FASE78-2@deflag.utinaR312withCoV-2_Omicron#運天\きじょかひーだま

▼▲1127ワルミ入口でR505から右折。運天港3kmと標識もあり,間違いない。
1131なるほど。十字,ここから右折するとワルミ大橋から古宇利島か。直進。

1138右へ運天港と指す十字。でもここは直進。
上運天農村公園とある鬼の看板。この辺りだけど……おそらくこの高台裏が東屋でしょう。もう少し先へ進んでみる。
1143運天トンネル。切通しじゃなくホントにトンネルです。▼▲

道先に運天港の海

運天港から対岸の屋我地島

1145海。

運天港北端

海沿いの崖中腹にコンクリートで固めてあるのは墓穴でしょうか。見たことのない墓制です。

運天港北端から続く崖の墓地群

あった。1153大北墓(うーにしばか)。

案内板

別名按司墓ともいう。今帰仁グスクで第二監守を勤めた北山監守(今帰仁按司)とその一族を葬った墓である。今帰仁グスクの麓のウツリタマイにあったのを1761年に今帰仁王子(十世宣謨(せんも))が拝領墓として建造し運天に安葬したものである。そのことは墓庭(はかみゃー)にある石碑に刻まれている。

墓石碑文字起こし(案内板より)

墓室内には第二尚氏王統の北山監守(今帰仁按司)の二世(介紹),四世(克順),五世(克祉),六世(縄祖),七世(従憲),そしてアオリヤエなど三十名余が葬られている。一世の韶威(今帰仁王子)は首里の玉陵に,三世の和賢は今泊の津屋口墓に葬られている。

北山墓全景

この港のやや高台に改葬する。どういう呪術的意味合いなのでしょう。
今帰仁村文化財指定は1991年と割と新しい。
海側に続く墓地群

同じく山側

先に進んでみるけど山手への歩道は村の通行止め看板が出てる。何の歩道なんだ?
按司墓への集落道

民家軒先

海に戻る。島との海峡になって深そう。確かに港には適すでしょうけど──それ以上は何も分からない。
バイクに帰ると座席に猫がうずくまってた。見張り番かい。
1226撤退。

運天港に猫三匹

1237くろちゃん三叉路。
そこから左手北側へ突っ込む。
シイナグスク入口?

1249シイナグスクという標識がありバイクでさらに突っ込んでみたら……確かに石造の遺跡がある。文化財とも書いてあるけれど,何が何やら,ここがどこやら。
野鳥だけが鳴く。
シイナグスクの遺構らしきもの

 伝承では,ここに城を築いて住んでいた按司がいましたが,水の便が悪かったので今帰仁城に移ったとされています。近年の発掘調査の結果,十三世紀頃の遺物が出土し,今帰仁城の築城以前の城造りを行ったグスクとして注目されています。
☆国指定史跡「今帰仁城跡附シイナ城跡」

* 今帰仁村教育委員会「今帰仁村の文化財 今帰仁村文化財ハンドブックvol.2」第2刷,2017

シイナグスク入口看板と周辺集落

1253呉我山交差点に出れた。左折。
1259名護市に入る。中山交差点左折
ナゴパイナップルパークという恥ずかしい施設に人が押し寄せてる。
1303為又(びまた)T字路で左折
マックリバリューの先,うつか橋交差点(書いてない)を右折して──開いてた!
前田食堂 焼肉おかず

▼▲
1323前田食堂名護店
焼き肉おかず 650
前田食堂 焼肉おかずのニンニクソース

牛肉おかず千円というのがあるけれど「今日もう売切れて」
土日月のみの牛スジカレーというのも狙い目やね。
この時間にしてなお少しだけ並んだ……。席は20席のみ,これを2人でやってるから「お待たせすることがあります」のは仕方ないけれど,これは……もし名護でオミクロンに変身するなら間違いないなくここでオミクロンになった臭いな。
臭いと言えば,店内全体の臭いが凄い。明らかにニンニクなんだけど,変に芳しいニンニク臭です。

そりゃ当然じゃ!
肉がニンニク辛い!どうやってこんなに辛くしてあるのか不思議でしたけど,タレが片栗粉のとろみかと思えば妙にザラザラしてる。ニンニクのすりおろしをそのまま,純度の高い状態でソースにしてる。それは欧米でもやるけど比率が桁違いに高いらしい。それもおそらく生です。生ニンニクすりおろしのソースをぶっかければ,そりゃ辛くなる!
内地だと絶対にしない手法です。普通は客が来なくなるから……。

雨に降られつつ迷い,1425屋部小学校からバス停屋部。行く手右前,北方向に台形のような山。
標識からすると嘉津字岳というのがそれか。
屋部西三叉路を左折した登道でふいに日が差しました。海の上に踊り場が出来てる。無理やりバイクを止めて海岸へ降りる。三枚。

海三枚(1)

海三枚(2)

海三枚(3)

▼▲

名護パイナップルパーク

■レポ:パイナップル▼▲

 この日はあまりの恥ずかしさに門の前を通り過ぎた名護パイナップルパークですけれど──後日,沖縄タイムズ記事に次のものを見つけました。

与那国など沖縄と台湾の間で終戦後に行われたいわゆる「密貿易」で、台湾から砂糖を密輸出して得た利益を原資として、八重山で農地開発を行う計画があったことが当事者の手記から分かった。日本統治期の台湾で大規模な農地開発を行った故・玉井亀次郎(1892年生、旧羽地村出身)が立案した。
@台湾 密貿易で八重山開発計画/大戦前後 台湾と交易した故・玉井氏/やんばるパインの先鞭も/[ワールド通信員ネット]【松田良孝台湾通信員】2020年7月
URL:https://www.google.com/amp/s/www.okinawatimes.co.jp/articles/amp/606698

*その他参照∶沖縄のパイナップルは、注目集める台湾産に勝てるか? | nippon.com
URL:https://www.google.com/amp/s/www.nippon.com/ja/japan-topics/g01155/amp/

 砂糖の密貿易という点がやや不穏当ではありますけど,八重山-台湾間のヒト・モノの交流は国の看板が変わっても変わらず続いた,というだけだと思います。ただ,戦時中に贅沢品として生産を禁じられ壊滅したパイン農業を,台湾に根を下ろした沖縄人が興隆してきた経緯はなかなか面白いので,上記松田さんの情報を中心に以下まとめてみます。

パインの苗木を調べる林発(林發)氏[やいまねっと/秋雄おじいの昔語り 第1話]
URL:http://jaima/modules/readings/index.php?content_id=112

石垣島∶林発▼▲

 パイナップル栽培の沖縄でのスタート地点は,戦争直前の石垣島だったといいます。
 石垣市は,パイン産業の功績者として台湾出身の2人の名を挙げています(「市制十周年記念誌」1958年)。一人は台中出身の実業家・林発(林發)。大同拓殖株式会社の経営者で,同社は1938年に石垣島で沖縄最初のパイン缶詰生産を開始しています。
 この人の現代との大きな繋がりは,一つはこのパイン。もう一つは上戸彩です。

上戸彩プログ中の林発「おじーちゃん」
URL:http://www.oscarpro.co.jp/talent/ueto/voice/2010.html

 上戸彩はこの偉人・林発さんの孫で,多くのうちなんちゅや台湾人と同じく「おじーちゃん」を誇りにしているようです。

沖縄での「パインブーム」は台湾人に限らず,多くの沖縄の人びとに恩恵をもたらした。「パインブーム」の礎を戦前から忍耐強く守ってきた台湾人に対して今も強く感謝の念を述べる沖縄の地元住民は決して少なくない。さらに,沖縄の地元住民や華僑の別なく,かつての林發を知る人は彼のことを「八重山華僑の天皇」,あるいは「パインの天皇」などと呼んでいる。
**八尾祥平「パイン産業にみる旧日本帝国圏を越える移動――ハワイ・台湾・沖縄を中心に―」『白山人類学巻21ページ81』,2018

 沖縄-台湾交流を諸手で称賛する立場ならこれで筆を置けばいいんですけど──残念ながら本稿は海域アジア編です。最後の密貿易時代における海賊・林発さんの姿にも触れざるを得ません。

与那国島の林發

林發は与那国島で「密貿易」を取り仕切る者の一人として財をなした[奥野 2005]。1951年3月に琉台貿易協定が発効すると,台湾・沖縄当局によって「密貿易」が違法行為として厳しく取り締まられるようになった。そこで,翌1952年から林は石垣島にてパイン工場を再稼働させ,1955年には琉球缶詰株式会社を設立した。[前掲八尾]
*奥野修司2005∶『ナツコ――沖縄密貿易の女王』東京: 文藝春秋

 八尾論文に依るなら──林発さんが石垣島パイン産業の再興に着手したのは,与那国島でかの夏子と同様に行っていた荒稼ぎが困難になり,転進を余儀なくされたから,ということになります。
 ただ,林発さんは奥野「ナツコ」に記述がある,というだけで,具体的にどんな活動をしていたかは情報に欠けます。同時代の沖縄県民が本音では「あの時代に沖縄が飢えなかったのは与那国のお陰」と感謝の念を持つように,次の経歴から考えても,林発さんもその時空の沖縄の現実内で生々しく生きた「天皇」だったと理解すべきだと思う。
 また,林発さんがパインに関わる以前の出身職種は運送業です。

1904年,林發於台中出生[4],石岡公學校(今石岡國小)畢業,考入臺灣總督府殖產局營林署。1927年往埔里從事自動車業,經營埔里與草屯間的交通運輸。
*維基百科/林發
**[4] 曹永和. 〈華人在石垣島發展之事例〉. 《臺灣早期歷史研究續集》. 臺灣: 聯經出版公司. 2000
***万維百科/林發(ほぼ同様の表記)

 所属が「營林署」ですから,以前に深堀りしたこの方面の状況からすると,山間少数民族の襲撃を恐れつつ原生林の巨木を伐り運ぶ危険な業務です。林発さんの交易感覚はこうした厳しい労務で叩き上げられたものだったはずです。

1935年の台湾パイン産業再編▼▲

 台湾でパイン産業の可能性が周知のものになった1935年,台湾総督府は台湾合同鳳梨株式会社を設立します。これは一種の国策会社で,当時の統制経済思想のもとでは品質向上の特効薬と信じられ,全島54事業主あったパイン会社は次々合併させられていきました。
*北村嘉恵「パインアップル缶詰から見る台琉日関係史」『境界研究』特別号,2013
 これに対し,既存のパイン業者は激しい抵抗をしたらしい。

「密造」「密売」という形で表面化した限りでも、数百缶単位から数万缶単位の規模で、島内はもとより、大連経由で中国大陸へ、あるいは、沖縄経由で日本本国へと、製造・販売ルートが切り拓かれていたという(7)。また、唯一合併を拒んだ大甲鳳梨缶詰商会は、独自の経営路線を模索し、職工60名程度の小規模な缶詰工場から、製缶工場や農場の増設・拡張を重ね、合同鳳梨とわたりあう勢いで伸びを見せている(8)。[前掲北村]

──と北村さんは穏やかに綴りますけど,戦中の国内での逸話からも想像できるように……実際のパイン反強制統合は現代人の想像を絶する強引さで進められ,これに応じない既存業者が公然と「密輸」呼ばわりされたことが,北村さんの前記文中の注7・8で知れます。

(北村注)
(7) 「悪辣巧妙な鳳梨缶詰密造密輸」『台南新報』1936年4月26日;「多数の職工を擁し悪質鳳梨缶詰を密造」『台湾日日新報』1936年5月9日;「鳳梨缶詰密造者 理解の無い人への抗議 合同鳳梨の精神」『台湾農林新聞』7号、1936年6月10日等。(8) その後も種々の圧力により合併を「慫慂」する総督府に大甲鳳梨が応じるに至ったのは、戦時統制策のもと製缶用ブリキの確保が困難になった1939年初頭のことである。「合同鳳梨会社が大甲鳳梨を合併  唯一のアウトサイダーも解消」『台湾日日新報』1939年2月11日。

 林発さんが,この大合併時代に既にパイン缶製造に従事していたか否かはよく分からない。「密輸」の運送部門のみを担ったかもしれないけれど──
 大合併に抗するグループとは別に,台湾を出て別の土地でパインに携わろうとする動きが出てきたらしい。このうち,石垣島に脱出したグループが「台湾合同パインに一泡吹かせてやろう」*と立ち上げたのが1935年10月に創立した大同拓殖だった,と北村さんは続けています。
*(12) 林発『沖縄パイン産業史』、601頁
 元々この会社は,大合併に抗するための連合。台湾人事業主を糾合して大同鳳梨缶詰販売株式会社を立ち上げたけれど,石垣に転進したのです。台湾での創設時のメンバーは以下の通りで,この時点で林発は名を連ねています。

大同鳳梨缶詰株式会社に参画したのは、
謝元徳(台中州員林郡・協賛公司)、
林曾石(台中州員林郡・昭和鳳梨缶詰株式会社)、
林発(台中州東勢郡・台一鳳梨缶詰株式会社)、
詹奕候(台中州彰化市・正春鳳梨缶詰商会)、
許天徳(台中州大甲郡・大甲鳳梨缶詰商会)、
呉維水(高雄州旗山郡・旗山拓殖株式会社)等。[前掲北村]*論文中の注10。なお,改行は引用者による。

 つまり林発さんは負け組の一人で,決して順風と言えない転進を重ねた果てに業を成した一種の「怪物」なのです。

1939年の石垣島械門

 なぜか以下を記した日本語サイトがないので中国語(繁体字版)に拠ります。──大戦前の八重山への台湾移民は2系統がある。一つは,大正時代に西表島の坑夫(西表炭坑だと思われる)として。もう一つは,昭和初期に石垣島の荒地の開拓民として。(後者は)1916年に石垣島の名藏・嵩田両村に,当地の村が借金や給料の前借りをさせて台湾人を入植させたもの。当時の両村は,感染症(マラリア?)で廃村になっていた。

二次大戰前,來八重山的台灣移民分成兩系統,一為大正時代集中在西表島礦坑的礦工;另一為昭和初期在石垣島墾荒的農民[7]。早在1916年,石垣島的名藏、嵩田兩村,因瘧疾、瘴疫成為廢村,當地政府遂以低廉的租金租給台灣人墾殖[1]。
*前掲維基
**[1] 李光真. 〈最古老的農業移民——石垣島的台灣村〉. 《台灣光華雜誌》 (台灣: 台灣光華畫報雜誌社). 1992-03, 第17卷 (1992年第3期)
[7] 三木健. 個人史を通して苦難の歩み記録 地元八重山への重い問いかけ. 《八重山毎日新聞》. 2004

第一期の台湾人八重山移民(西表炭坑労務者)を描いた台湾映画「緑の牢獄」(黄インイク(黃胤毓)関東,2021年→オフィシャルサイト)

 林発さんは,後者の移民として石垣島入りしました。具体的には,大同拓殖株式会社を設立,台湾中部大学から百余人を募集して開発に当たっています。よって,当初は「台湾村」と呼ばれたらしい。

1935年,欲開發石垣島的林發與他人成立名為「大同拓殖株式會社」的公司,在臺灣中部募集數百餘人前往石垣島墾荒[5][8]。[前掲維基]
*[5] 陳炎正. 〈人物志〉. 《石岡鄉志》. 臺灣: 石岡鄉公所. 1989
[8] 鈴木玲子. 台湾から入植 苦難の歴史(その1) 沖縄・石垣島パインの礎. 《每日新聞》. 2015-11-01 [2016-02-02]

 ここまで極端な入植をすると当然ですけど,既住石垣島民の反感が次第に高まったらしく,敵対行動が激しさを帯びたという。台湾の牛を入れない,台湾農産物を買わない。さらにパインの苗に病虫がついているとして20万株を破損,台湾村の一部を焼く騒ぎに発展したといいます。

大同拓殖株式會社陸續自臺灣招募農民前來島上墾殖,引起當地島民反感,採取各種敵對措施,例如不許台灣水牛入境、不買台灣農產品、不受僱於台灣人、並稱台灣輸入的鳳梨苗有病蟲害而要求銷毀,達20萬株[2]等等。曾有些台灣人上街採購時被島民罩布袋再毒打,有些島民還潛入臺灣村內縱火滋事。[1][前掲維基]

 会社設立から4年後の1939年,島民が台湾村の薪を盗んだのをきっかけに,ついに武力衝突(械鬥)が発生。島民二千人が台湾村を襲撃し,移民側の女性・老人は会社の倉庫に避難,男性は林に潜んで迎撃を準備──

1939年,一位島民入臺灣村偷盜木柴,引發衝突。石垣島民集結近兩千人,預備襲擊台灣村。台灣移民的婦孺們躲藏在大同拓殖株式會社倉庫,而男性則隱蔽在林中,預備和島民展開生死鬥。此刻,林發勇敢跳出,以日語向為首的島民說明事件原委,讓兩方都能將這次衝突事件的肇事者交付法辦,不濫傷無辜,化解即將來的械鬥。[1][前掲維基]

──という状況で,日本語の出来た林発さんが両者の仲介に立ち,かろうじて衝突が回避された……というのが維基百科の記述です。どういう妥結にこぎつけたか定かでなく,これももっと生々しい何かはあったんでしょうけれど……実際この事件をピークに,入植台湾人は日本語と島の風俗を必死で身につけ,島民の農業指導をするなどの努力を続けた結果,島民も台湾人を容認,さらに敬意を評するようになった──という結果を疑うと,林発さんが「天皇」とまで賞されたことと整合しなくなります。

教台灣人學日語及了解石垣島風俗民情。台友會的幹部並深入各村落,幫助島民解決農業上(略)台灣人在石垣島逐漸取得尊敬和認同。[1][2][前掲維基]

 東南アジアの華僑と同じく,石垣島の台湾人華僑も地元との融和上,一種の経済エリートたる役柄を強いられた立場に立ったと推測します。林発さんが密貿易の一角に名を連ねるのは,敗戦直後の混乱期に身を呈して島民経済を餓死ラインすれすれに浮かせ続けた,というのと同義でしょう。それとパイン再興は,同趣旨の行為だったはずです。
 泥を付けた英雄こそ,像の一つも建ててあげてほしい。パイナップルパーク様,是非にご検討下さい。
 林発さんの話は,後もう少し続きます。

(再掲)史は誰にも即断できないもの。みんなそれぞれの位置で最低限の良心をもつことで,ある真実が力を発揮し,歴史の流れが変わっていくということだと思う。
※ 同映画中キム・ジョンナムの台詞「我々に残された武器は真実だけです」
※ 朝日新聞:「1987 ある闘いの真実」チャン・ジュナン監督インタビュー
廖見福(左)∶福本秋語氏提供

石垣島∶廖見福▼▲

 もう一人が彰化県北斗鎮出身の廖見福。戦後の石垣島でのパイン栽培を進めた中心人物とされます。

戦後は沖縄本島や宮古地方から開拓のために石垣島へやってきた人たちに苗を供給し、栽培面積の拡大を図るとともに、移民の生活安定をサポートした。(前掲松田生地による島田長政氏(廖見福の子)口述記録)

 この苗が厳密に言えば密輸扱いだったとか*,興業原資が裏交易の利益だったとかが言われている点らしいけれど,ここで捉えたいのは,沖縄に縁のないこの二人の台湾人が,八重山で業を成そうとしたことです。特に廖見福は,終戦直後の交易の結節点となった八重山に輸出品を新興しようとしたのではないかと考えられます。
*公式には「廖見福は1946年,嵩田の圃場に散らばっていたパインの苗をかき集めて,約1万本の苗を3反歩に植え」たのが八重山パインの元とされる。
**Food, Pacific War FAQ|軍事板常見問題 第2次大戦別館
URL:http://keshiintokorozawa.web.fc2.com/faq08n02.html

 見方を変えると八重山パインは,台湾華僑が自らの生計上の武器として新規開発した商品だとも言えるわけです。
*「廖見福本身是八重山華僑會的會長」
**兩岸史話-在琉球的台灣人 – 日報 – 中時新聞網
URL:https://www.google.com/amp/s/www.chinatimes.com/amp/newspapers/20130702001138-260306

品目別農家戸数(沖縄県 第5章 果樹生産の現状,単位∶戸)

名護∶台湾Uターン者によるパイン生産

 現在の沖縄農業上,パインのメイン産地は沖縄本島北部,つまり恥ずかしいテーマパークのある名護周辺です。上記表のとおり,生産量では本家の八重山地方を凌駕するに至ってます。
 この名護のパイン起業は,八重山からの二次移入ではない。

現在は名護市の一部となっている旧羽地(はねじ)村の嵐山で、同村出身の玉井亀次郎が1952年、ハワイ帰りのいとこと組んでパインの生産を成功させた。[前掲nippon.com]

 つまり正史的には,ハワイのパイン農法を移入して名護北部に根付かせたことになっている。

嵐山には、「嵐山玉井農場開設拾周年記念碑」が建っている(昭和36年羽地村建立)。不毛地とされていた嵐山の開墾(昭和26年着手)とパイン産業の普及に貢献した玉井亀次郎氏の功績をたたえたものである。
*名護大百科事典 Nagopedia 試行版 – 呉我
URL:https://sites.google.com/site/nypedia/home/area_haneji/goga

 この碑によると,昭和26年という本島のどこにも財も機械もない時期に,農地開発に着手したことになっています。

玉井亀次郎=1938年11月、台湾花蓮で撮影∶玉井亀次郎回顧録

 玉井さんは,少なくとも終戦までの30年は台湾南部を拠点にしていた沖縄人農業エンジニア兼起業家です。

玉井は、沖縄県立農林学校を卒業した後、同校校長の紹介で1913年に塩水港製糖(本社・台南新営)に入社すると、花蓮港でサトウキビ農場の場長を務めるなどした。その後、中途退職して農地開発に取り組み、1935年には台湾澱粉(でんぷん)株式会社を設立した。[前掲nippon.com]

 終戦前10年間経営していた台湾澱粉社は,次の言を参考にすると,台湾品種の芋からのデンプンを関西向け商品として転がす商売です。

父は台湾ではね、キャッサバ(イモの一種)からでんぷんを取って粉にして、大阪や神戸のお菓子屋さんやお薬屋さんに送りよったんです。それが大きな仕事でした[前掲mippon.com 四女・安富久子さん談]

 こうしたヒト・モノの移動から利益を導く発想の人物が,戦後に台湾から引き揚げる際,本島北部に台湾で得た農業資源や技術を持ち込まなかったら,その方が不自然です。
 交易ルートに通じている者の常として,八重山でのパイン移植成功の報も得ていたでしょう。故郷の荒地をイメージして,台湾南部での農地開発の経験と有望パイン種の苗を携え,帰島後直ちに大規模移植を行ったのだと推測できます。

1958年頃の石垣島パイン工場の作業風景

1960年代∶パイン女工▼▲

 台湾からの人の流れは,さらに後,もう一つの波となっています。これは移住ではなく,季節労働者です。

1945年から1972年までの米軍統治期に入ると、沖縄のパイン産業は、労働力の確保という点でも台湾と密接に絡みながら発展していく。沖縄のパイン工場は夏場の繁忙期の人手不足に対応するため、労働者を台湾から招いていたのである。その人数は、本土復帰の前年までに八重山だけで延べ約2000人に達した。日本統治期にパインを扱ったことのある人も含まれ、加工技術の高さでも沖縄のパイン産業に救いの手を差し伸べていた。[前掲nippon.com]

 台湾でのパイン農業は,やはり戦時中に衰えたけれど,日本からの技術移入で再興しています。日本から,というより正確には,日本に引き揚げていた台湾パイン農業の旧指導者たちを招聘したらしい(1951年∶中村徳松,1952年∶渡辺正一 前掲八尾)。
 ただし,その後の推移は順調ではなく,本家ハワイのパインとの競争にさらされます。国民政府は価格面で対抗するため,労賃を抑える政策をとり,結果として熟練パイン工の沖縄流出を招いた,というのが大背景にあるようです。

1960年前後のパインブームの頃から沖縄の農村では人手不足が問題化する。この背景には日本本土の高度経済成長や沖縄県内の建設事業などに農村労働人口が吸収されていったことがある。こうした人手不足を補うために,1962年に林發が工場長をつとめる琉球殖産のパイン工場に台湾からのパイン女工が試験的に導入された。日本の敗戦後,日本籍民の台湾人から中華民国籍の華僑へと,国籍を自らの意思とは無関係に切り替えられた林發は,八重山華僑のトップとして台湾をたびたび訪問し,台湾のパイン産業の視察も行っていた。台湾からのパイン女工の導入は林發の発案によるものであった。[前掲八尾]

 この時の女工導入も林発さんが牽引したとされています。
 年間2千人。前掲nippon.comの「のべ2千人」の双方が正確と仮定すると,その流入は八重山だけでなくそれ以上に本島名護付近にも顕著だったと想定されるのですけど──その辺りが動態的に見通せるデータがありません。

琉球政府は1966年から「技術導入事業」として沖縄への非琉球人の雇用を開始することになった11)。技術導入事業によって台湾のパイン女工をパイン技術者として招くことが可能となった。最盛期にはパイン業のみならずさまざまな業種による募集によって年間二千人ほどの人びとが台湾から沖縄へ渡った。[前掲八尾]
*11) 技術導入事業の詳細については,八尾[2013]を参照。
**八尾祥平  2013 「戦後における台湾から「琉球」への技術導入事業について」『帝国以後の人の移動――ポストコロニアリズムとグローバリズムの交差点』蘭信三(編),595-623ページ,東京: 勉誠出版.

 こう見ていくと,八重山,中心地としては与那国島で敗戦直後の海域を闊歩した人々は,沖縄人だったと断言していいのかどうか疑問が湧いてきます。戦後の沖縄や台湾のデッサンを描いていった人たちは,海域を股にかけて移動する,台湾人ともウチナンチュとも規定されない人々だった,という感を強くするのです。
 例えば林発さんは,台湾の招聘に応えて日本から戻ってきた渡辺正一と度々情報交換をしていたという。

日本の敗戦後,日本籍民の台湾人から中華民国籍の華僑へと,国籍を自らの意思とは無関係に切り替えられた林發は,八重山華僑のトップとして台湾をたびたび訪問し,台湾のパイン産業の視察も行っていた。[前掲八尾]

 台湾側の論文では,この国籍無断切替も問題視されています。でも本人たちは,そんなことより虚ろに行き来する国境の向こうとこちらに同じく幸あらんと尽力してきただけなのではないか,という印象を持つのです。

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「FASE78-2@deflag.utinaR312withCoV-2_Omicron#運天\きじょかひーだま」への2件のフィードバック

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