m19Em第二十四波m天后や天后の街でしかないm1鄭成功祖廟

本歌:サルビアやサルビアの街でしかない〔立教池袋A〕

嘉義農工の地
嘉義は
今次は媽祖の
初限の地でした。
永い年を終えます。
[前日日計]
支出1400/収入1350
    ▼14[206]
    /負債 50
[前日累計]
利益  -/負債 290
§
→十二月三十一日(二)
0716清祺素食点心部
咸豆粥,焼餅370
1140廟辺假魚肚
鶏肉飯
假魚肚300
1306老夫子牛肉店
牛肚飯
牛雑湯300
1723桃城三禾火鶏肉飯
火鶏肉飯
哈仔湯300
1840可口火鶏肉飯
鶏肉飯
猪肚湯300
1915状元餅
筒仔粿來源150
[前日日計]
支出1400/収入1720
    ▼14[207]
負債 290/
利益 30/
[前日累計]
利益 30/負債 –
§
→一月一日(三)

 

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

大天后宮より古いかもしれない

台南歴史地図/1875台湾府城街路図(35%:台南車站〜陽徳章記念公園ロータリー付近)

南駅南西部の地理は如何にも捉えようがない。
 東に東岳殿,南西端に孔廟,北西端に天壇がある。この3点を結んだ直角三角形をイメージすると,東岳殿から天壇の斜めのラインに,ドットの小さい区間が並ぶように見えます。

日治時期岳帝廟(東嶽殿)三川殿正面──日本統治時代の岳帝廟(東嶽殿)の三川殿正面(台灣文化部文化資料庫)

りとてこの間にドットの大きい区間も混ざるし,一繋がりのメインロードも見当たらない。
 東岳廟の創建は伝・1673(大明永曆27)年,大天后宮より古いかもしれない。鄭氏二代・鄭経が三藩の乱に乗じて大陸再出兵する際に「求出師順利」戦勝祈願として建立したとされます。
*維基/臺南東嶽殿 位於臺南市中西區的東嶽廟,主祀東嶽仁聖大帝
 以下は,この不透明なエリアを闇雲に歩いた記録になります。

北門路一段161巷

▲0650北門路一段161巷

日大晦日は嘉義に入り,歳を越す。
 でも台南はもう少し歩いてみたい。
 ということで早起きしました。0644,宿周りの散策開始。
 光華観光商務大飯店から少し駅方向へ。目をつけていた裏道・北門路一段161巷へ入る。左折西行。
すぐにT字。左折南行。宿の真裏になる。

1875台湾府城街路図(35%,現台南車站付近) *青矢印:北門路一段161巷

の細道は,驚くべきことに1875年地図に書かれていました。台南車站南西に二つ,崩れた円環のような道があり,両円の接点のような道です。
 この道は一体何でしょう?
 けれど当時は──駐車場。行き止まりなのか?いや出れるぞ,西南角の道を南行する。0649。
 ad(住所表示)123巷。西の車道に出れるらしい。

▲0654北門路一段123巷から車道への出口

655,民族路二段。道を渡り対面の車道へ。
 しまった。東方左手に建物のある当たり前過ぎの通りになってしまう。──1875年地図でもこの辺りは妙に閑散としていて,スポット的に新しいエリアになってます。ただし小店は多い。ad萬昌街。
 衛民街との交差点。直進だな。はらりと小雨。

早飯を食わずに台湾と言うなかれ

▲0700東菜市付近

菜市まで行って入らず引き返して青年路を西行。0708。
 この道は西へはっきりと下ってます。ちょうど萬昌路ラインが最高所の緩い尾根状になっているように見えます。
 おお?あれなる店は──

▲0717清祺素食点心部の朝御飯

の台湾と言えば早飯。完全な通りすがりだったのに──
0716清祺素食点心部
咸豆粥,焼餅370
 イケました!
 青年路の早飯店の中でも,まず飛び抜けて客足がある店でした。

▲清祺素食点心部の工場のような店内

豆ジャンは,海苔がやや多め。でもここのは,豆ジャンとのバランスが絶妙で何も飛び出ていない。じーん,と胃の腑に染みる旨さです。
 焼き餅,これはシンプルなのが一番でした。周りは淡くクリスピーなのに中は,パサパサでありながら少し噛むと粘りを持つ。小麦香が半端じゃない。

スポーツじゃない運動者


馳走様!──と表に出ると,すぐ隣が台湾府城隍廟でした。つまりこの辺りが,清代の霊的な核,古き台南の中心ということになる。
 すると先に触れたドットの大きな区画は,清代の官庁街でしょうか?
 ここの壁に,「鄭成功祖廟」という場所の広告を見る。いいね,行ってみようか!西行に決める。

▲ロータリーを回るスポーツじゃない運動者

ータリーを反時計回りしている集団。どうやら何かの政治的主張をしてるらしい。
 ロータリー対面,民生路に入る。
 0754,忠義路二段へ左折。
 あった。鄭成功祖廟。入口左手には「鄭成功母子彫像」も掲げてあります。

家廟→大宗祠→昭格堂→祖廟

▲0756鄭成功祖廟の前庭。「凹壽式」形式と呼ばれる,内側に引っ込んだ構造が特徴的

額は「昭格堂」となっています。中ほどのは「揆咨岳佐」,奥が「三圭世錫」。
──何せ,さっき存在を知ったばかり,予備知識はゼロです。
 説明書では正式名は「鄭成氏家祠」となっています。──ここは鄭氏家廟が正式名だけれど,鄭成功家系の,という意味でこの「鄭成氏家廟」を称することがある。清代には「鄭氏大宗祠」又は「昭格堂」と呼ばれ,簡称として「鄭姓宗祠」。ごく最近(2002年)「鄭成功祖廟」名に復号しました(巻末参照)。 

▲0759本殿の神像。てことはこの人が鄭成功??

南閩的な あまりにも南閩的な

はり中庭はパティオ状。つまり典型的な三開間三進(方形区間が3つ連なる)の形式で,手前から前殿・正殿・後殿。
「座東朝西」,神像が東から西を向く方向です。
 対聯は
昭毅無雙開疆復土承天續
格思靡既迪後光前擘海祠

▲0807本尊手前の古びた香炉

屋の造りはまさにプロトタイプの南閩古厝であるという。
 おそらく最も古厝の構造を整理してある林安泰古厝(台北市忠孝東路4段)の資料を次に掲げてみました。


林安泰古厝絵図面
1.月眉池 2.外埕
3.安泰堂 4.燕尾風貌
5.凹壽、三川門、雕飾 6.斗栱
7.正廳 8.門廳雕飾

鄭氏家廟になぜ砲弾が落ちたか?

眉池」(1)は,先述の前庭の凹み構造(5 凹壽)と合わさって円環を構成する格好です。
 このかつて存在した半月池(古井)から見つかった砲弾が展示してありました。どの時代のものかなど,考古学的な情報はない。ここがそんな激しい近代戦に晒されたことがあったのでしょうか?

▲0804「鄭氏家廟古井出土砲弾」

時,ひょっとして媽祖か?と見間違えたほど中性的な鄭成功神像に対し,一体だけ武将っぽい鄭成功像が屹立しておりました。
 よく見ると……なるほど,日本産のイメージによる像なのね。平戸市が贈ってきた像らしい。

台南市との交流を促進する平戸市民の会

▲0802平戸市中野観光協会贈「鄭成功像」

戸市民と台南市民は、歴史上の偉人である「鄭成功」ゆかりの地という縁により、
(略)「台南市との交流を促進する平戸市民の会」と「台南市台日友好交流協会」との間で「平戸市民・台南市民交流促進協定」を平成25年7月13日に締結しました。*長崎県 平戸市(ひらどし)ホームページ/台湾・台南市(交流都市)|HIRADOじかん情報
URL:https://www.city.hirado.nagasaki.jp/kurashi/culture/kouryu/kokusai/kokusai03.html

 平戸市の鄭成功記念館が落成した際の記録「2016日本平戸鄭成功記念館山門落成交流」も展示されてました。端っこの資材置き場みたいなところでしたけど……。

▲平戸の記念館ニュース

の辺りの「温かい」情報群に当時は溺れて,散歩中に立ち寄っただけだったし,あんまりここの歴史的意義を感じることはなかったんですけど──どうもやはり凄い場所ではあるようで。

▲鄭成功提灯

■レポ:清朝は滅んだ鄭氏を恐れなかった

 鄭成功祖廟は伝・1663(明永曆17)年建築。鄭氏二代鄭経が台湾に入ってすぐ父・成功を祀り「延平王廟」と称しました。「先王廟」とも呼ばれ,鄭経が死ぬと彼も合祀し「二王廟」となり「大王廟」とも呼ばれるようになりました。
[後掲維基。原典[1] 石萬壽. 樂君甲子集. 臺南市政府文化局. 2004年3月: 230頁]
 廟前の道路(忠義路二段)は1983年に「再次拓寬」(再度拡張)され,前面の門はこの時に改修されています。
「再次」というのは,日帝統治期の1919(大正8)年に市区の再開発があり,この際に廟門とそれに続く前部が破壊されたと推測されているからです。この部分はしばらく放置されていたけれど,1930(昭和5)年に「台湾文化三百年紀念」事業として,鄭氏の家族による「臺南鄭氏宗親會」が発起した募金により補修されています。
[後掲維基。原典[5] 傅朝卿. 台南市古蹟與歷史建築總覽. 台南市: 台灣建築與文化資產出版社. 2001年11月: 161頁]
 なお,後掲台南旅遊網(臺南市政府観光旅遊局2022-03-23更新)によると,ここの名称は「臺南故事影像館」で「原鄭成功祖廟」(元・鄭成功祖廟)とされているから,2022年現在は廟ではなく博物館的な扱いになっているらしい。
 要するに,この場所は大正期の日帝以降,信仰の場としてはあまり機能しておらず,「鄭姓宗祠」(氏族の墓所)かつ観光施設として認識されているようです。
 1875年の台南地図(下図)で見ても,かつて複数ブロックに跨っていたと推定される一連の敷地は,既に南北の通りで寸断されています。19C末には宗教的機能は失われていたと考えるのが妥当でしょう。

1875台湾府城街路図(20%,鄭成功祖廟区画)

施琅祭祀滅族仇人鄭成功──滅ぼした敵・鄭成功をまつった施琅

 ところが,鄭氏政権が滅びた後も,征服者・施琅は鄭成功の祀りを継承したらしい。

施琅曾來此處祭拜鄭成功[4],但後來由於鄭氏族人被遷回中國大陸,周圍居民又不敢公然前去祭祀鄭成功,導致該廟一度被兩個姓許和姓蔡的官役佔去,直到乾隆三十六年(1771年)才由士紳鄭其嘏等人贖回重修,並改稱「鄭氏大宗祠」,又稱「昭格堂」,而之後數年也有數次整修過[1]。
[後掲維基。原典[1]前掲 [4] 王浩一. 在廟口說書. 台北市: 心靈工坊文化. 2008年8月]

──鄭氏の族人は大陸中国へ移り住み(連行された?),周囲の居民は公然とは鄭成功の祭祀を行えなかったから,一時は許姓と蔡姓の祠として維持されていた。1771(乾隆36)年に「士紳」鄭其嘏らが改修を行い「鄭氏大宗祠」を構え,「昭格堂」を設け,さらに数年かけて何度か改修していった。
 つまり,鄭成功廟の継続は黙認されており,さらに18C後半には奨励されたかのような情勢です。
 鄭氏のために沿岸部に遷海令を強いて人民を内陸移動までさせ,徹底抗戦してきた敵の始祖廟です。清朝が跡形もなく破壊しても然るべきです。
 そもそも──先に挙げたように鄭氏後裔を自認する一族は,大陸中国に永く存在してきました。施琅は,強制連行(後掲*)かもしれないけれど鄭成功の一族を大陸に移送し,根絶やしにはしなかったと推測されます。
 漢人,さらに遊牧民出自で揚州や四川では反抗勢力を呵責なく殺戮してきた清朝の占領政策の中では,途方もなく異様です。
 毎日頭條にも同様の疑問を呈する記事がありましたけど──概ねは施琅の「任侠」に結論づけています。

東寧滅亡の日、鄭成功の廟で嗚咽涕泣する施琅の姿があった[2]。[後掲wiki]
*出典:[2] 周雪玉、『施琅攻台的功與過』、台北、台原出版社、1990年2月

 この人の息子・施世綸は名臣とされ,清代中期以降に流行した小説「施公案」のヒーロー。漢人社会では酷く持ち上げられた方なのです。

「施公案」ポスター

鄭氏一族が大陸内地へ強制連行された?

 別の維基の記述に,こんなものがありました。

1683年明鄭滅亡後,明鄭王朝君臣,還有官兵、眷屬十萬人,俱遭清政府下令強制遷入中國十八行省。[維基/臺灣首廟天壇]

──1683年に明・鄭氏政権が滅亡すると,鄭氏王家や臣下,兵隊,血縁者など計十万人が清政府の命により中国の十八行省に強制連行された。
「十八行省」は異民族・清朝支配下の漢人居住率の高い「漢地十八省」を指します。「行省」は「行中書省」から来ていて,元は女真族(金朝)や蒙古族(元朝)の体制下の名称ですけど,明代にも引き継がれ,特に清代に政治用語として定着したらしい。
 一次史料の出典が定かでないので確認・推定し辛いけれど,事実ならば,明清交代期に相当規模の虐殺*§が行われた穴埋めに,遊牧民らしい発想で労働人口として移動を強要したことが推定されます。
**事例:四川での「填四川」(屠蜀)については下記リンク参照。揚州での「揚州十日」については揚州再訪編31(FC2プログ)参照。

「鄭成功祖廟はなぜ残ったか?」諸仮説

 けれど,通常大陸中国の社会で一個人がそんな任侠味を示しても,権力闘争の中では引き摺り下ろす材料になるだけです。施琅の義侠心は,動機や雰囲気には繋がっても,この件の説明にはなりません。
 ではなぜ,施琅の「軟弱植民政策」を清中央は容認したのか?

それほど台湾は流動していた

 施琅には「壤地初辟疏」という著があり,彼が皇帝に台湾の困窮を問いて減税などの「善政」条件を勝ち取った,ということになっている……らしい。原文にどうしても当たれないし,一部採集できるものは理解が非常に難しい。
 ただ,この支配層交代期に台湾がかなり荒れたのは確かのようです。

《台湾府志》赋役志所载,郑氏时台湾人口男丁有21320 人,清接收后, “底定存册”仅余12724人, 减少了40%; 田园数量也由原来的 30053甲,减为18453甲,减少了38.62%)。[後掲李]

 曰く──鄭氏政権下より,労働人口も田も4割減じたという。
──これも台湾府志など原典には直接の数字はなく,研究者が集計したもののようです。
 苦難の末に台湾を領した施琅にしてみれば,相当な危機感からやむを得ず「善政」を徹底せざるを得なかったのでしょう。
 けど……4割減??
 現代日本で2016年総務省統計を元にした推計(労働力調査年報を元にした国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来人口推計」(2017年4月))で2020年以後40年で労働人口4割減が予測されました。台湾でのスパンが分からないけれど,現日本のような極端な少子化と高齢化の状況で,▲4割というのは初めて現実化します。
 鄭氏王権は台湾本島での大規模な戦闘を伴わず,「平和裏に」瓦解しました。17C後半の台湾で発生したなら,それは実人口の変動でも戦死・虐殺によるものではなく,外部への流出しか有りえません。

18C後半の大人口移入

 17〜18Cの台湾人口の流動性を示すデータとして,典型的なのは18C後半です。
 1786年11月彰化県で天地会の会員逮捕を機に勃発した暴動(林爽文反乱)は,翌年12月,つまりほぼ1年放置された後,大陸からの清・鎮定軍により1788年に終息します。
 この反乱を機に,というには因果が逆らしい。この18C後半,大量の密航が行われたとされます。林爽文反乱鎮圧後は海賊として定着した,つまり反陸上社会化したようです。

例えば1759年の一年間に拿捕された密航は25件、逮捕者は990余人であった。人口は増加しつづけ、1811年には195万人に到達した[注 3]。
[後掲wiki/清朝統治時代の台湾]
原注[注3]人口調査については問題が多く、(黄 1970*)によれば19世紀初頭まで信頼できる統計はない。
*黄昭堂(1970), 台湾民主国の研究, 東京大学出版会

 増減の度合いは不明ですけど,この時期の台湾人口は凄まじく流動していました。そもそも鄭芝龍が福建の難民類似の人々を組織化して中部台湾を拓いていった訳です。彼らは危険になれば,台湾を捨てたでしょう。「陸地を捨てた」と言い換えてもいい。
 そういう意味で,台湾人の祖は全くもって海の民です。清朝征服というジャイアント・インパクトにあっては一時海域に散らばり,18Cに経営安定の兆しが見えるや暴走的に成長していった。
 清朝側の海賊だった施琅は,「台湾」の本質をよく認知していたのでしょう。

(再掲)地球の生成──太陽生成時の小物体が引力で次第にまとまったとされる。[全地球史アトラス]

台湾「義民」推奨運動

 1786年の林爽文反乱後,清朝統治側は「御匾」(皇帝より賜った篇額)を乱発しています。台湾府側の内政上の強い要請によるものでしょう。

事件平定之後,乾隆帝賜御匾予臺灣的各籍人民,台灣熟番得「效順」、台灣泉州裔台灣人得「旌義」、台灣漳州裔台灣人得「思義」、台灣客家人得「褒忠」,而後台灣客家人稱此事件協助官軍平亂的兩百多位殉難者為「敕封義民」,建造了「褒忠義民廟」、苗栗義民廟加以奉祀,自此義民信仰也成為台灣客家人重要的鄉土信仰。
泉州閩南人也在今雲林縣北港鎮留有「北港義民廟」信仰,拜的就是前述乾隆皇帝頒發的「旌義」牌,為泉州系統的台灣泉州系閩南義民廟。[後掲維基/林爽文事件]

 各地に,由来に頓着することなく「義民廟」が設けられた。統治側の発想は,公共倫理の醸成でしょう。「化外」の地の「無頼」の輩を公民化することに,行政が注力した。

苗栗頭份中山路義民廟の篇額

「嘉義」の地名も,「嘉其死守城池之忠義」(城を死守した忠義を嘉す)との聖旨を受けて林爽文反乱の翌年1787年に旧名・諸羅山(≒諸々の羅刹の山)を改名したものです。
 してみると,この発想は乱の前からあったでしょう。──1771(乾隆36)年に鄭成功祖廟が改修されたのも,流石に行政が直接は行わなかったにせよ,そうした逼迫した公民化運動の一貫としてなされたものと推測されます。
 ただ,清初の台湾平定直後の大背景はもう一つあったように思う。

それほどどうでもよかったから

 清朝は,台湾を領有する気で鄭氏と対峙したのではありません。日本や琉球を放置したように,台湾についても,そこに敵がいなければ後はどうでもよかった。

清朝は、鄭氏政権を滅ぼした後、台湾を放棄するつもりであったが、清軍提督の施琅の提言によって、清朝の支配下におさめることとした。(略)台湾の重要性を認識するようになったのは、清末になってからである。イギリスやフランスが中国へ進出してくるにつれ、台湾の防衛上の重要性が増してきたことから、清朝政府は、ようやく1885年に台湾を省に昇格させた。[後掲三尾]

 実は,この「台湾を放棄」あるいは領有に消極的,という表現はあちこちに出てくるのだけれど,根拠は明らかでない。
*後日追記 可能性のある史料→次章:大清聖祖仁皇帝實錄「得之無所加,不得無所損」

土牛溝によって番界という台湾原住民の生活域と漢人の生活域をわけ[注 1]、台湾原住民を化外の野蕃[注 2]として放置し続けてきた。[後掲wiki/清朝統治時代の台湾]
*原注[注 1] 康熙61年(1722年)に初めて画定,漢族の進入・開墾を法的に禁止。
[注 2] 初出は牡丹社事件の清国の官吏である

といった,台湾内の漢族居住圏の線引の未確定などの状況をそう解釈しているらしいけれど……どうも説得力に欠ける。
 ただ,この点で鄭成功崇拝を放置したという事実がむしろ積極材料になるかもしれません。──占領した台湾を統治しようとする意図があるなら,22年も抵抗し続けた勢力の廟を放置したでしょうか?
……と書くと,これは因果が堂々巡りになってしまうので……一時は台湾のみならず呂宋(マニラ)の中国人の一縷の望みにもなっていたと思われる鄭氏ら海上勢力が,なぜ鄭氏末裔を奉じた第二王朝を企図しなかったのか,それをなぜ清朝が恐れなかったのかは,どうもピンと来ないままなのです。

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