m19Gm第二十六波m妈祖花や明知の言葉は単純m1南屯萬和

本歌:サルビアや物理法則は単純(水沢)
※媽祖花∶洋桔梗(Eustoma grandiflorum(Raf.)Shinners),グランディフロラム,トルコキキョウ

洋桔梗在新港又被稱之為媽祖花,在每年三月大甲媽祖遶境期間,大量的人潮湧入新港,這也是新港特產洋桔梗受大眾矚目的時期。〔保佑新港的媽祖花-洋桔梗〕http://www3.nccu.edu.tw/~101356028/spec_2.html
──大甲媽祖が新港に入る頃に咲くのでこの名がついた。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

レストラン街で事なきを得る

▲0905何かチャラけた通りになってきた。

屯教会。道から丸見えのガラス張りの中で,牧師様が説教中。──財団法人台湾聖教会南屯教会の経営です。
 それはともかく,0902。ようやく発見したセブンでトイレを借りて,事なきを得る。
▲0909「漢堡」はハンバーガー。何かいい感じの向心路。

心路というこの通りは結構お洒落ストレートらしい。ファッションやレストラン多い。ググっても良い店がヒットするけど,庶民的ではない。
 0908,南屯路二段へ左折西行。
 右手に福徳廟を過ぎる。 ここも提灯だらけ,豊原慈済宮を連想する。このスタイルが台中地方のセンスなんでしょうか。
▲「顔作り家」──アンタもうちょっと顔作りや!……という感じ?

犂(鋤)専門店が流行った時代

屯橋」という地名がちらちら見えます。
 ググると住所は「五權西路二段」とあるから,おそらくこの位置(→GM.)の広い暗渠がかつては単体の橋だったのでしょう。
 今は道端に物売りが並びます。野菜売りがけたたましい声をあげてる。
▲0922「南屯橋鮮肉湯包」

中通った辺りがいわゆる「南屯老街」であったらしい。
 GM.に言い得て妙なメモがありました。
「雖然建築物看得出有年代歴史小巷弄也有不少老米行、洗衣店、中藥行等等
但除了這些店舗之外,也没有太大的老街特色,不太需要特地去
但去萬和宮拝拝可以順便附近走走」
──要するに,古い米行(穀物倉庫),洗衣店(クリーニング屋),中藥行(漢方薬屋)も少なくないけれど,老街だけを見に行くとガッカリする。でも萬和宮の通り道だから便利。
▲0924何かガヤガヤしてまいりました。
頭店街」と古名を持つ通りがここです。
「犁頭」とは鋤(すき)のことです。
 康熙年間に浙江定海總兵(軍役職)の張國さんとその郎党が開墾したのを皮切りに移民が殺到。この通りに鋤など農具の店舗が連なっていたことから付いた地名とされます。〔後掲維基百科/南屯老街〕
 港の記録がないからここに上陸したかどうかは分からないけれど,少なくとも開拓民のセンターのような場所だったとは想像できます。
 なお港があったなら,この南屯渓を用いたと考えられ,それなら萬和宮の位置もしっくり理解できます。

デカいぞ!南屯萬和宮!

▲0928南屯渓沿い

手に萬和宮の矢印が現れました。下町はまだ続くようだけど川に沿い南西へ。
 川沿いに狛犬の行列が続いてます。コンクリの無機質さと相まって,ちょっと不気味。
▲0930萬和宮入口

和宮が見えてきたけど……0929。予想より遥かにデカいぞ!
──郊外のお宮,というイメージを遥かに越えた大きさでした(巻末参照)。
 入口右脇で数珠を握り締め,口を小刻みに動かす眼鏡の女性。入る時から読経されてるようです。
▲柱に湄洲の漢字

一個師団の媽祖軍団

の柱の対聯は
右「風調雨順」
左「国泰民安」
 内側の柱のは
右「忠信渉波濤周歴玉洲瑶島」
左「神明昭日月指揮水伯天吳」
 あまり聞いたことのない語調です。
▲本殿正面パティオに供物配置用の机がごたごた並ぶ。

本殿。大きなパティオ。供え物は多い。机の数からすると,多い時はもっと並ぶと想像されます。
 しかしこの,第九の合唱団みたいな祭壇は──エラい数の媽祖像です。ここまで並べてどうする?
▲祭壇の媽祖師団

手別棟「開聖帝君」。
 奥はやはり「観世音菩薩」。この間にパティオあり。
 右方向「城隍爺」。
 右手「註生娘娘」。
 左手「禄位」神像なく位牌のみ。
 左方向「福徳正神」。
 左別棟「神農大帝」。
 本殿左方向「文昌帝君」。
 さらに左に金爐。
▲蝋燭柱の部屋

アリクイはマヨネーズがお好き

うも……賑やかしじゃない本物の信徒団がいる感触があります。祖籍集団の神輿というのではなく,庶民の素朴な信仰に支えられてる,という匂い。
 そのためなのか関係ないのか,この宮には幾ら探しても,他で表出してる平面見取り図が見つからない。それで覇を競う気が感じられない。
▲供え物

然,「開台媽祖」といった称号も掲げてるのを見ない。ネットでの紹介で「台中で一番古い」と題される程度です。
 土臭い。じわじわと,台湾らしからぬ違和感がこみ上げる宮なのです。
 違和感と言えば,このキャラも無性にそういう手触りでした。
▲妈祖風船人形

の丸々した媽祖様はともかく,右のカワウソみたいな動物キャラは,何とアリクイ。アフリカからインドにいるのは知られるけれど,南中国や台湾にも棲息してるんだって。台中近辺では大肚山,つまり南屯西部が有名な棲息地〔後掲公視新聞網〕。
 アリクイはラーリとも呼ばれるけれど,中国語では「鯪鯉」「石鯉」「鯪鯉」と書き,なぜか聖獣視されてるようです。〔後掲コトバンク/穿山甲
※原典 精選版 日本国語大辞典
 ミミズ状の細長い舌の唾液にアリを絡ませ,一日3万匹を喰う……人間的にはあまり気持ちよくない食事スタイル。ちなみにペースト状ならアリじゃなくても喰えるので,動物園のアリクイはマヨネーズが好物だといいます。
 台湾では時々,西日本の熊のような追っかけがあるらしい。硬いから車両が誤って踏むと事故に繋がるんだとか。〔後掲中時新聞網〕

台中市和平区東關路の路上での穿山甲発見保護シーン〔後掲後掲中時新聞網 ※和平警分局提供/陳淑娥台中傳真〕

■レポ:台湾史のブラックホール 犂頭店

 萬和宮の大きさを,ここまでに見た中で最大だった北港朝天宮のそれと比較してみます。

地籍図(左∶北港朝天宮 右∶南屯萬和宮)〔後掲國家文化資產網〕
 約4割といったところでしょうか。
 ただ,北港朝天宮の規模は日本が大正期に造ったロータリーのものです。その中を埋める格好で拡張されたものが今日の宮になっています。
 一方萬和宮の地籍図をよく見ると,宮の周囲に明らかに広い敷地がある。南側の学校敷地は合筆された可能性があるけれど──もしこれらが元々の宮地だったと仮定すると,ほぼ現・朝天宮並みの規模だった可能性があります。
 これほどの宮が,なぜここにあるのでしょう?
やや上方からの萬和宮眺望。建物が密集してヨーロッパの城状に積み上がっている感じが分かる。

張廖簡江劉黃何賴楊戴陳林 12氏族

 萬和宮創建開始は1726(雍正4)年[1][2][3]。翌1727(雍正5)年に竣工[4]。当時の廟名は「犁頭店萬和宮」[1]。建設資金は犁頭店居住民の12氏族の共同出資[5 ※張・廖・簡・江・劉・黃・何・賴・楊・戴・陳・林。]。
〔後掲維基/萬和宮
原典[1] 楊士賢. 媽祖誕生在台灣 除了老大媽 還有「老二媽」. 《聯合報》. 1997
[2] 南屯萬和宮肇建史蹟官民資料互異 市府史料記載一六八四年由張國所建 與民間考證大相逕庭. 《中國時報》. 1995
[3] 蔡淑媛. 你所不知道的南屯萬和宮 「聖二媽像」有玄機. 《自由時報》. 2021
[4] 葉思吟. 知性走春 台中市老少配. 《中國時報》. 2006
[5] 盧金足. 新舊36羅漢共處 有段因緣. 《中國時報》. 2006

 12氏族のうち筆頭は張氏で,浙江定海總兵・張國が率いた一族。康熙年間(1662-1722年)に当時「貓霧捒社」と呼ばれた原住民(巴布薩族 (Babuza ))集落近辺を開拓した一族です。この時に福建の湄洲から媽祖神が持ち込まれたとされます。〔後掲國家文化資產網/萬和宮,臺中市南屯區公所〕
 この頃の台中地区の集落は,南屯の他,與大里杙(現・大里)と四張犁(現・北屯)の三箇所にあったといいます。けれど1732(雍正10)年,犁頭店に貓霧捒巡檢署(現・警察局)が置かれたことでここが政経・軍事・宗教の中心となっていきます。〔後掲臺中市南屯區公所〕
「萬和」の名称は,「萬眾一心 和睦相處」から来ているとされ,同じ媽祖を崇拝する氏族同士が争いなく新天地を開発しよう,という相互安全保障の和約の含意と言われています〔後掲臺灣宗教文化地圖,痞客邦〕。
 南屯時代の台中エリアのガバナンスの宗教的象徴として,萬和宮は創建され,機能してきた建物なのです。
 けれど,ガバナンスと言っても清朝など政府系は後追いでしかない。自主的に,自然発生的に立ち上がったとしか思えない。鹿港での血生臭さを考えると,それは奇跡と思えるほどです。

難しくは知らない ただ犁頭店街

 南屯の古名・犁頭店街は,史料上は重修福建台灣府志で確認できます。

巻五61 彰化縣:半線街在縣治、鹿仔港街在鹿仔港。水陸馬頭,榖米聚處、員林仔街距縣治南三十里、海豐港街距縣治西南八十里、三林港街距縣治西南五十里、東螺街距縣治南四十里、西螺街距縣治南四十里、大肚街距縣治北一十五里、犁頭店街距縣治東北三十里、竹塹街在竹塹城內、八里坌街在上淡水。〔後掲重修福建台灣府志 ※番号は中國哲學書電子化計劃付番。以下同じ。〕

 ここで言う「縣治」は県庁所在地,即ち彰化を意味していますから,その東北30里に位置する町として記されています。
 気付かされるのは,この18C当時の彰化県中央からの風景が如何に現在と異なるかです。彰化から北の最遠地が犁頭店だったのです。しかも現・台中域で記されているのはこの犁頭店だけです。
 もう一つは,兄弟編である余文儀「臺灣府志」には犁頭店ワードが記されていないこと。
 余は「臺灣府志」を1685年から執筆,1764年まで継続しています。対して劉は11年間の台湾滞在記録として,「重修福建台灣府志」を1740年から編纂しています。余のアンテナに入らなかったけれど劉は把握できた情報だった。これは,貓霧捒巡檢署設置により犁頭店が政経の中心になった1732(雍正10)年の時点以前は,犁頭店という場所は特記されるべき地名ではなかったことを意味します。

「康熙臺灣輿圖」に描かれた現・南屯付近。「犁頭店」などの文字は見えない。

張国は開拓団を率いたか?

 では犁頭店開発のリーダーが張國で,現場の労働英雄として秩序を保っていたのかというと,そんなキレイな話の気配は史料からは伺えません。
 そもそも張國という人は,史料にほとんど名を残さない。

卷九
213 祠祀附(略)
279 諸羅縣(略)
292 元帥廟:在縣署左。祀唐張睢陽。康熙二十八年,居民建。四十八年,參將張國、守備董元驤同建。〔後掲重修福建台灣府志〕

 まず重修福建台灣府志には,「元帥廟」※の改築の出資者として記載されます。媽祖とは全く関係がなく,またどうも政治的な動き※※もしているから,少なくとも張國が犁頭店の開発に全力を注いだわけではなさそうです。
※「在縣署左」というのだから,嘉義市内のものと思われ,嘉義雙忠廟(縮めて雙忠廟。別称∶元帥廟,睢陽廟→GM.∶地点)だと推定される。なお,嘉義雙忠廟側の伝承とも合致する〔後掲嘉義雙忠廟 ※原典∶《諸羅文化誌》 2016年12月再版二刷. 嘉義市: 嘉義市政府文化局. 2015-09: 頁80、81〕。
※※この嘉義雙忠廟改築時に廟名が「雙忠廟」又は「元帥廟」に変更されている。

卷十四1 職官二武職(略)
2 官制(略)
3 職官武(略)
107 北路營參將(略)
114 張國:泉州人,功加。康熙四十四年任。四十八年,升福州城守副將。〔後掲重修福建台灣府志〕

※後掲痞客邦は以上2点を「重修臺灣府志」の記述とするけれど,原典を見る限り「重修福建台灣府志」を誤記したものと思われる。
 同じ史料の「参将」(寄騎)の辞典のようなパートでは,
①泉州人である。
②1705(康熙44)年に(参将に)任ぜらる。
③1709(康熙48)年に福州城守副将に昇格
 泉漳械闘の強行多数派であることの多い泉州祖籍と書かれる。
 福建省の福州の職を得ているのですから,台湾にばかりいた人でもない。
 経歴を詳述する史料としては次のものがあります。

285 張國
286 張國,字昭侯;晉江人。以平台功,授襄陽游擊。會剿紅苗,以運糧功,遷台灣北路參將。秩滿,升福州副將;轉台協。〔後掲泉州府志選錄〕

※後掲痞客邦は以上2点を「臺灣通志」の記述とする。同上。
①'(福州の)晉江人である。
④「襄陽游擊」職(軍役職)だった。──「會剿紅苗」は苗(ミャオ)族の討伐でしょうか。
⑤兵糧運送に功があった。
「轉台協」は,要するに色んな所で酷使された「便利な軍人」だった感じだと思います。
 台湾移民の最たる祖籍である晉江人の大物として幅を効かせてはおり,福建晉江から犁頭店への移民団に資金援助はしたでしょうけれど,犁頭店で開発の先頭に立っていた人にはとても思えません。
 張國は名義貸しのみの「開拓リーダー」だった。──前代の顏思齋や鄭芝龍の分り易いダブルイメージに過ぎません。
 ならば,現実に推進された台中平野部の開拓を推進したのは誰なのでしょう?あるいは,本当にリーダーがいたような整然としたムーブメントだったのでしょうか?

天后聖母の一つは犁頭店街に在り

 萬和宮は西朝東略偏南(西→東南向き),三開間三進(入口3つ×奥3間),兩護龍縱深式(両側に縦長の回廊を敷設)の建築です〔後掲國家文化資產網〕。
 後二者は北港朝天宮と同じで,中華廟建築の形式中最も華美なものを選択してます。どちらかが他方を模倣した可能性もあります。
 また,前者の方向は,南屯渓が水運に用いられていたとすれば頷けるものです。
 本殿祭壇の媽祖は,当初からの「老大媽」と呼ばれる媽祖像の他に,嘉慶期の「老二媽」,光緒期の「聖二媽」「聖三媽」,WW2後の「聖母老二媽」と,次々に分祀を受けた結果らしい。新港朝天のように祭壇が広ければ場所を分けるところを,一箇所に媽祖を集住させるから雛壇状になったもののようです。
 ただ,史料への記載は不思議なことに──何度か触れてきた彰化県志(1829(道光9)年頃)の「天后聖母廟」項に列挙する23の媽祖廟のうちの一つに過ぎません。

巻五19 天后聖母廟:一在鹿港海墘,乾隆五十五年,大將軍福康安倡建,廟內有各官祿位。(略)一在王宮,嘉慶十七年邑令楊桂森倡建。一在沙連林圯埔,乾隆初,里人公建,廟後祀邑令胡公邦翰祿位。一在鹿港新興街,閩安弁兵公建。一在犁頭店街,(略),一在葫蘆墩街,(略)〔後掲彰化縣志〕

 うち8つに創建時期や出資者などの由緒が付言され,残り15は場所だけを記す。犁頭店街の媽祖には,宮名・創建者など一切の付帯情報がありません。
 なお,同じ廟の列記でも文昌帝君については付記があるのです。

巻五 文昌帝君祠:(略),一在犁頭店街嘉慶二年歲貢曾玉,音等捐建,(略)〔後掲彰化縣志〕

「昭和12(1937)年5月6日,在臺中州大屯郡犁頭店三厝庄(今南屯三厝里)的祖厝前,親族聚合的紀念照」──1937(昭和12)年犁頭店三厝庄(現・南屯三厝里)での親族集合写真〔後掲開放博物館〕

犁頭店街では改築された巡檢署

 先に触れた犁頭店街の「貓霧拺巡檢署」についても,原典で見てみます。
 彰化縣志巻二規制志「官署」項には彰化縣署以外に県内9箇所(彰化市内のものを含む)の支所が記され,うち巡檢署は犁頭店と鹿港(鹿仔港)にのみ置かれています。
 この両者の記述を比較します。

巻二1 規制志
21 官署
(略)
26 貓霧拺巡檢署,在犁頭店街,雍正十年建。乾隆五十一年,林逆之亂毀於火。五十三年重建。
27(略)
28 鹿仔港巡檢署,在米市街,雍正六年建嘉慶十四年,裁巡檢缺,移駐於大甲署,遂廢。
(略)〔後掲彰化縣志〕

   犁頭店  鹿仔港
設置 1722 1718
   (雍正10)(雍正6)
重建 1788   ─
   (乾隆53)
移転  ─   1809
(嘉慶14)

「巡檢署」は治安上設けられた部署です(官職としては古代からある)。それが鹿港と並び犁頭店に置かれたのは,県内で特に治安に配慮する必要があると判断されたからでしょう。
 それが,鹿港では大甲署に移されているのに,犁頭店では1786(乾隆51)年に内乱で焼失した後も再設置されています。つまり,県内随一の治安の悪さを誇る土地だったと推測できます。
 どんなに移民が押し寄せ媽祖宮が出来ても無視し続けた彰化県府も,とりあえず無法の巣窟になることだけを避けたかったらしい。

「昭和20(1945)年南屯區青年奉仕活動,義務奉獻的一個寫照。照片中最右側部分為『信用購買利用組合』即今南屯農會辦事處。最左側則為三角街仔的中心點─土地公仔店。」──1945(昭和20)年の南屯区青年(義務的)奉仕活動の写真。写真最右部「信用……組合」は現・南屯農会,最左部は三角街の中心の土地公仔店。〔後掲開放博物館〕

誰も作らないから私学教育

 この行政による放置状態に関連して,彰化縣志巻四「社学」項を見てみます。
 ここに県内計16の社学が挙げられており,うち3が犁頭店の文昌祠(現・文昌公廟→GM.∶地点。騰起社,文林社,蘭社※)に置かれました。萬和宮西隣のブロックです。
※ 後掲台湾宗教文化地図〔南屯文昌公廟〕は社学名として4つを挙げる。→新蘭社,文林社,崇文社,大観社

巻四114 社學
115 古者黨庠州序而外,又有家塾,建於里門,即今之社學是也。社學又與閭巷之小學不同。小學所以訓童蒙,如古者八歲而入小學是也。社學則諸士子會文結社,以為敬業樂群之所。大都有文昌祠,即有社學。如犁頭店之文昌祠內,士子以時會文,而名其學曰「騰起社」是也。餘可類推。茲以社學附於書院之後,為申其義若此。蓋學校之餘意也。故連類而並及之。
116(略)
117 騰起社,在犁頭店文(昌)祠內,又一名文林社一名蘭社。
118〜(略)
〔後掲彰化縣志 ※朱書は引用者(原文の誤記と推定)〕

 社学は「社会学部」の略……ではない。彰化縣志は特にその説明を書いていて,この地方独特のものだったという筆致です。
──古くから科挙専門校の他に家塾があったが,村落内にも「社學」があった。社學は同じく村落内にある「小學」とは異なる。小學は知識のない幼年者を学習させる場で,古くから八歲で小學に入れた。(これに対し)社學は則ち諸士の子息を学習させる結社で,実業を尊ぶ団体(敬業樂群)である。多くは文昌祠をもって即ち社學とした。──

1898(明治31)年犁頭店公学校の集合写真〔後掲開放博物館〕。南屯文昌公廟の社学跡に日帝が設置した公教育学校。

 社学が多数出来たのは清朝初期から。「漢人社学」と「土番社学」に分類され,前者は漢族,後者は原住民が学んだ。犁頭店のものは前者でしょう。
 このために,台湾の文昌祠は本来の祭祀場所としての意味を失い,学校として機能するようになったほどだといいます。〔後掲維基/社学〕
 未開拓の広大な土地を開発しようとするのに,公教育機関がないから,移民群は独自に私学を設立して優秀な子弟を学習させたわけです。これは日本でも香港でも類似事例があるけれど,どうやら当時の台湾での私学熱はかなり高かったようです。
 それが特に犁頭店でホットだった※のは,この町が開拓センターとして高機能なシステムを自生させていたからだと想像するのです。
※例えば,日本式教育の浸透に危機感を持った地元名士層(知識人層?)は,台湾新文化運動に呼応し伝統的な漢文教育の保存を企図,1921(大正10)年に「南屯昌明会」を組織している。「昌明」の「昌」は文昌公から採ったと思われます。〔後掲台湾宗教文化地図/南屯文昌公廟〕

動物虐待?犁頭店穿木屐躦鯪鯉

「犁頭店穿木屐躦鯪鯉」──犁頭店名物・下駄で四股踏みアリクイを叩き起こせ!活動〔後掲臺中市文化資產處〕

 写真だけ見ると何やってるのか全く分からんけど、これが台中市の民俗文化資産(日本の無形文化財)指定を受けています。
民俗文化資産指定文書(水色部参照)

相傳早期有許多動物在犁頭店附近棲息,直到北路營參將張國等人到此開墾後,動物紛紛移往他處,唯有「鯪鯉」(即穿山甲)鑽入犁頭店地底下而得以生存。風水學認為犁頭店是一個鯪鯉穴,而鯪鯉有冬眠習慣,然而鯪鯉若至盛暑仍嗜睡不起,地方上的農作物收成就會不好。〔後掲維基百科/南屯老街〕

──(移民)初期には多種の動物が犁頭店附近に棲息していたと伝えられていますが,北路營參將・張國などがここを開墾して以来,動物たちは止む無く他所へ移っていきました。ただしアリクイ(鯪鯉。即ち穿山甲)だけは犁頭店の地底に潜って生存し続けることができました。──
 なるほど見方によれば,アリクイは台中エリアにかつてあった原始生物相の多彩さの生き証人として,棲息しているわけです。
──風水では犁頭店には一個の大きなアリクイの棲む穴があるとする。アリクイには冬眠の習慣があるけれど,彼らが盛暑の頃にもまだ冬眠から覚めて起きてこないと,(犁頭店)地方の農作物の出来が悪くなると考えられた。──
……何でアリクイが寝てたら作物の育ちに影響すんねん?とツッコんではいけない。風水がそう言うのだから間違いないのである。

「ボケて」アリクイ ネタ

 ところが,このアリクイは熊などと同じく冬眠します。──この習性は,現地では周知だったけれど動物学では今なお「気温が下がると体温も下がり,動きが鈍くなったり,あるものでは冬眠するようです」というのが通説です〔後掲静岡市立日本平動物園〕。
 だから,ではアリクイがどこで冬眠するのかも断定する記述がない。でも犁頭店の居民たちは,地下で蠢動するナマズのような神獣をイメージしたようです。
明治末に撮影された台湾のアリクイ。日本人の目にも珍奇に映ったらしい。〔後掲葛西「台湾風景写真帖」中「台湾穿山甲(一名アリクイ)」〕

因此到了酷熱的端午節,南屯老街的居民如未見鯪鯉鑽動,就會敲盆打鍋製造響聲,藉由吵醒沉睡中的穿山甲,讓鯪鯉鑽動,幫助農地翻土、以利耕作。原本這個習俗只有小規模的賽跑活動,到了1980年代,地方擴大舉辦,發起讓居民穿上木屐,用力踩地面,透過巨大的聲響,將穿山甲震醒[2],因此演變成如今的「穿木屐躦鯪鯉」的文化活動。〔後掲維基百科/南屯老街〕
※出典 2)記者張廷誠、蕭宇廷/臺中報導. 慶端午 南屯老街踩木屐將登場. 青年日報. 2013-05

──酷熱の端午の節句の頃になっても,南屯老街の居民はまだアリクイ(鯪鯉)が穴を掘る姿を見ないなら,たらいを叩き鍋を鳴らして音を響かせ(うるさくして),眠りこけている穿山甲(南屯地方のアリクイ)を起こし,穴を掘って農地の土を混ぜるのをサポートしてやると,耕作に利がある。──
 これはイメージ的には分かる。農地に鋤を入れて耕す作業と,アリクイが土を掘り返す姿とが重なっているのでしょう。

(類似イメージ)江戸期日本で安政大地震後に販売激増した鯰絵(鹿島神宮)

──元来,この習俗は一部で行われた(収穫)競争の(縁起担ぎ)活動だったが,1980年代になって,地域全体に拡大し,居民が下駄を履いて力一杯地面を四股踏みし,巨大な音をたててアリクイを叩き起す[2]という演技が行われ初めて,現在の「穿木屐躦鯪鯉」という文化活動になった。──
2014年の民政局長らの「躦鯪鯉」活動パフォーマンス〔後掲中時新聞網〕

台中南屯は台湾島から突出している

 一応の結論を書くと,酷く拙い。犂頭店一帯には,何か他から突出して異様な空気がある,ということです。
「躦鯪鯉」活動が20C後半に創出されたことを考えると,それは今も継続してます。
 台中域で何かが転調している,とここまで何度か書いたけれど,先に触れた大肚王国圏の残滓が未だにここにあるように思えてならないのです。

 清朝が台湾を統治する気はなく,単に領有すればいい,という腹だったのはよく分かってるつもりですけど,それにしても犂頭店の場合は群を抜いて見捨てられています。あるいは無視されている。
 それは当時から,あるいは当時こそ,南屯域だけは異質でアンタッチャブルな地域と捉えられていたことを意味しないでしょうか。
 おそらくこの違和感は,今後も追っていくことになると思います。

「ボケて」アリクイ ネタ
※個人賞「金麦冷やして待ってるからーーーーー!!!!!!」

「m19Gm第二十六波m妈祖花や明知の言葉は単純m1南屯萬和」への5件のフィードバック

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