007-3 Re.松川町の坂\佐世保withCOVID\長崎県

🌬  🌬  🌬  🌬  🌬佐世保 Re.
松川町の坂
~~~~~(m–)m
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

※複雑な部分は少し略
香蘭の皿(太麺)

皿喰って金子ホテルでまた惑う

蘭の皿を喰らいまして,レオに荷物を置きまして──。
 1150,ホテル前スタート。
 前回曲がった金子ホテルの坂を過ぎる。ここで裏道は下ってますので,つい高度を維持したくなって右折したくなるのが曲者なのです。今日は直進!
 1157,戸尾町の十字。ここです,右折とする。
▲1200戸尾町六丁目裏路地

手,西北側の路地に魅力を感じ入り込む。
 戸尾町公会堂の看板。路地のすぐ西北なんですけど,この施設の地盤へは1階分より少し低い段差があります。しかもそれが石垣積みになってる。

側溝と段差を追って真昼時

(上)戸尾町付近平面図 (下)同3D図・高さ二倍

201,北へ。
 家並みの裏を覗きこみつつ進みます。その裏手に段差がずっと見えており,北東方向へずっと続いてるようです。
▲1206二段石垣

尾中央通バス停,1203。
 この側の戸尾公園の西では,段差は2階建て分ほどの高さに成長してます。上は大きな建物(佐世保空襲資料館と貼り紙)になってる。段差は途中で二段積みになっているようです。何かの事情で積み増したのか,あるいは古い石垣なので工事技術上の都合があったのか。
▲1209「さだまつ」前の四叉路

容さだまつ前,1207。Y字と逆Y字が組合わさったような複雑な四叉路。
 側溝の伸びる正面の路地へ進もう。段差の方は,ここで北へ回り込んで東行して行ってます。
▲1211脇の私道の階段を見上ぐ。

どこをどう歩んだか知れぬ ただ坂道

い坂です。
 古い段差も露出してるし家並みもいい。
 この段差は,過去相当回数,水流が穿ったものでしょうか?長崎の坂よりさらに剣呑な印象です。
▲1213家の軒先に古い不規則な段差

上方に石塔?どういう地形だ?
──今,地図を開くとこの時の道の西側には,南から円通寺-妙行寺-仏光寺という寺院群がラインを作ります。ちょっとした聖地だったのでしょうか?
 1216。驚いたことに,四叉路で辿った側溝がまだ続いてる。というか脇道が出てこないまま登り続けてる。道自体はかなり曲がりくねってるんだけど。
 1219,掲示板のある十字に出た。左折。──この地点がどこなのか,今は分からなくなりましたけどここ辺りでしょうか?(→GM.:地点)
▲1220路地の分かれ道(十字)

れれ?すぐまた隣の南北道に出ただけでした。
 佐世保新四国第七番札所と書かれたお堂。南無大師遍照金剛とある。──これもネットでヒットしません。
 石積み有。周囲は煉瓦囲い。

もしかしてマリアと覚ゆ マスク取る

▲1226あの容赦ない坂

る。
 この坂には,上に覆いのない側溝が続いてます。きつい。
 ガラス風鈴の音。
 1227,マスク外す。ad峰坂町7。位置情報をオンにすると,やはり思ったより北東に進んでる。大新近くまで来てしまってます。……でも左脇道はなかったし,やむを得ない。
──前掲の地図を見ると,いくらでも枝道はありそうな気がしますけど……見逃したのか,実はもう私道になってたのか,その辺は分かりません。
▲1235平地になりました

231ふいに平地になった。やはり僅かに登り道だけど……。
 とにかく,左に道が現れたので迷わず左折。このまま行くと東へ突き進んでしまいますからね。
▲女性らしき神像

こに──あまり特徴はないけれど墓一基と石積みの祠。
 祭神は尼様で,もしかするとマリアを模してるかもしれません。

道に出た??1236。
 峰坂バス停──ということは……あらら,やはり大新の道らしい。左折,降下地点を探そう……って,これじゃあ前回と同じか??
 1242,「レジデンス峰坂空室あり」看板の駐車場脇から降下しました。

レジデンス峰坂からの下り坂

▲1245峰町の下り道

構荒れた半階段の道。廃屋もある。石垣も続く。
 道端にはぽっかり彼岸花。
 いいねえ。
 何か最近,この方面の坂を下るために登ってきてる感じです。
▲1245峰町の下り道-2

書いたけれど,住所は松川町9ともメモってます。
 住所区域の再編は激しいエリアらしい。松川町の名も明治末以後のものでした。

(近代)明治40年~現在の佐世保市の町名。もとは佐世保市小佐世保免の一部。烏帽子岳の丘陵先端部,光月川が入る谷あいの北側斜面に位置する。〔角川日本地名大辞典/松川町〕

※「免」という地名語尾については巻末参照
▲1248蒼の空,ぽっかりと星雲のような雲

▲1256まだまだ下るよ佐世保の坂道

▲1258石垣の赤紫の花

302,佐世保市消防団第13分団前に出た。
 それは……どこ??
 1306,ホテルビブロスの十字路から西へ……ってこれは前回と全く同じだな。
▲労組

全駐留軍労組,ロータスハウス,Genuine 純正

駐留軍労働組合長崎地区本部。

 敗戦直後の廃墟と混乱の中で、基地労働者は自らの生活を守るために労働組合を結成し、 爾来、70余年にわたって教科書のない困難かつ厳しい闘いに耐え抜き、今日の雇用制度や臨措法、賃金、労働条件を獲得してきました。
 その後、米軍に直接統治されていた沖縄にあって、過酷な差別と弾圧に抗して結成された「全軍労」と1978年に組織統一を果たし、新全駐労として基地労働者の雇用と生活、権利を守る砦として歴史を刻んできました。〔後掲全駐留軍労働組合〕

米海軍佐世保基地。佐世保湾だけを見ると沖縄本島並みに基地に喰われてます。
 沖縄闘争史の一方の雄,「全軍労」と合流した組織らしい。下記を見ると,少なくとも1978年の合流当時で組織人数ベースでは本土:沖縄=45千:22千。一応本部は東京にあるようですけど,全国組織の1/3を沖縄が占めるという,特異な状況と推定されます。

当時、戦闘部隊の引き上げ、岸首相・アイゼンハワー大統領の共同声明などにより、基地労働者は数年で14万人余りが人員整理を余儀なくされる結果となりました。
 こうしたことを背景に駐留軍労働者の生活向上と権利を守るため、1959年に「全駐労」は【日本駐留軍労働組合(日駐労)】、【関西駐留軍労働組合(関西駐労)】との組織合同を行い、沖縄を除く本土での駐留軍労働者の統一を完成することができました。
 (組織数15地区本部、45,000名)

米海軍佐世保基地のTwitterに掲げてある(よく分からん)マーク
 一方、米軍の直接統治下におかれた沖縄でも、基地従業員は劣悪な労働を強いられていましたが、1961年に【全沖縄軍労働組合連合会(全軍労連)】を結成、1963年には【全沖縄軍労働組合(全軍労)】に改称。1972年の本土復帰を迎えるまでの間、本土とは異なった法のもとで活動していました。
 (組織として22支部、22,000名)
 本土の「全駐労」と沖縄の「全軍労」は渡航制限など厳しい状況の中で、1964年に組織交流を開始することになりました。1968年には沖縄の即時無条件前面返還、基地労働者の労働条件改善など共通要求の獲得を目的として「駐労共闘会議」を発足させたのがこの時期です。
 両組織の共闘関係の積み重ねにより、1978年に「全駐労」と「全軍労」の組織合同を実現させ、基地労働における唯一の全国組織【全駐留軍労働組合】として結実しました。〔後掲全駐労のあゆみ〕


▲「です。でも です。」

おっと──危なかった。ロータスハウスの十字で右折するんでした。それから,その先すぐのY字を左折,と。ここはいつも迷う地点です。
 1321,松浦鉄道祇園町踏切を渡る。ここは印象的な地形なので記憶にあります。
 1326,今回もデザートショップGenuineが見えてきました。位置情報をようやくカット。

■レポ:古地名語尾「免」のこと

 
佐世保市小佐世保」という地名には最初,それこそ免,もとい,面喰らったのです。「免」という地名かと思いこんだんですけど,それは半分正しくて半分間違いでした。
 佐世保市作成の「佐世保市の歴史」によると,明治代までの市への統合過程で頻出してます。全貌は分からなくても,市への統合元は相当数が「……免」地名だったような書きぶりです。

明治19年 1886年
•第三海軍区佐世保鎮守府の設置が公布される
明治22年 1889年
•佐世保鎮守府が開庁する
(略)
明治35年 1902年
•佐世保村の横尾、山中、熊ヵ倉及び折橋字山ノ田を分割して佐世村を設置する
・市制を施行し佐世保市となる
(略)
明治37年 1904年
・日宇福石のうち15字を市に編入する
(略)
明治40年 1907年
・旧字名を改称し、新たな町名を実施する(55町8となる)〔後掲佐世保市/佐世保市の歴史【明治19年から平成14年:佐世保市制施行百周年資料】〕※朱書は引用者

免 郷 籠 里 触 名

 上記1902年記述に「折橋免字山ノ田」とあり,1907年に「55町8免」とある,ということは,「免」とは町と字との中間規模の地域ユニットだったことになります。固有名詞としての地名ではなく,国や県や市のように,地域名の末尾に付す接尾語的な普通名詞です。
 柳田國男も,肥前についての記述で次のように触れ,「郷」「籠」「里」「免」「触」を並列の概念と捉えてます。

肥前という国は妙に昔の呼び方の残った国で何々村何々郷という所もあればまた何村何籠という称もある。籠は何と読むか知らぬ。またあるいは大字何々字何々里もしくは何々村大字何何字何々(めん)というのもある。免は地租の関係から出た語である。免は今の語でいえば地租率である。各免ごとに納率を異にし得たのである。壱岐いきの島へ渡ると右の名、籠、免に当る区劃を触の字を書いてフレという。〔柳田國男「地名の研究」1936←後掲週末は古墳巡り〕

 してみると長崎六丁町以外の地域に「◯◯郷」の名があるのは,「白川郷」のような俗称なのかと思ってたけれど──古い正式地名だったようです。下記のようにまとめた記述も見え,この中には「名」という古地名語尾もありました。

 語源は不明ですが「大字○○」の大字に相当するものです。
旧平戸藩(壱岐を除く)が ~~免、
壱岐が ~~触、
旧大村藩と五島藩が ~~郷、
さらに旧佐賀藩領の諫早(旧北高来郡)が ~~名(みょう)、になります。
長崎県だけで、佐賀県にはありません。〔後掲Yahoo!知恵袋〕

長崎県域内でのみ起こった古地名語尾漢字のガラパゴス化

「郷」「籠」「里」「免」「触」「名」の6字の古地名語尾が確認できましたけど,この情報以外に,柳田國男が肥前についてのみこの事象を語っている点,前記Yahoo!の古地名語尾漢字と地域,さらに旧藩領と対照を成していること,さらに佐賀県にはないとしていることから,現・長崎県独自,しかもガラパゴス化していることが窺えます。
 上記6字を考える限り,日本語でも中国語でも,音でも語義でも共通性を見出せません。
 またYahoo!にある
旧佐賀藩領
→ 諫早(旧北高来郡)
 → ~~名
の対照と「佐賀県にはない」ことを,先のガラパゴス化状況(=形態分化が起こるほど古い)とも考え合わせると,肥前の海岸部のみに濃厚に,幕藩体制以前,年代としては少なくとも16Cより早い時期から存在していた独自地名形態と推定できそうです。
 ただし,肥前海岸部以外に皆無というわけではないのも面白い。後掲「週末は古墳巡り」サイトは,いずれも関東の次の4つを挙げています。
(神奈川県)
・川崎市 久地伊屋之免(くじいやのめ)古墳
・伊勢原市 埒免(らちめん)古墳
(埼玉県)
・深谷市 日本煉瓦製造の製造刻印:上敷免(じょうしきめん)
・西上免(にしじょうめん)遺跡
「免」の名詞化の事例は確かに若干思いつけます。宮本武蔵の元の姓・新免がそうですし,福岡県の室見川下流には「免」村がありました(現・七隈線賀茂付近→GM.(免氏神賀茂神社):地点)。
 ちなみに語尾でないものでは熊本県に免田川(→GM.:地点)があります。角川日本地名大辞典で「免」ワード検索した時,「免田」地名は秋田・石川にもあり,このうち能登の免田村(能登半島中央部,虫ケ峰東麓)のみが地名の由来を割と明瞭に伝えています。「中世の荘園制のもとにおける免田の所在にちなむ」という。
 以下では,「◯◯免」地名がこの免田に由来し,かつ先の六つの古地名語尾も同等の由来を有すと仮定した場合,何が想定できるかを試論的に考えてみます。

自律的な官物「免除」地:免田

 一般に「免田・寄人型荘園」と呼ばれるのは,律令体制が基本とした国直営の農地経営の破綻後,私有農地としての荘園に移行する前段階又は中間形態として、基本的には国直営なんだけど一部の貢納等義務を「免」除※された農地所有形態です。つまりこの一部免除の事実によって,潜在的私有たる差別化が進んだわけです。1069(延久元)年発の荘園整理令を端緒に増えていきます。
※正確には,例えば現行税制や徴収金での免除とは異なり,国の管理業務を代行する者が必要とする燃料等雑費について,国が別途支給する代わりに,一部の官物の徴収金を代行者が直接使用することにしたもの。

 雑役免の制度とは,国衙の承認のもとに実施された,元来は合法的給付体制である。当初,律令国家は国衙を通じて公田から徴収した雑役の一部を寺家に対する給付に充てていた。ところが,やがて国衙の手を経ないで特定の土地から寺家が雑役を直接徴収する形をとるようになった。この直接雑役免を収取するのに充てられた田地のことを,雑役を国衙に納めることを免じたという意味で雑役免田といい,そうした田地の集りを雑役免荘園という。〔後掲室伏〕

「元来は合法的」というのは,以後,国の許可を得る過程がどんどん粗略になり,時を経ずして一方的に「免除を宣言」する荘園が増えたと考えられているからです。これが純然たる私有荘園への移行形態になったと推定されています。
 後掲室伏論文は,1069年令の翌年に作成された「興福寺大和国雑役免坪付帳」の検討を主とします。免除の形態は様々ですけど,令翌年ということは,既にそうした実態を備えた土地所有が数多あった,という可能性が高い。

不輸免田の内訳〔後掲室伏〕

「免田」たることは,国の「代行者」の私有権を意味するわけですから,それを地名に付してラべリングすることは「代行者」の権威を示すのと同じです。
 また,免田制は研究史的にはまだ解明され始めたばかりの制度です。つまり全国的には,それほど過渡期的な形態で,何百年も続いた訳じゃ到底ない。ラベリングとしても,より大きな,現行の県レベルの私有が認められる時代には必要なくなったはずです。
 さらに──本節の冒頭で仮定したように「免」でない古地名語尾「郷」「籠」「里」「触」「名」についても「免田」由来として進めてますけど──同様の趣旨でのラベリングを,領家によって別字で表現してきたとしたならば,その目的は所有者の誇示です。例えば「A免」という地名は「松浦党所有地:A」を意味したでしょう。
 以上の前提に立ち,長崎県域に限り,そのラベルが現代でも多く残る,というのは,何を意味しているでしょう?
 記号論的に二つ考えられます。あるいはその混合かもしれませんけど──一つは,他の地方が「免」類似の古地名語尾を必要としなくなった,即ち広域地方権力が育った時代にも,長崎県域には小規模権力が乱立して小競り合いを繰り返した。つまり,古地名語尾が有効な政治環境が長期間存続した。
 もう一つは,古地名語尾で所有権を表示すべき政治環境が一定の頻度と期間継続した結果,それが慣習化した。つまり,異なる所有者の土地は異なる地名語尾を持つ,という付号方式が他地にないほどしっかりと定着した。
 長崎県域の古代・中世の政治史は,そのごく片鱗しか整理されてはいません。でもそのごく一部,例えば青方文書の記述や長崎甚左衛門の由来などを読む限り,前記の状況を彷彿とさせる海陸での小規模な陣地の獲り合いの時代が極めて長く継続したことを推測させる史料に事欠かないのも事実です。

内部リンク→m133m第十三波mm川内観音(急)/■レポ:松浦党の存在形態/松浦党の実像らしき事実史料/「宋船頭」と「高麗船のりとり」
▲青方文書「相具平戸[サ/ノ木魚]船頭後家間,以彼宋人子息十郎連」のくだり[松浦党関係史料集 第1の41(青方文書 関東裁許状案 抄