m19Cm第二十二波mまれびとの寄り着くは真夜 奥武島m3奥武島観音(ニライF68)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

目録

奥武なのにがっちりした集落

🛵
ーソンで再びエンジンをかけ奥武島に向かったのは11時過ぎ。
 雄樋大橋を今度は東へ渡る。南城市に入りました。
 ここから奥武島への近道を採ろうとして,繰り返ししくじる。まず大橋東口の左手湾曲すぐの十字路を右折。南城眼科東を海側へ。通れない。戻る。
 もう一つ東の道へ右折。バス停・堀川入口がある。左折して畑の道。右折,左折。もう一本南の道へ。これがバス道,ならば大丈夫のはず……と思いきや?行き止まり表示?
 そこを大きく迂回して,後は無茶苦茶に折れながら進む……とバス道に出た。

(上∶南城市)奥武島と(下∶久米島)奥武島

ったから負け惜しみだけど──洞窟葬送の仄暗い灯り「青」を指す*と言われる奥武は,海岸沖の埋葬用小島を指す沖縄民俗上の半・普通名詞らしい。那覇市のゆいレール駅のある奥武山(旧くは伝染病者隔離用の島)の他,本島では名護市,離島では慶良間の座間味村と久米島にあります。
*谷川健一「日本の神々」岩波書店,1999年
 無人ではない久米島の奥武島は,久米本島の東に2つも連なる(上記下図)。ただ,やはり集落としては薄い。
 南城市奥武島も,同じく元は生者のための島ではないはずです。橋が出来るまで,陸路の道はこの島のためには存在しなかったはずで,抜け道(古道)を探すのは愚かでした。
 同時に気付くのは──この奥武島だけが,なぜこれほど集落をがっちりと形跡しているのか,という点です。しかも,この時に迷い込んだ志堅原集落は,おそらく奥武島から溢れた人口で造られた位置です。
 人の集うはずのない民俗的時空に,大掛かりな集落が出来ている。
 島北側の南北道に出てT字を右折南行。もずくそば「くんなとぅ」。──「来んな」?でももう見えてしまったぞ,奥武島!

▲奥武島への橋

を渡って直進。
 この橋がなければ,一種要塞じみた体の島です。
 結構観光地らしい。路地へ入って勘で進むと──あっさり着いてしまいました,仮目標・奥武島観音堂。

奥武島にも唐船が難破漂着しました

▲観音堂本殿正面

応,媽祖が化けることのある観音というのに着目はしてたけど,ホントに集落中心の目安に過ぎませんでした。
 広場のある宮です。参道に揺れている提灯には奥武島青年会の文字。

▲由来記

由来(→後掲デジタル)によると,唐の船御嶽と同様,ここも唐船の難破地とされています。違うのは,帰国した乗組員が中国から観音像を,琉球王朝を通じて贈ったという点。その所以は,島への上陸時に現れた白衣の美女,とある。
 この観音は,贈った側からすればまず間違いなく──妈祖でしょう。

でもとても日本的な観音様

▲1151観音堂建物

▲「観音像」

見れば,この神は,沖縄本島で唯一の今現在も地元のマジョリティに拝まれている媽祖です。
 左右の従神(千里眼と順風耳)はなく一体。──ただこれは観音として祀られる際の常道です。
 扁額は「普濟」。対聯は右「南海蓮花満部洲」,左「徳本慈悲被皆化」。──ここにも残念ながら媽祖信仰らしい用字はありません。

▲観音像配置

壇には鏡,鏡餅,焼香炉と極めて日本的な祭具が並びます。──謂れを信じるなら,神像が鎮座したのは中国漂流者たちの帰国後なのだから,祭事は沖縄人が営んできたわけで,当然と言えば当然です。
 むしろウチナンチュらしいと言えば──

▲右手社の四つの石

右手の別の社には四柱の石。右から「西ヌ御嶽」「中ヌ御嶽」「東ヌ御嶽」「龍宮神」。
「殿」(とぅん)らしい。「重要拝所」と案内板にある。──これらはこの後その一部を訪れましたけど,島の各所の霊場ですから,つまり四柱は奥武島の霊的マップ,あるいは呪力防衛センターのようなものでしょう。
 これと並んで祀られる「観音」は,単なる仏教神とはちょっと考えにくい。

前御願(ハーリー前日)の朝,区長・神人・海頭らが観音堂に集まり,拝みをした後に殿に移動して再び四ツ石を拝む(2022年6月1日)。

▲1142社脇の民家,背景に海

英祖王統の墓がなぜここに?

のさらに右手に「タカラ城」という矢印。行くと岩場。グスクとして使われていた霊場でしょうか。そうならば,ここは現実の軍事力のコアでもあったかもしれません。1143。

▲「タカラ城」の藪

の僅かに手前に「玉城按司兼松金(かにまちがに)の墓」と案内板に書かれる場所。
 敗走してここに隠れた後に没した方だという。

奥武島の発祥に関わる重要な墓であり,清明祭等には両門中が拝み,5年ごとの「山嶽拝み」のときに区で礼拝する。[案内板]

▲玉城按司兼松金の墓

武島の発祥に関わる」?
「玉城按司」で「兼松金」と言えば英祖王統五代・西威王になります。伝・1336〜1349年在位ですけど,同王朝最終代。つまりこの王で王朝が滅び,三山の抗争時代に入ったことになります。
 それが王名でなく幼名で,しかも島人の祖として祀られている──のを真正面から受け取ると,奥武島は英祖王朝の落ち武者の里だということになりますけど……。
 ワシは見つけられなかったけれど,他の方のプログには観音堂の裏手に「中之嶽」があり,さらに「その先を下って民家の後ろに回ったところ」に「宇多元ノ御神・今帰仁ノ御神」の石碑があるという。
*沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道/奥武島観音堂(おうじまかんのんどう)・その昔、奥武島は風葬の島だった。URL:https://17020526.at.webry.info/201606/article_1.html
 英祖王朝の由来(版図?)からして今帰仁が出るのはそれっぽいけれど,宇多源氏の祖・宇多天皇をなぜここに祀るのでしょう?
「奥武島の発祥」というのはそれほど歴史の深闇にあるのでしょうか?

▲奥武島の路地

152,居すぎた!
 明らかに,もう少しまったりしたい島ですけど……昼飯が先です。引き返す。
 1157,「奥武島入口」という交差点。少し北へ遠回りになるけれど,島の橋へはやはりここからがシンプルでした。
 雨がポツポツ来はじめた。

▲奥武島の海峡

■転記∶奥武島観音堂由緒(前半)デジタル

奥武観音堂の由来
 十七・十八世紀の頃,一艘の唐船が嵐に遭い奥武島に漂着した。乗組員達は,見知らぬこの島に上陸をためらっていたところ,島の山の上に白衣の美女が現れて,「案ずることはない」と言わんばかりに手招きをしたので,「これは天の助け」と拝んで上陸した。すると島民達が集まってきて,着物を与え,焚き火で冷えた体を温めたり,お粥を炊いて手厚く介抱した。乗組員達は島民の心からの支援に深く感謝し,島民の支援を得て船を小港(クンナト)の岩に繋いだ。(この岩をミシラギといい,旧暦の五月四日に行われるハーリー(爬龍船競漕)の時は,最初に観音堂に一年間の航海安全と豊漁,島民の健康と融和,島の繁栄を祈願し,次にミシラギ拝所に同様な祈願を行い,御願バーリーを始める。)
 船の修理を終えた乗組員達は故郷へ帰ることになり,以前白衣の美女が現れた山に入って「我等一行これより帰国せんと思う。願わくば我等に幸運を与えたまえ。無事帰国てきるよう神様は我々をお守り下さい。願望が叶ったならば,仏様をこの地に祀って浄土としよう。」と祈願,無事帰郷することができた。
 その後,乗組員から琉球王朝を通して,奥武島に黄金の観音像一体と仏具一式を贈ってきた。しかし琉球王朝では,はじめ同名の他の奥武に安置したが穏やかならず,八方手を尽くした結果,玉城間切の奥武島がその地であることがわかり,(略)

■レポ:唐船はなぜ奥武島に着いたか?

「南城市奥武島で、昔中国の船が難破したのを救助して、観音像が贈られた話について知りたい。」
という,まさに代弁してくれたような質問に,2016年に沖縄県立図書館が回答したものがありました[後掲]。
 この日に観音堂由緒書に見たのがその大筋ですけど,これがどうも奇妙なのです。

漂流民の御礼寄贈説の実証はない

 まず回答者は初手で「奥武島で外国の遭難船の修理をしていた資料は確認できたが、観音像の話は伝承で、事実確認は出来なかった。」としています。
 回答者の紹介する奥武島観音像についての記録は,次のような各地誌に「古老の話によると」などとしては相当メジャーに記されています。
1 南城市史 総合版(通史) 南城市史編集委員会∥編 南城市教育委員会 2010.3 K23/N48 p163
2 玉城村史 第8巻 上 文献資料編 玉城村史編集委員会∥編集 南城市役所 2006.3 K23/TA77/8-1 p698-702
3 玉城村の文化財概要 玉城村教育委員会∥編 玉城村教育委員会 1986.10 K709/TA77 p31
4 奥武島誌 『字誌』編集委員会∥編集 奥武区自治会 2011.3 K23/O35 p266-267,618
5 沖縄の拝所300 比嘉 朝進∥著 球陽出版 2011.9 K16/H55 p113

 回答者の言うのは,これら唐船漂着の一次史料には観音像が一切語られない,という点です。

一次史料(氏族家譜)の記述

 奥武島への中国船漂着として,奥武島誌に引用される一次史料は全5件。うち2つが王朝正史相当の中山正譜,残りが久米村有力氏族の家譜です。

1687年 中国蘇州の商船1隻が11月11日に浜比嘉島に漂着、24日に奥武島に曳航して修理し、翌年3月4日に帰国する(『程氏家譜』)
1732年 中国江蘇省の商船3隻が10月25日伊計島に漂着、28日に奥武島に曳航して翌年1月7日に帰国する(『尚姓家譜』)
1749年 中国蘇州府の商船2隻が11月、奥武島に漂着(『呉姓家譜』)
1808年 中国蘓州府[ママ]の船が奥武島近くに漂着(蔡温本『中山正譜』巻11)
1844年 中国福建省の商船1隻が5月13日、奥武島に漂着(蔡温本『中山正譜』巻12)
[前掲「奥武島誌」p618「奥武の歴史年表」]

 最初の1687年のみが薩摩での唐物崩れ前で,勝連に漂着したのを奥武島に移送。残り4件は直接奥武島に着いてます。
 1687年のものは原史料もゲットできました。

康煕二十六年丁卯十一月十一日蘇州商船壹隻船戸鍾瑞甫船中人數共八十八人漂着於勝連間切濱島因此爲料理事隨正議大夫鄭弘良大嶺親雲上長史王可法國場親雲上往彼島二十四日導漂船到玉城間切澳武島修船翌年三月初四日漂船開洋歸去[後掲程氏家譜]

 幾つか,由緒書など口承にない事実が書かれています。
①中国船は一隻で,蘇州からの商船。
②勝連間切濱島に88人が漂着した。
③漂着二週間後,鄭弘良が「王可法國場」*して,玉城間切澳武島に船を導いた。
④修船し,四ヶ月足らずで漂船は帰国した。
 *部は中国語としてはどうしても文理解釈できないけれど,程氏家譜にだけ度々出てきます。用例からすると「(尚国)王の公許を得て」という意味でしょうか。
「鄭弘良の引率」を記した二次資料は数少ないけれど,このように古老伝とを繋ぎ合わせています。

1687年、蘇州の商船が浜比嘉島に漂着、久米村の鄭弘良が引率して奥武島へ。島民が世話をした謝礼に堂を建立、本尊は仮に板に書いて奉安した。船の修理も終わって翌春帰国した。…観音像は金箔製だったといわれ、沖縄戦で米兵が持ち去った。[前掲沖縄の拝所300]

 ね?訳が分かんないでしょう?

※南城市の最新HP〔後掲なんじょうデジタルアーカイブ〕は「戦時中に行方不明となったため,あらたに本土から購入した観音像を置くようになったそうです。」と,米兵のくだりを書いていない。

奥武島に観音像があるという謎

 時系列を逆にたどってみます。「米兵が持ち去った」という辺りの間違いなく誤魔化しの部分はもうスルーして,まずは──

a)観音像はどのようにやってきたのか?

 由来は,明らかに史実の前半部分に,後から後半の観音の奥武島設置を接続したものです。記録に残るような漂着劇が忘れられるとも思えない。金箔の観音がずっと島に安置されたとは想像しにくいし,まして米軍は持ち去らないでしょう。「観音像がある」ことに,後日の色んな想像が尾ヒレについていったのだと思われます。
 想像を逞しくする必要があったのは,昔からそこに観音像があるのは周知の事実だったけれど,その由来は大っぴらに話しにくいから,合法なストーリーに合理化するバイアスが働いたからでしょう。
 話しにくいのは,公式には来ないはず,来ていないことにしている中国船から下ろされた像だったから,という想像が最も容易です。
 これは笠沙の媽祖と同じ媽祖消失劇だと思います。ただ奥武島の場合,そこに「観音」があることは周知で集落の信仰や習俗(ハーリーなど)の核にもなってしまったから,観音像を差し障りのないものに変換したのだと想像します。

 媽祖像そのものは,おそらく笠沙のように何体もあったのではないか。ひょっとしたらより,東の祠にあった島の4箇所ほどに,結界を張るような感覚で埋めたかもしれませんけど,それよりも──

b)それほど頻繁に中国船が来たのはなぜか?

という点の方が疑問として大きくなります。
 まずは,

b-1)物理的に停泊できたか?

という点から入りましょう。程氏家譜では1687年の漂着人数は88人。海難で失われた人数も想定して百人とすれば,当時の標準タイプ・四百科船,もう少し後代の日本で言う千石船規模です。水深は最低2.4mが必要です。

 ところが沖縄の海は,基本的に遠浅で,かつサンゴ礁の発達した,漕ぎ寄せる側の視点からは危険な場所です。船乗りがこのように水底に視野を持っていたとすれば,そこから見た本島南東部の景観は,前章末尾で見た海底地形のとおり。
 雄樋川河口と奥武島は,かなり稀有な場所に映っていたはずです。

(再掲)雄樋川河口付近のやはり特異な海底地形

 河口はともかく,奥武島周辺がなぜこのように,造ったような水深があるのか,地質的な理解はできてません。また,関係アプリにまだカバーされてないので具体の数値まで確認できなかったけれど──事実として,雄樋川河口と奥武島東南は,先導さえあれば陸近くに接近・停泊が可能な,本島東南部で唯一の場所でした。
 この地に宇多元ノ御神や今帰仁ノ御神が祀られる事実は,港としてかなり古いことを想像させます。
 次に考えるべきは

b-2)琉球側の外交体制が停泊を許したか?

 1687年の四百科船は,勝連(浜比嘉島)に着いたのに,本島を回った玉城の奥武島まで曳航されています。この行程は,特に国府に確認して鄭弘良が自ら随行しています。
 17Cに入ってからの中国船は,(前掲県立図書館回答者のヒットによる限り)直接に奥武島に漂着している。江戸期におけるこの「漂着」が,もちろん本当に海難に遭遇したり船体を痛めたりした例も皆無ではないてしょうけど,半ばは強引な入港手法として常道化してます。
 奥武島への中国船入港は,琉球王府黙認で,17Cの島津時代以降は中国漂着側もそれを承知していた。
 では

b-3)中国側は停泊したかったか?

と言えば,まず補給機能を期待できたことが想像されます。琉球側がどのようにこの場所への物資補給ルートを作れたのかは想定が及ばないけれど,現実に1687年の漂着船は四ヶ月で修理を終えています。船体用の良材に加え,一定水準の船大工集団がいたのでしょうか?──この島の春を今も彩るハーリー祭から,あえて言えばそれを勘繰ることもできます。
 また,これは何の根拠もないけれど──正式港・那覇港と奥武島の位置関係は,長崎と牛深・坊津のそれに類似するように見えます。記録される中国船5件の出港地は4件が浙江,おそらく進貢船に随行できなかった商船群です。公式港の那覇に入り辛いため,ここで交易する,あるいは那覇入港船からの中継のようなことが行われたのではないでしょうか。
 ではここからは,関係者個人の視点を軸にしていぎす。

[人物]c)鄭弘良はなぜ動いたか?

 1687年の蘇州船送致に動いた鄭弘良は,号を基橋。職は紫金大夫。久米村鄭氏12世,通称大嶺親方。
 中国の国子監で修学,1678(尚貞10)年に久米村の「訓詁師」,さらに「講解師」に就く。久米村の教育機関としては明倫堂が名高いけれど,それ以前は天妃館を講堂とし,中国の国子監で学を修めた者が教師となった。講解師・訓詁師ともこの教師の専任職で,鄭弘良を初代とするという。後に触れる程順則は,この頃に弘良を師としたらしい。
 中国船送致事件の8年後の1696年には正義大夫,耳目官の毛天相とともに進貢使として北京へ赴く。1701年には世子中城王子尚純の侍講。[後掲鄭氏会]
*同会は「沖縄大百科事典から引用」とする。
 つまり,当世沖縄の第一級の知識人です。この人が漂着地に乗り込んで,随行しなければならないほど,1687年の蘇州船漂着は国家的大事で,かつスキルを要する外交マターだったことになります。
 これは,例えばたまたま業務が暇だったから,などということではありません。19年後の1706(康煕49)年にも正義大夫に登りつめた鄭弘良が漂着船の対応を行った記事が別姓の家譜にありました。

○五番四八三「向姓家譜」大宗(尚質王五子、大宗尚弘徳東風平王子朝春向氏勝連按司)
・二世朝資 東風平按司
康煕四十五年、「寛陽院公十三年忌為進香事」の使者として上国する。
同四十九年、華人船、今帰仁間切運天港に漂着し、横目稲津源左衛門、付衆名越與右衛門、御双紙庫理毛氏友寄親雲上安乗、正義大夫鄭弘良、大嶺親雲上と共に今帰仁間切に赴く。
[後掲氏集]*番号は那覇市付番のもの

 同時期,鎖国時の日本でも異国船漂着はかなり重大事だったけれど,琉球の扱いは大げさ過ぎます。
 なぜでしょう?

[時代]c-1)1687年はいつだったか?

1609年 薩摩,琉球侵攻
1612年 明万暦帝,琉球に以後10年間進貢停止命令
1616年 長崎代官村山等安の台湾侵攻(暴風で失敗)を琉球が明に事前通報
1622年 朝貢再開(五年一貢)
1630年代 幕府,長崎での対中国貿易体制整備
1634年 二年一貢復帰
[主に後掲wiki]

 薩摩の琉球侵攻は,軍事的な華々しさとは裏腹に,外交的には明側にドライに見透かされて朝貢棚上げという大失敗を招いていました。追い詰められた薩摩が明への最終通告書(島津家久指示による1613年∶与大明福建軍門書)を起草したほどです(原文後掲)。

 けれど,琉球にとってラッキーだったのは明清交代でした。

1644年 明滅亡(李自成の北京入城)
1649年頃 薩摩から琉球に対日関係隠蔽の指示[後掲渡辺2012]
1655年 清,琉球へ冊封使派遣(渡海失敗)
1661年 清,遷海令発令(海禁)
1663年 清冊封使,事前連絡なく訪流
1684年 清,展海令(海禁解除)。琉球に漂着民の保護・送還指示
1685年 接貢船を清許容

 1649年の隠蔽指示はまだ議論は多いけれど,渡辺さんの研究で通説化しつつあります。
 日本が琉球を支配下に置いた事実は,中国大陸に決してもたらされてはならない。1684年の展海令と清→琉球の漂流民直送指示は,中国人漂流民が琉球で支配層たる薩摩人を見てしまう可能性を生むわけで,琉球には危険,薩摩には恐怖を感じさせたことになります。

琉球王国では領内に漂着民に関するマニュアルが周知、徹底されていた。実務的には漂着時には漂着民を収容隔離して住民との接触を最小限に抑えるとともに、日本を連想させるあらゆる事物の禁令が厳守された。[後掲wiki]

 このwiki「琉球の朝貢と冊封の歴史」項(以下「朝貢史」と略す。)は凄まじい情報量のものです。この中の注[†9](2021.2現在)に,ようやく本稿に関係する記述を見つけました。

薩摩側に内密で、琉球が漂着民相手に交易活動を行っていた場合があることが確認されている。[後掲wiki 原典∶渡辺2012,pp.179-186]

[運用]c-2)琉球の漂流民政策はどう運用されたか?

 漂着民に対する処置の内、中日の支配論理が鋭く拮抗したのが船隻・積荷の処置であった。周知のように徳川幕府は異国船との貿易を厳しく制限しており、この原則に則って漂着民とのいかなる商売も禁止されていた14)。これを受けて琉球王府は、使用不可能になった漂着船は(買い取ったりせずに)焼き捨てること(「焼化」)や、漂着船の積荷の売買禁止などを自国の法度として規定していた15)。[後掲渡辺2003]

*渡辺同注14)このことは、例えば異国船漂着に関する原則的な規定となった1704(康煕43・宝永元)年の「覚」(薩摩藩から琉球王国へ)にも明確に規定されている。(豊見山和行「一七世紀における琉球王国の対外関係-漂着民の処理問題を中心に」藤田覚編『十七世紀の日本と東アジア』山川出版社、2000 年)
15)例えば、漂着船に対する処置マニュアル「進貢・接貢船、唐人通船、朝鮮人乗船、日本他領人乗船、各漂着并破船之時、八重山諸島在番役々勤職帳 (1816)」(石垣市総務部市史編集室編『石垣市叢書』4、石垣市役所、1993 年)が挙げられる。

 こうした姿勢は,常識的な鎖国の論理として我々ナイチャー(内地人)には馴染み深く理解されます。けれど,鄭弘良ら琉球知識人が所与のものとして勘案すべき論理には,これと正反対のものも含まれたのです。

 一方、清代中国では漂着民に対する撫恤的処置の一環として積荷・船隻の「換金」が制度化されていた16)。そのため、琉球が中国へ従っていることを知る漂着民(特に中国人)が、自国同様の処置を琉球側に求めてくる可能性があった。だがその場合、建前上「日本との関係がない」はずの琉球が、日本の貿易禁制を理由に換金要求を断ってはつじつまが合わない。すなわち、日本側からの規制(=琉球の国法)と中国の規範(=漂着民側の「常識」)がほぼ相反するものであった船隻・積荷の処置には、いつ問題が生じるとも知れない矛盾が内包されていたのであった。[後掲渡辺2003]

*渡辺同注14)このことは、例えば異国船漂着に関する原則的な規定となった1704(康煕43・宝永元)年の「覚」(薩摩藩から琉球王国へ)にも明確に規定されている。(豊見山和行「一七世紀における琉球王国の対外関係-漂着民の処理問題を中心に」藤田覚編『十七世紀の日本と東アジア』山川出版社、2000 年)
15)例えば、漂着船に対する処置マニュアル「進貢・接貢船、唐人通船、朝鮮人乗船、日本他領人乗船、各漂着并破船之時、八重山諸島在番役々勤職帳 (1816)」(石垣市総務部市史編集室編『石垣市叢書』4、石垣市役所、1993 年)が挙げられる。

 すなわち,この両者の論理を完全に理解した上で,双方を納得させ飲み込めるような解決法を見出すのが,琉球の知識人の役割であり,久米村の外交だったらしいのです。

前述のような漂着船との「商売厳禁」の方針を支える用意が周到になされていた一方で、この方針は王府自身によってしばしば違反されていた。[渡辺2003]

 渡辺さんもこれと併記するように,これは(江戸後期の薩摩のように)王府が闇雲に薩摩に隠れて利益を追求した,ということではないらしい。実際に積荷を焼き捨てた事例も多数あり,要は外交上「バランスよく」漂流民を遇することを優先し,そのためには時にいずれかの法規に反することも厭わなかった,ということだと思われます。
 渡辺さんは,その実例も複数見出しています。

1749年中国人漂着民対応の報告事例
(沖縄県立図書館史料編集室編『歴代宝案』校訂本第四冊、沖縄県教育委員会、1993年、No.2-30-16。『歴代宝案』台灣大学、1972、2558頁)

(史料)久米村版宝案に残る外交足跡

 上記は渡辺2003に史料1として挙げる「違反例」です。
赤枠:清への咨文(報告)
青枠∶薩摩への報告時の改竄部分
黄枠∶参照用のメモ(和文)
(太字は渡辺。各色枠は引用者による。)
 1749年に琉球に漂着した中国人への対処を,朝貢上の帰属国・清と軍事上の帰属国・薩摩に報告したものです。
 赤字の字義は,船隻・船具等を「土地の者に売り与え,その代金銀350両と所持品を,船戸の澎世恒に手渡し受け取らせた」。
 これに対し青字は「当地に委ね置き,その所持品のみを,船戸の澎世恒に手渡し受け取らせた」と,琉球側によって改竄され換金の事実が削除されています。
 史料の出典は「歴代宝案」のうち久米村本の写本で,対中国外交の実務を担った久米村人が保管したものなので,丁寧にも参照用メモ書きが付されており,これが黄枠部です。

この咨文は清へ差し上げ、その原稿を薩摩へ送ったところ、漂着中国人の船を売買することは禁止されているので、琉球でこの船を買い取り置いたことはそのまま書いてはいけないと、[薩摩に派遣されている]年頭使者25)の御親方が伝えてきた。この旨を仰せ渡されたので、薩摩へは朱書の通り[つまり「カッコ」右のように]修整し御届を済ませた。今後の参照のためこのように[記述]した。付記。執照26)も同断に修整し御届けした。[渡辺2003]

25)この時の年頭使は毛氏座喜味親方盛秀(横山重編『琉球史料叢書』第四巻「中山世譜附巻」東京美術、1972 年、54頁)。年頭使とは薩摩藩主に年頭の挨拶をする使者で、そのまま18ヶ月間、在番親方として鹿児島琉球館に詰めた(深瀬公一郎「鹿児島琉球館に関する基礎的考察」『沖縄学研究会論集』4、1998年、81頁)。
26) 沖縄県立図書館史料編集室編『歴代宝案』校訂本第四冊、沖縄県教育委員会、1993年、No.2-3017。『歴代宝案』台灣大学、1972年、2558頁。

 ここからは想像になります。
 こうした微妙な隠蔽を行うに当たり,その現場を複数箇所に分かつことは漏洩の危険を格段に高めるでしょう。だから,現場は一箇所に限定したかった。その場所は,那覇や首里の中央政界からある程度離れ,しかも閉じられた場所なら最適です。
 玉城の奥武島です。
 そうした高度にバランスの取れた現実的判断──これはやはり海民らしいメティス的な,というしかない──を,1687年に鄭弘良は,ひょっとしたら最初にやってのけたのではないでしょうか。

名護市キャラクター名護親方

[人物]d)程順則は何を巡撫しようとしたか?

 程順則は琉球名・寵文(ちょうぶん)。通称の名護親方(なぐうぇーかた)として著名。
 1663(寛文3)年,真和志間切古波蔵村の地頭・程泰祚の子。久米村生まれ。
 程泰祚は進貢使に随行した時,三藩の乱で福州へ戻れず1676年に蘇州で死ぬ。
 これにより久米村で修学,21歳で通事となり,謝恩使に従い清へ往来。──1684年頃になります。1681年の三藩の乱平定,1683年の鄭氏政権降伏の後,1685年に接貢船(前景)派遣認可という対清朝貢体制の構築期に外交実務を先に学んだことになります。
 その後,再度渡清,福州で陳元輔という学者のもとで程朱学(≒朱子学)と漢詩を本格的に数年間学ぶ。──久米の程家が,程朱学提唱者の「二程子」程顥・程頤兄弟の末裔か否かは確認できない。ただ,程順則の名は,持ち帰った「六諭衍義」(著・范鋐,明末清初成立)が薩摩・江戸で評価され,荻生徂徠「室鳩巣 」として和訳され全国の寺小屋の教科書に採用されたことで最も名高い。当時最も権威を得た儒学者であることは間違いありません。
 けれどこの人は,正徳年間(1711~16)に江戸で新井白石と会見し,白石「南島志」としてまとめられた通り,外交あるいは交易に関する知識人でもあったらしい。

程順則「指南廣義」表紙

『指南広義』は、程順則 (1663〜1734) が康煕47年(1708)に中国瓊河の福州琉球館(柔遠駅)で版行した那覇-福州間を往来する貢船の航海に供するための指南書である。(略)以後、進貢船や接貢船派遣の際の必携の書となった。[後掲琉球大学]

 柔遠駅は前に触れた通り(下記参照),福州にあった琉球交易者専用施設です。この施設常備のガイドブックを,程順則が書いています。

 朝貢時の心得とか考え方などの哲学的内容ではなりません。六諭伝来者という顔からは想像できない,実務的マニュアルです。

針路については、康煕22年(1683)に冊封のために派遣された冠船の羅針盤主掌蛇工から伝授された羅針盤を用いた航海針法と、久米三十六姓の伝える針法に基づいている。航海の針路以外に、内容は航海神の天妃に関する「天妃霊応記」、暴風や風向きに関する「風信考」、船荷の装載や船出の吉日を記した「行船通用吉日」、航海の飲食飲酒に関わる「飲食雑忌」「戒波飲酒」等多岐にわたっている。[後掲琉球大学]

 程順則と玉城奥武島を結ぶ線は,ありません。ただここでは,当時の琉球知識人にとって,朝貢関係が基本的な外交の舞台であり、福建間の航海と交易がリアルなイメージとして彼らの認識の根底にあったことを想定しておきたい。
 これを秩序あるものとして整然と行うことが,琉球の生命線である,という切実な現実から,程順則は指南広義を著したのでしょうし,先述の鄭弘良らの漂流民対応も厳しい緊張感の中でなされたのです。

名護親方生誕350周年記念展示会

[人物]e)蔡温は琉球経済をどう構想したか?

 蔡温については略歴を記すのは止めます。1682(康熙21)年生,1762(乾隆26)年没。琉球王国の代表的政治家です。
 この人の最終役職名・大和名は具志頭親方文若(ぐしちゃんうぇーかたぶんじゃく)。つまり玉城の具志頭の領主でした。
 領地を得たのは1728年と伝えられます。これにより,蔡温は蔡氏具志頭殿内の小祖(分家元祖)となっています。出身の蔡氏志多伯家は兄*・淵が継承したけれど,以後,この分家が志多伯家や本家筋の儀間殿内より栄えることになったといいます[wikiland]。
*蔡温は正室の第一子だったけれど,側室に長じた子があり,何かの理由でこれが兄として志多伯家を継いだ。
 蔡温の立身は,1728(雍正6)年の三司官昇進を最大の契機とします。これは政府高官らの選挙によるもので,久米村士族としては異例でした。
 この高評価の基になったのは,1726(雍正4)年の国王琉球北部視察(尚敬王とその配下305名)の差配によるとするのが定説ですけど,1719(康熙58)年の評価事件での対応に理由を求める見方があります[後掲前田]。

[事件]e1)評価事件は琉球経済をどう変化させたか?

 評価とは,文字通り「評価価格」ですけど,現代感覚だと売手側の希望小売価格に近い。朝貢の場合に厄介なのは,これがほぼ強要で,通常は実質の定価だったからです。

当時、康煕帝の命令による「皇輿全覧図」の作成が進行中で、1719年の冊封使節団には2名の測量官が随従していた。一行は600名という琉球史上最多の人数で、それは琉球にとって寝耳に水であり、琉球側が用意した当初の予算を大幅に超過していた。そのため、一行が琉球に持ち込んできた商品をすべて買い上げることができず、両者は激しく衝突した。[後掲前田]

 つまり,琉球側の買上資金がショートしてしまった。でも朝貢は建前上,政治的関係ですからストックがないというのは理由にならない。ここで本来渉外役に当たったのは前記の程順則でしたけど,彼にして成功が全く見込めないから,首切り要員を立てて役を逃げた。
 それが蔡温だったのです。

当初は久米村の程順則が交渉役であったが、後に蔡温に一任している。その理由は、冊封使との交友関係に亀裂が入るのを恐れたためとも言われている。蔡温は方々を走り回って資金を調達し、どうにか相手を説得することに成功し琉球の窮地を救った。[後掲前田]

 分からないのは,程順則が不可能と見た買上資金の準備を,蔡温がどう調達し得たのかです。wiki朝貢史は「買取費用捻出のために琉球王府は民間から銀のかんざし、はたまた銅や錫の食器類までも強制供出させて何とか急場を凌いだ」*とするけれど,国庫が予備費から準備できないほどの巨額をいわゆる臨時徴税で賄えるものでしょうか。
*原引用[198] 陳(1988)pp.239-240、呂(2004)pp.83-85
陳1988∶陳大端「清代における琉球国王の冊封」『九州文化史研究所紀要』(33)、九州大学文学部附属九州文化史研究施設、1988
呂2004∶呂小鮮「清代琉球冊封中の貿易に関する諸問題について」『第7回琉球・中国交渉史に関するシンポジウム論文集』沖縄県図書館史料編集室、2004

琉球側としても中国側から吹っ掛けられないように、事前に福州で商品価格の調査等、市況の実地調査を行い、更には琉球側と中国側の銀のレートについての調査も行った。その一方で商品の琉球国内での価格については、出来得る限り情報が冊封使一行に伝わらないように心がけた。そして後には中国側に持ち込みを歓迎する品目や、逆に歓迎されない品目について事前に情報を伝えるようにもした。[後掲wiki朝貢史]

というのだから,一種の経済戦に近い。琉球側はインテリジェンスの相当をこの「押売り」からの防衛に投じています。
 さらに注目すべきは,wiki朝貢史がこの記述の前段で付している注釈です。

[†14] 呂(2004)p.90によれば、1719年の冊封使以降、おそらく1800年の冊封使からは売れ残り商品を琉球王府が買い上げるシステムが確立したとする。

 国庫ではないけれどそれに匹敵する規模の資金ストックが,民間に形成されて,それが継続する状況になった,と考えられます。評価事件がこの民間の資金ストックの形成契機になったのなら,そういう経済的安全装備を民間に造ったことが蔡温の業績だったのではないでしょうか。
……段々,何を書いているのか不安になってきた方もおられると思います。たどり着きたいのは,沖縄独自の金融機構・模合とこれが民間の対外交易に機能した可能性です。

アメリカ世に使われた蔡温切手

[経済]e2)模合の資金は中国に流れたか?

 民間の資金ストック「模合」の起源は定かでないし,そもそも研究もほとんどない。
 分かっているのは,「模合」の史書初出は「球陽」の1733(尚敬21)年の「模合の法」であり,これが史料で確認できる起源だということ。そして,この法を蔡温を含む三司官が発布したことです。

始立模合法  以助貴家:本国農工商各 修其業 多蓄資財。雖遭早潦足以防之。至士臣之家頂戴地頭職 並知行高。深豪聖主隆恩。潜修士業。国雅礼法以足観。但所欠乏者。資材而己。是以国相法司治、設模法、出乎地頭所並知行高米若干。交納倉厰。或二、三十斛。或四、五十斛。毎年輪香流以給一人。相助各家を。不四五年間。可以聚財資用、故始此法
[『球陽・尚敬21・巻13』球陽研究会・1974)]
*引用元∶後掲東

 後掲東与一さんによる読み下しはこうなります。

本国の農夫・工・商は、各々其の業を修め、多くの蓄財を蓄ふ。遭早遭ふと雖も、以て是れを防ぐに足る。士臣の家に至りては地頭職並びに知行高を頂戴し、深く聖主隆恩を豪り潜かに士業を修め、風雅礼法甚だ以て観るに足る。但、欠乏する所の者は資材のみ。是れを以て国相、法司始めて模合の法を設く。地頭所並びに知行高より米若干出し、倉厰に交納すること或いは二、三十斛、或いは四五十斛、毎年輪流して一人に給し、各家を相助れば、以て四、五年間ならずして以て財厰り資ふべし。故に始めて此の法を立つ[後掲東]

現代では飲み会と混同される場合も多い模合

 史料ではなく,現在,実際の模合での東さんの聴き取りでは,主に次のような諸説が伝わるといいます。

沖縄自生説
*元々沖縄にあったという説。模合をユーレー(寄合)ともいう。
*蔡温が「模合の法」で始めてとなえたから、という説。
本土・中国から伝来説
*薩摩の商人たちによって持ち込まれたか、琉球の役人が持ち帰って来た、という説。
*蔡温が中国福建省で学び持ち帰り制度化したという説。
*王朝時代、中国との交易によって伝来した、という説。[後掲東]

 模合類似の仕組みは,日本内地では頼母子講や無尽として13Cから事例があり,模合の法の規定は享保の薩摩での「大御支配」に似ていると言いますから,蔡温が18Cにゼロから突然立ち上げたものとは思えません。
 ただし,模合の風が現代にも続き,かつ共同売店の資金形成の雛形になっていることは,単に相互扶助の気風とかではなく,沖縄でのみ特段の有効性を生むような経済環境があったからではないか,と考えるのです。
 推論としては,こうです。──評価事件以降の予備費の急激な巨大化要請に,蔡温は,当面は臨時大増税に代えて半強制貯蓄(≒戦時中の戦債購入)を進め,その受け皿として模合が本格稼働し始めた。模合の資金ストックは,当初は中国船からの押売り対応にも充てられたけれど,次第にクレバーな資金運用に転じて地域への利益還元も拡大した。近代になると,この側面が独立した共同売店(地域資金による小口交易)も企業的利益を上げるようになった。

[経済]e3)具志頭領主としての蔡温の予想される行動は?

 先述のとおり蔡温は具志頭,つまりこの日に訪ねた唐の船御嶽や奥武島付近の領主として蔡氏具志頭殿内(蔡氏分家)を興しています。中国人的感覚ではこうした一族は一種の企業体という面を持ちます。
 中国漂流船,端的には非公式の(違法な)の民間交易業者が曳航されるこの地域で,公式の朝貢交易からの押売りに四苦八苦し,民間金融機関まで創造した「経済人」蔡温は何を企画するでしょうか?
 朝貢交易の押売りは不定期です。その間,模合に貯蓄された民間資金は,何もしなければ滞留し,利益を生まない。マクロ経済感覚のある人なら,それが経済の不安定,おそらく急激なインフレか物価上昇かを誘発することは想像するでしょう。
 蔡温は,余剰資金化している間のマネーストックの吐き出し口を計画せずに,模合の法を作ったでしょうか?
 奥武島に対民間・非合法・反薩摩の「裏口」を設けて,余剰資金を調整する,例えば冊封使が来ない時又は来ても供給量が少ない時は,それに応じて裏口での交易を拡大する。裏では政治的に琉球側の方が強者でいられるのだから,調整弁を握っていられる。

f4)なぜ薩摩にバレないのか?
(≒薩摩人はなぜ関与してないのか)

 えー?でも琉球って薩摩の植民地だったんでしょ?幕府の「鎖国」体制下にあった薩摩が,そんなこと許すはずないじゃん。──という部分は確かに不鮮明です。
 ただ,解明されてきてる部分はかなりあります。
「那覇に駐在する薩摩役人にとって,琉球による漂着民への処置の監視は任務の一つであったが,隠蔽のため直接的な監視はできな」かったからです。幕府と薩摩は,琉球に両属という無理な位置を要求したために,「自らの決して踏み込めない空間を琉球側に構造的に保障」してしまっていました。[渡辺2004]

[見分の事例:1741年、中国人漂着民]見分そのものを目的とした簡素なもの …休太夫殿・甚蔵殿(検見の薩摩役人)から中国人を見分したいと言われたので、在番仮屋へ座を用意し戸口に簾などを掛け、琉球の装束で、与古田親雲上(鎖之側代理)と共に、御見分なさった。 [渡辺2004]

 薩摩の役人が漂着民に会うには,琉球人に化けて「覗き見」するしかなかった。
 もう一度,薩琉間での対中国接触時のルールを確認すると──

隠蔽の概略
①中国人に対して日本の物品を隠匿し日本との関係を口外しないこと[原則]、
②一六一一年に琉球から薩摩に割譲され二四年に薩摩藩の蔵入地とされた道之島(奄美諸島)も清朝に対しては「琉球領」の建前を貫くこと、
③やむを得ない場合は日本を「宝島(七島)」と詐称すること[応用](←十八世紀前半頃に創出され後半期に強化された「宝島のレトリック」) [渡辺2004]

 この「構造的」な間隙の中で,薩摩が公式に奥武島での密輸取引をチェック出来たでしょうか?
 もちろん,インテリジェンスの分野では琉球の裏の動きは薩摩に筒抜けだったでしょう。薩摩も察知してはいたと思う。──でもそれ自体は「たかが密輸」です。鹿児島本国では藩自らが大々的にやってるのだから,幕府に知られさえしなければいい。──より踏み込むと,状況的には,薩摩もここでの交易には噛んでいて,内地で仕入れた品を中国船に乗せた可能性もあるけれど,それは流石に実証不能だし薩摩から史料が出る望みも薄い。
 琉球からすると,幕府と薩摩からの無体な隠蔽要求を,むしろ武器にする発想だったでしょう。「無茶苦茶言うなら手出しするなよ」という──交易現場への薩摩の立入禁止,ひょっとしたら方向の改竄までが,要求を呑む引換えに琉球が勝ち取っていた「治外法権」で,それを年々拡大していったのではないでしょうか。
 こうなると,軍事で負けた琉球は,外交で実質的な自治を獲得していたように見えるのです。

 奥武島への中国船来航とその(裏)制度設計が,鄭弘良の頃以降の誰によるデッサンなのかは想像が及びません。でも,遅くとも蔡温の時期にはそれが完成・実働に至った。だからこそ,蔡温は三司官と具志頭親方という二つの顔を持って歴史的な実績を残し,琉球朝貢交易は圧迫されつつ継続されたのではないかと推測するのです。

[先行研究]豊見山和行,渡辺美季ら「自律的両属」論

 前掲渡辺(再掲∶渡辺美季「近世琉球における中国人漂着民の船隻・積荷の処置の実態─日本と中国の狭間で─」『アジア文化研究』別冊12号,2003年3月)は,次の趣旨に基づく史料集積の一部です。
 以上のような巧みな外交操作の足跡を見ると,両属の中に自律性を見出した琉球,というイメージが,単に弱者の民族意識の裏返しではなく,中国・薩摩に支配されたからこそ自律しえた小国の海人的な狡猾さが説得力を持ってきます。

近世琉球は、中国・日本という二つの支配論理を前提に、それらと独自の国家構成原理を不可分に整合させて初めて安定し得た国であったと言うことが出来る9)。
 こうした近世琉球の状況は、研究史上しばしば「両属」と表現され、従来の研究では、「薩摩藩の実質的支配/中国の形式的・名目的支配」と捉えられがちであった。だが現在では中国か日本かという選択の問題ではなく、この二国との複雑な関係があるがために琉球王国は(中日どちらにも完全に包摂されないような)自律性(autonomy) を維持できたのだとする見方が主流である10)。[前掲渡辺]

 関係する注も,参照すべき論文として掲げておきます。

9)この論は、豊見山和行が論ずるところの「近世琉球の王権は島津氏支配と冊封朝貢関係を矛盾なく整合させて初めて成立する王権であった」(豊見山和行「近世琉球の外交と社会-冊封関係との関連から-」『歴史学研究』586、1988年、141頁)とする見解に、筆者なりの補足を若干加えたものである。
10)豊見山前掲論文、及びSmits, Gregory. Visions of Ryukyu — Identity and Ideology in Early-Modern Thoughtand Politics. Honolulu:University of Hawai’i Press, 1999, p.156.
11) 豊見山和行「複合支配と地域 従属的二重朝貢国・琉球の場合」濱下武志・川北稔編『地域の世界史11 支配の地域史』山川出版社、2000年、215頁。

中国型世界秩序-日本型華夷観念間の琉球王国ゾーン *日本圏の点線は,中国側のコモンセンスでは認識できない「異次元」の秩序であることを意味する。

[発展]異質な陸上国境群の周縁に棲む海民群

 そう考えて行くと,論としては逆行するけれど,渡辺さんが基礎に据えているトビの概念を再考していく可能性も生まれてきます。

中国と日本という二つの大国の支配論理が、琉球において重なり合っていた時期と言い換えることが出来るだろう。近世琉球は国王を頂点とした首里王府が王国を治める固定的な国境(boundary)2)を持った国家であったが(図1参照∶引用者略)、前述の意味では、中国と日本の支配論理のゾーン的境界 (frontier) であった3)。この状態を示したものが図2である。この図において中国の支配論理を実線で日本の支配論理を点線で示してあるのは、両者の間には明確な相違があったからである。ロナルド・トビはこれを、広く国内外に認められていた「中国型世界秩序4)」と、日本国内のみで通用した観念的構築である「日本型華夷観念5)」とに区別している6)。[後掲渡辺]

 同じく関連する注を併記しておきます。

(2)より厳密には、極めてバウンダリー的な国境を有していたと言える(註3参照)。
(3)ブルース・バートンは、政治地理学における国境(≒政治的境界)とはバウンダリー(boundary)とフロンティア (frontier)という二形態を有し、前者が一次元の線 (line) であるのに対し後者は二次元の地帯(zone) であると整理している(ブルース・バートン『日本の「境界」』青木書店、2000、23-24頁)。
(4)中国人は国内的な社会・政治秩序と同様の原則を国外的に表現することで対外関係を捉える傾向にあり、このような対外関係は中華主義の概念と中国の優越という前提に特徴付けられた、階層的かつ不平等なものであった。このアジアにおける国際秩序をFairbankは「中国型世界秩序 (the Chinese world order)」と呼んだ (Fairbank, John K.1968 “A Preliminary Framework”, in Fairbank, ed., The Chinese World Order. Cambridge,MA.: Harvard University Press, 1968, p.2.)。トビはこれを「華(すなわち中国人)と夷とを二分する『華夷秩序』や、『朝貢体制』とか『冊封体制』と比べて価値判断から自由な言葉である」と評価している(ロナルド・トビ『近世日本の国家形成と外交』(速水融・永積洋子・川勝平太訳)創文社、1990 年、138-139頁)。
(6)ロナルド・トビ「変貌する『鎖国』概念」永積洋子編『「鎖国」を見直す』山川出版社、1999年、10-11頁。

 ポイントを挙げていく。

①清・江戸期における国境概念は,互いの国の成り立ちから来る意義付けの違い(清∶旧王朝・民族残存の海上勢力駆逐,江戸∶宗教侵略防止のためのキリスト禁教)から,別次元で(または国際的現実と国内的夢想*とが)すれ違う「国境」であった。
②そのため,この時期の日中国境は,極めて広い二次元的国境を成した(ゾーン**が広かった)。
③この広いゾーンと両国の次元の交錯(及びこれに対応しうる外交能力)が,近世琉球の存立基盤となりえた。
国境論再燃の契機=現代の現実的国境管理

 ゾーン,バウンダリー(boundary),フロンティア (frontier)などの国境概念が取り沙汰されるのは,海域アジアに限った議論ではありません。現実のトランス・ナショナルな活動の前に,旧来の一次元的国境論が明らかに破綻してきているからです。

 1990年代以降のグローバル化の急速な進展や2011年の9・11テロの影響によって、領域主権を画定する地政学的な意味における国境が大きな変容を迫られている(1)。伝統的に国際関係論(以下、IR)における国境とは、「固定化された領域性」(K・J・ホルスティ)を基礎とする主権国家、さらには主権国家から構成されると言われてきたウェストファリア体制の根幹的原理であった(2)。しかしながら、国家権力を背景とする国益が衝突しあう場としての国境は、グローバル化によって、トランスナショナルなフローに対処するための「国境の透過性(border permeability)」を通じた機能的再編が求められている(3)。[後掲川久保]

 例えば,2005年に成立したアメリカの100マイル国境ゾーンがあります。国境管理が国境から内側へ100マイルまで拡張され,ここに居住する約2億人が新たに監視下に置かれるという懸念から問題視されています。──これは,IT・AIによりそれほど大規模な管理が技術的に可能になったことも大きな要因です。

[後掲川久保]米国における100マイル国境ゾーン(出所 米国自由人権協会HP)

 2003年,インドネシア漁船に乗るクルド人難民がメルビル島に漂着したのを受け,オーストラリア政府は,同島を含む約4千の島を入管的に本土から分離しました。
 これらの入国管理行政は,かつて清朝が鄭氏を干上がらせるために行った遷海令∶海岸線から30里(約15km)地域からの住民強制立退きに大変似ています。
 つまり「やがては国境も無くなる」という夢想の時代から,現実に国境の変質・再編が発生し,これが毒にも薬にもなる可変性をリアルに見せつけ始めたのです。

グローバル化による脱領域化(deterritorialization)/脱境界付け(de-bordering)と、9・11テロ以後の地政学的な再領域化(reterritorialization)/再境界付け(re-bordering)が同時進行しているという両義的な解釈も可能なのかもしれない。[後掲川久保]

 海域アジアの鏡に映る国境を越える人々の姿は,トランス・ナショナルな交易の端緒という意味で,今ここの現代人の行動を理解する上で重要な先例ともなっている。そしてなおさら要度を増しつつあります。
*後掲川久保注
(1) K. J. Holsti. Taming the Sovereigns: Institutional Changes in International Politics, Cambridge University Press, 2004.
(2) S・クラズナーは、「組織化された偽善」としてのウェストファリア体制と国家主権の相対化について論じているが、本稿では現代の領域秩序を形成する基本的な単位は主権国家であるという前提に基づいて議論を進める。Cf. S. Krasner, Sovereignty: Organized Hypocrisy, Princeton University Press. 1999.
(3) A・C・デイーナー/J・ヘーガン(川久保文紀訳・岩下明裕解説)『境界から世界を見るーボーダースタデイーズ入門』岩波書店、2015年。この著作に関しては、以下の訳者によるレビューがある。FurninoriKawakubo, A Critical Development of Border Studies, The Journal of Territorial and MaガtimeStudies, Vol. 2, No. 2. Summer/Fall 2015, pp. 137-139.

トビの定義する江戸幕府外交

 さて,前記で抜いた注5ですけど,ここでトビの,右よりの方が聞いたら激オコな「鎖国」政策の本質を指摘します。

(5)幕府は、日明関係正常化(=明の冊封体制への加入)を放棄し、自らを頂点とする外交儀礼上の序列(朝鮮・琉球・オランダ・中国)を構築し、日本の優越を認めそうもない中国とは外交を断絶して、あたかも日本中心的な華夷秩序が存在するかのような環境を作り上げたのである。(ロナルド・トビ前掲書)

 江戸幕府の「国内統制用外交政策」とでも言うべき,西欧の国際感覚からは全く奇妙な,演出された「華夷秩序」がよく表現されています。
 ただ,ここまで諸史料に触れてきた限り,江戸幕閣もその虚偽性は認識した上で,国際的には恥も外聞もなく「鎖国」してる。──コモンセンスの中華秩序からすると,江戸期の日本は現代の北朝鮮と同じ位置にあります。
 その「無理っぽさ」を外交感覚に鋭い琉球は真っ先に嗅ぎ取った。だから,こんな曲芸的位置で「イケる」と踏んだのでしょう。

琉球 薩摩 福建浙江 みんなで囲めば怖くない

 時系列的には琉球に倣ったように見えます。あるいは,それぞれに属する海人のメティスの知恵が同じ方位を指したのかもしれません。

 薩摩の,日中琉と俵物産地を結んだ江戸期裏経済ネットワークは,琉球同様のゾーン経済戦略を,その軍事力と政治力を背景により機動的に実施したと言えます。
 これに後期倭寇の流れを汲む福建・浙江系の海民が,やはり倣ったような動きを見せます。細かく言えば,ベトナム系の海民もこれに食い込む。──後世まで見ると,これらの新参冒険商人グループとしてオランダやイギリスも東シナに来たわけです。
 薩摩や福建・浙江の海商群は,政治的には周縁に身を起きつつ,経済主体としては両国経済に支配的な影響を及ぼしたと言えます。これを,トビの図に次のように書き加えることは妥当でしょうか。

中国型世界秩序-日本型華夷観念との間における琉球王国並びに薩摩系及び福建・浙江系の海上勢力のイメージ図

 中日間に出来た政治的段差と経済的間隔は,後・後期倭寇とでも言うべき海人経済圏を生み出します。陸上国家のバッファゾーンだから,「寇」(海賊)よりも商取引を,鄭成功の如き国権よりも利益を彼らは追った。
 だから歴史にはそれほど巨きな影を落とさないけれど,この時代が海人の最も激しい動きを創出したのだと考えます。
 そもそも,この周縁の状態こそが陸上国家成立前の海人の常態ではなかったか。それが陸の関係性によって,時に蘇るだけなのではないでしょうか。
めにかかる雲やしばしのわたり鳥 芭蕉

「m19Cm第二十二波mまれびとの寄り着くは真夜 奥武島m3奥武島観音(ニライF68)」への1件のフィードバック

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