m19Hm第二十七波m千度目の宮は蒼色獅子頭m1信義福徳

本歌:千羽目の鶴は白色月涼し〔高田A〕

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

予測した郊外地ではない

945,歩き初めてさらに違和感を感じました。
 道が複雑です。丘もあちこちにある。予測してた郊外地じゃないぞ?全然単純な町割りじゃない。
 こっちか?松仁路308巷へ右折。0952。
▲0953山陰の道を行く。

平行細道のミルクレープ

一気に人気が失せた。
 古い道か?
 いや?単に山際の道にも見える。ただ感覚的には,どうも重さと昏さを感じる道なのです。
▲0954路地を覗く
,GM.を開けてみても,やはり古い道に見えます。
 山際と逆側,西側の道の縁がガタガタなのです。西からの路地「呉興街583巷○弄」が斜めに,表記上は3本並行してます。ガタガタはそこから道への接合点に出来てる。

松仁路308巷と呉興街583巷○弄の接合する湾曲路→GM.∶地点

のガタガタは西の呉興路583巷3弄への手口にも言えることです。やはり道の反対側はガタガタしてない。
 これは,松仁路308巷ではなく,呉興路の巷群こそが古いなら整合します。その途中にやや広い空き地,おそらく共用のパティオがあり,それを横に繋いで松仁路308巷や呉興路583巷3弄が後から出来たと思われます。
▲0955(自己弁護だけど)見た目はなぜかガタガタが目立たない。

米古道」と表示。
 手前右手に紫玉観宮。
 左手「田公廟」。
 先のミルクレープのような平行細道群は,地図上,これらの宮のエリアまでくっきりと続いてます。

呉興街600巷

▲1001 田公廟祭殿
──妙なことに──これだけ古めかしい外観と匂いを持ちながら,これらの宮についてネット情報はほとんどありません。
 何の神様なのかも分からない。上記写真の田公について──三壇の廟。中央と左は長髭,右は観音のようなつるりとした表情──とのみメモしてますが……多分,前に調べた田都元帥だろうと思います。境神又は演劇神で,疫病退散に功徳あり。

▲1005陽光を浴びつつある呉興街600巷

西の600巷側へ移ろう。
 丘と丘の間の道になる。谷状の平地に梯子をかけたように道が伸びてる。
 市政府行きのミニバスとすれ違う。
 道の右側に小さな門と階段。これ……なのかなあ?あ!もう少し先に正門がありました!1011,新義福徳宮,到着。

ボヤケた光の世界

▲1009宮入口

后」とはっきり書いてある。
篇額「神威鎮四方」
右聯「福蔭新坡地霊人傑」
左聯「徳澤呉興天地同春」
 地名「呉興」が左聯に入ってます。
 左右一文字目で「福徳」を成す。「新坡」(新しい坂道)というのは,山道を切り拓いたという意味でしょうか?
▲拝所から交差点を見下ろす

の山裾の高みの位置に登る。
 目的とした通りの「普通」な,小さい祠です。
 丘上はシンメトリーな配置ではなく,右にだけ小さな祠がある。ただここには神像がない。
 中央祠に媽祖像がありました。
▲祭壇正面

祖自体は小さい。それがガラスケースに横並びになってて……御神体の撮影というより,設置者の予定通りの天国めいたボヤケた光の世界です。
▲祭壇

藍5Coming Soon

れだけ小さな丘の上の空間に,なぜかトイレだけはありました。
「請靠近我一點」は日本の便器にもよく書いてある「もう一歩前へ」でしょうけど,中国語で書くと「私にも少し近づけ」と主語が付いて来てます。
▲「近我一点」(私に少し近づいて)

かし……丘を降りながら思う。不思議な土地です。
 山手への緩斜面を登りきった丘の上に,海の女神・媽祖を置く??
 この先には,かつて集落があったような土地が感じられない。かと言って,關渡のように船が着いたとも思えない。なのに,ここは清皇帝が付与した称号・天后を名乗っているのです。
▲1019宮の下のバス停から下り方向

かに山手へ歩くとバス停が見つかりました。1020発MRT市政府行きの「藍5」というバス路線に,電光表示が「Coming Soon」を知らせてます。
 1022,乗車。

▲1021同山手方向。象山公園への登り口が見えてます。

■レポ:三百年前の台北平野東端はどこだったか?

 お察しかもしれないけれど,行った当時は本当に訳が分かりませんでした。台北101のそびえる新義,国際展覧会の開かれる南港,そういう極・現代台湾の最先端というイメージしか台北東部には持ってなかったからです。
 そこに古い薫陶が染み込んだ土地があるというのは,そういうプロトタイプの完全な域外だったのです。
 内陸の奥の郊外タウン,という像に,それだけの材料だと当然帰結します。
 ただ,現時点,既に康煕台北湖推定位置というヴィジョンがあります。この湖があった時代にはどうか?

【水面観察】康煕台北湖上の福徳天后の位置

現在の地図上の台北市内における新義福徳宮の位置
 まず,対象地点をどう呼べばいいか迷うのですけど,やや古くまで,かつ現在でも通じる地名として仮に「三張犁」と呼んでおきます。
 新義・三張犁は台北駅から東南東約6km,台北101から南南東約2km。象山などの山裾ギリギリに位置します。象山は,大きく捉えると,基隆から新竹へ抜ける湖口断層の延長線に属する山塊です(→關渡編∶③地動不休 俄陷為巨浸∶地は動き休まず 俄に大きく水没す)。
 三張犁から北北東3kmに台鉄・松山駅。ここからほぼ真東に基隆への国鉄が運行しており,これが基隆河沿いになります。
 松山駅から東への平地は,松山駅を長辺の中央とするほぼ直角二等辺三角形の形をとります。ここはかつての淡水河のデルタ地帯と捉えることもできます。
 その点は,既に触れた次の康煕台北湖の推定域を見るなら明瞭になります。
康煕台北湖推定図上の新義福徳宮の位置
 本稿でもまず一応,康煕台北湖が存在したと仮定します。すると,上図の時代から後,基隆河が台北湖に出る場所にデルタが形成されたことになります。
 先の直角二等辺三角形を言い直しますと,三張犁はこのデルタの南側の端に当たります。では,そこは,どんな意味を持ちうる立地だったでしょう?

糶米古道から広がっていた山間部ネットワーク

 松仁路からの行程の途中で見かけた「糶米古道」について先に触れます。
 三張犁南の山系の中には,次の図のような多数の「古道」が縫っていました。そのうち,山系を南北に越えて三張犁付近に出ていた古道が糶米古道だったらしい。

「信義古道路線及名稱」──信義地区の古道の路線及び名称〔後掲部落格〕 ※赤字及び薄青丸は引用者
 やや分かりにくいけれど,次の図にこの日の松仁路〜福徳宮のルートをGM.航空写真に落としてみました。建物や山の配置から上記の位置が確認いただけると思います。
 なお,台北市の略図も付しました。
松仁路〜福徳宮のルート〔GM.航空写真〕
台北市政府工務局大地工程所「全区導覧図」〔後掲臺北溪遊記〕※赤字は引用者
 これらの古道は,ネット上で検索すると概ねハイキングロードとして紹介されです。由緒の紹介をしているものも,ほぼ「德興煤礦」(日本時代の石炭坑)からの搬出絽として触れられます〔後掲隨意窩〕。
台北市東部のハイキング名所マップ〔後掲陪你一起安全登山〕
 德興煤礦は吳興街600巷100弄,つまりこの日に福徳宮へのルートの最後で辿った道の「底」,最低部にあります(→GM.∶地点)。少し考えると,そのために先の地図ほど網の目を成す古道が造られたはずがないことに気づきます。
 糶米古道の「糶」の北京語読みはtiao4。「穀物を売る」という語義で,「糶米」だと「米を売る」となります。
 古道沿いに糶米公廟があり,どちらが由来かは分からない。ただ「挑米古道」という別称もあるから,米を売るために運んだ道と推測されます。

清の道光年間、三張犁地域の農民は輸送時間の短縮と体力の温存のために、遠い平地の道を通らなくて済むようにと、この山道を切り開きました。合わせて500段の石段があるこの小道の開拓によって、南港、木柵、深坑、景美などの地区から米を速く運べるようになり、貿易も増えました。〔後掲Taipei Travel〕

 道光期の由来の原典は分からない。下記碑文にも同様の記述があります。ただ,米の搬送路の北側出口部分が,近代になって石炭を運ぶ道に転じたのだと思われます。

糶米公古道建於清朝道光年間,係台北松山三張犁農戶挑米往來文山、南港買賣必經之路〔後掲部落格,原典・糶米古道碑文記述〕

「農戶挑米往来文山、南港買賣必經之路」──文山と南港は,農家が米を売るために必ず経るルートだった,というのです。
 なお,この古道ネットは三張犁南部を覆っていただけではないようです。広く捉えると東海岸の宜蘭付近までを跨ぐ道が何本もあったと書く記事もあります。

淡蘭古道群〔後掲部落格〕
 上図は常識上の台北交易中心・艋舺を結節点として扇型を描いていますけど,その先入観を捨ててよく見ると……古道部分の節目は南港と深坑,つまり糶米古道を介して三張犁と結ばれた区域にあるとも言えます。
 部落格は,これらの道が18C前半から整えられたと見ていますが,これも1723(雍正元)年に淡水庁が設けられたことから,ぼんやりと推測しているのみらしい。

海のない台北東部域に天后宮群

 部落格はまた,古道群の沿線にある宮をリストアップしています。

信義古道廟宇整理〔後掲部落格〕
 14もの廟がある。
 福徳宮もこの中に挙げられています。建廟1989(民国78)年とある。30年少し前,ごく最近ですけど,これだけの数の中で唯一の媽祖宮です。
 GM.のコメント内に「妙音」名の方の次の記述がありました。

基隆市信士吳進感應天上聖母神恩,①於前往北港朝天宮時,②媽祖指示要蒞駐三張犁,眾人經媽祖指引覓得現址,③惟該土地為財政部國有財產局所轄管,復經信徒及地方熱心人士多方奔走,出錢出力〔前掲〕※丸付数字は引用者

 基隆市の熱心な媽祖信者が①北港朝天宮へ詣でた際に②媽祖が三張犁へ行きたいとお告げをしたけれど③当時そこが国有財産局の所管区域だったので,信徒が奔走し「出錢出力」して(ワイロと政治的圧力によって?)無事に福徳宮を建てることが出来た,とあります。
 デルタ広域では,松山駅近くの松山慈祐宮(伝・1753年創建)とBRT港墘の東にある内※湖媽祖(創建年不明。宮facebookには「早期来台開墾的先民」が建立とある。)があります。
※「内」字は煩体字では「內」と,上の出っ張りの先が曲がっている。漢字としての意味は「内」と同じなので,以下も「内」字を用いるが,中国語サイトの検索はこの文字を使わないとヒットしない。
 松山慈祐宮は,史料(淡水廳志)に書かれる「錫口天后宮」だと言われています。ただここにも「莊民捐建」──民間の共同出資としか書かれていません。

巻六47 天後宮,一在廳治西門內(略)一在關渡門,原建山頂,康熙五十八年(略)一在芝蘭街,嘉慶元年,業戶何錦堂獻地捐建。一在錫口街,莊民捐建。〔後掲淡水廳志,番号は中國哲學書電子化計劃付番,下線は引用者〕

 内湖媽祖は,位置的にデルタの北辺,福徳宮と丁度南北方向の逆の場所にある格好で,立地的には類似していると言えます。
 さて,以上の基礎材料から,古地図を読み解いてみましょう。

【ダイブ】20C初までの三張犁が在った時空

 まず再度,福徳宮のある谷の形状確認をします。
 逆Y字状になっています。昔は渓流の合流地点だったと思わせる地形ですが──この形状をキーにせざるを得ないので,ご記憶ください。

現代・呉興街600巷付近〔後掲臺北市百年歷史地圖/標準地圖【OSM】〕
 
 次の図は,ほぼ同範囲の臺北舊地籍圖(1930):三張犁です。日本統治時代なので,現行日本方式の地割になっています。下に拡大図を続けましたけど,福徳宮の筆には「一二〇三ノ一」と書かれてます。
1930年・呉興街600巷付近〔後掲臺北市百年歷史地圖/臺北舊地籍圖:三張犁(1930)〕
同中央部(信義福徳宮付近)拡大

 周囲に比べて,この筆だけが小さい。
 日本式の付番だと考えられますから,元々あった1203番林地を分筆して枝番を振ったのが1203-1とその東の1203-2だと推測できます。これは枝番部分が枝番のない1203番(以下「1203-0」という。)とは用途又は所有形態を異にするためになされた分筆でしょう。
 その分筆は,1930年以前の日本統治代になされています。先のGM.コメントにある1989(民国78)年の建廟時に初めて宮地になったのではなく,それ以前から西の林地とは別の「特別」な土地と見られてきた可能性が高い。
 分筆という地籍簿上の操作は行政の登記上の話ですから,その特別さが日本統治代に初めて生起したとは断定できません。日本側がザクッと地割をした後で,元からあった特別な用途地を分筆という形で修正したことも考えられるからです。
 先のGM.コメントの,1989年当時に公有地だったとの記述を信じるなら,前者でなく後者だった,つまり1895年の日本統治開始以前から「特別」な用途に供されてきたと考えるのが妥当です。
同地籍図中,信義福徳宮南方(逆Y字交差部)拡大

 もう一点,福徳宮南のY字交差部の地籍形状です。
 黄色が道,青色が川だと思われます。多分,現在は暗渠になったものも含め,相当大きな水量の川がこの地点で交わっていたらしく,これが先に推測した渓流合流でしょう。
 けれど,この入り乱れた朱線,それと青線部の傍に並ぶ「✕」は何でしょうか?330-1〜3などは
 ほぼ間違いなく,川の氾濫と堤の決壊(「✕」)の跡です。この場所は二つの渓流が交わる流量の不安定な地点で,水域と陸域の線引がしにくい状態だったと推測されます。朱線は以前の地籍で,それを再設定せざるをえなくなったのでしょう。
 問題は,こうした災害の痕跡と見られる朱線が,一筆(林1201)跨いで福徳宮にも続いている点です。同じ水害による可能性が高く,1203-1は朱線,1203-2は黒線で縁取られており,かつ双方が平行しているということは,1203-1筆が崩れたと予測されます。その後1203-2筆が新たに出来た,あるいは1203-1筆のうち崩れて使えなくなった部分以外が1203-2として分筆されたのでしょう。
 つまり,信義福徳宮の建つ位置は,崖崩れで残った高台ということになります。また,そこを崩した水流が,直下,つまり呉興街600巷ラインにあったと思われます。
 次に,その1895年,まさに日清交替時点の古地図を見ます。

1895年地図から見る近世三張犁

1895年・呉興街600巷付近〔後掲臺北市百年歷史地圖/臺北附近地形圖(1895)〕

 先の逆Y字の地勢が確認できます。南側への谷に一本道が入っており,これが先の糶米古道,つまり古道ネットからの北出口になります。
 南から来た糶米古道は,この谷で正Y字に分岐しています。北東への道が概ねこの日のワシの行程です。地図には家屋らしい記号もあるから,遅くとも19C末には存在した松仁方面へのメイン道だったことが分かります。
 問題は北西への分岐道です。分岐後すぐの地点に福徳宮がある。その先は現・恵安公園から現・台北医学大学,安和方面へ延びています。
 松仁方面へも安和方面へも,道沿いに水流らしいものが描かれています。松仁方面の方が太いけれど,この水流群が先に見たような乱流になり得るならば,それは時代によりけりでしょう。先の地籍図の松仁方面には,福徳宮側のような細い分筆跡はありませんから,ある時代には福徳宮側に大きな水流があったことは否定しにくい。
 では,その水流はどこへ通じていたでしょう?
 次の図は,同じ1895年古地図のもう少し広域に,福徳宮に加え,先に触れた内湖媽祖と松山慈裕宮の位置を落としたものです。
1895年・三張犁広域〔後掲臺北市百年歷史地圖/臺北附近地形圖(1895)〕※朱書は引用者

【海底】最初期の古・台北=基隆河デルタ

 上部は1895年地図の領域外で現代マップになっています。
 青薄の弧線は,三つの宮が水陸境界にあったと仮定した場合に考えうる康煕台北湖の東岸線イメージです。この場合,弧線東側に基隆河デルタがあったと推定されます。
 だとすれば,糶米古道を運ばれた農産物は,三張犁から基隆河デルタが康煕台北湖に接する湖岸に運ばれたと考えるのが自然です。ここにあった港から艋舺,さらに淡水河の水運によって各地へ輸送されていったのでしょう。
 次の図は關渡編で見た雍正台灣輿圖の再掲です。

1723~1734年間的雍正台灣輿圖〔後掲部落格〕
 手前の河が淡水河,中央の左手の岬が關渡宮ですから,上が南,左手が東です。その先に康煕台北湖が広がっています。
 三張犁は湖の東南ですから,この図だと左上部になります。拡大してみます。
同三張犁付近拡大(1723~1734年)
 原図では鮮明なはずですけど……上図でも,東南沿岸の山中に村らしき文字が続き,その間に道らしき線が引かれているのが分かります。この線が湖岸に下りている箇所が三張犁のはずです。
 本稿では,この場所にデルタがあったと予測したのですけど──18C前半のこの時期だからでしょうか,それらしい光景は描かれていません。
 次は,1694年4月〜5月とされる康煕大地震の前,17C半ばのオランダ地図です。
1654淡水及其附近村落並雞籠島之圖〔後掲部落格〕

 手前,右側の河が淡水河,それが左に折れる点が關渡。やはり上が南ですから,三張犁は右上の破れた箇所の東方左手。ここを,やはり拡大します。
同三張犁付近拡大(1654年)
 水田の畦道らしい直線が延びています。でも東南域にはそれすらなく,空白度が高い。
 ただ,縦∶南北と横∶東西のラインが直角に接している点が見えます。手前の高台との位置関係からも,このポイントが三張犁でしょう。つまり,後代の地図にあったY字路がここだったようです。
 道の配置がこうなっているということは,17C以前から三張犁は交通の結節点ではあった。それが17C末(推定1694年)以降の水域形成で一時的に海路に通ずるようになり,勃興期の台北随一の運輸拠点となった。ただし湖水の減退あるいは淡水河口の堆積の進行により,水路利用に耐えられなくなった。根拠は薄いけれど,その間は艋舺が本格的に興隆するまでの百年内外だったのではないでしょうか。
 ただそれにしても,このストーリーが正しいなら,最初に生まれた「台北」は三張犁をその一角とする基隆河デルタだったことになるのです。

(付記)内湖媽祖にはなぜ廟がないのか?

 MRT路線名にもなってる地名なのに全く行ったことがないエリアなんですけど,今回対照的なポイントとして浮かんできた内湖についてメモしておきます。
 内湖区環山路一段・二段のゾーンは,山の麓,というほどの意味で「山下」と呼ばれているという。住所表示としては内湖路一段411巷,二段以北〜環山路一段・二段。
 ここの媽祖信仰は特殊です。廟がなかったらしい。

媽祖神像は早期から内湖地区の信者(信徒代表)の家々で順次祀られ、近年は麗山街46巷の内湖媽祖廟準備所に一時的に奉納されて「神あれど廟なし」の状態にありますが、信徒の敬虔な信奉は損なわれることなく、毎年行われる巡業の儀式には各地から信徒が相次いで訪れています。〔後掲TaipeiTravel/内湖媽祖聖母殿〕

 宮子が輪番で自宅に祀る媽祖?聞いたことがありません。この場合,どこに行けば確実に媽祖がおわす,という場所がないのですから,要するに共同体内部のための神であって,外に見せるためのそれではないわけです。
※ただし,現在は「内湖媽祖」でヒットする龍画を背景にした廟がある。以前の情報には「アパートの一階」と書かれており,現状はよく分からない。

ad.麗山路46巷9にある廟の画像
 この形態の由緒は,日本時代にあるらしい。

民國二十六年,中日戰爭之後,日本政府在臺灣殖民地實施「皇民化運動」,著手壓迫民間宗教,進行「寺廟整理」,將神像集中管理;內湖地區的神明,多數就這樣被集中在碧山巖,少數「家神」不願被集中管理,所以有私自藏收於住家的土埆壁內的情形。〔後掲臺北市內湖區公所〕

──1937(民国26)年の日中戦争(漢族の言う中日戰爭)が始まると,日本政府は植民地・台湾で「皇民化運動」を実施,民間宗教の迫害に着手し,「寺廟整理」を進行させた。神像の集中管理と称して,数多くの内湖エリアの神明(神仏)が碧山巖(碧山巌開漳聖王廟?)に集められたが,少数の「家神」が集中管理を拒み,個人所有のものだとしてレンガや壁の中に隠し置かれた。──
 西九州の隠れキリシタンと同様,神像を私家に隠すのが宗教の形態になったらしい。それには,次の時代にもさらに内湖共同体を襲ってきた受難も影響していると考えられます。

民國四、五十年代,十五個國軍眷村相繼進駐內湖,以及六十三年逐漸解除禁建之後,區內公寓住宅如一夕之間,由大地冒出的水泥森林,一時引進大量中南部旅北淘金的「異鄉客」;使得全內湖區人口數突增十餘倍之多〔後掲臺北市內湖區公所〕

 桃園や新竹などの例は有名ですけど,台北の「眷村」──戦後の大陸国民党軍駐屯地がどこにどの規模で配置されたかは,はっきりしたデータがありません。けれど内湖だけで言うと,「十五個國軍」が入ってきたため人口が「十餘倍」以上に膨張したという。
 かつての漢族の流入に際しての原住民と同様,通常,そんな他者の進駐は既存共同体の崩壊を起こさずにはおかない。
 でも内湖媽祖信仰は存立し続けた。
 おそらく,媽祖像を密かに輪番で守護する行為が結社的紐帯の機能を有していったのでしょう。そのようにして,基隆河デルタの民俗的痕跡はうっすらと現代にも影を落としているのです。

内湖媽祖として時折挙げられている画像。首の下の身体や衣類は,巡行時に適宜着せてあげるらしい。

補稿2∶極北台湾島の南端

 ところで,もう一つ後代の媽祖廟のある南港についても,一点だけ触れておきます。
 南港の古名「南港仔」は相当に古い地名です。確認する限りでは,淡水庁誌に書かれています。

巻三113 城北兼東大加臘堡一十六莊:艋舺下嵌莊距城百十里、三板橋莊百十三里、古亭莊百十五里(略)錫口街百二十二里、新南莊百二十七里、南港仔街百三十里(略)〔後掲淡水廳志〕

 ここをなぜ「南の港」と呼ぶのか,という点への一説として,基隆が北の港だったから,というのがあります。
 この南北の港を,康煕台北湖と絡めて考えた記述がないので指摘しておくと,この一時的に出来た陥没湖とそれに伴って流入した基隆河の状態は,基隆河以北をして一塊の島とみなす発想を生んだのではないでしょうか。
 この「極北台湾島」の基隆と南港,つまり三張犁を含む基隆河デルタは,島の南北の代表都市だった,というイメージが無理ではないとても短い時代があったと本稿では想定するのです。

めにかかる雲やしばしのわたり鳥 芭蕉

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