m19Im第二十八波m鍬始めいわれほのめく田に水馬m3-2【特記】あめりかゆの道(ニライF69)

※徳元八一さんの場合
メリカ世変り
〔日本名〕敗戦
〔沖縄名〕世変り(読み∶よがわり,よかわり)
〔米軍名〕VJ Day(Victory in Japan Day 対日戦勝記念日。ただし9/2∶降伏文書調印日を指す)

■記録:徳元八一「避難記」1946(抄)

章で紹介した知念市誌から,徳元ハ一さんの「避難記」部分の抄をライフヒストリーとして以下掲げます。
 同じく前章で戦前教育を嘆いた具志堅校長・喜屋武さんの「洗練された野蕃」を体現したような戦時体験をくぐり抜けた記録です。

〔後掲南城市教委第7章第三節p705-〕
※徳元八一さんは瑞泉社設立に先立ち県会議員・玉城村長を務める(年代不詳。ただし巻末参照) 
※※読点と空白が文末に混在するため引用者において両箇所とも改行とした。

 序文に次のように断っているのが正しければ,当時のメモをあえてそのままに転載してる。実際,「米軍奴撃たで止むべき」たる日帝色の記述と「亜米利加様々」と感激する親米色のとが混在する文章です。よほどの頑固者(ぐぁんくー)だと見え,だからこそ信用に値する記述者です。

今から見ると如何と思わす点もあるが時勢におもねって当時の感情を偽すのは不本意ですから其ままを転記して、・・・・渾然の「避難記」となし責め塞ぎと致します
御諒承を願ひます。
一九四六・一・一六 徳元■

逃避行

元さんは玉城の出身(後掲参照)。沖縄戦11年前に瑞泉社という法人を現・那覇市松川(現・那覇市→引用者:GM.)に設立。その組合長としてようやく事業を軌道に乗せたところで戦争を経験します。

※瑞泉社∶県蚕業の発展への寄与を目的とし,首里・中頭・島尻地区の養蚕家が中心となり,一九三四年に真和志村松川村に組合員四二七二人,資本金四万円(ニ万円は県補助),釜数二二基の設備で設立され,翌年から操業を閉始した。〔後掲南城市/南城市の沖縄戦 資料編/第七章第三節注7〕※原典 松田浩「瑞泉社」『沖縄大百科事典 中巻』沖縄タイムス社,1983 p515

「避難記」は昭和20年4月1日の米軍上陸の一週間前から筆を起こします。

【3/23-4/末∶那覇松川】実践を演習もどきに米鬼奴の

避難記
◎昭和二十年三月二十三日(ー九四五・三・ニニ)大空襲・・・事の重大なるを思ふ
硫黄島の敗戦以来敵の沖縄上陸作戦の必至性は認めながら万一を徒倖(たださいわい)に其日其日を送っていたが愈々,戦争は本格的にやって来た
飛行機の爆音火災の煙,艦砲の響,列をなす避難民の群,壕に出入りする人々のあわただしさ名状すべからすだ
△ 爆音に大災乃煙,人の叫び世はさながらの生き地獄なり
△ 実践を演習もどきに米鬼奴の横平振りに悲憤懐慨

縄上陸前の艦砲射撃は3月24日から開始されたと記録されます。

24日からは押し寄せた戦艦8隻、駆逐艦27隻からの艦砲射撃が、本島南部や中城湾に叩き込まれた。
《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 363頁より》〔後掲HatenaBlogなど〕

 

沖縄戦初期の米軍艦砲射撃(出所不詳)〔後掲時事.com/戦争の記憶~沖縄戦〕
お,「南部に」「中城に」という記述が多いのは,南部又は東海岸への上陸を匂わせる陽動作戦(前々章∶■レポ:知念エリアの沖縄戦)と推測されます。

(続)◎二十四日瑞泉社は休業に決し職員二月に業手を親許へ帰す二十五日より愈々壕生活に入る・・・社の一行は私に書記の徳門豊子,業手の宮原光子,賄方の親川ノブの四人にして・・・近隣の人六名計十人なりし

くべきことに,この四月段階で徳元さんたち10人は既に一ヶ月の壕生活を送ってます。陽動射撃の激しさゆえだとすれば,この時点で沖縄県人が見聞した光景こそが「鉄の暴風」のイメージになったのでしょうか。
 実際に彼らの瑞泉社社屋は,この四月のうちに全壊しています。

◎瑞泉社壕に生活すること一ヶ月余爆撃、艦砲は日一日と烈しくなるばかりだ
・・・沖縄の周辺を十重二十重に取巻いた敵の艦艇は千四百余隻なりと怖え
特攻隊の活躍目醒しく昨夜は二百余隻を轟沈したりと喜び慶良間は占領されたりと悲報飛び北谷より上陸せりと驚き(略)
◎四月三十日瑞泉社五〇〇余坪の建物数時間にして烏有に帰す。(略)

【5/2-末∶糸数】空爆を恐れて沈黙

◎五月二日玉城村糸数の壕に下る。
飛行機は影を没したが艦砲は激しく路傍に,畑中に兵や地方人の倒れたるを見る
・・・悽惨其物だ
□ 首なき死体道の上に
  腹わた千切れて溝の中
  足は路傍に手は畑中に
  此の惨状は誰か為めぞ
  恨みは深し米軍奴
  鬼・・・米軍奴撃たで止むべき

元さん一行の五月は,この糸数の壕の中で生きられたらしい。──この記録の中には食料や着衣などの俗な話が全然出てこないけど,意外度の最も強いこの段階で,どう確保していたのでしょう?

◎糸数の壕中にあると(ママ)一ヵ月
来る日も来る日も悲報ばかり
只だ待ち望むは友軍機
・・・百機でも来れば
・・・五十機でもあればと空を仰いて嘆息すれども
遂に一機と来らずだ
重砲,野砲,臼砲等数多くありと雖も敵の空爆を恐れて沈黙を守るばかり
作戦は裏をかくれて(ママ)戦況は不利を伝ふ
或兵曰く沖縄の戦線は作戦最も困難なり

縄戦の顛末を知る現代ニッポンの我々からは当然の状況ではあるけれど,内地の日本軍が増援逆転してくれると信じていた(というかそういう情報だけを与えられてた)当時の沖縄人の心中を察せられたい。

◎隣の壕に居た宜野湾の人は艦砲に死し
井戸際の壕に負傷兵の三人は何等の手当も受け得ず死を遂げたりと聞く。
義勇隊を組織せし娘等は毎夜弾丸を運んで山川に或は仲座に艦砲の間隙を縫って忠実だ。
されど悲報は櫛の歯を引く如く
松川,繁田川,首里の線破れて
軍司令部は摩文仁へ移動したりと云い(略)

元さんが二つの壕で生活した二ヶ月で,ウォーゲームとしての沖縄戦はほぼ終了します。徳元記録が主に描写するのは,以下の摩文仁陥落までの六月の一ヶ月と,その後の計半年ほどの情景です。
「鉄の暴風」というけれど,うちなんちゅの記憶に残る「沖縄戦」というのはこの期間と,そこから続くあめりかゆ(アメリカ世=米軍統治時代)への移行の景色なのではないでしょうか?

~(m–)m 徳元さんの行程(1) m(–m)~
GM.(経路)

6/2-8/上∶糸数→仲座→慶座→仲座→慶座

【6/2-18∶糸数→仲座→慶座】撃ち捲られて逃げ迷ふ

◎六月二日
獣医務室は軍令により具志頭の線まで下るとの知らせあり(略)
友軍と共に玉砕に然かずと覚悟し
準備を整えて獣医務室の一行に加わる。

に徳元さん一行は「獣医務室の栗山兵長の案内」で糸数の壕へ入ったとあり,糸数から先もこれに同行したらしい。「獣医務室」という組織の詳細は不明。

◎(略)敗戦の悲しさ
軍の指揮系統は乱れ
地方は■■■の状態となり
大里,南風原,玉城方面の者は南へと下り,
具志頭,摩文仁,真壁,喜屋武方面の者は知念玉城方面へと命せられて
道に行き合いて邪径な顔
何れか真なりや迷うこと甚だし
▲ 如何にせん,撃ち捲られて,逃げ迷ふ
◎仲座の壕に在ること十二日間(略)
早く(ママ)戦車二台は仲座の後方八重瀬の山裾
一軒家の付近に显(あらわ?)れて
摩文仁方面に戦車砲を撃ちつつあるを目撃す。

難民の東行と西行の交差する様を目撃してます。南行するうちなんちゅの姿はよく描かれるけれど,南海岸線沿いにこんな混乱が起こっていたのでしょうか?
 さらに,日米の戦線が徳元さんらを追い越して,摩文仁を砲撃する戦車を見てます。

◎十五日
獣医務室は本部へ引上げとなり
余は義勇隊の男女青年十数人を伴れ
夜陰に乗じて否な敵の照明弾を頼りに
具志堅海岸なる慶座(ギーザ)の壕に下る
──石礫道,畑の中,山の中何度か倒れて手を傷け向ふ脛を打ち・・・・
敵弾ならぬ傷を負ふて断崖を■ぢ
漸くにして壕に辿り着いたが
壕の入り口に艦砲を撃たれて擬装物は吹飛び
前方の海には敵艦群をなし
危機愈々身に迫るを覚ゆ。

座」は,具志堅海岸とあるけれど,知念具志堅だとするとこの地名が見つからず,かつこの後の行程がやや不自然になります。「具志頭」の誤記だと仮定して,八重瀬町の慶座絶壁(ギーザバンタ)と以下読んでいきます。──だとすると徳元さんらはもしかすると,この辺りの海岸地名までは親しみのない土地勘の人々だったのかもしれません。

◎十八日元瑞泉社業手吾屋武文子の肝入にて社の一行四人は海近き安然壕(ママ)に移動す。
二十日娘婿仲村渠林一氏,妹婿糸数常雄氏の戦死と娘糸数君子,妹糸数スエの家族が真壁にありしを知りたれども生死の程は不明なり
二十二日は義勇隊の十四人は捕虜となりしか一人の残留者なし

14人の義勇隊は,この記述だと,ある夜,徳元さんらには何も告げずに蒸発したのでしょうか?さらりと「捕虜」?と書いてますけど,6月22日(牛島軍司令自決の前日)段階で全員で壕を出た14人が,大人しく捕虜になったとは,徳元さんも本心では信じていなかったでしょう。

6月20〜22日(ニライF68再掲)この3日間は米軍の日本軍殲滅作戦である。22日正午頃に摩文仁集落で沖縄第32軍司令部守備隊の銃声が消え、これで全ての戦闘が終結したものと考えられる。
[沖縄戦史/島尻南部の戦闘総史]※URL:https://web.archive.org/web/20171009071928/http://www.okinawa-senshi.com/shimajiri-soushi2012.htm

突破!?

【6/27-8/上∶慶座→仲座→慶座】いざ宵月満天の雲

座は摩文仁(現・平和祈念公園)から北東1km余。上記6/20戦況図のとおり,6月下旬には米軍が完全制圧してます。徳元さん一行が実際に籠もった壕がどこであっても,洞窟の入口に近づくだけでも生命の保証のない時期のはずですけど──ここで徳元さんを含む8人が無茶をやります。

◎二十七日金武行き陸上突破を企て・・・,
獣医務室四人瑞泉社四人・・・
山田少尉を一行の指揮者となし前後の連絡を取りつ忍びやかに行く,
いざ宵月とは云ひながら満天の雲
突破には持って来いの日なりと喜びしも
年寄の悲しさ敵の張り赳らせる鉄條網、ビアノ線判明せず
豊子は後になり先に立ち余を庇(か)ばいつつ
道案内となり這ふ様にして台地を抜け
輿座仲座の部落中を通り
後方の陵線に出てしと
敵の幕会と歩硝は相接して聯かの間隙となし
◎栗山兵長の偵察にて幕会と歩硝の距離三十米位の中間段畠の土堤を利用して・・・
絶対無言,腹逍にて・・・
栗山,豊子,ノブ,光子,荒明,私,山田,茂田井の順序にて進む

士を含むとは言え男女混成のこのチームで,米軍の重包囲を抜け,金武まで突破しようとしたのです。──今,試みにGM.で測ると56kmです。

(続)然るに不幸,
誰れがピアノ線を踏みしか
幕会より自動少銃の音と共に大声に叫びて敵飛び出す
突差に栗山と豊子は飛んで前進し
ノブ以下は後退して撃ち捲くられつつ逃げしも
ノブと光子は敵弾に倒れぬ。
茂田井上等兵の報告は
ノブは腹部を撃たれて即死し
光子も重傷にて手当はなしたれと致し方なく民家に残したりと
栗山と豊子の突破成功を祈りつつ
光子の捕虜となるを悲しむ
◎それより後は火の消えたような生活
淋しき日の連続なり
昼間は壕探しの筒音に怖えつつ
夜分は海岸の磯の上に今日とも知らす明日とも知れぬ身の上を案じつつ
豊子が運よく金武まで突破出来る様にと祈る

月末に徳元さんらの壕は,米軍に焼かれています。
 それでも壕に籠もっていたこと,八月初めまで那覇市長もいたことなどからすると,相当規模の洞窟だったのでしょうか?
 流石にこの間の筆は鈍っておられ,細かくは何が起こったのか分からない。

(続)二十八日には
敵の火炎放射器で壕を焼かれ
七月二日には
竹村とやら(平戸の人)敵の筒先に倒る。(略)
◎(七月)二十七日
吉川軍曹(真和志─古波蔵の人)外六人倒れ
二十八日には
地方人喜屋武氏の娘二人小銃弾に傷(つ)き
八月四日には・・・
那覇市長兼島景義氏,楚南氏(具志川の人)翁長氏(読谷山の人)三人壕探しに死す

島兼景義 臨時市長1945.4-1945.7

【8/上∶慶座】壕中沖縄戦反省会

元さんや那覇市長のほか,どういう人がいたのか分かりません。上記の閉塞状況下の「戦評議」を,徳元さんは項目に直して綴っていきます。
 誤解を恐れずに言えば──この辺りの議論を見ていると,戦前の日本は悪い意味でフルスペックの民主主義だったのだなと感じさせます。
 また,うちなんちゅ(文中「地方人」)の国家主義は内地人に全く大差がない。これまた悪い意味で,沖縄県人に敗戦の責を負わす言行は許しがたい気がします。

◎壕中の戦評議・・・敗残兵の壕中生活は種々の論議や批判に花が咲く。
(一) 敗戦の原因如ク
(イ) 戦争指導者の巳を知らず敵を知らざりし不明
  東條の馬鹿野郎と興奮する兵あり。
(ロ) 科学と,物量の相違が敗戦の大原因
  竹愴荷いてどーする・・・
  蟷螂牛車に向ふか
(ハ) 沖縄作戦の過誤
  上陸を許した事。
  首里の線にて決戦せざりし事。
(ニ) 軍記風記(ママ)の弛緩
  軍上層部の中・・・
  壕の中まで女を連れ歩いての戦争は何たるざまだ
(ホ) 兵隊の■の低下
  初年兵学徒軍,防衛隊のみを先頭に立て
  故(ママ)参兵や,下士は壕中に匿(かく)れて
  或中隊長,──大隊長は壕奥深く匿くれて
  壕中より指揮を取しと
(へ) 沖縄人のスバイ行為云々。
(ト) 日本の海軍は何処にありや。
  日本の空軍は健在なりや云々。
(2) 敗残兵の暴状如ク
(イ) 脅迫して地方人の壕を奪いし事。
(ロ) 抜剣し或は銃を擬して
   地方人の衣類糧抹を奪いし事。
(ハ) 壕中にて地方民の小児を殺せし事
(ニ) 壕中にて地方民の婦女子を犯せし事云々。

て,こんな議論と前記のじわじわと締め付けてくる米兵の掃討の中で,徳元さんとこの洞の集団はとんでもない企てをしておりました。

8/10-20∶慶座→慶良間

【8/10-20∶慶座→慶良間】助けやい賜れ島のお神

◎八月十日,
かねて特攻隊の用ひし敗れ舟に
夜な夜な修復を加へ出来上りしも
幸ひ西廻り島伝いにて九州行きを企て
死を賭し舟を艤して※
夜陰慶良間の前島指して出発す
一行十五人内沖縄人は三人なり

「マルレ」構造図(長さ5.6m,幅1.8m,吃水0.26m,満載排水量約1.5t,最大速力20~24ノット,航続時間3.5時間)〔陸軍海上挺進戦隊〕※マルレは陸軍製。沖縄では海軍製の震洋が多用されたとされ,同型船の船首に爆弾を備える。※URL:https://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/kaijotokkoutei.htm

記マルレの規模を参照する限り,15人というのはかなり過剰積載です。それで九州を目指し,かつ一次目的地を慶良間にしたというのは,慶良間で複数の船を強奪・乗換の上で北上する気だったのでしょうか?

(続)十一日の日中はリーフに寄りて艇泊し
十一日夜と共に漕ぎしも
潮流早くして前島行は断念し渡嘉敷本島に向ひしに
十二日の早朝敵船に迎えられ驚愕
舟を乗り捨てて山へ逃げ込みしも
舟は敵に奪はれて持物全部を失う・・・
噫々如何せん
● 慶良間てる島や ぬぬ縁がやたら 命はまいしちょて我身や着さ
● 命はまいはまて なま着さ我身や 助けやい賜れ島のお神

※艤して∶船出の準備をする。艤装する。
慶良間列島の空中写真 《AIによるカラー化》Aerial view of one of Kerama Islands, Ryukyu Islands. 
〔後掲HatenaBlog/1945年3月26日〕※原典 写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

◎慶良間の山中に在ること十日,食べる物なく・・・桑の葉,ツワブキ,スべイヒューの■食ひ。青大将,赤又蛇(あかまたへび),宿蟹を喰ひ遂に毒なりと知りつつ,蘇鉄(そてつ)の実を食して十三人の中毒者を出し,目は打ち窪(くぼ)み足は水腫れして立つこと能はず

月12日から10日間,渡嘉敷山中でソテツ地獄に喘いでいた訳です。それまでも壕中ですから,ポツダム宣言もヒロシマも知らず,その10日の間の「耐へ難きを耐へ」も聞いてはいません。
「スべイヒュー」を拾い集める徳元さんも,かつて奄美人が苦しんだソテツ地獄を嘗めた珍しき内地兵たちも,真に耐え難きを耐えるのに必死で,そんな想像は毛ほどもしてなかったでしょう。

スベイヒユ
※スベリヒユ 学名: Portulaca oleracea 海外俗称∶パースレイン 和名∶滑莧,滑り莧,とんぼぐさ,さけのんべぐさ,いはんずる 沖縄俗称∶にんぶとぅかー(本島∶みんぶとぅき 鳩間∶みじぃな 石垣∶じきな 宮古∶みぞな) 沖縄での食法∶和え物(特に酢みそ和え),汁物の具,炒めもの〔wiki/スベリヒユ スベリヒユ科スベリヒユ属の一年生植物
ニンブトゥカー|スベリヒユ|パースレイン|食べ方|注意点 – Okinawa Core Herb URL:https://x.gd/AXYHU(短縮)〕

収容

【8/21∶渡嘉敷→読谷山渡具地】禿げ頭 敵兵の投ぐ鉄兜

くもドン底の状況で,よく冷静に判断できたものだと思います。15人は四つん這いで山を下り,(おそらく悔し過ぎるゆえに記述してないけれど)米軍に保護或いは回収されています。
※上記には書いていないけれど,一ヶ月後の9/28の山田少尉との再会記述から推測して,徳元さんらが登降した後もさらに山中に居続けた一群もあったらしい。
 そこで初めて,滅亡を約された大日本帝国の現況を知ります。

◎二十一日遂に山中に餓死せんより一食たりとも満腹して殺さるるに如かずと四つ這にて山を下る。通訳の人(布畦(ハワイ)生まれの三世川崎氏)よりソ連との開戦・・・十五日無条件降伏・・・広島長崎の原子爆弾の話を聞き我が耳を疑ふ
▲ 誠なりや耳を疑ふ 珍奇な話 日本無条件降伏(ニホンコウフク) 受取ぬなり
▲ 不運なり天佑薄き 戦かな 原子爆弾 敵にありとは

945年8月15日正午の放送をラジオから聞いた日本人の多くが感じた激情ではなく,徳元さんが「珍奇」と記録したのが,ここまでお読み頂いた方は実感頂けると信じます。
 誤解を恐れずに書くと(もクソもないけど),あれだけ勇ましい口ぶりを吐いた大日本帝国国民の何割が,村上龍が「五分後の世界」に書くような本土決戦を本当に闘う気があったのでしょう?

8/21-22∶渡嘉敷→屋嘉

の反省会の言を借りれば,戦争指導者のみならず「巳を知らず敵を知らざりし不明」即ち現実的世界認識の欠如による敗北だったことだけは,どれほどの左傾化と自虐史観の中でも伝えられるべきだと思います。
 何はともあれ,徳元さんたちはまず読谷から本島に再上陸します。ここで徳元さんはアフリカ系米兵からヘルメットを贈られたことを,諧謔と感動をないまぜに記録してます。

◎渡嘉敷港より黒奴の監視付にて
読谷山渡具地に上陸し波止場に休息す
米軍の一水兵来たりて・・・
ジャパニーズ? 沖縄?
と殊更(ことさら)に区別を立てて問ひ
余の帽子なく日に照られつつあるを見てヘルメットを送る(ママ)
▲ はげ頭撫でて何とか云ひし後 ヘルメット呉れし 水兵のあり
▲ 殺さるる事とそれのみ思ひしに 笑顔に迎ふ 親切に泣く

はここに──アフリカ系米国人に多分初めて接すからやむを得ずですけど──「黒奴」といった差別的感覚もないまぜになってます。
 少し後の時代,同じ米兵の街でも,主にコザの八重島やセンター地区は陸軍,嘉手納は空軍やファミリー,金武と辺野古は海兵隊と棲み分けが出来てきます。さらにコザでは人種別のモザイクが出来,相互の喧嘩もあったという〔後掲宮武/新潮社〕。

昔はね、黒人と白人との喧嘩がよくあったんです。例えば十字路は「黒人街」、BCは「白人街」でした。白人が黒人街に行ったり、黒人がBC通りに来たりするとみんなでやられる。

lack Heaven」と呼ばれたオールド・コザ(現・コザ十字路=照屋付近)は,公民権時代には独自色を強め「ブッシュ」bushと称される。

外では、黒人が集団になって白人を車から引きずり降ろしてボコボコに殴ったりしていたね。こちらも慣れてしまって、「お、やってる、やってる」なんて店の中から見物した。でも、自分たちに乱暴されたことは一度もないね。……あ、万引きは多かったよ。だから一人ずつ店に入れて、こうやって仁王立ちで見とくわけ。〔後掲宮武/新潮社〕※久志刺繍店長へのインタビューより

1970年代頃のコザのバーで踊るアフリカ系米兵。同デザインの「BushMasters」ジャンバーも見える。〔後掲宮武/新潮社〕

日のコザのチャンプルー文化の源流を見る史実ですけど……脱線しました。1945年の読谷です。

◎戦ひの如何にはげしかりし事よ
艦砲に爆弾に変り果てて見る影もなき沖縄の天地だ噫々
▲ 艦砲に変り果てたる うるま島 何処が何処やら見る影もなし

1945年4月1日,読谷海岸のリーフ内を進軍する米海兵隊。背後に当時の読谷村海岸。〔後掲総務省/読谷村〕※原典∶読谷村所蔵写真

【8/22∶渡具地→屋嘉】七日の苦悩 七千の船

◎戦争は集結したと云うのに渡具地の大仕掛の築港作業は■■した
残波岬より那覇沖にかけて輻輳す大小無数の艦艇は何だらう
嘉手納を中心に四通八達する道路
来年か上陸して近き四ケ月前線は激しい戦ひを戦いつつ後方に於ける驚くべき兵施設
銀座通りか,道頓堀筋の様に
交通整理に立つ米兵は数知れず
ハイヤー,ジープ,トラック,トラクター,戦車水陸両用車は何千と続き
兵器弾薬,糧秣其他の機材は路傍に山積し 
金武湾にと大船林をな■■
只々茫然自失
昔■■さんが七日の日子(にっし)を費やしたと云ふ七日後には
大船の横着せうを見る
▲ 足弱の七日の苦悩夢にして 七千■の船と漂着

日の日子を費やした」のは旧約聖書(創世記第一章〜第二章初)にある天地創造でしょう。
 太平洋の沖縄より前の地域ではどうだったのか知らないけれど,米軍は支配下に置いた沖縄の地域にすぐさま建設部隊(CB※)を投入し,上陸半年後のこの時期には,徳元さんをして銀座通か道頓堀かと言わしめた都市を築いていたわけです。

※シービー∶アメリカ海軍の建設工兵隊 United States Navy Seabee。戦場での基地・道路の建設・防衛を担当。元々Construction Battalion(建設大隊)の省略形CBだが,海(sea)の働き者の蜂(Bee)という語呂を合わせ「Seabee」とも書く〔後掲wiki/シービー〕。

沖縄本島の建設大隊 (CB) キャンプ。慌ただしい看板屋へと変わった、地元民の藁葺き家屋の前に立つ、フラナガン塗装工兵(左)とオグボーン塗装工兵(右)。(1945年4月20日撮影)CB camp at Okinawa, Ryukyus. Standing in front of thatched native hut which was turned into busy sign emporium are (L-R); Francis W. Flanagan, Ptr2c, and Earl G. Ogborn, Ptr3c.
〔後掲HatenaBlmg/シリーズ沖縄戦/1945年4月20日〕※原典 写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館[caption id="attachment_43436" align="aligncenter" width="127"] シービーの公式ロゴ。アメリカ式の水兵帽を被り、袖に水兵の階級章を付けたマルハナバチが自動銃を構え、工具を携えている。なお,公式モットーは「Construimus, Batuimus」(われわれは建て、戦う)。最もよく知られた非公式モットーは「Can do!」(やればできる)〔同wiki〕

陸当初はその後の日本内地侵攻を視野に入れていたとは言え,ロジスティクスへの投資が半端ではありません。徳元さんの驚嘆は,それが如何に日本軍と桁違いだったかという一点だったでしょう。

◎愈々屋嘉の収容所だ
MPから所持品検査があって柵内は沖縄部隊に収容だ
出迎えて居る多数の人の中に見た見た
名護署長新城長保氏が居るではないか・・・
善かった善かった乃公(だいこう)も生きとってよかったと思った。
● 死ぬ筈の命ながらひて我身の 振合する袖や 御縁さらみ

元さんのような流転を,どの位の数のうちなんちゅが経験してるのかは分からない。ただ,単なる人口流動で考えると──

沖縄本島および平安座の収容所人口─1945年10月10日現在─〔後掲川平〕※原典データ:仲宗根源和「沖縄から琉球へ」(月刊沖純社,1973)p311

表の収容人口の計は325,769人。
「沖縄県民は沖縄戦で4人に1人が死んだ」とよく言われます。ここで,その実数に当たってみると──

沖縄県総人口590,480人
〔1944(昭和19)年2月の政府による人口調査〕
− 同県宮古郡(宮古島等※)人口
− 同県八重山郡(石垣島等※)
= 沖縄戦地域人口492,128人【A】
うち
1.沖縄県出身軍人軍属死者 28,228人
〔旧帝国陸海軍・厚生省資料,沖縄県生活福祉部「沖縄の援護の歩み」1996(平成8)年,以下同じ〕
2.他都道府県出身軍人軍属死者 65,908人
〔沖縄県護国神社合祀者数〕
3.一般県民 94,000人
〔下記沖縄県による昭和19年と21年の人口を勘案した推計〕
1~3(日本人全戦没者数)計 188,136人
4.米兵死者 12,520人
米軍政府資料
1〜4(全戦没者)計200,656人
1+3(沖縄県人死者)再計122,228人【B】
【B】÷【A】≒24.8%≒1/4
〔後掲篠原,wiki/沖縄県の人口統計ほか〕
※沖縄戦の戦火が及んだ度合いが少なかった地域

縄戦を生き残った県民37万人(≒【A】-【B】)中32.5万人,約88%が収容されたわけで,流動中の人口など統計漏れを考慮するとほぼ全県民と捉えてよいでしょう。

◎二十二日(略)而して収容総人員を問へば・・・
沖縄部隊一五〇〇余人(内地方人三〇八名)
内地部隊兵九〇〇〇人 下士一三〇〇人 将校三〇〇余人
朝鮮部隊一〇〇〇余人
布畦(ハワイ)其他へ送られし者三〇〇〇余人なりと云ふ

元さんがおそらく米兵から聞いた数字に誤謬の要素はあまりないのですが,けれどここからは収容人口に内地や朝鮮籍の人数が含まれています。だから上記カウントも不確実要素含みです。
 ただここで確認したいのは,この時点のうちなんちゅがほぼ全員,一旦その出身地から引き剥がされたことです。

940年と46年10月1日現在の人の動き(単位:人)〔後掲川平〕※元データ∶「沖繩戦後初期占領資料第38巻」(緑林堂響店,1994)p129

のクロス表から,南部の人口は山原(北部∶石川以北)に移動させられ,その規模は沖縄戦火地域人口の一割(約5万人)に及ぶ。
 伝統的地域社会というのは脆いものです。通常はこの規模の人口移動があれば,地域社会は崩壊します。沖縄の地域的連帯が内地の農村地帯のそれと少し異質に感じられるのは,この点の影響だと考えられます。
 それともう一つ,うちなんちゅのパーソナリティに影響を与えたであろう特異環境は──

【8/末-9月∶屋嘉】朝鮮・沖縄の独立国となるとの噂

◎屋嘉大学(屋嘉の捕虜収容所を皆が屋嘉大学と呼んでいる)の寄宿舎は意外にと安穏な生活である・・・
▲ 思ひきや 斯く安穏に募らすとよ 屋嘉の田圃に蛙喝くなり
▲ 松原を渡る涼風 幕舎に充ち 音楽に聞く蝉時雨かな(略)
▲ 憐なりトルマン給与と我と亦た 舌鼓打つ捕虜の一匹(略)
◎ 雨が降る日に
  戦打ちまかち 楽しらなしやしが
  負け戦しちよて 此のないになたさ
  屋嘉の明け暮に しょぼ降る雨や
  沖縄お万人(うまんちゅ)の 流す涙かや
  我肝■々と 塞ぢ行ちゆさ

為徒食の民に,望んだことではないにせよ,一時的に社会成員の大多数がなったことです。
「トルマン給与」は,日本軍全般で米軍から分捕った食料などを「ルーズベルト給与」「チャーチル給与」と自軍の貧困さへの諧謔として呼んだことの延長で,ここでは収容所での生活保障全般を指すようです※。──会所からの給付金で最低保障された江戸期の長崎人に似ています。
※後に米軍から盗んだ爆薬で行われたいわゆる「ダイナマイト漁」で獲った魚も「トルーマン給与」と呼ばれた。
「働かざる者食うべからず」(He who does not work, neither shall he eat.)の原理が崩れた社会の成員は,如何にそれが短期でも,労働観念が変質します。現在「沖縄の県民性」と言われるものの一部はこの時代背景から生まれてはいないでしょうか?

(引用者∶九月)五日
(1) 別柵にありしクレーヂの一人脱柵して一発の下に往生す
悽惨の気迫るものあり・・・
銃撃を聞くことが不快だ
(2) 夕食後より沖縄部隊にて演劇会あり
MPの歓送迎の催なりとか
内地部隊には柵内に星都劇場とせる演劇場あり
各部隊が交互に芝居を開演す
呑気なPW生活なるかなだ
(3) 朝鮮,沖縄の独立国となるとの噂伝なり

W」は「Prisoner of War」(戦争捕虜)。
 今も歌い継がれる「PW無情」(PW節)は知念市史も八番まで掲載してるけれど,屋嘉収容所で金城守堅が作詞した「無情の唄」(普久原朝喜)の替え歌で,当初は屋嘉節と呼ばれました。最も有名な一番は
「恨みしゃ 沖縄
 戦場にさらち 世間 御万人 
 袖ゆぬらち
 浮世 無情なむん」
(和訳∶恨めしや沖縄 戦場にさらされ/全ての人々の 袖を濡らす/浮き世は無情なものだ)
 なお,徳元さんが再会を喜んだ名護署長・新城長保はこの琉歌の添削役として関係しています(米軍に刺戟的な表現を修正したと推測される)。〔後掲沖縄LOVEweb〕

◎十二日
(1) マラリヤ予防の為めアテプーレの配給あり
コレラ,チブスの予防注射,植疱瘡を施行す
有難き事なり
(2) 沖縄独立の話は真なるか如し
米国の保護国としての独立ならん
軍享的施設を中心として沖縄を経営するに違ひなし
然して物資生活は豊かならんと
精神生活の方面は果して如何・・・
市民権を与へて自由平等の天地となるは何時の日ぞ

嘆すべき事だと感じますけど──徳元さんは,何をきっかけにしたものか,米軍の提供する豊かな「物資生活」が「精神生活の方面」の独立を遠のかせるであろうことを看破したらしき記述を残しています。

◎二十八日慶良間島の山奥深く逃げ込んだ最早や死んだものとして諦めて居た友人山田少尉がやって来た
▲ 亡き者にかぞへし友人(トモ)の顔を見て 夢かとばかり 手を握り締め

田さん(たち)は,徳元さんよりさらに一か月長くソテツ地獄に居たことになる。
 おそらく内地出身兵です。
 日本降伏を知ったのも9月下旬と推測されます。山田さんはそれをどの位に「奇異」に感じたものでしょうか?

【10月前半∶屋嘉】沖縄県民の軍に対する協力振りは他に異なく

◎敗残者の群には種々とごたごたが多い様だ
日<朝鮮部隊の内地部隊へのなぐり込み
日<慶良間の赤松隊の兵が主計将校を袋叩き
曰く沖縄部隊の者が宇土部隊の不■■の将校を殴ったとか
全ての不平不満・・・恨みも怒りも水に流さうではないか
▲ 苦も楽も 不平不満も我が心 心一つの置き処なり
▲ 鬼になり仏になると我が心 心一つの裏表なり

残者の群」と諧謔の口調で語るのは,具体的には定かでないけれどPW内部での政治的対立の激化の様のようです。同義の和歌2首を掲げるのは,徳元さん自身もこの争闘に参加したくなる邪気を抑えたからでしょうか?
 なお,米軍史料には時々登場するけれど,日本の戦史には沖縄戦への朝鮮人動員は滅多に書かれません。沖縄戦には他より多く35百人余,うち28百人が「特設水上勤務」と言われる荷揚などの港湾労働に従事した──ということがごく最近明らかになってきています。
 次のものは,奇しくも徳元さんを驚かした米軍後方部隊と同じ渡久地港の光景です。

住民たちは渡久地港での朝鮮人の姿を見ている。当時14歳だったTTは「よれよれの軍服を着て路上に横たわる朝鮮人軍夫たち十数人を日本兵が蹴り飛ばしていた。」また「舟艇の上に5~6人並べられロープを束ねたようなものでぶたれていた。端の朝鮮人が倒れて海に落ちたので住民が助けたところ、その住民も日本軍に相当やられていた。」「人間扱いではなかった、ひどかった」と証言する。TCは「軍夫たちはごく子細なことでも難癖をつけられて殴り倒されていた。牛馬にもひとしい扱いを受けて男泣きに泣きじゃくっていた光景はいまも忘れることができない」と証言している〔①〕。真部山で陣地作りをしていた朝鮮人を近くでみていたMCは「いつもひもじい思いをしているようでした。仕事は兵隊の2倍、食事は半分以下でそのうえ殴られっぱなしなので相当の差別を受けていたと思います」と語っている〔②〕。〔後掲沖本,原典:①町民の戦時体験記編集委員会「町民の戦時体験記」本部町教育委員会,1996年,213頁 ②芭蕉敷会「八重岳・ふるさと 芭蕉敷記念誌」,2007年,186頁〕※個人名(全て沖縄県民)は引用者がイニシャルに置換

◎沖縄の再建設•••
最近柵内に於ても新沖縄の建設の為めにとあって
PWの結束同志の団結が叫ばれ
寄り寄り政治的動きが見えるが
何処までも純真であって欲しい
諮詢会の委員の人々と協力して
沖縄再建に満進すべきであって
決して対立的行動を起してはいけない
足取主義の島国根性は■等して
押上主義だ過半数上の争は・・・
量見の挟い対立抗争は沖縄の進歩を発展を阻害するばかりだ・・・
綱引きは面白い遊戯ではあるが
勢力を消耗するばかりで決して建設にはならん
よくよく熟慮せよと二三の幹部の人には注意を促した

末に徳元さんの戦後の軌跡を少し追ったけれど,この人の性格的に上記の意図的に不明瞭な文章は印象的です。要するに,収容所の中で既にして政治的「綱引き」が始まっていたと思われるのです。

◎十月四日布畦(ハワイ)よりPW七八〇人帰還す
柵を別にして布畦部隊と名付けた・・・
其部隊より八名の村人を加へて
四十人となり第二回目の玉城村人会を開催す

「ハワイ州のホノウリウリ収容所には生き残った沖縄の学徒兵も多く移送された。」〔wiki/沖縄の収容所〕

にも出てきたけれど,うちなんちゅのうち相当人数が劣悪な環境でハワイに送られたことが,様々な記録に残る。ただ,その目的や選別方法などは未だはっきりしていない〔後掲HatenaBlog/1945年7月7日〕。単に,沖縄が一杯だからハワイに振り分けて労働力にしよう,という発想だったのでしょうか?
 次の9/14懇談会というのも,誰が何の目的で開いたものか,どうもよく分からない。米軍が,所内の対立を話し合いで緩和させようと企画したのでしょうか?

◎十四日夜下士官隊より伊東軍曹(千葉県人)斉藤軍曹(北海道の人)山田少尉(熊本県人)来訪
沖縄部隊より山田隊長,青木,神山両副隊長,上間憲兵軍曹,勝連憲兵将尉?屋良,知念両少尉,桑江軍曹,新城名護署長,西平岸本両一高女教諭山城報導班艮及び余の十数人懇談会を間催す
(1) 沖縄人のスパイ行為云々につき
(2) 軍がスパイとして処断せし大城砲兵伍長■豊見城の人上原キクは全くの精神病者なりし事
(3) スパイは腕に焼印あり陰部の毛を剃つている云々が上原キクより出でし事
(4) 沖縄県民の軍に対する協力振りは他に異なく殊に男女学徒の偉大なる戦績
(5) 敗戦の責任を沖縄民族に転嫁せんとする心事の■劣なる事
(6) 米軍将校の話なりと云ふ・・・戦場に於ける人を使用しての偵察は昔の戦争にして今日は飛行機により写真にて陣地と壕と判断すとの事
(7) 軍人層部(ママ)の軍記(ママ)の腐敗せしこと拳げて痛論し沖縄県民の為に誤解を解くべく尽力を誓ひ合って散会す

【10月後半∶屋嘉】糸数に迎えしものは髑髏

月半ば,徳元さんは不思議な格好で収容所隊長に「陳情」をしています。「要求」は収容所からの解放です。

〇十六日,
最近或るMPよりシビリアンが収容所に在ることは不思議だ
との話ありしとの話伝はる。
思へば地方人は訊問を受けし事もなく
写真や指紋を取りしこともなく
只無為に過すのみ・・・
不思譲な存在と云はざるべからず
シビリアン三〇八名の為め
野村健氏と共に内地部隊の高橋隊長両■通訳の取計らひて
陳情書を提出し隊長某少佐に面接す
(1) シビリアンを収容しある理由を聞けば
それは先任者のした事だから
私はそんな難しい事は知らんとの事
(2) シビリアンを一日も早く解放して
沖縄再建設に協力させよとの願に対しては
主旨は最もだが今解放した所で
住む家もなければ着る衣服もなし食べ物もない
米軍は目下其準備を急いでいる・・・
一ヶ月以内に解放するから暫く辛棒せよとの事
(3) 親兄弟や親類縁者の生死の程も知れん
それが心配だから一日も早く出して呉れとの
住家なとは出て行って協力する
増産にも尽力したいと云へば
親兄弟や家族に対する心配は御■様です
私共も家族に離れてからニヶ年になるんですと笑ふ。
結局成可早く解放して呉れと願って引下った

Pより……不思議だとの話ありしとの話伝はる」というのをそのまま取ると,MP(米軍憲兵)が要求行動を扇動したように映ります。
 そもそも,収容所代表の要求に所管理側が快く応じるなんて,通常考えられません。
 米軍側の内部に,占領政策を収容管理から大きく転換させるような方針変更があったと思われます。しかるのちに,その「原因」となる陳情行動が煽られた……と見るのがこの時代のアメリカの遣り口でしょう。

◎十九日
MPのキャプテン外三人と山田少尉,城間通訳,桑江軍曹山城報導班長,私に外青年四人計十三人
自動車二台に分乗して衣類糧抹,銃器等を求めて高平と糸数へ壕探し
(1) 高平壕は入口爆破されて掘り得ずー物も得ず
只爆弾の作りし池に馬の遺骨を見しのみ
■ 爆弾の作りし池に馬泳ぐ
(2) 糸数は未だ敗残兵の居る気配あり
手を分ちて壕探しも初めたるも
目星しき物なく用残類と其他雑品を護しのみ
三十六軒の家ありと云ふ
陸軍病院の自然壕に行きしも髑髏入口にあり
気味悪しく其まま退散す
▲ 糸数に大きな壕を訪えば 迎えしものは髑髏なり

砲に変り果てたるうるま島」と詠んだ徳元さんが,初めて帰還すべき南部の現地を視察した(させられた)際の記録です。
 日本の焼跡どころではない荒廃が窺えます。
 この景色を実地に見て,帰還に怖気づくことなく,次のように記録を続けてるのにはうちなんちゅの不屈を思うばかりです。

◎朝晩の点呼に集まるPW一六〇〇余人の誰の顔を見ても元気一杯
胸元など肉が盛り上がってハチキレさうな充実さだ
▲ PWトルマン給与(きゅー)に肥えふとり ハチ切れそうに 元気一杯

10月末∶屋嘉→知念

帰還

【10月末∶屋嘉→百名】四十九人乗り知念市行きトラック

月の壕暮らしの初めから数えて七か月にして,徳元さんは「日常」に復帰していきます。

三十一日今日は愈々天下晴れての放免だ・・・
知念喜吉君の呼出し感謝に堪えん・・・
でも後に残る人々の心中を察すれば喜ぶ気にもなれん
▲ 一人去り 亦た二人去り三人去り
  淋しかるらん 残る我が友
 多数の友人に送られて愈々出発だ
さらば屋嘉の地よ,
残る友よ健在なれ元気で居れよ
▲ トラックの上より我はかへり見ぬ 淡き名残を止めて幕舎を

途の景色もこの人はしっかりと記述しています。
 景色から「再生」の匂いを感じています。現代ニッポン人にはとても信じられないですけど,おそらく本当にそうだったのでしょう,当時のうちなんちゅときたら。

◎四十九人の知念市行きを乗せたトラックは
まっしぐら中城湾を巡て
早や久手堅の坂を登っている。
▲ 喜びを乗せて走るよトラクター 山乗り越えよ 路を乗り切れ
 知念,具志堅,山里と
住家は,茅葺の小屋だが奇麗に清掃して
衛生状態もよく落付があって
安らかな生活をしてる様にある
畑にも田にも男女の作業人がいそしんでるし
道に行き通ふ人々の顔には聊かも(いささかも)不安の色は見えない・・・
志喜屋の市役所の如き堂々たる建物だ・・・
百名で知念仙吉老に迎えられた
屋嘉で聞いたのでは六月九日に喜屋武の壕で死んだ筈の
姉を見出し夢かとばかり喜んだ

喜屋の市役所の如き堂々たる建物」なる記述が,どこを指しているのかは分かりません。
 もしかすると,道を行き交う人々の不屈を,知念市役所の建物の堂々たる様にも劣らぬ,と表現したのかも──と考えたけれど……
「志喜屋区ニ於ケル建築施設ノ概要」と題する文章が知念市史に残っています。終戦直後の知念市の建築状況が怒りをこめた記述で綴られる中に,知念市役所建設が最優先された結果,住居整備が後回しにされた旨も語られます。
 この記録には,

八月十五日日本政府ノ停戦命令発令前ノ当区避難民ハ残存家屋ハ勿綸或ハ岩陰畜舎跡或ハ屋敷ノ片隅二所構ハズ各自思ヒ思ヒノ場所ニ一時凌ギノミスボラシキ小屋又ハ幕舎ヲタテ,住ヒトセリ(当時残存家屋数五二)発令後区民ハ国頭移動ノ不安一掃セラレ人心落付クト同時二半永久的ノ小屋ヲ建テ挟溢ヲ緩和スべクアセリ居タリ 当局モ現状見ル二不忍,九月一日甫(はじ)メテ区二建築課ヲ設ケ積極的二建設ヲナシ区民ノ希望ヲ満スべク出来得ル限リノ援助ヲナスコトトセリ 然ルニ建築資材トシテハー物モアル筈ナク雑木林ノ薪材ノ切リ出シヲ厳禁スルト同時二許可制ヲ執リテ之等ニ雑木ヲ与へ尚ホ,竹藁等ヲ供給シテ自カヲ以ッテ建築ヲ奨励セリ
然ルニ不幸ニシテ九月十六日秒速四〇米ノ台風二襲ハレ被害甚ダシク
(二) 全壊三一 人員ニー八
  半壊三四 人員二七八
  幕舎ノ倒壊セルモノ八戸 五〇人
実二惨憺タル光景ヲ呈セリ
(略)
当時住居状況ハ
幕舎五戸 三五〇人
岩陰三五戸 一七二人
仮小屋四三五戸 三二三五人
残存家屋五二戸 一八九九人
ナリ十月五日市役所建築始ルト共二資材一切市ノ管理スル事トナリ区ハ遂二資材難二陥リ加フルニ大エノ大半市庁舎建築ニカカリ残ルモノ僅カニ数名,為メニ建築遅々トシテ不進越エテ十月二十三日二至リ遂二建築中止命令発セラレ不得止一切ノ建築ヲ中止シテ今日二至ル

【11月∶百名】壕に怖えて居た時学校まで出来ていた

◎十一月一日
知念様(ママ)の御宅はテント張りで十七人の大家族
それに私が割込むのは実にお気毒ではあるが
寄辺なき一人者の悲しさ置いて貰ふことにした
知念市の中でも百名区は最も落付を見せているし
区役所あり警察署あり,病院あり,学校あり,
田島区長の下に区民が皆喜んで協力してる様がありありと見られる。
兵火にかかった草木も早や芽を吹いている・・・
人間も此の意気だ・・・
国亡びて山河ありだ
沖縄の再建設に否な沖縄の創生に粉骨すべしだ
之れが生き残った者の義務だ・・・
不幸にも戦死した人々への手向だ

元さんは元・玉城村長。政治的な獣臭を纏う人間であれば色々と動きたくなる状況で,けれど全く好好爺に徹している筆使いです。

◎米軍の後方居営は致れり尽せりだ
殊に米人の一人一人が実に道徳率の高い親切なのは市民誰もが認める所
日本は科学と物量と人(人格)で負けたのだ
我々は道徳率の高い世界人になることを目指して修善(ママ)せねばならん
道路のよくなった事,
水道の出来ること,
配給の豊かな事・・・
子供の玩具まであるではないか・・・
ほんとにほんとに亜米利加様々だ

本は人格で負けたのだ」は,感づいていても同時代人が口に出来ない一語です。
 アメリカ人は,その後の沖縄で劣情の発露を含め様々な悪逆を成しますけど,それも含め極めて率直な人々です。言葉と論理の澱に絡まってない。
 徳元さんは次の幸福な情景で「避難記」を綴じています。

◎十五日百名初等学校運動会の客席に在って
学校は七月十六日の創立だ
と云へば私共が具志頭の壕に怖えて居た時
此所では早や学校まで出来ていたのだ・・・
児童数七百余人教師は二十数人さすがに女先生が多い

 同じ知念市史には,この百名初等学校について次のような記録が併記されます。

百名初等学校
一,開校期日 一九四五年七月十六日
二,百名孤児院跡
(略)
四,開校当時ノ児童数 六二〇人
五,学級数 一一
六,特別施設 学校衛生係及理髪師ヲ置キ治療散髪ヲナス
七,開校当時ノ児童ノ体容
当時戦乱ノ余燼未ダ生々シク戦争ノ疲レ甚シク生気ナクヤセ衰ヘ特二皮膚病胃腸障害多カリキ。皮膚病患者ハ実二全校ノ三分ノ一約二百余名二上ル,衣服着替ヘナキ者男一三三人女一〇四人計二三七名モ居タルモ逐次配給ヲナシ十一月頃迄ニハ全部配給ヲ完了セリ
八,十二月末ノ現状(略)
b 児童数 男三四九名 女三九六名 計七四五名
c 学級数 一九学級
d 児童ノ体容
 元気溌剌トシテ戦前ノ体カヲ取戻シ皮膚病患者ハ僅カニ二十余名胃腸障害児ハ殆ンド皆無ノ状態ナリ〔後掲南城市/南城市の沖縄戦 資料編/第七章第三節〕

なる散髪でなく「治療散髪」というのはシラミなどの広義の皮膚病に加え伝染病の根絶施策でしょう。
 胃腸障害は分からないけれど,皮膚病者が1/3,着替を持たない者がそれ以上。それを年内に,つまり半年足らずで抑え込んでいるのです。
 各分野ともに,1945年後半の秩序回復に見せたうちなんちゅの底力の凄まじさには刮目するのです。

※ 沖縄戦時の環境悪化だけでなく,戦前,日本軍が沖縄戦に備え住民を八重山などの山岳地帯に避難させたことに起因する「戦争マラリア」があったことが,近年指摘されている(死者推計3500人)。戦後,米軍統治側はDDT屋内残留噴霧などを継続実施(406医学総合研究所のウィラー博士の指導による)し,1960年代まで時間をかけて八重山の土着マラリアを根絶したとされる。〔後掲大矢,国立国会図書館など〕

(参照)1945年7月16日以前∶百名孤児院の元・ひめゆり学徒

名初等学校の前身として上記記録に記される「百名孤児院」は,米軍が10〜13設置したとされる戦災孤児の収容施設です。百名のものはかなり大規模だったらしい,というより摩文仁方面からたどり着いた孤児の絶対数が多かったのでしょう。
 何とこの孤児院での当時の「マザー」役の中には,ひめゆり学徒隊の生存者が多かったという証言があります。〔後掲NHK戦争証言アーカイブス/THさん〕

戦前の証言者の学校での記念写真と思われる画像〔後掲NHK戦争証言アーカイブス/THさん〕

働くことになって、私はもう働かない、早く死ななければいけない、ってそれだけしか考えてなくてあれだったんですけどね。… (アメリカ兵が) 2才か3才ぐらいのまる裸の子どもを、私ら学生がいるところに置いて。もう14、5人ぐらいだったんですかね、… 本当に栄養失調で顔も膨れてるし、それからちょっとの物音でもがたがた震えてるし、もう口も開いて泣いてるはずなのに、もう声も出てない。かわいそうに、この子どもたちは、親が連れて歩いたらけがさせていけないと思って、穴の中に入れてあったのか、親がいなくなって子どもたちだけになって、かわいそうにって…

1960〜70年代の馬天港。ハーリー船に声援を送る住民たち。〔後掲南城市/広報なんじょう〕

【徳元附記∶屋嘉の数へ歌】生き恥晒ちょて暮すしん満四月

附記
◎屋嘉の数へ歌(金城守堅氏)
ーつ 人々間ち召しより 今度の沖縄作戦や
 日本の立場の定まゆる大戦争(イクサ)
二つ 二親振り捨てて我身の務果すんで
 勇み出たる防衛隊見上げたもん
三つ み国の為めともて竹槍かたみて戦かてん
 科学と物量に及ばらん敗け戦
四つ 世中打ちかわて米国(アメリカ)風の世となやい
 文明開化の花盛り面白もん
五つ 戦の勝負や世界歴史の物語い
 人々文化になびかさやい 行きやびらな
六つ 無様な此の戦 親兄弟妻子に別れやい
 あの世に先立つ戦友の数知らん
七つ なつかし籠の烏 屋嘉の月日を数へつつ
 生き恥晒ちょて暮すしん満四月
八つ 病と戦傷互に看護に思みはまて
 頑丈な身体になち行かな朗らかに
九つ 困難あたてからあれこれ物思さんごとに
 開放されゆる節待たな皆様と
十で とうとう皆様とお別れする日になやびたん
 沖縄達設手を取やい行ちゃびらや

USCAR広報局,撮影日:1961年 8月28日 備考:沖縄肢体不自由児協会はキャラウェイ高等弁務官の小児麻痺予防政策を讃え、感謝状を授与した。感謝状を授与しているのは同協会会長の大田政作氏。写真は後方左より、同協会副会長山田之朗氏、徳元八一氏、屋良朝苗氏、平安常実氏。〔後掲沖縄県公文書館/写真が語る沖縄〕

【引用者附記∶戦後初期会議録等】八一さんは何者だったか?

元八一さんの経歴について,現在得られる情報は少ない。まずこれを列挙します。
◯1885(明治18)年 玉城村生まれ
◯早稲田大学卒
◯県内で小学校の教員を務める。1925年
沖縄県教委幹事,この時,小禄尋常高等小学校訓導,係は社会教育主事。
◯沖縄県会議員や玉城村長などを歴任
◯1937(昭和12)年 保障責任繭販売購買利用組合・瑞泉杜(詳細∶→前掲注)の組合長に就任
〔後掲藤澤,及び南城市/南城市の沖縄戦 資料編/第七章第三節〕
 この経歴からも,「避難記」中の言動からも,地元の有力者,というより自然と先頭に立たされるリーダーシップの方だったようです。にも関わらず,戦後の足跡は朧になっています。後掲沖縄県公文書館の戦後初期会議録DBで「徳元」ワードでのヒットした,以下の三件を読んでみます。

❝1946.3.25❞各村長は軍政府から辞令を出す 玉城村長は?

念市史」に本田さんが記すところでは「避難民は各自の村が建設されて分散したため二十一年三月頃には知念市は自然解消した」(冒頭編集趣旨末尾)。次の議事録は,この村の建設時点のものと思われます。

諮詢会協議会〔自治制問題・行政機構・部長人事〕
三月二十五日(月)午前九時半。
  出席  志喜屋、又吉、山城、仲宗根、糸数、平田、大宜見、當山、比嘉、仲村、安谷屋の諸委員、護得久委員(中途より出席)。
  公用他出 前門、松岡、護得久委員(軍政本部へ)。
  病欠  知花委員。
協議事項
(略)
又吉委員
  各村長は地区隊長から任命されたが軍政府から辞令を出す事になって居るので其村の有志等と打合はせた。
  越来外各村長名を列挙す。
  首里市長はどうするか。軍政府は仲吉氏はいけないと云ってゐる。
  護得久委員と二人で打合せしませう。
  那覇市は當間重剛氏にしたらと思って居る。
  玉城村長は徳元氏だが如何するか。
 護得久委員
  安次富氏がよいと思ふ。
 安谷屋委員
  護得久委員の説に同意である。
〔後掲沖縄県公文書館/戦後初期会議録/沖縄諮詢会 1946(昭和21)年03月25日開催/諮詢会協議会〕

1946.3.25諮詢会協議会議事録上の徳元氏に関する記述

うもこの記述から敷衍する限り,1946年の徳元さんの玉城村長就任は流れたように思えます。
「議論」の性格が面白い。一つは,日帝時代はもちろんそれまでの基礎自治体首長任用の感覚で,新しい主・米軍の意向に最優先で配慮しているらしいこと。もう一つは,徳元さんの是非はともかく,その理由や適否を全く論じず(あるいは,実際には論じられていたとしても記録されず)ここに参集してる実力者の政治力による「人事」として決められている雰囲気です。
 ただし,この村長就任のお流れは,結果的により大役の候補に,あるいは政治ゲームの中に徳元さんを押し上げることになったらしい。

❝1946.4.22❞補充県会議員として

時の琉球政治界を後掲「俺が調子にのって……」は端的にこうまとめています。

軍政府は46年のはじめから5月ごろにかけて一連の行政機構整備の手を打った。まず元市町村の再任命と知事の選任、そして諮詢会(しじゅんかい)から沖縄民政府へ、さらにその諮問機関として沖縄民政議会の組織のため元県会議員の任命となった。民政議会をつくるため、軍政府はさし当って元県会議員を任命した。(略)補欠選挙で議員になった人たちは、以上のうち徳元、瀬長、久保田、奥間、湖城、幸地、東恩納の七氏である。(略)当時、軍任命で補充議員になった人たちは、いずれも諮詢委の実力者で、のちに副知事になった又吉(康和)総務部長の息のかかった連中であるというウワサがあった。(略)瀬長亀次郎君は、あとで又吉君とは激しく対立するようになったが、あの頃まではさかんに又吉氏のところに出入りし、信任もあつかった。〔後掲「俺が調子に乗って……」※原典 「当間重剛回想録」p91〜92〕

治ゲームには疎い感のある徳元さんが,どういう所以か当時の実力者と聞こえる又吉康和さんの推薦を受けて1946年の補充県会議員に名を連ねています。

※又吉康和 (またよし・こうわ)∶1887~1953(明治20~昭和28)年 ジャーナリスト。那覇市泊生まれ。早稲田大学卒。1939年「琉球新報」社長。戦後は沖縄諮詢会委員,沖縄民政府副知事。52年「琉球新報」再び社長。那覇市長を1期務める〔後掲琉球新報〕
又吉康和氏「川平朝申氏資料/写真保存箱191(封筒番号030)/沖縄民政府初代副知事。第14代那覇市長。」〔後掲那覇市歴史博物館〕

諮詢会協議会 〔補充県議・軍民協議〕
  四月二十二日(月)午前十一時。
  出席  志喜屋、松岡、山城、安谷屋、大宜見、護得久、前門、又吉、仲村の諸委員。
(略)
  本日は此の七名の推薦者を軍政府の命により諮詢会に諮詢された事。
協議事項
 志喜屋委員長
  七名の補充県会議員を申し上げると、
  島尻 徳元八一、座安盛徳。
(中頭・国頭略)
  那覇 東恩納寛仁。
  此の七名は適当なりや否や。
  ワッキンス少佐に提出したが重大の事であるから諮詢会にも諮る而し四人の県議部長、當銘及玉城両部長を除く様にと、此七人の中、不適当と認める委員が三人以上も居た場合は諮詢会で其の代りの人を決めてくれとの事であるが而し県会議員で推薦した人々であるから慎重な態度でやりませう。(略)
 志喜屋委員長
  九委員で不適当な人が居たら氏名を記入して下さい(無記名投票)。
  委員は各委員に紙を配布す。
  投票の結果。
   八点 座安盛徳(略)
  委員長、投票の結果を報告す。
 又吉委員
  島尻から瀬長亀次郎氏を推薦す。(略)
 志喜屋委員長
  島尻は瀬長亀次郎氏一人でよいか。
 全委員
  異議なし。(略)
 志喜屋委員長
  座安氏の代りに瀬長亀次郎氏。
  長田氏の代りに幸地新蔵氏。
  湖城氏の代りに比嘉宇太郎氏。
  に決定します。
 全委員
  異議なし。
〔後掲沖縄県公文書館/戦後初期会議録/沖縄諮詢会 1946(昭和21)年04月22日開催/諮詢会協議会〕

うも決着がよく分からないけれど──かなりギスギスした政治的な攻防があったような記録です。でもとにかく,結果的に徳元さんは戦後沖縄の巨人・瀬長亀次郎と同じルートで県議に返り咲いています。
 さらにこの後の政党活動では,沖縄人民党設立に際し,中央委員に就任しているようです。

沖縄建設懇談会の翌月1947年6月15日,沖縄本島で戦後初の政党である沖縄民主同盟が発足した。(略)その翌月7月20日には,戦前から労働運動・社会主義運動に参加していた人を中心にして沖縄人民党が結成された。沖縄議会議員からは,瀬長亀次郎が常任中央委員として,徳元八一が中央委員として加わった。〔後掲小林〕

林論文の筆致では沖縄人民党のナンバー2だったように受け取れます。
 ただし,この後の沖縄現代史にカメジローのように名前が出てはきません。何事かがあって,政界を離れたように受け取れます。

❝1947.11.15❞八重山養蚕所設置時の記録

元さんの名は,もう一回,議事録の中に登場しています。これがなぜか翌1947年の八重山議会会議録です。

一九四七年十一月十五日八重山議会会議録
諮問案第十五号
 復興工事施行の件
 戦災に依る公共建築物を左記の通り工事を施行せんとす。
    記 (略)
 養 蚕 所
       二八七、二二五円(略)
◎土木農林部長 今度軍政府より復興費として三、八七〇、二二五円来ています。其内訳は(略)、養蚕所二八七、二二五円(略)の額を受けて居ります。(略)
◎六番議員 養蚕所は瑞泉社の外に四ヶ所もやるのか。
◎十七番議員 瑞泉社の建物は民政府に譲り渡されたのか又各字の養蚕室の組合で処分されて居るがそれはどうなって居るか。
○土木農林部長 各所の処分をして居るが組合自体がやって居る共同乾繭場は組合員のもので民政府の物では今の所ない。それは調べて見ると組合員数が石垣市四四九人、大濱が四一〇人、竹富が九九七人である。
  (午前十時五分 休会)
  (午前十時三十八分 開会)
◯議長 先程の御意見でこれは存置したいと思ひます。八重山養蚕業の為に存置したいと思ふがそれに付き条件をつけてやって行きたい。
◎十六番議員 今の条件と云ふ事はどう云ふ事であるか。
○議長 これを解散させない様に、八重山に持って来させると云ふことである。
○田場参与 乾繭場の管理は現在私がやって居る。郡下の役員を招集して懇談したが当時の組合長である徳元八一が現在生存して居るとの事でそれに交渉して八重山に持ってこさせる様にすることに話合ってあります。
◎十六番議員 八重山養蚕の為に一部組合員のものでなく八重山のものにしてやって貰ひたい。〔後掲沖縄県公文書館/戦後初期会議録/沖縄諮詢会 1947(昭和22)年11月15日開催/八重山議会会議録〕

泉社」の社名とセットで,また養蚕振興絡みですから,同一人物であることはほぼ確実なのですけど……この後の八重山での活動などの痕跡は見つかりませんでした。
 1947年以降は産業振興に軸足を置いて活躍を続けられた,と良い解釈をしてもみたい気もするけれど──この人が激動の沖縄戦後史をどう生きていったのか,前掲の1961年写真の後方に映された画像(沖縄肢体不自由児協会役員として)を除き,足取りは途切れています。
 ただ,こうした傑物が何人も沖縄復興に取り組んだ果てに,現在の沖縄県がようやく生まれてきたということは確かなことなのです。

「南部/県会議員・玉城村長徳元八一氏、県会議員平田吉作氏、玉城重久より奥の島を望む」(一部)〔後掲那覇市歴史博物館〕※撮影時期は「戦前」となっているが,「縣会議員・玉城村長」だった時期がいつなのかは不明

「m19Im第二十八波m鍬始めいわれほのめく田に水馬m3-2【特記】あめりかゆの道(ニライF69)」への2件のフィードバック

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