m19Em第二十四波m天后や天后の街でしかないm3北巷朝天

開山廟の五十六神名

▲「花供え」というキャプションで当時記録してるけど──奥の碑こそが「重修諸羅縣笨港北港天后宮碑記」‼(→前章巻末参照) 当時の記録「中庭に『乾隆四十年』付けの碑文」

157,朝天宮。
 正面入口の対聯は諸々あるけど,新旧があり一連のものには見えません。元の石壁に彫られた文字のみ2行を転記すると──
右手「朝政重明禋海邦奉祀」
左手「天心憐渉險湄島揚靈」
 やはり湄洲直輸入を誇っています。
 一つ目の宮が妈祖正殿。篇額は「人和年豊」。奥は観音佛祖殿,額は「钟照海表」。前殿媽祖,后殿観音の典型的構造ですけど,この北港のはその周りをさらに宮群が取り囲んでいます。

▲1213横手祭壇。像はなく荘厳でした。当時の記録「右手に『開山廟』。ここには像がなく文字が沢山。56の神名が書いてある。」

音左手には「天上聖母」額のある幾つもの媽祖像がある。
──と記録してるけれど,何と一枚しか撮影はしてません。不思議に思って検索すると,確かに……何というか整い過ぎてて,冥い。大天后との系列の違いを,今となっては感じます。

神との通信具 擲筊 poe

▲妈祖の雛壇

朝天宮の媽祖像アップ(他サイト転載)

つの石をがちゃりと落とすのは,占いの意味か?
──と当時不思議そうに信徒の祈りを見守ってます。
 これは台湾を中心とする中国の民間占いらしい。台湾語の発音でポエ poe,漢字では「杯」「貝」の字を当てます。「杯筊」とも言い,「筊杯」「擲筊」と書くとポエを行う(占う)という意味になるらしい。

▲祈り

お寺に備え付けの「ポエ」

二枚貝を割ってできた形に見える2つの堅い石(各石は一面が丸く膨らみ他面が平らで、一側が丸く他側が直線)を床に投げて落ちた4つの状態のひとつで、自分の行こうとしている方向が正しいか、間違っているかを占うというもの。(略)1つの石の平たい面が上に向く、もう1つの石の平たい面が下に向く状態は縁起がいいと見なされ、シンポエ(聖杯、聖盃)と呼ぶ。[wiki/ポエ占い]

千の蝋燭 光明殿

▲朝天宮配置図

手の宮に「五文昌夫子」。さらに左手に焼却塔。手前真横に「福徳正神殿」。
 右手は「三官大帝」。さらに右手に「月下老人」。手前横に「鐘楼」。
 それぞれにパティオがある。

▲蝋燭柱群

り込んだ奥に「聖父母殿」。額「興天同功」。
 蹄型になった最奥は光明殿。人名を記す灯が何千と並ぶ。──以下のサイトに360°ビューがありました。→北港朝天宮光明殿

開かずの龍虎両門

▲蝋燭柱アップ

縁を歩いていて,馬蹄型の周囲の壁に幾つか開かずの門があるのに気づきました。
 維基/北港朝天宮の記述中に「龍虎両門」「七門」という言葉が出てきます。

至1912年(明治45年)完成三川殿、龍虎兩門[7](略)
1928年至1929年(昭和3年至昭和4年),擴建龍虎兩門[9](略)
1968年至1972年(民國57年至民國61年),(略)興建龍虎門兩側七門[13]
1980年至1985年(民國69年至民國74年)之間,(略)龍、虎兩門(略)改舖唐山石[15]
*出典[7] 1907年至1912年《台灣日日新報》相關報導
[9] 1928年至1929年《台灣日日新報》報導,建築實體
[13] 1972年《聖女春秋月刊》報導
[15] 1980年至1985年《聖女春秋月刊》相關報導

 何度も改修されているところからは,ずっと開かずなのではなくて相応に重要な門のように見えます。もしかするとこの宮は,元々は周囲のどの方向からも入れたのではないでしょうか? (→伊藤説∶朝天宮長円構造は昭和一桁頃造られた)

▲開かずの門。すぐ後ろはホテル

なみに,お祈りセットは百元。やはり買う気にはなりません。
 無料で配っていたカードだけをお土産に帰路についた,エセ媽祖巡りの日本人なのでした。

▲お祈りセット

周りから完全に浮いた馬蹄

と振り返ると,宮よりもさらに高みに湄洲みたいな巨大な白亜の聖母像が建ってるぞ?──いざ!
 とどこから入るのか探してみたんだけど……

▲ランタンの天覆う道と背面高台の白亜像

ぜかそこへは,外周からすんなりとは行けないらしい。遠くから見ても人の姿がないし……どういう施設なんでしょう?
 ここのGM.航空写真を最後に挙げてみました。周りからは完全に浮いた馬蹄型の区域です。ただ,ここから放射状に道が伸びてるわけでもなく,都市計画的な発想も読み取れない不思議な地勢です。

GM.航空写真(北港朝天宮付近)

■レポ:鄭氏最初の台湾拠点 笨港(開台十寨)

 そもそも笨港方面への漢人移民は明・天啟年間(1621〜1627年)に漳州人顏思齊が開始したと言われます[後掲維基/笨港]。後期倭寇の首領*とされるこの男が「登陸築寨」(維基記載),つまり砦を築いて拠点化した。そしてその後の本格移民こそが,鄭芝龍の福建南部での募集者だったとされます。

清代の江日昇『台湾外記』にみえる。これによると,福建省海澄の人,字は振泉。鄭芝竜ら28人と同志の盟約を結び,日本―台湾間の密貿易と略奪を行った。風疾のため台湾で病死。泉州出身で平戸居住の華僑李旦とその配下の鄭芝竜との関係が,同記の顔思斉の記事に投影されたものとみる見解がある。
[後掲朝日日本歴史人物事典(関周一)]


 ただし,この事実は,ズバリが単一の史料に載っているものではありません。
 また,台湾外記は基本的に章回小説(回を分けた口語小説)です。ただ,著者・江日昇の父・江美鰲(元の名は林兆麟*)は南明の将軍で,最初は鄭彩の,後に鄭成功の指揮下に加わった人です。台湾の文学者・葉石濤(1925〜2008年)が「明の鄭氏に触れる伝記文献の中で,『台湾外記』は首尾一貫しており,すこぶる価値のあるもの」と評価した**ことから,同時代の一次史料とみなされるようになっています。
**「台湾文学史綱」
 以下では,この事実を①顏思齊及び鄭芝龍と②その率いる日本人の台湾への移動と③その上陸場所が笨港(現・北港)だったことの三つに分解して,関係史料を当たっていくことで,海域アジア編において頗る興味深い本件の事実性を確認していきます。

*外記著者・江日昇の父 江美鰲

 江日昇と江美鰲の関係については,余美玲(台湾古典文学研究者逢甲大学専任教授)によると,厳密には二説あります。
***余は以下を陳大道の記述に依るとする。ただし,最も著名な「陳大道」は明の政治家で,生年不詳ながら1579(万歴7)年の鄉試合格者中に名があることから,1683年(鄭氏政権降伏)までの記述がある外記の著者としての江日昇について記述を残すとは考えにくい。(外記著述前の江日昇について記述した可能性はあるので,全否定はできないが。)

因而陳大道以為①林兆麟在明鄭旗下抗清時,改名為「江美鼇」,降清後恢復本名,而作者自幼隨父親姓「江」,縱使日後父親恢復「林」姓,但他慣用「江日昇」名字,以此姓名寫作,參加科舉。然則據方豪的考證,②認為江日昇原姓林,字敬夫,林兆麟是他的生父,惠安前型人;而江美鼇是其寄父或後父,同安高浦所人,因姓江,遂改名日昇,字東旭。在此二說並列以為參考。[後掲余美玲,丸付数字は引用者]

──①林兆麟が鄭氏の下で江美鼇を名乗っていた。清に降った後は林姓に復したが,江日昇は幼少時からの江姓により「江日昇」名を慣用した。
──②江日昇の原姓は林で,林兆麟は彼の生父(惠安前型人)。江美鼇は「寄父或後父」(≒義父)で同安高浦所人。
 ただ,本稿ではとりあえず,江日昇の情報源が鄭氏内部にいた人からの伝聞であり,史料性が高いことを確認できればよい。何れが正しくても鄭氏麾下の「林兆麟」が情報源たりえた,ということになります。

北港に建つ「顏思齊先生開拓臺灣登陸紀念碑」(民主路と文化路の交差点ロータリー)

①顏思齊と鄭芝龍の日本から台湾への移動

 台湾外記*はこの移動を1624(天啟4)年8月の出来事としています。
*中國哲學書電子化計劃などの検索上は「臺灣外記」(繁体字,以下「外記」という。)で引く必要がある。後掲「通史」「府志」についても同じ。
 この移動における「モーセ」役として,顏思齊(振泉)*という人が登場します。
*姓「顏」は4画目までが「文」になっており,「顔」で引くと同じくヒットしません。

巻之一9 天啟四年甲子六月,有福建漳州府海澄縣人,姓顏名思齊,字振泉,年三十六,身體雄健,武藝精熟。因宦家欺凌,揮拳斃其僕。逃日本,裁縫為生。居有年,積蓄頗裕,疏財仗義,遠邇知名。是歲唐船販日本者甚多。[江日昇「台湾外記」]

──天啟四年六月。顏思齊という人がいた。福建・漳州府海澄県出身人で,字は振泉。36歳。身体は頑強で武芸に精錬。宦官と対立しその下僕を殴り殺した後,日本に逃れ,仕立て屋をして生活していた。やがて蓄財し,義を重んじ財産を出すことを惜しまず,広く名を知られるようになる。この年は,中国船で日本と交易する者が甚だ多かった。──
 何があったか知らないけれど,日本に海外逃亡してきた荒くれです。この逃亡ルートの存在や交易の記述から,日本は相当気軽に行ける外地だったらしい。
 この辺りを,20C初の「台湾通史」(以下「通史」という。)は「顏鄭列傳」という章を起こして書いています。

目錄135 顏、鄭列傳
巻二十九1 臺南連橫雅堂撰列傳一顏、鄭列傳連橫曰:臺灣固海上荒島,我先民入而拓之,以長育子姓,至於今是賴。
[後掲連橫「臺灣通史」民国(1908〜1918年成立)]

 以下,これに続く記述がほぼ外記と同内容の部分です。

2 思齊,福建海澄人,字振泉。雄健,精武藝。遭宦家之辱,憤殺其僕,逃日本為縫工。數年,家漸富,仗義疏財,眾信倚之。天啟四年夏,華船多至長崎貿易,有船主楊天生亦福建晉江人,桀黠多智,與思齊相友善。當是時,德川幕府秉政,文恬武嬉;思齊謀起事,天生助之。游說李德、洪陞、陳衷紀、鄭芝龍等二十有六人,皆豪士也。六月望日,會於思齊所,禮告皇天后土,以次為兄弟。芝龍最少,年十八,材略過人,思齊重之。[後掲連橫「臺灣通史」,下線は引用者(以下同じ)]

 外記にない*「長崎」という地名が使われます。
*外記を通じ「長崎」地名の使用箇所はゼロ
──当時(日本は)德川幕府の統治下にあり,文武を尊ぶ世である。思齊は謀り事を起こし,天生*がこれを助けた。李德・洪陞・陳衷紀,そして鄭芝龍らの豪傑ども26人に遊説した。六月某日,思齊は彼らを一堂に集めて「禮告皇天后土」,以って義兄弟の契を結ぶ。このとき芝龍は最年少で,年は十八だったが,優れた人材ゆえに思齊は重く用いた。──
*天生については,巻之一9に「天生字人英,年三十,泉州晉江人也,算法精敏,最熟大刀;且言語便捷,桀黠多智。」とある。軍師的存在のように描かれてます。
 括弧書き部分はどうしても理解できないけれど,台湾入りを暗喩しているのでしょうか?「天后」が媽祖を意味する気もするけれど,自信を持てません。
 鄭芝龍*を最年少とする通史の記述に対し,外記は「尾弟」(最も地位の低い義兄弟?)とし,だから歳は書かれません。
*外記の記名は「鄭一官」。由縁は不明ですけど,西洋史書には「Nicholas Iquan」(ニコラス・一官)と書かれている。wikiには(出典不明ながら)「閩南語、南京官話、日本語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語を話し、剣道を得意とし、スパニッシュ・ギターも弾けた」とあり,西洋諸国との経緯に由来を求めうるのかも知れない。

巻之一11 一官舉高貫武藝超群,並余祖、方勝、許媽、黃瑞郎、唐公、張寅、傅春、劉宗趙、鄭玉等共二十八人,於六月十五日,大結燈彩,香花牲犧,列齒序行,以鄭一官為尾弟。禱告天地:『雖生不同日,死必同時』之語。畢,燒化紙錢。眾拜振泉為盟主,大開筵席,暢飲而散。[江日昇「台湾外記」]

「雖生不同日,死必同時」──生まれた日は違えど同時に死せん──と三国志もどきの誓いまでしてる。3兄弟ならともかく26人が同日に死ぬのは難しいのでは?……とツッコむと刺されそうな,完全なる任侠の世界です。
 この辺りは小説っぽい創り込みを感じます。台湾入りの成否を巡り,遊侠っぽい議論も長く綴られた後,出港となるのですけど──

注 顏思齋とは一切関係ありません。

[台湾外記]顏思齋の台湾奇襲作戦・その前夜

巻之一13 正秋七月十四一作十五日夜子時也。
14(略)過三朝十二日,(略)齊曰:『總在八月間矣』。天生曰:『業已通知各位:一應索路帆席,收拾齊備,乘秋潮將船悉放浮水。所有柴米蔬菜,加倍配足,使倭人不疑。船中軍器砲火,全賴杲卿與子大二位調度。其中路統眾並上將軍衙者,衷紀。西路奪砲臺、領人釘砲者,子大。搶入東砲臺、督人扭轉砲身放砲者,俊臣。由東南率眾喊殺者,莊桂。其陳勳從西北角抄入,放火喊殺。大哥與一官領一隊沿海接應,小弟與李英統人分路接應。其調度各船杉板預備者,楊經。派定在單,大哥可著人傳諭,期在八月十五早』。思齊接單閱完,將單交一官,令他前去密傳。一官隨到各位通知調度。[江日昇「台湾外記」]

 一か月前になって,軍師・天生を通じて各者へ作戦計画が通達されます。
1)食料を船に積み,水夫を増やせ。倭人は疑いのない者を使え。武器を蓄えよ。
2)陣立ては中路∶衷紀。西路∶子大。東∶俊臣。東南∶莊桂。其陳勳は西北角から上陸し火付け。大哥(顏思齋)と一官は「沿海接應」(予備軍?),小弟(天生)と李英は「統人分路接應」(?)。兵站は楊經。
3)8月15日早朝を期して出陣する。
 この「軍」が8月4日に日本を発進します。

巻之一15 八月初四日,各船悉放落港心,整頓收拾,靜候十五日舉事。
16 十三日,楊經壽誕,眾備禮作賀,經留眾飲。[江日昇「台湾外記」

「各船悉放落港心」という表現が難しいけれど,日本発進を指すと思われます。
 台湾上陸は予定の前日,8月14日と書かれるので,日本(長崎?)→台湾(嘉義?)を10日で移動したことになります。この間の事情は記載がありません。

長崎→嘉義移動イメージ。当たり前だけどその間千km以上。

[検証1]江戸期の航海日数

 一般に江戸期,中国から長崎までの航海日数は,
南京・上海〜 6~20日
寧波〜    8~14日
台湾〜    16~19日
広東〜    16~25日
 また,琉球国志略に基づき福州〜那覇間の航海日数を算出すると 8~17日
[後掲神戸大学]
 日本の出発点が未確定のままで考えにくいけれど,琉球から出港したのでないと考えるなら,10日は短か過ぎます。
 南行したわけですから黒潮再循環流潮流に乗ったとしか考えられないけれど,黒潮の側流には未解明の部分が多く,顏の時代には利用されていたものがなかったとは言い切れませんけど,通例の半分の期間での奇襲的な急行を可能とする自然環境は確認されません(下記図参照)。
 外記著者・江日昇は福建・泉州の人とされます[後掲余美玲]。清代初めに最も頻繁に行き来していた琉球進貢船の航海日数を元にして江が設定したもので,父(?)・江美鰲から伝えられたものではないように思えます。

黒潮シミュレーション*水平解像度1/30度の海洋大循環モデルでシミュレートされた西部北太平洋域[後掲野中・海洋研究開発機構他]
7月月別海流統計図中,南九州〜沖縄
同・沖縄〜台湾
*2006年4月から、当本部が観測あるいは収集した超音波ドップラー流速計(ADCP)による海流データを使用して、南西諸島海域
(23°N-120°E、33°N-133°E)の月別及び四季別海流統計図[後掲海上保安庁]

[台湾外記]顏思齋の台湾奇襲作戦・鄭芝龍 台湾に立つ‼

 驚くべきことに,台湾沖と思われる艦隊の集合はその時間までが書いてあります。1624(天啟4)年8月14日未刻,午後2時頃です。──これは,その時点が江美鰲から伝聞した一次情報である可能性を示唆します。

巻之一17 正十四日未刻,秋潮已漲,各船杉板、本處花葉日本小船名悉灣泊岸邊。思齊忙喚眾人下船,都各各爭先,急搖到大舡,起碇的起碇、起帆的起帆。(略)

注 顏思齋とは一切関係ありません。

18(略)十五日天明,思齊船中號砲三響,各魚貫隨行。計八晝夜,方到臺灣。即安設寮寨,撫恤土番。[画像を除き江日昇「台湾外記」,緑字は原典注釈(以下同じ)]

 専門家でないから断定し辛いけれど「秋潮」という言葉はヒットがありません。「秋潮已漲」とあるから,満潮だったのでしょうか。
「花葉」という小型船舶の日本名もよく分からないけれど,上陸用舟艇でしょう。──岡山後楽園に「花葉の池」というのがあり,この場合は大名蓮又は一天四海(いってんしかい)という蓮で,夏に大きな白い花を咲かせる。これに似た様だった,という記憶が変に伝わったのでしょうか。
 17後半と18前半で上陸後の闘いが描かれた後,15日明け方になって顏の船(旗艦)が号砲を三発打ち,それを合図に「各魚貫隨行」──総員の上陸が始まったということらしい。
「計八晝夜,方到臺灣。即安設寮寨,撫恤土番」──計8昼夜にして台湾に到る。即ち安んじて寮寨(砦?陣屋?)を設け,原住民を撫恤(≒平定)した──というのは,日本からの行動の総括をした表現です。接続が変ですけど,成語的なところからすると,この部分は江美鰲時代から口承された文章だった可能性があります。
 ここまでを総括してみると──率直に言って,戦記としてはかなり荒唐無稽です。武将は登場するけど,兵士がその兵数すら描かれない。南行計画を隠密に行った雰囲気はあるけれど,陽動作戦などはしていない。各方面からの同時攻撃を企画しながら,各隊の連携の経緯は記されない。そもそも,南北に山嶺がありそこを森林と原住民が占める当時の台湾は,多方面同時攻撃をかける必然性がない。
 ここから推察するに,江美鰲からの多数の口承を継いでいた江日昇は,軍記物の体裁でそれらを「繋いだ」。後代王朝が紡ぐものだった史書に触れる機会が少なく,市販の小説形態の方に慣れ親しんでいたけれど,ストーリー構成に秀でていたとは思えない。バラバラに語られていた口伝をあまり検証せずにただ接続した,という作業工程が窺えるのです。
 ただ,だからこそ,当時の巷に流布していたナマの鄭氏伝承が,あまり加工を施すことなく保存されていると考えられます。つまり,「諸伝承集」として有意と捉えるべきです。それら口承を伝えた無名の人々は,鄭氏政権を直接体験したと考えられるからです。

注 顏思齋とは一切関係ありません。

[台湾外記]顏一家26人衆∶鄭芝龍破壊命令

 1625(天啟5)年9月に顏思齊は死にます(→記述は後掲,中國哲學書電子化計劃採番は巻之一19)。次の文章はその後継者を決める場面です。

20 十二月初二日,天生集諸位商議,再推一人統眾方可。杲卿曰:『弟有一言奉告,不知列位尊意如何』?眾曰:『所言合當,豈有不遵之理』?杲卿曰:『我們這番所為,雖未得日本,而禍不臨身,兄弟們又完全,此乃皇天庇蔭。今欲再舉一人統領諸軍,弟恐新舊愛惡不一,倘苟且從事,自相矛盾,反為不妙。然統軍亦非易事,當設立香案,禱告蒼天,將兩碗擲下,連得聖筊而碗不破者,即推之為徴収首。管見如此,不知有合眾意否』?[江日昇「台湾外記」

 前半は「どうやって決めるんだ?」とワイワイやってます。天生が招集したのに全く発言がないのは,ここで長言を発言してる杲卿にネゴして言わせたのかもしれません。
 この杲卿発言の前半には──未だ日本を得ずと雖も,而禍不臨身に臨む禍いは得ず,皆さん兄弟たちもまた完全(に元気)である。此れはまさに皇天の庇護である。──
「皇天」は「昊天」「皇天上帝」「皇皇后帝」などの同義で,いわゆる「上帝」,中国民俗における最高神です。この文脈での感謝の対象に媽祖が出てこないのは,漳州人・顏思齋に従ったこの28人衆の信仰に当時その神がなかったことを暗示します。
 それ故に,と杲卿は続けて提案をします。そしてそれを「管見如此,不知有合眾意否」──管見(狭い了見∶謙譲語)此れの如し,これなら皆の衆の意見が合致しないということは考えられない──と事実上決め打ちしています。
 ところがこの提案内容たるや──蒼天(上帝)に祈りを捧げ,碗二つを「擲下」して,「聖筊」が出,かつ碗が割れなかった者を,即ち「徴収首」として推そうではないか。──
「擲下」して「聖筊」というのは,完全に前掲のポエ(筊杯∶→本章文頭のポエ poe)の用語です。
 元は閩南語しかないので,中国語の漢字はあくまで当て字らしいけれど──
 元々は表か裏が出るものなら何でもよく,硬貨でも行われます。真偽を問うマターを思いながら2つを投げて,
表(凹面)と裏(凸面)→「YES」∶聖筊(シン ボエィ)
裏と裏→「No Count」(≒質問の意味がよくわからない,もう一度尋ねろ,との意味)∶笑筊(チョー ボエィ)
表と表→「No」∶陰筊(インーボエィ)
 つまり,要するにこの提案は,こんなシンプルな占いに日本からはるばる来た集団のリーダー選びを委ねるというものでした。現代人から考えると笑止なこの提案に,けれど全員が賛同します。

20(続)眾曰:『此論最當,庶無後言』。隨排香案,眾各拈香跪告畢,依序向前拜祝,兩碗擲下粉碎,無一完者,咸躊躇焉。惟一官尚未擲,又忽其年輕。一官跪禱,將兩碗擲下,恰好一個聖筊,碗不破。眾皆駭然,一官取起擲下,復如前。衷紀曰:『我不信』。取原碗當天禱告:『我等大哥已死,欲推一人領諸軍。天若相一官,再賜兩筊,眾願相扶』。[江日昇「台湾外記」

(再掲)お寺に備え付けの「ポエ」

 鄭芝龍が年少だったこと,そのために「擲下」の順番が最後になったこと,の2つが語られているので,繋げると芝龍は最年少だったことがここでも分かります。
 芝龍以外は皆,碗が割れてしまった。最後に投げた芝龍だけが割れず,しかも聖筊(表と裏∶YES)を出した。もう一度やってもそうなった。けれどそれでも衷紀という人は「不信」(ウソだ)と言い続け,芝龍はさらにやり直します。余程立場の弱い光景です。

20(続)又連擲兩聖筊,碗不破。間有不信者,禱告擲下復如前。如是者屢,屈指計之,共成聖筊三十。眾齊哄曰:『此乃天將興之,誰能違之?吾等願傾心矣』!天生曰:『當選吉日』。楊經曰:『初八日大吉,我們尊拜一官為首按:獵歷明季諸記事多說:『拜劍躍起,遂扶芝龍為首』。又一說:『芝龍與陳衷紀、陳勳等十八人各乘一舟亡臺灣為盜,風引桅帶,攪而為一。各駭誓曰:「議以三通鼓而開者,立為主帥」。芝龍忽開』。[江日昇「台湾外記」

 とうとう30回やらされて,それでも聖筊&割れない が続くので天生,楊經らも鄭芝龍を後継と認める。

注 顏思齋とは一切関係ありません。
「按」(別伝?)として書かれる緑字部分が,この段階の事実を表しているように読めます。隠語めいて理解しにくいけれど──「剣を帯びろ,芝龍を首にしてしまえ」(殺せ?)という声が出た。あるいは,芝龍・陳衷紀・陳勳(芝龍派?)など18人を舟に乗せ殺そうとすると,風がマストを引き「攪而為一」(一つだけ=芝龍だけ助かってしまった?)。──
 これはまず間違いなく,28人衆の内部抗争,多数派が芝龍の後継を阻もうとした,ということでしょう。本文で天生の「當選吉日」(これは目出度い)を受けて楊經が「初八日大吉,我們尊拜一官為首」(初八日は大吉だ,我らは一官(芝龍)を首にして尊く拝もう=殺そう?)と言っているのですから,実質ナンバーツーだった天生も芝龍を阻もうとしたと解釈できます。けれど,芝龍は神異に恵まれ,28人の海賊はそれを無視できなかった。なぜ最年少の鄭芝龍にそんなことが出来たのかはよく分かりません。背後にはもっと黒い事情があったのを,浄化して伝えられたものでしょう。
 実力本位で命のやり取りをしながらも迷信に囚われた,前代の海賊衆らしい世界がよく表現されています。

②顏・鄭時期に台湾西部で描かれた倭又は日本人

 ここで外記から離れ,もう少し正史らしい県志や府志の記述を見ながら,軍記物の体をとる外記にあまり描かれない28人衆の「兵」の姿を追ってみます。

巻一17 嘉靖四十二年,海寇林道幹入台。天啟元年,顏思齊、鄭芝龍引倭踞其地。[後掲方志「諸羅縣志」(以下「県志」),清(1717年完成)]

 1563(嘉靖42)年,海賊・林道乾*が台湾に入った。1621(天啟元)年,顏思齊と鄭芝龍が「倭」を引き連れ其の地に居座った。──
*県志はこの海賊に「林道」の漢字を当てるけれど,混乱を避けるため,本稿では東南アジアでの一般的呼称及び正史である台湾府志に準じた「林道」表記に統一する。
 上の記述では,林道乾は後期倭寇最盛期「嘉靖大倭寇」時代の人で,1621(天啟元)年の顏思齊と鄭芝龍の台湾入りの60年前,つまり二世代以上前で,普通に考えて相互の接点はありえません。
 つまり,後期倭寇・林道乾が台湾への道をラッセルした。顏思齊と鄭芝龍は,「倭」を引き連れて本格的な移民を行った。
 これが府志では,顏思齊が「倭」と鄭芝龍を引き連れた,と微妙に変化しています。

巻一22(略)天啟元年,漢人顏思齊為東洋國甲螺東洋,即今日本;甲螺,即頭目之類引倭屯於台,鄭芝龍附之[後掲余文儀「續修台灣府志」,清(1685〜1686編纂),番号は中國哲學書電子化計劃採番(以下同じ)]

 より実態に近いと思われる表記です。──「甲螺」*顏思齋は(下線部)倭を引き連れ台湾に「屯」(植民)した。これに鄭芝龍も付き従っていた。──
 これは,鄭芝龍が,顏部隊の兵となっていた「倭」の一人に過ぎなかった,という書き方です。
 さらに同府志巻21に至っては,自律的に航海してきた「部隊」とすら見ない。単なる「漂着者」と扱っています。

巻二十一72(略)台地宋、元以前,並無人知;至明中葉,太監王三保舟下西洋,遭風始至此。未幾,而海寇林道乾據之,顏思齊、鄭芝龍與倭據之,荷蘭據之,鄭成功又據之。[後掲余文儀「續修台灣府志」]

──台湾は宋・元以前には知る者もない土地だった。明中盤に太監王三保(=鄭和?)が西洋に下る航海中に台湾へ至ったのは,単に風に遭ったからである。未だ幾ばくならずして(間もなく)海賊・林道乾も,顏思齊や鄭芝龍と倭も,オランダも,鄭成功も皆これに據る(同じである)。──
 つまり,林道乾までも含めて,含めて自らの意思で台湾を目指して来た者は誰もいない,とします。
 この点は,実は諸羅県志にも同様の筆致で書いている記述があります。

巻七14 台灣僻在海外,古來史冊未經見之邦。明宣德間,大監王三保乃一過其地;未幾而林道乾據之,未幾而顏思齊、鄭芝龍據之,倭據之,荷蘭據之,鄭成功又據之,至於今而列為郡縣。[後掲方志「諸羅縣志」]

「據之」部分の記述順は,諸史料とも同じです。これが台湾到着年代の順であったとすれば,
①林道乾
②顏思齊・鄭芝龍
③倭
④荷蘭(オランダ)
⑤鄭成功
となります。
 問題は,ここで言う「倭」が,語義通りに日本人なのか,後期倭寇の実態とされる中国人海民を中心とする境界人集団のことなのか,という点です。──後者の場合でも,民族的には日本人を含むと考えられますけど……。
 ここまでの記述例を見ると,②顏思齊・鄭芝龍と③倭が一体的に書かれた表現が多いこと,顏・鄭が日本方面から来たことの二点から考えて,「倭」が前者,彼らが出発時に日本本土で募兵した日本人だと解釈するのが整合性が高い。
 そうだとすれば,顏・鄭植民集団の中で人数的にメジャーだったのは日本人だったことになります。
 繰り返しですけど,後期倭寇(特に嘉靖大倭寇∶1553年前後)は8〜9割が中国人とするのが定説化しています。ただ,17Cに入った頃の鄭芝龍・成功海賊集団にはどうも日本人らしい姿が見え隠れします。この頃には戦国の終りを嗅いだ日本人の荒くれの一部が後期倭寇の残党に相当数取り込まれ,嘉靖とは構成を変えていた可能性もあるかもしれません。

太監王三保 赤嵌汲水

 なお,王三保(鄭和)については「明會典」*に次の記述があるとする記事があります。ただし,中國哲學書電子化計劃に掲載の欽定四庫全書版にはこの内容のヒットがない。
*法律書。1393(洪武26)年初版正定。重修版の完成は1587(万暦15)年(重修会典。228巻)

《明會典》,太監王三保赴西洋水程,有赤嵌汲水一語[後掲郁永河「裨海紀遊」]

──「赤嵌汲水」の一語が有る──つまり鄭和が赤嵌(台南)を訪れていた,おそらく船団の飲料水補給を行った,ということになります。
 そんな古い時代(明前期)の赤嵌,おそらく後のプロビンティア城の位置にあった原住民集落又はその港湾が,鄭和艦隊が補給を行うような場所だったのでしょうか?

尋與倭約 歲願貢鹿皮三萬張

 台湾に住み着いた順,という点で気になる記述が,(重修)台湾府志にあります。
 顏(ここは倭を連れ,鄭芝龍も之に依る,の表記)が台湾に住み着こうとした時点で,既にオランダ人(荷蘭人)の船があった,というのです。

台灣府志卷一13 天啟元年,顏思齊為東洋國甲螺東洋,即今日本。甲螺者,即漢人所謂頭目是也;彞人立漢人為甲螺,以管漢人,引倭屯聚於台,鄭芝龍附之,始有居民。既而,荷蘭人舟遭颶風飄此。甫登岸,愛其地,借居於倭;倭不可,荷蘭人紿之曰:『只得地大如牛皮,多金不惜』。倭許之。紅彞將牛皮剪如繩縷,周圍圈匝,已有數十丈地;久假不歸,日繁月熾,無何而鵲巢鳩居矣。尋與倭約:而全與台地,歲願貢鹿皮三萬張;倭嗜利,從其約。[後掲周元文「重修台灣府志」]

 しかも,そのオランダ人たちは,先住の「倭」と交渉(多金不惜)して間借りしています。さらに後には「歲願貢鹿皮三萬張」──年に鹿皮三万張を納めることで両者が提携しています。
 つまりこれによると,倭→オランダ→顏・鄭の順になります。
 また,この場合の「倭」が字義通りの日本人ならば,日本人の集落又は鹿皮の対日積出地の事務所があったことになる。さらに,鹿皮(別章リンク参照)は植民日本人が,少なくともそれほど多量を直接には獲得できなかったろうから,原住民とのネットワークを築いて交易していたことになるのです。

 こうした顏・鄭以前の「倭」の台湾居住を前提にすると,また全く異なる顏思齋台湾南征説が仮定され得ます。即ち,徳川幕政下で締め付けが強まった顏思齋ら西九州の海民勢力が,倭=日本系海民の既に築いていた交易ネットワークを利用して,同ネットの北端拠点から南端拠点に避難した,と実態だったという可能性です。
 陸上と異なり,(少なくとも高速交通と通信手段を欠く時代の)海民圏は,政治的・一極集中的な権力は存在し得ず,交易のネットワークという構造が存在するのみです。最優勢の時期ですら鄭氏四代が支配してきたわけではない。
 東シナ海を取り巻く交易のリングを想像してみましょう。そもそも中国系海民は,明後半の海禁政策を逃れて[8時地点]閩(福建南部)を脱し,[1時地点]五島〜長崎に拠点を移した集団です。江戸幕府が煩くなったから[7時地点]当時鹿皮交易の興隆期にあった台湾西岸へ移動したのです。
 江日昇や後代の伝承者が軍記物に置き換える前の,生身の顏・鄭そして倭にとって,西九州から台湾への移動は南征ではなく回遊民の「日常」でしかなかったのではないでしょうか。
 彼らには,海と船さえあれば好かった。

近世初めの中国系海民の移動イメージ

③移動地が諸羅県(現・嘉義)だったこと

 お気づきのように,ここまでの史料では,顏思齋らの台湾移動先が現・嘉義や北港付近だったことは明記されていません。多くが「台湾」と書かれています。それどころか──

巻二十二32(略)東至台之鹿耳門,旁夾以七鯤身、北線尾,水淺沙膠,紆折難入。明嘉靖末,海寇林道乾據之。道乾後,顏思齊勾倭人屯聚,鄭芝龍附之。未久,荷蘭誘倭奪之。鄭氏破荷蘭為巢穴,傳三世。[後掲余文儀「續修台灣府志」]

 府志は林道乾や顏(ここでは顏が倭を率い,鄭もこれに付いてきたとある)がやってきた場所は,鹿耳門,七鯤身,北線尾と書いています。台南編(次リンク参照)で見たとおり,これらは台南の安平付近の地名です。

 顏思齋や鄭芝龍の行動はあくまで「民」のもので,正史,特に清朝統治側からはむしろ無視すべきものだったからです。
 では北港に建つ「顏思齊先生開拓臺灣登陸紀念碑」は,何を根拠にしているのでしょう?

「顏思齊と笨港十寨」説は全て台湾外記が根拠

一般引用「顏思齊與笨港十寨」,都是根據《台灣外記》[後掲呂東熹]

 記念碑の紹介記事中では,現在流布されている「顏思齊と笨港十寨」の一般的な史料根拠は,全て「台湾外記」に基づく,と書かれています。
 また,行政側のものらしいパンフレットでは──

據清初江日昇撰著之《台灣外記》所載,係由顏思齊部屬兼好友的楊天生等人,將其葬於諸羅東南域的三界埔,即現今嘉義水上鄉靠近中埔鄉的尖山一帶。[後掲呂明吉]

──台湾外記に載るとおり,顏思齊とその一党と盟友・楊天生らは,その(顏の)葬儀を諸羅の東南域の三界埔で行った。即ち,現在の嘉義水上鄉や中埔鄉の尖山一帯である。──としています。これがおそらく史料的に正確性のより高い言い方です。つまり,
A【史料】顏の死亡・埋葬地は諸羅である。
B【推測】顏の本拠も同じく諸羅であろう。
C【推測】顏の台湾上陸地も同じく諸羅であろう。
 外記の記述については,その語り方から,江日昇が参照した元の口承なのか江の創作なのかを見分ける必要があります(→外記の史料的性格)。以下,該当記述から上記A〜Cの読みの確実性を確認します。

呂明吉(文・攝影)「拓台志士 顏思齊率眾在北港開墾之經過」(源 YUAN Magazine 台湾歴史)資料と関係記載部

A 顏思齊の死亡・埋葬地=諸羅

 次の記述は,前掲の鄭芝龍30連続ポエいじめ事件の前段になります。

第一冊19 天啟五年乙丑秋九月,顏思齊因往豬朥穛山一作豬羅山,即諸羅縣打圍回來,歡飲過度,隨感風寒,自知不起。(略)齊曰:『雖然;奈大數已盡,難與諸君揚帆波濤中耳』!言訖,嗚咽而死。天生等隨即殯殮設位,眾軍掛孝。完百日,方祭奠除靈。
20(再掲)十二月初二日,天生集諸位商議,再推一人統眾方可。[江日昇「台湾外記」,下線は引用者]

──顏思齊は「豬朥穛山」で起き上がることが出来なくなり,死んだ。百日して(喪にふして),葬儀した。──
「雖然;奈大數已盡,難與諸君揚帆波濤中耳」なる勇ましい海の男の辞世(勇まし過ぎて文語的で,訳せるほど意味が分かりません……)は,江日昇が聞かされた口承らしく思われます。江の創作らしい臭いはしません。
「豬朥穛山」に外記はわざわざ注釈を付し「一作豬羅山,即諸羅縣」──別名(?)豬羅山,即ち諸羅県──と書いている。病床に伏して死までに移動する時間がなく,かつ通常移動が考えにくいから,死亡地も同じ諸羅県。また,百日喪の後すぐ埋葬しており,その間の遺体の移動も宗教的に考えにくいため,埋葬地も確かに諸羅県でしょう。

B 顏思齊の本拠地=諸羅

 次は,顏思齊が病床に伏した諸羅が,即ち本拠地だと言えるかどうかです。
 前掲ポエいじめ事件の日は「十二月初二日」です。龍の死亡日の記述がないからカウントしにくいけれど,仮に9月初日としても12月2日は現代の暦だと93日,百日経過していません。だから外記がなぜこの順序(死亡→(百日)→葬儀→後継者決定)で敢えて記述しているのか不明で,もしかしたら28人衆の内部抗争ゆえに百日喪の終わりを待てなかったのかもしれませんけど──ともかく百日喪が明ける直前です。顏の死から後継者選定を経て百日喪の終了,の間,28人衆はその死亡地にいた。そんな長期間を顏だけの居宅に居候したとは思えません。つまり彼らも同じ本拠地に住んでいたと推測されます。
 また,上記の前後関係の不整合は,かえって江日昇の創作の可能性を否定しています。創作なら,整合した日程をまず作るはずだし,なにより顏の死亡日を明記するはずです。
「顏思齊因往豬朥穛山打圍回來,歡飲過度,隨感風寒,自知不起。」(前掲,注釈部抜き)──顏思齊は豬朥穛山へ打圍(狩猟)して「回來」(帰ってきて),祝い酒が過ぎたので,「隨感風寒」(寒けがしてきて,風邪をひいて),「自知不起」(人事不承になった,意識を失った)。──
 中国史に慣れた人ならいかにも毒殺を疑わせる情況ですけど,それは本稿の目的ではないので深堀りしません。でも,まず顏が倒れた場所は,祝い酒を飲み過ぎるような,顏にとって安全圏と感じられる場所だったと思われるます。
 また,顏はそこへ「回來」(帰ってきた)のですから,台湾上陸一年後のこの時点で,諸羅に顏は住んでいたと考えるのは無理がないはずです。

C 顏思齊の台湾上陸地=諸羅

 残るは,顏が台湾で過ごした一年間の居住地が,即ち台湾上陸地だったかどうかです。

(再掲)
巻之一18 十五日天明,思齊船中號砲三響,各魚貫隨行。計八晝夜,方到臺灣。即安設寮寨,撫恤土番。[江日昇「台湾外記」]

 台湾まで航行して上陸した場所に顏は「安設寮寨」しています。設置した施設「寮寨」の文字が微妙です。「寮」は,この場合,住居用の小屋でしょう。でも「寨」は控え目には村ですけど,語義通りなら柵のある防御地です。またそこを拠点に「撫恤土番」(原住民を平定)したわけですから,ある程度の長期滞在できる陣を張ったと解せます。
 よって,一年程度で顏が諸羅から本拠地を移動させたという印象は感じ取りにくい。……という程度しか,この点は外記からは確認できないと考えます。
 これはむしろ自然です。また江日昇が創作,あるいは故意に削除した可能性は低い。福建に住んで前代の鄭氏口承をまとめるのが目的だった江に,上陸地点が台湾のどこかにはあまり意味を感じなかったでしょう。また,上陸地点の具体地名を書けば描写がリアリティを帯びる,という計算を働かせるほどには,外記は(幸いにも)軍記物として完成されていないのですから。
 ただ,関係史料として地誌である県志には──

巻一1 封域志
16 建置
17 諸羅縣故統名台灣,海外荒裔,地不知所屬。明宣德間,太監王三保因風過台;則今之郡治,未入諸羅也。嘉靖四十二年,海寇林道幹入台。天啟元年,顏思齊、鄭芝龍引倭踞其地
[後掲方志「諸羅縣志」(以下「県志」),清(1717年完成)]

──明宣德年間に,太監王三保(鄭和)が台南に立ち寄ったが,諸羅には入っていない。1563(嘉靖42)年,海賊・林道乾が台湾に入った。1621(天啟元)年,顏思齊と鄭芝龍が「倭」を引き連れ其の地に居座った。──
 この県志の書き方は,微妙かつ正確性を期す姿勢が見えます。
鄭和 :未踏「未入諸羅」
林道乾:(入台)
顏思齊と鄭芝龍
  :到達「引倭踞其地」
 林道幹は台湾には来たけれどそれが諸羅だったかとうかは不詳。ただし,その海賊の流れ(≒後期倭寇)を汲む顏と鄭は,確かに諸羅に上陸した。──それは,林道幹がラッセルした航路及び現地情報に基づいたと推測できる,という含みを帯びさせつつ記述していません。──のみならず、倭とともに「其の地」に「据」居座った。
 即ち,県志は諸羅を顏思齋及び鄭芝龍の上陸地と断定して書いています。
 なお,これは状況証拠的なものですけれど,前掲台灣府志卷一13で,顏思齋上陸地に既に住んでいた「倭」があり,彼らはオランダ人と膨大な(年間三万張)鹿皮を交易しています。つまり上陸地名近隣には,鹿などの野生動物が多くいたことになります。
 顏は「打圍回來」(狩猟から帰ってきた)直後に倒れています。そこがたまたま別の狩猟場だったという可能性を考えないなら,獣の生息域に近い上陸地に死亡までの一年間住み続けたと考えるのが自然でしょう。

(再掲)北港に建つ「顏思齊先生開拓臺灣登陸紀念碑」

③-2 移動地が笨港だったこと

 台湾上陸地=諸羅 の根拠すら斯くの如しです。一次史料には,さらに諸羅の中のどこなのか,という記述はありません。
 なお,外記中「笨港」ワードでヒットするのは第六冊6の1668(康熙7)年の鄭経の記述の一箇所*のみです。仮に江日昇の時代に,笨港が,鄭芝龍=鄭氏政権の祖の台湾上陸地点としての特別な語感を帯びていたならば,江が継いだ口承にそれが含まれ,かつ江はその情報をこの唯一の記述に注記したはずです。よって,少なくとも外記刊行時点では,笨港=顏・鄭の台湾上陸地点という認識は誰も持っていなかったと考えていい。
*原文「倘頑梗不悔,俟風信調順,即率舟師,聯䑸直抵臺灣。拋泊港口,一股往北路笨港蚊港、海翁窟港海尫窟港口,或用招誘、或圖襲取,使其首尾不得相顧,自相疑惑,疑則其中有變。」
 顏思齋が北港に上陸した,という記述の初出史料は,調べた限り20Cになって刊行された通史が最初です。

4 思齊既謀起事,事洩,幕吏將捕之,各駕船逃。及出海,皇皇無所之。衷紀進曰:「吾聞臺灣為海上荒島,勢控東南,地肥饒可霸。今當先取其地,然後侵略四方,則扶餘之業可成也」。從之。航行八日夜,至臺灣。入北港,築寨以居,鎮撫土番,分汛所部耕獵。未幾而紹祖死。芝龍昆仲多入臺,漳泉無業之民亦先後至,凡三千餘人。[後掲連橫「臺灣通史」,下線は引用者]

「築寨以居,鎮撫土番」の語順が外記「即安設寮寨,撫恤土番」とそっくりなので,外記から引用した後でその上陸地点として「北港」を追記したと思われます。根拠はともかく,20C初めの嘉義で海からの上陸地点と言えば北港か新港だった訳ですから,当時は自然と受け入れられた表現だったでしょう。
 従って,20C初までの「顏上陸地=北港」説は史料的根拠を欠きます。18C以降の笨港の興隆を受けての感覚的な地名推定,いわば「例えば北港辺りも上陸地点だったかも知れないよね」という程度です。

顏思齊と笨港十寨

 とここで筆を置くと呂さんとか記念碑関係者に殴られそうなので,続けます。
 伝・顏思齋台湾上陸の1624(天啟4)年から17年後,オランダが笨港地区の原住民に対し出兵しています。

1641年荷蘭人對笨港溪北部地區「華武瓏社」的征伐時,當時的笨港尚未形成街市,但已能停泊數百艘舢板船,可知當時的笨港港灣,已經荷蘭人利用為進出台灣的港口。[後掲呂東熹]
*原典は「熱蘭遮城日記」1642年1月及び5月
**華武瓏はオランダ語文献にはFavorlang,Vavorlang,Vavorallang,Vovorolang,Vovorollangなどと記載される。)

 オランダによる華武瓏社征伐は三度行われています。1637年,翌1638年,そして1641年。上記は三度目1641年の記述の一部です。
 前掲府志卷一13ではオランダ人と「倭」が鹿皮年3万張を交易しているのですけど,ここではオランダ人の進出はまだないという記述になっています。ただそれより重要なのは──
a 当時の笨港にはまだ町は形成されていなかった。
b しかし,既に数百隻の「舢板船」(港内の交通船)が停泊できるようになっていた。
「数百隻の船」の姿は記録されていないようです。けれども──

1641年11月20日(略)率荷兵400人、中國舢舨船300艘,自大員出發(略)燒毀150座房舍、四百座倉庫,但原住民隊伍為了搶奪頭顱而發生衝突,荷蘭人為了防止引起混亂,將1200名遣送回去。先進軍貓兒干社,27日大軍直趨Favorlang村社,將四百座房屋、1600座倉庫點火焚燒[後掲呂東熹]

 つまりこの時のオランダ軍の焼き討ち成果の記録として
1641年11月
20日 住居150 倉庫 400
27日 同 400 同 1500
という(おそらくVOCの本社報告用)数字が挙げられています。つまり
計  住居550 倉庫1900
より大きなインフラが当時の笨港付近に存在したことになります。
 規模に加え,住居数に比較してあまりに過大な倉庫の数に驚きます。
 1641年の笨港には,相当規模の交易を行っていた何者かが存在していたのです。

少ない考古学的成果と過熱する観光PR

 こうなるとほとんどシュリーマンのトロイ伝説に基づいた発掘のノリになります。

相傳在水上鄉有思齊墓,學者周冠華於一九五三年,以白紙、鉛筆畫拓墓碑,發現「顏思」二字,推論為顏思齊墓,墓旁另有宓汝卓撰刻「顏思齊墓考」,雖然如今部分史蹟荒煙,但開台紀念碑足為後人追思。[後掲台灣英文新聞]

 1953年,「顏思齊墓」が発見される。その後荒らされて分からなくなってしまった,とされているし,当時の確認事項も「顏思」の二文字が拓本できたに止まるので,厳しく言えばトンデモ伝説の類です。けれどさらに──

1975年間,在舊地名尖山﹙今水林鄉大山村﹚,曾在該村發現古墓一處,經專家考證,認係顏、鄭時之遺墓,水林鄉地方人士,也認為該鄉的「顏厝寮」,是當年顏思齊設置「十寨」的主寨所在[後掲呂東熹]

 1975年,「舊地」の古称を持つ尖山(現・水林鄉大山村→GM.)の古墓調査で,17Cの顏・鄭時代のものと推定される墓が見つかりました。
 現地ではここを「顏厝寮」(≒顏思齋ゆかりの古い村)と呼び,彼らの設けた「十寨」のうちメインのものだと語り初めているという。

雲林縣政府開台400年系列活動,在北港、水林地區設置顏思齊10寨地標。(張朝欣攝)[後掲張朝欣]──雲林県政府の「開台400年記念事業」で北港・水林地区に設けられた顏思齊十寨地標

400年前顏思齊率眾來台開墾,並於古笨港地區即水林、北港一帶設10寨,目前水林鄉水北村顏厝寮還保有顏思齊遺跡,包括易守難攻馬蹄型聚落、7角井等,北港鎮北港圓環也設有顏思齊紀念碑[後掲張朝欣]

 考古学的根拠としては,「七角井」(七角形の井戸)と「馬蹄型聚落」(長円形敷地の集落)が挙げられているらしい。
 多角形井戸と言えば平戸や長崎の六角井を連想できます。ただこれも,通常日本や中国の陸上民は造らないタイプだね,というだけで,海民独自と実証されているわけではないし,もちろん顏・鄭一派固有とは断定できません。

「水林顏厝寮七角井」の台湾報道光景

張力元解釋,主寨為顏思齊居住所在地,為日後來台屯墾顏氏漢人主要聚集的部落,故以姓氏取名為「顏厝寮」。當時顏思齊為了提升10寨抵禦外敵的防禦力,將各寨築建成特殊攻防設計、易守難攻囊底巷的「馬蹄型部落」。[後掲張朝欣]

「馬蹄型部落」の考古学的根拠はついに分かりませんでした。つまり,どの遺跡からどう推量して「馬蹄型」と考えているのでしょうか?
 以前から気になっていた嘉義城の長円形状はそれで説明できる可能性はあります。また,本稿で扱った北港朝天宮の外部障壁の長円も,それに底通する,あるいは大胆に考えるなら宮自体が馬蹄型集落の名残りなのかもしれません。
 ただ,観光化の方が先行してしまっている現状では,報道が玉石混交になってしまって全てを信じれるような状況ではない。もう少し落ち着いた議論が始まるのを待てば,あるいは実証的に有効な「十寨」が姿を現すかもしれません。
 結論として,顏28人衆は嘉義付近に上陸したことまでは推測可能である。けれどそれが笨港だったかどうかは実証的な判定材料はまだない,と考えるのが適当です。

縣文化觀光處文資科長張力元表示,10寨的主寨、後寨、左寨、右寨、糧草寨及海防寨,分別位於水林鄉的顏厝寮、水北村、王厝寮、土間寮、後寮埔。前寨、哨船寨、撫番寨、北寨,則在北港鎮的興化店庄、船頭埔庄、府番仔庄、大北門庄。[後掲張朝欣]

“开台文化客厅”的开台十寨手绘图图──「開台文化客庁」(開台文化観光局?)制作の開台十寨ガイドマップ
顏思齋「十寨」[後掲雲林県政府]

「m19Em第二十四波m天后や天后の街でしかないm3北巷朝天」への3件のフィードバック

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