m19Em第二十四波m天后や天后の街でしかないm4北巷鎮安

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
∶朝天宮〜鎮安宮

お芋の配給切符バザール

▲1242博愛路

スルートへの帰路,民主路から北へ,もちろん思いつきで右折してみる。1241,ad博愛路。
「少しだけ残る古い家屋が飛び抜けて凄い。」とのみ当時メモしています。
▲建物
──にネットを掘ると,マイナーながらやはり古い場所。
 一昔前ということでは,日帝時代の1923(大正12)年には,「舊鎮公所」(台南州北港郡の北港街役場)があった。つまり官庁街でした。
 ただ,その本質は二昔前にまで遡らないと見えて来ないらしい。

北港甕牆
・「有名的甕牆即位於此街(蕃簽市)南端」(後掲記憶庫)──蕃簽市の南端に位置する。
・北港甕牆の位置→GM.

簽市」という市場がその原型らしい。語感が掴みにくい言葉なんですけど,「お芋の配給切符バザール」という感じのようでした。
 位置情報としては
・起点(北)∶現・旌義街と博愛路の交差点
・経由∶共和街(集雅軒會舘の後方)
・終点(南)∶(上記写真)甕牆の位置 (→全体∶GM.)

蕃簽市,由現今之旌義街與博愛路交叉路口算起,經集雅軒會舘後面之共和街,由北至南整條共和街皆屬蕃簽市,非常有名的甕牆即位於此街南端。
此街在乾隆15年(1750),笨港溪河道變遷,南移至今博愛路溪仔底一帶,直至嘉慶7年(1802),河道再南移為止,這五十多年間,都仍然屬於是天然河堤內側,河床斜面上所形成的蕃藷市集。北港四周的農民,或肩挑,或以竹筏載至此處販售蕃藷簽,因而得名。*参照(詳述) 雲林國家文化記憶庫/博愛路
URL: http://data.yunlin-memory.cool/taxonomy/term/611

蕃藷市場の五十年

──1750(乾隆15)年に笨港溪の流域が変わり,南の現・博愛路「溪仔底」(*場所不明)の一帶に移動した。1802(嘉慶7)年に流域が再び南へ移って停止した。この50年余の間,(この通りは)依然として天然の河堤の內側にあったので,河床の斜面に「蕃藷市」が形成された。北港周辺の農民,肉体労働者,あるいは竹筏の運送屋がここへ来て芋を販売したのが,地名の由来である。(*は引用者注)──

1750(乾隆15)年以後及び民国前後の北港渓の流域変遷図 実線∶1750年 細破線∶1906年 破線∶現在
[雲林縣政府「雲林縣北港歷史街區文化資產環境保存及活化計畫」2008
URL:https://tm.ncl.edu.tw/article?u=022_005_00004359

するに,現・博愛路,その東の(不覚ながら歩き損ねた)路地・共和街は,18C後半の北港渓移動期には川端だったらしいのです。次の記載からも,その流れは南北に,おそらく現・博愛路の西側を流路にしていたと考えられます。
*∵博愛路東沿い,朝天宮との間を流れていたならば,この細いベルトが川になって,宮が被害を受けなかったとは考えにくい。

此路段稱為「溝仔墘」,亦即蕃簽市之共和街,一直往南走經光明路過去就是溝仔墘。此地原是北溪岸旁之道路,此段路之西段路旁有一條大排水溝,因而得名。原先的大排水溝,是北港渓流經所遺留的痕跡。[前掲記憶庫/溝仔墘]

 けれど……そんな大異変期に,偶々出来た水路にたちまち市場を作ってしまう。その人々は,この50年間の時期にむしろ街中央への水路として交易を活性化させた節すらあります。水の民はひたすらにしぶとい。

珍原汁牛肉には辿り着けません


正路へ左折西行。
 阿豊油飯麺線糊──あれ?この料理名は福建で確か…?
 入るけど,看板の油飯・麺線糊とも売り切れ。これは相当良いらしい!
 民主路西のロータリー・顔思齋記念碑。あれやっぱりないぞ?──と探していたのは北港新味珍原汁牛肉面という店だったんですけど……とうとう行き着けませんでした。

GM.上の北港新味珍原汁牛肉面。こういう小さな店舗らしい。

ってると「北港童聯會」という変な宮に出ました。
 拝む。
 不思議なことに,本尊の像は,どうも媽祖に見える。でも従神や篇額はそれっぽくないのです。何?

▲1258北港童聯會の祭壇

牛雑湯はウチナーの牛汁か?

日ググると,かなりヒットはあります。ただ,画像はやたら出るのに,説明書きがほとんどない。何の神様でどういう由来なのか,どうにも判別がつきません。
[痞客邦/北港童聯會金水將軍 @ 神佛像宗教雕刻藝術-林玉海創作工坊
URL:https://linyuhai.pixnet.net/blog/post/37058961

▲牛肉湯

肉汁の舌になってしまってたので,周囲を調べてみる。すると?光明路の角…を回り込んだ場所に──
1306老夫子牛肉店
牛肚飯
牛雑湯300
 スープの方はまさに沖縄の牛汁そのものだったんでびっくりしました。香りからして同じです。ただ肉もスープも,沖縄のより淡く,反面で漢方めいて複合的。
 牛肚飯は,鶏肉飯と同じく肉片とともに汁がかけてあるタイプでした。

▲路地奥に宮

完全にイッてる目をした八千歳

この西隣に深い路地がありました。
 歩く人は誰もいない。でも奥に宮があるらしい。
「鎮安宮」という場所でした。七王爺廟とも呼ぶらしい。寄ってみる。1328。
 6つの檀家があり,「七王」「八王」「馬王」「三王」「観音」「太子」を担当してる。誰もおらんけど後援組織はかなりガッチリしとる。

▲壇家の当番表

額は「恵澤廣溥」。──溥儀の「溥」は①あまねし,広く行き渡る,②ひろい,おおきい,③敷く,といった意味なので……恵みの沢の広く敷かる。つまり,当時の暴れ川・北港渓を畏れ称えたものでしょう。
 左手に「観音佛祖」と額のある小さな,でも貫禄のあるお堂。神像が媽祖かどうかは不詳ですけど,女性的な感じもあります。

▲観音祭壇に供えられたパイナップルとマンゴー

手に金属製の首だけ五体を祀る祠。
 そして,どうやら主神はこのひと(じゃなく神)らしい。
 誠におどろおどろしい。夢に出そうで怖い。

▲神体「千歳」。目が完全にイッてる。

媽祖は黒豆がお好き?

スターあり。
 12月1日に「北港鎮安宮修復及再利用計画的説明会」という懇談会が,政府と宮主宰で開催された直後らしい。万一今度来たら,全然ちがう光景があるかもです。
──と,全く消化できない三箇所を回ってから,帰路につく。1349,市バス7325路に乗車。今度はえらくゴッツいバスです。
 念のため運ちゃんに「新港去?」と訊くと──「トゥエンティファイブ」(行くけど高いよ)と英語を返されました。
 座ると眠気が襲う。でもここは眠れんぞ!

▲新巷媽祖キャラ

404,新港下車。
 篇額
「 港 新
 宮 天 奉
祖 妈 台 開」
 何と?ここのも安平に比肩するかのように「開台」(台湾開拓)時代を称える名称です。
 それはいーけど,媽祖って黒豆好きだったっけ?

▲入口に野積みされた黒豆

■レポ:北港鎮安宮にあったはずの前史

 1750〜1802年の変流時の川筋は,計画系建築学のアプローチで推測されています。[後掲伊藤裕久・吉野菜月]
 この研究者たちは,北港中央部の下水の微勾配を次のような図に落としています。

道路下水の勾配から見た微地形条件[後掲伊藤ほか]
*他図との整合上,引用者において北を上にして回転させた。次図も同じ。

 中央やや左手を斜め縦に描かれた灰色ゾーンが,1750年洪水期の推定・旧河川流域です(以下「乾隆流域」という。)。
 読み方に慣れる必要があるけれど,乾隆流域東側(図の右側),朝天宮から南のエリアが微高地になっている様が数値的に理解できます。
 千分比5超の勾配が丸で囲ってあります。この傾斜がつまり,先の引用で「河床斜面上所形成的蕃藷市集」──「蕃藷市集」がそれに沿って形成された川岸の斜面でしょう。

図3の下水流路(勾配)からは、朝天宮を挟む南北の宮口街~蜊仔街が微高地であり、西端の停車場との間が低地となっていたことが読み取れる。ここには旧河川流路跡(図1)1O)とみられる低湿地(池)が残存しており、疎らに民居が存在する農村集落的な様相を留めている。[後掲伊藤ほか]
*引用元注10)前掲3)論文で指摘される乾隆15年(1750)洪水時の流路と推定される。
3)洪敏麟「笨港之歴史地理変遷」(『臺灣文献』23-2、1972年)。林王茄『清代臺灣港口的空間結構』知書房1996年。陳姿敏『北港鎮衆落務展典與祭祀圏的形成』高雄師範大學碩士論文2011年など。

 確かに池状の残存地形も地図上で確認できます。
 それにしても,250年前のこの大異変の痕跡すら,この程度に霞んでいる。北港の町に感じる違和感は,この断絶性です。他の町で見るように,一定方向に累積されることがない。博愛路のように,ある時期の川岸が切れ切れに繋がっている町なのです。
 この乾隆時代以前を見通すことが可能でしょうか?

笨港八街 郊行林立 塵市毘連

 雲林県采訪冊(清光緖年間∶1875〜1908年)には,北港の「八街路」というものが記述されています。

北港街即笨港、因在港之北、故名北港。東・西・南・北共分八街、戸七千餘家。郊行林立、塵市毘連。[雲林県采訪冊]

──北港街は7千軒を超える商業街として繁栄,その中心たる八街は東・西・南・北の八街で構成された。──
 この八街と先の1750年変流域を合わせ示したのが,次の図です。八街は概ね先に見た朝天宮の微高地に沿って広がります。

1750年頃の北港八街[後掲伊藤ほか]

 八街は現在の次の通りと比定されています。
南 →宮口街
北 →銅仔街
西 →横街・打鐵街
東 →中秋街
南西→暗街・新興街
北西→賜福街・褒仔新街
[後掲伊藤ほか,原典∶陳國川編「台湾地名辞書」巻九 雲林縣,2002]
 GM.では既に確認できない町も多い。
 ここで不思議なのは,微高地から乾隆流域を跨いだ西側です。乾隆流域が存在した50年間,おそらくこの西側エリアは相当の被害を受け,半ば水没していたのだろうと思われます。
 そこになぜ,鎮安宮は存するのでしょう?

旌義街ラインは朝天宮を指す

 この日(2019.12),この宮には南の道から入りました。現在(2022.4)のGM.では北北西から館前街という道が入っていますから,これが本文で触れた「修復及再利用計画」の結果かもしれません。
 でもここでまず指摘したいのは,この館前街が北側で接続する西勢街です。この道はグネグネと複雑に屈曲しつつ東で旌義街に通じ,まっすぐ西のロータリー状,つまり朝天宮へ向かいます。けれど,宮にたどり着く直前でプッツリと途絶える。
 この途絶える地点で交わる南北に伸びる道が,本文で触れた博愛路≒蕃簽市です。

(上図)北港鎮安宮付近 (下図)西勢街〜旌義街ライン∶赤線
凡例 緑線∶博愛路≒蕃簽市

 旌義街ラインは,屈曲ぶりから言ってかなり古い。そしてかつてはその北東で朝天宮までを結んでいたでしょう。するとおそらく南西端は川辺の船着場だったと想定されます。
 緑線の博愛路≒蕃簽市は,変流した北港渓沿いだったことも本文で触れました。その変流は1750〜1802年の50年余だったことも判明しています。
 これらから,旌義街ラインは1750年以前の港〜朝天宮までの参道が,北港渓の変流によって断ち切られたものだと推定できます。

2017年現在の鎮安宮付近の地籍図
[後掲国家文化資産網「雲林県北港鎮地籍図査詢資料」中華民國106年06月1日府文資二字第1063805405B號 北港鎮安宮]

地籍図から見る鎮安宮南西ライン

 上の図は鎮安宮の文化財指定を公告した2017(民国106)年現在の地籍図です。
 筆毎の管理体制が日帝統治下で形成されたためか,台湾の地籍図は日本のそれと違和感がない。筆の形は,古来の土地の形を如実に維持しています。
 灰色の箇所が鎮安宮の位置です。
 宮の南西側に斜めの,東南から西北に抜ける筆のラインが見えます。さらに広範囲のものがあれば分かりよいのですけど,入手できませんでしま。このラインは,西北で道,つまり西勢街にぶつかっています。
 ラインを境に,北東と南西では筆のドットの大きさや整形度が異なるのも分かります。
 これにより,先の地図に引いた赤線・西勢街~旌義街ラインに加え,もう一本ラインが引けます。

同地籍図 凡例 赤線∶西勢街~旌義街ライン 黄線∶斜めの筆の境ライン

 朝天宮に延びる西勢街~旌義街に直交するライン。それは,かつての海岸線(川岸)と想定できないでしょうか?──この方向に川筋があったなら,その時代の北港渓がどんな流路をとっていたのか,それは想像だにできませんけど。

明鄭時代に行館あり

 北港鎮安宮は,「三益境鎮安宮」という別称を持ちます。
「三益」と言えば論語の「三益友」を思う。諸利益を生む「境」──やはり交易場が連想されます。

① (「論語‐季氏」の「益者三友、損者三友。友レ直、友レ諒、友二多聞一益矣。友二便辟一、友二善柔一、友二便佞一損矣」による語) 交際して利益となる三種類の友人。正直な友、誠実な友、多聞な友。三益。益者三友。⇔三損友。
※本朝麗藻(1010か)下・秋日会宣風房亭〈藤原有国〉「聚雪窓中三益友、宣風坊北一尋辰」
② 風流なものとして、梅、竹、石の三つをいう。
[補注]②については「蘇軾‐文与可梅石竹賛」に「梅寒而秀、竹痩而寿、石醜而文、是為二三益之友一」と見える。[精選版 日本国語大辞典「三益友」]
*後掲台灣好廟網によると,「三益境」は笨港街の五大境の一つで,西勢里・南安里・義民里の三地区の境にあるから,と説明している。この場合は,道祖神めいた神だったことになります。

 主神は「楊府七千歲」。王爺と同義とされます。「七王爺館」の呼び名もあるという。
 本文で見たとおり,やはり管理委員会制の運営。
[後掲台灣好廟網]
 さてその歴史ですけど──

鎮安宮俗稱七王爺館,明鄭時期笨港屬於天興州轄,設立「行館」,清廷領台,這裡及鎮安宮附近土地,是收租納糧辦公的地方,後興建「笨港公館」即今址。因年久荒蕪,經居民修繕作為祠廟奉祀「楊府七千歲」[後掲台灣好廟網]

 荒れた後に「千歳」を祀ったという*。荒れる前には,「笨港公館」という徴税役所があった(清代)。
*相良吉哉(日本人?)著の「臺南州祠廟名鑑」(台南初版,1933年)は「王爺廟」の創立を1886(光緒12)年とする。[後掲台灣好廟網]
 新港鄉板頭村に「笨港公館」(観光地名∶古笨港縣丞署→GM.∶板頭厝)があったと書く記事もあり[嘉義縣文化觀光局],両者とも出典が明らかでなくよく分かりません。
 ただ,その前代の伝えとして,台灣好廟網はこの場所に「行館」があった,と書きます。
 最近までこのエリアに「公館街」という道名があったという。今のGM.上ではそれは確認できないけれど,先に見た「館前街」(→GM.∶地点)は残ります。
 また,台灣好廟網は,宮の「七王爺館」という呼称を「七千歲」という神名と旧地名「行館」を合わせたものと推測します。
 では行館は,明鄭期の何だったのか?──この点に触れている記述は,残念ながら見つかりません。
「行館」という二文字漢字は,現在は草山行館(後掲TaipeiTravel,台北市北投)などに用いられるように宿泊施設や養生所の意で使われるらしい。
「公館」ならば,体面的には役所,事実上は商人の利益調整センターのような場所であることが多い。でもこの言葉は明鄭時代にもあったでしょうから,何かを差別化したかった可能性もあります。
 分かりません。

台南市普済殿の千歳(王爺)

王爺はなぜそこに祀られたのか?

 鎮安宮に祀られる「千歳」=王爺は,福建移民団が連れてきた最古の神の一つです。
「南の王爺,中部の媽祖」(南王爺中媽祖)という成語もある。また「旧暦3月は媽祖フィーバー,4月は王爺の生誕祭」(三月瘋媽祖四月王爺生)というのもある[後掲TaiwanToday]。
 ただ,「居民修繕作為祠廟奉祀」[後掲台灣好廟網]──居民が修繕し作りて祠廟と為し祀る──とあるのを信じるなら,「行館」に元々あった祠というのではなく,それが荒廃してから祀った王爺,ということになります。
 鄭氏政権滅亡の1683年からざっくり50年後,と考えるなら1733年。乾隆の変流・1750年より後にはこの位置に造られるはずはない,と考えると廟の成立は18C前半と考えられます。
 けれど,宮南西の筆縁ラインは,それから変流までの2〜30年に形成されたにしては明瞭過ぎます。その前の荒廃期に出来たと考えるよりは,さらに前,明鄭期の集落ラインとするのが自然です。
 媽祖ではない,というだけの点から,新港へ移っていった漳州裔と想定することもできなくはないけれど,根拠に薄い。
 結論として,
①鎮安宮の位置は,明鄭期の川筋沿いだった可能性がある。
②そこには「行館」があり,交易など川筋沿いでしか行えない何かの業務が行われていた。
 この位に掘っても,分かることはこの程度です。後掲「雲林縣採訪冊」その他史料にもヒットはない。
 北港になる前の笨港というものは,これほどまで徹底的に分からないのです。

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