m19Cm第二十二波mまれびとの寄り着くは真夜 奥武島m5冨里の拝所(ニライF68)

奥武島のパワースポット案内図
*沖縄トラベル/奥武島リピーター必見!奥武島の歴史と旅行雑誌に載らない場所
URL:https://okinawatravel.jp/oujima_powerspot

丘の上には饒舌な樹

宮神から南側は,何というか……どうということない島の集落が続きました。
 後で見つけた上記図を見ると……つまり東の御嶽から観音堂を経て西の御嶽へ伸びる高台が,島の背骨らしい。この先に竜宮神,というのは,中国的な龍の体をイメージしたような配置です。

奥武島の「沖縄X」地点

は,奥武島には「X」を見つけてました。上記の「指定した地点」の場所──龍体から離れた南側の森のような場所です。
 冒頭の地図にも載ってない。でも確かに「ヘソ」がある。
 ただここには,どう回ってみても侵入路がみつかりませんでした。何でもない場所だったのか,よほど秘された場所だったか。
 とにかくそんなこんなで1342,もう帰ろうとしたところで,ついでに見かけた西之御嶽というところに寄ってみてます。

西之御嶽
〔日本名〕沖縄県南城市玉城
〔沖縄名〕同
〔米軍名〕-

▲西之御嶽への登り道

は通行止めだったけど──物を言いそうな樹木があったので,うかうかと構わず進んでみる。
 今写真を見ても……辺りに枝を撒き散らして歌っているような樹木です。

▲立ち入り禁止の向こうの大樹

階段を登る三毛猫が止まる

の回り込んだ向こうに──西之御嶽。
「西御願」という文字もあります。
 祠もなく,ただ目印の石があるだけ。それだけの場所です。
 こうなると,ほとんどイスラム教のような祈りの場所です。
 ただ……なるほど,拝む方向が真西です。結界のような場所でしょうか?

▲西之御嶽拝所

く見ると,バイクを止めた階段下にも小さな拝所がありました。
 一体何だろう?
 岩くれの窪み直下。沖縄人の感性が神聖を見る場所には違いないけれど。
 その視界を,こちらに目もくれず,優雅に闊歩する三毛猫が一匹。こいつは,ワシが今降りてきた階段をそのまま悠然と登っていきました。
 主か?
 猫の背中から,軽く一礼してみる。刹那,猫が足を止める。けれどやはり振り返りもしない。

▲入口脇に主の猫

▼▲
前御願と海神祭の当日にまわる拝所〔なんじょうデジタルアーカイブ【地域行事の”いま”】②奥武島の海神祭 URL:https://nanjo-archive.jp/feature/1007/
ハーリー当日,船上から神人が対岸ミシラギ(伝・観音堂由来譚の唐船係留地)に捧げる拝み

王と書かれぬ王の墓

353。奥武島入口交差点を今度は直進。
県道48で大里方面へ──と?冨里(ふさと)という地名の場所に,大岩下の拝所を見る。
 思わず,引き返してバイクを止める。
 吸われるように階段を登ります。
🛵

次富加那巴志之墓
〔日本名〕沖縄県南城市玉城富里
〔沖縄名〕同
〔米軍名〕-

▲並ぶ墓群

璧です。全然訳のわからない場所でした。
 階段上に拝所三区画。右から「尚泰久王 長男 安次富加那巴志之墓」「第一尚氏王統 六代 尚泰久王之墓」,一番左は記名なし。
 なのに,どれも線香がある。今も墓守がおられるのです。
 凄いのは説明書き。正史を前提にすると,全く意味が分からない。

 尚泰久の墓は,首里の天山陵に葬られていました(ママ)が,第二尚氏の成立により,ここから読谷山間切伊良皆に移されたといいます。
 尚泰久の骨だけは,ここから美里間切伊波村にかくして,誰にも知られないように安置されていました。

うるまから神座原(うふぎしもー)へ二日間

▲奥への道

治41(1910)年頃,字當山の屋良腹門中の子孫が骨の入った大きな石棺を伊波村から二日がかりで運び,現在の神座原(ウフギシモー)にあった尚泰久の長男である安次富加那巴志の墓の隣に移葬しました。(南城市教委)

 裏には,その屋良門中の墓がありました。どういう人たちなんでしょう。平家の落武者村のようなもの……と想像できなくもないけれど──。
 第二尚氏初代・尚円王即位は1469(成化6)年です。1910年まで450年近く経っているのです。第二尚氏王朝が絶えた1879(光緒5年)からですら30年も待って,美里からここまで石棺を運んだ?
「安次」は按司でしょうか。役職すら名乗らせてくれないほど,第一尚氏の末路は秘さねばならない何かがあったのでしょうか?

8月15日の結界

模様を見て,この當山集落から北行しました。
 不覚にも折角訪れた當山集落の中は歩いていません。
 他の旅行者の記事を見ると,ここの情報は当面,玉城村誌に詳しいらしい。1635年編纂の「琉球国高究帳」に集落名が書かれるから,少なくとも17C初めには存在した集落です。次の表は史跡と祭祀のクロス表ですけど,数が多いとともに信仰上生きてる場所ばかりです。

當山集落の(縦)拝所等✕(横)祭礼日クロス表

一尚氏に関係する史跡が多過ぎる。蔡温著作の正史「蔡温本世譜」では志魯と相討ちで果てたとされる布里の,墓がこの集落にあるのです。
 墓の調査の際に,甕の蓋に「天順八年(=1464年)五十八歳」なる文字が見つかったという。また,集落の伝承には,尚泰久と不仲の一族*が次々とここへ移り住んだとされます。先に見た安次富加那巴志もその一人,という話になってます。
*長男・安次富加那巴志の他,次男・三津葉多武喜,四男・八幡加那志の名が挙がっている。
北の石獅子画像(位置∶上江洲之殿(イーシヌトゥン)の丘の斜面。旧集落北東端に当る)

 なお,集落の東西南北に4つの石獅子がある。南と西の2つが西方へ,残る北と東のが南方へ向いている。前者は2つ前の章で想定した久米島の火山への火返しが想像できるけれど,後者は奥武島です。第一尚氏末裔の一門からすると,新来の異人,といった人々が奥武島にいて,対立あるいは警戒したとも読み取れます。
 石獅子は8月15日の「シーシヌ御願」という行事の際,4基とも拝まれる。まるで集落に結界を張るような行為です。
*Kazu Bike Journey/Okinawa 沖縄 #2 Day 118 (19/07/21) 旧玉城村 (9) Tohyama Hamlet 當山集落
URL:https://kazusaeki.amebaownd.com/posts/18436177/
(同著者が参考資料として挙げるもの)
南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)
玉城村誌 (1977 玉城村役場)
琉球王国の真実 : 琉球三山戦国時代の謎を解く (2016 伊敷賢)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

「ピーギュウねー」

もこの日は沖縄(往路)最終日。他への欲がまだありまして──大里へと北上してます。時間は1419,うまくすればもう一食イケる!
 1431,通過した交差点は「稲嶺」?……やっぱり外れてる!稲嶺を北東でまんぷくです!77号に乗り換えてさらに走ったんですけど──ああっ,まんぷく定休日!ついでに年末年始のお知らせもなし!
🛵
が……いよいよ怪しいぞ。
 1445,上与那原の交差点から右折,那覇方面へ。
 1501,古波蔵で右折──ああっしまった!島ちゃんまでもが閉まっとる!今日はハズレの日なのかあ!ついでに珈琲「にーちぇ」まで閉まっとるぞ?
 ええい,かくなる上は最後のカード──というか既にこのカード出すのはパターンだけど,沖縄大学へと登る。このお店には,ほとんど裏切られた記憶がありません。

▲やんばる食堂で飯

524 やんばる食堂
ピーマン牛肉焼き550
「ちゃんぽん」と「ナスおかず」「中味いりちゃー」にも迷ったけどこの辺りは試す価値がある。おっ──おばちゃんの厨房への声も「ピーギュウねー」と結構こなれてるぞ。

沖縄にこういう味を食べに来る


白い。
 焼き料理なのに,汁が深い。すき焼き風だけど,味くーたー(濃い味)でドス辛い。和食とも中華とも微妙にズレてるのです。
 沖縄には,こういう味を食べに来る。
 国際通りにも顔を出す。ドンキ5階に一時預かり保育が出来てました。「そらまち」という名前でした。
 さて……まだ少し時間があります。

道森公園
〔日本名〕沖縄県那覇市大道10−4 (戦時)独立混成第15連隊第三大隊守備地域
〔沖縄名〕同
〔米軍名〕Half Moon(ハーフムーン,陸軍側資料では「クレセントヒル」とも)の一部と推定

▲大道森公園最高所から西北東横イン方向

上写真の撮影方向

725。夕暮れ近い大道森公園。
 入口にバイクを停め,最高所まで上がる。西北東横イン方向を撮影(上写真)。──中央の何本かの高層ビルがおもろまち。左端のタンクがシュガーローフになります。

公園の柵の向こうの暗い森

(上)沖縄戦時の米軍名称地図(青矢印は前掲写真の方向)
(中)おもろまちから見たシュガーローフ,ハーフムーン,首里城(方向はほぼ前掲青矢印と逆)
(下)1983年撮影のおもろまち航空写真。返還前の米軍住宅地時代,おもろまち開発前。シュガーローフ,ハーフムーンとも戦時の形状を残した状態

の位置だと思うんだけど──少しシュガーローフから遠すぎるように感じます。おもろまち東側の開発か,公園を作る時にハーフムーン北側のほとんどを削っているのだと思われます。
 現在地は,旧ハーフムーンの月形の,ほぼ南端部ではないでしょうか。

▲大道公園マップ

高所の東背後は,金網で仕切られています。沖縄戦以来,無主地のままの土地なのでしょうか。
 金網の向こうを,かなりまじまじと観察してみたけれど……木々が茂り暗い。でもただの森ではない。色々と構造物が転がっているのは見えるんだけれど,暗い。全然識別できません。実は写真も撮ってみたけれど,暗くて何のことやら分からない画像しか得れませんてした。

▲最高所の柵の向こう

砂糖の丘 半月 馬蹄

縄戦で,日本軍は現・おもろまち付近に「安里北側52高地」陣地を構築します。米軍はこの難所を,北側手前のホースシュー,南側奥のシュガーローフ,そして東側,つまりシュガーローフ側面のハーフムーンの3点と見,ハーフムーンをまず獲ってシュガーローフを側面攻撃しようとします。
 ただ,日本軍はこれらの点を火線と洞窟陣地で連携させており,一点を抜いても残る一点から即座に逆襲し,戦線を容易に崩壊させなかった。
 例えば,5月17日の天明にはハーフムーンの独立混成第15連隊第1大隊が,シュガーローフを確保した米軍を急襲して退却させるに至っています。以下はその日の米軍記録。

米陸軍記述による5月17日の海兵隊攻撃状況
 5月17日の攻撃では「シュガーローフ」を東側から攻撃するという計画が策定された。第29海兵連隊第1大隊及び第3大隊は「クレセントヒル」を攻撃、それを占領した後に「シュガーローフ」を攻撃する第2大隊に対して掩護するというものであった。攻撃に先だってあらゆる砲弾を撃ち込んだ。0830第1大隊及び第3大隊の主力が「クレセントヒル」の西側から攻撃を開始した。歩兵と戦車の協同チームは砲兵に支援されながら日本軍の強力な拠点を潰していった。しかし「シュガーローフ」の東側を掩護する態勢が未完のまま、第2大隊E中隊は鍵となる地形である「シュガーローフ」の東側から攻撃を開始した。
*沖縄戦史/シュガーローフの戦闘
URL:https://web.archive.org/web/20171120105909/http://www.okinawa-senshi.com/sugarloaf-n.htm

軍側から見ると,ハーフムーン(クレセントヒル)を陥落させた直後に,そこからの支援を受けながら北側からシュガーローフを攻撃させなければならないわけで,そのタイミングが少しズレると,この日のように日本軍の連携の方が勝ってしまうという非常に困難な戦場だったわけです。

「クレセントヒル」の攻撃がまだ途上であるにもかかわらず、第2大隊は「シュガーローフ」に進撃を開始したのだ。当初の攻撃は鉄道の切通しから広く展開包囲を企図したが、これは左からの日本軍の射撃によって失敗した。次に側面から近接して接近しようとしたが、これは東側の急斜面によって進出できなかった。そこでE中隊の2個小隊は「シュガーローフ」の北東斜面から進出して頂上を確保しようとしたが、稜線にたどり着くと同時にその場所から後退した日本兵から激しい銃撃を受けた。F中隊の1個小隊が稜線伝いに西に走り抜けようとしたが、小隊長が戦死したため激しい敵迫撃砲射撃下に撤退せざるを得なくなった。E中隊は3度頂上の占領を目論んだ。2度は近接手榴弾戦によって撃退された。3度目にようやく日本軍を駆逐したが、この時にはすでに弾薬が尽きる寸前であった。この日160名の死傷者を出したこの場所から中隊はやむなく撤退を決意した。

今ここで沖縄が創造しつつある

🚈🚈
里の先に,新しく出来た4つの駅は①石嶺,②経塚,③浦添前田,④てだこ浦西でした。
 ゆいレールで小禄へ向かってみる。
2000パティスリーアプリコット*
かなぐすくロール250
 ネットでさくっと当たって見つけたとこに立ち寄っただけなんだけど,雰囲気からして期待できたので購入。
*公式HP/http://www.abricot.biz/
(小禄店は,この後2022年までの間に閉店したらしい。真嘉比店と津嘉山店は営業中)

 生地がふわふわ?クリームがとろとろ?いや──そういう飛び抜けた劇的なものはない。
 生地はしっかりパンケーキのような歯ごたえと,「パンらしさ」が残ってる。クリームも極めて淡白で甘味も控えめ。
 これが全体としてとびきりのまとまりを見せてる。良い意味で普通に食べれるんである。
 この小禄という土地柄も偏見にはなっていようけれど──沖縄スイーツ独特のアメリカンな大味の甘ったるさ,それとは一線を画してる。画しつつ,けれど内地の神経質な繊細さとも異なり,おおらかな奔放さのある造りです。
 ……今の沖縄って,こんな創造をしつつあるんだ。
 そういった,漠然とした感動を感じさせる店を見つけてしまった,往路沖縄最終日だったのでした。

▲アプリコットの兼城ロール

■メモ:第一尚氏の何が分からないのか?

 まず,本文中に書いた諸点を正確なものに正しておきます。
【安次富】沖縄の「安次富」姓は約1,300人。ただし,「安次富加那巴志」の読みは「あしと かなはし」[南城市教育委員会案内板]。沖縄姓は「あしとみ」「あじとみ」と読むのが大半[苗字由来net]で,「あしと」読みの例はない。
【屋良腹】「腹」は「門中」と同義の沖縄語。よって,加那巴志の子孫が「屋良家」である,という趣旨になる。
*ハイホーの沖縄散歩/尚泰久王の墓
URL:http://sanpo.ifdef.jp/nanbu/taikyu.html

【美里間切伊波村】うるま市石川と推定。在地中は「クンチャー墓」(乞食墓の意)と呼ばれた。
*沖縄放浪/日記南城市玉城にある第一尚氏王統第六代尚泰久王の墓と尚布里王子の墓☆
URL:https://oki-night.blogspot.com/2017/06/blog-post_13.html?m=1*前掲ハイホー

【分骨】「前王統抹殺の過程にあって第一尚氏王統は、遺骨の破壊と消失の危険を危惧し消滅を恐れて、何度か分骨を行ったことはすでに色々な文献で確認されています。」
*琉球沖縄を学びながら、いろいろ考えていきたいな~/琉球國建国の一族、第1尚氏王統の墓 (以下「学びながら」と略)
URL:https://www.google.com/amp/s/totoro820.ti-da.net/a10345081.html

 その上での疑問なのですけど──何でこんなに争ってるんでしょうか?

安次富加那巴志之墓の案内板内の第一尚氏家系図

確認∶第一尚氏は朝貢用の神輿

 第一尚氏という王統の本質は,六代目を巡る尚志魯vs尚布里の争い(志魯・布里の乱∶志魯・布里が争いいずれも戦死,彼らの弟・泰久が王位につく。詳細は同名wiki参照)からある程度推測できます。
 この「乱」の事実は,次の3点から実証されている。

1)乱による首里城焼失の痕跡が,正殿跡の発掘調査から確認
2)中国側史料「明実録」にも記述有。乱後に琉球使者が首里城焼失の経緯を説明したもの。
3)乱後の首里城再建が「李朝実録」に記録。朝鮮漂流民が目撃・報告したもの。*

「兄弟喧嘩」自体の記録というより,中国使節の来庁時に首里城の破壊が見られてしまうから,そのために説明ストーリーを作り,それが史実として伝わってしまった,という風に見えます。
 朝貢の体を取るために,「琉球王は(今は)遺漏なく沖縄を統治してます」という事実だけは崩してはならない。なので必死に,実態は内紛まみれの王朝とその歴史を,文章力の限りを尽くして取り繕い続けたパッチワークの集大成が,少なくとも第一尚氏までの正史の本質だと考えられます。
 前期倭寇(の穏健派)が対中国貿易用に創造した神輿。まず商業目的があり,後から象徴又はツールを造った。──とそこまでは想像できるのです。でも,それならなぜこんなに本気で争っているのか?

[異説]1453年に首里城は焼けたか?

 志魯・布里の乱の実証性自体に疑念を持つ説も存在します。
 上記2)明実録記事の主旨は,乱による首里城焼失で明から賜った鍍金銀印が溶けてしまった,よって再発行を願いたい,というもの。
 同3)漂流朝鮮人の首里城訪問は1456年と推定され,乱から3年しか経ていない。当時そんな短期間で首里城再建が成ったろうか?──という疑いから,そもそも2)の明印喪失が火事によるものでなく,例えば次代の泰久から志魯・布里が袂を分かった際に強奪した,などの事実を誤魔化す方便だったとする説です[前掲kazu]。
この場合,極端に言えば乱自体が起こっておらず,1)首里城の焼跡は例えば単なる失火によるもので,志魯・布里が単に追放されたなどの可能性もあるわけです。
 珍説に見えるこの説には,もう一つ強みがあります。志魯・布里の乱は琉球歴史書上は蔡温本世譜 (1725年)が初出です。けれど同じ第二尚氏代の中山世譜(1701年)には,志魯・布里の名前も乱の事実もない。明実録を読み込んだ天才・蔡温が,整合性のある記述を後から創造して前代王朝に傷を増やした,ということはあり得る話です。
 確かに……戦乱の事実を指で隠してみた場合,後継者を争った両皇弟がどちらも首里を追われ,第三の皇弟・泰久が利を得た,というのは,勝者の泰久による陰謀の匂いが強くなります。本当に両皇弟が戦乱の主謀者なら,前記のように當山の布里の子孫を頼って首里離脱者が流れつくほど,當山の王家末裔が信用されるものでしょうか?

第一尚氏7代の在位一覧

第一尚氏の徹底的根絶

 第一尚氏63年七代。単純には一代当たり9年ですけど,実質の三山統一者・二代尚巴志が34年続いたと見るなら,三代以降は平均6年弱。行政機構の整った現在の政治家の改選期間並みで,権力集中型の政治機構がまともに動いたはずがない。
 継続的な統治機構は第二尚氏代に久米村の知識層が介入するまで,沖縄には存在しなかった。第一尚氏代までは,一代限りの強者が勢力圏を築く歴史が繰り返されてきたと考えるのが合理的です。少なくとも沖縄本島中部以南については。(旧北山については継続的な政体・社会が存在した可能性がある。下記参照)

 だから,第一尚氏が内紛まみれだったことは理解できます。分からないのは,第二尚氏が第一系をそこまで執拗に滅ぼしたのか,という点です。

第一尚氏歴代王の墓地の漂流

 第一尚氏の七王の墓は,元々天山陵(現・首里池端町)にあったのを,第二尚氏の焼き討ちを察知して各所に分散させたといいます[前掲ハイホー]。七代それぞれの移動は次のようになります。

①尚思紹(苗代大親 なーしるうふやー)王の墓
天山稜(首里池端)→(?)→佐敷ようどれ(南城市)→佐敷ようどれ(南城市/航空自衛隊知念分屯基地内(略))[前掲学びながら。以下同]
②尚巴志王の墓
天山稜(首里池端)→末吉村の山林→シリン川原(シレン河原/浦添間切城間村)→伊良皆村(読谷山間切喜納)→佐敷森(読谷村伊良皆)
③尚忠王の墓
天山稜(首里池端)→末吉村の山林→シリン川原(シレン河原/浦添間切城間村)→伊良皆村(読谷山間切喜納)→佐敷森(読谷村伊良皆)
④尚思達王の墓
天山稜(首里池端)→末吉村の山林→シリン川原(シレン河原/浦添間切城間村)→伊良皆村(読谷山間切喜納)→佐敷森(読谷村伊良皆)
⑤尚金福王の墓
天山稜(首里池端)→末吉村の山林→シリン川原(シレン河原/キャンプキンザー内/浦添間切城間村に遙拝所) ※王の墓とも遙拝所ともされるものが→上間(那覇市/仲井間小学校の、前の道を挟んで向かい側)
⑥尚泰久王の墓
天山稜(首里池端)→末吉村の山林→シリン川原(シレン河原/浦添間切城間村)→伊良皆村(読谷山間切喜納)→伊波村濱南(美里間切伊波村※乳母の出身地)→玉城(南城市冨里/1908年(明治41年)に第一尚氏ゆかりの子孫によりこの地へ。うるま市曙集落の崖下に、尚泰久の墓であるのを隠すため「クンチャー墓(乞食墓)」と呼んで長い間、隠されてきた
⑦尚徳王の墓
天山稜(首里池端)→(?)→カネマン墓(金満/那覇市識名/安謝名家の墓=尚徳王御陵跡)

 これだけの密かな,しかし長期間の移動が行われたのは,第二尚氏が執拗に「いなかった」ことにしようとした,というのが自然な発想です。これらの移動に携わった,例えば玉城の屋良一門のような人々にも同等の抑圧がなされたことは想像に難くない。

滅んだ王朝の王が朝貢するというナンセンス

 けれども,第二尚氏が新王朝ではなくあくまで「尚」を,出自からすれば無理矢理に名乗ったのは,中国への朝貢利権を継承したかったからでしょう。だから,正史上でも第一尚氏は書き留めなければならなかった。つまり,抹消してはならない存在だったはずです。
 中国使節に対しては,天山陵の王墓群が消えることも危険なこと(=中国の朝貢王統を滅ぼした「敵」と見なされること)だったのではないでしょうか?
 首里に「嘘」の第一尚氏墓群が作られた,という形跡もない。

第一尚氏「八代」中和による朝貢

 ちなみに,第二尚氏として金丸が尚円王に即位した後に,第一尚氏七代尚徳王名の朝貢が明に行われています。

尚徳王の後を、第2王子の中和が継ぎ、中和王は父の名で朝鮮に遣使し、明へも朝貢使節を送った。父の名を用いた理由だが、国王の死去後はその国王の名で朝貢し、一年余り経って喪もが明けてから、明に死去を報告し、請封するのが慣例であったため。王の在位が一つも重ならないのはこのため。ところが請封前に、金丸によるクーデターが起こってまるまる国を乗っ取られてしまった。対外的に明から王と認められる前にクーデターが起こったわけで、国内では既に王として政務をつかさどっているのであり、中和王を最後の王とする説は、もっともだと考える(高瀬恭子「第一尚氏最後の王『中和』」)[前掲学びながら]

 日本内地での政治史的に捉えると,こんなことは絶対にありえない。総理大臣が新任された後に,前総理が公式な外交活動を行うようなものです。
 でもそれが,琉球の経済史にはあり得た。──朝貢に付随した海人集団にとっては,朝貢の神輿があれば,それが誰でもかまわなかった。同じように,神輿同士がどう争い,血で血を洗おうと,持ち出せる神輿を持ち出せれば本質的には関係なかった。また,新王朝の祖王・金丸ですら,そういう海人たちの政治劇を公然と無視した経済活動を止めることはできなかった。──とそういうことになるのでしょうか?
 だからこそ王族たちは,好きに争闘に興じていたのかもしれません。
 ただ,その一方で,その王たちへの忠節を,簒奪王朝たる第二尚王権が滅んだ後にまで守り,うるま市から玉城まで密かに石棺を運ぶような暴挙をやってのける集団が存続していた。──この辺の,沖縄的なものと別の沖縄的なものの交錯が,何とも不思議な情景なのです。

 なお,不条理な朝貢を行った中和王は,金丸の尚円王即位後のどこかで殺害されたとされます。この「王」の墓は,どこにあるのか分かりませんでした。
 事の経緯からして,同じく類縁の一族が墓を守っているのでしょう。他の王よりもっと極秘に,ほとんど秘密結社のように。

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  1. Thank you for your sharing. I am worried that I lack creative ideas. It is your article that makes me full of hope. Thank you. But, I have a question, can you help me?

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