m19Dm第二十三波m妈祖廟の暗き棺に始まれりm6台南老城東

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

造ったように美しい闇

▲1857夜の台湾路地を行く

湾は,何と言っても夜の暗い路地が好い。
 薄汚れているのに人間的に清浄で,ぼんやり暗いのに妖艶に暖かい。
 例えば,上の写真の左手,ガラス戸の麺屋らしき店など,かなり勇気を出さないと入れない雰囲気だけど,興味だけは無性にそそられます。

▲1857夜の路面に付き出す防水栓

ったように見事な闇です。
 ところで,台南ではどうも消火インフラが目に付く。中国でも西安に多かった印象があるから歴史的都市という自覚が防災行政を手厚くするのかもしれないけれど……この写真の消火栓などかなり古びてます。

▲1900十字路を走り抜けるバイク

魯肉飯 ガチョウで代えても旨かった

鶏肉飯の記憶が歩くうちに蘇ってきました。
→【FC2】台湾/嘉義編
 あれは嘉義が本場と言われはするけれど,観光ガイド的には台湾南部に一般的。台南でもあるのでは──と期待してたら……

▲1910初火鶏飯

園路にありました!
1904肉伯火鶏肉飯
火鶏肉飯
扁魚白菜湯
小菜500
 ガ……ガチョウ飯に再び触ってしまった!
 見よ,この飯粒のキラキラぶり!にも関わらず,これは見て頂けないけれど……飯粒の芯まで染みているこの軽快な肉汁!

▲どアップ

伯は,台北にも支店が出てる有名チェーン店らしい。
 この店の紹介にあったのですけど──

鶏肉飯発祥のお店では昔は魯肉飯(ルーローハン)を販売していたのだそうです。魯肉飯は豚肉を使いますが、当時は戦争中で配給制だったので、豚を買うことができなかったときに、旧正月に配給された七面鳥のお肉に魯肉飯のタレをかけて食べてみたらおいしかったので、戦後から売り始めたのが始まりなのだそうです。
*TRAVEL STAR/肉伯火鶏肉飯は台南&台北の人気グルメ店!七面鳥の鶏肉飯が絶品でおすすめ!

 漢民族圏は豚肉至上主義の食文化なので,牛肉や鶏肉は豚肉より安い。七面鳥は食材としては三流なのです。これを日帝の戦時期に代用肉として使用したのが創始とする説ですけど──一般的な話なのでしょうか?

闇が段々艶っぽくなる

▲1924広告のある台南路上にて

が近づく。
 このエリアは,現代化度が最も高い商業エリアです。何の変哲もない町のはずなのに,夜の景観になると妙に艶っぽくなる。

▲1927夜の路地裏を覗く

城からすると東北側城壁近くになります。

台南歴史地図/1875台湾府城街路図 *33%で現代図と重ねたもの。灰色が1875年街路
 1875年老城図では東北側はかなり閑散としています。この余剰地を,鉄道敷設を契機に新市街化したのが,現在の駅前商業地区のようです。

後藤新平と鄭成功は逆を睨む

▲1933駅前。騎楼が残る。

なみに,本編冒頭で触れた駅前ロータリー中央には,現在は鄭成功像が立つ。
 日帝時代の同じ場所には,台湾総督府民政長官・後藤新平の像がありました。昔の画像*を見ると,後藤は駅方向=東≒東京(皇居?)を向いていたようですけど,現在の鄭成功は駅の反対側=西≒福建を睨んでおります。
*feat.おいしい台湾!!/台湾の気になる景色
URL:https://oitaiwan-pic.com/post-947/

▲1938駅前の下り道の路地にて

いうのが今次台湾初日でごさいました。
 当時も,あまりに一見では消化不足になることには気づいていたものか,この夜は結構本気で下調べをしております。巻末はその際のメモをそのまま残します。

▲おまけ:「■をもたらします 日韓平價精品店」──うーん?何の店なのじゃ?

■メモ:台湾の媽祖廟創建史(古いもの順)

 まず台南大天后宮(現名)が史書に年代を記された最初は,次の1683(康熙*22)年の記述です。
*清・康熙元年=西暦1662年 ∴康熙X年≒西暦(1661+X)年
 清・乾隆元年=西暦1736年 ∴乾隆X年≒西暦(1735+X年)

康熙二十二年靖海將軍侯疏請崇祀奉[郝玉麟監修,謝道承編「福建通志」]

──1683(康熙22)年,靖海将軍が祀った。
(「疏請崇祀奉」部は古式の表現らしく,ニュアンスがよく理解できません。)
 清・施琅の軍が安平から台湾本島に上陸,鄭克塽が降伏したのが1683年9月とされるので,その後の台湾史に何度もあるのと同じく,施琅は台南に入ってすぐ新征服者の証として天妃宮*を「創建」したわけです。
 ただし,前章で触れた大天后宮の前身・寧靖王府邸は,以下の史料から施琅の台湾征服以前から天妃宮としての機能を持っていたとするのが定説化しています。

東寧天妃宮者,經始于寧靖王之舍宅,而觀成于吳總戎之鳩工也。[季麒光(諸羅縣知縣)「募修天妃宮疏」]

查郡城西定坊之天后宮,未入版圖以前即已建造,郡垣廟宇,此為最久[蔣元樞(乾隆年間的臺灣府知府)〈重修臺郡天后宮圖說〉]

 よって,大天后宮の媽祖廟としての創建は,1683(康熙22)年より前の鄭氏王朝時代のいつかだと推測されます。

*[諸説]「天妃」号と「天后」号

 1683年時点で「天后」号はまだ封号されていないとするのが通説です。施琅の上奏で,翌年に初めて北京がこの「媽祖天后昇格」という叙勲手法を使ったのでしょう。
 沖縄で使用される媽祖の「天妃」号は,1281(元世祖至元18年)に元帝が封号したものと伝わり,定説化しています。

元世祖至元十八年(1281),以庇护漕运封护国明著天妃[天妃显圣录]

*莆田文化网:天妃天后首次封号的由来。以下本節について同じ。
URL:http://www.ptwhw.com/?post=4604

 なお,「天妃」の語源らしきものとしては次の記述があります。

朕恭承天庥,奄有四海,……唯有尔神,保护海道,舟师漕运,恃神为命,咸灵显赫,应验昭彰[天妃显圣录·历朝褒封致祭诏诰]

 これに対し,「天后」号への清帝による「昇格」は1684・1737・1757年の三説があり,定かではない。

有三说,一说妈祖被请康熙皇帝于二十三年(1684)加封为“天后”,系施琅因妈祖阴助平台有功,施琅攻复台湾后,回来奏请康熙皇帝加封妈祖为天后。一说为清乾隆二年(1737),因延协目兵黄忠等由台湾回厦,台湾守备陈元美等领饷回台,中途遇风、祷妈祖庇佑才得以平安。由允祹奏请加封天后。一说为妈祖护册封使全魁、周煌有功,全魁、周煌于乾隆二十二年(1757)奏请加封妈祖为“天后”。[前掲莆田文化网]

 前二者は施琅の軍事行動に伴うもの,最後一者は周煌という人が琉球国王の冊封のための航海で遭難した際のもの[琉球国志略·巻七]。最初の一者のみ康熙帝,残り二者は乾隆帝による勅封。官僚組織が厳格に機能した清朝内で混乱した判断がなされたとは考えるにくいけれど,勅封事実自体はそれほど流布するわけではない。だから清外交官僚は,重複を知りつつ,海事行動の度に,17C末から18C半ばにかけ複数回に渡り「媽祖天后昇格」という手法を常用したのだと思われます。

 さて,この大天后宮を別格として,清代以降の台湾における媽祖廟創建史は以下の通りです。施琅と同様の発想で天后宮が「清朝征服地」に設けられていったと想定すれば*,大陸中国支配域の拡大経緯を追うのと同義となります。

1717(康熙56)年 諸羅縣志記述分

※参照 I Love Mazu/1.1史書上出現過的媽祖廟
URL:https://ilovemazu.weebly.com/1121490263601997820986296943694230340232293106224287.html
 なお,【】書きは引用者が付した西暦表示

一(嘉義城隍廟大天后宮)在城南縣署之左。康熙五十六【1717】年,知縣周鍾瑄鳩眾建。
一(北港朝天宮)在外九莊笨港街。三十九【1700】年,居民合建。
一(鹽水護庇宮)
在咸水港街。五十五【1716】年,居民合建。
一(北投關渡宮)在淡水乾豆門。五十一【1712】年,通事賴科鳩眾建:五十四【1715】年重建,易茅以瓦,知縣周鍾瑄顏其廟日『靈山』。[周鍾瑄「諸羅縣志」卷十二雜記志/寺廟 天妃廟,1717(康熙56)年 ]

1835(道光15)年彰化縣志記載分

一(鹿港新祖宮)在鹿港海墘,乾隆五十五【1790】年,大將
軍福康安倡建,廟內有各官祿位。
一(XXX彰化縣北門內天后聖母廟)在邑治北門內協鎮署後,乾隆三【1738】年北路副將靳光瀚建;二十六【1761】年,副將張世英重修。
一(彰化內天后宮)在邑治東門內城隍廟邊,乾隆十三【1748】年,邑令陸廣霖倡建。
一(鹿港天后宮)在鹿港北
頭,乾隆初,士民公建,歲往湄洲進香,廟內有御賜「神昭海表」匾額。
一(彰化南瑤宮)在邑治南門外尾窯,乾隆中士民公建,歲往笨港進香,男女塞道,
屢著靈應。
一(王功福海宮)在王宮,嘉慶十七年邑令楊桂森倡建。
一(竹山連興宮)在沙連林坦
埔,乾隆初,里人公建,廟後祀邑令胡公邦翰祿位。
一(鹿港興安宮)在鹿港新興街,閩安弁兵公建。
一(南屯萬和宮)在犁頭店
街,
一(西螺福興宮OR西螺廣福
宮)在西螺街,
一(北斗奠安宮)在東螺街,一(大肚萬興宮)在大肚
頂街,
一(大肚永和宮)在大肚下
街,
一(二林仁和宮)在二林街,
一(埤頭合興宮)在小埔心街,
一(南投配天宮)在南投街,一(名間朝聖宮)在北投新街,
一(台中萬春宮(雍正)在大墩街,
一(大里杙福興宮)在大里杙街,
一(二水安德宮)在二八水街,
一(豐原慈濟宮)在葫蘆墩街,
一(田中乾德宮)在悅興街,
一(台中樂成宮)在旱溪莊。[周璽「彰化縣志」卷五祀典志/祠廟 天后聖母廟,1835(道光15)]

総括及び台北龍安寺

 総括すると,18C半ばまでにやっと彰化(現在の県)まで到達している。台中付近に達したのは19Cに入ってからと思われます。
 北部では,咸水港(北投關渡宮)【1716】や淡水【1712】に18C初めに飛び地を設けています。
 なお,この中に台北龍安寺は名前を記されていません。龍安寺は1840年竣工とするのが通説ですから,1835年の周璽「彰化縣志」の筆には書かれないわけです。

泉州三邑人信仰中心的晋江龙山寺香火袋遗忘在竹枝上,被人视有神迹而供奉[1]。乾隆初年,三邑商人黄典谟发起建寺,募资银二万余元[2]。以风水家张察元堪舆[3],乾隆三年(1738年)五月十八动工[4],乾隆五年(1740年)二月落成[2]。[維基/艋舺龙山寺 位於臺灣臺北萬華的知名觀音寺]

*同引用元[1] 董智森. 《三百繁華過盡.今日反雛妓慢跑》 華西街. 《联合报》. 1993-11-14
[2] 吴南. 台北西城故事 三百年艋舺滄桑史. 《联合报》. 1966-02-19
[3] 洪茗馨. 龍山寺的歷史傳說走過二百六十年 名列二級古蹟開鑿「美人照鏡池」居民免遭回祿 坐擁「美人穴」守護艋舺年復年. 《中国时报》. 1999-05-09
[4] 王兰芬. 小檔案 龍山寺建成近260 年. 《民生报》. 1999-05-11

 ただし,上記の通り,1840年創建というのも一次史料に書かれてはいません。捏造や誇張でないと信じるとしても,この当時には漢人の上陸地に無数にあった極めて小さな媽祖廟の一つだったと推測できます。

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