m19D@m第二十四波m天后や天后の街でしかないm5北港(補稿)

港の歴史は途方もなく古い訳じゃない。たかだか四百年です。日本の戦国時代よりも最近なのです。
 なのに,とことん多彩です。しかもそれぞれの謎が黒々と深い。
 とうとう,別章を設ける破目になってしまったというわけです。
 ただ,以下は笨港の謎をより深めるだけで,全くその解明には至っていません。なぜこの町のたかだか四百年の歴史は,これほど訳が分からないのでしょう?

漢人による台湾の開拓年代 (黒塗)オランダによる入植以前の開拓地
*下図:澎湖・台南・嘉義地域拡大 (赤丸)同三箇所の位置
[後掲三尾 資料編図6 漢人による台湾の開拓年代(原典:陳正祥「臺灣地名辭典:附臺灣的地名」、南天書局,1993)]

■補論1:北港朝天宮の建築学的論考

 伊藤裕久・吉野菜月さんの「日本統治期における台湾・北港朝天宮周辺地域の都市改造に関する復元的考察」(日本建築学会計画系論文集第79巻第702号,2014。次々章でも参照)という論文に,なかなか見えない古笨港の風景を惹起させる,建築学的な知見が記されていましたので,触れてみます。

(上)「南正面外観・・・竣工当初の三川殿と龍門・虎門(柱間4間)」
(下)「西側外観・・・虎門より張出す西護室」

朝天宮長円構造は昭和一桁頃造られた

 伊藤さんらが復元的に問題としているのは,本文と同じく,なぜ朝天宮は作ったようにキレイな長円なのか,という点です。建築学のプロらしく,彼らは南前面の龍虎門に焦点を絞っています。

両図{うち1つを下記左図に掲げた}からは寺廟の建物形状が判明するが,現状平面図(図4{下記右図})に比定すると,現状の龍門・虎門は柱5間(門柱含む)で中央1間に門扉を付設するのに対して,龍門・虎門の柱間が1間小さく東西護室が張り出していたことが分かる(写真1-1・2{上記})。また後殿周辺の形状が異なり,現状の四進・聖父母殿より小規模であったことが判明する。聖父母殿では前軒石柱の年記に「昭和戌辰年六月穀旦」とあることから,現状の規模に改修されたのは環状道路完成後の昭和3年(1928)頃,両側の洋楼(商工銀行・貧窮民施療所)の建設も同時期とみられる。同様に龍門・虎門の拡張は古写真の比較19)から昭和6年(1931)頃と推定され,環状道路の敷設による境内敷地の拡大によって寺廟整備がさらに進展したと考えられる。[後掲伊藤。{}内は引用者]
※現注19)昭和5年(1930)臺灣總督府交通局鐵道部『臺灣鐵道旅行案内』の写真では柱間4間,昭和7年(1932)『北港街要覧』では柱間5間となっている。

朝天宮平面図(左:1913(大正2)年 右:現在
実線の円及び長円は左右の同位置を指す。)
 以上3点を対照させることで,ロータリー新設前後,朝天宮とその外周施設の敷地又は建築位置がどう移動したかを明らかにしています。
 1906(明治39)年の嘉義大地震を受けて,だとすれば今の感覚では長いですけど,当時天災からの復興に20年,というのはスピード感として通常だったのかもしれません。一度破壊されたことが,ロータリー化のための位置調整を可能にしていた。
 また,この「再開発」は戦後日本でありがちな宗教=非利益創出施設の規模逓減を目的とせず,むしろ巨大化,正統化をヴィジョンとしていた。朝天宮の現在形は昭和初年に日帝統治下で形成された,というのが正確でしょう。
 重修碑記その他の朝天宮の近世初期起源の物語へのシンパシーは,この事実を思い出したくない心理の裏返しだと推定されます。

朝天宮ロータリー新設に伴う北港市場の再設置

 この日,参詣前の假魚肚を食らったお店は,朝天宮の長円の南東端にありました。
 この南東ブロックに,かつて市場があったらしい。──飯を食べる過程ではとてもそんな雰囲気を感じなかったし,今GM.などを見ても市場らしい賑わいや店名はほぼない。おそらく假魚肚の店は,かつて市場が北港経済の中心だった時代から,門前の飯屋としてかろうじて命脈を繋いで来たのだろうと推測します。

朝天宮南東端ブロック(GM.航空写真)

 上のGM.(→位置)航空写真には,朝天宮長円の南東ブロックだけが,周囲のブロック内のドットより大きい,それどころかブロック全体が一つの建物になっている様子がはっきり分かります。
 北港の「市場」をGM.上で検索すると別の場所がヒットするから,ごく最近閉鎖したけれど,ここには公設市場が存在しました。
1933(昭和8)年の北港市場(原文図7)

 上の図は1933年の北港市場付近の平面図です。図左上の四分の一円が朝天宮ロータリー南東部。
 まず,市場の縁が描く方形が,東西より南北方向に長い,縦長になっています。
 なぜ縦長か,言い換えれば東西方向の市場域拡大を何が妨げてるか,という目で見直すと,西端ラインは宮正面の大路ですから──東端ラインの東を湾曲しながら延びる「旧道路」と書かれた道があるからです。その一部は現・中秋路(→GM.∶地点)として現存します。
 さて,次の平面図は上記の2年後。公設市場拡張後です。
1935(昭和10)年頃の北港市場の復元連続平面図(原文図11)

 南北より東西方向の方が長くなっています。南北方向の長さは1933年と変わらない(∵ワンブロックのまま)と考えてよいので,東西方向の長さは1933年の2倍近い。つまり店舗面積を倍増する拡張を行ったわけです。
 この時に,先に触れた中秋路北端,朝天宮への接続路部分は,市場の拡張部分に飲み込まれて消えています。当初の市場の範囲を規定していたはずの中秋路を破壊している。
 代替路が造られた形跡がないので,この1930年代には中秋路はさほど交通量の多い,経済機能上必須の道ではなかったと推測されます。この点は,後段に譲ります。

18世紀の北港宮口街の風景

 伊藤さんらは,昭和初年代の朝天宮周辺の再開発を次のように総括しています。

大正期以降に進展した市区改正以前,朝天宮の周辺地域は建て詰まった状況であり,十分な前埕(広場)も設けられていなかった。こうした清代からの高密街区の再編実行の契機となったのが明治39年(1906)の嘉義大地震である。震災で多大な被害を被った朝天宮の寺廟再建が北港支庁長の呼びかけによって開始され,その後の震災復興の象徴的役割を担ったと考えられる。結果,朝天宮は三川殿の左右に龍門・虎門を併設して正面に前埕を設け台湾における媽祖廟の総本山に相応しい壮麗な正面性を獲得する。[後掲伊藤]

 次の大正6年地籍図を,伊藤さんは何と下水溝と道路敷の地図群から見つけてきています。

大正期における朝天宮周辺街区の地割(原文出典表記「大正6年『嘉義縣北港下水溝及道路敷地図』に拠る」)

 地割(≒筆)がとことん細長い。特に宮口路(朝天宮南正面道)の西側が物凄く細い。
 シンガポール・カトンや東南アジアのプラナカン様式(ショップハウス)の地割を思わせます。オランダの課税方式(間口の長さが課税標準)の影響とも思えないけれど……とにかく宮口街に無数の口を開けた袋小路状の建物が並んだわけです。

東南アジアのプラナカン様式家屋例との比較

 宮口街西側の地割は,前記のとおり下水道溝工事の基礎資料にしている訳ですから,近代建築学に基づいたものでデタラメなものではないはずです。
 シンガポールなど東南アジアでの見聞の記憶からして,けれどこの短冊の長さは異様です。──これはどの位に長過ぎるのでしょうか?
 プラナカン様式を「カワユい!」「インスタ映えする」と紹介する記事は多いけれど,真面目に平面図を取り上げた論文は少ない。
 広島工業大の研究事例があったので,参照してみます。まず長さの尺度ですけど──

注11 ショップハウスは,間口と高さが約4ⅿで奥行きの長いユニットが積層する事で構成されており,この縦横約4ⅿ角のユニット1間口分を1スパンと表記する。[後掲白石他]

 奥行き/間口の比を「スパン」という尺度で用います。すると,彼らが対象にしたプノンペンの事例では──

プラナカン様式の実例[後掲白石他。引用例は同論文対象中,最もスパン数の多いものを引用者が選択]

ドンペン地区内で調査した55棟のショップハウスのうち,1スパン注11)のものは21棟,2スパンのものは10棟,3スパンのものは5棟,4スパンのものは6棟,5スパンのものは4棟,6スパンのものは3棟,7スパンのものが4棟,8スパンのものが1棟,11スパンのものが1棟であった。1スパンのものが約4割であり,他と比べると1スパンのものが支配的であることが分かる。[後掲白石他]

 北港宮口街西側の短冊は,前記図上で測る限り明らかに10スパン以上,最長では15スパンを越えるものもあります。
 プラナカン様式の成立経緯やニーズは不可解な部分があるし,北港のものが東南アジアのそれと同系のものである確証はないけれど,何か東南アジアに通常なかったような特殊要因が働いた家屋構造である可能性が推定できるのです。
 ただ,そこはブラックボックスとして議論を進めます。

短冊の間口はどの道にあるか?

 この細い地割は,けれど宮口街東街には発達してません。
 その代わりに,S字湾曲する中秋路から北東に,宮口街より短いけれど短冊が伸びてます。
 これは宮口街西側でも,横街(打繊街)の南北に同様の形状がある。
 そして,中秋路も横街も,19C以前の北港八街に数えられる古い道です。

▼内部リンク▼ 笨港八街 郊行林立 塵市毘連
1750年頃の北港八街[後掲伊藤ほか]

 ただ,宮口街,中秋路,横街に間口を置く短冊の接続面を見ると、両者のいずれが古いかをある程度推し量ることができそうです。

(再掲)大正期における朝天宮周辺街区の地割

 横街は両側に短冊を並べ,南側の短冊の路地奥が宮口街からの短冊で断ち切られているように見えます。力関係は宮口街の方が強いわけですけど,それも含めて横街の方が古いのです。
 対して,中秋路は南西側まで,宮口街の東短冊が直接到達しています。これは,宮口街の短冊の奥が水害か,あるいは単に中秋路という新しい道そのものかで断ち切られ,それから北東は中秋路からの短冊に置き換えられたように見える。その当時の勢いは中秋路の方が強かったようですけど,それも手伝って中秋路の方が新しいと推測できます。つまり──
横街(打鐵街)   [古]
 < 宮口街
  <  中秋路 [新]
 つまり,笨港八街は一時に構造的に配置されたのではありません。この町の構造の無秩序さは,そこから来ています。おそらくは変化する河川流域に即応して時間差で形成されたものの累積だと考えます。
 幾重にも時間軸上で分断された町が,笨港なのです。
明治末期の宮口街 (上)「中部」 (下)「南部」
 明治,とあるのが1906(明治39)年の嘉義大地震の前か後かが判然としませんけど,建物の倒壊の気配がないからにはおそらく地震前でしょう。
 現在は南行一直線の都市計画の軸のように見える宮口街も,少なくとも明治期までは狭く,微細な凹凸を持つ道だった様が,上の写真から見てとれます。
 どちらの画像も,不鮮明ながら,どうも道中央を行くパレードを撮影したものらしい。この行列と,左右の見物人のために,ほぼ通行が不能になっているように見えます。
 騎楼のある家の形式も統一されてはおらず,軒先も揃ってはいない。
 その他に,1枚のみ,清代とキャプションのある画像にもたどりつくことができました。
「清末北港朝天宮廟埕」[後掲許・廖]

 朝天宮三川門(正門)を南から北に撮っていますから,右手に見える軒が後の北港市場ブロックです。一部ではありますけど,相当くたびれた,お世辞にも裕福な家屋ではない。
 それにしても,右下端の子どもを抱いた男,幼児をおぶった幼女,その他多くが撮影者に不審げな視線を送る。まだカメラが珍しかった時代に,おそらく三脚などであまり性能の良くなかったカメラを固定して撮った写真でしょう。
 また,不鮮明ですけど,人の流れはどうも三川門をくぐるのではなく,左右の龍・虎門から宮内に入っているように見えます。

■補論2:中秋路についての伝承

 中秋路の光景はグーグルアースでも見ることができます(→GM.∶地点)。
 なぜ「中秋」路なのかは定説がない。一説に,顏思齋の笨港上陸日が中秋で(→[台湾外記]顏思齋の台湾奇襲作戦・鄭芝龍 台湾に立つ‼∶前々章),その上陸地がまさにここだから,という「由来」も語られるけれど,北港史にかかる前掲の異様なバイアスを考えるとさらに物証が出るまでは鵜呑みにはしにくい。──逆に,本当に顏海賊団が中秋路に上陸したとしてもおかしくはないので困るのですけど……。

早期稱為「車仔寮」
中秋路靠近北港溪碼頭,具有重要的交通地理位置,往來商旅在此停車卸貨
街上到處停滿牛車(貨運)以及人力車 故以「車仔寮」稱之[後掲JUST A BALCONY]

──「車仔寮」の別称がある。通りがいつも貨物運搬の牛車や人力車で渋滞していたことからだという。
 そして重要なのは,どこからそんな量の貨物を運搬したかということ。
──「北港溪碼頭」に隣接する重要な地理的位置にあった。

中秋路とその南延長 位置図(地図の出典不詳)
「北港溪碼頭」──北港渓の船着場と市内中央,おそらくは朝天宮南東の北港市場を繋ぐ物資搬入路だったわけです。
 つまり,船着場が中秋路南端の位置にあったことになります。
北港糖廠運輸 車内単程票。20C前半までは設立目的通り製糖業の輸送に用いられたが,20C後半には北港朝天宮参拝路線として頻用,1960年代の全盛期には北港-嘉義間の乗客5〜6千人/日,運行22往復/日(祭日32往復)。1982年廃業。[後掲歓迎光臨台湾鉄道]

物資はどこから運ばれたか?∶南街側の鉄道最寄り駅説

中秋街南段為車仔寮,清代因鄰近「北港牛墟」(今北港水道頭處),及棧間(倉庫),是牛車運輸聚集處。明治40年(1907)春龍公司建一條「打北輕鐵」,由打貓(民雄)經新港至北港之輕便車,但當時無北港大橋,受北港溪阻隔,輕便車僅止於南港(今南港派出所處),再以竹筏接運至北港,而北港之輕便車接駁店即設在車仔寮,因而得名。隔年明治41年(1908)北港溪架設輕便橋(以木椿搭建)使輕便車鐵軌得以延伸至北港,輕便車店也沒移動。[後掲文化部國家文化記憶庫]

──清代の「北港牛墟」(現・北港水道頭→GM.∶地点)に隣接し,倉庫や牛車運輸業者の集まる場所だった。
 文化部國家文化記憶庫はこの場所にそれほど物資が集まった説明として……
──1907(明治40)年に「春龍公司」(鉄道会社?※)が「打北輕鐵」(鉄道)を建設。打貓(民雄)から新港経由で北港までの軽鉄だったが,当時はまだ北港大橋がなく,北港溪に阻まれ,軽鉄は南港(現・南港派出所)で止まっていた。そこから物資は竹筏で北港へ運ばれたので,北港側に車仔寮が設けられたのである。──
※現在も台北に春龍開發興業股份有限公司という会社が存在するが,同一社か否かは不明。

北港糖廠運輸 単程票[後掲歓迎光臨台湾鉄道]
 分かりにくいのは,その先です。
──翌1908(明治41)年,北港溪を渡る軽便橋(木椿搭の建設)により軽鉄車両の線路が北港まで延伸したので,軽鉄車両の取扱店も移動して無くなった。──
 そうだとすれば,中秋路が物資搬入路として機能したのは1907年から最長でも2年限りの期間だったことになります。
 流石に2年限定では繁華街は形成されないでしょう。北港市場の位置も明確に中秋路を搬入路として当てにしていますから,中秋路が栄えた多くの期間,対岸からの鉄道物資ではなく港への陸揚物資が運ばれた,と考えなければ理屈に合わないと思われます。
 だからやはり,この記述にある水道頭の港は,荷揚港として相当長期に渡り稼働していたと考えられます。

中秋路の家屋の対聯

「峰山衍派」対聯→泉州府晉江人?

 JUST A BALCONYプログは,中秋路の家屋に多く残る対聯に注目しています。

屬於閩南人聚落的北港,現今依舊可在老舊的門牆上,看見各式「衍派」
「衍派」與大眾所熟知的「堂號」相同
皆為標示住戶姓氏祖籍、傳承家族脈絡的重要印記
在北港人數眾多的蔡氏,便有兩種「衍派」 青陽衍派是山東
「峰山衍派」祖籍地為福建 泉州府晉江縣[後掲JUST A BALCONY]

 北港全般に見られる事象のようですけど,中秋路の部分に書かれるのでその頻度が高いのでしょう。
──閩南(福建南部)人の集落である北港では,今も古い家屋の門構えに各種の「衍派」が見られる。「衍派」は誰もが知る「堂號」と同義である。住民は姓氏祖籍を家屋に標示して一家の来歴を記す。北港に多い蔡氏は,二種類の「衍派」を用いる。「青陽衍派」は山東系,「峰山衍派」の祖籍は福建,中でも泉州府晉江県である。──
 晉江人は泉州三邑人(晋江・南安・恵安)の中でも最も戦闘的な第二世代移民群です。中秋路にそれが多い,というのは,台北萬華の大稲埕と同様,北港への移民第二波の中核となっており,彼らがメインになって形成した街路の一つが中秋路だった,ということでしょうか?

「阿彌陀腳騷間 西勢窯豆腐間」

 この成語は,中秋路の形成初期に言われたものであるという。

北港有一條古街叫中秋路早期年代流傳
<阿彌陀腳騷間(臺語),西勢窯豆腐間>早期「腳騷間」即「妓女戶」,都分佈於北港中秋路一帶,西勢窯有多家豆腐工廠。一處尋歡享樂,一處忙於工作, 真有天壤之別……清朝文獻就已經有中秋路這個地名. 中秋路之所以特殊,除了是笨港地區較早開發的街道之外,名為「中秋」也是台灣街道少見以節慶為名的案例。[後掲Life QA By Edith at 2010]

──昔の言葉「腳騷間」は即ち「妓女戶」(俗語らしい。恐らく風俗産業)が中秋路の一帯に分布しており,その傍らで西勢窯(東勢窯と並ぶ北港の輸出用陶工)には豆腐工場が多く営業していた。前者は享楽に溺れ,後者は生産に忙殺されていた様は「真有天壤之別」(≒雲泥の差)であった。──
 どうやらいかがわしい場所でもあったらしい。いわゆる「女遊び」を中国語の隠語で「吃豆腐」と言うので,おそらくそれともカケた表現です。
 それにしてもなぜ「阿彌陀」(オランダ)なのでしょうか?先の対比からは単に「風俗で遊べる金持ち」という意味合いですけど,笨港の栄えた時代はオランダ統治時代からは遠いし,何よりこの土地をオランダが治めた時代はありません。
 ただそれよりも,続くコメントの方が気になります。
──清朝の文学上にも中秋路という地名があり※,この「中秋路」という地名は特殊なものである。笨港の古くに開発されたこの街道の他には,「中秋」の台湾地名は少なく,何か目出度い意味を込めた例と思われる。──
※何の文学を指しているのか不明
 確かに,試みにGM.で「中秋路」を検索してみても,鄭州の地名がヒットするだけです。
 先に触れた顏思齋上陸日説の他,この由来に関しては,後掲「Life QA」が挙げているものがあります。

中秋路之所以「中秋」,是因為日據時期,媽祖廟口有許多攤販,當時擔任北港街長的蘇顯藜,為了改善街道市容,遂將這些攤販集中遷移至車仔寮,此日正是中秋節時,所以便把這條路就取名「中秋路」。[後掲Life QA By Edith at 2010]

 蘇顯藜(1886〜1945)がこの道を改良工事したのが中秋節だったから,という説です。ただ,先述のいかがわしさ,名称の稀有さからして,漢族の感性上,そういうことで簡単に付けられる名称とは思えない。
 台湾の他の古称と同様,現地語からの音の類似なのかもしれません。
 要するに,中秋路のかつての賑わいはどうにも深い闇に閉ざされているのです。

古笨港遺址の現地風景[後掲國家文化資產網]

■補論3:崩溪缺遺跡からの銅銭出土

 もう一つ押さえておくべき点は,史料が多くを語らない民の都・笨港について,考古学的実証研究はまだ始まったばかりだということです。
 今後,とんでもないものが発掘される可能性は,まだまだ未知数なのです。
 1992(民国81)年,北港朝天宮隣の中央市場(前掲)の改築工事中に,古文物が発掘されたのを皮切りにします。──明らかに繁栄の歴史を持つものの,ほぼ正史の裏付けのない笨港を,その頃まで台湾歴史学は事実上ネグレクトしてきた感があります。
 2001(民国90)年から翌年にかけ,雲林県政府は北港の東側の「崩溪缺」,北港渓の河岸の発掘を行います。[後掲經典雜誌]
 この時の成果を素人的に読むと,既存歴史を突き崩すような大当りはなかったらしい。
 ただ,それは見方にもよります。以下,主に劉克竑「古笨港遺址出土的古代銅錢」(館訊第275期,國立自然科學博物館,2003)によりますけど──大量の磚瓦(敷き瓦),陶瓷碎片(陶磁器の破片),その他諸々の日常用品。加えて,銅銭,髮簪(ヘアピン),首飾り,指環などやや珍貴な財物も出土。その大部分の年代は清代のものでした。

古笨港遺址範圍圖[後掲國家文化資產網]
※左下∶朝天宮 右手川向こうA〜E∶発掘場所

 清代に漢化された台湾で,清代の遺物が出土するのはむしろ当然です。でも注目されるのは,それ以外なマイナーな部分とその由来地。

在這次試掘中,共獲得約1,500枚保存大致完整的銅錢,另外還有1,000多枚銅錢碎片。可以辨識文字的銅錢共有1,080枚,中國錢除了大量清代銅錢之外,還包括唐代開元通寶和軋元重寶、北宋的太平通寶等16種、南宋的紹興通寶、明代的洪武通寶、永樂通寶、萬曆通寶、天啓通寶等4種、三藩之亂時呉三桂和呉世璠鑄造的利用通寶、昭武通寶、洪化通寶等。日本錢包括寛永通寶、元豊通寶(「豊」寫作「豊」)等;安南錢包括官鑄錢和私鑄待考錢等多種。[前掲劉]

 
 つまり数値だけを抜くと──

全       2500枚
うち完全形   1500
 文字判別可能 1080
(以下の数量は上記引用にない論文本文記載数)
  唐銭      9
  北宋銭    70
  南宋銭     1
  明銭     16
  清銭     668
  「呉周」銭※(若干数)
  日本銭※   49
  安南銭※
  (官鋳)   133
  (私鋳)   105
※下記参照 

発掘された貨幣の種類

崩溪缺出土 唐:開元通寶
(上:現物画像 下:裏表の拓本。以下,貨幣画像について同じ)

「呉周」銭とは,清初に反乱を起こし南中国を版図に収めた呉三桂の乱(三藩の乱。1673年〜最長9年)の支配地域で流通していた銭。清朝は使用を厳禁したけれど,現実には日本統治時代まで使われていました。
崩溪缺出土 呉周(呉三桂):利用通寶
「日本銭」のうち,寛永通寶は日本国内で流通していたもの。幕府は国内貨幣をこれに統一するために国外流出を禁止したけれど,実際は元禄期頃まで相当量が輸出されていました。元豊通寶は,この禁制による貿易への悪影響を避けるために1659(万治2)年から長崎で鋳造された貿易取引専用貨幣。宋銭銘を用いているけれど,偽金にならないよう材質のほか宋銭本来の「豐」字を「豊」に変えています。[後掲wiki長崎貿易銭]

崩溪缺出土 日本(長崎):元豊通寶

 官鋳・私鋳を合わせ238枚,完全出土数の約1/4を占める「安南銭」は,ベトナム製の通貨です。対中国交易で使いやすいよう宋銭などに似せた通貨を造ってきました。官鋳は黎朝(1428年〜)以来フランス統治下でも発行されています(日本名∶安南歴代銭)。私鋳のものは,地方勢力が鋳造したもの(日本名∶安南手類銭)。
 なお,日本には,鎌倉期から江戸初期まで移入され,そのまま一文銭として通用されてきたけれど,1670(寛文10)年に幕府が他の移入銭と合わせ国内通用を禁止しています。
崩溪缺出土 安南(ベトナム・私鋳=安南手類銭):治平通寶

 地味なデータです。けれど唐突に突きつけられると,ジワジワと頭の中が???で埋まります。
一)清代以降に漢民族統治下に入った台湾に,なぜ宋銭,さらには唐銭までが埋まっているのか?
二)なぜコレクションのように多種の貨幣が混ざって出土するのか?
三)なぜ清と正規の外交関係のないはずの日本貨幣が出土するのか?清代の交易で使用貨幣は限定されなかったのか?
四)中でもベトナム貨幣がこれほど多いのはなぜか?
 これらを,劉は次のように総括しています。

由此可知,清代臺灣民間使用的銅錢,種類十分複雜,其可能的來源如下:
一、唐宋時代中國的商人或漁民,曾與臺灣原住民進行交易,使中國銅錢流入臺灣。
二、在中國流通的銅錢中,一向包含相當數量的前朝古錢,歷代政府一般採取放任的態度。清代臺灣民間與中國內地交易時,自然會有古錢摻雜流入。
三、清代朱仕玠認為這些宋錢可能是由商船進行海外貿易時帶進來的。
四、據文獻記載,清代晚期,在閩、粵流通的貨幣中,越南錢「十居六、七」。這可能有些誇張,但越南錢很多應是事實,並經由貿易而流入臺灣。[後掲劉]

海域アジアで用いられた貨幣の多彩さ

──一つ。唐宋時代の中国の商人や漁民が,既に台湾の原住民との間で交易関係を築いており,この頃から中国の銅銭が台湾に流入していた。
──二つ。中国で流通していた銅銭には,相当の数量の前代の古銭が含まれていたけれど,歴代の政府はこれを放任する態度をとっていた。だから清代に台湾の民間業者が中国と交易する際にも,当然に古銭が混ざって流入してきていた。──
 一つ目の可能性があるならかなり刮目すべき事態です。ただ,徳川幕府が古銭の駆逐・統一に相当期間を要したことから考えても,二つ目,そもそも貨幣の統一に真面目に取り組む政権が海域アジア周辺諸国にはほとんどなかったから,というのがありそうな事態に思えます。

清代福建交易部署による古銭使用容認

──三つ。清代の朱仕玠がこうした宋銭を海外貿易時に使用することを許容していた。──
 これも意味が分からない。
 朱仕玠は18Cの福建邵武府建寧県の楊林の人という。生年1712年は伝わるけれど,没年は不明。字は璧豐とも璧峰とも言い,号は筠園。文学者。[後掲維基]
 著作には「小琉球漫誌」「臺海使槎錄」があり,政治的地位を確認できないけれど,交易活動に通じていた人のように見えます。
 この立場の人が古銭使用を容認した,というのはどういう影響を与えたのでしょう?

福建・広東の銭は越南銭が六,七割

──四つ。文献の記載によると,清末の閩(福建南部)・粵(広東)で流通した貨幣のうち,越南銭(ベトナム貨幣)が「十居六、七」(60〜70%)だった。これは少し誇張した表現だけれど,確かに越南銭が多かったのは事実で,貿易を通じ台湾にも流入していた。──
 明の侵攻を食い止めたとは言え,ベトナムは新興の進貢国です。しかも相当量は地方や私勢力の鋳造。大国・清の発行貨幣や事実上流通していた古銭を押しのけて流通するほどのバーゲニングパワーを,なぜ持っていたのでしょう?
 理由はともかく,けれどこの時期にベトナム貨幣がかなり海域アジアで共通的に使われたことは,事実として押さえておいた方がいいと思われます。

[メモ]黃叔璥「本臺海使槎錄」記載の「笨港」経由行程

 臺海使槎錄(略称∶使臺錄)は,清の巡臺御史だった黃叔璥の著。前掲の朱仕玠も関わっているらしい。1722(康熙61)年6月からの台湾の地理・風俗を詳細に書き留めた第一級史料です。
 文体が本格的に役所調らしく,文節も区切られていないので……ワシの中国語力ではなかなか読み切れません。だけど,「笨港」を含む台湾東岸の地名が列挙された箇所を見つけたので,メモとして残しておきます。
 東海岸の航行者にとって,笨港が一つ重要なポイントになっていたことは分かります。

第四巻 5(略)颿指閩安琉球社外舟通呂宋至如北線尾中樓仔夜靜潮平海翁窟歐汪溪春明浪秀蚊港笨港新港後港竹滬三林或依山回沍冒沒騰流或聚石奔衝昻澎涌溢千里雷馳萬潮煙洶七鯤身毗連環䕶三茅港匯聚澄泓路分東渡西渡洋別大鄉小鄉鯽魚潭打狗澳漁舟雲集洲仔尾瀬口港鹽格星屯扼其險可以制患資其利可以裕民四曰鹿之生也(略)[後掲黄,番号は中國哲學書電子化計劃付番,朱書は引用者]

 なお,単に「笨港」ではなく「新港後港」と書かれる点も不思議です。笨港が南北に分断されたと記録されるのは1750年(→前掲∶5KM東に新造された「新・笨港」新港)なので,使臺錄に分断後の状況が書かれていても奇異ではありません。けれど,18Cに入って建設されるはずの現・新港は通説ではまだ存在しない。笨港近辺の地名ならば,史書に言う「南港」「南街」ではなく「新港」「後港」というのはどこのことでしょうか?
見えてるものが全てじゃないから
 さて,この巻末は次章巻末の下調べです。次章では本来の目標,この笨港に台湾移民のごく初期,伝わるところでは最初に移り住んだ人々にいよいよ焦点を絞ります。

「m19D@m第二十四波m天后や天后の街でしかないm5北港(補稿)」への1件のフィードバック

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