m19Em第二十四波m天后や天后の街でしかないm2嘉義から西行

1661年鄭成功「鷲嶺」に天壇を築く

▲0818天壇近くの路地

だらけと何度も書いてしまった台南ですけど,鄭成功祖廟を出てからの帰路,しばらくはそれがさらに濃縮還元されてる感がありました。
 西側道向かいに五帝廟。北隣に開三官廟基。
 中国以来,こう古跡が連なると麻痺してきて終いにウザくなってくる。でも0811,忠義路を北行しますとさらに台湾首廟天壇。見つけてないけどこの北には北極殿というのもありました。これは──

台南歴史地図/1875台湾府城街路図(25%,鄭成功祖廟北側付近)
a:鄭成功祖廟 b:中和境開基三官廟 c:八吉境五帝廟 d:台湾首廟天壇天公廟 e:台南北極殿

に落とすとこういう感じに連なります。
 三官廟(1778(乾隆43)年建,謝金鑾「續修台灣縣志」)を除き,全て明鄭期の創建と伝わるものです。中でも天壇は──

相傳1661年12月鄭成功自荷蘭東印度公司取得臺灣後,官方的祭天天壇即設於「鷲嶺」,該小山丘即為臺南天壇現址。[後掲維基/臺灣首廟天壇]

──1661年(ゼーランディア城陥落前)に鄭成功が台湾に入ってすぐ,公式行事として小山「鷲嶺」に天壇を設けたとされます(一次史料不詳)。
 当時の台南市街の,赤崁より高台にあった丘陵地が,これらの神殿が並び立つ神域だったことになります。
 0819,民権路に右折。
 雨がひどい。交差点から衛民生街へ東行。

日本の田舎の鈍行です

▲0835台南駅前近くの雨の街角にて

前干利修という大きな一棟のみのマンションが聳えてきました。
 西華南街へ左折北行。
 0840,北門路へ帰り着きました。
 退房(チェックアウト)。

嘉南平原 (黄色部・広義。緑部は彰化平原)
*現在の彰化県、雲林県、嘉義県、嘉義市、台南市および高雄市の行政区域に跨っており、台湾最大の平原かつ農業地帯で、濁水渓、北港渓、八掌渓、急水渓、曽文渓、塩水渓および二仁渓など河川の堆積作用により形成された沖積平野

南駅。0905発の3148次・后里行きを待つ。90元。「后里」は台中の北の方。
 しかしいい駅です。表は改装工事か何かやってる。「風華再現」と垂れ幕が出てるからどこかの大陸風にブッ壊すのではないらしい。
 定刻発車。次の大橋駅が台南の5km北。嘉義まで70kmだからこの調子の鈍行らしい。いーね。
 0909,大橋発。雨は止んでる。天気予報でも曇り時々雨,おそらく降っても,もう大降りはない。
 車内にトイレは,別車両ながらある。座席配置以外はホントに日本の田舎の鈍行です。
 のどかじゃのう。

▲嘉義までの列車車内。手前で眠りこけてるおじいちゃんをご記憶ください。

再びここへやって来た

913永康発。次は新市。もちろん台南の,ということでしょう。語感的には「新市街」──街は郊外地のそれに転じてます。
 0924,南科。
──台湾はGoogleマップのオフライン地図が取れる。SIMは変えてないからノーローミングのままこれで見てればまず実用には耐える。必要な時だけローミングすればいい。
 0929,善化。
 それなりに大きな街です。一瞬,西の車窓にランタンに彩られた街路が見えた。
 けれど発車すると一気に農村風景。畑だけど作物はモノカルチャーじゃなくかなり多彩です。
 0934,駅名「找林」。林を伐採して拓いたような意味か?
 0936,隆田。
 0942,林鳳營。「營」は軍の駐屯地の意だろう。この「……營」駅名が3つ続きます。ということは,そういう征討の地だったことを意味する。原住民の,だろう。
 もう台南-嘉義の半ばを過ぎました。
 田が増えた。整地も行き届いてきてる。
 0945,林營。活気はないけれどある程度の街です。筆の形がすっきりしてて最近の造営らしい。

台南〜嘉義区間鈍行鉄道路線図

949,新營。ここもしっかりした街です。
──と?寝てたオヤジ(前掲写真参照)がバッと飛び起きて,鉄砲玉のように降りていく。あれ?ペットボトルを置き忘れてますけど?……と告げる間もなく列車は走り出す。
 整地の行き届いた畑。そうか,もうこの辺は八田與一の烏山頭水庫の下流域です。
 0957,後壁。もう嘉義から15kmほど。
 1002,南靖。道沿いに建物が切れ目なく並び始めた。宮が一分おきくらいで現れてきます。
 1005,水上。まだ全然小さな駅ですけど,街の色はかなり都会じみてきました。
雲の間に晴れ間なし。けれど暗雲もなし。今日は一応傘を帯びようか。
 そして1011,嘉義。所要66分。
 再びここへやって来た。
 北の駅は嘉北。

▲嘉義駅ホーム

~~~~~(m–)mRe.嘉義編~~~~~(m–)m
凡例 嘉(桃地白字):嘉義

7201小公の旅

▲嘉義駅ホームにて

ずは光彩路を目指しました。
 角のカフェはなくなってる?いや駅側に移てるのがそれか。
 その至近距離,これは記憶通りの場所に國園商務大飯店。18百元とバカ高いけどゲンを担いで再泊。大晦日だし贅沢します。
 さて!バス停に急ぐ。
 今回の嘉義は,西の媽祖廟を目指すベースキャンプなのでした。
 当時の行程メモはこんな感じでした。

嘉義火車站→(7201★路or7325路)北港警察署or北港国泰人寿→(徒歩3分)北港朝天宮
→(7201A★路or7325路)新港奉天宮→(徒歩2分)新港奉天宮
→(7201★路or7325路)嘉義火車站

🚌
港行き7201路バスは,北駅前ロータリー前の小島・2番乗り場からでした。
 ここから高鉄経由も沢山出てる。なお,嘉義のバス停は,ここの他に民雄経由北港行きなどの3番が北に,阿里山行きなどの1番が南にあります。
 でも1042……来ない??始発だろ?遅れねーだろ普通?いや……電光表示に7201が「即将進站」(まもなく到着)と出た!どうやったら遅れるのじゃ?
 ところが来たのは──7325とある小公(ミニバス)。「北港」と書いてあるし,事前調べでもヒットしてる路線だし……いいんだろ? 運ちゃんの爺さんに一応確認して乗車。
🚌

朴子渓 新港奉天 北港朝天宮

龍宮。
 嘉義市議会。ホワイトハウスめいたがっちり洋式の建物であります。
 嘉義医院。
 1050,森林公司。
 美母寮。……なんちゅー命名やねん。
 川を渡る。街が郊外めいてきた。
 結構ブッ飛ばしてる。どんどん停留所名は変わるからもう書かない。でもこりゃ2時間なんてかかるわけないぞ?
 朱子公宮。
 線路中心。
 竹村。バスターミナルみたいな機能の場所みたい。
道が良くなりさらに飛ばす。巨大な関帝人形が屋根に座ってるような宮。
 南新国民小学前から町に入る。
 嘉新國中。
 客は残り3人に減る。11時を回った。
 どやどやした通りです。麻魚寮。麻太路。過溝。──面白い地名が多いなあ。
 ここで見えなかった婆ちゃんも含め,2人下車。車内に残るはワシともう一人だけ。
 1106,嘉太工業区。Googleマップをオンにしてみるとほぼ中間地点。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路):嘉義〜北港

きな幅の,でも水量は少ない河。──と書いているのは「朴子渓」のことでしょう。河口には朴子渓口湿地が広がります。これの北の,北港そばを流れる北港渓は「八七水災」(1959年発生。死者667人,行方不明者408人,台湾災害史上最大)を引き起こしており,暴れ川が眠っている状態らしい。
 水利会。これも意味深。
 月眉潭。
 菜公村。
🚌
港の奉天宮が見えました。
 ここは間違いようがない。曲がり角だし,これしかないような通りです。北港と少し宮を取り巻く街のあり方が違うらしい。
 老塗師。
 南壇。
 派出所?ここで降りる予定だったけど……どうも目的地じゃない。北港派出所というバス停が別にあるのか?
 水仙宮──安和路口──
右折,橋を渡って北港国泰人寿。ここだと思う。下車。1129,所要50分。
 ad義民街の道を右折すると──宮が見えた!ad民主路。

天后珈琲 鶏肉飯 魚肚

▲1132民主路の向こうに宮見ゆ

后珈琲?
……を過ぎた辺りで驚き始める。これは……マジで巨大です!
 南から入る形らしい。回り込むと──東側に小店が数店あるのが目に入る。昼を回ると混むかもしれない。入る前にあえて,自分を焦らしつつ腹ごしらえとします。
1140廟辺假魚肚
鶏肉飯
假魚肚300

▲まず朝飯

む。取り立てて書くほどのことはないな。
 でもこの魚肚のスープはなかなかとは言えました。
 あと鶏でも火鶏のような米粒を覆う効果は出せないこともないんだな,とは感じました。──って結構満足しとるがな。
 てところで,いざ!
 1157,北港朝天宮。

五進九殿 船型長円

北港朝天宮平面図[後掲YDM]
北港朝天宮やや鳥瞰[維基/北港朝天宮]
地は長円状,周囲はロータリー状に道に取り巻かれています。香港の圍(わい:民間防衛城塞)に似るけれど,方形ではない。船形を思わせます。
 本殿構造は五進九殿[後掲維基/北港朝天宮]。中心軸に沿って五つの広間構造が連なり,神殿としてはこれの左右にさらに各二殿が付属している形です(増築沿革については巻末参照)。

媽祖と坊主と信徒の黒髪

▲1205お祈り 

って,入口からは三川殿→再拝殿→媽祖正殿と進むことになります。
 再拝殿と媽祖正殿の間辺りから,両翼の福徳殿及び註生娘娘殿へ抜ける通路がある。

▲1200祭壇

祖正殿の奥に観音殿。ここから同じく両翼の文昌殿及び三官殿へ通じる。この通路はやや短い。
 そして観音殿のさらに奥に,これはかなり広い空間です,聖父母殿があります。
 この奥にもさらに三宝仏殿があるけれど,五進と数える場合,ここはカウントしないらしい。
▲1202お坊さんの頭と信徒の黒髪

■レポ:北港朝天宮創建のヴァーチャルとリアル

 北港は北港渓(川)の中流の港です。
 北港渓は延長82km。樟湖山を水源とし,雲林県・嘉義県を流れて概ね西流,台湾海峡に注ぐ[後掲維基/北港渓]。
 宮崎県・五ヶ瀬川,北海道・沙流川,広島県・太田川,愛媛県・肱川及び青森県・岩木川が長さ百km以上の川のワースト5です。これらの8割の長さ。台湾でも決して大きな川ではない。なのに,先述のように台湾最悪の「八七水災」を引き起こしています。

19C半ば以前の笨港の栄え

北港一帯はかつて「笨港」と呼ばれていました。無数の船舶が往来し、貿易港として繁栄を極めていた歴史をもちます。19世紀半ばには土砂の堆積が進み、港湾としての役目は失われました[後掲app]

 近代台湾の三大都市を表した成語として
「一府二鹿三艋舺」
(府:台南,鹿:彰化,艋舺:台北)が知られます。これに似たより古い,おそらく近代の謂いとして,
「一府二笨三鹿港」
があります。[後掲RIE]
「笨」が雲林,中でも笨港を指す。つまり台南の次位の栄えを謳われた時期があったわけです。

康熙年:「笨港街、臺屬街市,此為最大(笨港街は、台湾の街の中で最大)」
乾隆年:「笨港街、俗稱小臺灣。(笨港街は、通称小さな台湾)」[後掲RIE]

 元号としては
康熙:1662〜1722年
(間に雍正:1723〜1735年)
乾隆:1736〜1795年
なので,康熙〜乾隆は17C半ば〜18C末。
 台南を一としたのは都だったからで,実質では台湾で最も繁栄した街だった,という評かもしれません。江戸期日本の江戸と大阪のような。

北港及び北港渓位置図

PONKAN 笨港の史料記述

 北港の旧名「笨港」に当たる位置に,17Cのオランダ人の描いた地図上,「Ponkan」という記載があるという[後掲維基/笨港。原図未詳]。四国の柑橘類の名前とは思えないので,これが原住民の呼称で,中国語に音訳されたとする説が有力視されています。
 笨港の中国語史料への初出は清代。

山迭溪は笨港に至り海に入る

一曰山疊溪,源流有三,至笨港入於海[台灣府志(1685(康熙24)年),後掲維基]

 維基が1685年としているのは,台湾府志の7つの版のうち最古の康熙28年版(略称「蔣志」)の記述で,その著者・蔣毓英(台灣府知府)らが執筆を開始した1685(康熙24)年を指したものらしい。
 中國哲學書電子化計劃が採用している康熙35年版(高拱乾著,略称「高志」∴1696年著)によるとこの箇所は──

98 諸羅縣地廣山眾,其為水最多。支分流折,凡一十有九:(略)
106 一曰山迭溪源流有三:南從鹿子埔之北流過西北,與中流會;中從斗六門山之南流過西南,與南流合;遂西過覆鼎山北,又北折過打貓社,至石龜之南,複與北流會,同為山迭溪。至笨港,入於海。其北流,則又從斗六門山西出者也;經柴里社、猴悶社、他里霧社,而與南流、中流合。[後掲電子化計画/高拱乾「台湾府志」,番号は電子化計画の採番(以下同じ)]

 諸羅県(嘉義付近)を「山広く水多し」としてその11の河川を紹介します。そのうち「山迭溪」の説明として,「社」の付く,おそらく原住民の集落を数々数えた後に,「至笨港,入於海」──つまり海に出る河口にある町として笨港を紹介しています。
 現在はかなり内陸に当たる北港は,この17C末段階では,少なくとも航海者の目からは河口にあったと推測されます。

守兵55名 戦船1隻 征銀14両の台湾最大都市

 試みにこの康熙35年版台湾府志「高志」中,「笨港」ワードで検索すると,他に2箇所のヒットがあります。
 一つは巻四・武備志中の記述。「台灣水師左營」(台湾海軍「左営」)の兵備数量として──

46 台灣水師左營經制額設
47 一、駐札台灣紅毛城地方系報部永鎮:游擊一員、中軍守備一員、千總二員內撥歸鎮閩將軍標一員、把總四員、步戰守兵一千名內撥歸鎮閩將軍標兵一百名,官自備騎坐馬二十匹、鳥船二隻、趕繒船八隻、雙篷艍船八隻。
48 一、分防猴樹港、笨港二汛系報部本營官兵輪防:千把一員、步戰守兵五十五名,戰船一只。[後掲電子化計画/高拱乾「台湾府志」]

 紅毛城(=赤崁城)には「名內撥歸鎮閩」将軍親衛隊百を含む守兵千,鳥船・趕繒船・雙篷艍船から成る18隻の軍が駐留するのに対し,猴樹港(現・嘉義県東石)と笨港には守兵55人と戦船一艘が置かれている,とある。
 1/20です。前記の,台南に匹敵する町の規模からすると,無体なほど小さい。商業船舶は入港していたと推測できるから,接舷の難しい深度ゆえとは思えません。
 もう一箇所は,巻五・賦役志。うち21箇所の港での「共徵銀」(関税?)1,254両の内訳として──

123 諸羅縣
124 採捕小船四十一隻,計載梁頭九百三十八擔每擔征銀七分七厘,共徵銀七十二兩二錢二分六厘。
125 港潭九所,共徵銀三百九十兩零一錢九分六厘八毫內新港並目加溜灣港一所征銀二十七兩一錢六分五厘六毫、直加弄西港仔含西港一所征銀九十七兩三錢七分二厘八毫、茄藤頭港一所征銀一百六十九兩三錢四分四厘、(略)笨港一所征銀一十四兩四錢六分四厘八毫。[後掲電子化計画/高拱乾「台湾府志」

 諸羅県には,21港中9港があるにも関わらず,72両,総額の5%しか税収がない。税額計算はシンプルで一隻当り固定額で0.77両,ということは課税客体としての把握船舶が圧倒的に少ないのです。さらに笨港となると酷くて11両,総額の1%未満です。
 並びに記述がある台湾県(台南付近)と比べると,
台湾県 計載梁頭(≒総船舶数)7676擔(隻)✕.77≒共徵銀591両
(うち笨港 11両a
   新港並びに目加溜灣 27両b)
諸羅県 938擔✕.77≒72両
(うち大鯤身港 80両c
   北線尾港 223両d)
 北港と隣接の(次章で訪れる)新港を加えても,明らかに台南と推測できる大鯤身港・北線尾港の3%(=(a+b)/(c+d))しか税収がありません。
 これは,脱税と言うより,だれも税金を払わない土地だったとしか解しようがない。
 二つの数値データの示す笨港像は,税法も軍警法の目も届かない,届いてもほとんど誰もそれを気にしない,要するに無法地帯だったことを示唆します。
 17C末の台湾最大の町・笨港は,事実上,台湾府の支配外の地域だったのです。

雲林縣採訪冊:水淺沙凝,海防均無夷患

 19C末の笨港の状況については,雲林縣採訪冊にも記事があります。

448 北港即笨港,在縣西南四十五里,源通洋海。金、廈、南澳、澎湖、安邊等處商船常川來往,帆檣林立,商賈輻輳。因水淺沙凝,洋船不能進口,故每次海防均無夷患。[雲林縣採訪冊(第一巻)、三桁番号は中國哲學書電子化計劃採番]

 商業船は多数入っていたけれど,水深が浅く堆積が進んで洋船が入れなかった。このために「夷患」を無くすことができなかった。
 文脈的には,清駐留軍の船舶も洋船と同様に港に入れないから,と読めます。ただ商業船の入港がまだ多数あった段階で,本格的な近代西洋船舶とは思えない清軍船舶が,本当にそうだったのか,やはり疑わしい。

清朝時期の台湾農村写真(場所,年代等不詳)

5km東に新造された「新・笨港」新港

 この種のアナーキーぶりが,18C半ば〜19C半ばの械門(漢人派閥間私闘)を生んだ,というのは大分理解できてます。この笨港の械門も,特別に激しいものだったという証拠はない。
 規模と時点を総合すると,笨港械門の始まりはいずれも漳vs泉図式で──
①1751年(記録上初発)台灣県
・客家人の峰仔峙社(現・台北 汐止)への集団強制移住を実現
②1769年(伝染)彰化で発生,同地で19Cまで繰返し
③1782年(広域化)北台灣・彰化・嘉義で同時発生
──の概ね三段階でアップグレードしています。次の笨港での漳vs泉械門は③段階のものです。

 1750年(清乾隆15年),笨港溪(今北港溪)嚴重氾濫,將笨港分為「笨港北街」(笨北港)及「笨港南街」(笨南港)兩部份;1782年(清乾隆47年),發生漳泉械鬥,造成泉州人居笨北港、漳州人居笨南港的局面。[後掲維基/笨港]

 笨港溪(現・北港溪)が氾濫し,笨港の町を分断したという。これで
(北半)笨港北街→北港
(南半)笨港南街→南港
が出来た30年後,泉漳械門により,北港:泉州人-南港:漳州人という棲み分けが行われるようになる。
 ところが,偶然に分断されたこの南北笨港のその後の運命は,天地ほどに対照的なものとなります。

(上)漳泉械鬥較嚴重的地區略圖[維基/漳泉械門](漳泉裔間の民間私闘が激しかった地域の略図)及び(下)笨港→南港→新港

 北港の泉州人は,復興を遂げて,現在の北港を造っていきました。
 対して南港は,やがて(恐ろしいことに年代すら不詳)二つの不幸に見舞われます。

 之後笨北港原地發展成為今日之北港鎮,笨南港則因接下來的林爽文事件及笨港溪水氾濫,使笨南港據民再次遷移至東南方的「麻園寮」,改稱「新南港」,至清末易名「新港」。笨南港舊街市則改稱「舊南港」(今新港鄉南港村)[後掲維基/笨港]

①林爽文事件
 台湾三大民変(内乱)に数えられるこの反乱が,なぜ漳州裔にとって向かい風になったのか,正確には明らかではありません。反乱軍に漳州裔の参加が多かったとも言われるけれど,乱後の義民廟建設時には漳州人も参加している(思義廟)。ただし,一般にこの事件後に,泉州人が統治側と連携して漳州を圧迫する傾向が強まったと言われています。

②笨港溪水氾濫 現在も同じですけど,笨港渓(北港渓)の川筋は笨港地点で南に膨らんでいます。この影響で,再度の増水時の被害を南港だけが受けてしまったと考えられます。
 これにより南港の漳州裔は,再度の集団移動を余儀なくされます。こうして造ったのが,次章で訪れる新港です。図式化すると──
        (清末)
麻園寮→新南港→新港
   ↑【漳州人移住】
笨港南街→南港→舊南港
  (現・新港鄉南港村)
 そもそも笨港方面への漢人移民は漳州人顏思齊が開始したと言われます[後掲維基/笨港,次章巻末参照]。後から来た泉州人が,偶然ゆえか戦略ゆえか,先行集団を東へ押し退けメジャー化したわけです。
 恐ろしいことに,中世台湾最大の町かもしれない笨港のこの滅びの経緯は,その栄えと同様に,台湾府誌ほか正史的な史料に記述が無い。維基の出典には,北港鎮志,新港鄉志,諸羅縣志などの地誌が挙げられています。

 さて,実は,ここまでは前書きとしての笨港略史のつもりでした。以下がようやく,北港朝天宮の創建についてです。

清朝最盛期:康熙・雍正・乾隆三帝と本名(女真語)

1694(康熙33)年北港朝天宮創建伝承

 伝承としては,北港朝天宮の創建は1694年。──鄭氏政権が滅んだ1683(康熙22)年から11年後,これを滅ぼした靖海侯施琅が湄洲島に朝天閣を増築(1684年)した10年後です。

相傳,在1694年(康熙三十三年),樹璧和尚(臨濟正宗第34代)自福建省湄洲朝天閣迎請媽祖金身前往臺灣,並自笨港登陸;因媽祖指示,且當地居民強烈要求,於是就地建廟、收徒與傳法[1]。[後掲維基/北港朝天宮]
*原典[1] 1910年《臨時臺灣舊慣調查會第一部報告 臺灣私法附錄參考書第二卷上》

 臨濟正宗第34代樹璧和尚という人のデータがヒットしない。湄洲島に新たに増築されたばかりの朝天閣からの分祀を,笨港の民衆が「強烈要求」した,というのは──年代の整合性は取れるけれど無理矢理っぽい。台南の大天后宮に匹敵すべくできる限り古くしたい。でも本当に鄭芝龍時代に根を持つ地ではあるから,鄭氏政権下での創立ではないことにしたい。こうした色んな操作が働いた「伝承」に思えます。
 普通に考えると,顔思斉(次章参照)や鄭芝龍とその植民企画応募者たちの素朴な媽祖信仰は存在してもおかしくない。素朴な雛形はそれら17C初めの頃からあったかもしれません。ただ高僧の開基うんぬんは後付けか名前だけでしょう。
 下記維基の前半(略以前)では,諸羅縣志と重修臺灣府志*がいずれも「天妃廟」創建年を1700(康熙39)年としているとの記述です。「天后」号を清帝から賜る前の媽祖宮があった傍証です。
*記載年は県志:1717(康熙56)年 府志:1744(乾隆9)年

1717年(康熙56年)《諸羅縣志》以「天妃廟」創建於1700年(康熙39年),此記載其後傳抄於1744年(乾隆9年)《重修臺灣府志》等文獻中。(略)1730年(雍正8年)則重修廟宇,廟名此刻改稱為「天后宮」。[2][後掲維基/北港朝天宮]
*原典[2] 重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記

「重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記」という石彫りの碑には,1730年(雍正8)年に廟が「重修」されたとの記載があります。碑は1775(乾隆40)年建立のものなので,創建不詳ながら1730年には原型構造が出来,75年までには天后号を清帝から賜ったとするのが客観的理解だと考えます。
 つまり,国家的宗教施設になったのは大天后宮より70〜110年遅い。かつその時差の存在を隠すことで同格化しようとする圧力が強く働いている。

重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記(全文)
*創建年代表記は一文目の「雍正庚戌年」=雍正八年=西暦1730/2/17-1731/2/6
*碑の創建年は乾隆40年=1775年

「天后」号は主に康熙帝が下賜したものです。けれど北港朝天宮については,諸羅志が書く通りなら,康熙代には天后号を冠せられていません。雍正代にやっと賜ったと推測されます。
 康熙帝は,自らの在位中は笨港「天妃宮」を公認しなかったのです。
清皇帝(康熙帝か雍正帝)のパロディ版。何と故宮博物館が作成販売してて,結構ジワジワとウケてるみたい。

中国最長在位・康熙帝は生涯容認しなかった

 康熙帝は,清朝最高の英君であり,かつ中国史最長位の長期君主です。即位は8歳,1662年。格闘技の練習と称して同年代の少年親衛隊を組織,16歳で実権を握る大臣オボイを計ってこの集団により捕え,終生軟禁に処して親政を開始する。ほとんど信長です。──軍事行動に秀で,三藩の乱や鄭氏台湾の平定のほか,モンゴル(ジュンガル),チベット,ロシアと戦っている。海上行動にも親しく,六度の海巡に自ら出ています。
 つまりは,鄭氏成立の年に即位し,最初の軍事目標として台湾を平らげた康熙帝は,台湾問題の核である海賊集団を生涯決して容認しなかったのです。
*後掲Yahoo!知恵袋 2012/6/14 14:52 中国史の歴代皇帝(統一王朝でなくても)の中で、在位年数のトップ5といったら誰ですか?
1位 康煕帝(清・聖祖) 61年
2位 乾隆帝(清・高宗) 60年
3位 武帝(前漢・世宗) 54年
4位 聖宗(遼・聖宗) 49年
5位 万暦帝(明・神宗) 48年
 ただし,乾隆帝は祖父・康熙帝の歴代最長位記録を超えないよう,一年前に退位した後,少なくとも4年間は実権を握ったので,実質は64年と言われる。

「皇輿全覽圖」(1714(康熙53)年)中,台湾図部分。「台湾」として描かれているのは島の西半分だけ。

之に無所加うる所無きを得て,損ずる所無きを得ず

 康熙帝の台湾認識を表す史料として,次の大清聖祖仁皇帝實錄の記述が残っています。ただ,少なくともワシの中国語レベルでは大変難解です。例の「台湾放棄」論もここから来ているようなのですけど……

康熙二十二年冬十月初十日(丁未),九卿、詹事、科道以海寇底定,請加尊號。
上曰:「加上尊號,典禮甚大。台灣屬海外地方,無甚關系;因從未向化,肆行騷擾,濱海居民迄無寧日,故興師進剿。即台灣未順,亦不足為治道之缺。……治天下之道,但求平易宜民而已,何用矜張粉飾!」。
尋,大學士等奏:「……皇上功德,實越古昔帝王。非加上尊號,無以慰臣民仰載之願」。
上曰:「海賊乃疥癬之疾,台灣僅彈丸之地。得之無所加,不得無所損。若稱尊號、頒赦詔,即入於矜張粉飾;不必行」。[大清聖祖仁皇帝實錄,後掲Medium]

「得之無所加,不得無所損」は,細かいニュアンスが分かりにくい。でもその前に「海賊乃疥癬之疾,台灣僅彈丸之地」──海賊が群れ疥癬(病毒の意?)が溢れ,かつ僅かな弾丸の(ようにちっぽけな)地が台湾だ,とあるのを見ると,そんな統治が大変で利益もない土地を積極的に治めなくてもいい,一応帝国に属し敵が巣食うことがなければそのまま放置せよ,という風に読めます。
 いずれにせよ,康熙帝の台湾イメージは「海賊乃疥癬之疾」だったわけですから,笨港がまさに海民≒海賊の町である以上,彼らの奉ずる媽祖に何故皇帝が勅額を下賜せねばならぬか?と康熙帝は言ったでしょう。施琅が敢えて北京にとりなした大天后媽祖などの方が例外だったのです。

重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記と朝天宮「大拡張」

 前掲重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記は乾隆40年(1775年)付けで書かれたものです。ここには創建の期日に続け

修於乾隆辛未年迄今廿六載,故制[彳角]樸卑窄不足以揭虔妥■
(前掲全文中2〜3行目。「乾隆辛未年」=1751(乾隆16)年

の一文があります。
①1751(乾隆16)年から26年かけて修復し
②今(1775(乾隆40)年)完成した。
③窄(狭)くなったための修復である。
 先の創建記述に繋げた後段なので「修」の語を用い,あえて拡張と書かないけれど,手狭ゆえの修復というのはいわゆる拡張工事です。
 維基は他史料の記述も合成してこう書きます。

依同碑記記載,1751年(乾隆16年)朝天宮曾經過整修,到了1775年(乾隆40年),諸羅縣笨港縣丞薛肇熿見廟貌窄小,樑桷損毀,於是捐俸倡議重修,並由陳瑞玉、王希明、蔡大成等董事集貲,鳩工改建。由1894年(光緒20年)《雲林採訪冊》及《臺灣私法第二卷 附錄參考書》文獻指出,1775年整修共完成三川殿、拜亭、聖母殿、觀音殿、東側室仔六間[3]。今日觀音殿前的蟠龍石柱便是當時修建所完成的作品。1812年(嘉慶17年),住持僧浣衷,將宮名改為「朝天宮」,以紀念分靈自湄洲祖廟「朝天閣」。[後掲維基/北港朝天宮]
*原典[3] 重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記,1894年《雲林採訪冊》,1910年《臨時臺灣舊慣調查會第一部報告 臺灣私法附錄參考書第二卷上》,1918年《台法月報》〈朝天宮媽祖雜感〉

 これによると
1775(乾隆40)年【A】三川殿・拜亭・聖母殿・觀音殿・東側六室を拡張設置
1812(嘉慶17)年【B】住持僧の浣衷さんが宮名を「朝天宮」と改める。
──と現在への接続が語られます。
【A】の「拡張」とは,要するにその前には現在の媽祖正殿部分しか存在しなかったということです。もう一度,現行の神殿配置を見直してみましょう。

(再掲)北港朝天宮平面図[後掲YDM]

 大きく見積もっても現行規模の10分の1以下です。つまり,【A】の修復時点で,現行規模の北港朝天宮は初めて「創建」されたと捉える方が事実に近いと思われるのです。

雲林採訪冊∶朝天宮「拡張」は1862(咸豐11)年

 この拡張に関する記述は,原典としては1894年倪贊元著の「雲林採訪冊」が断然古く,一次史料性が高い。
 そこでこれの原文を見てみます。

474 (略)乾隆辛末年,笨港縣丞薛肇廣與貢生陳瑞玉等捐資重修,兼擴堂宇。咸豐十一年,訓導蔡如璋倡捐再修,擴廟廷為四進:前為拜亭,兼建東西二室;二進祀天後;三進祀觀音大士;後進祀聖母。廟貌香火之盛,冠於全台。(以下略)[雲林採訪冊,三桁番号は中國哲學書電子化計劃採番]
*咸豐∶1851〜1861年 ∴咸豐11年≒1862年

「廟貌香火之盛,冠於全台」と台湾随一の参拝の多さが綴られます。
 ただ,これを素直に読むと──乾隆年間に「擴堂宇」(堂宇を広げた)とは書いてある。碑文と整合させたのでしょう。けれど,【A】≒「擴廟廷為四進」,廟を広げて四進にしたのは1862(咸豐11)年だと読めます。
 また,【B】朝天宮への改名は記録されません。
 先述の通り北港朝天宮の由緒の古さのバイアスを考えると,現行規模にまで拡張されたことが実証できるのは,1862(咸豐11)年時点だと考えるべきではないでしょうか。

大正2年∶朝天宮付近[後掲伊藤ほか]

朝天宮外周壁∶ロータリー構造の成立は日帝大正期

 朝天宮の変遷は,実は大正初期がもう一つ大きな転機であるらしい。
 上記は大正2年の図。
 外周りの長円がまだないのです。従ってロータリーもありません。
 ロータリーの建設計画は少し後の時点のもので,次の図があります。

大正6年∶朝天宮付近のロータリー建設計画図[後掲伊藤ほか]

……これは完全に分からない。大正2の図と宮の輪郭が全然違う。日本統治側は何を考えて,ここを円環状にしようとしたのかも情報がなく,また想像もつきません。
 何より奇妙なのは,大正6の図上の朝天宮のゴツゴツした輪郭です。こんな「神域」が存在するものなのでしょうか?
 ただ,この図と経緯は,朝天宮外縁の整いすぎた長円は近代日本の所業であって,それ以前の歴史的な経緯ではなさそうだ,という点だけです。

結論∶まず湄洲媽祖の直輸入ありき

【A】北港朝天宮の現状規模の完成時期が伝承(1694(康熙33)年)より168年遅い──バイアスによる誤認が150年以上あると仮定するならば,定説の由緒が奇妙な捻れを呈します。
【A】大拡張よりも,【B】1812(嘉慶17)年の朝天宮改名の方が先行したことになるからです。
【B】の時点は,前章で触れた1818(嘉慶23)年の台南・大天后宮の嘉慶大火──前章で三郊の企画した先行宗教権威の失墜劇と推測した──と非常に近い。つまり,三郊の海商勢力による北港天后の強引な勢力拡大が先にあって,その結果として北港朝天宮の全台湾制覇が成された,という時系列が考えられるのです。
 北港は19C初めまでに台湾経済の中核としての地位を確かにしたけれど,それは純粋に民の商業活動によるもので,政治的又は歴史的権威を欠いた。
 そこで──おそらく誰かの「陰謀」というのではなく,三郊を中心とする商業勢力の集団無意識的な競争心によるものと想定しますけど──笨港の媽祖宮(旧称の記録がない)に,媽祖信仰初源の地としての湄洲からの「直輸入」性による宗教的権威を付加する一方で,旧宗教勢力,当時台湾の媽祖信仰のメッカ・大天后宮の「乗っ取り」を企図します。具体的には嘉慶大火で同宮の媽祖を焼き(前章で書いた通り,本当に焼けたか否かは疑わしい),新港から分祀した媽祖を置きます。つまり湄洲島→北港→大天后と,宗教的権威の序列を逆転させます。
 以上は19C初めに,まずヴァーチャルの世界で起こったことです。
 その後で,北港朝天宮は四半世紀(26年)かけて原型の十倍以上に拡張した。ヴァーチャルの台湾媽祖信仰の新たなメッカが,こうして現出することになりました。
──こうして見ると,さらに現代の媽祖信仰の総本山・湄洲島もまた在り方を変えて見えてきます。現在の(少なくとも東シナ海域での)媽祖信仰が,台湾人のそれに支えられているのは,実際現地を歩いて痛感させられるところです。台湾でのメッカ・北港朝天宮がその権威の根源とする湄洲の宗教的権威は,台湾信徒にとって至高でなければならない。そういうヴァーチャルの図式の上で,あの海上ポタラには際限なく台湾マネーが注がれてきたのではないでしょうか。

見えてるものが全てじゃないから
 さて,この巻末は次章巻末の下調べです。次章では本来の目標,この笨港に台湾移民のごく初期,伝わるところでは最初に移り住んだ人々にいよいよ焦点を絞ります。

「m19Em第二十四波m天后や天后の街でしかないm2嘉義から西行」への4件のフィードバック

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