m19Gm第二十六波m妈祖花や明知の言葉は単純m8どうしても西門の夜

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(西門∶位置)
GM.(成都路27巷∶位置)

ノスタルジックな あまりにもノスタルジッグな

西門,2053。
 このノスタルジックな盛り場,いつにも増して湧き立っておりますが──。
 最近はまた,何とも妙な空間に位相を変えつつあるんじゃないでしょうか。以前からあるインドネシア語版林默娘(媽祖様キャラ)の前で,こんな写真が撮れてました。キャピキャピとチャラチャラしてるのに硬質な,台湾のもう一面のセンスです。
▲インドネシア語林默娘

日は帰国になりますから,今回の台北はこの一泊のみです。
 しばらく西門の夜道を一通り堪能して引き上げます。このノスタルジックさは,やはり日本はもちろん大陸中国にも韓国にもない。
 本日のお宿・明日大飯店は正直イマイチでした。でも意外なことに,その脇の小径が面白かった。成都路27巷。

イタリアの肉の表面

▲2008成都路27巷

西門になさそうで,かつ,いかにも西門という道なのです。
 途中で奇妙に少し屈曲してる。細い道ですけど,林森路や雙連のような猥雑さはない。香港のそれのような危険も感じない。
▲「イタリアの肉の…」

う閉まってますけど,この奥の異人館という店も謎のメニューが多い。
 一時の韓国みたいな変な日本語です。半端に日本人が来るのでしょうか?
▲「火鍋料理を」

マフィン」──なぜ英語をそのままカタカナにした上に「味」を付けてしまうものか……。
 そう言えば,今次台湾ではそれほど「変な日本語」(下記リンク参照)は集めれてません。やはりあの現象は,台湾では台北に特化してるらしい。日本人観光客がチャラっと来る場所以外は,老人層が日本人でもあった土地にはむしろキチンとした日本語が根付いてるわけでしょう。

21時の成都路27巷

▲成都路27巷の路面に回る「SEGA」

だ,健在だったのは,当初から惹かれる「台北の闇」でした。
 軟かく,少しも殺伐としていない。
 同時に新たに気付かされるのは,今回の台中までの西海岸線の町の闇と,馴れた台北のそれの異質感です。台南〜台中のドロドロと積み上げられた歴史の層は,台北の西門にはない。
▲2112成都路27巷の闇

帰国日の台北歩きは,その段差の意識ゆえだったのか,台北に残された,台南〜台中の時代の痕跡を嗅ぎとり,追っていく迷走になったのでした。
▲(再掲)台北にて夜のお茶請けにした台中土産の餅

■レポ:生きた化石としての成都街27巷

 たまたま泊まったホテルの隣をたまたま通っただけなんですけど……この小径を掘ってみる気になってしまいました。
 下図は,110年前と今との比較です。

成都街27巷位置図 (上)1903年最近実測台北全図 (下)現GM.〔後掲台北歴史地図〕

 西門の道のほとんどが,20C初めには存在していないことにまず驚かされます。
 ただ,成都街27巷は両地図ともに描かれています。20C初期の道筋が残っているのは,この27巷の他は東西の大通り・峨眉街だけです。
 また,27巷のこのラインは,現在の東西南北の格子状からズレています。これは川の北東沿岸線です。台北歴史地図上はこの1903年までは確認出来ますけど,上図の27巷南西側の等高線のようなものは,追っかけていくと川だと理解できます。

城内南川の注いでいた西門

 この川をさらに1895年台北・大稲埕・艋舺略図で見ると,当時の地勢がよく分かります。

西門〜旧台北城 on1985年台北・大稲埕・艋舺略図〔後掲台北歴史地図〕

 地図の中央を占めている方形が,旧台北城です。※台北城については前回記述(下記リンク参照)

 当時のこの川は西から来て城南辺内側を通り,西門南を通過して現・MRT西門駅地区に入っています。ただし,城壁より南は地図外,西は何と空白。地図記号さえない。現・西門エリアを,110年前の地図作成者や発注者は無人地区と捉え,それ以上の興味も示さなかったと推測されます。

(参考)台北の三大灌漑水路

 下図は台北の三大灌漑水路(瑠公圳・霧裡薛圳・大坪林圳)の区域図です。

「瑠公圳」、「霧裡薛圳」、「大坪林圳」的水路地形圖〔後掲賈/奮起,原典∶李宗信「瑠公大圳」玉山社, 2014〕
 1905年以降のものとされるこの図中には,もう西門まで伸びる水路はありません。
 想像するならば──図中の古亭(画像左側中間部)から北西に伸びる水路の,おそらくその先に西門への川があったものと想像されます。

20C初めの西門の三日月

 西門町の形成史をまとめた記事は多くない。歩く限りは,27巷と同じく斜めに延びる西寧南路やその西の昆明路の辺りが古い地区のように思えるけれど,現在の昆明街・洛陽街・開封街二段の一帯は日本統治下では「築地町」と呼ばれていたのだといいます〔後掲wiki/築地町(台北市)〕。

この地域はもともと地形的に低い窪地であり、洪水・氾濫の解決のために沼や沢を埋めて築かれた土地であることから、この名前が付けられた。埋め立てによる比較的新しい地域であり、内地出身の日本人が多く居住していた。〔後掲wiki/築地町(台北市)〕

※煩体版は下線部(引用者)を除き同様の記載のみ。「築地町為臺灣日治時期臺北市之行政區,共分一~五丁目,位於艋舺北部,該町因為地勢低窪,為解決積水與氾濫之苦,而將沼澤填築成新地得名。該新地即為江瀕街埋立地,多為日人所居。戰後劃入臺北市城中區,為今臺北市萬華區的昆明街、洛陽街及開封街二段一帶,為今廣義西門町之一部份。」〔後掲維基/築地町 (臺北市)〕また,出典記載は日・中ともにない。
〔後掲維基/臺北市舊町名列表〕
 東京の築地もそうですけど,江戸〜大正当時の日本人はこの二字を「悪地盤の地を築き固める」,つまり完全に水域だった場所の干拓ではなく,半陸半水の半端な悪地の埋め立てのケースに用います。
 では「広義の西門町」(上記下線部)の中で,西門築地町はどこにあったでしょう?

※艋舺江瀕街とは?

 上記中国語版のもう一つの下線部「江瀕街」については,どうしても分かりませんでした。下記(→旧住所対照一覧)にも登場するので,古地名として存在したことは確からしいのですが,由来や位置づけにどうしてもたどり着けません。
 用字だけから考えるなら,「江」(大きな川)に「瀕」する町,水だらけの土地ということになります。あるいは後掲「衆街」相当の場所を示す古地名だったのではないか,とも考えるのですけど,それ以上の材料がありません。

各年代地図上の築地町地点

 当時の日本統治下の町名から,対応字が「西門外街」に対応するものを選ぶと5つあります。──単に西門町だと城内の区域もヒットしてしまうのです。

町名(丸付数字∶丁目數)/對應大小字/對應區里
(略)
新起町③/艋舺新起橫街、新起街、新起後街、祖師廟前街、西門外街、土地後街/萬華區西門里、新起里(略)
西門町③/艋舺布埔街、西門外街、後菜園街、新起街、新起橫街/萬華區西門里、菜園里、新起里
築地町⑤/艋舺江瀕街、西門外街、後菜園街、將軍廟街/萬華區西門里、菜園里、萬壽里、福星里
壽町⑤/艋舺西門外街、新起街、後菜園街、江瀕街/萬華區新起里、西門里、福星里、萬壽里
末廣町⑤/艋舺西門外街、臺北城內北門街/萬華區福星里、萬壽里(略)
〔後掲維基/臺北市舊町名列表〕※丁目の数は引用者が丸付数字に変えた。

 新起・西門・築地・寿・末広。日本にあってもおかしくない,つまり日本人のセンスで初めて町名が造られた,といった印象を与えるネーミングです。
 まず,台北歴史地図中,1930年台北市地図で築地町の住所表示を見てみます。

1930年台北市地図,築地町付近〔台北歴史地図〕

 次は,同じ位置を,同1914年台北市街図で見たものです。
1914年台北市街図,後の築地町付近〔台北歴史地図〕

「[臺]府衆街」と書かれた方形が,16年後に築地町と書かれる場所にあります。──[臺]の漢字は,正確には「木」か「大」の下に「玉」か「王」が書いてある,繁体字にもない漢字です。なので当面,「衆街」と呼びます。
「衆街」は何なのか?なぜ街区がないのか?二つ目は「築地」即ち埋立前だからでしょうけど,その時の,wikiによると「沼又は沢」の状態とはどういうことでしょうか?
 そこで,少し尺度を広域にとって,台北歴史地図中最も古い1903年最近実測台北全図を見ます。
1903年最近実測台北全図,後の築地町付近〔台北歴史地図〕 ※青丸∶後の築地町=衆街付近

 この図には,「衆街」付近から青山宮北に続く水域がはっきり描かれています。
 この形状だともう,三日月湖と呼んで違和感がない。
 青山宮北に既に街区があるから,淡水河の支流ではなく,大きな溜り,ラグーンだと捉えるべきでしょう。この地形は,水と陸とを描き分ける現代の地図では色々に描かれてしまう。

西門陸化百年目

 27巷に引き寄せて言い直すと,20C初めまで西門西側,現在の昆明路を目安にした地域に浅い三日月湖が存在しており,そこへ台北城内から川が注いでいた。この川か湖かの岸のラインのうち,西門開発の中でも運良く破壊されずにきたものが,成都路27巷の斜め道です。
「衆街」と日本の都市開発側が記したのは,陸になりかけた浅瀬に,市街とは「認められない」「衆」が「街」を造っていた,という風に受け取れます。福建で,こういうところに造られたのは水上家屋群だろうと推測します。
 三日月湖にはおそらく海民が群れていたでしょう。自然堆積と西門・大稲埕両側からの市街化によって,物理的にそれは縮小していき,1914〜30年までの間に消滅しました。
 そこが,現在の西門商圏です。陸になって百年ほどの,新しい土地です。

台湾最終日。
台北の ちょっと行かない辺地を巡って
今一度の沖縄入りです。
[前日日計]
支出1400/収入1450
    ▼14[209]
負債 20/
利益 30/
[前日累計]
利益 30/負債 –
§
→一月三日(五)
1100名無しの自助
①卵スープ
②ピータン豆腐
③白菜煮物
④エリンギと厚揚
⑤白飯
⑥白身魚 550
1135王記府城肉粽
肉粽
碗粿370
2200太陽餅300
[前日日計]
支出1400/収入1220
    ▼14[210]
    /負債 140
    /利益 30
[前日累計]
利益 -/負債 140
§
→一月四日(六)

 

台北東南山裾は普通だったか?

通の媽祖を台北に探してみようと思いました。
 前回の基隆で見逃した基隆天后を目指すことをかなり検討したけど……止めた。全然有名さはない,普通の台北を掘ってみたい。🚌

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(バス経路)
※バスルートが複数あるのか,2022年現在,国府記念館乗換のルートがヒットしませんが……参考までに。

一目的地は……国府記念館にしよう。
 GM.によると288路でsongren rd.という場所まで9駅。
 0836,西門駅からバスに乗りました。さほど通勤ルートにかぶっていないらしく,ラッシュというほどの混み方じゃない。
 朝の台北が窓外に動き初めてる。
 0848,到了(到着)。
▲0902国父記念館バス停

288路で行こう

855,バス停・国父記念館で待つ。MRT駅近くだから列車で来ても良かったけれど,今回台湾バスに,恐怖感がなくなったのを通り過ぎて,すっかり馴染んでしまいました。
 徒然に地図をイジると,謎の「songren rd.」は松仁路のことらしい。南東。今までの台北歩きの感覚からすると,居住区の果てる辺りです。
 国父記念館の周りはまさに新市街。目の前の大きなビルが完成間近です。國聯大飯店というところに港式飲茶の看板。後方に24h営業の「すき家」。北に車道の高架。
 快晴。昨夜師大で買ったバッテリーも調子よさそう。
 承徳幹線というバスが何本も来る。客もこれにはどんどん乗っていく。──これは台北の南北を結ぶ特急便のような路線らしい。
〔NAVITIME Transit/台北市公車 承徳幹線(北投站-消防局(松仁)) 路線情報 / 停車駅一覧
URL:https://transit.navitime.com/ja/tw/line/00001371

 あと,672路というルートがここと古亭を結んでる。やはりそういう路線はあるんだな。以前中心部に戻るのを避けてタクシーで動いたことがあるけど……。
 お?待合掲示の288路に「coming soon」がついたぞ?
 来た。0913,乗車。🚌
スはとりあえず光復南路を南下してる。南東に台北101の勇姿が朝日を浴びてます。
 大陸を幻視させる街路樹の豊かな道を進む。路地奥にもまっすぐ道がついてる。
 0917。101が真東になった。巨大ビルが並ぶけど古い香港めいたビルも多い。
 信義路四段へ左折しようとしてる。左手北側に火鶏肉飯,ファミマ,地球村,Honey Pig Restaurant(ハングル有)と並ぶ。
 道路の渋滞の間を歩いて雑誌を売り歩いてるおじさん。
▲0922,288路バスの車窓より

,右に入ったぞ。荘敬路。バス停台北医学大学。
 えらくどやどやした道になりました。さっきから1路の萬華行きというバスと頻繁にすれ違う。
 0929,松仁路。下車。
 セブン。LOUISAというカフェが前にある。良さそうなカフェなので美式黒珈琲とする。──癖のないいいエスプレッソです。珍しくトイレもあり事なきを得る。

思ったより開けてる信義奥地

▲松仁路

外を見回す。
 南方向に森(象山公園)。これを西に周りこんだ場所が目的地・新義福徳になるはずです。
 思ったより開けてる。
 少なくとも,人情のある土地柄を感じます。物凄い数のバスが通るし,目の前の全球人壽のビル以外はかなり年季の入ったアパートが並ぶ。
 けどこの立地に?──信義=台北101の先入観がありました。それほど古くから,なぜここに住み着いたんだろ?
 それはそれとして──
▲0952選挙人広報車

委推薦人(立法委員候補)の写真が凄い美男子や美女が掲げてあることがある。明らかに相当な修正がしてあるんだろうけど……そういうのを選んで不安感ないの?
 さあ,ぼちぼち歩きますか。0945。

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