m173m第十七波m妈祖の笑みぶあつく隠す秋の峰m玉林

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

正午 白波なし 海面水鳥五羽

世田行きバスが走り去ったR226のパーキングの自販機で水を買う。
「KASASA-TOWN」というマップが掲げてある。これには確かに,「一の鳥居」とそこへの脇道が書いてある。

▲観光地図

午の時報が響く。
 浦に白波なし。
 水面に水鳥5羽。
「南さつま海道#2000」✻表示あり。
✻この時は何のことか分かってないけど,この地域ではサイクリングイベントの「ツール・ド・南さつま」というのが開催されています。その中に最難易度の「南さつま海道コース(100km)」というのがあり,これが獲得標高約2000mという仕様なので,この意味なのではないかと推測されます。
▲1211片浦郵便局の峠付近

片浦の弛い傾斜面

になんと郵便局がある。片浦郵便局,「夜間警戒強化中」看板があるけど……まあ確かに逆に狙われるかも。
 同名バス停。
 1211,片浦集落への下りへ。海側には豪勢なお寺があります。本誓寺と掲げてる。
 バス停片浦で野間池行きバスとすれ違う。あのバスの戻り便に乗らねばならない。
 バイク野郎3台がブッ飛ばしていきました。
 片浦漁港市場とある建物。制限重量8t以下とある大きな浮き。沖には何かの大きな養殖場があるようです。

▲1214(破損してるけど)片浦集落手前の山側への坂道

みどころのない集落です。
 海側に突出した岬の基部の窪みを埋めるように集落が広がる(→後掲地図参照)。下の写真はその下りと上りを視認しつつ,入って歩くかどうかを迷った時に撮ったものですけど,画像では分かりにくい弛い傾斜面が綺麗に続いてます。

▲1218岬側への集落と高低差

に調べる限り,この片浦が現・笠沙町域では最も史料に名を落とす場所でした。

片浦周辺地形(北よりの鳥瞰イメージ)

 三国名勝図会の記述その他の史料については,巻末で触れます。

二王は海幸と山幸か?島津と林か?

▲1225片浦の新港から海。遠方は崎ノ山の岬。

227,笠沙集落に入る。バス停熊ケ浦。
 1236,バス停仁王崎。正面丘上に大きな体育館。──市立笠沙小学校のものでしょう。

▲1230仁王崎集落風景

王崎」の名前の由来として,海幸山幸の兄弟を皇祖と見た「二皇」崎が元という説もあるようです。もしそうなら,戦前の天皇崇拝の強い時期に同音漢字を充てたのてしょうか。
 1239,仁王崎橋。南さつま市立笠沙図書館。バス停・中央公民館。

玉の林と鱗のくに

▲1234道路側は観光用らしい椰子の街路樹はあるも,閑散としてます。

林地区公民館と名称を掲げるのが,バス停名でいう中央公民館でしょうか。とすると地区名が玉林らしい。
──「林」が玉?もしかして林家と関係するのか?と調べてみたけれど,そこは確証を得られてません。
 1244,久しぶりに信号機。玉林という三叉路から川沿いに進む。
▲玉鱗辺りから見た黒瀬川沿い

ス停・玉林。あれれ?どこだ?
 1251,思ったより川沿いの奥にありました。お食事処 玉鱗をやっと発見!
1251お食事処 玉鱗
たかえび定食550

玉鱗のたかえび定食

──ってるよ,お客様が。
 町の定食屋だと思ってたんだけど……実は驚きの大人気店らしい。1時で客の受け付ける自体を止めるらしく,超ラッキーな滑り込みでした。
 入口に「笠沙のさかなたち」というポスター。立地的に当たり前ではあるけれど,そうか魚でも有名なのか。
 バスが通るのは1350のはずです。イケるのか?でも客はかなり減ってるしバス停は店のすぐ前(黒瀬入口)だし。
 地魚定食にも惹かれましたけど,でもここは……。鹿児島市内でバカ高いうなぎ食べる位なら……。と思いつつメニューを見ると,そのうなぎや握りやすくもプロっぽくて迷いは広がるばかりなり。

※ かごしまの食一覧/ヒゲナガエビ(タカエビ)

ヒゲナガエビ(タカエビ)


「水深400mの深海に生息するタカエビは、別名薩摩甘エビといわれています。プリプリとした食感、アマエビのような甘さが特徴です。

十二匹のたかえびと妖しき野間岳

▲1348黒瀬口バス停

と30分!というところで席につく。1320。
 1350,バス停・黒瀬入口に建つ。タバコ吸いながら待つけど……来ない。おーい!バスはあ?
 ここへ来て,恐れてた鹿児島名物(?)10分早く通り過ぎましたパターンだったりして?
🚌
353。乗れた…。
 大浦の山手遥かに見えてきた風車,あれはもう坊津と枕崎の間の八基だろうか。
 たかえび定食は──最高でした。刺身6匹,素揚げ3匹,塩焼き3匹の計12匹!
 刺身は普通の甘えびとあまり変わらないように思えた。でももちろん旨い!
 問題は素揚げと塩焼で──

たかえびの素揚げ!

臓部分が唸りをあげるような美味だったのが素揚げ。一番早く腐る部分だけに,これは新鮮さが勝負だからでしょうか?ドロリと爽やかに苦い!絶品‼
 最高だったのは,最後に出された塩焼き。大ぶりなのを使ってるのか,これも頭の部分が至上の美味さ。たかえびは甲殻の薄さが特徴だというから,皮を取り出すなんてもったいない。パリパリとしたクリスピーさの中に,頭部の生臭さが軽妙に顔を出してる。
 肝の旨味が暴走しとるのです‼
🚌
湊屋敷で,初めて自分以外の乗客を見ました。1425。
 そこまでは誰も乗って来ない。貸切バスかと思ってしまった。
 道が蛇行する度,後方に揺らめくように立ち上がる野間岳の妖しい容姿が視界を掠めます。


笠沙町片浦の(上)集落全体及び(下)郵便局から北側部分 ✻国土地理院地図

■レポ:史料に落ちる片浦の淡い影

 この時に戸惑ったとおり,上の地理院地図の片浦集落は,見れば見るほどに不思議です。
 通常,港町の生活の基本ステージたる西側の海とを結ぶべき東西の道が,むしろ極めて限られてます。東西横断していると言えるのは北側山裾の一本だけと捉えていい。
 そういう場合は,東西に集落が分割されてることが多いけれど,片浦の場合は集落は万遍なく続いていて,道を頭から消して家の配置だけを見るとむしろ中央部にこそパティオのような空間を伴う機能の集約点があるように見えます。
 さて,笠沙町広域での片浦の位置も誠に面白い。

片浦〜仁王崎〜小浦〜峰ノ山付近地図(同地理院地図)

 似たような地形はまず見当たらない。佐田岬の南側や博多湾北部がちょっと似てるけれど,この規模でのこれだけの深いV字入江は例がないと思います。
 片浦はこのV字の南側入口の西岸。V字の奥は川の堆積で水深が浅いから,入口付近で,かつ集落を構える一定規模の平地を持つこの場所が選ばれたのてしょう。
 有り難いことに,ここの2百年前の光景が,絵画として残っています。

幕末∶描かれた片浦港

 加世田再撰帳は19C半ばの成立が推定される近世地誌類の一つです。
橋口亘「鹿児島県南さつま市加世田郷土資料館蔵『再撰帳』掲載絵図に描かれた近世薩摩国河邊郡加世田郷」『南日本文化財研究』2017

再撰帳「片浦港」絵図(全体)

 数字は橋口さんの付したものですけど──

1  野間岳
2  野間権現宮・本地堂・坊舎
3  野間権現一之鳥井
4  山神
5  仁王崎
6  片浦湾 
7  小浦
8  碁石濵
9  草垣群島
10  宇治群島
11  御牧(野間の馬牧)
12  高崎遠見番所
13  片浦
14  御番所(片浦津口番所)
15  唐船(ジャンク船)
16  橘島
17  竹島
18  崎之山

橋口亘「薩摩国加世田郷の地誌─『再撰帳』に描かれた人々の生活─」『解題と考察Ⅲ』 中 片浦の周辺図〔原典∶『再撰帳一の二』掲載「片浦港」絵図❳

 船影は,左手前の小浦辺りに小舟が見える以外は,ほぼ片浦に集中してます。集落も同様で,江戸期の人口は片浦が大半を占めていたのではないでしょうか。
 次に,別の絵図で拡大を見ます。

再撰帳「片浦港」絵図(部分)

1  片浦
2  茅葺き
3  土蔵(瓦葺き)
4  護岸(石垣)
5 瓦葺き
6  階段
7  鳥居(朱塗り)
8  片浦十二所宮(野間権現近戸宮)
9  松
10  小舟
11  和船〔帆船〕
12  唐船の旗
13  唐船(ジャンク船)
14  御番所(片浦津口番所・瓦葺き)
15  垣
16  燈台
17  高崎遠見番所
18  橘島
19  竹島
20  崎之山

 7の神社は現存しません。ただこの東(手前)に蔵や護岸のあることから,この地域,現在の笠沙町漁協の奥(元の海岸線)が港の中核だったと思われます。
 このエリアの少し南(絵図の左側)にやや広い空間が奥へ続いています。ここがパティオ状になっているように見えるので,交易を行っていたとすればここに市が立ったのかもしれません。
 沖には和船,唐船が停泊しています。

▲「唐船抜荷並ニ旅人取締ニ付精勤」「……當正月片浦江唐船致漂着候節茂……」

18C∶鮫島さん また片浦出張?

 再撰帳に描かれた江戸後期の片浦には、唐船の「漂着」が相次いでいたらしい。上記事は笠沙町誌*掲載の史料で,唐船漂着時の協力に対する感状です。
※ 笠沙町郷土誌編さん委員会「笠沙町郷土誌〈上巻〉」笠沙町,平3 

 次の史料は18C末,唐通事・鮫島正次郎の出張記録です。半分以上は片浦で、特に寛政年間に入ると全件がそうです。鮫島さんは片浦に住んだ方が良かったのではないでしょうか。

加世田小松原出身の唐通事鮫島正次郎の記録『訳詞冥賀録』に出て来る唐船漂着の記録である。見てのとおり,片浦は,唐船との貿易上極めて重要な港であった。
[前掲笠沙町誌 第ニ節 唐船の片浦漂着ひんぱん]

1634年∶片浦唐船への倭寇嫌疑事件

 17Cから18Cにかけての中国船の来航は,もはや公然の秘密だったようです。それは17C前半の次の事件の顛末からも窺えます。

寛永一一年(1634),薩摩藩にいる唐人が「ばはん」の容疑で幕府の取調べを受けた。(略)
一 後領分片浦へ去年入津仕候唐船 不審成儀御座候間 爰元ニテ致穿○候の由候て 其船頭一人 脇船頭壱人被差越候 此方ニて穿○仕ルニ及候間 於其地被遂御穿○尤ニ存候 右之段々御使者へ口上ニ申入候間 不能詳候 恐惶謹言
 (朱)寛永十一年
    閏七月朔日
     神尾内記
      元勝 判
     榊原飛騨守
      職直 判
 島津弾正
(鹿児島県史料『旧記雑録』後編五)

 つまり,どういう経緯か幕府側に知れるところとなった中国船籍の,おそらく密輸をしていた船の対処に幕府は苦慮し,これの取調べを薩摩側に押し付けることで問題を投げ出しているのです。
 おそらくは,中国船側から薩摩に仲裁の依頼があり,これを受けて薩摩が幕府に働きかけて導いたシナリオだったのでしょう。

(略)
③片浦に昨年入港した唐船は,不審な点があり,幕府の役人が事情聴取のため,船員一人・脇船頭一人呼び出したのであるが,薩摩側で事情聴取するのは,もっともなことである。
 片浦入港の唐人については,『此方ニて穿○(せんさく)つかまつるに及ばず候間, その地にて穿○を遂げられること,尤に候』とある。この間に薩摩藩側の幕府に対する働きかけがあったことをうかがわせる。[前掲笠沙町誌四節 片浦出入の唐船取調]

 その辺りで後々疑われることを回避しようとしたのか,この文書には「張紙」(付箋)で付記が加筆されています。簡単に言えば「いやいやホントに海賊じゃなかったことは確認したんだよ」ということで,わざわざそんな言い訳をしてる事がますますグレイ度を増しています。

この史料には貼紙があり,
  『張紙ニ』
    於鹿児島嶋御せんさく被成とも,はハん(八幡)不仕由申候,脇ニ為存者無之候間 不相知申候
 鹿児島で船頭等を取り調べた結果は,『ばはん』はしていないと言う。その外,彼らが『ばはん』をしたという事実を知っている者がいなかったので,結局何もわからなかった。
(略)
 秀吉時代から徳川家光の時代にかけて,『ばはん』に対する島津氏の姿勢には一貫性が見られる。それは,『ばはん』の側に立ってこれをかばう姿勢である。
[前掲笠沙町誌四節 片浦出入の唐船取調]

 薩摩にとっては,幕府は既に鎖国令初期からコントロール可能な相手だったことが,この一事からも読み取れます。

1620年∶長崎唐人による対薩摩訴状事件

 江戸期に入り,琉球海域を傘下に収めた薩摩には,相当数の中国人居住地があったと伝えられるけれど,既に見てきた(個人的には苦渋を舐めてきた)とおり,その実態は全然分かりません。

薩摩藩領内各地に唐人が居留するようになり,各地に唐人町がおこった。国分・串良の
唐人町が,そのほか坊津・久志・阿久根・川内など港々にゆかりの地が残っている。周知のとおり片浦の林家もその一つである。
[前掲笠沙町誌四節 密接な明国との交流]

 17C初めには長崎の中国人が薩摩在留中国人を攻撃する訴えを,京都所司代板倉氏にあげています。
 長崎出入りの中国人と薩摩出入りのそれとの違いが,出身地や階層などのどの辺にあって,なぜ反目していたのかどうも判然としないけれど,とにかく反目はあったらしい。
 また,なぜこの時の訴え先が京都所司代なのかもよく分からない。

元和六年(1620),長崎の唐人たちが,薩摩の片浦に出入りしている唐船は「ばはん」,すなわち倭寇であるから取り締まるようにと,島津氏に要求してきた。(略)
一 片浦へ着岸之唐船ばハんの由 長崎之唐人共達而申出 此方へも参候而薩州様へ御沙汰候而被下候様ニ与申候間 唐人共前より直ニ致公儀候へ ばハんいたしたる儀於証拠分野明者 公儀之御沙汰第如何様ニも可被仰付由 唐人共へ被仰聞候 其後兎角不申出候 於京都誰哉覧板倉殿へ自薩摩ばハん仕之由為申様ニ取り沙汰候へ共 指而御気遣無之候 先書ニ如申候 唐人共種々申事ニ候間 若及御沙汰儀も可有之候間 今一往可相聞間 他出無之様ニ被仰付尤候 猶口上ニ申含候間不能詳候 恐惶謹言
  (朱)元和六年
      伊勢兵衛少輔
(鹿児島県史料『旧記雑録』後編四)

「指而御気遣無之候」(気にしないこと)とまで書面にしているのは,長崎側から唐人への流言か何かのプレッシャーがあり,現実に「業界」が震撼していたことを予想させます。
 裏経済を完全掌握してはいなかったであろうこの時点の薩摩が,相当激しい暗闘の最中にいたわけです。その不安感を払拭するための文書がこれなのでしょう。

 要旨は次のとおりである。
①片浦に着岸する唐船は倭寇であると,長崎の唐人たちが言い立てて,島津氏に取締りを要求してきた。
②そこで,藩としては幕府へ直接訴えるよう,もし倭寇という明確な証拠があれば,幕府からどのような処分にも従うと,唐人たちに言っておいた。
③その後,何もいって来ないが,京都所司代板倉氏に薩摩には倭寇がいると訴えたような噂もあるが,たいして記にすることはない。
④しかし,唐人たちがいろいろなことを言っているので,場合によっては,何かの沙汰があるかも知れないので,念のため,打ち合せをしたいので,出かけないように言いつけてもらいたい。
 これは家老上井覚兼の手紙である。自信と一抹の不安をのぞかせているが,暗に薩摩藩に倭寇のいることを認めている。
[前掲笠沙町誌四節 片浦出入の『ばはん船』取締要求]

 だから,倭寇の有無を既に薩摩は問題にしていません。隠せとすら言っていない。前掲の寛永年間の事件と同様,幕府対策に奔走していたはずで,そんな詮議は揉み消してやる,ということを宣言しているわけです。おそらくこの時点では,本心ではおっかなびっくりだったでしょうけど,次第にそういう駆け引きは幕府との間で常習化していったのでしょう。
 それにしても,長崎が「片浦を調べれば分かる」と訴え,薩摩が不安解消をしなければならなかった当時の片浦はどういう状況だったものか。こういう緊張下の出来事ですから,まず史料は出ないはずですけど,想像を掻き立てられます。

1589年∶「黒船」来航に三成派遣

 1589(天正17)年に「黒船」が片浦に来航しています。これはスペイン船と見られており,秀吉政権は極度の丁重さで関係を築こうとしています。

今度至于片浦黒船着岸之由言上候 然者糸之儀 商売仕度旨申之由候条 先銀子弐万枚御奉行差添被遣候 有様に相場を相立て可売上候 若糸余候ハバ 諸商人ニかハせ可申候 買手無之ニ付ては 有次第可被為召上候 此以後年中ニ五度十度相渡候共 悉可被為召上候間 毎年令渡海 何之浦々にても付よき所へ可相着候由 可被申聞候 縦雖為寄船 於日本之地者 聊其妨不可有之候 糸之儀被召上儀者 更々非商売之事候 和朝へ船為可被作着 如此之趣 糙可仕聞候 此方より御奉行被差下候までハ 先糸之売買可相待候 猶石田治部少輔可申候也
  八月廿七日
      ○(秀吉御朱印)
 羽柴薩摩侍従との[前提笠沙町誌 第ニ編第四章第ニ節 スペイン船の片浦入港と秀吉]

 最後の文言にある通り,この件の全権使節として現地派遣されているのは石田三成です。島津征伐終了の1587(天正15)年から2年後で,島津家取次に当たっていた石田三成と細川幽斎は,薩摩との往来が多かったとは言え,琉球問題*,勘合(対明交易),賊船取締りなどの対島津調整に追われる中で片浦黒船にここまで慎重に動いているのは,よほど秀吉の交易成功への思い入れが強かったのでしょう。
*ここでは琉球を対日朝貢に導くこと

(略)
①片浦に着岸した黒船は,生糸を売りたいとのことであるが,奉行に銀二万枚持たせたから,適当な値を付けて買い上げること。残りが出たら,商人に買わせること。
②買い手が付かない場合は,秀吉がすべてを買い上げる。だから今後は,年間五度でも一〇度でも,何回やって来ても全部買い上げるので,毎年,何処でも船を付け易いところに来るよう,島津氏はスペイン船によく伝えること。そして,日本の何処に付けても,少しも妨害を受けるようなことはない。
③生糸を買い上げるのは,商売をするのが目的ではなく,日本に船を招くのが目的である。このことを,これもよく伝えて置くこと。またこちらから,奉行が着くまでは,生糸の売買をしてはならない。[前提笠沙町誌 第ニ編第四章第ニ節 スペイン船の片浦入港と秀吉]

 けれど,これが島津の豊臣服属直後だという点は奇妙です。おそらくそれ以前から,片浦への黒船来航はまま行われており,秀吉のような外交交易に敏感な政権の下に入るまでは,自然体で交易が行われていたのではないでしょうか。
 またこれ以後は,島津側もこれが国家外交の問題だということに気付き,しかるべき管理と秘匿の下で交易を行うようになったのだと思われます。
 いずれにせよ,将来的に根付かないスペイン船もこの時期には片浦に来航していたわけで,国際港としての機能は遅くとも16C末までは遡れるわけです。

 絶対に,後期倭寇と江戸期の薩摩交易のポイントだった場所,ということはこれらの片鱗からビリビリと直感できます。けれども,これは普通の方法では何も見つからないな,ということも認識されます。島津にとって,決して探られてはならない場所だったのですから。
「唐物崩れ」がなぜ坊津だったのかも少し予想されます。それは長崎が弾糾した片浦ではなかった。
 この浦からは,南の坊津・山川や北の牛深のような豪商が出ていません。だからそこに私的に伝わる文書や会計帳簿が再発見されることも考えにくい。ただし,媽祖像を所有した林家については幕末まで資産を保持していたらしく──

片浦については、享保六年死亡の第五代林勘左衛門がカツオ漁業を開始したというが、鰹節製造の記録がr三国名勝図会』にも載らぬところから見ると、幕末近くになって盛大になったものであろう。林家は鰹船六艘、帆船、上下船四艘を持ったばかりでなく、カツオ漁業の取り締りにも当たったという。また城主島津公へ金品等を献上した功労により、太刀を下賜されたことがあった。一人で六艘も経営したのは封建制経済下においては大企業主の部類に入る。
*宮下章「鰹節」法政大学出版局, 2000

 林家が豪商として名を知られないのは,島津「本社」筋とそれだけ強く連携して私的な商業活動をしていないからだと思われます。
 ただ,「片浦 林」でググると林姓の方々が多数ヒットし,内部の方でないとどれが本家で……という辺りは見当もつきません。
 おそらく,片浦や笠沙の歴史がさらに深く判明するのは,林家に伝わる何かの史料が現存されており,それが公表された時ではないでしょうか。その時が来るのを,この時空については待つしかないのではないかと期待して,残念な筆を置きます。