m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m6台中萬春

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

脳ミソそのものの……

▲阿水師の猪脚

中帰着後,足早に昼に見つけてたこちらへ。
1939阿水師猪脚店
猪脚(蹄)
白飯
脳湯450
 豚足の肉のトロトロ感は,いわゆる「てびち」からは違和感を感じるほど異質です。
 前回「沖縄並み」と書いたのは嘘ではない。沖縄てびちを信仰するワシですけど,そこからすると信じがたいほどの完成度です。というか,東シナ海をまたぐ「てびち」食文化圏のようなものがあるのかもしれません。
 ただそれだけなら沖縄並みなんですけど,台湾の場合,ここにタレが絡むのである。
 上海や山東だと八角で淡く,なんだけどここのは卵の黄身のような生々しさが口に残る。これが堪らない。何かが豚足の脂と融合してこの生々しさになってると思うんだけど,分からない。
 この感動のあまり,あまり違和感を意識せずに食ってしまったのが──

猪脳湯!
ミソのスープ,そのままです。豚の脳ミソがぷかぷか浮いてる。
 これは最高です!
 スープそのものも,何にも例え難い,滋養とエグみと生生しさとゲテモノ感に満ち満ちた味わいですけど……さらに脳ミソそのものの食感!このふわふわの口どけというのは──旨い!と感覚してしまっていいのでしょうか?
 非常に危険な旨さです!
屋台街の「猪脳湯」メニュー

台中で何が変調してるのか?

002。公園路をまっすぐ北行。
 右手に闇に沈んだ台中公園。
 ただこの辺りは,どうも夜総会のネオンとかがホントに闇に沈んで続いてます。市府路へ左折西行してさらに歩く。
▲2010やや闇の濃い台中公園辺りの騎楼道

湾の夜の闇は濃くて妖しい。
 台北に居る時,いつも嗅ぐ匂いです。
 それを嗅いで初めて,ここまでの西海岸の夜にはそれがなかったことに気付きました。台南の夜も嘉義のも,ザワザワと騒々しいピーが棲む東南アジアの闇でした。
 台中で何が変調してるんだろう。

この黄色い壁の記憶がなぜか強烈に残ってます。〔GM.〕

シャンプーハットの狛犬が埋まる町

行すると,何とここにも妈祖の宮。成功路と平等路の交差点南東角,萬春宮。
 通りすがりだったので対聯は書いてませんでした。今調べると──
萬仞仰宮牆抗手女中堯舜
春王遵正朔追棕天上娥英
天上有真如世世毫光永照
聖母無偏志生生智慧圓通
〔後掲維基 原典∶[2] 黃鍵龍. 台中媽祖廟之一的萬春宮. 《新一代時報》. 2017-11〕
い他の媽祖宮で見てきた,バラバラの時代に継ぎ接ぎされた対聯ではない。語数も同じ四行,韻や対語が完璧に押えててある。全体が同一個人の作であることは確実な対聯です。
 篇額は「神人同欽」。
 奥の額には「海晏河清」。
 いずれも他でも見たことのある額なので,むしろこいつの方が奇異でした。
▲ファンキー帽子被った狛犬

春宮は,巻末に詳述するように日帝統治下で圧迫されてます。この狛犬は,何と中正路と平等街の交差点(南東角)の台湾銀行から戦後に掘り出されたものだというのです。

據耆老口述是萬春宮遭拆毀時被當時管理人埋藏,戰後才在今中正路與平等街口(→GM.)的臺灣銀行出土[1]。因戴斗笠,常吸引民眾目光,廟方解釋是為了免於雨水破壞[8]。〔後掲維基/台中萬春宮
※原典 [1] 施雲萍、林郁瑜. 臺中萬春宮古物調查報告 (PDF). 《庶民文化研究》 (逢甲大學庶民文化研究中心). 2015-03, (第11期)
[8] 朱俊彥. 台中萬春宮 石獅戴斗笠 有拜有保庇. 《蘋果日報》. 2011
※GM.リンクは引用者

記事になった「台中萬春宮 石獅戴斗笠」(2011年12月)

ャンプーハットをかぶっているのは,宮側の解釈では雨水による破損防止のため(廟方解釋是為了免於雨水破壞)と説明されてるけれど──それは変でしょう。何か信徒にだけ伝わる,おそらく日本人が知ると戦慄するような,象徴的な意味があるように予感しますけど……。
▲祭壇

プリミティブな媽祖

祖様の御顔を仰ぎます。
 何か……中華的でない。
 アフリカの彫像のような,何ともプリミティブな表情です。それが明るい照明と不似合いで……。
▲拝壇横手から

手は「文昌帝君」。御簾には「観音佛祖」とある神像。
 その左手は,不詳ながら女性像に見える。──次の説明からすると註生娘娘だったのでしょうか。

萬春宮除主祀媽祖外,另有主配祀神觀音佛祖及註生娘娘、副配祀神、客座神及護法神等,祀奉神明百餘尊。其中以副配祀神明最多,例如三官大帝、南斗星君、北斗星君、城隍爺、文昌帝君…等。〔後掲萬春宮〕

順風天じゃないかと思うけど,とにかく強烈な面構えです。

はりパティオあり。
 入口は二ヶ所。下手は
右「萬物荷帡幪生氣勃」
左「春風嘘和萬景象清新」
 上手に
右「萬伪仰宮墻坑手女中堯舜」
左「春王遵正朔追踪天上娥英」
 一文字目が「萬」と「春」で始まり,詩句は荘厳でありつつ構造は締まってる。やはり時代の階層性は感じないけれど,入口の造られた時期は異なるのかもしれません。
▲2025寺院内の回廊

台中の夜に太陽餅

道に戻る。2026,西へ台湾大道に抜ける。
 市府路をさらに西へ。
 中山路に洪瑞珍というパン屋かポリスの店が開いてる?
▲2030「パン屋かポリスの店」以外は暗くシャッターを閉ざす道

寝の町らしい。
 台中名物・太陽餅。現在,その有名店,民族路の阿明師を目指してますけど……こりゃ開いてそうにないね。中山路に引き返す。
2040洪瑞珍
カステラとか400
 その裏道に奇妙な提灯の灯るのが気になり入る──けれど,これは単なる装飾でした。
 その向こうに目的地・阿明師を見つける。角地で見えなかったらしい。でもあまりの対応の低レベルさに買わずに帰る。これはアカン。
 この自由路には似たような太陽餅のお店が並んでる。そのうちこの店が実力ナンバーワンらしい。
2058太陽堂老店
太陽餅250

九つの太陽と朝見つけたベランダ

▲2059九個太陽


 台湾大道で「九個太陽」という店を見つける。前回のはここだったような記憶です。この看板の竹炭小太陽にも記憶がある。
 西隣,成功路を南行。宿への帰着は21時を回ってしまいました。
 疲れたぞ!

献血キャラとしても大活躍の萬春宮媽祖(台中媽祖萬春宮暖心捐血(献血))
🐑 🐑  🐑 🐑 

ついに台北入り!
でもその前に台中を
も少し歩く……つもりが
結構豊作でした。

[前日日計]
支出1400/収入1350
    ▼14[208]
負債 20/
利益 30/
[前日累計]
利益 -/負債 20
§
→一月二日(四)
0836正好豆漿専売店
鍋貼
葱花蛋餅
豆ジャン250
1102珍有味林森店
①白飯
②白身魚のじんわり煮
③天国角煮
④インゲン豆ちょび辛炒
⑤鶏肉ごつごつ焼き 550
1143楊清華潤餅
原味200
1230魯肉邱
爌肉飯
(冬天)芥菜湯300(1300)
1300九個太陽
太陽餅150
[前日日計]
支出1400/収入1450
    ▼14[209]
負債 20/
利益 30/
[前日累計]
利益 30/負債 –
§
→一月三日(五)

 

朝0741。部屋にベランダがあるのを見つけた。
 ベランダというか,この部屋だけ角地で外に出れるのである。
 見渡す。逆光ながら新・台中駅の巨大な姿。甲殻類のようなドームを幾つも背負ってる。2階には列車が,1階にはバスがガンガン出入りする。残念ながら逆光で全く撮影不能だけど──壮観。
Walking qi-yue

三民路口に古民屋を認む

物をまとめてたら,久しぶりに朝の出が8時を回ってしまった。宿のすぐ前のバス停・台中車站(成功路)で待つ。
 X(航空写真)手法で見つけた南屯路へ行ってみることに。
 73路なら文心南南屯路口,75路なら五権西萬和路口と,えーい,どちらも長くて覚えられんぞ。
 75路が来た。0804,乗車。
🚌

権路を北行。
 西側にCamaあり。
 左折,昨日の自由路へ西行。
 北側に地方検察所。
 右折。林森路です。バス停・林森三民路口。西に古い家屋。惟和館という看板。こういうエリアが,多くはないけど点在はしてる。
▲0831台中の車道に群れなす朝のバイク軍団

漫彩種巷」というのが東に見えてる地点に来た。
 台中第五市場のエリア。歴史建築台中文学館と矢印も。東には金山路。
 0816五権路に左折。両側にアパート並ぶ。
 えらくスピードが落ちた。交通量が多いみたい。
一つ前は五権西向心路口。雰囲気がいい。少し前だけど下車鈴を押す。

南屯で葱花餅

▲0831下車エリアの光景

827,下車。
 南に渡って向心路を南行。何が,ということもないけれど清々しい下町です。
 向心路63。朝飯屋を見つけました。
0836正好豆漿専売店
鍋貼
葱花蛋餅
豆ジャン250
▲朝御飯

漿が無茶苦茶旨い!
 ストローで紙コップから飲んでるのに最高に,ぐちゃぐちゃの混ざりものが腹に染みる。台湾の朝はやはりこれ!
 鍋貼も売れてるだけある。ニンニクの辛味がガツンと到来いたします。
 けど,この朝飯はさらに──
▲具入り焼餅アップ

餅に韮卵を挟んだこの巻物,これは……凄かった。
 焼餅の旨味を殺さない淡い調理の韮卵が絶妙にマッチ。
※葱花鸡蛋とか台風葱花餅として紹介されているネット記事が多い。
 適当に選んでこれだから,どれもこのレベルなんでしょうか。
 古い店らしく店内中ほどに角地の門構えが遺されてる。台中に3店展開してるローカルチェーンです。
(→熱血中臺灣/「台中正好豆漿」情報資訊整理 URL:https://txg.lovekhc.com/info/%E5%8F%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E5%A5%BD%E8%B1%86%E6%BC%BF.html)

1940年頃の台中・緑川河畔。台中が京都に例えられた時代,この川は鴨川に比せられたという。

■レポ:「看不見的萬春宮」萬春宮の消えた30余年

 日本当局は何かの恐れをこの宮に対し持ったのでしょうか?
 下関条約の翌年,日本はいきなり萬春宮を本願寺の寺に改めています。

1896年(明治29年),日本本願寺佔領萬春宮,改為中尊寺。(略)1911年進行第二次市街改正,這是調整規模最大的一次,連同萬春宮拆除大墩街上的許多民宅,劃出棋盤格式的筆直馬路,媽祖暫時供奉於民間商家。〔後掲維基/台中萬春宮〕

 さらに15年後,市街の大規模な改造をやってる。この時に,今度は萬春宮そのものを撤去しています。──この時の迫害の徹底度は,先の狛犬が埋められていたという話とも整合します。
 正確には,萬春宮を含む台中最古の通り・大墩街の多数の住宅(大墩街上的許多民宅)をなべて一掃しているのです。
 さらに詳しく見ると──

民國二年﹝1913 日大正二年﹞日本總督府進行市街改正計畫,萬春宮正殿因位於改建道路的交叉路口,﹝①今成功路與平等街口﹞,遂被拆毀殆盡。原來巍峨壯觀、美侖美奐的百年宮殿式廟庭建築一夕消失;萬春宮媽祖一度淪流奉祀於附近店家。
拆毀廟庭,並無法離散信徒對媽祖恭敬崇祀的心。②在「看不見的萬春宮」時期,媽祖信徒人數有增無減,虔誠的信徒數度展現龐大的信仰力量。
民國六年﹝1917﹞,信徒舉行五媽會的遶境活動,藝閣、詩意、古樂燦行。民國十三年﹝1924﹞,信徒發起湄洲進香活動,並迎湄州二媽﹝十八庄出巡媽﹞,傳為盛事。〔後掲部落格 下線及び丸付数字は引用者〕

 ①現在の成功路と平等街の入口(交差点?)ということは,現・萬春宮の北西の十字路です。ここを改造した際に宮が破壊された,ということは十字地点に建っていたのでしょうか。
 ②「萬春宮消失」(看不見的萬春宮)時期にも,媽祖信徒の人数は増えこそすれ減ることはなかった。──この点は明らかに奇異です。けれどその4年後に,実際に七媽祖の集結行事が行われています。

1917年に台中萬春宮に集合した台湾中部の七媽祖「民国六年(1917)的五媽會」

七媽祖集結は1917年だったか?

 上記の写真は萬春宮に展示されているものですけど──どこでしょうか?
「暫時供奉於民間商家」(維基),「淪流奉祀於附近店家」(部落格)とあるのですから,萬春媽祖は信徒の家に匿われて30余年を過ごしたことになります。
 でも,民間信徒の家屋内にこんなに媽祖が集合するでしょうか?
 七媽祖というのは,梧棲朝元宮,北港朝天宮,新港奉天宮,鹿港天后宮,彰化南瑤宮,台中萬春宮,台中樂成宮のことを指します。写真にも確かに文字がそう入ってます。〔後掲維基〕
 1924年には,七媽祖が揃って海を越え,湄洲に帰省しています(併せてこの時に湄洲島から「二媽」が来台(並迎湄州二媽))。この中に萬春媽祖もいたわけですから,先の写真はこの里帰り時のどこかで撮られたものが,【1】時代を錯誤して伝えられたという可能性もあります。

1924年,萬春宮回湄洲媽祖祖廟謁祖進香,並迎回湄洲六媽,為萬春宮二媽[1]。(略)發生進行交通管制的日本警察被鑾輿摔倒、州知事因罹疾病而前來向媽祖請罪等事件[10]。〔後掲維基/台中萬春宮
原典[1] 施雲萍、林郁瑜. 臺中萬春宮古物調查報告 《庶民文化研究》 (逢甲大學庶民文化研究中心). 2015-03
[10] 顯化篇 神蹟傳說難以計數. 《民生報》. 1987-10-04

 この里帰り時の記述として,「祟り」事件が発生してたという。
 一つは,交通管制をしていた日本の警察官が乗った馬車が転倒した。もう一つは,州知事が病気にかかり媽祖に罪を謝罪した。
 もとより祟りの史実を問うても無意味ですけど……次の部落格記述は,戦時の日帝がおそらく皇民化の文脈下で,如何に媽祖信仰を圧迫したかを語ります。地域を越えての媽祖巡行は完全廃止,公開祭祀も中止させられたという。

民國二十六年(1937),日本政府實施皇民化運動,台灣的傳統民間信仰屢遭挫折,迎神遶境活動被迫取消,萬春宮媽祖信徒也由公開聚會轉為私人敬拜,公開性的祭祀無法再行。
民國三十六年﹝1947﹞,地方望族林坤、林景焜先生組織「萬春宮廟宇重建委員會」,聯合善士信眾之力,於現址重建萬春宮,力圖恢復原廟巍峨寬闊、莊嚴肅穆之舊觀。民國六十年﹝1971﹞,萬春宮陸續修建正門「天后閣」牌樓。
光復初期,萬春宮的廟庭只有今拜庭區域,面積不到十坪;民國四十年﹝1951﹞,正殿與廂廊修建完成;民國六十年﹝1971﹞,增築天后閣牌坊。民國九十八年﹝2009﹞,在文化台中的理念下,台中市政府於萬春宮周圍馬路修築四聖獸圖騰磚道。〔後掲部落格〕

「看不見的萬春宮」時代は,けれど戦後すぐに終わりを告げます。書き方があやふやだけど,1947年に改修(重建)委員会が立上り,1971(民國60)年には正門「天后閣」が完成。
 中華民国成立初期,今の拜庭の場所にあった萬春宮の庭は,面積10坪に満たなかった(光復初期,萬春宮的廟庭只有今拜庭區域,面積不到十坪)とあるから,敷地自体も消えようとしてたわけです。
──というのが,いわゆる「正史」です。というのは,「看不見」時代がもっと荒々しいものと捉えることも可能だからです。

(再掲)1917年に台中「萬春宮」に集合した台湾中部の七媽祖「民国六年(1917)的五媽會」

七媽祖を集めた台中の引力

 先述の【1】時代錯誤説は,湄洲島への七媽集団里帰り時に撮った写真を間違ってか故意にか「流用」している,という言い方をしましたけど──台中の創建時代である20C初頭と重なることを考えますと,実際に台中に勢揃いした可能性も否定できないと思うのです。──萬春宮展示の上記「集合写真」はあまりにも肩寄せあっています。また,上段中心の神像がなく,あまりに同格の配置で,供物もない。正規の祭壇でなく仮安置所である,という推測をさらに敷衍すると,萬春媽祖が匿われた商家の狭い祭壇とも推測できます。
 その場合考えられるのは,【2】台中萬春宮が本殿を失いつつも台湾中部西岸一帯に及ぶような強大な政治力を発揮して「招集」を実現させた,という見方。もう一つは,【3】台中萬春宮の受難は中部広域全体の媽祖信仰に危機意識を惹起した。結果的に,萬春宮は「邪教」媽祖信仰vs日帝の対立の旗印になっていた,という仮定です。
 械闘直後の状況下,泉州系の北港朝天や鹿港天后を含めてそれだけの連携がなされたのは,異様です。【2】台中の政治力がどう発揮されても無理に思えます。祖籍を超えた【3】媽祖を否定する新統治者に対する統一戦線を,台湾中部域の媽祖信徒が形成した,と考えるのが自然です。
 萬春宮は戦後の建物です。ただし,萬春宮に限っては,30数年を置いて復活したことの方に意味がある。その復活劇を現実化したパワーこそが,萬春宮の御本尊だとすら考えうると思うのです。
 けれどこの意義を把握するには,日帝の構想した台中自体が時空上のどこにあったのかを前提に捉える必要があります。

正伝∶藍興宮の三百年と萬春宮の百年

 別建で付記するのは,実は,萬春宮自身がHPに掲げる由緒は,以下の通りまた異質なものであるからです。

來台三百年
萬春宮媽祖又稱「①藍興媽祖」,俗稱「台中媽祖」。②前稱具傳承藍廷珍創建「藍興宮」之意涵,距今已近三百年;後者則始自日據時期,係信徒對萬春宮媽祖普遍的稱名,距今也逾百年。
台中媽祖於康熙六十年(1721)來臺,時因台灣發生朱一貴事件,總兵藍廷珍奉命平亂。為此,藍廷珍親赴湄洲朝天閣,恭請聖母正身(三媽),隨船保護來台。登台後,藍廷珍將聖母駐駕先奉於台南大天后宮。④雍正元年(1723),亂事平靖,再迎聖母奉祀於大墩庄店(今台中市三民路一帶),定名為「藍興宮」
乾隆五十一年(1786),發生林爽文事件,戰火蹂躪大墩庄店,藍興宮亦遭波及。乾隆五十四年(1789),為求社會安定,一度修復廟庭。嘉慶年間,由於廟宇遭風雨剝蝕,地方聞人林開梅、許其昌等募資改建,更名為「萬春宮」;③本具私廟性質的「藍興宮」,自此轉變成眾人捐資修建的「萬春宮」。〔後掲萬春宮,※下線及び丸付数字は引用者〕

 これによると──
①萬春宮は元,「藍興媽祖」と呼ばれた。
②藍廷珍という人※が「藍興宮」を創建したから(彼の姓を取って)命名された。今から三百年前のこと(で,これに対し百年前に共同出資で建てたのが萬春宮である。)
※武官職名「総兵」。朱一貴の乱(1721年)の平定のために来台。藍廷珍はこの時に湄洲島から媽祖を伴って来た。最初,この媽祖は大天后宮に納められた。
③だから,古い宮の由来「藍興宮」は私廟の性格のもの
④藍興媽祖は,1723(雍正元)年に乱(朱一貴?)を避けて大墩庄店(現・台中市三民路一帯)にやってきた。この時点から「藍興宮」と称されるようになった。
──この記述自体が矛盾に満ちています。湄洲からわざわざ媽祖像を奉じてきた台湾内乱平定軍の指揮官が,なぜ当時の台中に神像を移さねばならなかったのか?そんなに敗色が濃いなら,防衛設備のない当時の台中に何の意味があったのか?
 藍廷珍が私廟を古・台中に置いたということは,彼は台中に住み着いたのでしょうか?それを二百年保持し,民衆の参拝を許さなかったのはなぜか?それが転じて,近代の台湾中部媽祖信仰に見るような公的性格を急に有すようになったのはなぜか?
──こういう矛盾だらけの文章は,けれどそれ故に元来の由緒に一層近しいものなのかもしれません。
 そうすると,もっと集団心理の不思議な動きが本質なのかもしれない,とも考えられるのです。つまり【4】藍興宮だった頃の古・台中媽祖は基本的に台中市民の認知しない神棚の私物だったけれど,日帝の宗教政策下で建物の破壊という無体な圧迫を被ることで反日・媽祖信徒の象徴化した結果,萬春宮という公的施設として戦後に興隆した。
 受難ゆえに宗教的紐帯が深まる,という社会現象は,長崎・五島近辺の隠れキリシタンを考えると,有り得る集団心理なのです。

清乾隆中期の絵図に描かれた「大墩庄」(≒現・台中公園)そばの「媽祖宮」=萬春宮

■レポ:20C初頭のバビロン 台中

 正確には台中の古名は,ない。
 乾隆代に張鎮莊(荘)という村があり,これが台中地域の地名の初出とされる。場所は本章後半でバスを下車した現在の南屯。

巻八18 腳庵古坑口斗六門之小尖山腳外相觸溪口東螺之牛相觸山大里善山大武郡之山前及內莊山半線之投捒溪墘貓霧捒之張鎮莊崩山之南曰山腳吞霄後壠貓裏各山下及合歡路頭竹塹之斗〔後掲臺海使槎錄〕

──臺海使槎錄のこの部分自体は地名の羅列です。
 この張鎮莊に犂頭店という官田があり,大いに栄えたと伝わります。〔後掲陳・池田 ※原典∶臨時台湾土地調査局「台湾土地慣行第1班第2編」1905,p182〕ただ,1786(乾隆51)年の林文爽の乱で南屯付近は荒廃し,地域の中心が「大墩」に移ります。
「大墩」地名の由来は1733(雍正10)年に千総(≒軍曹)駐在期に砲台(中国語∶砲墩)が建設されたためとする説が有力。だから,この場合の「墩」は「小高い≒沼地でない土地」というほどの意味でしょう。
 言い換えれば,ここだけは自然状態でかろうじて集落が造れるよ,という場所で,それが現在の台中公園(→GM.∶地点)辺りと思われます。なお,前掲の萬春宮が記す「三民路」は公園北西を縁取る道。本編で古い家屋に気づいた付近です。

末期清朝の台中新城建設と19C末の状況

 台中の位置の重要性そのものは,清がその末期に既に認識しています。ために,台中の省城建設は,1889(光緒15)年に開始されています。
 ただし,劉銘伝の辞任後にこれを引き継いだ邵友濂巡撫の経費上の判断で台北の建設に切り替えられ,台中の二次開発は中止されています。
 この時期の台中を,日本側が書いた文書が残っています。

……略(ほぼ)八角形ナル土塁ヲ以テ囲繞セラレ城璧内ニ人家ノ点在スルモノアルニ過キス為ニ道路下水ノ如キハ設備トシテ一ツノ見ルヘキモノナク却テ城外ニ於ケル大墩街ハ稍市街ハ有様ヲ為セリ地勢百分ノ一内外ノ勾配ヲ以テ東西ヨリ西南ニ傾斜シ数多ノ少流ハ其ノ間ヲ婉流シ大部分ハ水田地タル形跡ヲ存在セリ〔後掲陳・池田 原典∶台湾形勢概要〕

省城の建築物と東大墩の位置〔後掲陳・池田 原典∶頼志彰「1945年以前台中地域空間形成之転化」p20に陳・池田が加筆〕

「八角形ナル土塁」が清朝が一次計画で建造した城域だと思われます。上図にも,なるほど八角形に見えるラインが畫いてある。
「大墩街ハ稍市街ハ有様ヲ為セリ」とは,「数多ノ少流ハ其ノ間ヲ婉流シ大部分ハ水田地」,つまり乱脈を成す湖沼と水流の中に大墩街だけが「稍市街」,僅かに町らしい風情を持っていた,という情景でしょうか。 
 大墩街が小北門の外にあるものと考えると,萬春宮はこの区画と比定できます。
同上萬春宮付近〔後掲陳・池田〕

 ぼんやりしていますけど,宮比定地は三角地になっています。上辺の方向は現在の都市構造の方向に概ね合致するので,大墩街とはこのラインを中心にしていたとも思えます。
 また,下辺はほぼ東西方向。つまり市街構造の方向から約45°ズレるのですけど,そういう道も萬春宮北部に幾らか残ります。
萬春宮北区画に残る斜道群

大東亜共栄圏台湾国土計画の要としての台中新市建設

 台湾西海岸の近代的国土計画を進めるためには,縦貫鉄道の建設が必要,というヴィジョンもまた,清末には既にありました。初代台湾巡撫・劉銘伝は,その敷設に着手したものの,その短い(6年)任期中には基隆-新竹間のみにとどまり,中南部への延伸が日帝時代に引き継がれます。1906(明治39)年に完成※。
※仮設の軽便鉄道区間を含む。基隆-高雄間の正式開業は1908(明治41)年。
 台中はこの縦貫線の中途中枢として構想された都市でした。

台中市都市計画公布のきっかけは統治初期に清末の施策を引き継ぎ,北部と南部をつなぐ中枢都市が図られたためであった。その後,台湾縦貫鉄道の開通により都市整備が促進した。統治後期において日本は大東亜共栄圏の「台湾国土計画」として台中市を台北市,高雄市に並ぶ大都市化を図った(文1)。従って、日本統治時期に確立された台中市は、日本近代都市計画によって形成された事例だと考えることができる。〔後掲陳・池田
※原注 文1)中村[糸網](1948年)「台湾国土計画論(1,2)」『台湾的地方行政4月5月号』,台湾総督府台湾地方自治協会

 従って,台湾人から見ると台中は日本製新造都市でした。台北市や高雄市と同時期,同状況です。1911年段階の市内整備の状況を落とした図が次のものです。

1911年頃の市内整備状況〔後掲陳・池田〕

 先の清代地図と同じく,北半には町の形跡がありません。萬春宮付近を拡大すると次の図のような様相です。
同萬春宮推定地点〔後掲陳・池田〕

 点線で書かれている道は,実線の区画とまるで整合していないから,既存の古道なのでしょう。
 先の清代地図とは合っていませんけど……その位朧げな野道しかない界隈だったのではないでしょうか?
 それが1935年,24年後にはこんな風に,完全に街区に飲み込まれています。
1935年の「台中市市街拡張計画」図〔後掲陳・池田〕

 この地図では萬春宮の敷地らしきものは,もちろん見えません。撤去されてしまったのですから。
 1917年の萬春宮廃社というのは,上記の街区の大開発の間の出来事です。大墩街及び萬春宮の存在がこの開発プランの最大の障害になっており,多少の抵抗を排してでも強行せざるをえなかったことも理解できます。ただ,この急激な台中市街の変貌は台湾人には相当ドラスティックに映ったでしょうし,どれほどの知名度又は庶民性を持つものだったかに関わらず,その新時代の変化が媽祖宮を一つ飲み込んだことは,「次は我が町?」という恐怖を台湾中部地域全体に与えたことも,また察するに余りあるのです。

百年目の七媽祖再集合 一人欠席

 台中市政府は,1917年の七媽大集合から百年目の2017年,再集合計画を立てて各宮に要請しています。

萬春宮受台中市政府委請,計畫在2017年重現一百年前的七媽會[9],不過其中的鹿港天后宮因故不參與[2]。2017年7月14日至16日臺中市政府與其餘六廟共同發起舉辦「台中百年媽祖會」,六廟之媽祖依照百年前座次駐駕於台灣體大體操館前行宮,鹿港天后宮之位置則空下。〔後掲維基/萬春宮
※原典[9] 陳金龍. 萬春宮送大帖 七媽會百年再現. 《中華日報》. 2016-06-25
[2] 黃鍵龍. 台中媽祖廟之一的萬春宮. 《新一代時報》.2017-11-06

 このイベントは,概ね,信徒たちにはウケたらしく,かなりネット上に記事があります。
 この時,媽祖たちが集合したのは「照百年前座次駐駕於台灣體大體操館前行宮」──百年前に集まったように台湾体大体操館前に集結したのだという。
 不思議なのは,再集合の記事は多いのに,肝心の集結時の画像は全然ないのです。もしかすると,最後の一文に関連しているかもしれません。
「鹿港天后宮之位置則空下」──鹿港天后宮の位置だけが空いたままだった。
 他の記事で確認しても,この再集結に鹿港はどうしても応じなかったらしいのです。けれど,その理由については全く触れられないし,疑う文章すらありません。台中側も,その欠員写真を流布させたくないのでは?という節があります。
 ただ,よく考えたら媽祖の大集合という1917年の現象の方が異常なのです。そのこと自体が,1917に如何に大きな媽祖信徒のムーブメントがあったのかを傍証しているように考えるのですが,どうでしょうか。

(再掲)1917年に台中「萬春宮」に集合した台湾中部の七媽祖「民国六年(1917)的五媽會」

「m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m6台中萬春」への2件のフィードバック

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