊浦は灣をなす、宮崎に九玉大明神社あり、松樹森然たり、此觜端に洞窟ありて透明す、坊津御崎の圓洞に比すれば稍小し、土人亦是を秋月と呼ぶ、宮崎の東南は、即西尾にして、灣曲をなす、荒床浦といふ、灣内稍大船を繋ぐべし③、又宮崎の海上西尾觜に接近して小嶼あり。松嶼といふ。此泊港も巌礁亂點し、山觜横出して、景色頗る佳なり、[三国名勝図会巻之二十六]

①「唐港の支港なり、唐港の海口と一にして、西尾の山觜其中に隔たり、両港を分つ」というのだから,海口を一にする場所に「唐港」があったわけです。それは西尾,おそらく西の岬で隔てられてる。ということは,坊津しかありえません。「図会」筆者は坊津港の項でもこの唐港の名を紹介してます。
→m164m第十六波mm船戸宮/史料:三国名勝図絵/坊津浦
②「琉球諸島に下る者、多く停泊して風を待といふ」の箇所は本文でも触れた通りです。続く「海淺くして、大船を繋ぎがた」かったことも考え合わせると,風待ち港以外の交易地として機能したとは考えにくい。
 ただ──後掲「図絵」坊津港には次のように中国大陸の近さは物凄く誇張なタッチで綴られるのに──

港口の西は大瀛にして、漢土往古呉越の地。今の福建省浙江省の地最近く、其水程三百五十里許ありとかや。

なのに「坊津港」には琉球の文字がないのです。「図会」の江戸後期には,案外に広義の坊津港の賑わいは泊にあったのかもしれません。

(上)図会拡大 (下)地理院地図・宮崎付近

③「宮崎の東南は、即西尾にして、灣曲をなす、荒床浦といふ、灣内稍大船を繋ぐべし」の「べし」は,単なる可能または推測の字義にしては意味深です。
 まず,泊の「海淺くして,大船を繋ぎがたし」との対比ですけど,「荒床浦」は水深が深かったのでしょうか?泊湾域の中では埋立や港湾整備が進んでいるように見えるから,おそらくそうでしょう。
 ならば,風待ちの琉球船が埋める湾の脇で,ここに着岸した「大船」は何を積み下ろししていたのでしょうか?

■レポ:野間岳における媽祖

 実は着いてから愕然としたのですけど──野間岳のある薩摩半島西突出部,いわゆる野間半島に在る媽祖は,遠かった。
 海人の拝む場所なら近いはず,と信じこんでいたけれど,遠いのです。
「野間」(のま:日本語)の読みが「娘媽」(のま:漢音)に通じることは,通説化してます。長崎の野母崎もそうだと言われるけれど,野間の場合は音がより近い。それが,この山に祀る媽祖に由来することも疑う余地がないのです。

薩摩では海上から目立つ野間山頂に,熊野権現と並んで妈祖(妈祖権現)が祀られた[国分直一 1976]. 『娘妈山記』は投身した妈祖の死体が漂着したとするが,野間と妈祖の音通や海難時に光が燈る神火など霊験の共通性が,ここに祀られるようになった理由であろう. 中国船の直接来航が鎖国で途絶えた後も,毎年長崎から香火寄進があったという. 一方で唐から明神が舟2鰻を両手に野間に飛来したともいわれ,船の守護神として日本の船乗りたちの信仰も集めていく。
※ 藤田明良「航海神──妈祖を中心とする東北アジアの神々──」桃木至朗編「海域アジア史研究入門」第23章,2008,岩波書店

 だから,野間半島においても,媽祖の拝所とか里宮のようなものがあるのだろう,と漠然と思いこんでました。
 以下は,長崎の媽祖配置についてですけど──

ところが,一方では,『海から離れた』場所,『海よりかなり高い』場所に祀られている事例も存在している。東日本の例が,本来の海との近接性を守っていて航海神としての意識が強いのに対して,むしろ中国や琉球と近い鹿児島県·宮崎県·大分県·長崎県に,航海神としての認識の希薄さが顕著であることが注目される。妈祖や天妃が,ごく身近に在ったこれらの地域においては,かえって本来の意味,思想が薄められてしまうという傾向があるのではないか。たとえば,図2のうちの長崎市の妈祖·天妃を見ればこのことがよく理解できる。長崎市には12件の妈祖(天妃·天后)があるが,後述の唐人屋敷地区(館内)の天后堂は,まぎれもなく航海神として崇拝されていると考えてよい位置に立地している。ところが残りの嫌祖像を配る,あるいは祀っていた寺町·興福寺,鍛冶屋町·崇福寺,筑後町·福済寺,玉園町·聖福寺は,図2の『長崎市に存在する妈祖,天妃』を見ると,いかにも『海』を志向しているうに思われるが,同図の『1901(明治34) 年の長崎市に存在した嬬祖·天妃』を見ると,当時の長崎市街地を取り囲むかのような位置にあることがわかる。※ 高橋誠一「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」

 つまり,媽祖,おそらくさらに広く海人の信仰神は,目の前に在って拝むという発想でなく,遠く仰ぎ見るような場所に置かれることがある。それは,交易地(点)の神なのか,交易路(線)の神なのかによって転ずるのだと思われます。
 野間岳の媽祖は後者だったのでしょう。
 考えてみると,それは稀ではありません。例えば,宮島の弥山や長崎最古の聖福寺媽祖はそうです。航路の入港の目印が,ツールから信仰対象に昇格するようなパターンだと思われます。