目録
運天トンネル
ワルミ入口から運天に向かう途中、地図上は上運天と記される辺りにはアナガー(→GM.)という、古水路の跡のようなものがあったらしい。
「ワルミ」は割れ目。運天港の地峡を意味します。何らかの霊地あるいは古地と見られた一帯でしょう。
向かっているのはフェリー乗り場のある運天港ではなく、古集落付近。
上運天農村公園とある鬼の看板のあるY字。ここを直進すると──1143、運天トンネル。切通しじゃなくホントにトンネルです。
1145、海に出る。
ちなみに地理院地図にある「シチャンシマ」という地名は、説明としてはほぼヒットがないけれど、地名としては確かに存在します。
※沖縄県HP上の沖縄県管内図にも記載あり。
低地平面に疎らに家屋が並びます。集落は漁村の体なのに、浜そのものには意外にも船は少ない。港の機能は、700mほど南西の旅客ターミナルのある運天港に集約されてるようです。
まず目が向いたのはコンクリートで固めてある北側海沿いの崖中腹──墓穴でしょうか。見たことのない墓制です。
〔日本名〕今帰仁村運天(沖縄戦時:魚雷艇基地。第226設営隊山根隊、第2蚊竜隊、第27魚雷艇隊配置)
※第27魚雷艇隊(白石信治大尉)は嵐山・八重岳等でゲリラ隊として9/3まで潜伏活動
〔沖縄名〕按司墓 あじはか?(シチャンシマ)
〔米軍名〕-(1944.10.10空襲で日本軍部隊壊滅。終戦直後、米軍輸送船団の駐屯基地)

大北墓
あった。
1153、大北墓(うーにしばか)。
別名按司墓ともいう。今帰仁グスクで第二監守を勤めた北山監守(今帰仁按司)とその一族を葬った墓である。今帰仁グスクの麓のウツリタマイにあったのを1761年に今帰仁王子(十世宣謨(せんも))が拝領墓として建造し運天に安葬したものである。そのことは墓庭(はかみゃー)にある石碑に刻まれている。(続)〔案内板〕
大体そんな事が文字起こししてあります。「ウツリタマイ」に相当する語はないようですけど、これも信じるなら、被征服者の象徴だった今帰仁城に当初は葬った。つまり北山監守(今帰仁按司)は、今帰仁城に駐屯した可能性が高い。
それを運天にわざわざ移し替えたのは、何をしようとした呪術的行為なのでしょうか?
(続)墓室内には第二尚氏王統の北山監守(今帰仁按司)の二世(介紹)、四世(克順)、五世(克祉)、六世(縄祖)、七世(従憲)、そしてアオリヤエなど三十名余が葬られている。一世の韶威(今帰仁王子)は首里の玉陵に、三世の和賢は今泊の津屋口墓に葬られている。〔案内板〕
一世韶威の首里埋葬は、派遣元に何か由緒又は郷愁があったかもしれません。でも三世和賢だけが今泊(今帰仁城北海岸集落)に葬られたまま、運天改葬時にも放置されたのは、また不思議な成り行きです。
百按司墓
大北墓のあるのは手前平地面で、その奥手崖側にも横穴が延々続いています。総称的に「運天古墓群」と呼ばれ、その一部の第一尚氏系北山監守墓とされるものが「百按司墓」(むむじゃなばか、ももじゃなばか)らしい。
ただこれらの判別は、少なくとも素人目には全く分かりません。文化財なのか私墓地なのか判然としない、沖縄らしい聖地です。
今帰仁村文化財指定は1991年、かなり新しい。
2017年2月に琉球新報が、京都大学による百按司墓からの遺骨持出しを報じてから、話は沖縄ナショナリズム的なものになってるので、多分村文化財指定はその序盤だったのでしょう。
京大(当時の京都帝国大学)による調査・報告は1894・99(明治27・32)年。百按司墓からの遺骨持出しは昭和初期とされ、遺骨が京大と国立台湾大学にある旨を今帰仁村教育委員会が確認したのが2004年。沖縄県教委と国立台湾大学が2017年から返還作業に着手〔wiki/百按司墓〕。
翌2018年、原告5名が墓管理者の立場で京都大学を提訴しますけど、2022大阪地裁・2023同高裁とも遺骨持出しは認定する原告の継承権を否定し請求棄却〔wiki/百按司墓〕。
原告5名中2名は第一尚氏子孫。正体不明の墓の継承そのものが、現代の裁判で争いにくいテーマだったのでしょうけど──それにしても王室子孫がかくも強い関与を示す、百按司墓とは一体何なのでしょう?
うんてんんなとぅ 運天港
集落を歩いてみる。
やや閑散とした家屋配置。粗いコンクリート道がそれを繋ぎます。
山手への歩道には、村の通行止め看板が出てる。先のY字の看板からするとこの裏の丘も御嶽のはずですけど……何の歩道なんでしょう?
海に戻る。
沖は島との海峡になって深そう。確かに港には適すでしょうけど──それ以上は何も分からない。
港の南に続く運天水道は水深が深く潮流が速いことで知られる。〔角川日本地名大辞典/運天港〕
ただ海深を「釣りナビくん」で見る限り、当時の印象と違ってごく浅海です。中型船以上は沖に停泊するしかないのはもちろん、小型船も干潮時には侵入しにくい。逆に言えば海底地形の段差に当たる場所で、水先案内人の活躍する海です。
ちなみに羽地内海の南側を見ても、やはり水深の深い場所はありません。満潮時にのみ、しかも外海との狭い海峡を出入りする潮目を読まないと航行できない特殊な海域に思えます。
バイクに帰ると……あれれ?座席に猫がうずくまってました。見張り番かい。──いや、単なる傍若無人なんでしょね。
1226、猫を追って撤退。
1237、くろちゃん三叉路。
本日はもう一つ、大事な目的地があります。何を隠そう──前田食堂です。三叉路から左手北側へ突っ込み、名護へ最短の帰路を採りました。
シイナグスク
シイナグスク?
1249、そういう標識が目についてしまいました。バイクでさらに突っ込んでみたら……確かに石造の遺跡がある。文化財とも書いてあるけれど、何が何やら、ここがどこやら(→GM.上の場所)。
野鳥だけが鳴く。
伝承では、ここに城を築いて住んでいた按司がいましたが、水の便が悪かったので今帰仁城に移ったとされています。近年の発掘調査の結果、十三世紀頃の遺物が出土し、今帰仁城の築城以前の城造りを行ったグスクとして注目されています。
☆国指定史跡「今帰仁城跡附シイナ城跡」
ほんのムラ気で立ち寄っただけなのでそれで退散しました。ブログ名からして本気度高い後掲「グスクへの道標」さんはかなり踏み込んでおられます。かつこちらでは「築城者は北山王統初期の『湧川按司』という説があ」る旨紹介されてて──ホントならグスク時代ごく初期の沖縄城郭です。
ただ──2004年に「範囲確認調査報告」を副題にした今帰仁村によるシイナグスクの文化財報告がありますけど、学術的に分かっていることはまだ非常に僅かです(巻末参照)。
パイナップルパーク
呉我山交差点に出れた。1253。左折。
1259、名護市に入る。中山十字路(→GM.)左折。
──山中に関わらず、意外に眺望はよい、独特の景観が記憶に残ってます。(巻末参照)
ナゴパイナップルパーク(巻末参照)という恥ずかしい外観の施設に押し寄せてる車両の波。これを掻き分け進みまして──
1303。為又(びまた)T字路で左折。
マックスバリューの先、うつか橋交差点(書いてない)を右折して──あ!!開いてた!
初・前田食堂です!!
1323前田食堂名護店
焼き肉おかず 650
いや、前田食堂なのです!分かりますよね?前田食堂ですよ??
前田食堂焼肉おかず
ごめんなさい、まあ落ち着いて書きます。
この時間にしてなお少しだけ並んだ……。席は20席のみ、これを2人でやってるから「お待たせすることがあります」のは仕方ないけれど、この座席密度は……もし名護でオミクロンに変身するなら間違いないなくここでオミクロンになった臭いな。
臭いと言えば、店内全体の臭いが凄い。明らかにニンニクなんだけど、変に芳しいニンニク臭です。
牛肉おかず千円というのがあるけれど――――「今日もう売切れて…」とのこと。まあ売り切れてなくてラッキーという時間に来てしまってるので。
土日月のみの牛スジカレーというのも狙い目やね。でも今日は焼肉おかずで十分でございます、はい。
臭い?そりゃ当然じゃ!
肉がニンニク辛い!どうやってこんなに辛くしてあるのか不思議でしたけど、タレをよく見ると一目瞭然。片栗粉のとろみじゃないんである。妙にザラザラしてる。どうやらニンニクのすりおろしをそのまま、しかも高純度の状態でソースにしてる。これは欧米でもやるけど比率が桁違いに高いらしい。それもおそらく生です。
生ニンニクすりおろしのソースをぶっかければ──そりゃ激辛激臭になるじゃろ!?
内地だと絶対にしない手法です。普通は客が来なくなるから……。
名護の街区は割と広く、多彩です。これは記憶以上でした。
少し、西の方をうろついてみたい――――と軽い気持ちでふらふら行くと雨。降られつつ迷いまして、1425、屋部小学校からバス停屋部。
行く手右前、北方向に台形のような山。
標識からすると嘉津字岳※というのがそれでしょうか。
なごみなとぅ 名護湾
屋部西三叉路を左折した登道で、ふいに日が差しました。
海の上に踊り場が出来てる。
無理やりバイクを止めて海岸へ降りる。三枚。
神の日の名護湾でした。
この湾の水深は湾口付近で約100mほど。ただ、湾外では急激に落ち込んでいる。試みに下記(3枚後)に広域・湾域の海底地形図を付しました。▲200m線がこれほど本島に近いのは辺戸岬のほかはこの名護湾のみです。
■レポ:うんてぃぬ 運天 雨くれ降ろちへ鎧濡らちへ
沖縄難読地名の中でもベストな「今帰仁」(なきじん)について、伊波普猶は割と確証を持って「外来者が統治する地」だと書いています。
古代国語で、支那若しくは朝鮮からの新来者をイマキと云ったのが、のちにその居住地の称呼ともなって、今木或は今城が宛てられたように、同半島でも新来者(ルビ:いまき)が、やがてその居住地の名ともなり、この地方が北部の政治的中心地となるに及んで、その下に、統治を意味する「知り」が附き、「いまきじり」となった、と見て差支えなかろう〔「運天の古形を辿る」『伊波普猶全集 第四巻』平凡社。一部新仮名遣いに直す←後掲海鳴りの島から(「地名と沖縄戦」と題し「日本近代文學館」(第226号・2008年11月15日発行)に掲載)〕
メジャーな説としては、「今の鬼神」と呼ばれた源為朝が暴風雨をついて「運を天にまかせて」沖縄を目指したどり着いたから、「今帰仁」であり「運天」だというものがありますけど、漢字を前提にしていて現地音から考えて後付けじみています。
運天の音は「うんてぃぬ」と読まれる傾向がある。「天」字の音の訛りなら「nu」と母音が付く余地はないように思えるのです。こんな音は漢族の語にはないはずで、まるでラテン語かフランス語のようです。
お年寄りたちは元々の地名で「うんてぃぬ」と発音している。〔後掲海鳴りの島から〕
方言ではウンティンンナトゥという。(略)島軸と本部半島が接合して形成する湾入の奥まった場所に立地する天然の良港で,避難港としてもよく利用され,現在も国の避難港に指定されている。〔角川日本地名大辞典/運天港〕
方言ではウンティン・ウンティヌという。内陸の丘陵にある上運天(ウイシマ)に対して下運天(ヒチャンシマ)とも呼ばれ,運天はその総称でもある。〔角川日本地名大辞典/運天〕
陸人の感覚ではどうもピンとはきませんけど、運天の水域は航行者からは非常に好都合な港のようで、それが古くから知れ渡っていた。西九州と同じく大陸からの人々が流れ着きやすい場所であり、彼らは海人の推すこの良港を目指した、と朧に想像されるのです。
一勢理客ののろの/あけしののろの/雨くれ 降ろちへ/鎧 濡らちへ/又運天 着けて/小港 着けて/又嘉津宇嶽 下がる/雨くれ 降ろちへ/鎧 濡らちへ/又大和の軍/山城の軍
一せりかくののろの/あけしののろの/あまくれ おろちへ/よるい ぬらちへ/又うむてん つけて/こみなと つけて/又かつおうたけ さかる/あまくれ おろちへ/よろい ぬらちへ/又やまとのいくさ/やしろのいくさ〔wikisource/おもろさうし/第十四14-1027(46)〕
ウチナンチュにとって運天は、ニライからマジムンが寄せる港だったでしょう。「雨くれ 降ろちへ 鎧 濡らちへ」は定説では「大和の軍」(内地日本からの軍兵)の鎧を雨で濡らして弱らせるための、呪詛です。
運天を目指した人々が幸ばかりをもたらした訳ではなく、迷惑な集団も多くたどり着いた。これは徐福や皇祖や正安の元寇に遭った西九州と同じことです。運天にたどり着いた最も迷惑な集団は、1609年の薩摩兵団でしょう。
慶長14年3月4日山川港を発進した琉球侵略の島津軍も3月25日に侵入している(喜安日記・琉球渡海日々記/那覇市史資料1‐2)。その後,琉球~薩摩間の航路基地ともなり,中国の冊封使来琉の際には,薩摩船は運天港を利用した。〔角川日本地名大辞典/運天港〕
本稿は薩摩の琉球侵攻とは、北山海域の制覇を目的としたと考えていますが、その想定からすると運天上陸は島津軍のゴールだったことになります。
近世以前,北山王が奄美諸島(鹿児島県)南部を支配していたことから,運天港への航路も知れ渡っていたと思われ,慶長14年島津侵入の際には運天港が上陸地点となった。〔角川日本地名大辞典/運天〕
近世運天
知らなかったけれど、基礎自治体・今帰仁村の前身だった今帰仁間切※の番所からはじまり、1916(大正5)年の仲宗根移転までの間、今帰仁間切・村の政庁は運天にありました。
現在運天港は今帰仁(なきじん)村運天と上運天に2つの埠頭を有するが,古来運天港と称されてきたのは運天の埠頭で,運天には王府時代に番所が置かれ,引き続いて大正5年まで今帰仁村役場が置かれて,行政の要衝地であった。〔角川日本地名大辞典/運天港〕
日露戦争中には燃料給水の補給基地として使用された。〔角川日本地名大辞典/運天港〕
仲宗根域が今帰仁村の中心になったのは、製糖業の俄かな勃興地になったためで、この事業の中で運天は行政中心地から積出港に特化されていったらしい。
大正初期には今帰仁村仲宗根に台南製糖の工場が設立され,工場までレールが敷設され,トロッコによりサトウキビなどが運搬された。〔角川日本地名大辞典/運天港〕
前代にあたる明治に、琉球処分により中山域で多量に発生した没落士族層が、多量に、なぜかこの本部半島エリアに移住してきています。前記産業変化と人的移動の因果を物語るはっきりしたデータはありませんが、多分、仲宗根域での新産業中心をこの流入層が担ったのではないかと思います。
明治期,首里・那覇の士族が移住してきて,海岸台地のトクヤマ(渡久山)・ジラマ(白間)や,クンジャー浜の開発が進んだ。〔角川日本地名大辞典/運天(近世)〕
その他の運天の貌
以下は、ここまでのプロットにいかにしても咀嚼できなかったデータです。
戦後しばらく続いたスクラップブーム時代に本土へのスクラップ積出港として利用があったことは,三島由紀夫の「潮騒」からもうかがえる。〔角川日本地名大辞典/運天港〕
「潮騒」の主人公・久保新治が乗り込む歌島丸は、運天港で鉄屑(スクラップ)を積んで神戸へ向かっています。戦後しばらく続いたスクラップ交易の一情景ですけど、これが沖縄密貿易時代の成果に連なるものかどうかは、ちょっと断定しかねます。
運天港の周辺には,こうした本土や外国との交渉を物語るように,大和墓・グンザバマ(軍勢浜)・テラ(寺)・ウランダジャチ(オランダ崎)などの小地名がある。御嶽はなく,神アシャギは島センコノロの祭祀(由来記)。〔角川日本地名大辞典/運天(近世)〕
グンザバマの「軍勢」とは、源為朝でしょうか、島津軍でしょうか?
角川は、運天には御嶽はない、と言い切っています。これは、近代の没落士族の琉球域の状況に近いと考えるべきなのか、それ以前から無宗教的な土地柄だったと考えるべきなのか、判断材料がありません。
■メモ:シイナグスク 今帰仁城になり損ねた城
「今帰仁村では、世界遺産に登録された今帰仁城を含め10か所のグスクが確認」されており、「シイナグスクはその中の一つで、13世紀後半に利用されたグスク」である〔後掲今帰仁村教育委員会総合教育課文化財係,p38 第Ⅴ章2〕というところまでは断言される事項です。ただし
①「城塞というにはあまりにも自然地形を多く残し不整備であること」
②「今帰仁城跡の築城期に遺跡が形成されたこと」
③「現在確認されている遺物が時間的にあまりにも短期間であること」
を総合すると、築城途中で廃城になったとする地元伝承と整合する〔後掲今帰仁村教育委員会総合教育課文化財係,p58〕という見解も呈せられています。──これを信じるなら、シイナグスクは今帰仁城になり損ねた城だったことになります。
また位置的に「親川(羽地)グスクを中心に今帰仁城に対峙したと考えられる羽地地域」への眺望が良い〔同p13〕点が指摘され、要するに対羽地防御施設だった可能性も推定せられています。──だとすれば、13C当時北山は少なくとも二勢力以上が争う情勢だったことになります。
さて、今帰仁村は、平成14(2002)年調査報告のまとめ部分で、次の二つの知見を示しています。
まず一点目。遺構として出土した炉跡について、これまで炭焼き施設か食料保存施設かという二説が並立していましたけど──
今回、このような炉跡遺構の機能を理解するために、炉跡内の土を回収し、植物遺体の検出を試みた。その結果、計194(粒/片)の植物遺体が検出された。数は少ないが、同定された植物遺体の大半が栽培植物の遺体であることから、「炭焼き」としてより、ある程度は「食」に関連した遺構であったのではないであろうか。「屋外炉」は、シイナグスクを含めて、4基のみ報告されているが、現時点では、確認されているのはグスク時代の「屋外炉」はこれらのみである(ママ)。この事実は、「屋外炉」は特別な遺構ではなく、一般的な炉であったことも示唆するものと思われる。〔後掲今帰仁村教育委員会総合教育課文化財係,p42 Ⅴ4まとめ〕
として、後者説・食料保存施設の可能性が濃くなってきた旨を記します。山城ではなく、生活拠点だったと見られるようになってきているのです。
北山域=稲作文化先進地仮説
二点目は、少なくとも中南部よりは農業のメジャーが稲作だった、という可能性です。
今回の分析結果は、1つの興味深い仮説を提供するようである。すなわち、グスク時代の農耕に地域性が存在したのではないであろうか。一昨年前まで、主に中南部に所在するグスク遺跡出土の植物遺体を分析してきたが、これらの地域のグスク遺跡では、イネはマイナーで雑穀が多かった。アワやコムギが、農耕の中心であったようである。このことからグスク時代の農耕は「雑穀中心」と考えていた。しかし、一昨年、今帰仁城出土の炭化種子を実見し、出土量の多さ以上に、イネが多かったことにショックを受けた。さらに、赤木名グスク(奄美大島笠利町)出土の炭化種子を分析した結果、ここからもイネが多く検出された(高宮2003). このような情報をもとに、沖縄県中南部の雑穀農耕と、奄美沖縄県北部の稲作農耕を想定し、植物遺体を分析している。その結果、例えば、グスク時代初期と考えられるウガンヒラー北方遺跡(読谷村)からは、アワやコムギが多く出土し、イネは少なかった(高宮 印刷中(ママ))。このことは、中南部雑穀農耕をサボートするようである。今回シイナグスクでは、イネが最も多く検出されたわけではないが、中南部と比較すると、イネが顕著であった。ウガンヒラー北方遺跡※およびシイナグスクより検出された植物遺体分析結果は、上記した想定をある程度支持するものではないであろうか。中南部の雑穀中心の農耕と北部奄美地方のイネ(+アワ)の農耕という二つの農耕システムが存在していたとすると、今後のグスク時代研究に新たなアプローチを提示するものと考えられる。〔後掲今帰仁村教育委員会総合教育課文化財係,p43 Ⅴ4まとめ〕※は引用者
グスク時代の琉球では稲作がさほど普及していなかった、という定説は、実は近世以降の尚王権の中心だった沖縄本島南半に限り正確だった可能性が出てきているわけです。上記を素人的に延長するなら、グスク時代初めには先進地だった広義の北山域──奄美〜国頭に、稲作はまず定着したとする仮説が構成し得ます。
なぜ北山域だったのか、という点で可能な説明は唯一つでしょう。そこが海民の世界で、外海からの新技術を伝える交通が密だったからです。
※うがんひらー トリイ基地内の拝所
楚辺の拝所。戦後、米軍のトリイ通信施設内にあり、参拝は要許可。別称アガリウタキ。→GM.
現集落の東側ですけど、米軍強制接収以前は集落がありました。古堅小学校校庭から西方に拝所を視認可。林の中に琉球石灰岩が露出、岩(イビ:依代 と推測される)の前に香炉が設置されています。根屋(村の始まりの地)とも伝わり、現在まで楚辺自治会が定期的に清掃を実施。
「琉球国由来記」(1713年成立)は、楚辺村に「禰覇ノ嶽」「楚辺巫火神」「楚辺殿」の三拝所があると記す。戦前、ウガンヒラーはから楚辺ノロ、門中の神人(カミンチュ)による初ウガンなどの行なわれた聖域だったといいます。
ウガンヒラーの周辺では11~13Cの集落遺跡が発見されており、ウガンヒラー北方遺跡はその一つ(他タシーモー北方遺跡)。
タシーモーからは掘立柱建物跡の遺構が発見。対してウガンヒラーから、穀物を保管する高床倉庫と推定されるものが発見されました。
〔後掲読谷村文化財めぐり、wiki/トリイステーション,高宮広土・千田寛之「読谷村ウガンヒラー北方遺跡出土の植物遺体」『南島考古』31巻 p75-84,2012〕
植物遺体研究の手法はごく最近になってその有効性が評価されつつあるもので、現在、国立歴史民俗博物館がデータベース化に着手しています〔後掲日本の遺跡出土大型植物遺体データベース〕。ただこのDB内にウガンヒラーやシイナグスクのそれは登録されておらず、十分な比較検証がなされた訳ではない段階のようです。けれど逆に、このアプローチが今後精緻化すれば、両遺跡の植物遺体の位置付けが再検証され、より立体的な琉球稲作起源仮説が構築される可能性があるのです。
■レポ:琉台パイン輻輳紀
[専門用語:医学・生物学]物が1か所に集中し混雑する様態
[専門用語:通信]電話網でイベントや災害時に発生する、通信要求過多により、通信が成立しにくくなる現象
この日はあまりの恥ずかしさに門の前を通り過ぎた名護パイナップルパークですけれど──後日、沖縄タイムズに次の記事を見つけました。
与那国など沖縄と台湾の間で終戦後に行われたいわゆる「密貿易」で、台湾から砂糖を密輸出して得た利益を原資として、八重山で農地開発を行う計画があったことが当事者の手記から分かった。日本統治期の台湾で大規模な農地開発を行った故・玉井亀次郎(1892年生、旧羽地村出身)が立案した。〔後掲ワールド通信員ネット、出典:沖縄タイムス〕
砂糖の密貿易という点がやや不穏当ではありますけど、八重山-台湾間のヒト・モノの交流は国の看板が変わっても変わらず続いた、というだけのようです〔参照:後掲nippon.com〕。ただ、戦時中に贅沢品として生産を禁じられ壊滅したパイン農業を、台湾に根を下ろした沖縄人が興隆してきた経緯はなかなか面白い。
上記松田さん(沖縄タイムス)の情報を軸に、以下まとめてみます。
URL:http://jaima/modules/readings/index.php?content_id=112〘▶現在リンク切〙
石垣島∶「パインの天皇」林発
空間軸を沖縄本島から南方・石垣島に移します。パイナップル栽培の沖縄でのスタート地点は、戦争直前のこの島だったとされます。
石垣市は、パイン産業の功績者として台湾出身の2人の名を挙げています(「市制十周年記念誌」1958年)。一人が彰化県出身の廖見福(次章参照)。もう一人が台中出身の実業家・林発(林發)です。後者からご紹介すると──大同拓殖株式会社の経営者で、同社は1938年に石垣島で沖縄最初のパイン缶詰生産を開始した人です。
この人の現代との大きな繋がりは、一つはこのパイン。もう一つは上戸彩です。
URL:http://www.oscarpro.co.jp/talent/ueto/voice/2010.html〘▶現在リンク切〙
上戸彩はこの偉人・林発さんの孫で、多くのうちなんちゅや台湾人と同じく「おじーちゃん」を誇りにしているようです。
沖縄での「パインブーム」は台湾人に限らず、多くの沖縄の人びとに恩恵をもたらした。「パインブーム」の礎を戦前から忍耐強く守ってきた台湾人に対して今も強く感謝の念を述べる沖縄の地元住民は決して少なくない。さらに、沖縄の地元住民や華僑の別なく、かつての林發を知る人は彼のことを「八重山華僑の天皇」、あるいは「パインの天皇」などと呼んでいる。〔後掲八尾〕
沖縄-台湾交流を軽妙に称賛する立場ならこれで筆を置けばハッピーなんですけど──残念ながら本稿は海域アジア編です。最後の密貿易時代における海賊・林発さんの実情にこそ、関心を寄せざるを得ません。
与那国島の林發
林發は与那国島で「密貿易」を取り仕切る者の一人として財をなした。[後掲奥野 2005]
1951年3月に琉台貿易協定が発効すると、台湾・沖縄当局によって「密貿易」が違法行為として厳しく取り締まられるようになった。そこで、翌1952年から林は石垣島にてパイン工場を再稼働させ、1955年には琉球缶詰株式会社を設立した。〔後掲八尾〕
八尾論文に依るなら──林発さんの石垣島パイン産業再興の端緒は、与那国島でかの夏子と同様に行っていた荒稼ぎが困難になり、転進を余儀なくされたから──ということになります。
ただ、林発さんは奥野「ナツコ」に記述がある、というだけで、具体的にどんな活動をしていたかは情報に欠けます。同時代の沖縄県民が本音では「あの時代に沖縄が飢えなかったのは与那国のお陰」と感謝の念を持つように、次の経歴から考えても、林発さんもその時空の沖縄の現実内で生々しく生きた「天皇」だったと理解すべきだと思うのです。
また、林発さんがパインに関わる以前の出身職種は運送業です。「大密貿易」時代は、完全な合法ルートで運送業に従事できるような甘い時代ではなかったのです。
林発さんの履歴を詳述する資料は、なぜか台湾側・繁体字wiki(維基)のみなのでそちらを掲げます。
1904年,林發於台中出生[4],石岡公學校(今石岡國小)畢業,考入臺灣總督府殖產局營林署。1927年往埔里從事自動車業,經營埔里與草屯間的交通運輸。〔維基百科/林發〕
※参考 万維百科/林發 もほぼ同様の表記
初就職先が「營林署」ですから、以前に深堀りしたこの方面の状況からすると、山間少数民族の襲撃を恐れつつ原生林の巨木を伐り運ぶ危険な業務です。林発さんの交易感覚は、こうした厳しい労務現場で必要とされ、叩き上げて精錬されたものだったのでしょう。
1935年台湾パイン産業の再編
台湾でパイン産業の可能性が周知のものになった※1935年、台湾総督府は台湾合同鳳梨株式会社を設立(鳳梨=パイナップル)。国策会社ですけど、当時の統制経済思想のもとでは品質向上の特効薬と信じられ、全島54事業主あったパイン会社は合同鳳梨に次々合併していきます※※。
※※後掲北村
この合併の流れに、既存のパイン業者の一部は激しく抵抗しました。
「密造」「密売」という形で表面化した限りでも、数百缶単位から数万缶単位の規模で、島内はもとより、大連経由で中国大陸へ、あるいは、沖縄経由で日本本国へと、製造・販売ルートが切り拓かれていたという(7)。また、唯一合併を拒んだ大甲鳳梨缶詰商会は、独自の経営路線を模索し、職工60名程度の小規模な缶詰工場から、製缶工場や農場の増設・拡張を重ね、合同鳳梨とわたりあう勢いで伸びを見せている(8)。[前掲北村]
──と北村さんは穏やかに綴りますけど、戦中の国内での逸話からも想像できるように……実際のパイン反強制統合は現代人の想像を絶する強引さで進められ、これに応じない既存業者が公然と「密輸」呼ばわりされたことが、北村さんの前記文中の注7・8(下記)で知れます。
(北村注)
(7) 「悪辣巧妙な鳳梨缶詰密造密輸」『台南新報』1936年4月26日;「多数の職工を擁し悪質鳳梨缶詰を密造」『台湾日日新報』1936年5月9日;「鳳梨缶詰密造者 理解の無い人への抗議 合同鳳梨の精神」『台湾農林新聞』7号、1936年6月10日等。
(8) その後も種々の圧力により合併を「慫慂」する総督府に大甲鳳梨が応じるに至ったのは、戦時統制策のもと製缶用ブリキの確保が困難になった1939年初頭のことである。「合同鳳梨会社が大甲鳳梨を合併 唯一のアウトサイダーも解消」『台湾日日新報』1939年2月11日。
林発さんが、この大合併時代に既にパイン缶製造に従事していたか否かはよく分からない。「密輸」の運送部門のみを担ったのかもしれないけれど──とにかく大合併に抗する動きに並行して、出・台湾のムーブメントが生まれたものらしい。パインそのものは別に台湾土着の品ではないのだから、別の土地でパインを育て売ればいいではないか、という転進策です。──このうち、石垣島に脱出したグループが「台湾合同パインに一泡吹かせてやろう」※と立ち上げたのが1935年10月に創立された大同拓殖だった、と北村さんは続けています。
※北村原注(12) 林発『沖縄パイン産業史』、601頁
元々この会社は、大合併に抗するための連合でした。台湾人事業主を糾合して大同鳳梨缶詰販売株式会社を立ち上げ、最終的に石垣に転進したのです。台湾での創設時のメンバーは以下の通りで、ここに林発さんは名を連ねています。
大同鳳梨缶詰株式会社に参画したのは、
謝元徳(台中州員林郡・協賛公司)、
林曾石(台中州員林郡・昭和鳳梨缶詰株式会社)、
林発(台中州東勢郡・台一鳳梨缶詰株式会社)、
詹奕候(台中州彰化市・正春鳳梨缶詰商会)、
許天徳(台中州大甲郡・大甲鳳梨缶詰商会)、
呉維水(高雄州旗山郡・旗山拓殖株式会社)等。[前掲北村]※北村論文中の注10。なお、改行は引用者による。
※参考:現・台中市東勢区は台中駅から北東15kmの山間部→GM.
「 『鳳梨大同派が沖縄県へ進出 大同拓殖会社を創設(来月中) 黒糖と茶の生産計画』『台湾日日新報』1935年9月19日。」〔後掲北村、原注11〕
つまり林発さんは台湾パイン戦争での負け組の一人です。決して順風とは言えない転進に継ぐ転進の果てに、石垣島で業を成した豪傑なのです。
1939年の石垣島械門
なぜか日本語wikiは、以下の内容を記しませんので、中国語(繁体字版)のwiki(維基百科)に拠ります。──大戦前の八重山への台湾移民に2系統がある。一つは、大正時代に西表島の坑夫(西表炭坑だと思われる)としての移民群。もう一つが、昭和初期に石垣島の荒地に入植した開拓民。(後者は)1916年に石垣島の名藏・嵩田両村に、当地の村が借金や給料の前借りをさせて台湾人を入植させたもの。当時の両村は、感染症(「瘴疫」≒マラリア?)で廃村になっていたからです。
二次大戰前,來八重山的台灣移民分成兩系統,一為大正時代集中在西表島礦坑的礦工;另一為昭和初期在石垣島墾荒的農民[7]。早在1916年,石垣島的名藏、嵩田兩村,因瘧疾、瘴疫成為廢村,當地政府遂以低廉的租金租給台灣人墾殖[1]。
*前掲維基
**[1] 李光真. 〈最古老的農業移民——石垣島的台灣村〉. 《台灣光華雜誌》 (台灣: 台灣光華畫報雜誌社). 1992-03, 第17卷 (1992年第3期)
[7] 三木健. 個人史を通して苦難の歩み記録 地元八重山への重い問いかけ. 《八重山毎日新聞》. 2004
林発さんは、前掲の反合併派台湾人事業主の受け皿・大同鳳梨缶詰販売株式会社を代表してはいたけれど、石垣島現地側からすると後者=移民第二波です。
──台湾中部で募集した数百余人により開墾入植す。
規模的には一集落が新設された感覚です。島民からは当初「台湾村」と呼ばれたらしい。
1935年,欲開發石垣島的林發與他人成立名為「大同拓殖株式會社」的公司,在臺灣中部募集數百餘人前往石垣島墾荒[5][8]。[前掲維基]
*[5] 陳炎正. 〈人物志〉. 《石岡鄉志》. 臺灣: 石岡鄉公所. 1989
[8] 鈴木玲子. 台湾から入植 苦難の歴史(その1) 沖縄・石垣島パインの礎. 《每日新聞》. 2015-11-01 [2016-02-02]
石垣島の歴史は過酷です。記録に残る時代だけでも、風水害と悪疫に何度も滅びかけています。
1835年 八重山で、風疹で636人死亡、疫病で1996人死亡
1945年 終戦までにマラリアで疎開した3,825人が命を落とす〔後掲石垣市観光交流協会〕
台湾からのここまで大規模な入植は、既住石垣島民の反感を急激に高めます。敵対行動が激しさを帯びる。
具体的には──台湾の牛を入れない、台湾農産物を買わない。パインの苗に病虫がついているとして(台湾人所有の)20万株を破損。「台灣人上街採購時被島民罩布袋再毒打」──町へ買い物に来た台湾人に、布袋を被せ繰り返し殴ったというのは、もう戦争状態です。
台湾人入植集団は、そこまで来ても耐え続けたと推定されますけど──これがさらに、台湾村の一部への焼きうちに発展します。
大同拓殖株式會社陸續自臺灣招募農民前來島上墾殖,引起當地島民反感,採取各種敵對措施,例如不許台灣水牛入境、不買台灣農產品、不受僱於台灣人、並稱台灣輸入的鳳梨苗有病蟲害而要求銷毀,達20萬株[2]等等。曾有些台灣人上街採購時被島民罩布袋再毒打,有些島民還潛入臺灣村內縱火滋事。[1][前掲維基]
会社設立から4年後の1939年。──島民が台湾村の薪を盗んだのをきっかけに、ついに武力衝突(械鬥)が発生。島民二千人が台湾村を襲撃、移民側の女性・老人は会社の倉庫に避難。男性は林に潜んで迎撃を準備──
1939年,一位島民入臺灣村偷盜木柴,引發衝突。石垣島民集結近兩千人,預備襲擊台灣村。台灣移民的婦孺們躲藏在大同拓殖株式會社倉庫,而男性則隱蔽在林中,預備和島民展開生死鬥。此刻,林發勇敢跳出,以日語向為首的島民說明事件原委,讓兩方都能將這次衝突事件的肇事者交付法辦,不濫傷無辜,化解即將來的械鬥。[1][前掲維基]
──という状況で、日本語の出来た林発さんが勇敢にも両者の仲介に立ち、かろうじて衝突が回避された……というのが維基百科の記述です。どういう妥結にこぎつけたか定かでなく、もっと生々しい何かはあったんでしょうけれど……実際この事件をピークに、入植台湾人は日本語と島の風俗を必死で身につけ、島民の農業指導をするなどの努力を続けた結果、島民も台湾人を容認。ついには敬意を評するまでになる。──というのは出来過ぎた大団円に聞こえます。
教台灣人學日語及了解石垣島風俗民情。台友會的幹部並深入各村落,幫助島民解決農業上(略)台灣人在石垣島逐漸取得尊敬和認同。[1][2][前掲維基]
でもこれを疑うと、林発さんが「天皇」とまで賞されたことと整合しなくなります。もしかすると、この「天皇」というのは単なる尊号ではなく、何らかの皮肉又は諧謔のニュアンスがあるのかもしれません。
ともあれ──東南アジアの華僑と同じく、石垣島の台湾人華僑も地元との融和上、一種の経済エリートたる役柄を強いられた立場に立ったと推測されます。林発さんが密貿易の一角に名を連ねるのは、敗戦直後の混乱期に身を呈して島民経済を餓死ラインすれすれに浮かせ続けた、というのと同義でしょう。それとパイン再興は、同趣旨の行為だったはずです。
泥に塗れた英雄にこそ、像の一つも建ててあげてほしい。パイナップルパーク様、是非にご検討下さい。
さて、石垣市が市制十周年記念誌に挙げた2人のパイン産業功績者のうち、この林発さんのもう御一方に話を移します。
※ 同映画中キム・ジョンナムの台詞「我々に残された武器は真実だけです」
※ 朝日新聞:「1987 ある闘いの真実」チャン・ジュナン監督インタビュー

石垣島∶廖見福と島田長政
彰化県北斗鎮出身の廖見福さん。大同拓殖の募集に応じた者の一人らしい。戦後の石垣島でのパイン栽培を進めるため、その苗を持ち込み広げた人物とされます。
戦後は沖縄本島や宮古地方から開拓のために石垣島へやってきた人たちに苗を供給し、栽培面積の拡大を図るとともに、移民の生活安定をサポートした。(前掲松田生地による島田長政氏(廖見福の子)口述記録)
この苗が厳密に言えば密輸扱いだったとか*、興業原資が裏交易の利益だった**とかが囁かれています。でもここでまず把握したいのは、本来は沖縄に縁のないこの二人の台湾人が、八重山で業を成そうとしたスタンスです。特にこちら廖見福さんは、終戦直後の交易の結節点となった八重山に輸出品を新興しようとした気配があります。
**Food, Pacific War FAQ|軍事板常見問題 第2次大戦別館
URL:http://keshiintokorozawa.web.fc2.com/faq08n02.html
見方を変えると八重山パインは、台湾華僑が自らの生計上の武器として新規開発した「輸出商品」であるわけです。
**後掲中時新聞網
次の記述は廖見福さんの、沖縄で生まれた息子・島田長政さんのものです。前段は、上記廖見福さんの草創期から戦中のサバイバルを語っています。長くなりますけどライフヒストリーとして連続しており、切らずに転載します。
父が石垣島にパイン工場を作ったのには理由があります。1935(昭和10)年、台湾資本の大同拓殖という会社が作られました。その会社の責任者は林発(りんぱつ)さんという方で、彼は、農業従事者を台湾で募り石垣島に連れてきました。そのほとんどが読み書きの出来ない人たちでしたが、その中で、父は台湾で日本の教育を受けていたので、パイン工場でも重宝されたそうです。それで、すぐに生活が楽になり、台湾から家族を呼び寄せることができました。〔後掲沖縄県平和祈念資料館〕
つまり廖見福さんは、台湾で日本語を含む日本教育を受けた後に渡沖したことが幸いし、大同拓殖で出世した人らしい。
ただ林発さんの話にも出たとおり、戦中のパイン没落期には西表島に疎開。長政さんはこの時代に生まれ、戦後に父・廖見福さんと一緒に石垣島へ戻ったようです。
私の生まれは西表島の大原ですが、石垣島の嵩田で育ち、ここにずっと住んでいます。私の父(廖見福:りょうけんぷく)は、1937(昭和12)年台湾の台中から石垣島へ移住してきました。父は最初、単身で来ましたが、生活の基盤が出来るとすぐに家族を石垣島に呼び寄せました。戦争が始まると西表島に疎開し、そこで私が生まれました。そして、終戦直後に石垣島へ戻り、しばらくは、現在の石垣島製糖がある名蔵で芋を作っていました。終戦後、戦地から住民が戻ってくると食糧不足になることを見越して、父はいち早く芋を増産しました。それで、随分とお金を稼ぎました。
そのお金で父はパイン栽培を始め、パイン工場も建てました。いつも私の家には住み込みの人夫が数名いたので、長いテーブルには20名ほどが席に着き、みんなで食卓を囲んでいました。〔後掲沖縄県平和祈念資料館〕
何と。「緑の牢獄」だった戦中の西表島で、廖見福さんはむしろ財を成し、これにより石垣島に戻って独立した工場を持っています。実際は何らかの危ない橋も渡ってきた経緯があるかもしれません。
次の記述には「私の父は、パインの苗をたくさん持ってい」たとサラリと書いてます。見方によれば密貿易とも取れる、独自の流通路を持っていたのでしょう。
昭和20年代後半から30年代(1950年前後)にかけて、石垣島の東部や北部にも多くの人が入植してきました。しかし、入植者たちはパイン栽培をするための苗代を持っていませんでした。私の父は、パインの苗をたくさん持っていました。それで、私は中学校の夏休みも遊びにも行けないくらい、毎日パインの苗を勘定して農家に渡す手伝いをしていました。父はお金のない人にはパインの苗を貸して、収穫後に苗が戻ってきたら次の生産者に貸していました。そんなことをしていたので、我が家には現金が入りませんでした。1950(昭和30)年から林発(りんぱつ)さんたちのパイン工場など、私の父の工場も含めた4つの工場を統合して、「琉球缶詰」という大きな会社が設立されました。そのような計画があったので、生産者にはパインを植えさせて全部買い取る約束をしていました。父は会社の農務部長で、自分もパインを作っていました。当時、我が家はB円(米軍の軍票)換算で120万円の77坪の家を建てました。パイン代を当てこして家を建てましたが、急激に増やしたパインの増殖分を工場が処理てきずに、大量のパインを腐らせてしまいました。父は工場長の立場もあったのて、自分のパインを優先して処理できず、パインを腐らせてしまって全部捨ててしまいました。結局、苗代もパイン代も入らなかったので、それから私の家は急激に没落しました。〔後掲沖縄県平和祈念資料館〕
ただ、その貴重な苗で廖見福さんが札束を巻き上げた──という訳ではなく、長政さんの言を信じるなら、むしろ殖産的にバラマキしたようです。
結果、廖見福さんは1950年代に没落するに至っています。林発さんもですけど、最終的には決して成功者ではありません。
ライフヒストリー:B1さん 1948年石垣島生・男性
後掲野入はこの時空の数人の聞取りを行っているけれど、お二方だけご紹介します(C1さん:後掲)。まずこの方B1さんは男性。労働者移入の波にのって石垣島入りした台湾系二世です。
B1さん:2世、男性、1948年石垣島X部落生まれ。
国籍…中華民国国籍→1973年に帰化(25才)。
移動…沖縄本島へ(19才)→石垣島へ(32才)
略歴…日本植民地下の台湾から移住した両親の間に生まれる。父親は戦前は農民だったが、戦後は同郷者の台湾人実業家を助けて台湾から工場労働者を募集してくる仕事についた。本人は沖縄本島の高校を卒業後、沖縄本島で台湾人の経営する貿易会社に勤務し、そのときはじめて台湾語を覚えた。沖縄人女性のB2さんと結婚し、X部落に戻って農業に従事する。華僑総会の運営には積極的に参加している。〔後掲野入(一)〕
年齢からすると既に1960年代に入っていた頃でしょうけど、貿易の内容は、台湾へスクラップを移送、台湾からはパイン工場資材を移入していたようです。
「仕事の内容は、私が任されてたのはスクラップの部門で、中古のパーツ、自分たちの欲しい部品を選び出して取り出して、これを台湾に送る。台湾からは、沖縄で必要なパインエ場で使う用品を仕入れて、それからベトナム時代からはトラック、死体までもね。(中略)兵士の死体を沖縄にもってきて、沖縄で洗って、バラバラになってるのをかたちに梱包して、まあ自分たちは直接やりませんけどね、代理店ですから別の人にやらして、監督して。」(B1さん)〔後掲野入(一)〕
ベトナムからの「死体」という「輸入品」は、何のことか判然としません。米兵の戦死者の移送ということでしょうか?野入さんも言及していませんけど──とにかく米軍政下の沖縄からの南島航路の、利益を生むなら何でも運ぶ「貿易家」による活況ぶりを垣間見せます。
もう一点、B1さんは親族らの反感を押し切って沖縄人女性と結婚しています。台湾人への「差別」とは言い切りにくい、「異人視」の状況が、次の「宇宙人」という語によく表現されています。
<Blさんもごきょうだいも、みなさん台湾の人じゃなくて、沖縄の人や県外の人と結婚していますけど、お父さん、お母さんは、>
「何も言いません。私のことで言えば、うちの女房…(結婚するとき、自分は)まだ…外人でしょう。(中略)『よりによって宇宙人みたいな人を連れてきて』と言われましたよ、向こうの親に。結局、戸籍もない。むこうの親父にしてみたら宇宙人みたいな人間なんじゃないですか(笑)。(中略)最後はあきらめたんでしょう。」(B1さん)〔後掲野入(一)〕
帰ってきた石垣島パイン産業の担い手たち
入植台湾人たちのその後を追うよすがとして、上記にある琉球缶詰のデータを集めてみました。後掲石垣市の年表には確かに1955(昭和30)年に「6月12日 琉球缶詰株式会社設立総会」という記述があります。ただ、これは長政さんの捉えたような単なる既存工場の統合という性格のものではなかったらしい。
戦後に台湾人排斥が生じなかった理由は、ひとつには戦後のパイン産業が、台湾人実業家と沖縄人実業家との協同によって発展したことである。アメリカに移民してパイン農園を経営していた沖縄人実業家たちが石垣島のパイン産業に加わったため、戦前にみられた台湾人実業家による産業構造上の支配は再現しなかった(8)。〔後掲野上〕
(9)9)1951年から対日貿易が許可されたために、対日輸出用のパイン缶詰の製造を沖縄で行おうという機運が高まった。台湾やフィリピン産の輸入パイン缶詰にかけられる25%の関税と30~64%の差益吸収金が沖縄からの輸入品については免除されたため、本土復帰までは沖縄産のパイン缶詰が市場をほぼ独占することができた。1956年から始まった対日輸出において、パイン缶詰の売上高は61年には700万ドル、ピーク時の65年には1750万ドルに達した。1960年代にかけて、八重山郡のパイン缶詰生産量は、3ダース入り約30万ケースから90万ケースに増加した(林発、前掲書、281ページ参照)。
※林発前掲書=林発「沖縄パイン産業史」沖縄パイン産業史会,1984
在琉台湾人が地元に受け入れられていった背景には、皮肉にも、彼らが東南アジアのような一方的な経済エリートとして定着しなくなった安堵感も手伝っているようです。
琉球缶詰㈱の法人としてのその後の沿革は、確認できていません。長政さんの見解が正しいなら、パイン製品化に失敗した時点で廖見福さんと同様に経営破綻した可能性があります。
ただ、1955年時点で林発・廖見福両氏の職は常務。社長に就任しているのは、ハワイでパイン事業を成功させた大城満栄さんです。つまり、新しい層が沖縄パイン産業の担い手として参画し始めています。
この新参画経営層についての研究は、まだ端緒についたばかりらしい。現在、安里陽子さん(岐阜工業高等専門学校)が研究を進めておられますけど──「移動を重ねる人々」の引揚組が、台湾人の始動させたパイン産業を現代に繋げてきたというアプローチです〔後掲安里〕。
後掲安里論文には次の表が掲げてありました。この人々の前歴を見ると、大戦前後まで世界各地に雄飛していたウチナンチュがその多彩な経歴で培ってきたナレッジ、いや「メティスの知」を結集した様が見て取れるのです。
※※金城朝夫1988 「ドキュメントハ重山開拓移民」あ〜まん企画
パイン産業にかかわる労働者たちは、いわば複数の境界を超えて石垣島で出会い、さまざまな境界が刻まれたシュタイであるといえよう。パイン産業に携わる労働者たちが背負ってきた、あるいは超えてきた境界は、いずれも資本にかかわって刻み付けられたものであったのだ。換言すると資本によって、石垣島でパイン産業に携わる労働者というシュタイが生み出されたのである。今日、境界(bordeT)とは単に地理的、領土的な緑ではなく、境界の強化や越境の実践において生じる緊張関係に特徴づけられるような、複雑な社会的制度である[Mezzadra and Neilson 2013:3]といえる。たとえば米軍占領期のパインブームにまつわる資本もそうであったように、資本というものはつねに境界にかかわって生み出され、そこには資本と労働力が密接にからみあって存在している。石垣島で登場したパインプームは、まさにこのような増殖する境界によって生み出されたのではないだろうか。パイン産業に投入された資本は、まさしく当時の沖縄の境界性にまつわるものであり、労働者はさまざまな境界を越えて石垣島に移動してきた人びとであった。そして境界において資本とさまざまな統治権力がからみあってつくり出された労働力という存在でもあったといえるのではないか。〔後掲安里〕
してみると入植台湾人たちは、石垣島というマーケットで敗退したというよりも、マージナルな根源を持つ産業構造をラッセルした栄誉ある先駆けだった、と捉えるべきです。
台湾中部の台中や員林地方の大同パイングループは、1935(昭和10)年、バイン生産の新たな活路を求め石垣島の名藏・嵩田地区に入植しました。林発氏らを中心に大同拓殖株式会社を設立、60戸、330人を呼び寄せ、幾多の苦難を乗り越えパイン生産に成功し、1938年夏、初めて缶詰を本土に出荷しました。しかし戦時体制下でパイン栽培は禁止となり、工場も日本軍の兵舎にとられ、敗戦で廃業しました。
工場を失った林発氏や廖見福氏らは、パイン産業を再興するため秘かに保存していたパイン種苗の普及を図り、家内加工による缶詰生産を再開します。時の琉球政府のパイン奨励、日本政府の輸入関税免除で、栽培は飛躍的に広大、格好の換金作物として、沖縄本島や宮古からの入植者たちの生活も支えました。やがて生産は沖縄本島北部へも広がり、さとうきびと並ぶ二大基幹作物に成長、最盛期には全沖縄で21工場となり、日本復帰前の沖縄経済を担いました。
水牛は1933年に台湾からの移民により農耕用に30頭が導入されたのが始まりです。これが繁殖して普及、八重山の農業生産の向上に大きく貢献しました。
よって私たち市民・県民有志は、パイン産業と水牛を導入した台湾農業者の功績を称え、ここに顕頌碑を建立します。
2012年1月
台湾農業者入植顕頌碑建立期成会〔臺湾農業者入植顕頌碑(碑文)←後掲安里〕

名護∶台湾Uターン者によるパイン生産
読者も忘れかけていたかもですけど、本章はパイナップルパークの町・名護の紀行でした。
翻って 現在の沖縄の農業生産量を見ると、パインのメイン産地は沖縄本島北部。量で沖縄パイン発祥地たる八重山を凌駕するに至ってます。だからこそ、恥ずかしいテーマパークが名護に賑わってるのです。
林発さんらの苦闘の末に名護のパイン伝説もあります──と説明できる事実は見つからない。この名護のパイン起業は、八重山からの二次移入ではありません。
現在は名護市の一部となっている旧羽地(はねじ)村の嵐山で、同村出身の玉井亀次郎が1952年、ハワイ帰りのいとこと組んでパインの生産を成功させた。[前掲nippon.com]
石垣島の琉球缶詰社長・大城満栄と似た経緯です。少なくとも純技術的には、ハワイのパイン農法を移入したのが戦後の羽地のパイン産業です。
嵐山には、「嵐山玉井農場開設拾周年記念碑」が建っている(昭和36年羽地村建立)。不毛地とされていた嵐山の開墾(昭和26年着手)とパイン産業の普及に貢献した玉井亀次郎氏の功績をたたえたものである。
*名護大百科事典 Nagopedia 試行版 – 呉我
URL:https://sites.google.com/site/nypedia/home/area_haneji/goga
玉井さんは、少なくとも終戦までの30年は台湾南部を拠点にしていた農業者です。台湾ではエンジニア兼起業家でもありました。
玉井は、沖縄県立農林学校を卒業した後、同校校長の紹介で1913年に塩水港製糖(本社・台南新営)に入社すると、花蓮港でサトウキビ農場の場長を務めるなどした。その後、中途退職して農地開発に取り組み、1935年には台湾澱粉(でんぷん)株式会社を設立した。[前掲nippon.com]
終戦前10年間経営していた台湾澱粉社は、次の言を参考にすると、台湾品種の芋からのデンプンを関西向け商品として転がす商売です。
父は台湾ではね、キャッサバ(イモの一種)からでんぷんを取って粉にして、大阪や神戸のお菓子屋さんやお薬屋さんに送りよったんです。それが大きな仕事でした[前掲mippon.com 四女・安富久子さん談]
こうしたヒト・モノの移動から利益を導く発想の人物が、戦後に台湾から引き揚げる際、本島北部に台湾で得た農業資源や技術を持ち込まなかったら、その方が不自然です。
交易ルートに通じている者の常として、八重山でのパイン移植成功の報も得ていたでしょう。故郷の荒地をイメージして、台湾南部での農地開発の経験と有望パイン種の苗を携え、かつハワイの親族の資本も誘導し、帰島後直ちに大規模移植を行ったのだと推測できます。つまり、林発・廖見福・大城満栄三氏を合わせたような振興策を、地元羽地に持ち込んで爆発させたのです。
アメリカのドライな経営を基盤とした名護のパイン産業は、石垣島のそれより競争力が高く、沖縄本土復帰後に前記関税優遇のメリットを失った後も辛うじて有利性を確保し続けます。
1970年代に入るとパイン産業は斜き始める。日本政府は沖縄の本土復帰の前年、1971年に冷凍パインの輸入自由化を実施した。沖縄が復帰するとき、石垣島製のパイン缶詰が、安価に製造され始めた本土製の缶詰と競合できる見通しはほとんどなかった。さらに復帰を前にして石垣島からの労働力流出が起こり、産業の斜陽化が本格化する前に労働力不足が生じていた*10)。〔後掲野入(一)〕
繰り返しますけど、石垣島と名護に産業的連関はありません。ありませんけど両地のパインは、同じスピリットで勃興したものだということはご理解頂けるのではないでしょうか?
マージナルなウチナンチュの航跡が、戦後の米軍政治下に還流した開花が、この土地のパイナップルなのです。
台湾∶パイン女工
台湾からの人の流れは、さらに後、もう一つの波となっています。これは移住ではなく、季節労働者です。
1945年から1972年までの米軍統治期に入ると、沖縄のパイン産業は、労働力の確保という点でも台湾と密接に絡みながら発展していく。沖縄のパイン工場は夏場の繁忙期の人手不足に対応するため、労働者を台湾から招いていたのである。その人数は、本土復帰の前年までに八重山だけで延べ約2000人に達した。日本統治期にパインを扱ったことのある人も含まれ、加工技術の高さでも沖縄のパイン産業に救いの手を差し伸べていた。[前掲nippon.com]
台湾でのパイン農業は、やはり戦時中に衰えたけれど、日本からの技術移入で再興しています。日本から、というより正確には、日本に引き揚げていた台湾パイン農業の旧指導者たちを招聘したらしい(1951年∶中村徳松,1952年∶渡辺正一 前掲八尾)。
ただし、その後の推移は順調ではなく、本家ハワイのパインとの競争にさらされます。国民政府は価格面で対抗するため、労賃を抑える政策をとります。その結果として熟練パイン工の沖縄流出を招いた、というのが大背景にあるようです。
この労働市場の方面で、林発さんの活動が再び記されています。
1960年前後のパインブームの頃から沖縄の農村では人手不足が問題化する。この背景には日本本土の高度経済成長や沖縄県内の建設事業などに農村労働人口が吸収されていったことがある。こうした人手不足を補うために、1962年に林發が工場長をつとめる琉球殖産のパイン工場に台湾からのパイン女工が試験的に導入された。日本の敗戦後、日本籍民の台湾人から中華民国籍の華僑へと、国籍を自らの意思とは無関係に切り替えられた林發は、八重山華僑のトップとして台湾をたびたび訪問し、台湾のパイン産業の視察も行っていた。台湾からのパイン女工の導入は林發の発案によるものであった。[前掲八尾]
林発さんが励起した女工導入規模は、年間2千人※と言われます。前掲nippon.comの「のべ2千人」の双方が正確と仮定すると、その流入は八重山だけでなくそれ以上に本島名護付近にも顕著だったと想定されるのですけど──その辺りが動態的に見通せるデータがありません。
琉球政府は1966年から「技術導入事業」として沖縄への非琉球人の雇用を開始することになった11)。技術導入事業によって台湾のパイン女工をパイン技術者として招くことが可能となった。最盛期にはパイン業のみならずさまざまな業種による募集によって年間二千人ほどの人びとが台湾から沖縄へ渡った。[前掲八尾]
*11) 技術導入事業の詳細については、八尾[2013]を参照。
**八尾祥平 2013 「戦後における台湾から「琉球」への技術導入事業について」『帝国以後の人の移動――ポストコロニアリズムとグローバリズムの交差点』蘭信三(編),595-623ページ,東京: 勉誠出版.
ライフヒストリー:C1さん 1945年台湾生・女性
さて、もうお一方、野入さんの収集したライフヒストリーを見ます。C1さんはまさにパイン女工時代に、台湾から石垣島に来て定住を選んだ方です。後で触れるC2さんはその長男。
Clさん:女性、1945年台湾生まれ。国籍…中華民国国籍→1981年に帰化(36才)。移動…石垣島へ(20才)略歴…1965年、台湾人の親戚の紹介で、夫と石垣島に移住し、サトウキビ刈り・パイン栽培労働者として働く。帰化した後、土地を買って農業に従事できるようになった。台湾においてきた息子たちは、14才になる前に沖縄に呼び寄せた。現在は石垣市の市街地で台湾の雑貨.農機具輸入と小売業を営む。月に2,3回、台湾人の商売仲間の女性たちといっしょに台湾に仕入れに行く。〔後掲野入(一)〕
C1さんの台湾行きは、家族ぐるみで成されたようです。ただ、残ったのは石垣島で家族を成したC1さん一家だけになったらしい。
「うちのおじさん(B1さんの父親)、台湾行ってから、自分の兄さんとうちのきょうだいに、一緒、沖縄のパイン工場、製糖工場行こうと。(ママ)(中略)うちが来たときには、おばさんからもう(親戚みんな)来てるから、毎年10何名か来てる。(中略)パインエ場潰れてから、みんな台湾に帰った。」〔後掲野入(一)〕
「パインエ場潰れ」たのは、野入によると「1997年に島で最後まで稼動していたパイン缶詰工場が閉鎖した。パインの栽培そのものは規模を縮小しながらも続いているが、パイン産業は完全に終息した」〔後掲野入(二)〕とあるよりも、感覚的にはかなり早い時期でしょう。
「R工場は100人以上働いていて、台湾の人は十何人、あとは沖縄の人。最初きたとき、言葉が全然わからん。もうお店、買い物のとき、欲しいものを選んで、財布をそのままお店の人に渡してお金をとってもらって、返してもらってた。」
<じゃあ、職場でしゃべるのは台湾の人とだけですか。>
「沖縄の人もよ。あれ、毎年台湾から(労働者が)来てるでしょう。あれ少し台湾の言葉がわかるから、沖縄の人も一緒におしゃべりする。こっちも、言葉がわからないのは最初の2年ぐらいだけよ。」(C1さん)〔後掲野入(一)〕
つまり、日本で働く準備は語学も含めて何もなく、身一つで飛び込んでくる。台湾人にとって石垣島は、かつてそういう場所だったということです。
「最初からもうこっち(石垣島)は儲かって、台湾に(お金を)もっていくから、もう台湾、手間賃安いでしょう。今、台湾、景気いいよ。こっち不景気。子どもたちはみんなこっちで仕事やって、学校もみんなこっち出ているから、もう台湾行かないよ(笑)。」(C1さん)〔後掲野入(一)〕
ちょっと時系列が分かりにくいけれど、家族それぞれに生活基盤が出来てしまったから台湾には「行かない」ようになったということです。
さて、C2さんはC1さんの長男。この方のヒストリーには、もうパインは一語も出てきません。
「僕自身は、(何人かと)聞かれたら常に台湾だと主張します。なんで自信を持って台湾人と言えるかとなると、もちろん、台湾で生まれたから台湾人だけれど、北京語も台湾語も流暢にしゃべれるし、理解できる。そして商売して、ちゃんと生活して、税金も払ってるから、立派な日本の台湾人、日本国籍のね。言葉を生かした民間通訳もしてるし、ボランティアでも役に立ってると思います。台湾の人はみんな役に立ってると思います。だからみんな自信を持って(自分が台湾人だと)言っていいと思うんです。自分としては、長男だから祖先崇拝の文化、清明祭とかも継いでいきたいなと。」(C2さん)〔後掲野入〕
全く、惚れ惚れするような真の国際感覚を持っておられます。何が売れるスキルかを計算しつつ、それでも自分のルーツはドライに認識している。
石垣島の蛇踊りは、残念ながらまだ有名ではないけれど、C2さんあるいはそのグループは華僑の島としての観光資源を創出しようとしているらしい。
「もともと、(蛇踊りが)できるわけではなかったんです。華僑は、何か会社を興して儲けて大きなピルを建てたのが華僑だというように見せようというのじやなくて、台湾の文化だよと、中国の何千年の文化を、僕らはできなかったのを習って、石垣市民に見てもらって、『あ、すごいねえ』と言ってもらうと。それをもって、それは僕らに対する信用だと思ってるし。(母国文化の継承というだけでなく祭に)参加することを目的にやってますから・台湾人は、税金は仕方ないから払うけど、寄付とかあんまりやってない。それじゃあいかんなあと思って、僕も何かして、台湾の文化を残せるものがいいなあと、それで蛇踊りを選んだの。見せるために、何人も汗かいて一生懸命やって。まだ3年目にはいったばかりだから、まだ台湾の文化いっぱいあるから、今後はまたそれに移っていきたいな。」(C2さん)〔後掲野入(二)〕
境界人としての八重山-台湾人
こう見ていくと、八重山、中心地としては与那国島で敗戦直後の海域を闊歩した人々は、沖縄人だったと断言していいのかどうか疑問が湧いてきます。戦後の沖縄や台湾のデッサンを描いていった人たちは、海域を股にかけて移動する、台湾人ともウチナンチュとも規定されない人々だった、という感を強くするのです。
例えば林発さんは、台湾の招聘に応えて日本から戻ってきた渡辺正一と度々情報交換をしていたという。
日本の敗戦後、日本籍民の台湾人から中華民国籍の華僑へと、国籍を自らの意思とは無関係に切り替えられた林發は、八重山華僑のトップとして台湾をたびたび訪問し、台湾のパイン産業の視察も行っていた。[前掲八尾]
台湾側の論文では、この国籍無断切替も問題視されています。でも本人たちは、そんなことより虚ろに行き来する国境の向こうとこちらに同じく幸あらんと尽力してきただけなのではないか、という印象を持つのです。
【補論】なかやま 中山 亡国の移民団
パイナップルに関連して、もう一集団、輻輳する「移動を重ねる人々」の像があることに、この日にたまたま通った中山十字路で気づかされました。
明治初の中南部からの移住集団です。
もとは屋部村山入端(やまのは)・屋部(やぶ)・宇茂佐(うむさ)と名護町宮里の4字に属し,山入端原と通称されていた。王府時代末から明治初年,沖縄本島中・南部からの移住者が入植して定着した集落。生活慣習の異なる本集落の屋部との交流は少なく、同じ屋取の勝山・為又(びいまた)との交流が多かった。(続)〔角川日本地名大辞典/中山〕
読みは内地と同じ「なかやま」。今この場所周辺の集落地図を出してみると──
山中、特に十字路西側におびただしい数の山道が伸び広がってます。規則性、計画性はまるで窺えません。開拓時に各集団がてんでバラバラにつけた道でしょう。
(続)中山は新しい集落で拝所もなかったが,昭和15年にオミヤを山入端の古島の拝所跡に作った。中山は小学校のある屋部から遠く,交通も不便なため中山分校が設けられている。(続)〔角川日本地名大辞典/中山〕
「山入端の古島」は根屋こそないものの、この開拓集団が最初に住み着き、入植の拠点にした場所なのでしょう。GM.では現・ホテルリゾネックス名護の北面(→GM.)。
つまり、偶然ですけど──次章で訪れた場所になります。
(続)山間集落のため水田は少なく,第2次大戦前は藍・茶・樟脳などを産した。戦後,パイナップルが移入され,酸性土壌に適していることもあり,今日では名護市域では有数のパイナップル栽培地域となっている。〔角川日本地名大辞典/中山〕
ここが羽地と並ぶパイナップル産地として、興隆することになります。
中山交差点を土地ではミチドゥティ(三土堤)と呼ぶという。域内は7つの班に分かれ、うち1〜5班がフルヤマヌファバル(古山入端原)、6班がトゥングムイ(烏小堀)、7班がウチヤマ(内山)とミチマタ(道又)を称す。
近年はみかん栽培も盛んだといいます〔後掲Nagopedia〕。
At the beginning, I was still puzzled. Since I read your article, I have been very impressed. It has provided a lot of innovative ideas for my thesis related to gate.io. Thank u. But I still have some doubts, can you help me? Thanks.
Your article helped me a lot, is there any more related content? Thanks! https://accounts.binance.com/vi/register?ref=B4EPR6J0