GM.(経路)
目録
馬頭観音の怖い海色
島平港の海岸から南約100mの海上にある島。東西250m・南北100m・面積1.3haで,溶結凝灰岩からなる小島。〔後掲角川日本地名大辞典/照島〕
何故,こんな細く荒い参道なんでしょう。まるで虎口のような入口です。
狛犬が見事にまがまがしい。ハッキリと,来る者を皆拒む造りです。
▲狛犬
けれど登りきったとこでばったり出逢った爺さん「今夜来ればいいんですよ。年越しはみんな集まるんですよ。夕方五時頃から,早いのは来るんですよ」とフレンドリーにご案内。
いや,不審者の確認だったのか?
▲馬頭観音
馬頭観音が座す参道正面突き当り。1107。
神体はモロに馬です。家畜の神様……ではないはずだけど三原の鶏さんの成仏も祈りまして,さてさらに海際の山道をたどりましょう。──と先へ進んだわけですけど,旅行者の第一印象というのは我ながら侮りがたい。この馬頭様こそ照島のヌシであったと思われるのです(巻末参照)。
▲馬頭観音の神体
てゆーか……これは道なのか?
微かに歩いた跡が分かるヤブ道を辿る。まあ小さい島だから迷っても知れてます。
いずれにせよ,神社という感じじゃないぞ?
▲北側の海への野道を歩く。
寛政2(1790)年に来島された島津第26代・斉宣がその風景を称賛。海岸の奇岩を驪竜巌(りりゆうがん)と名づけ侍医に大書させる,というエラくなければとんでもない落書きをしたらしい。
読めもしなけりゃ意味も不明な「驪」という漢字,「黒い」という字義という。
▲照島から海
黒き龍の岩場に着いた。
こりゃ確かに確かに。
怖い海色です。
まさに海賊の跋扈する海面という風情。
驪竜巌 猫は昼寝に忙しい
南端崎と案内板。それが正式名称……ってそれはそのまま過ぎるでしょ?
も一つ昭和13年建「日交事變記念 照島青年団建立」碑というのも。支那事変のことか?何でここで記念しとるんだろ?
かと思うと……
▲黒龍の岩場は猫の昼寝場
山道近くには一匹の猫さんが昼日中から熟睡中。
いや,一匹どころじゃないぞ?
▲二匹出現!
岩場の影には数匹がトグロを巻いてたり……てゆーか猫多過ぎね?
だー!お前ら,こんなところで大晦日に何やっとるんだ?
あ,それはワシか?
▲もう人に構いもしない猫さんたち
猫に雑念をとられずに見てみますと──この照島の岩場は西に小さな湾を成しているようにも見えます。
古・串木野潟の入口を監視する城塞が照島と見れば,そこに僅かに出入りできる船着がここだったのでしょうか?
▲驪竜巌の入江状の地形
うっかり凍えて元祖湯へ
我知らずのんびりしてしまった。
うっかりのんびりし過ぎた。気がつくと……寒い。十分風に吹きっさらしです。体温を奪われてる。
▲森の茂みに「片足バランス」
「片足バランス」???
寒いしやってみてもいいけど……神社の奥の,こんな茂みの中で片足で立ってる人がいたら……その方が怖いような……。
とにかく──寒い。帰ろう。
▲横手にあった本殿
1km足らず西行。
1229,元祖湯に入湯。番台不在。三百円を置いてそそくさと入湯。
▲元祖湯入口
三百円にて体細胞に暖気が戻ってきました。
戻って見渡すと……場所は長崎鼻北すぐの窪地でした。空は曇りを増してます。
長崎鼻の水神様
長崎鼻公園(→GM.)の奥まで行ってみた。
藪の中の園地。
何かがあった場所のような気がするけれど,とにかく今はこの……何かの動物を模したような遊具が不気味なほど淋しい場所でした。
▲長崎鼻公園入口の水神祠
入入口に鳥居と社あるも,どうも神域の体にはなっていないらしい。
入口の社脇には「水神」と記された石塔。掠れた文字の頭が「慶応」と読める。
晴れてるけれど天気雪
港沿いを北行。1254。
東に伸びる高台が元の海岸──いや潟の縁か。岡下造船鉄工からサイレン。振り向くとドック内に巨船がのっそり。
バス停・串木野港。東へ川筋,石積あり。これに沿い東行。
「御倉山散策コース」との表示が高台の山手を指す。川筋はこれを過ぎて湾曲してました。
▲「まぐろラーメン」
串木野駅前に案内板。
「つけあげ(さつまあげ)は,弘化3年(1864年頃),琉球から伝わった魚肉のすり身を澱粉と混ぜて油で揚げた『チキアーゲ』という食べ物がありましたが,これがなまって『つけあげ』になったと言われています。」
1435,鹿児島中央行き乗車。晴れてるんだけど天気雪が舞ってきました。
寒い。
騎射場,中村湯。コロナ対策でロッカーが一つ飛ばしで使用不可の❌表示。
見るからに薩摩隼人なおっさんがのそっと入室。掃除のおばちゃんに「空いたロッカーないからここ使うで」と一言。
返事も待たずに❌表示ロッカーに荷物を投げ込む。おばちゃん「……はぁ」と一言。
薩摩隼人じゃのう。
■レポ:照島に乱反射せし氷面鏡
※氷面鏡:ひもかがみ
照島と串木野に関する歴史トピックは,尽きない。目を見張るような事実も多い。なのに,どうにもとりとめなく,一つのイメージに総合して行きません。
それともう一つ,薄い期待としては媽祖がありました。──鹿児島でこれまで繰り返した豪快な空振りからして,あわよくば……ですけど,鹿児島県に所在が確認されている10体の媽祖像のうち,一つが「いちき串木野市(島平・照島神社旧蔵)」と書かれていました。〔後掲高橋「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」〕

ただこの時に見た由緒等の中では,媽祖の影すら全く見かけませんでした。どこに保存されているのかも分からない。──もしかすると,琉球侵攻の「戦勝記念」として略奪品を持ち帰って安置したとか,言いたくない事情があるのでしょうか?ならば当然画像もないし,見せてもくれないのはもちろん,地元で拝まれてもいない,ということかな?とこの時には,考えながら鹿児島に撤退したのです。
伝承:神は始めに蛭子=照島を作りき
日本神道の創生神話は,記憶では淡路島を最初に作ったはずでしたけど……照島関係の記述にこんなのがありました。
(照島は:引用者追記)日本書紀によると、イザナギノミコトとイザナミノミコトが、国造りの際に2番目に作った島といわれます。
ご祭神は、
大己貴命(オオナムチノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)
大山津見命(オオヤマツミノミコト)〔後掲鹿児島の歩き方〕
繰り返しですけど少彦名命は蛭子,エビス神と同一視される神格です。少彦名命が祭神というのは,そういう意味もあるらしい。
出典がはっきりしてるし,内容的に国生みパートにしか記述されないはずなので,原文を探してみました。
及至産時、先以淡路洲爲胞、意所不快、故名之曰淡路洲。廼生大日本日本、此云耶麻騰。下皆效此豐秋津洲。次生伊豫二名洲。次生筑紫洲。(略)
次生月神。一書云(略)其光彩亞日、可以配日而治。故、亦送之于天。次生蛭兒。雖已三歲、脚猶不立、故載之於天磐櫲樟船而順風放棄。次生素戔嗚尊。(略)〔後掲後掲日本書紀、全文検索〕
上が国生みの本文部分です。生む対照が国土と神に分かれており,国土を生み終わってから,神々を生んだ。後段で,「蛭子」がスサノオ(素戔嗚尊)より早い,つまり第一子であることをご記憶ください。
書紀はこれに続き,「一書曰」として10の外伝を掲げています。この最後の10番外伝に,淡路島の次に「蛭兒」を生んだとする記述があります。前掲「国造りの際に2番目に作った島」が照島である,と解される部分はここしか見つかりませんでした。
一書曰、陰神先唱曰「姸哉、可愛少男乎。」便握陽神之手、遂爲夫婦、生淡路洲、次蛭兒。〔後掲日本書紀、全文検索〕
外伝部では,本文で分けてある国土と神々の創生が混ざっています。照島「2番目」説は,10番外伝を,「蛭兒」≒蛭子≒「照島」と解し,照島が二番目に国生みされた,としているとしか思えません。
確かに,10番外伝の書き方だと語義はともかく「蛭兒」は淡路洲(淡路島)に並列されており,神や人でなく土地の名として解するのが自然です。
ただ蛭兒が土地名だとすれば,それは1番外伝に既に登場しています。「載葦船而流之」(葦船に載せて之を流した)とあるので土地と解しにくいのですけど,本文の「放棄」という語を思い出すなら,生んだけれども放棄せざるを得なかった,とも理解できます。
一書曰(略)遂爲夫婦、先生蛭兒、便載葦船而流之。次生淡洲、此亦不以充兒數。(略)然後、同宮共住而生兒、號大日本豐秋津洲。次淡路洲、次伊豫二名洲、次筑紫洲
(略)〔後掲日本書紀、全文検索〕
書紀外伝は,書紀制作者が典拠にした原典をそのまま伝えたものとすれば,原典では土地と神々の創生が混合していたと推測されます。──国生みは神話ですし,薩摩にはまさに串木野を初め知覧や市来など支配者の名そのものが地名に重なる例は多いことを念頭に入れると,国生み≒支配域領有が国土と神々の混在として描かれても,ロゴス的な読みにくさはともかく主観的には不思議ではないのです。
以上の書紀記述を前提とすると,古事記の同記事はさらに面白い。記では蛭子も淡路も「子」なのです。
雖然久美度爾興而生子、水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡島。是亦不入子之例。
※読み下し
然れどもくみどに興(おこ)して生める子は、水蛭子(ひるこ)。この子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(う)てき。次に淡島(あはしま)を生みき。こも亦、子の例(たぐひ)には入れざりき。〔後掲古事記の原文〕
これらに底通するものを読むなら──神道神は,最初に生んだ蛭子=照島(≒串木野海域の海民)を,最初だったにも関わらず放棄した。
どうも串木野という土地は,古代から特殊な地形的位置を占めていたようです。ではそれは,どのようなものだったのか?
地理:串木野クリークのあった場所
串木野海域を等深線で見ると,他の港湾に比べ,違いが歴然とします。
吹上浜の存在からも納得できますけど,遠浅です。近世以降の港湾には向いていません。
この遠浅の地形が,現在までに埋立てられた結果が現在の串木野です。時期が定かでないけれど,古来は市街大半が潟(クリーク)でだったらしい。
中世においては,現在の串木野市の地は,串木野村・荒川村・羽島浦などの名で現れるので,荒川・羽島を除く分であり,かつ現在の串木野市市街地の中心部は海浜の潟地であったと思われる〔角川日本地名大辞典/串木野(中世)〕
ではその潟の形は?というと,推測したものは見つかりません。でも現・等高線から読むだけでも,かなり複雑な地形が推定されます。
おそらくは,現・串木野駅付近から南西に伸びる微高地を挟み,南北に二つの潟があったはずです。その中で照島はと言えば,この境目微高地の南西端,いわば岬のような場所だったと思われます。
広域地形と地質:冠岳と鉱脈
少し見慣れず申し訳ないけれど,西から,甑島の南をかすめて吹上浜を目指す船は次のような地形を目にしたはずです。
甑島と吹上浜の弧は,大きな円を描くように延びています(根拠はないけど,直感的には巨大な火口に見える)。吹上浜は大部分が遠浅で船を着けにくいけれど,その中では北部の一帯のみがかろうじて船着に適す。またその方向には冠岳があり,航行の格好の目印になったでしょう。
それが串木野の照島付近に見えます。着いてみれば,そこには実際,潟があり,昔の船底の浅い船なら避風港として使えたでしょう。
「薩摩国甑島の沖に異国船200隻が出現」「うち1隻から襲撃を受け」たという「正安の蒙古襲来」〔wiki/元寇/瑠求侵攻と正安の蒙古襲来 ※原典:海津一郎『神風と悪党の世紀』講談社現代新書 1995年 19頁〕(現在のところ一部論者の異説。伝・1301(正安3・大徳5)年11月)がこの海域だったというのも,以上の観点からは自然なものとも思えるのです。
串木野付近の地形の生成は専門的過ぎて分かりかねるけれど,薩摩半島西岸では現代人の感覚する以上に特異な位置であるようです。地理だけで語るなら──薩摩半島の付け根に当たる部分,伊豆半島で例えれば箱根に相当する位置だからかも知れません。
以下の鹿児島大の記述は,この地学的特殊性と文化宗教・鉱業の関係を分野横断的に語っています。
いちき串木野市の東部には新第三紀の火山岩が連なり、冠岳一帯は、古く平安朝のころから山岳宗教の霊山として栄えました。山は険しく、冠岳の西側では見事な玄武岩の柱状節理を見ることができます。東岳の南麓に冠岳神社があり、神社奥の谷は仙人峡と呼ばれています。凝灰角礫岩や集塊岩からなる岩壁には熱帯性のシダ植物であるキクシノブなどの植物群が繁茂しています。休止している串木野鉱山の坑道は年間を通じて温度が安定しているために、芋焼酎の貯蔵庫「金山蔵」に生まれ変わりました。〔後掲鹿児島大学〕
かの地形的特異点での歴史の展開に話を移します。ただこれまたスポット的で,ひと繋がりの通史としては非常に捉えにくいのです。
歴史:先史・南北朝・江戸の断章
政治史を荒く述べるなら,中世初めの串木野氏から島津氏へ移行してます。薩摩串木野氏の氏族名は,地名から来ていると考えられます。でもこの地名の由来は,何と皆目見当がついてません。
串木野の宗社猪田神社の神を,奥州胆沢郡(いざわこおり)(岩手県)より招請のとき,五反田川に臥木(ふしき)が横たわり一行をはばんでいたが,翌朝目ざめると臥木は跡形もなく,一同「ふしぎのう」とつぶやいたことによるとも,葦の生い繁る湿地を指すアイヌ語によるともいう。〔角川日本地名大辞典/串木野〕
なんじゃそりゃあ!としか言いようがない。「串木」辺りまではともかく「野」相当音を類推しようがないらしい。なお末尾のアイヌ語説も,元のアイヌ語はどの記述にもなく信頼度は高くはないようです。
要するに,地名の意味すら分からない土地です。
紀元前:徐福の冠と紐
先の鹿児島大記述にも出たけれど,串木野山間部の冠岳方面は神仙の地と語られることがあります。
薩摩郡樋脇境に接する冠岳は,紀元前210年,秦始皇帝が方士徐福を東方蓬莱に遣わし,不老不死の薬を求めるよう命じたとき,徐福仙境にわけ入り,自らの冠を納めたところといい,紫の紐を納めたところが紫尾山(しびさん)であると伝えられている(紫尾神社縁起)。冠岳には用明天皇の勅願所として,蘇我馬子建立の興隆寺(のち頂峯院と改め,24代宗寿のとき天台宗から真言宗となる)があり,西岳・中岳・東岳に熊野三所権現を招請。冠岳神社はその東宮である。〔角川日本地名大辞典/串木野〕
徐福を日本神代と関連づけようとする試みは,様々になされているけれど今のところトンデモ説の類と評されています。ただ──徐福が秦からはるばる渡来した蓬莱が串木野だった事。それは,先の神道神が蛭子=照島を最初に生んだ,おそらくは初めて串木野海域の海民を味方につけた,という伝承を連想させます。
古代海民にとってこの海域が,極めて「流れ着くに易い」場所だった,ということではないでしょうか?
冠岳考:蘇我馬子と阿子丸仙人
冠岳の仙境視と関連してか,その後も山岳崇拝の痕跡は残っています。串木野の冠岳には冠嶽神社があり,これは前掲の如く蘇我馬子が用明天皇の勅願所として建てたとされ,由緒としては途方もなく突飛です。
冠嶽神社祭神は
冠嶽神社の開山は阿子丸仙人と伝わります。また,冠岳には西岳-中岳-東岳があり,いわゆる冠嶽神社は東岳で──
冠嶽神社。
当時は「東嶽熊野権現社」、「東宮」、「東嶽本社」と呼ばれていました。
正祭九月九日。〔後掲薩摩旧跡巡礼〕
※冠岳には八十八ヶ所歩きの遍路コースも有。鎮国寺発・全長60km,3泊4日コース。
──西岳にも「西岳神社」があるから深読みし過ぎかもしれませんけど,「東嶽」の二字は中国では道教の聖地・泰山の別名です。少なくとも語呂合わせの意識はあったように思えます。
なお,「冠岳」という地名は角川日本地名大辞典で引く限り六例あります。
【広島県】大竹市-佐伯郡佐伯町
【大分県】大野郡野津町大字垣河内
【宮崎県】東臼杵郡東郷町山陰の南東部
【鹿児島県】
①大島郡宇検村-瀬戸内町
②川内市-串木野市
うち宮崎県の冠岳山頂には,かつては羽坂神社(冠岳大権現)があったといい,明らかに山岳信仰の跡がある。ただ信仰の痕跡が最も濃厚に残るのは,串木野のようです。
またさらに,うち大分県の冠岳は鹿牟礼(かむれ)岳とも書かれることがあり,この「牟礼」は朝鮮語(「山」ムレ)を語源とするとの説があります〔谷有二「山の名前で読み解く日本史」青春出版社,2002年〕※ただし,個人的に見る限り,語源の「ムレ」を語学的に確認できていないし,二文字からの類推は相当数の標本がないと説得力が薄い。。
位置からすると,朝鮮語由来説は串木野冠岳が最も相応しいと思うのですけど……。
いずれにせよ,古代の伝承は大変刺戟的だけれど……残念ながら史料性を欠き低精度と言わざるを得ない。史料の残る時代に視点を移します。
南北朝:隼人相食む市来湊
串木野の史料初出は鎌倉初期の1220(承久2)年。現・串木野市街や港湾の記録ではなく,何と冠岳の寺への寄進記録です。人名としては串木野三郎忠道。
承久2年8月付の平忠道寄進状に「薩摩国薩万郡内串木野村領主平忠道謹辞・奉寄冠岳新別野霊山寺被暁持当居住之私地壱曲事」とあるのが初見(頂峯院文書/旧記雑録)。これは薩摩六郎忠直の第三子串木野三郎忠道が串木野領主であったことを物語るが,それ以前においては大前氏の支配するところであったようである。〔角川日本地名大辞典/串木野(中世)〕
ところがです。その前年・1219(承久元)年付けで,同じ冠岳頂峯院の本尊・阿弥陀如来像に,それが島津氏初代・島津忠久が41歳で安置したとの記載があります。
奉安置無量寿尊一躯。右奉為護持篤信大檀那忠久公、御子孫永保、国泰民安、怨敵退散、君臣和睦故也。仍旨趣如件。承久元年、巳卯、正月吉日〔三国名勝図会←後掲薩摩旧跡巡礼〕
※頂峯院の本尊の阿弥陀如来像の光背の記載文
※承久元年=1219年
島津忠久の出自は諸説が乱れてるけれど,源平争乱での功から1186(文治2)年に薩摩・大隅・日向三国の地頭職に任官。その本拠は史料(下記)から出水市(山門院,推定・木牟礼城:現・鹿児島県),後に都城市(嶋津御所,別名・堀之内御所:現・宮崎県)とされるけれど,鎌倉期の有力御家人の例に違わず鎌倉に住んだらしく,南九州で没した記録があるのは四代忠宗以降です。ここから,三代久経の元寇時の九州入り後に初めて在地化した,とするのが通説です。
先薩摩山門院に御下、夫より嶋津之御荘ニ御移、嶋津之(御)庄ハ庄内也、三ヶ国を庄内為懐依り在所也、去程庄内南郷内御住所城(堀)内ニ嶋津御所作有て御座候訖〔山田聖栄自記(鹿児島県史料集Ⅶ)←wiki/島津忠久 注釈6〕※島津国史(江戸後期成立)にも同内容 ※下線は引用者
それなのに,書類上の三国地頭任官の23年後の1219(承久元)年,地元の串木野氏と争うように冠岳に寄進したというのは──新規参入者の名乗りでしょうか,串木野氏か他の代官かが名目領主・島津の名を借りただけでしょうか,あるいは実質権力への名目権力の対抗でしょうか?
鎌倉期の南九州の気分をwikiは──「従来、南九州は谷山氏ら薩摩平氏や肝付氏など在庁官人が勢力をもっていた地であったが,鎌倉時代,島津氏や渋谷氏と言った東国武士団が進駐し,在地勢力との間に軋轢を生んでいた」と記す。
仮に地場の串木野氏に対抗し同地の霊界を先に味方にしようとしたならば──島津氏が串木野氏を同地から追うのに成功したのは実に130余年後。史料上に根拠づけられるのは,ようやく文和4年(≒1355:下記島津師久軍忠状)です。──客観的に捉えれば,鎌倉期の島津は点を抑えただけの進駐軍で,南北朝期の血みどろの戦闘を経てようやく領域を支配するに至った,ということでしょう。
南北朝期,串木野氏は串木野城に拠り,南薩平氏(知覧氏)と同盟,南朝方として北朝方島津氏の攻撃を再々受け,串木野氏は敗れて遂に南薩に走った。文和4年11月5日付の島津師久軍忠状に「老父道鑑所領薩摩国櫛木野城郭,宮方大将三条侍従并市来太郎左衛門,鮫島彦次郎,知覧四郎,左当彦次郎入道以下賊徒等,去九月二日当城寄来之間」とある(道鑑公御譜/同前)。これは串木野氏の敗走後,島津貞久が串木野城に入っていたところを,南朝軍が奪回しようと押し寄せたことをいっており,猿渡氏系図の信重,藤三郎に関する記事中にも「永和四年九月三日串木野にて宮方と合戦打死」とある(旧記雑録)。〔角川日本地名大辞典/串木野(中世)〕
1355(文和4)年の上記串木野争奪戦の12年前:1343(暦応4・興国2)年が,前章(→島津が室町期を生き抜いた城)で触れた島津氏の東福寺城(清水城前衛城)奪取。串木野争奪戦の58年後:1413(応永20)年ですら伊集院頼久が島津から清水城を一時的に奪取しています。島津氏による鹿児島の清水城築城はこの間の時代です。
現・鹿児島市域付近は,南北朝期に南朝方が谷山などの拠点を先に築き,島津が後にこれらを攻略・確保する形で島津領化しています。四兄弟以前の時代に加世田・伊作を拠点としたように,島津氏は鎌倉と室町の大半をかけて,薩摩半島西海岸から反島津(後には非伊作島津系)勢力を一城また一城と排斥していった。西海岸戦線は遅々として膠着することが多く,結果としてその後背地となる鹿児島港方面が比較的流動化して史書に記述が多い,という構造でしょう。
要するに,鎌倉・室町の薩摩の血腥い領土争奪戦は半島西海岸を主戦線としています。
総論的な問題は,なぜこれほど中世の諸勢力が西海岸に執着したのか,という点です。対外交易がその理由として考え易いのですけど,あるいはその交易資源としての鉱物の存在もあったかもしれません。
江戸〜:串木野金山に七千の鉱夫
串木野金山は,その知名度の低さの割に,途方もなく良質な鉱山だったことが知られつつあります。
300年以上の歴史を持つ[1]。算出した金の量は国内第4位の56トン[1]。狭義には西山坑(一坑)、芹ヶ野坑(二坑)を指すが[1]、広義には、芹ヶ野金山(せりがのきんざん)、荒川鉱山、羽島鉱山、芹場鉱山などの鉱山群を含めて扱い[1]、これらの鉱脈群は東西12km、南北4km の範囲に分布する[1]。1994年に操業を停止し、平行して『ゴールドパーク串木野』というテーマパークも設けられたがそれらも含めて2003年に施設閉鎖される。2005年より一部の坑道を利用して薩摩金山蔵となった。〔wiki/串木野鉱山〕
2023年現在,日本で唯一稼働している金鉱山は鹿児島県伊佐市の菱刈鉱山。専門的で十分理解してないけど,ここの鉱石は世界標準の十倍の金含有率だといいます。
現代の日本では金の採掘量はごく限られているのが現実ですが、ゼロというわけではありません。国内で唯一残っているのが、菱刈鉱山です。こちらは鹿児島県にある金山で、1985年から開発がスタートしています。
2013(平成25)年3月末までの金の産出量は、2102トン。また、鉱石1トンあたりに含まれる金の量が多いことでも注目されている金山です。
一般的な金鉱石1トンに含まれる金の量は、平均で3g~5gほどです。一方で、菱刈鉱山で採掘される鉱石には、なんと約40gもの金が含まれています。〔後掲なんぼや〕
下記は三井串木野鉱山の技術者の記録です。串木野の金山の金は,この菱刈鉱山と同等の品位だったと記しています。これらの情報だけからすると,世界最高品位ということになります。ただし,串木野鉱山は現段階では休業中,テーマパークになっています。
(昭和の初期当時の三井鉱山(株)の採掘場所は),私の推定では多分,この鉱山最大の串木野一号の中央富鉱部(幅60m の所)西山集落付近の地下を採掘したと思う.恐らくこの部分の品位は数十g/t以上であったと思う.現在,住友の菱刈金山の品位は世界最高と言われ,数十g/tであるが,ほぼこれに匹敵する品位での採掘が行われていたと私は推定している.〔後掲吉川〕
「金山」と呼ばれないのは,銀も産していたからのようです。
鉱脈生成はやはり,過去何度か世界気象を激変させたと疑われる南九州の火山活動によるものらしい。以下の記述は,もう何のことやら理解を絶してるけれど,400万年前ということは地学的にはごく最近です。
いちき串木野市街地北部に広がる山地は中新世後期から鮮新世前期に活動した北薩火山群に属する火山の名残であり、北薩安山岩類と呼ばれるプロピライト化作用を受けた輝石安山岩から成っている[1]、その中に浅熱水性含金銀石英-方解石脈が胚胎している[1]。400万年前に高温の地下水によってつくられた熱水鉱床であり、石英や方解石からなる鉱脈に金や銀がエレクトラムやテルル化金として含まれている。鉱石は主に「銀黒鉱」と「オシロイ鉱」が産出され[1]、金銀比は約1:10であった[1]。〔wiki/串木野鉱山〕※原典[1]は前掲同
さて,串木野鉱山の採掘は歴史に残る限り17Cのもの。ただし,幕府の中止命令や休鉱の経緯や背景はどうもよく分かりません。下記には調所広郷の財政改革の一貫としての採掘も書かれるけれど,何の支障で中止されたのか不明です。
芹ヶ野金山: 二坑と称した[1]。(略)薩摩藩内では1640年(寛永17年)に山ヶ野金山が発見され盛んに採掘されていたが、1643年(寛永20年)に江戸幕府から採掘中止の命令が下された。このため余剰となった鉱山技術者が1650年頃から当時有望視されていた串木野村芹ヶ野付近の探査にあたり、1652年(承応元年)に鉱脈が発見された。このうち特に有望な鉱脈は発見者の八木越後守正信にちなんで八木殿𨫤と呼ばれた。1655年(明暦元年)から開発が始められ、1660年(万治3年)には島津綱貴の指示によって本格的な採掘が始められた。一時期は7千人を超える鉱夫を集めるほどであったが、その後次第に衰え1682年(天和2年)に休山となった。
1698年(元禄11年)、江戸幕府が各藩に鉱山の開発を指示した。薩摩藩もこれに従い再開発に着手したが1717年(享保2年)に再び休山となった。1786年(天明6年)に出雲国出身の吉田喜三次が、1793年(寛政5年)に加治木の商人森山太助が、1827年(文政10年)には密貿易資金とする目的で調所広郷が、それぞれ再開発を試みたものの成功には至らなかった。
1864年(元治元年)、島津家が再開発に着手し、翌1865年には山ヶ野金山から約100名の鉱山技術者を派遣し指導にあたらせた。1871年(明治4年)頃から水車が利用されるようになり、生野銀山から水銀を用いる精錬法が導入され生産量が急増した。1886年(明治19年)4月には水搗混汞法が導入されている。1888年(明治21年)、採算の悪化に伴い島津家による直営から自稼山制度と呼ばれる独立採算制への転換が進められた。〔wiki/串木野鉱山〕※原典[1]は前掲同
下記文化庁サイトには,薩摩藩財政に寄与した旨がザクッと書かれてます。これも上記の調所広郷計画の中止と矛盾します。幕府隠密を生きて返さなかった島津領での話ですから……裏経済に流れたものもあるように勘繰れるし,そうなるとそもそも17C開業説も真実なのかは,個人的には疑問です。
串木野金山の収益は、藩財政の立て直しに大いに役立ち、後に明治維新を牽引する薩摩藩の大切な財源となりました。
現在でも金の一部採掘及び製錬は続いており、今までの採掘量は全国4位です。〔後掲日本遺産〕
確認できるところでは,串木野域に高い土木技術者がいたことが,当時の地元インフラに残されています。
「石管水道」は、かつて麓の地下1メートルのところに埋没されていたものです。設置年代は、幕末から明治初期とされており、鹿児島城下以外で石管水道が確認されるのは珍しいとのこと。水道の長さは約110メートルあり、良質の井戸から麓地区まで伸びています。石材加工には、串木野金山に関係する技術集団が関わったとされています。〔後掲濱田酒造/金山蔵〕
技術者の言が見つからないけれど,素人目にも途方もない技術……というかどうやったらこんなん造れるんじゃ?カンナとかで削ると石が砕けると思うけど……。
鉱山技術者と冠岳修験が同母集団という可能性も疑われます。ただこれも根拠を欠く。
鹿児島県埋文の鉱山跡発掘報告〔後掲県埋文〕を読むと,鉱山近くに山城が集まっているようにも読めます。でも報告書内にそのような言及は特にない。
鹿児島の鉱山史もまた,獏として繋がらないけれど,にも関わらず繋がらない点そのものは驚くべき事象なのです。
紀行:彦兵衛の西陸画帖の市来湊
「西陸画帖」という紀行図画があります。作者は高木善助(平野屋彦兵衛)。ここに市来湊が描かれています。
▲高木善助「西陸画帖」中,市来湊の絵図
大坂の豪商・高木善助は、江戸時代後期に薩摩を何度も訪れ、紀行文『薩陽往返記事』とスケッチ集『西陸画帖』を著した。この『西睡画帖』には、当時の市来湊の様子が鳥轍図でみごとに描かれている。右上に「吹上スナハマ」、その下に「市来湊」の文字があり、湾に停泊する船や集落が見える。左端の山は「カムリ嶽(冠岳)」。(続)
〔1855(安政2)年。所蔵=鹿児島県立図書館〕
※ 後掲濵田酒造「先人の故知に学ぶ─焼酎五〇〇年の歴史と,薩摩の文化─」
──という由来を「へえ〜」と頷ける方は,どう時代の薩摩の強かさを知らず,幸せです。江戸後期の薩摩は,余所者が物見遊山できる場所ではないはずで,そこに何度も往復したのは島津にとって余程内側の人間だったはずです。
(続)高木善助は、家老・調所広郷(ずしょ・ひろさと)による藩政改革に協力して資金調達しており、藩の賓客として厚遇されたという。〔同上〕
調所広郷は天才型というより,総合プロデューサー的な人材です。何を見返りにしたものか,既に抱えてきた薩摩の「冒険的」御用商人群(実働部隊)に加え,高木善助や後掲の出雲屋孫兵衛などをいわばコンサルタントとして採用し,機動的シンクタンクのようなネットワークを始動させていたようです。
西陸画帖の図画は,高木にとってはおそらくごく個人的な趣味か小遣い稼ぎだったでしょうけど,図らずも調所頭脳集団の存在証明でもあります。
※※(調所広郷は幕政改革に)「経済学者佐藤信淵の意見を聞き,また出雲屋孫兵衛ら経済専門家を配下に集めて着手した。」〔世界大百科事典/調所広郷←コトバンク/出雲屋孫兵衛〕
だから,ということだと想像されますけど──高木善助はほとんど江戸時代史の表には浮かび上がりません。以下に,大阪府立中之島図書館の職員さんの力仕事(2014年)を敬意をこめて転載させて頂きます。どうもこの辺りが現存の全史料だと思われ……何か新しい史料発見でもない限り彼ら「薩摩のブローカー」たちの実相は浮かび上がらないてしょう。
民俗:照島秘伝の韋駄天走は鞍馬楊心流
串木野には何と競馬が開催されてます。
「浜競馬」と呼ぶらしい。北海道の「ばんえい競馬」に似て,レースというより「迷走」ぶりが楽しいイベントらしい。
串木野浜競馬は昭和33年に、荷馬車組合の花見の余興として馬を走らせたのが始まりとされ、本年で50回目を迎えます。始まった当初は、旧串木野市内だけでも80頭近い馬がいたそうですが、トラックや農耕機械の普及により、どんどんと頭数は減っていきました。〔後掲α波〕
純粋には戦後の行事らしいのですけど,伝えられる由緒としては,明治期の照島での馬頭観音──本文で正面の祠として記したものらしい──の詣でに関連するとするものがあります。ただ,下記を読んでも,なぜ馬を叩いていたのか,ちょっと想像し辛い。
明治の末頃、3月、照島では「馬叩き」という行事が行われていました。照島海岸にある馬頭観音詣りの馬を元気にするための行事で、ふんどし一つの浜の青年たちが長い竹竿で、馬頭観音から下りてくる馬を叩こうとします。すると、馬主は長い手綱をゆるめて馬を激しく走らせます。馬を追う青年は自分たちが危険になると思うと海の中へ逃げ、その間に馬は帰ります。そのようすをみて観衆は喜んだそうです。浜競馬の始まりは、それがもとになっていると考えられます。〔後掲いちき串木野市教委〕
これとは別に,照島地域の人は「韋駄天走」だ,という伝承があるようです。下記によるとそれは「忍術のようなもの」と見なされていたというのです。
第二次世界大戦の前、照島小学校は、市来の第二師範学校で行われた川内、日置地区の小学校対抗リレーで群をぬいて速かったそうです。ライバルは串木野小学校や川内小学校でした。生徒の数が非常に多い大規模校です。しかし、照島小学校が、運動場のコースを一周も二周も引きはなしてゴールするのが常でした。照島地区の高齢者達は、韋駄天のように早かった人を実際に名前をあげて教えてくれます。そして誰いうとなく、照島地区には韋駄天走という忍術のようなものがひそかに伝えられているのだといわれるようになりました。〔後掲いちき串木野市教委〕
韋駄天走を体現する物語上の人物として,植村伝左衛門・通称「デンゼ」さんというのが伝えられているという。
武家の従者とされる。また,その仕草は典型的な薩摩のボッケモンで,超絶技を披露しつつのほほんとして掴み所がない。そのイメージをお伝えしたく,長文ですけど以下に引用します。
昔、伊作田に、植村伝左衛門という男がいて、いつもはデンゼと呼ばれていました。日置どん(日置殿 当時、伊作田をおさめていた位くらいの高い武士)の乗馬の口を引く世話をする別当(ここでは、うまやの責任者で馬の口取りをする者)であったといいます。主人が、どんなに馬を早く走らせても、顔色一つ変えないでついてきました。とつぜん、勢いよくかけだしても、主人がひょいと後ろを振り向くと、そこには、必ずデンゼが、何くわぬ顔をして立っていました。
以前、デンゼは3年ぐらい、伊作田の里をはなれていましたが、ある日ひょっこり帰ってきました。父親が、デンゼがだまっていなくなったことをとがめると、デンゼは、食事をのせたお膳を持ったまま、スーと姿を消しました。どこへ行ったのだろうと、ふと天井を見上げると、デンゼは天井のハリ(略)に腰かけていました。鞍馬楊心流の画像としてネット上にあったもの〔出典不詳〕。もう何をやってるのか分からない。
デンゼが韋駄天走りと忍術にすぐれていることを耳にした鹿児島市郡山のニセたちが入門をお願いに、押しかけるようにしてやってきました。デンゼの家に住みこんだニセたちは、何とかデンゼを打ち負かす機会を待っていました。
ある日デンゼが五右衛門風呂に入っていました。ニセたちは、「今だ」とそのときを逃さないで、すぐに風呂のふたをデンゼにかぶせました。ニセたちは、「勝ったぞう」とさけび、喜んでふたを開けました。すると中には誰もいません。ひょいと横を向くと、デンゼが縁側で何くわぬ顔をして背中をかいていました。
デンゼの武勇談は鹿児島城下にも伝わりました。城下に誰も手に負えない盗賊がいました。「市来のデンゼをつれてこい」ということになり、デンゼが呼ばれました。盗賊は、小さな掘立小屋で、ユルイ(囲炉裏)をはさんで座り、世間話をしました。目の前の「ジゼカッ(自じ在ざい鉤かぎ)」にかかっているヤカンのお湯が、シャンシャンと音を立ててわいていました。またたく間に、目にもとまらぬ早業で、デンゼはヤカン(薬缶)をけ飛ばしました。一瞬ひるんだ盗賊をまんまと捕らえてしまいました。まさしく鞍馬楊心流、座捕の術であったということです。
デンゼの古武術は郡山方面に伝わって定着しました。郡山は今でも、柔道や空手道が盛んです。〔後掲いちき串木野市教委〕
「鞍馬楊心流」という名前が出ました。
我々部外者にはほとんど伝奇的な「妖術」に近いものとしか思えませんけど──
鞍馬楊心流
さて、鞍馬楊心流の古武術は、薩摩川内市甑島里の塩田家に伝えられています。その源流は、塩田家の三代、塩田甚太夫に始まります。
楊心流の意味は、楊の枝のようにやわらくて、強い流派ということです。外柔内剛(略)の強さを意味するといい、現代柔道のもとになったとされます。刀術、棒術、柔術、捕縄術、忍術、兵術など武芸百般にわたります。遠くから船を止める術、走っている馬を止める術、遠くにいる敵を殺める術などあります。
塩田家には、江戸時代から入門者が押しかけました。入門者は甑島からはもちろん、川内、高江、久見崎、出水、天草、長島、鹿児島、大島方面からが多かったようです。市来、串木野、東市来からはもちろんです。一時は、その数、4〇〇〇名をこえたといいます。
照島の韋駄天走りもデンゼの忍術も鞍馬楊心流の流れをくんでいると、当たり前のように説いて聞かせる高齢者もいます。〔後掲いちき串木野市教委〕
──「明治初期に警視庁流剣道を組織する時,鞍馬楊心流剣術を受入れた」,また「嘉納治五郎が楊心流を柔道に取り入れた」という話になると,真面目な武芸として薩摩人には捉えられているらしい。少なくとも「戦後,鹿児島県警察の逮捕術に鞍馬楊心流の技法が一部採り入れられた。」というのは伝達者の実名も伝わて,wiki(/鞍馬楊心流)にも記述されていてかなりもっともらしい事実のようなのです。
もう一つ,少し場所が離れるけれど,東市来町に伊作田踊りというお祭りに触れておきます。
江戸時代に始まったと伝えられていて、伊作田兵部道材公の慰霊、農家の五穀豊穣と漁師の大漁祈願、更に集落の親和のために、3年毎に踊り継がれています。道材公は伊作田を領有した南北朝時代の武将で、北朝方に破れ非業の死を遂げたとされています。
庄屋どんと称する指揮者2人、鉦5人、小太鼓2人、大太鼓12人、なぎなた15人、鉄砲25人くらいで構成されています。
初めは勇壮、華麗で、終わりになると一種の哀調が流れ、歌と鉦と小太鼓、大太鼓が優雅に調和して集団美を形成します。踊りは、鉦や太鼓を打ちながら、足を横にやったり後退したりする単調な動作の連続です。これは、道材公の供養のための念仏踊りと考えられています。
鉦5人のうち3人は男装、2人は女装で木口笠着用、小太鼓2人は女装で花笠を被ります。なぎなた15人は少年で浴衣を着用し、大太鼓12人は白の上下服に黒タビです。
歌は、哀別離苦の至情がこもり、哀調切々たるものがあります。その動作は、拝礼するしぐさを繰り返し、道材の出陣、敵の計略、敗走の様子、農作業の有様などを取り入れています。
昭和60年7月19日旧東市来町指定、平成17年5月1日日置市誕生により、市指定無形民俗文化財となりました。〔後掲花浄土鹿児島〕
どうもこれは……ワシには
ピストルの音に併せて太鼓打ちが一人倒れこむのも特徴的です。最初はびっくりします。戦いの様子を表しているのでしょうか。市来七夕踊りで猟師が鉄砲を撃つのと似ています。〔後掲花浄土鹿児島〕
薩摩醜二才(ぶにせ)ここにあり,という風情ですけどここは社会集団として見ましょう。別稿で尾道吉和の「弓懸猟」に触れましたけど,これらは地域に根ざした私兵団が存在したことを伝える民俗でもあります。

彼らは,もちろん乱世での地域防衛の要から創られたでしょうし,政治的には水兵その他の動員時に忠義を尽くす集団で,そのための鍛錬と称したでしょう。ただ近隣との諍いがあれば地域間闘争の実力に転じたでしょうし,窮すれば時に海賊にも変貌したでしょう。
照島地域に残存する「武」の気風は,そうした時代が一定の長さで続いたことを物語るように思えるのです。
宗教:センソウマ 媽祖様とホゼの御対面
本文で案内板に見たように,照島の最大の行事として春の大祭があります。祭は戦勝馬(センソウマ)と呼ばれる。
開催日は四月九日。これは一般に,島津義弘公の朝鮮出兵(1598)における戦勝祈念日とされます。けれど,突飛な類推をしてみると──2021年の「大甲媽祖遶境行程」の出発日らしい。
大甲媽祖は台中郊外の大甲鎮瀾宮の大巡行イベントです。農暦3月23日,媽祖の伝・生誕日を祝す由来です。
念のためですけど,照島の祭事の説明記述中には媽祖の名前は一切出てきません。
時系列としては,次に「六月灯」という祭事が行われます。
照島の六月灯は、照島神社前のなぎさ公園を中心に出店がならび、橋から神社まで灯籠、神社前には書や絵が大きな貼り板に飾られています。舞台では催しものが披露されます。〔後掲いちき串木野市教委〕
6月というのはよく分かりません。
もう一つ後に,旧暦9月9日の「ホゼ祭り」というものがある。9月9日はもうモロに媽祖昇天日です。
・坊地・八坂神社「ほぜどん」(伝・法生会の意味合い)
・悪石島「ボゼ祭り」(伝・ボゼという来訪神が悪霊や穢れを払う)
なお,最も有名で重要無形民俗文化財に指定されている悪石島のボゼは,島の聖地・テラを発してボゼマラ(男根を象徴)を手に子どもを追い回すもの〔wiki/ボゼ〕で形態的にはナマハゲに似る。
「ホゼ」の音が「菩薩」(≒鹿児島での媽祖呼称「ボサ」)に似ている点は,先述の悪石島の「ボゼ」の男性色を合わせ考えても,媽祖信仰との関連を確定させる決定打にはならないと思います。ボゼ信仰は,かつてはトカラ列島各地にあった,という民俗学の推定もあるようです〔wiki/ボゼ〕。
ただ──照島・ホゼの進行について,次のような記述を見つけることができました。
(ア)由来 由来は、はっきりしませんが、毎年旧暦9月9日に行われます。このお祭りは秋の大祭のホゼ祭り(豊祭 豊作を感謝する祭
り)です。(略)
(イ)浜下りの人々 午前9時に神事が行われ、天から神様をお迎えし、御輿(御神体をのせる乗り物)に移します。
そして、神社を出発します。
照島地区の石川山から酔之尾、照島小学校、尾の上を通って須賀から神社まで、集落をひと回りします。
先頭に、天狗が行きます。(略)
途中、照島神社の宮司をしていた内宮家の内神がある所 で休憩します。内宮家の内神には、中国の航海安全の女神である媽祖神 が祀られています。中国の貿易船が、嵐で島平海岸に難破したとき、その中に媽祖神があり、それを内宮家で内神として祀ったそうです。島平の漁船の安全を祈ったのです。ここでは、つけあげやジュースが配られ、子どもたちが元気づけられます。むかしは、甘酒をふるまっていましたが、各家庭でも、豊作に感謝するホゼ(豊祭)祭りには甘酒を作っていたものでした。〔後掲いちき串木野市教委〕※傍点は引用者
……こうして,ようやくのこと,この照島行きは,媽祖にたどり着くことができました。
「ある所」とは,書き方からして秘所なのでしょう。仮定するとすれば──照島に古代からあった勇壮な海民集団が,どこかの時代に媽祖祭を執り行っていたけれども,他地のボゼ等の影響も受けて土着化した祭礼──ということなのかもしれません。
けれども繰り返しの弱音になりますけど……照島の歴史・地理・民俗事象はあまりにもとりとめがなく,この位の,いわば乱視的な焦点しか結んではくれないのです。