m171m第十七波m妈祖の笑みぶあつく隠す秋の峰m野間岳

本歌:軍艦の汽笛ぶあつく夏の月〔大阪桐蔭〕

(笠沙・片浦で**)山川の大迫吉之丞が朱印状を得てルソン貿易を行っている。※ 笠沙町郷土誌編さん委員会「笠沙町郷土誌〈上巻〉」笠沙町,平3 第ニ編第四章第ニ節 スペイン船の片浦入港と秀吉
**引用者追記

~~~~~(m–)m野間岳編
(北岸)
~~~~~(m–)m

南岸・坊津から余りに遠かった野間岳。ならば北からならどうだ?と再トライしたんですけど……
[前日日計]
支出1400/収入1450▼14[150]
負債 0/-
[前日累計]
-/負債 405
§
→十一月三日(天)
1251お食事処玉鱗
たかえび定食550
1650バッカライダンケン
甘胡桃のバケット
ハム卵ニュー
アメリカン370
1720桜勘
あら炊き定食550
2000orange ふくれ200
[前日日計]
支出1400/収入1670▼14[151]
負債 270/-
[前日累計]
-/負債 135
§
→十一月四日(一祝)

 

(序)竹迫温泉,みょうばん温泉

処へ何で行くことになろうと,耐久すべく──0515,起床,身支度を整えみょうばん温泉へ。0600,開店と同時に入浴,筋肉をマッサージして来ました。
 改装しても変わらない。人にもよるでしょうけど,この湯は効きます。昨夜はより強烈な竹迫温泉に浸かって来ました。
 0650,鹿児島中央駅6番ホームに鹿児島本線川内行列車が入って参りました。0700発。
 野間岳北側を目指します。
🚌

加世田から海岸に沿って国道を南下し、笠沙町に入ると人家のまばらな海岸線が続きます。
 すると、なだらかなカーブを登り切った目前に突然、100戸を超える民家が段々状の配置で密集している一集落が目に入ります。
 笠沙町大当(おおとう)地区です。
 集落の入口に 『百万個の自然石積 石垣群の里大当』とあります。
 山が海岸線まで迫って平地が少ない地形のため、人々は山裾(やますそ)の傾斜地に百万個と云われる自然の丸石を野面(のづら)積みして宅地を確保し集落を形成しました。延べ1,250mの小路の両側も、敷地の境界も石垣です。
 集落がまるごと石垣の家並みは独特の景観を呈しています。

※南さつまの観光案内//笠沙恵比寿とその界隈/石垣群の里 大当
URL:現閉鎖ページ

【想定行程オプション】
鹿児島中央①0700→伊集院0719 ②0721→0745
伊集院0750(なんてつ)→加世田0850
加世田0940→片浦1040

🚌

鬼島津400回忌イベント

鹿児島本線の川内以南は,ワシは鉄ちゃんではないけれど,その後も何度か乗ることになりました。
 シラス台地を理解するためのような路線です。
 鹿児島を出ると間もなく,左右の車窓に深い谷。簡単に侵食されるシラス台地に独特の地形です。市内では南鹿児島辺りにある。
 ズレた崖は皆真っ白。そこには,程なく南国の樹木が速やかに繁茂していくのでしょう。
 0710,上伊集院。右手の団地・松陽台の基層とは30mほども段差があろう。──瀬戸内では考えられない地形です。
 次か,と思えば薩摩松元。ここもまだ谷あいの町。ただ学生の乗り降りがやけに多い。学校の姿はないけれど,高台の上にあるんだろうか。
 列車の速度増す。谷が広がってきたからか。ということは鹿児島市西の丘陵が分水嶺にもなっているのでしょうか。
 伊集院と車内アナウンス。0719。

▲「武将になれるまち」日置市──それって,なりたいか?

集院駅でバス乗り場を探してしばらく迷う。最初,東北側(施設的には北口)がバス停かと思ったら……違う。ここは単なるロータリー。バスは降りるだけでした。
 南口が正解。降りて右手,ロータリー中央に加世田行き0750発の乗り場を確認。
 武将隊以外には淋しい駅前町です。日置市観光案内所で暇を潰す。徳重神社の紫の奉納旗──後で調べると鬼島津・島津義弘を祀る神社だという。今年(2019年)は公の没後400年に当たり,イベントてんこもりらしい。
 いわゆる戦国の島津氏は吹上地方の分家だったようです(巻末参照)。

前東には橋。それなりの川がある。脇にローソン。西は左手に湾曲して,見えない。
 道には起伏が大きい。南は1kmほどで小山。そこまでに2つは小さな尾根がある。
──そうか。初回の頃に吹上浜へ行った記憶がある。あの時のバスは加世田行きだった。「加世田へ行く」というバスの運ちゃんの聞き取れなかったイントネーション(前記文だと「へ」のみ高音)が耳に残ってます。あれ,どこから乗ったんだっけ?日置だったのか?
 10分前からバスを待つ習慣は,あの時に定刻の数分前にバスが着いて走り去り,次の便を1時間待った時からです。

聖書ではなかった「いざく」

▲「なんと!FreeWifi!!」byいわさきグループ

752,伊集院発車。始発で遅れるのか?鹿児島のバスは大抵遅れる……のに早く来ることもあるのが怖い。
 西の丘を越えて……え?北へ?
 いや西へ方向転換,飯牟礼(いいむれ)峠という鬱蒼とした山道に入った。いいのかこれで?と不安になるような鬱蒼とした道です。
 0824,バス停「伊作」?そんな地名が残ってるのか?「いざく」と読むらしい。聖書かよ。──とその時は思ったけれど,これが一時の江戸期島津家の元姓でした。
🚌
西本町。結構な町になってる。二級河川「伊作川」を越える。
 加世田まで乗り切る客は少ない模様。皆さんどんどん細かく乗り降りしてます。
 0840,視界が一気に開けた。バス停「塘」(とも)。
 右手前方に一際尖った独立峰。あの山影は……間違いないでしょう。
 野間岳です。
 0845,万ノ瀬橋。加世田バスターミナルは,もうこの川の向こうのはず。保健所前。合庁前。

りんりんサイクルに乗りたい

▲加世田駅の残蹟

刻ぴったり,0850に加世田到着。
 見るからに列車駅の面影を濃厚に残すBTです。裏手に南薩鉄道記念館がある。
 案内板を見ると──伊集院から加世田,さらに枕崎まで列車が走ってたのか。

旧・南薩鉄道路線図

* 南薩鉄道(1964年)
URL:http://6.fan-site.net/~haasan55/Nansatsu.htm

じてワシは鉄ちゃんではない。念のため。
 それはともかく,ここから自転車,という案も持って来たんですけど──「りんりんサイクル」というレンタル自転車は鹿児島交通の事務所,旧駅舎建物の窓口で借りられるシステムになってました。ただロードレーサータイプの自転車じゃない。市内向けらしく,しかもあまり人気がないらしく,整備が疑わしい。
 やはりバスにしよう。
 少し時間があったので,加世田本町を北へコメダ珈琲まで歩いてみた。雛びてる。郊外型の店舗群は充実してるし客もいるんだけれど……町にはあまり元気がある風じゃない。
🚌
雲かかるも概ね晴天。0941,野間池行き鹿児島交通バス発車。
 0946,加世田自動車学校。バス停・唐仁原(とうじんばら)……それっぽい地名です。──後に読んだ論文では,やはり実証や史料はないらしいんだけど唐人町と疑う見解があるらしい〔柳原2013〕。この後の万世(万ノ瀬)もでした(巻末参照)。
 0954,海浜温泉前。この浜に温泉があるのか?でも観光客じゃ,降りると次のバスが……。
※ ゆうらくHP
URL:http://kaseda-sanpal.com/fclts/yuuraku.html

🚌

氣呑山河 チートンシャンバ

星,1002。どうやったらその地名になる?
 1014,もう大浦に入った……と思いきや,なぜかここで主道を南に外れて大回りする。集落の縁をたどってるらしい。
 1017,川を渡る。バス停大浦。なるほどここから北は埋め立て地か。大回りしてるんじゃなく元の集落ラインです。大浦小学校。
 1020笠沙高校跡。スゴいバス停名だな。
 小浜。オバマと読む。
 川を渡って小さな峠。バス停・赤生木校前。1024。この南の道がえらく乱れてる。ここが本集落だろうか。
 まっすぐ前方に野間岳の勇姿。近づいてくる。

泉表示。──一応,帰路に狙ってたお湯ですけど,寄れませんでした。名前は何と「笠沙天然温泉 チートンシャンバ」。「氣呑山河」と書く。暴走族か?
 1029,車道。やはり海側を湾曲しつつ進む。左手,先に通った吹上浜が水平に霞んで消えかけてる。
 1032、いよいよ笠沙集落への道に入りました。バス停・小浦。浜よりは2~30m高い。
 気付けば──バス内無人!凄い過疎路線です。
 本道へ帰るらしい。1036,黒瀬入口。1045,とうとう大当(おおとう)。
 下車。所要一時間余。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

世田行きのバスの時刻は──0604▼▲,0654▼▲,0744,0944,1144,1344,1534(▼▲は平日のみ)。2時間に一本。1344を頭に入れて歩くことにしましょう。
 まず南行川沿いへ。大当橋(おおとはし)。多目的集会施設に祠がある。──「丸石三叉路」という柱表示。

犬鷲 十羽舞う

▲集会所の祠

ず川沿いを上ってみようと思ったけれど,岸に道がない。
 なぜか川の西側だけが集落になってます。水害の結果とかでしょうか。やむを得ず,バス停北のポストの十字に戻って,そこから西へ入ることに。

▲1054集落奥への道と野間岳

間岳頂上は,近くで見るとコブができたようなイビツな形をしてます。航海者の目印には確かなものだったでしょう。
 犬鷲が,十羽ほども電柱上を旋回して舞う。

田中宮別火所のストーンサークル

▲集落の端への道から野間岳

もない。山に入るにつれ,さらに人家は絶える。
 この道は,野間山頂への道でもない。ハズれたらしい。引き返そう。
 帰りかけた畑に,ふと,変なダルマ型のストーンサークル。敷地は上下二段に分かれてる。「田中宮別火所」との表示──

▲下手のストーンサークル

を焚いた跡があります。
 石の円環の中の石積は三段に配置されているように見えます。それだけなら公園整備地とか何かの土木工事の途中とも思えるけれど──方向がまっすぐ野間岳です。一笑されるのを覚悟して,一応撮っとく。

▲ストーンサークルから野間岳

──の「別所」は,市HPには,笠沙の椎木という集落単位が毎2月20日に野間神社の例祭「二十日祭り」を行うとのこと。椎木公民館(→GM.)ではふるまいそばが恒例とあるから,大当よりかなり東(後掲の玉鱗の上流)が氏子集落のはずで,大当の名は出ません。
* 笠沙に春を告げる、二十日祭りが開催!2月20日 | 南さつま市観光協会
URL:https://kanko-minamisatsuma.jp/news/10497/

 ただ,三国名勝図会(巻之二十七 野間嶽権現社∶次章巻末参照)には次の一文があり,名称は一致します。

田中宮別火所 片浦村に属す。野間嶽北麓にあり。嶽の絶頂を距ること一里許。水田の間に小社を建て、猿田彦大神を奉祀し、別火所とす。野間嶽権現社の代宮司宮原氏、毎歳八月朔日より、家人を携へ、爰に寓止して、斎戒をなし、野間権現を祭り、十月朔日に至て止む。

登ろう 1117

▲川の東側の石垣

ろう。1108。
 この小さな川の東沿いを観察すると,かなりの豪邸っぽい石積みが見えます。やはり,元々は川の東にも家屋はあった模様なのですけど──。

▲1113草木越しに大当集落

路」と書いてある札を見つける。その通りに西へ。
 順路は登りを指す。おそらくは,大当集落西端辺の路地に当たるでしょう。
 登ろう。1117。

▲1114「順路」印。これにこの後も悩まされる……。

■レポ:桶狭間前の信長より酷い島津忠良・貴久代

 伊作忠良は1492〜1568年の人物です。現・加世田の武田神社(→GM.)や竹田神社(→GM.,廃仏毀釈前の忠良の菩提寺)に日新公として祀られます。
 この「伊作」姓がこの日見たバス停名の場所。鎌倉時代に薩摩に入った島津氏が阿多郡伊作荘からとって名乗った姓です。とは言え,室町中期には断絶し,守護家から久逸が入り再興する形になってます*。実質,前記神社群のある加世田域の弱小勢力だったと考えられます。
(※ wiki/伊作家
 忠良の子が貴久で,この二代で薩摩中央から大隅西部までやっと勢力を拡大してる。島津実久という宿敵を十年がかりで倒した後,島津分家群13家の連合と覇を争っているから,この時代の島津分家は少なくとも15以上あって出る杭を叩き合ってたわけで,信長の尾張統一よりはるかに難易度の高い統一過程だったと想像されます。
 貴久の子が,九州征服を完遂しかけた島津四兄弟になります。この四人の出生地は鹿児島市ではなく伊作城(現・日置市吹上町中原→GM.)です。
* 島津義弘公の戦い(第一部)|熱血と慈悲の戦国武将「島津義弘公」|歴史|鹿児島県観光サイト/かごしまの旅
URL:https://www.kagoshima-kankou.com/s/history/shimadu2019/introduction2/

日新公・島津忠良代の伊作島津

 だから,この謎多き実質的な現・島津氏系列二代目までがどこで何をしてたのか,ほとんど分からない,というより神話と,それ以上に捏造の多さゆえに,事実が見えにくい。
 忠良という人はこんな人で,奇相だったのは確かみたいです。

日新公・伊作(島津)忠良さん

 まずオフィシャルな経過は,日置市HP*によると次の形です。
※ 日置市HP/戦国島津氏をたどる
URL:https://www.city.hioki.kagoshima.jp/bunkazai/kurashi/kosodate-kyoiku/shakaikyoiku/bunkazai/sengoku-shimazushi.html

伊作島津家(島津氏の分家、吹上地域南部を領有)10代当主島津忠良(日新公)は、島津本家15代太守になった息子の貴久を助け、争いを治めるために奔走した。忠良と貴久は、島津氏の分家で実力者の島津実久との争いに勝ち、弱体化した本家を建てなおした。

 薩摩の第一勢力となる行程の前半は,島津実久という人との争いだったらしい。
「本家」と語られるけれど,これだけ分家が分化して相争ってるとどこが本家筋かは怪しいし,どこがどこを乗っ取ったのかも不明瞭なのであまり重視しない方がいい。
 前掲wiki(伊作家)によると──

伊作忠良・貴久親子は実久と守護職を争い、遂にはこれを武力で退け、薩摩・大隅を制圧した。前述の研究※※では、この際に実久が重臣たちの擁立によって勝久に代わって守護に就任した事実は消されて、反逆行為として書き直されたと考えられている。

※※山口研一「戦国期島津氏の家督相続と老中制」『青山学院大学文学部紀要』28号、1986年
 実久は,島津勝久という人が継いでいた家格の高い家系を,推戴されたか簒奪したかで乗っ取っていた実力者だった。これに,さらに打ち克つ格好で忠良・貴久が実権を得ます。
 この過程に10年かかっているのだから,一時のクーデターとか無敵の戦闘力とかの話ではなく,じりじりと敗勢を覆す実力に基づくものだと感じられます。
※ wiki/日置島津家
※ 鹿児島県HP/戦国島津氏について
URL:http://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/kyoiku/simadusi.html

島津氏「中興」の基礎体力

 一説に*,鉄砲を実戦に初めて使った将は貴久だという。13氏の包囲網を破る節目となった1554(天文23)年の岩剣城の戦いがそれです。ちなみに,この戦は家久以外の三兄弟の初陣**。
* wiki/島津貴久,尚古集成館「海洋国家薩摩」(URL:https://www.shuseikan.jp/seafaring-satsuma/)が記す。ただし原典史料が何か未確認。
** 前掲かごしまの旅

 貴久はその目の回るような戦歴の端で,海外交易を盛んに行ってます。
[琉球]尚元王と修好
[ポルトガル]銃・洋馬を輸入
[イエズス会]フランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教許可(後に禁止)
[イギリス]インド総督に親書を発出

ザビエル来日経緯に登場する薩摩人

 ザビエルについて少し入り込みます。この人は
1541年 ポルトガルから東洋へ出航
1547年 マラッカで鹿児島からの逃亡者「アンジロー」(ヤジロー)と会う
1549年「アヴァン」さん所有の船「海賊号」で鹿児島上陸[以上,前掲尚古集成館]
 鉄砲は種子島氏からの献上とされる。種子島への伝来者・五峯が一説に言われる通り王直とすれば,けれどアンジローもアヴァンも薩摩の海賊又は海民の可能性が強いわけだから,大雑把に南方海域に伝わったと考えた方がいい。伝来後,即座に国産技術を得た種子島氏の姿勢は,要するにそれが何にどう使えるかを的確に理解していたことを推測させます。伝来後10年で実戦使用した伊作島津氏もまたしかりと考えていい。
 すなわち,島津貴久勢力は,種子島氏と同程度には海域から情報と財源を得ていた集団だったのではないでしょうか。

信長の津島 貴久の吹上

 織田信長勢力が父・信秀代に津島を勢力下に置き,その財源を元に拡大の著についたように,島津貴久もまた吹上を窓口とした交易に力を得ていた状況証拠は,相当に揃っているように見えるのです。
 ただ,それにしては,こうした島津草創期の交易への積極性はあまりにも語られず,物証も少ない。1561年の貴久→インド書簡(正確にはイエズス会とインド副王宛)も原本は不明で,写しがローマのイエズス会文書館に現存するのみです。
* しいまんづ雑記旧録『島津貴久』(後編)
URL:http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/%E6%84%9F%E6%83%B3/%E3%80%8E%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E8%B2%B4%E4%B9%85%E3%80%8F%EF%BC%88%E5%BE%8C%E7%B7%A8%EF%BC%89
 なお,この書評の元本・新名一仁「島津貴久-戦国大名島津氏の誕生- (中世武士選書37)」戎光祥出版 p172にローマ保管文書の画像掲載がある。

 この徹底した史料の少なさは,「隠したい歴史」だから隠してるという感じがします。
 貴久と子・義久はともに坊津の一乗院で幼少期の修業をしています。吹上からこの坊津までの沿海一帯が伊作島津の交易拠点だったと考えると,同時代の後期倭寇の拠点としての鹿児島「cangoxina」が連想されます。
 忠良・貴久代の島津は海外交易に力を得ているというより,交易による経済力しか資産を有しなかったような状況だったのではないでしょうか。彼らはなりふり構わず財源を蓄え,それを戦力化したと考えられ,その状況が後の島津兵団の怖さを生んだとともに,後期倭寇としても恐れられたとも考えられるのです。

■レポ:南さつま市「万世」のこと

 行政的には南さつま市加世田の旧町名が「万世」です。
 1925(大正14)年に設立されてるから,風潮は受けたとしても当初の意図が軍国的だったわけではないのでしょう。1954(昭和29)年に加世田町に統合合併し加世田市の一部になりました。
* wiki/加世田市
 最後の特攻隊基地として名を知られます。4か月のみ稼働した飛行場ですけど,沖縄へ向かった特攻機の多く(搭乗員数で二百人余)はここから離陸してます。
* 南さつま市の紹介、続編
URL:http://www.synapse.ne.jp/stuy6354/newpage10.html

北遷移動前の万之瀬川河口

 ただ,現在の万世に何があるのか,と言えば──ほとんど特攻隊博物館しかヒットしません。
 歴史の時空で見ると,僅かに「丁字屋」という醤油屋さんの出世地という記録がありました。こちらは現在も営業を続けて……おられるどころか鹿児島きっての老舗です。
* 南薩日乗: 丁子屋:廻船問屋が醤油屋になったわけ
URL:http://inakaseikatsu.blogspot.com/2013/02/blog-post_13.html?m=1

「マルチョウ」の表示

丁子屋の創業は享保20(1735)年。300年弱の歴史があり、県内では3番目の長寿企業らしい。しかし、藩政時代から醤油屋さんであったわけではない。では何をしていたかというと、藩政時代を通じて丁子屋は廻船問屋だった。[前掲南薩日乗]

 創業が唐物崩れの12年後です。坊津から逃れた者との関わりも疑えます。
 さて「丁子」の名称でピンと来た方はおられるでしょうか?この丁子は,何と文字通りらしい。

丁子屋という屋号はもちろん香辛料の丁子=クローブ に由来し、南方産の丁子油を扱ったことによる。江戸時代、丁子油と椿油を混ぜたものが刀の錆止めに使われていたのだそうだ。このほか、丁子屋は当地で干しトビウオや鰹節(※)を仕入れて大坂で売り、塩や素麺を買い入れる貿易をしていたという。[前掲南薩日乗]
※ 鰹節というと枕崎が有名だが、枕崎で燻製したものを万世に運び、丁子屋で鰹カビをまぶして本枯れの鰹節にしたのだそうだ。このカビを扱った経験が、後の醤油醸造に活きているのだと思う。

 何というか,バイオテクノロジーめいた方面に強い体質らしい。製品開発の着眼点が他に抜きん出てます。
 さて,この超長寿企業が廻船の拠点とした場所は「万之瀬河口」でした。南薩日乗さんは船底の保護のため真水の河川を必要としたとするけれど,内陸河川交通との連結点でもあったのではないでしょうか。
 ただ,現在万之瀬川は万世を通ってません。これが丁子屋の廻船業の低迷と醤油屋への転換の理由でもあるらしいのですけど──

万之瀬川河口の北遷位置図
* 柳原敏昭「中世初期日本国周縁部における交流の諸相」専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第3号 2017年

 万之瀬川はかつて現在より南で海に注いでおり,この地点がまさに万世だったというのです。
 南薩日乗さんサイトのコメントに,父親がこう語っていたという記述もありました。
「忘れちゃいけないよ。ここ(万世)まで海だったのだ。万世は港町としてこの地区で一番に開けた町だったんだよ」
 同じコメントに,この地区には「船つなぎ石」というモヤイ石が残るという記述もありました。情報を探してみると,薩摩半島民俗文化博物館のサイトに記事があります。位置は「相星川左岸」で通称「中学校通学通り」,さらに小松原地区と書かれるので,このルート(→GM.:経路)のどこか,おそらくは八坂神社近辺にあるのでしょう。
万世の「船つなぎ石」

山下さんの昔話

 茨木市議の山下けいきさんが「日々是好日」というサイトに,万世に暮らした時期のことを次のように記述しておられました。
*こんな校歌を歌っていました。万世小学校、万世中学校、加世田高校 – 平和とくらし
https://blog.goo.ne.jp/genki1541/e/f74726af13ecf9185f0e5b1472c7ed1a

(小学校校歌の)三番目の歌詞もあったようですが、軍国調で禁止され歌わなくなったと聞いています。

 やはり戦前は,当初の意図はともかく,世風的に解釈された時代があり,それが,おそらくは米軍占領時の指導下で,行政上の地名として消された理由でしょう。
 ただ,中学校は未確認ですけど,万世小学校は大正期からの名称を守り抜いてます。戦後,議論があったこと,それに地元がかなり頑なに学校名に拘ったことが推察されます。
* 万世小学校/沿革
URL:http://www.minamisatsuma.ed.jp/jr/banseisyo/gaiyou/enkaku.html

 この名称は,地域にとって何だったのでしょう?

「万世」は1925年東加世田村が町制をしく時、南薩摩を流れる万之瀬川(まのせがわ)の万と加世田(かせだ)の世の字をとったもので、「萬世不易(ばんせいふえき)―永遠に変わらないこと」の意味も込められています。

 加世田の「世」を取る,というのはやや強引で,間違いなく後付けの理由です。先の「父」の言も考慮すると,「万世」名の主観的な由来は「万之瀬」ではないでしょうか。地元には,「この地こそが本来の万之瀬河口である」という過去の繁栄の時代の自負が強烈に残っている。

私の出身はこの万世の「唐仁原」ですが、字の通り中国からの渡来人による由来といわれています。一帯は万之瀬川の河口港として中国や南方からの船でにぎわった歴史があり、唐仁塚川という名称の川が流れ、ふなを取っては遊んだものです。

「唐仁原」の他,この日のバス停名「唐坊」も上記地図で確認できます。
「唐仁塚」川の名は地図上で確認できません。「仁」は元は「人」だったかもしれない。「塚」ということは墓所があったのでしょうか。また,同名の公園の位置(→GM.)からすると──つまり旧・万之瀬川がそう呼ばれているのでしょうか?
 どうにも分からないこの場所について,何本かの論文でも指摘してましたけど,やはり名前や言い伝え以上の実証的な史料や遺物はまだ出てません。

□ツール:南さつまバス時刻表

※ 南さつま歴史街道/南さつまバス時刻表
URL:http://www3.synapse.ne.jp/hantoubunka/kaidou/bus-nomaike.htm

「m171m第十七波m妈祖の笑みぶあつく隠す秋の峰m野間岳」への1件のフィードバック

  1. At the beginning, I was still puzzled. Since I read your article, I have been very impressed. It has provided a lot of innovative ideas for my thesis related to gate.io. Thank u. But I still have some doubts, can you help me? Thanks.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です