目録
宝満つ社の奥の観音堂
宝満寺へ。
入口の案内板に掲げる三国名勝図会では,最奥,普通は奥院を置く場所に弁天のお堂がある。それは確かに珍しい。
奈良時代に建立された宝満寺跡は、県指定文化財となっており、現在では観音堂が再建されています。〔後掲かごしまの旅/宝満寺跡〕
現在の宝満寺とは厳密には,この観音堂だけを再建したもののようです。つまりかつての寺院建築は下記の崖地前,駐車場の位置に広がっていたものらしい。
権現橋の南辺りに「権現島」というのがある?単に河口原が造った岬かと思ったけど,元は島なのか?
しかし……とりあえずこの寺の巨木は,一体どうなっているのか?
古樹と崖の洞より匂う馨香
そひゃあ,ヤマトの神社だって神木として守られた古樹は多いけれど……この鬱蒼とした感じは沖縄の御嶽を思わせます。単に気候ゆえではなく,宗教的感性の違いを感じます。
鳥居の洞窟が沢山?寺じゃないのか?
調べてみたけど誰も指摘してない。
でも形状から素人目に見て,これは沖縄本島・北山運天の大北墓その他の海岸墓を連想させます。──北山系の海民の墓制が,前章巻末に見たような琉球との関係性の濃密な志布志に古くはあったとする可能性はなくはありません。
宝満寺を撤退して東へ前川を渡る。
1438,志布志小学校前T字路。これを右手へ。ここから宝満寺案内板で見た権現島を目指してみることにします。
若宮神社。1440。
小さいけれど気持ちがいい。
「若」宮というのは普通は「本宮」に対する新しい宮なんだけど,ここには本宮に相当する宮は見当たりません。
若宮と権現島水際陣地

由緒にいわく──
和銅年間(七〇八年)の創建と伝えられ慶安三年(一六五〇年)地頭島津久茂により(略)再建されたもので祭神は持統天皇であります。〔案内板〕
8C初?ヤマトが大隅隼人征服戦を始めたばかりの時代です。以来,志布志の町の鎮守としてここに在り続けたらしい。
創建は和銅年間と伝えられ、若宮大明神と称した。大同二年山宮神社と合祀されて山口六社大明神の一つとなり、麓町の鎮守とし崇敬され、無病息災、家内安全を願う参拝者が多かった。〔後掲鹿児島県神社庁〕
かつ,何とこの神社は志布志で最古の建築なんだろうです。
現在の神殿は元禄十二年に再建されたもので、志布志最古の建造物である。明治三十八年の暴風により拝殿が倒壊したため、同四十年氏子崇敬者により再建された。戦後建物の破損甚だしく、昭和四十六年地域住民の浄財により修復され現在に至る。〔後掲鹿児島県神社庁〕
1699(元禄12)年築です。ただ台風で倒壊,WW2後にも「破損」してます。
ここまで見た古い歴史に比して,志布志の最古の建築が江戸中期のものでしかないというのは,若宮の例からすると──自然災害の多発性ゆえと考えるのが妥当のようです──けど,それだけなのかどうか自信が持てません。
小学校前を素通りして歩く。1453。
岸に不思議な「祠」を見つける。祀った後もあるしパーツは古いのに構造は無茶苦茶,もちろん字句もない。
でもまあ,そういうのが本当の神様であるわけでしょうけど。
北崎水産加工の向こうから線路をくぐる。1510。
権現島に接近する。
木標「志布志文化財愛護会 権現島水際陣地跡入口」。──志布志の港の南端に位置するため,終戦直前頃に連合軍上陸に備え,迎撃用のトラップとしてここに地下壕が造られたという。地下壕の一部と2ヶ 所の銃眼が残存するという〔後掲かごしまの旅/権現島水際陣地跡〕。
岸から道があり……行ける。上ろう。
今日も蛭子神社へ行き着いてしまった
最初の曲がりに窪み。一円玉多数。……これが地下壕入口だったのでしょうか?
1518。数回折れた辺りで破壊跡の凄い祠2基。
廃仏毀釈のそのままなんだろうか。──あるいはこれが「銃眼」なのだとすれば,罰当たりな防衛施設を施工したものです。
但し,案内板が全く語らない,明らかに現代の防衛施設ではない信仰の痕跡も残るようです。
形状からは,しかし何であったのかは定かではありません。
どんどん道は藪に伸びてます。
沖縄で慣れてなければ帰ってたと思いますけど──とにかくまだ何かがありそうです。
登る。
頂上。1522。
ひいひい。
やはり蛭子神社と書いてある。志布志で初めての明記された水神です。
藪の島へと還りゆく権現島
でも供えはない。神体もない。中の木材部分はかしいで崩れかけてる。
いや?まだ上に続くぞ?でもこれは……
宗教施設ではない。おそらくは……気象台か何かの観測機器の電柱らしい。
ううん。ではここは一体,本土決戦施設以前には何だったのでしょう?
位置的には津口番所から前川越しに西側対面です。
日本陸軍が構想したように,前川への侵入者を迎え撃つならこの島だろうし,侵入の無きを祈念する呪術的結界を張るにもこの島でしょう。
でも現実の権現島は藪の島に還りつつある。……本当に放置されてるなら階段があれほど登り易くはなかったでしょうから,最低限の手入れをしている人がいるはずなんてすけど……。
帰路につきつつ,今朝入った国分温泉に電話してみる。正月ながら「今日から普通通りやってます」……というのは実際に行って確認してるけど,明日も営業するし,ただ2120閉店とのご回答。
志布志の安楽温泉は明日は朝9時開店でした。うーむ,やむを得ぬ。本日は一日二湯を諦めて,温泉生活的には明日に期待しましょう。
ただ……志布志の市内バスの時刻表を見てみると──
志布志→(南)鹿谷・垂水港 (3便略)0835 0925 1013 1155 1243(以下6便略)
志布志→(北)志布志港入口 0808 0828 0908 1125 1230 1355(以下7便略)
うーむ,あまり良い時間がないようです。どうしましょう?
■レポ:枇榔島の王女様
どのくらい人口に膾炙したものか分かりませんけど,枇榔島を舞台にした次のような昔話があると言います。
大昔のことでした。天智天皇が乙姫という皇女をつれて、志布志をおとずれました。
この乙姫は、男のように気の荒い活発な方で、何でも思い切った事をしました。荒れた野を立派な田に作りかえるような良い事もしましたが、小島を海の中に沈めたり、村の真中に必要ではない池を掘ったり、また、大事な池をうずめたり、それはそれは、村人を困らせるような悪い事もしました。それで村の人々は、大変困ってしまいました。
これを知った天皇はとても怒りました。そして乙姫をひとり小船に乗せて、
「人々に迷惑をかけないように、一人海で暮らしなさい。」
と有明湾(志布志湾)の中に追放しました。〔後掲大隅の昔話〕
お姫様がなぜそんなに迷惑なことが出来たのか,なぜ志布志に流されるのか,初っ端から割とロゴス的にはブッ飛んでるストーリーですけど,その点はもっと加速していきます。
月の美しい夜でした。波が金や銀にかがやき、なんともいえない良いながめでした。しかし、島一つ見えない広い海の中に放り出された乙姫は、たちまち、陸が恋しくなり、どうにかして陸に上がる方法はないかと考えました。
そうしているうちに思いついたのが、この有明湾の真中に島を作る事でした。そこで早速、その夜のうちに島を作りました。その島が枇榔島です。
朝になって、村の人々は驚きました。昨日まではなかった海の真中に、周囲が10キロメートル近くもある大きな島ができていたのですから。
「あれは乙姫様が作られた島に違いない。乙姫様の事だから、何かしでかすに違いない。」
と村人たちは、噂しあいました。
この枇榔島から志布志までは、わずか40キロメートル足らずの距離です。島からは村の火も見え、乙姫は、そんなに寂しくはありませんでした。しかし、いつまでもこの島に一人でいるのはたまらないと思うようになりました。〔後掲大隅の昔話〕
いくら迷惑とは言え,陸から離れた海中に天皇の娘を置き去る方も酷い。でも,だからと言って自分で陸地を造って,それで寂しくない姫様も豪胆です。
遠く、志布志の浜には、権現山が澄んで見えました。その山には、乙姫が想いを寄せる神様が住んでいました。それで、どうにかしてその神様に会いに行きたいと思いました。このことを海の神様にお願いしたら
「一番鳥が鳴くまでに、海の中に権現山まで続く岩の道を作る事ができれば会わせてやろう。」
と言われました。いよいよ夜になり。乙姫の仕事が始まりました。志布志の権現山に向かって、海の中に岩の道がどんどん作られていきました。ところが、あともう少しという時になって、「天邪鬼」という悪い神様に、この事を知られてしまいました。天邪鬼は、乙姫の邪魔をするようにニワトリに言いつけました。〔後掲大隅の昔話〕
権現島の想い神も海の神様も天邪鬼も,唐突に出現します。このヒトたちが乙姫とどこでどう交信したものやら,物語には全く書かれず,展開がゴツゴツしてますけどそれが逆に原話っぽくて面白い。
そして、まだ道を作り終わらない前にニワトリに
「コケコッコー」
と鳴かせました。
乙姫は、あまりに早くニワトリが鳴いたために。海の中に道を作りあげる事ができませんでした。それで枇榔島で一人寂しく過ごさなければならなかったのです。
枇榔島はその名の通り、島全体にビロウの木がおいしげる美しい島です。そして、今でも潮が引いた時には権現山へ続く海の中の岩道を見る事ができます。この岩道をはさむようにして、権現山神社を向いた枇榔島神社が建っています。人の住んでいないこの島で、一人寂しく一生を送った乙姫を祭るために、村人たちが建てたものだと伝えられています。〔後掲大隅の昔話〕
最後の疑問が浮かびます。ヤマトからはるばる海を越えてきた乙姫が,なぜ10km先の志布志上陸を大げさな展開を経ながら最終的に果たせなかったのか?
権現島 蛭兒神社 波上権現
角川日本地名大辞典で権現島を引くと,島根県の一件のみ(簸川郡大社町宇竜浦。山崎島の異称)のみがヒットします。他に出雲市の熊野神社に権現島の別称を持つらしい〔日本遺産ポータルサイト/権現島(熊野神社)〕。つまりこの名は極めて稀です。
当然でしょう。徳川家康が「権現様」として祀られるに至って,それ以前に権現の名を持った地名を小役人どもは恐懼して廃したろうからです。
従ってそれでも残った権現地名は,行政責任者か住民が「権現」を怖れなかったか,余程大事な地名だったか,そうした相当に重い事情があるはずなのです。
他にもこの島に纏わる謂れは──いずれも伝承に近く,出典が定かなものはありませんけど──幾つか見つかります。
志布志の権現島。(略)かつては干潮時のみ歩いて渡れたという。山上には蛭兒神社が鎮座する。旧称は波上権現といい、もともとは宝満寺の鎮守であった。〔twiter/ふひとべのべ〕
まず,天橋立や伊豆・三四郎島よろしく①干潮時のみ陸繋砂州(トンボロ)が現れる場所だったこと。隠れては一定周期で出現し此方と連結する,人間の宗教観に共鳴しやすい自然現象です。
次に②「波上」の旧称があったこと。これも那覇の波之上宮を思わせます。──機能的には昨々日の串木野・照島,備後鞆・大可島,そして甫田・湄洲島,外海から港への目印になる特異なランドマークとなる島です。
最後にそれが③「宝満寺の鎮守」,おそらく本宮だったこと。博多の沖ノ島の宮と宗像大社の関係……というと大げさだけど,権現島が本来の神体で,宝満寺はその遥拝所あるいは里宮として船着場近くに造られた,という可能性すらあるわけです。
そうして神体はヒルコ。串木野・照島と同じです。昨々日の串木野編で触れたようにおそらくは古代,アマテラスや宗像,住吉以前の海神。
3つの枇榔島(志布志・大隅・門川)
そうした見方を持って,先述の枇榔島乙姫伝説を見返してみます。
枇榔島という島は,日向市の北東15km(宮崎県東臼杵郡門川町)と佐多岬の先(鹿児島県肝属郡南大隅町)にもあります※。枇榔の植生に由来する名なので同じ気候下の島名としては,そう珍しくはないようです。
枇榔(びろう)島と美女(びじょ)の音の相似だけとは思えません。また,前章で触れたように枇榔(檳榔)の葉は中央貴族の最高級牛車の屋根等に用いられ,ために志布志の最古の輸出品目でしたけど,魔除け等の呪術的効果は特に定説にはなっていません。
檳榔毛車: 毛車とも云い、平安時代に太上天皇以下四位以上の者が使用する乗用の牛車を白く晒した檳榔の葉で、箱車全体を覆ったものである。 〔後掲山畑〕
唐車(からぐるま):屋根が唐破風(からはふ)なのでその名がある。屋根は檳椰樹(びんろうじゅ)の葉で葺(ふ)かれており、廂(ひさし)と腰(こし)にも檳椰樹の葉を用いる。上皇・皇后・東宮(とうぐう)・親王(しんのう)、または摂関(せっかん)などが用いる大型の牛車。〔後掲風俗博物館〕
なのになぜ,皇女が住む島という伝承が成立したのか?
それが海民族の古いイメージの残影だから……のように思えてならないのです。
枇榔島-権現島-宝満寺の三社構造
上記のストーリー中,権現島に棲まうという乙姫の想い人たる男神は直接に登場しません。エピソードすら語られません。
ただ,ほぼ連結したという海底の道が枇榔島と権現島を結んでいるというのは──やはり宗像三社の配置イメージと対照させてみますと,
沖津宮(沖ノ島)-枇榔島
中津宮(大島) -権現島
辺津宮(宗像社)-宝満寺
上に掲げた写真は大隅・枇榔島のものですけど,同様に枇榔島(→GM.)の対岸本土側に御崎神社(→GM.)があり,この「妹神」が集落内の近津宮神社(→GM.)に「新年の挨拶に行く」行事のものです。
ちなみに,宗像・沖津宮の神も毎年10月上旬に辺津宮(宗像大社)に下向します。「みあれ祭」と呼ばれる行事です〔後掲オマツリジャパン〕。
通常観光客が行けない※志布志・枇榔島も島自体が神域で,そのことを記した史料は見つからないけれど,特別天然記念物の植物群落が残されている※※ことがそれを傍証します。
※※南側斜面には樹齢300年から400年におよぶビロウの古木が密生。湿地には羊菌植物が群生する〔wiki/枇榔島 (鹿児島県)〕。
周囲は4km、面積17.8haの小島ですが、北側山腹にある枇榔神社は和銅年間の創建という古社で、古くからの海上交通の歴史を物語っています。(略)
古くから神域となっていたため、伐採を免れ、貴重な亜熱帯植物群が残されたもので、「枇榔島亜熱帯性植物群落」として特別天然記念物に指定されています。〔後掲ニッポン旅マガジン〕
なお,志布志・枇榔神社は宗教法人(県認証)格も保有している〔後掲JAPANESE RELIGIONS〕正規の神社です。構成等は未調査ですけど……。
上記ストーリーにある枇榔島の乙姫が権現島に来ようとした段は,以上のような神体の下向パターンの本来譚を指すものと考えられます。ただし現在,枇榔島から志布志集落側への神の下向行事は確認できませんでした。
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権現島へ上陸阻む天邪鬼
鹿児島県の円弧が連なったような海岸線は,明らかに古い火口の跡と推定でき,志布志湾もその一つではありますけど,有史のうちで浮上したとは思えません。すると,「夜のうちに島を作」ったというのは何のことでしょう?
乙姫は天智帝に置き去られた皇女です。「置き去られた」というのは簡単に言えば流刑ですけど,ヤマトに属する遊軍であった可能性もあります。帝かその周辺の有力者に疎んじられ地方に追われたけれど,逆にそれを吉として暴れていた。──これは近世イギリスの海賊と王室の関係を重ねれば,国家統治の緩い時代にはむしろ常態だったように思います。
ファンタジックなこのストーリーは,実は枇榔島付近に突然出現して志布志上陸を目論んだけれど阻止された──というヤマト帰属の「海賊」譚なのではないでしょうか?
台無しついでにもっとキナ臭くして解釈してみます。この仮定に立てば,天邪鬼の実態もまた意義深くなってきます。天邪鬼の神話上のキャラクターは──
民間説話に多く登場する想像上の妖怪。現在も、性質が素直ではなく、人に逆らう者を称して通常用いられる。天邪鬼は神や人に反抗して意地が悪く、さらに人の心中を探り、その姿や口真似を得意とするところに特徴があり、最後には滅ぼされるという悪者の典型を示す。主人公である神の正しさと勝利をよりきわだたせる脇役として設定され、結果的には善と悪二つを対照させる効果をあげている。〔後掲ジャパンナレッジ〕
8Cの大隅の地歴空間を想定すれば,ヤマトの皇女乙姫に対し「神や人に反抗して意地が悪く」「最後には滅ぼされる」存在とは,モロに大隅隼人を連想させます。
つまり,初め(隼人にしては後もかもしれないけれど)海賊として来寇したヤマトが,すんでのところで大隅隼人に撃退され上陸を阻止された。この話の原型はそういうものではなかったか?
この場合,よりキナ臭い存在として浮かび上がるのは,乙姫に試練を与えた「海の神様」です。ヤマトの「海賊」を試した真の海賊とは,当海域の制海権を握っていた海民集団だったのではないでしょうか?彼らはヤマトに対し課題を設定して新参海賊の戦力を試した。──「志布志の精強な隼人を退け上陸できたら,我らはヤマトに加勢しよう」
乙姫ヤマト軍は敗退した。それを見守りあわよくば志布志に押し入ろうとしていた「海の神様」海民集団も志布志を去った。──という情景は,古代の日本近海にはごくありふれたものだったでしょう。
枇榔社の建った和銅の桜島
ところで枇榔島という神体のいわばイビ(≒沖縄の神域の象徴)である枇榔神社は,和銅年間(708~715年)の創建と伝わります。天智帝(626(推古天皇34)年生-672(天智天皇10)年没)より約半世紀遅い。これは,乙姫の海道建造未遂の後で,村人たちが神社を建てたというストーリーの前後関係には合致します。
ではこの和銅という時期に何か意味があるのでしょうか?「和銅_鹿児島」ワードでググると次の記事がヒットします。桜島の誕生についての史書記述です。
和銅元年、一夜に涌出す、祭神月読尊とあり。〔三国名勝図会←後掲鹿児島商工会議所〕
本文中の若宮神社もそうでした。他にも和銅年間に創建と伝わる古社が,幾つかあるようです(鹿児島神宮(霧島市隼人町),勝栗神社(姶良郡湧水町),枚聞神社(指宿市開聞十町),照信院※跡(曽於郡大崎町))。
桜島が出来たのは1万3千年前とされており〔後掲鹿児島フィールドミュージアム〕,和銅年間に出現した訳ではありません。では「一夜に涌出」とは何かと言うと,これはかなり明瞭でした。
記録に残されている最初の大噴火
は和銅元年(738年)であり、その後も数多くの噴
火を繰り返している。
文明の大噴火 文明3年(1471年)~文明10年(1478年)
安永の大噴火 安永8年(1779年)~安永10年(1781年)
大正の大噴火 大正3年1月12日午前10時5分〔後掲鹿児島フィールドミュージアム〕
つまり738(和銅元)年に桜島は,文明・安永・大正に匹敵する程度の大噴火を起こしています。
前章で掲げた等深図を拡大しますと(下記再掲),どういう地学的な理由なのか……志布志湾岸の水深は枇榔島-権現島ラインのみが周囲より浅くなっています。だから,風向きにもよりますけどここに多量の降灰があったなら,一番最初に陸地化するラインのはずです。また,火山灰はおそらく固着せず一定期間を置いて海流で流されたでしょう。「乙姫の海の道未遂」のイメージはこの辺りから……という発想もできますけど,より真実らしいのは時代背景とヤマト「侵略者の眼差し」です。
時はまさに,ヤマト-隼人の百年戦争の最中です(前章巻末参照)。疲労困憊したヤマト軍兵たちの目に,錦江湾から吹く黒煙が隼人の恩讐と映じたであろうことは想像に難くありません。
爆発する桜島に対する呪術的封印として,これらの古社は相次いで建てられたと考えられます。中央からの修験者(先述:照信院)の緊急派遣を含むこの「戦力増強」の残したものなのでしょう。
従って,その一角として枇榔神社も設けられ,失敗した(と伝えられる)とは言え隼人領侵略のパイオニア・乙姫にあやかろうとした。
あるいは──別の可能性として,乙姫が,実質的な親政を行った唯一の女帝・持統天皇(645(大化元)年生-703(大宝2)年没)だったとしたらどうでしょう?あるいはその後継者で平城京への遷都の実行者・元明天皇(661(斉明天皇7)年生-721(養老5)年)ならば?この両帝はともに天智天皇の娘ですけど,壬申の乱では天武天皇方に与して690-715年頃の国政を牛耳った豪傑です。
和銅年間(708~715年)にこの両女帝の若き日の野望の跡の島に,社を建てて苦戦するヤマト兵を鼓舞した──という想像は乙姫の正体によってはあながち無理でもないのですけど……。
果たして志布志に渡りたがった,乙姫とは誰だったのでしょうか?