m19Fm第二十五波m虫籠に猪血と廣飯と脚m5豊原慈濟

年木舟 慈愛せよ 我がフルトン

▲天覆う提灯。正面奥手の「豊原慈済宮」の文字の左右のハートマークが御愛嬌

額「原宮済慈豊」。1749。豊原の二文字の間に,「宮済慈」を挟んである。
 この宮の創始は雍正年間(1723〜)とも1777(乾隆42)年ともいいます(巻末参照)が,創始代の一次史料(岸裡社古文書)には「觀音亭」と書かれており(→後掲文化部國家文化記憶庫),「慈濟宮」の文字の初出は宮保有の香爐で,そこに合せて「嘉慶六年」の文字があるからで,要するにあまりあてにならない。前頁(→史料上の慈済宮と葫蘆墩)の彰化縣志でも「天后聖母廟:(略)一在葫蘆墩街」と書かれ,「慈済宮」の文字はない。
「觀音亭」という普通名詞っぽい名を除けば,当初に何と呼ばれていたか分からない宮です。

口からランタンだらけ。天井に……これ何個提灯吊るしてんだ?
 対聯の中央左右のみを転記すると──
右「慈愛我葫墩徳大参天隆祀典」
左「済施追聖母恩深稱后祝聲香」
 本殿を回廊が巡る形です。左から時計周りに──

豊原慈済宮参拝路線図〔後掲日本語パートナーズ〕

豊原慈済宮ミニ媽祖発電所

「開聖帝君」
②「華佗先師」
③「斗姥元君」
④「武財神君」
⑤「註生娘娘」
▲御札媽祖が並ぶ

一応,豊原慈済宮の媽祖祭壇

(こから右手)
⑥「三山国王」
⑦「太歳星君」
⑧「値年太歳」
⑨「巧聖先師」
⑩「文昌帝君」
⑪「西泰王爺」
⑫「神農大君」
 そして正殿に媽祖,パティオ挟んで奥に観音。
▲1755祭壇と……フザケているとしか見えない狛犬

の宮はとにかく電飾が凄い。基礎の電気工事に相当金をかけた凝った造りです。
 下の「査燈機」は,おそらくIDコードを入力したら,該当電燈部が分かるようなシステムらしい。
▲検索機能付き

トリックスの機械の国の人体発電所を連想させる,信者じゃなければ気持ち悪さを感じる電燈群です。
 ただ,中に入ってる人形のようなものが可愛いのが御慰み。
▲蝋燭柱

ポテチと信者と金ピカ媽祖様

「太歳星君」。一見東洋的ではあるけれど,伝統的な廟には絶対にないサイケなデザインです。
 その証拠に……お供物が一切ない。
▲1809太歳星君祭壇

の設備も多々みかけます。先の査燈機の手前にある「油香箱」は,通常はガソリンタンクとか灯油保管場所ですけど,なぜ金庫に入ってるんだろう?
▲1814「油香箱」の金庫

設管理的な視点から言うと,この無体な数のランタン天井の,電球や油やその裏の掃除とかでどれだけ人件費をかけてるんでしょうか?
 それを維持できるということは,ランニングコストを企業かどこかが継続的に拠出しているとしか考えられません。

▲無数のランタンが垂れる廊下

れでも媽祖や観音の神前では敬虔に祈る信者の姿はポツポツみかけます。
 下の写真の手前の台には,撮影時にはポテチしかないけど,宮側が定期的に回収したからで,この台が溢れるような供物がある時もあるのでしょう。
▲ポテチの供え物と信者

に出て夜市を覗くも,その様子に変化がない。やはりスルー。(後日談∶まっマジか?)
 も少し町を歩いてみる。1822,信義街を北行。
 1825,三民路へ右折,駅へ。
 路地も表もあまりパッとしない。面白そうな町なんだけど…。攻め方が悪いのか?

台湾西海岸行の黄昏

▲「九州地獄拉麺」?どこかで別府の地獄巡りと博多ラーメンが混ざってないか?

848,プラットホーム。1858,嘉義行きを待つ。
──ここまで書き散らしてるこの日の行程ですけど,当時の感覚は,エラい歩いたけど収穫少ないな〜という疲労感でした。
 さて明日は台北入り。波乱の西海岸行も幕引きが見えてきました。当時の総括的な文章をそのまま挙げます。

こまで回った感じからすると,媽祖の祀り方や神のセット,その他センスは相当な違いがある。正統派というものがない。メティスの知恵の在り方を崇拝する,というようなパースペクティヴそのものの「宗教」なわけだから,そんな形式に固定的なものは当然にないわけです。

「ただ,とてつもなくブッ飛んでるようなものもない。その意味では西門町の『祀り』方というのは最先端になってる。
 それと,原始から現代への変化という意味では,今回の地点移動は好かった。台南→嘉義→台中→台北というのは時系列のベクトルでもある。」

▲1829日本だと明治天皇を広告に使ってるようなもんなんだけど……

ビビアン・スー

■レポ:岸裡社文書が語る「慈濟宮前身」観音亭

 豐原慈濟宮の創始は雍正年間(1723〜∶※1)とも1777(乾隆42∶※2)年ともいいます。
〔※1 後掲文化資源地理資訊系統 原典∶「臺中縣志住民志 宗教篇」,臺中縣政府,2010
 ※2 後掲維基 原典∶岸裡社古文書〕

 豐原慈濟宮在乾隆年間岸裡社古文書上稱為「觀音亭」。豐原慈濟宮珍藏的一座香爐,上面鑄造著「慈濟宮 天上聖母」與「嘉慶六年」,按文物證據,說明最晚到1801年(清嘉慶6年)豐原慈濟宮已經正式登上歷史舞台。〔後掲文化部國家文化記憶庫〕

 ここでまず問題になるのは,乾隆年間に存在が確認済である観音亭が,現・豐原慈濟宮と,果たしてイコールと考えてよいのか否かです。
 けれどその前に,観音亭の記述がある史料を確認したい。──と思ったけれど,原典に当たれていません。「岸裡社古文書」というものだとは分かるけれど,どうやらデジタル化が中途で「観音亭」部分に行き着いてないらしい。〔後掲岸裡大社文書數位典藏〕

岸裡社古文書

嘉庆十九年(1815年)彰化县知县钱燕喜给岸里社总通事等谕告(严禁越界免遭生番杀害,国立台湾博物馆藏)

 岸裡社文書というのは,台湾原住民のパゼッヘ族(巴則海族)の「岸裡社」部落の頭目だった潘家が保管し続けてきた古文書の集成です。対象年代は実に1741〜1918年の177年間に及び,これだけ謎にまみれた台湾中部開拓時代の掛け値なしの第一級史料です。〔後掲維基百科/岸裡大社文書〕
 上の写真に挙げてあるのは「严禁越界免遭生番杀害」──境界を越えて逃亡してきた原住民の殺害を厳禁する内容です。記述目的の一つが,怒涛の如くに流れ来る漢族から自集落を守り抜くナレッジ集だったと想像するのは無体ではない。
 ただし,研究対象ととして扱われるようになってから,まだ80年ほどしか経ってません。
 1935年の「墩仔脚大地震」で岸里社総通事(翻訳官トップ)潘永安の住家(現・台中市豊原区)が破壊された際,その跡から発見された乾隆年間の社務文書を,台北帝国大学理農学部の学生・張耀焜が学士論文のために収集整理しました。彼は論文完成後の1939年に,これらの文書を台北帝国大学図書館に寄附します。これが現在は台湾大学図書館に保存される「岸裡社文書」です。
 奇跡的に天災後に残存した文書なのに,それでも国や機関が放置していたものを,研究者ですらない一学生が整理したものです。
「岸埋大社文書」HPトップ URL:http://formosa.ntm.gov.tw/dasir/index.asp

豊原媽祖は回れ右したか?

 仕方ないから孫引きになりますけど──「觀音亭」は元々,「座北朝南」(宮が北→南方向に向く)だったという記述があります。南→北を向く現在の媽祖宮とは,正面が真反対だったということです。

與其他古老媽祖廟相似,媽祖的香火由僧人與觀音菩薩信仰一同帶進來,當年廟宇是座北朝南,也就是面向今復興路方向,至於為何會轉向今日坐南朝北?史料上尚待研究。〔後掲隨意窩〕

 維基はさらに踏み込んで記述します。

①清代僧人带来观音菩萨信仰,乾隆四十二年(1777年),丰原慈济宫前身观音亭始建于现址;建物座向为座北朝南,②庙埕为地方唱戏或杂耍表演主要场地。[3]
〔後掲維基/丰原慈济宫 原典[3] 岸裡社古文書 下線・丸付数字は引用者〕

①──清代の僧が観音菩薩信仰を携えて来た。
②──廟前の庭(庙埕)は地方の伝統歌劇や雑技が行われる主要地だった。
 さらに,前章末尾で確認した豊原3土墩(丘)と慈済宫の位置関係を見ていくと……

~(m–)m(再掲)豊原3土墩巡りの行程 m(–m)~
GM.(経路)∶墩頭在南陽里(已被鏟平)→墩身在聚星觀後方→墩腳在大街尾福德祠後方

(再掲)豊原3土墩巡りの行程 ※「廟東夜市」の西が慈濟宮

 遺跡発掘地であるこの3丘が原住民,及び当初はその中に混じって暮らしていた最初期の漢族だったとするならば──墩身と墩腳に対し慈濟宮は三角形を成す位置です。
 つまり,この庙埕は,大陸豊原3土墩が生活拠点だった時代に町の中心にあったパティオだったのではないでしょうか。それは,まだ媽祖ではなく,「僧人」即ち純粋仏教の人々に主管された建築だったでしよう。
 そしてその町の構造が,ある時急激に反転した。

19C半ばの三十余年

 該当の時代に奇妙な成り行きで,豊原慈濟宮は「改築」されたとされています。
 それは1853(咸丰3)。「廟の僧」(庙宇之僧人)が起こした火事によって,廟の建物が破壊されてしまう。1864(同治3)年から、林珠という人が発起人となり廟を再建。

①從發生於乾隆47年的族群分類械鬥開始,歷經林爽文事件的洗禮,慈濟宮的廟務與信仰圈雖②無明顯進展,總能在戰亂頻仍中得到平安。直到咸豐3年〈癸丑,1853〉的某夜,照顧廟宇的僧人不小心引發火災,莊嚴的聖殿從此落寞,〔後掲豐原慈濟宮,下線・丸付数字は引用者〕

 その前の1847年頃に①械門が発生しています。その結果②無明があきらかに進展した(無明顯進展)──という部分が分かりにくいけれど,信仰生活が失われたというのは想像できます。

岸裡大社巴宰語繪本〔後掲臺中市政府〕

 この媽祖宮内部の居住僧が失火を起こしたというストーリーは,台南の大天后宮でもご紹介しました。

 大天后の場合は,笨港三郊による再建が速やかに行われ,これにより宮の主管勢力が交代したと見たわけですけど,豐原慈濟宮の場合,本格的再建は1879(光緒5)年にやっとなされ,この時に現在規模の宮が成立しています。これは「神岡社口大夫第主人林振芳」という人によるものと伝わる。〔後掲豐原慈濟宮、維基/丰原慈济宫〕
 時系列に並べるとこうです。

(1847 械門)
1853 失火焼失
 ▽  (11年)
1864 再建(林珠)
 ▽  (15年)
1879 本格再建(林振芳)

 宮建物が失われて26年放置された後に大規模な建造が行われた,となると──先の豐原慈濟宮記述では「戰亂頻仍中得到平安」──戦乱甚だしい中で平安を得た時代と書くけれど,かつての観音亭はまずその信徒の生活圏域が瓦解し,象徴となる宮も焼かれて,宗教そのものが完全に喪失したと考えた方が事実に近い。そんな状況下での1853年失火というのは,特記するような事実ではなく,説明書きの際に分かりやすいから使われてるフレーズではないでしょうか。
 信仰母体,おそらく豊原3土墩の原住民主体の旧社会が崩壊するとともに,この宮は約30年放置された。その後で,ほぼ新築に近い形で海民系の漢族が「再建」したのだと思われるのです。
 その時に,新しい水路と町の方向,北側に宮の方向も置き直して設計された。それは当時の設計者には自然な発想だったでしょう。南側の旧パティオ,そこに群れなした人々の社会は既に消失していたからです。
 従って,媽祖が回れ右をしたのではありません。観音亭と観音とそれを崇めた社会集団と集落構造が凄惨に一掃された後に,(おそらく観音由来の霊地として)媽祖が新たに勧請されたのです。かつての観音の御神体がどこへ行ったのか,それはもう誰も知らない。

岸裡大社巴宰語繪本〔後掲臺中市政府〕

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