015-6中山~戸坂\安芸郡四町\広島県onCovid

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~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

1017新幹線口(若草町)バス停。ここもこんなバス停があったのか?というバス乗り場です。温品行きでもいいのかもしれんけれどGM.のお告げ通りの27番中山・戸坂東浄団地行きを待つ。
晴天。彼岸も過ぎたのに凄まじい暑さです。

ひろしま八区ぐるっと散策「みち」めぐり 三田往来 – 広島市公式ホームページ
URL:https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/14/126619.html
三田往来
古代には高田郡三田郷(現在の白木町域)から安芸国府へ往来があり、安芸高田市の吉田郡山(俗に・吉田道)と三次支藩(俗に・三次往来・中郡道(なかごおり))への連絡道として、中世以来数多くの武家が駆け抜けました。
尾長の大内越峠より中山・温品・馬木・福田・小河原・深川・狩留家を通り、白木町三田地区から井原市に至ります。

大内(おおち)越は明治以降のルートとする記述もあるけれどそれでこの名称というのはないように思う。ただ,何のために船を使わずこんな高所を越えて府中湾奥に至っていたのか理解しにくい。どうもこの矢賀・中山方面からの道の性格が分からない。なぜわざわざ陸路なのか?

案内の見方がおかしいのか,一本逃したらしい。でも是非とも大内越峠経由のこのルートに乗りたい。
29番のうち大内越峠経由のものもあり,これは中山踏切を通るらしい。でも27番がきた。1036ようやく乗車。
愛宕神社は過ぎた。あ,ここから入るのか。ad愛宕町1。さらに左折。学校の東にを通る。バス停・三本松というのはここなのか。
山根町郵便局。この辺りの地脈がどうにも読めない。次がバス停・大内越峠。
1046中山踏切下車。あまり古みは感じない。建設中の高架下。
まずは芸備線沿いに南へ。ad中山西二丁目から南一丁目9
1052吉田物産

舟木第一踏切

1055舟木第一踏切。石垣が少し残る。
ここから道が線路を離れる。左手西側にそれらしき森山が見えてきた。
男崎神社階段

1059ad矢賀三丁目8で左折。この鳥居は……adは左手が中山南一丁目10,右手が矢賀三丁目10。男崎神社は境神でもあるらしい。南から伸びてる裏道もここでL字に折れて終わってる。
ビニールシートと乱積み石垣

崩れたビニールシートもあるけれど石垣の積みが複雑で乱積みというより無茶。
社屋はコンクリ,ということは一度崩れて実用性を優先してる。本殿は木造のままでかなり雄壮な造り。
男崎神社本殿

男崎神社狛犬と後背のマンション

摂社なし。この神だけの段です。
1113温品団地方向を一枚。
右側通行な男崎神社階段より温品団地

1126水を買って舟木第一を東に渡る。いよいよ日差しは呵責ない。
団地だけど古いルートらしい水路がある。
芸備線線路脇より

夏の団地

1133ad矢賀五丁目1。線路引き込み。おそらくここが三日市地点です。
新幹線線路引き込み地点 推定:三日市

 前掲「船越から」は,史書※※の記述する「新堤」(中山川に13Cまでに築かれたと推測される堤防)の立地から,緻密に三日市の位置を推測しています。
※ 安芸の船越から・・山陽道歴史探訪>中世の温品村と矢賀村
※※ 田所氏(国府(現・府中町)の国衙)所領を示した「沙弥某譲状」,1289(正応2年)
原文:温品村田畠・10町
小内・6反、船木口・8反、江良田・5反、黒谷・2反、天*・3反(*の文字は林の下に木)、手箱・6反、新堤・7町

「三日市」推測地点(図上のD又はC~Dにまたがるエリア≒現新幹線引き込み地点)

ビリーザキッドの指す戸坂方向

ビリーザキッドの指の方向が戸坂らしいけど水路を渡れんなあ。
1144信号無視してバス停・中山小学校前。
おおっ!何と今日はちょうどお好み焼きにありつけました。
1150絆心
肉玉辛麺,ネギ トッピング650
……一応断ると全くの通りがかり。だけど何か有名店らしく,1215まだ待ってます。
この東脇を小川の水路が通ってます。さっき北を邪魔した流れと同じものですけど,これが中山上,つまり戸坂方面への流れの発する東浄の溜池の2百m南まで続いている。そこまでが2km,そこから戸坂までがさらに2kmと距離そのものは大したもんじゃない。当面これに沿って登ってみよう。
1233旨かった。いい風が吹いてる。再スタート。
中山小学校西の水路沿い

1239分岐。右の道は登ってるけどこちらだと思う。右へ。
すぐに稲生神社。階段上がる。
明治になって萬休寺の上陵あたりから移転した神社とある。

「安永四年奉寄進」と刻されている石燈籠が存在していることから,安永4年(1775年)以前には建立されていたと推測されます。[中山稲生神社ペーパー]

祭神:土産之大神(うぶすなのおおかみ) 大宮能賈神(おおみやのめのかみ) 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 大田命(おおたのみこと) 大穴牟遲神(おおなむちのかみ) 事代主神(ことしろぬしのかみ)

宮司不在の神社でしたが,温品の清水谷神社の宮司による毎月の神事を行い,「秋季大祭」は,町内会ごとに幟を立て,獅子舞によって一軒一軒の悪霊を除去し,村と家を神聖にしてから神様を迎える行事など,近隣の村々とは異なった神様信仰の文化が生まれました。[前掲ペーパー]

稲生神社裏手の階段

裏山から降りれた。元はこっちが正面かもしれません。ad中山鏡が丘7
稲生神社裏手階段を下から見上げて

線路脇の奉献石柱

ad3,線路脇に「奉納」柱。線路が出来る前の稲生神社参道か?
花は多いが線路を渡れない

1309花多き沿線。ただ線路の左に行けないまま道が右山手に曲がる。出れるのか?
ad1から再び下る。惣田第一踏切で左へ出れた。1316
中山上付近の車道沿線

ad中山上一丁目3。右に線路,左に水路。渡ってから何だけど集落は右側の方が古そう。バス停・中山上町。
1322上町一丁目1。2百mほど先がトップになってる。左右とも団地。いや?左手に小さな祠がある?
石佛社のロック付祠

石佛社。ロック付の神様ワンルーム。中山まちおこし委員会の看板によると,明43稲生神社に合祀,しかし大正中頃に現在地近くに遷されたという。戻ったとは書かれないし不思議な行程です。
1334トップ間近

1330ad中山北町,バス停同名。
1336バス停・第一病院前,トップのセブンで一服。
石垣が残る戸坂側路地

1346右側へ。結構石垣が側溝に残る。
1350バス停・戸坂南二丁目。右の路地が川道っぽいので折れる。ad戸坂大上(おおあげ)四丁目30
流れは結構な急流
大上の流れに沿って

大上三丁目3。いい沿線になってきた。蛇行しつつ下る。
この辺は車道の左手が団地らしい。こちら右手は対照的に落ち着いた町が続く。
石段の残る路地入口

1403三丁目1。ファミリー菜園
1405道が線路の下を左手車道へ抜ける。くぐらずに線路右を直進することに。

戸坂直進路。農村っぽい光景

右手から流れが来た。自転車や原チャも多い。行けるはず。1414
1415戸坂数甲(かずこう)二丁目5。
花多き戸坂直進路

戸坂直進路に降る日射

がっちり石垣を組んだ水路

この花の多い道,石垣もちらほら顔を見せる。結構古道ではないか。水路の古さも半端でない。
くぐらなかった線路下ゲート

1424あかしあクリニックが見えた。ここだと思う。右折,山手へ。
1427奉納柱の路地へ左折して入る。
奉納石柱の路地へ

三宅神社南側入口

1429三宅神社。
由緒「祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと 応神天皇) 帯仲彦命(たらしなかつひこのみこと 仲哀天皇) 息長帯比女命(おきながたらしひめのみこと 神宮皇后) [相殿神]天照大神 大己貴神(おおなむにのかみ) ほか合祀五柱神
(略)
創建ははっきりしないが,旧記によれば明徳三年(一三九二年)に八幡三神を勧請したといい,さらに文禄三年(一五九四年)に再興,天明七年(一七八七年)に再建(略)この一帯は八幡山と呼ばれている。往時の鎮座地は南参道下あたりにあり神仏習合の時もあった。いつの世にか現在地へ遷座したという。(略)氏子地域は大上,数甲,山根,惣田,出江の五迫と百田(南),東浄団地などである。
当神社が勧請されるまで,戸坂一円は狐爪木(くるめぎ)神社の氏子であり,狐爪木神社の兼務社としてお守りしている。」[故 木村八千穂宮司記,奉献 ハウスバーンフリート戸坂住民一同 平成19年4月吉日]
三宅神社北側参道

そのまま抜ける。
車道から北へ行けるはずだけど道を見ない。路地へダメ元で入る。1450。ad戸坂山根三丁目11
旧家な立地の家構え

石垣は物凄く増えたけれど北への道がない。
1455三丁目16でやっと開けた。左折北行。太田川が見えた。
太田川を望む

1504ad戸坂惣田二丁目12。完全に団地だけど売れてないのか緑地がポツポツ。道もくねり石垣もある。奇妙な土地です。
緑地の残る半団地

降りると駅に出れない!上の道まで戻って北へ。1511ad二丁目9
線路に出れずに歩く戸坂山手道

駅方向へ下る水路

列車の汽笛と停車の音。行けないよう。
とか言いつつ渓流を見つける。今度は方向は間違いない。路地を下る。
水路下に現れた名を掲げないお堂

1520古く名も掲げないお堂?え?鳥居?
1522電車が広島駅方向へ去るのを見るけどもう気にしない。謎の鳥居を抜けて──駅!
駅へ続く謎の鳥居

乗り口側はad戸坂惣田一丁目17。かなり山際にある駅なのである。
平地側からは山手路地奥に現れる戸坂駅

バスも良いけど芸備線に乗るなら物凄く久しぶりです。1542発で南へ2駅乗ることにする。
さっきの鳥居をよく見るとGM.にあった「重氏稲荷大明神」と書いてある。あのルートのどこにあったのか定かでないけど……。
あらら?下校時間らしいぞ?そうか城北があるのか,ここ。
乗車。す,涼しいッ!!
5分強で矢賀に着いて悔しい。でも芸備線がなぜ矢賀→戸坂というS字を採るのか実感できます。しかもこの駅間はかなり山手を通ってる。鉄道敷設時期から相応の集落の密度があったからでしょう。
1555広島駅着

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牛田山の頂上広場が見えたところでちょっと寄り道。右の斜面を数メートル下ると地面に二枚貝やカキの貝殻が散らばっている。ここが西山貝塚だ。説明板によると、弥生時代後期の遺跡で県内ではほかに出土例のない手裏剣のような形をした巴形銅器や、土器、鉄器、骨角器も見つかっているという。高地集落の跡だったとみられることから、中国の史書に「倭国乱れて相攻伐すること年を経たり」(魏志倭人伝)「桓[帝]・霊[帝]の間(146~189年)、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐し、年を歴(ふ)るも主無し」(後漢書東夷列伝)などと記録された「倭国大乱」の時代の軍事的施設だったという見方が有力だという。〔後掲ひろしまリード〕

西山貝塚→GM.

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