m174m第十七波m妈祖の笑みぶあつく隠す秋の峰m加世田

の塊のような薩摩近世史,という感触だけは,かなり強烈に体感できたのがこの海域アジア編での初薩摩入りでした。
 その意味では,素晴らしい旅行でした。国内の近世にまだこれほどの暗黒──日本史の中のイベ(御嶽の無解釈な聖域*)のような場が残っていようとは。
 なのでこの最終回章では当時の「?」の感触はそのまま併記しつつ,その後に幾らか謎の深みに潜れた別章へのリンク集を兼ねさせて,綴っておきたいと思います。

FASE60-5@deflag.utina3103#マーカーの御嶽,九年堂の御嶽,ナスの御嶽\瑠璃の玉と思て肝の持てなしは


■用語集:沖縄X探訪のための「軽くは訳せない沖縄語」集 初版

万世を発った201人

用バス状態の帰路の車内からバス停・慰霊塔下を見る。
 ここは……万世?とすると塔が慰めている霊とは──スマホで少し調べて納得する。万世特攻慰霊碑のことか!
 先述のように(下記参照)ここの地名は、命名時は決して軍国主義的なものじゃなかった。けれどそれが時勢を経て別の意味を持ち,特攻隊基地に選ばれるのにも作用した。

m171m第十七波m妈祖の笑みぶあつく隠す秋の峰m野間岳


■レポ:南さつま市「万世」のこと
 けれど実際にここから二百人を超す特攻機が飛び立ってます。

万世飛行場からの出撃
・特攻振武隊 出撃回数29回 戦死者数121人
・第66戦隊 出撃回数19回 戦死者数72人
・第55戦隊 出撃回数5回 戦死者数6人
・その他 戦死者数2人
・合計(戦死者数)201人
*※特攻基地・万世
URL:http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/playback/bansei

 このうち振武隊というのが沖縄戦で,主に慶良間沖の米軍艦船への特攻です。

沖縄戦特攻機出撃地マップ

覧特攻平和会館のデータによると,沖縄戦での特攻機搭乗1036名を出撃地別に見ると,知覧402名に次いで健軍127名,万世120名とある。9分の1です。うち鹿児島県出身は40名なので,多くが全国から集められた空兵でした。
*知覧特攻平和会館 | 航空特攻作戦の概要
URL:https://www.chiran-tokkou.jp/summary.html

「?」と手旗で問うと一礼を返す

▲加世田の名店ブルドッグ

世田→伊集院の次発は1555と確認済なので,1448,加世田BT(バスターミナル)手前の合庁前で下車。
 ここでもチャドル姿とすれ違う。しかも5人?
 飛ぶように急いだ洋食店「グルマンブルドック」は空振り!「混雑のため夜の業務に専念し…」とよく分からない札が出してある。中へ入って遠くの厨房に両腕で「×」?と示してみたら,料理人らしき男が静かに一礼して詫びる。

▲「本町栄える会館」

むを得ない。カトリック加世田教会を通って「辻食堂」というところも探してみるも,こちらは……存在せず!
 あらら,今日は空振りの日か? BTへの帰路につく。

▲踏切跡発見

中,西に線路跡らしきものを見つける。何とこれは踏切の跡だと思われる。
──これは先にも見た南薩鉄道の,加世田から枕崎を繋ぐ部分の線路跡でした。なお,ワシは断じて鉄ちゃんではない。

m171m第十七波m妈祖の笑みぶあつく隠す秋の峰m野間岳


りんりんサイクルに乗りたい

阿多∶近世島津に先立つ薩摩の光景

世田という場所も不思議な手触りの町でした。その感触だけを頼りにこの夜調べを進めると──現「加世田」名は加世田別府に由来*の旧称は「阿多」。姓としては平氏(桓武平氏)阿多氏ですけど,民族名でもある。
*「加世田」の語自体は「痩地の田」の意で,他地の地名にも岐阜・和歌山・鳥取・山口・宮崎に存在する。
 つまりここは「阿多隼人」とでもいうべき人たちの居住域で,中世半ば頃まで島津荘の外に置かれていた地域です*。
* 柳原敏昭「中世初期日本国周縁部における交流の諸相」2013

m171m第十七波m妈祖の笑みぶあつく隠す秋の峰m野間岳


■レポ:桶狭間前の信長より酷い島津忠良・貴久代

おかつ先述のとおり,加世田は近代島津氏の出自でもある。すなわちここは,近世薩摩の震源地。
 なのにそれが既に全くの謎です。1年半ほどして一日歩いてみた記録が次のものですけど,ある意味で予想通り,取り付く島もなく何も分かりませんでした。

m17em第十七波余波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m金峰withCOVID/鹿児島県

だこの地域の研究を見ていくと,戦後になって,その特異性を推しうる新しい尺度として「薩摩塔」が挙げられていることを知りました。
 巻末にまとめましたけど,確かに顕微鏡レベルの分析でも中国沿岸,それもかなり狭い地域に産する石材であることは確実視されています。

「水元神社の薩摩塔」

※ 南九州市HP/水元神社の薩摩塔(カラー写真)
URL:https://www.city.minamikyushu.lg.jp/bunkazai/shisetsu/kyoiku/067.html

だ,この件には個人的にはあまりのめり込む意義を感じない,という感触です。
 戦後になって盛んに言われるようになった割に,戦前まではその類型化はなされてきた気配が薩摩側にも持ち込んだ中国系の人々の間にもない。近世の同時代人に差別化されてこなかったということは,文化財とその分布としては例えば陶器の考古学的分析のような意味はあっても,同時代の文化として意識に上ったものではない,と思えるのです。
 要するに,薩摩塔を媽祖像の分布(下記参照)の代替,又は周辺と見なすのは,少し無理がありそうなのです。

m131m第十三波m水盆の底や木目の眩みをりm川内観音(序)


■資料2:日本に存在する媽祖の所在一覧

▲1510加世田BT全景

し早めにBTに戻ると……え?1512発,鹿児島金生町直通バス?
 飛び乗る。谷山駅前経由で?どういうコースなんだ?
 1520,まだ南下時と同じコースを逆行してるだけに見える。
 バス停「塘」。阿多貝塚というのもある?
 見慣れない前方の3つ頭の山は?でも方向はまだ北のままです。
🚌
※南さつまバス時刻表/鹿児島市内↔️金峰・加世田

ダンケンのハムタマゴ!

調べて分かった。鹿児島市内と加世田は伊集院方面から回らなくても谷山から直行できて,この便の方が多いらしい。
 今もこのバスはほぼ満員。行きと全然違う。時刻表上の所要時間は90分弱。伊作経由とわざわざ書いてあるからこの地点で東に曲がるんだろう。
 予想通り!伊作から県道22号から亀丸城跡脇の道を,今完全に東に入りました。
🚌
与倉,1542……という辺りまでメモったまま,うとうとしてたら──速!
 1608,西谷山小?加世田BTから1時間かからずに鹿児島市街地に入れるの?じゃあ今朝の長旅は何だったのじゃ?
 さてもうどこで降りても電車で動けるぞ──となると欲が出てくる。涙橋の温泉にも行かなきゃだけど今日はまだ一食しかしてない。食を優先しよう。駅前まで乗ることに。
 1639,鹿児島中央駅到着。ホントに90分かからかった……。

▲ダンケン!

650バッカライダンケン
甘胡桃のバケット
ハム卵ニュー
アメリカン370
 新店舗になってかなり印象が変わってきた。ログハウスっぽい,良い意味でのごちゃごちゃした感じがなくなりすっきりして……しまった,というところ。
 客足も一頃に比べるとやや控えめになってきたかもしれない。
 でもパンの味は相変わらずです。このハム卵──に「NEW」表示のあるサンドなんかは…別に何かがはみ出してるわけじゃないのに絶妙なバランスと完成度でした。
🐟🐟🐟🐟
の足で通りがかりで覗いてみますと──意外にも「え?ありますよ」とのこと。
 ただ写真は撮ってない。ここのアラ煮って写真写りは悪すぎるのです。どす黒い,いかにも体に悪そうなアラ煮。実際食べても妙な苦味すら感じます。これがいいんだなこれが。
1720桜勘
あら炊き定食550

[前日日計]
支出1400/収入1670▼14[151]
負債 270/-
[前日累計]
-/負債 135
§
→十一月四日(一祝)
0855茜屋珈琲店
モーニング(トースト&ベーコンエッグ,オールドブレンド)370
1127三平らーめん照国本店
辛とろろ豚骨550
1151スープカレー薩摩剛家 天文館店
軟骨と野菜 7辛400(1320)
1253トゥワベール
木の実200
[前日日計]
支出1400/収入1520▼14[152]
負債 120/-
[前日累計]
-/負債 15
§
→十一月五日(二)

 

橋には翌朝に参りました。
 郡元温泉。ここは泉質もさることながら「不思議な馬油」を名乗る瓶も目的なんてすけど……何と!品切れにて購入できず。
 0856,茜屋珈琲店のモーニングにて朝ご飯。

関ヶ原から堺へ 海路で薩摩へ

▲鶴丸城にコウノトリ

壁角,コウノトリ一羽が危なげに立つ。
 県立博物館へ行くのは初めてでしたけど……鶴丸城正門は工事中。「戦国島津 島津義弘没後四百年記念展」企画は今日が最終日とのこと。チケット売りの御姉様の,戦国島津から見るとお得(常設半額)とのご案内に従い一通り周りましたけど──海に関する史料は,鬼島津が名を馳せた朝鮮出兵以外見当たらない。
 ただ,関ヶ原の島津退き口の史料中に,中継点となった堺には既に島津ゆかりの貿易商がおり,この者が海上脱出路をセッティングしていたとポロッと書いてある。そんなネットワークが当時から存在してたんでしょうか?

薩摩的な あまりにも薩摩的な

▲三平らーめん

飯へ急ぐつもりがついつい浮気してしまう。
1127三平らーめん照国本店
辛とろろ豚骨550
 通りがかりで引力を感じて入った。「とろろ」の意味が分からんかったけど……とにかく好い辛さでした。この場合の好いというのは,元のスープにあの鹿児島の野菜っぽい甘味が共存した辛さなのでした。

▲剛家スープカレー

の浮気に関わらず──カウンター席が空いてました!
1151スープカレー薩摩剛家 天文館店
軟骨と野菜 7辛400
 本来の北海道式ではないんだけどT字路ここが唯一なのは,カレーをクッパにして食べれることです。

▲薩摩的こぼれ話とよもぎもち

ごなしに,何となく,すぐそばの天文館丸善に入ってみました。知らなかったけど,ここの地下には郷土系の古本コーナーがかなり充実してました。
 その勢いで嗅ぎ当てたんだと思う。五代夏夫「薩摩的こぼれ話」(平6,丸山文芸図書)という,西郷どんが表紙のかなりくたびれた本だったのですけど──「薩摩の密貿易者」という章がありました。やや長文になるけど,語り口もあって写しておきたくなりました。

三十三反薩摩ばい船に黒糖六十万斤

薩摩の風土の一つの特徴は、なんといっても”海の島”の国であろう。その上、日本本土の最南端という地理的な関係もあって、早くから南の玄関ロとして、外国との接触に恵まれたところでもあった。もちろん春秋の季節風や黒潮の流れに頼る帆賂時代は、それなりに難破や漂流の遭難も多かったが、この風力や潮流こそ、薩摩が国内外の貿易で莫大な利益をあげた最大の恩恵だったのである。
 たとえば明国との貿易で大量の硫黄の輸出によって得たたいへんな利金が、のちの九州制覇の資金となったり、さらには幕末維新で薩摩が主役として大活躍できた財源の多くも、沖縄を基地として行った密貿易にあったことは、よく知られている。したがって薩摩領内の港や浦浜には、この地の利を生かした大小無数の「抜荷」、つまり密貿易を行う専門の密貿易者がいた。
[前掲五代]

──ここまでは,よく知られている一般論です。でもワシがしたいのは「薩摩,密輸してたんじゃね?」的な裏話じゃなく,現実に誰がどう動かした経済があったのか,というドライな話です。
 それが続く文章の中にかなり描かれていたのです。

なかでも有名なのが「全国長者鑑」の筆頭に挙げられた指宿の浜崎太平次の一家である。そのほか高山波見浦の重、串良柏原浦の田辺泰蔵、 阿久根の丹宗、阿南、志布志の中山なども、その一人だった。
 だから坊津や山川、志布志などでは唐人町、千軒町という町なみや遊女屋さえできる盛況さだった。そのころの沖縄下りのばい船(薩摩船)は、三十三反から三十五反の帆で、奄美は二十反から二十二反で、帆柱も二人で抱き回しできないほど大きいもの一本で、舳に矢帆があった。舵も強大なもので、強風には船全体が震動した。しかし大阪の港でも、薩摩船は他国の船にくらべて大きいのでよく目立っていた。三十三反のものは黒糖五十万斤から六十万斤の積載も可能で、北は函館、新潟、大阪、南は奄美、沖縄、台湾などに航海した。
[前掲五代]

ばい船 おいとせん 黒樽 島妻

 ここに「ばい船」という言葉が出てきます。五代は「薩摩船」と同義としていますけど,近年「北前船」の別称として使われることも多くなりました。
*ミツカン 水の文化センター・ミツカングループウェブサイト/機関誌『水の文化』9号
北前船から北洋漁業へ
北前船から北洋漁業へ
〜 富山『バイ船文化研究会』が見た大日本海時代 〜
URL:https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no09/02.html

 いわゆる廻船が運送業専業なのに対し,船主が自己の資本で低価格の商品を買入れ,別の土地へ運送して高価格で売る船を呼ぶ呼称てす。つまり
廻船∶運賃積経営≒輸送業
ばい船∶買積(かいづみ)経営≒行商
 ただ船体としても差別化されていて,日本海側の呼称としては,17世紀までの旧式を北国船・ハガセ船と呼ぶのに対し,西から入ってきた弁財船を呼んでいます。当初は塩飽大工の造った船から始まったとされる。
*出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典/売船 ばいせん
 経営形式としては,現在の行商,つまり古い沖ウロや「いさばや」の発展です。

m17f4m第十七波濤声m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m熊本唐人通→牛深(結)withCOVID/熊本県012-4唐人通→牛深\天草\熊本県


/[ワード③バイセン]半漁半商から半交易半物流への流れ

 よく、おいとせんといって、お上(薩摩藩)の内容不明の品物を船積みして米俵でかくし、内密裡に沖縄におろすことはたびたびであった。奄美通いの船は藩の黒糖の船積みが仕事だったが、お上がお上なら船乗りも船乗りである。船乗りの砂糖の取引はご法度だったが、お構いなく、島役人や山川詰めの藩の役人の目をかすめて、それこそ腕次第、内密な取引は盛んに行われたのである。
 鹿児島から綿、米、茶、反物、陶器など島民の生活必需品を仕入れて下り、上り船にお上の黒糖とは別口に黒樽といって船員取引の黒糖を積み、ひそかに売却していた。そして奄美通いの船員には、たいてい島妻がいた。つまり現地妻である。この島妻がいないと商売ができないので、ほとんどが女を囲っていた。船は二、三ヵ月も停泊したので、その間女たちは仕入れの雑貨をさばき、代金は黒糖で代替させていたのである。島のおっかた(妻)の主人への取りなしはよく、妻の親戚縁者が集まって毎晩のように酒宴が続く有様だったという。
[前掲五代]

「おいとせん」「黒樽」「島妻」はググってもほとんどヒットがない。当時の私交易用語らしい。
 島妻が,単なる現地妻ではなく南西諸島での商売を仕切っていたとすれば,内々には残っていてもおかしくない言葉です。
 さて,五代の記述の真骨頂はここからです。

十島村中之島で深夜の密議

 ところで明治十年、ちょうど西南戦争が勃発したとき、ばい船で沖永良部に下った久永久次郎という、山川出身の船乗りの記録があるのでのぞいてみよう。久永は島民の仕入れ品のため山川から鹿児島に出てきたが、街はワラジばきの兵隊でひしめき、店という店は戸を閉めていたので買物も出来ないまま島へ下った。沖永良部では黒糖を積み、日和もいいので鹿児島へ向けて出港したが、その航行中、風の向きが急変したので、ニヨンという名で知られる瀬に船を寄せたが、それが悪く、ドーンという音とともに船を三つに割ってしまう海難事故である。船員十五、六人が二つの伝馬船に乗って脱出したものの、荒れる波にすぐ水船となって縁をつかんだまましゃがみ、三日三晩飲まず食わず流されて、四日目の夜明け、幸いにも十島村の中之島に漂着した。そこへ村の人が集まってきて、一人一人を二人の肩にすがらせ、村の救護所につれてゆかれて、やっと助かったという気がした。
 その中之島で、島の貧しさもあって十五、六人が日に一升の米と里イモ、さらに山のツワブキを食べさせられ、野菜も味噌もない、醤油ガラのようなものを食べて、遭難者たちはつましい食生活を強いられて過ごした。役場に押しかけて早く鹿児島に帰してくれといっても、便もなく三月にならぬと本土へは渡されぬというのである。
[前掲五代]

 五代の話はやや物騒になってきます。交易者が海賊に転ずる瞬間を,こうも,とつとつと書かれるとリアルです。

 当時、島には十八世帯の島民が住んでいた。そこで、久永たちは深夜密議したのである。自分たちを救助してくれた島民ではあるが、こう島に滞留されるからには、いっそ島民を襲撃して大人も子どもも皆殺しにし、島に一艘ある大型の船を略奪して鹿児島に逃亡しようという、恐ろしい計画を建てた。その際、島の人はみな平家の落人の子孫で、由緒ある鎧カブトや刀などの貴重品ももっているので、それを奪い取り金儲けもしようと話し合ったという。しかし、幸いこの計画は実行されずに終わったのである。[前掲五代]

*五代が巻末に挙げた参考文献によると、元本と推定されるものは岩倉市郎編「薩州山川ばい船聞書」(アチックミューゼアム, 1938)

幕吏とともに七島灘に沈む

日,大変消化不足ながら彼らの出身地・山川にも足は運んでますけど──ここの男たちの気風はなかなか任侠だったらしい。

m17dm第十七波余波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m山川withCOVID/鹿児島県


 薩摩の海民にとって江戸時代って何だったんだろう。彼らは長い戦国を闘い続けてきたのかもしれません。

 この久永の同僚や先輩の船頭は、かって幕府から密貿易の査察に派遣された幕吏数名が船に乗りこむと、船頭はひそかに船底に大穴をあけ、七島灘の荒い海に船もろともに沈没させて、難破と見せかけ幕吏が調査した密貿易の実態を、死をもって食いとめていたという人たちである。藩ではそうした船頭をよみして、苗字帯刀を許し士分に取り立てていたとも言われている。
 しかし中之島の船乗りの天道も許さぬ恐ろしい考えは、ちょうど西南戦争のころとはいえ、当時、幕末の激動をかいくぐってきた密貿易者一般の心理だったのかもしれない。
[前掲五代]

時の段階でもこんな印象を書き残してます。
「島津家の強さの印象は覆った。この勢力の源泉は経済力だったと見る。戦国島津は『突然』強大になったのではなく伊作島津家が主筋になったからで,伊作家は大航海時代の対中国貿易で強大になった。だからこの勢力は,長期経済戦の発想を戦国末期から基本戦略として持ち続けたし,持ち続けることができた。」
 その巨大な状況証拠から逆算すれば,直接の材料を持たなかった当時にも,この旅行の「失敗」要因は予想できました。
「おそらく妈祖やひょっとしたら薩摩塔というのは基本,隠されてる。ほとんどが密貿易の傍証になってしまうからです。もっと相当数存在してると思われる。例えば片浦の「焼失」した妈祖像というのはおそらくどこかの蔵奥に眠ってる。」
 もっとも結論部分は,今現在は少し違います。帰化した中国人も含めて,彼らは,容赦無くそうした証拠を破棄し,焼いたと思います。
──という辺りで,そろそろ当時の最終日の記録に戻ります。

▲トゥワベールの木の実

253トゥワベール
木の実150
 変わらない美味です。
 初回からコレだけは齧らずにはおれません。
 胡桃に絡む蜜がなぜここまで旨いものやら。

こんなにも潜伏期間の長い旅

▲ボサド通りの碑

サド通り」も一応,歩いてみた。と言っても通りの碑が残るだけ,通りの位置はギリギリ分かるけれど完全に再開発されてて天妃堂の位置は全く歯がたちません。戦時の爆撃もあったらしい。

ボサド通り付近は何となく周囲の街区よりブロックや筆のドットが小さい。

の碑とバス停,その他の名称の他は,船津町一丁目辺りにやや不自然な筆の曲がりや段差が多くて古そうな気配がある……というほどしか観察できる点はありません。

▲「ボサド」バス停とレジデンス・ボサド

,後は薬師温泉に浸かってから鹿児島を後にしました。
 新幹線の車窓から,鹿児島市から川内辺りまで景色を眺める。この山とトンネルばかりの景色からは,とても加世田別府はおろか伊集院すら望めない。
 行かなければ分からない場所でした。
「収穫があったようななかったような妙な手応え」とメモしてます。でもこれが,ジワジワと後々の根っこになる。こんな潜伏期間の長い旅行は初めてでした。
 その初期症状が,この鹿児島の直後の沖縄・台湾媽祖詣でだったのです。

▲薬師温泉路上から桜島

■資料:薩摩塔に関する議論

薩摩塔とは、写真1(引用者注→本文画像参照)のような石塔を言う。上から相輪部(写真の例では欠けている)、屋根部(笠)、本尊を収める塔身部(仏龕)、須弥壇部の四つの部分からなり、須弥壇上部には高欄、下部に四天王が彫られている。同時代の日本の石造物とは意匠が大きく異なる。薩摩塔という命名は、最初この種の石造物が鹿児島県(旧薩摩国)で見つかったことによるものであり、1961年に斎藤彦松氏が初めて使用したとされている。[前掲柳原2013]

 このように,薩摩塔は研究者が見れば分かるのでしょうけど,我々が見ても一瞥で判別出来るようなものでは,どうもないようです。

 制作年代と制作地・制作地については、鹿児島グループ、井形氏ともに12~14世紀前半を中心とした時代の中国(宋・元代)で製作され、日本に舶載されたとしている。ただし鹿児島グループは、浙江省麗水市の霊鷲寺石塔を原型の一例であるとし、制作地も浙江省に絞り込めるとする。
 一方、井形氏は、薩摩塔の原型そのものは中国で未発見とし、浙江省が制作の中心地であることを認めつつも、福建省なども候補となり得るとする。また、薩摩塔の性格(造立趣旨)については、鹿児島グループが霊鷲寺石塔からの類推で供養塔とし、井形氏は神仙思想に裏付けられた中国海商の宗教施設だとする。[前掲柳原2013]

 この点が問題なのですけど──これが本当に「宗教施設」だったのでしょうか。
 中国の海の神は媽祖を別にして,地方毎に無数と言ってもいい数を数えます。その何れかが何かの意義を込めた可能性は否定しにくいけれど,何れにせよ宋代のそうした信仰は跡形もない。
 逆に,この点が明らかな新史料が出てくれば事情は変わってくるのでしょうけど──

そして薩摩塔は、鹿児島県では万之瀬川流域に集中している(9基中7基)。このほか同地域では宋風獅子も2件4体確認されている。特に橋口亘氏の調査によって、薩摩塔が加世田唐坊遺称地の当房や持躰松遺跡に隣接する芝原遺跡、加世田の地頭所でも発見されていることの意味は大きい(9)。[前掲柳原2013]

 この9部分の注釈に,田中史生さんの想像した交易形態が記されています。帰路の船庫の活用策としての寄り道説です。

( 9 )橋口亘「中世前期の薩摩国南部の対外交流史をめぐる考古新資料」(『鹿児島考古』43、2013年)、橋口亘・松田朝由「南さつま市加世田小湊「当房通」の薩摩塔―万之瀬川旧河口付近「唐坊」比定地の中国系石塔―」(『南日本文化財研究』20、2013年)、橋口亘「九州南部の薩摩塔と宋風獅子」(2011~2013年度科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書『西日本における中世石造物の成立と地域的展開』〈研究代表者:市村高男〉2014年)。橋口亘氏は、薩摩塔の流入について、①中国から肥前・筑前の沿岸部を経由して薩摩へ至るルート、②中国から薩摩への直接ルート、③中国から南西諸島を経由して薩摩へ至るルートの三つを想定し、最も蓋然性が高いのが①、次が②あるいは③としている。また、薩摩半島南部に薩摩塔が多い理由を、硫黄島(現鹿児島県鹿児島郡三島村)で産出する硫黄の輸出との関係に求めている。なお、今回のシンポジウムの討論の中で田中史生氏より、中国船は博多入港とそこでの手続きについては国家的な管理を受けているが、帰路についてはそれが及ばなかったのではないかとのご指摘をいただいた。とすれば、博多で日本への輸出品の大部分を降ろした中国船が、帰路、九州西海岸を南下して薩摩にいたり、硫黄を積載してから中国に戻った、その際の寄港地が万之瀬川河口部だった、ということも考えられるということになる。[前掲柳原2013]

*その他参考資料
・高津孝&橋口亘「薩摩塔小考」
・大木公彦他「日本における薩摩塔・碇石の石材と中国寧波産石材 の岩石学的特徴に関する一考察」
・wiki/薩摩塔
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E5%A1%94

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です