m17f5m第十七波濤声m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m熊本唐人通→徳渕withCOVID/熊本県
012-5唐人通→徳渕\八代\熊本県

川を渡って麦島東西町集会所

ブルーバックのベラ〔Poor Things〕

無月に入って、なお夏空真っ盛りな天空。やはり長袖は無理、Tシャツにしよう。
 1140。JR新八代から八代行きに乗り換える。一駅。
 左手に煙突並ぶ。
1143八代到着。先日の牛深行きの過程で浮上していた、熊本外港伝のある土地です。
(→m17f0m第十七波濤声m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m熊本唐人通withCOVID/熊本県
012-0唐人通/熊本側の有明海港 高橋・高瀬・川尻・徳渕)

🚈🚈 🚈🚈
徳渕
ad.:八代市本町二丁目→GM.(中世以前)八代太守が李氏朝鮮へ遣使した史料有。相良氏代には流球と砂糖交易。1555(弘治元)年「市木丸」という船が渡唐、徳渕に帰港(八代日記)。同時代、徳渕在住の「かさ屋」「森」が船団18隻で渡唐。
→別章熊本県012-5唐人通→徳渕参照

良茶というお茶を売り出してる
 未来の館ミュージアムで10/22からだけど「妙見信仰と八代」展。
 1154、旭中央通りの八代駅前交差点。うーん。この辺に面白みはないなあ。右折……ではなく南西に直進してみよう。
 正午。暁成(ぎょうせい)寺。「一天山」の額。
 ……あんまりつまらんので左手堤に上がってみる。丁度中州側への小さな橋の地点でした。これを渡るか?

前川。北岸より

きい。川原には釣りをする悪ガキ一団。1206。
 橋には「新前川堰」とある。
 この川は熊本より水位がやや低い。つまり天井川ではない。──この川は前川。さっきの橋の中州上手を分岐として、かの球磨川から北に分岐して海に出る川です。
前川。南岸より

園に麦島東西町集会所の建物。あまり勘は働かない。
 1219、右折西行とする。
公園遊具と麦島の道

野上ポンプ場を過ぎて

に白鷺橋。
 昼飯とする。席がないかも?という心配は全く要らず──がらがらでした。
1227八代飯店
太平燕セット(安蘇高菜ルーロー飯)

実は麻婆が名物だったらしい八代飯店

く。
 いずれもハイレベル。太平燕はスープが半端でなく、福建めいた透明感を持つ。卤肉飯は本格的に薬臭く、しかもそれが高菜とピッタリ寄り添い、そんな中華はないはずのルーロー飯を作り出してます。
 五十年近い老舗らしい。──これは港町ゆえとは……思えないけど、そうかもしれんど、という旨さでした。
前川の北への湾入地点

を北行、渡る。1302。
 駅から結構遠かったみたい。距離を稼ぐ気で堤へと左折。川のラインが北へ湾を成してる、その先が徳渕のはずですけど……。
 川を眺める限り、係留船は僅かに一。しかもボート。
 1317、堤下の道に入ってみる。ラブホ。野上ポンプ場(→GM.)。
石垣の空き地を横断

上ポンプ場が北からの水路の堰になってる風です。どうも、それより西は道の配置が古そう。
 さらに北から回り込む。1322。
 段差が増えてきた。石垣もある。
 石段を登ると道向こうに墓地。これは抜けれないな。1326左折、川側へ戻る。──いや?道の西側に下りがあった。こちらへ入ろう。

妙見祭の凹みの町へ

横から見ると石垣積みになってる車道

を書いてんのか分からんと思う。ワシ自身理解出来なかったので、地図を掲げてちょっと分かり良くしときます。
 左上の八代城で位置を把握してください。野上ポンプ場は右下のY字箇所です。
(上)住宅地図 (下)陰影起伏図

らかな旧河岸の相が見えます。Y字の北側の流れを封じ、おそらく暗渠に転じせしめてるポイントが野上ポンプ場です。
 石積みの微高地はこの北側旧河川ラインの北西岸です。堤の跡と考えられますけど、この規模、及び北西岸だけにある点からは、おそらく堆積による自然堤防を活用してると推測されます。
 このY字の西側に、まっすぐな現・河岸ラインより少し凹んだ陰影起伏も確認できる点も、ご記憶ください。
南への段差分岐

さなスナック街。1328。
 この地点(下記画像)の分岐が、上記地図の凹みの東端に当たります。
 右手にアーケード。上記地図をよく見ると、凹みが二重の道筋から成っているのが分かりますけど、アーケードと道路がこれに該当します。ただこの位置は、川ともクリークとも考えにくい。もしかすると波止場のような原地形でしょうか?
八代スナック街

央タクシー。1331。
 前方に寺らしい屋根が複数迫ってきました。明らかに古い集落です。
荘厳寺 木陰に猫の昼寝する。

前は浄土宗荘厳寺。元は古麓城(巻末参照)下にあった相良氏菩提寺とある。1336。
 八代センタービル・サウナ。ひなびた歓楽街、という風は往時の何らかの名残りでしょう。
左にサウナ、右にお寺

見祭の解説案内板(下記)。11月末に開催されるこのお祭りは九州三大祭り※の一つとされる知らぬ者のない一大イベントです。知らんかったけど。

※あとの二つは長崎・長崎くんちと福岡・筥崎宮放生会。

 それはともかく、先の凹みはこの地図でも確認できます。ここでは凹みと言うより、東の高みの影の淀みになっている場所に見えます。

妙見祭案内図の八代町割

の寺と墓場の向こうに公園。1341。
 その脇を道は少し登ってる。つまり球磨川が凹みの東で、この高みを避けるように回りこんでいるらしい。

凹みの町筋から球磨川川原へ

公園から脇から階段でスナックへ

園に「木ノ場・膾町・笹掘 跡」の石碑。何れも古地名らしい。木ノ場は荷揚・荷卸、膾町は歓楽街での魚介料理を連想させます。笹掘はこの凹み奥の公園名になってます(→GM.)。この敷地部がかつての堀を埋めたもの、ということかもしれません。
 碑案内に「相良氏が八代に進出していたころ、徳渕ノ津を中心とした一帯には」「内外交易の拠点として繁栄」「本町筋に向かって湾入した入江であった」などと読めるけれど文字が霞んでる。
 本町は現住所にも一〜三丁目としてあり、商店筋は東西に伸びてます〔後掲八代市経済文化交流部商工政策課〕。発展の時系列から推測すると、凹みとその最奥・笹堀の北から、八代城の南側堀に平行した東西に街場が展開したのでしょう。
路地道を跨ぐ渡り廊下。公園北の「うえの内科・胃腸内科」のものらしい。

西行。1351。石段上と車道の間の路地を選ぶ。
 暗きょが延々続いてる道です。繰り返しになりますけどこの水路が元は何だったのか、想像できません。
川原への階段

緑色のカッパ像前で堤に上がる。1358。
 ここにもカッパ。「河童九千坊音頭」の石碑?(巻末参照)
美女と河童

大河童のいた徳渕の津

っぱかっぱの九千坊は
天草灘をひとめぐり
徳渕の津にたどり着きゃ
珍客来たりと大騒ぎ」
 この表記は非常に人間的です。
 その隣に「徳渕の津跡」の白杭がありました。平成21年八代市教委。

 中世以前は球磨川河口三角州の一支流でしたが、野上・麦島の三角州ができて上流をふさいだために入江となり、毎日数百層(ママ)の大小の船が出入りする良港となりました。八代の玄関口として「徳の淵」の名称で親しまれ、名和氏や相良氏ら代々の八代領主は徳渕を大船泊として大陸との貿易を行い、相良氏時代には「中島館」が設けられて、市来丸による中国や琉球等との交易がさかんに行われていました。近世に入って麦島城が地震で倒壊した後、城代加藤正方は徳渕と松江の両村にわたる八代城を築城し、城下町を築きました。細川三斎の時に徳渕の上流を開削して球磨川と結び、前川を造りました。前川の堤防筋には船着場を設けて海上交通の基点としました。
 細川氏・松井氏は徳渕を中心に、下流に川口・浜の蔵・十分の一・船場・沖、上流には枡形等の泊所を設け、長崎や大阪方面との取引を盛んに行われました(ママ)。その結果、関西諸国の物資が大量に八代城下に運ばれ八代地域の繁栄の源となりました。
(全文)〔案内板〕

八代史談会の古写真

原に大きな案内板。「八代史談会」という組織によるもので、ここの古写真が掲げられてます。
 年表に
「1555年(弘治元年) 難風を受けて揚子江河口で渡唐船が覆没。覆没船18隻中、16隻が八代船。」とある。出典未記載。※後日確認出典:八代日記(→後掲)
 さらに隣に昭29の「河童渡来之碑」というのもある。ここにも河童です。
 なぜか普通の家にも河童がおる。──そっちの方が怖いわ。なぜそこに居る?
普通の家にも大河童

役所前バス停。1443。
 ここの脇からα1、ルートイン、スーパーホテルと宿が連なってます。ちょっと過ごし易いとは思えないけれど──妙見祭時には泊まりがあるんでしょうか?
 核がないというか、何ともとりとめない町です。
 1450のバスで八代駅へ。古麓側へ行く気力は尽きてました。すみませぬ。

■レポ:ヤルカンド川から河童九千匹

 何がどう伝わるとこんな物語になるのか分からんけど……

 いまは昔、河童の先祖はパミール山地の一渓水、支那大陸の最奥、中央アジア新琵省※タクラマカン砂漠を流れるヤルカンド川の源流※に住んでいました。寒さと食糧不定のため、河童たちは二隊に分かれて大移動を開始しました。一隊は頭目貘斉坊(ばくさいぼう)に率いられて中央ヨーロッパ、ハンガリーの首都フタペスト※に到着し、この地に棲息しました。頭目九千坊は、瑞穂の国日本をめざし部下をひきつれて黄河を下り黄海へ出ました。そして泳ぎついたところは九州の八代の浜です。仁徳天皇の時代、今からざっと干六百年の昔です。九千坊一族は、球磨川を安住の地と定めました。〔福岡河童会「九千坊本山由来記」『九州の河童』昭和31(1956)年←後掲みのうの豆本〕

※新琵省:新疆ウイグル自治区の誤記か?
※ヤルカンド川の源流:カラコルム山脈のリモ氷河。中印国境、K2の西辺りになる。なおヤルカンド川はウイグル語:يەكەن دەرياسى‎、中国語:叶尔羌河、英語:Yarkand River)
※フタペスト:ブタペストの誤記

 現・中国の領域を横断して黄河河口へ、黄海を泳ぎ切って球磨川へ──と現代のどんな旅行者も不可能な行程で来日しておられます。
 ただ、上下の奇譚に①仁徳帝代の②八代に③泳いで着いたことは共通してます。

「九千坊河童」は元は中国の生まれだと言われ、仁徳天皇の治世の頃に一族郎党を引き連れて海を大遠泳の末に熊本・八代の浜辺に辿り着き、其処から九州一帯に勢力を広げて行ったと伝説では語られている(それ故、熊本では八代の地を“河童渡来の地”と定め、記念の碑が建てられている)。「九千坊」の名は、彼の一族が九千匹も存在した事に因む命名である。〔後掲九千坊河童〕

 どうやら河童は飛べないらしい。でも世界を股にかけて泳いでるらしく、おおよその現代日本人の河童イメージからはかけ離れた雄飛ぶりです。

河童の大群イメージ

 そもそも「河童の大群」というのが想像し難い。「妖怪」のイメージでは大抵一人で居るからです。でも以下二例、八代九千坊の河童軍団が敗北を喫した物語が語られます。これも結構あちこちの語りに共通してて、類型化されてるようです。

向かう所敵無し、常勝不敗の「九千坊」だったが、そんな彼も生涯に2度だけ大敗を喫した事が有る。一度目は、前述の「祢々子河童」の一族と、利根川の所有権を巡って争いになった時。この時の事は河童同士の事とて、記録には詳しく記されていないが、兎に角「祢々子河童」が「九千坊」を打ち負かした事だけは明らかになっている。(続)〔後掲九千坊河童〕

「祢々子河童」は「ねねこがっぱ」と読まれることが多い。また「禰々子」とも書く。居住地:利根川、という点はほぼ共通。女親分という属性も一部で語られ、このパーソナリティで「まんが日本昔ばなし」では親分を引退し、利根川端の加納新田を領する加納家の若旦那に仕える話になってます〔後掲同、放送日:1982年06月26日〕。
 大変不遜な説を申し上げると──この「禰々子」音は「瓊瓊杵」に似てます。
 一度目の敗北の結果はなぜか語られない。でも二度目の結果は、九千坊党の霧散として物語られる。これは共通してます。

大乱関ヶ原第3巻の表紙になった加藤清正

(続)そしてもうひとつの黒星が、猛将・加藤清正(かとう きよまさ)との争いだった。
各地に散らばった「九千坊」の手下の狼藉に業を煮やした清正は、あるとき、自分の小姓が河童に殺された事を理由に全軍を挙げて河童を攻め立て、遂には河童が最も苦手とする猿の大群を用いて「九千坊」を捕らえようとした。度重なる清正の猛攻に為す術も無く敗走を続け、「九千坊」が逃げ込んだ先は、有馬公が統治する福岡の筑後川であった。
有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うなら、以後、我が領土にて暮らす事を許してつかわす」と「九千坊」に申し渡した。「九千坊」は有馬公に感謝し、以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守る事を誓ったと言う。〔後掲九千坊河童〕


 加藤清正の熊本支配は、早くて佐々成政改易の1588(天正16)年から没年1611(慶長16)年の24年、四半世紀に満たない(加藤家の熊本改易は1632(寛永9)年)。この間朝鮮出兵の大将だったり関ヶ原前後の中央政治に参画したり家康令下で名古屋城普請をしたりしてるから、ずっと熊本に居たのでもない。
 なのに熊本では「セイショコさん」として、酷く慕われてます。県民性と何かがマッチしたのでしょう。九千坊撃滅の同じ下記文脈では何と全九州の猿族動員という、ラーマーヤナのようなカリスマと描かれます。

三百三十年前、肥後の国の城主は加藤清正でした。清正の小姓に眉目秀麗な小姓がいました。清正寵愛の小姓に懸想した九千坊は、約り糸をたれていた小姓を水底に引きずり込んで、尻小玉を抜いて殺してしまいました。清正公は大いに怒り、九千坊一族を皆殺しにせんと九州全土の猿族を動員することとなりました。関雪和尚の命乞いによって球磨川を追放された九千坊一族は、水清く餌豊富な筑後川に移り、久留米の水天宮(安徳天皇と平清盛と時子二位局とを祀る筑後川治水の神)の御護り役となりました。〔福岡河童会「九千坊本山由来記」『九州の河童』昭和31(1956)年←後掲みのうの豆本〕

 八代は1588(天正16)年頃から、清正の仇敵となる水軍を擁する小西行長領(拠点は宇土、三郡20万石)で、キリシタンだけでなく歴史的にも海民が集結したと思われます。

デッキを歩くベラ〔Poor Things〕

「九千坊」にまつわる伝説の背景には、戦国時代に九州各地で猛威を振るっていた、渡来民を先祖に持つ海賊の存在があったと伝えられ、有馬公が「九千坊」を調服したと言うエピソードには、そうした海賊を自身の配下に加え、戦力の強化を狙ったと言う真実が隠されていると言う説がある。「九千坊」を始め、九州の河童に多分に任侠じみたイメージが付き纏うのも、恐らくその所為だろう。〔後掲九千坊河童〕

 あまり正史に語られない清正による海民排斥の時代が、17Cの初め頃にあったのかもしれないのです。その文脈の中で、九州本土側のセイショコさん崇拝とは逆の反感が海浜・天草側に形成され、後の大反乱を準備した──と想像するには、けれど根拠が伝説であるだけに弱いのですけど……。
 では、仁徳帝代から清正公以前の千二百年、九千坊こと八代海民たちが居た時空はどんなものだったでしょう?

九千坊来日時のヤッチロ

 八代の音は、古くは「やっちろ」と読んだようです〔角川日本地名辞典/八代〕。
 条里遺構があり、奈良期には法起寺式の郡寺が設置。ただ史料記述は1192(建久3)年の所領確認が初出です。

一条前黄門(藤原能保)書状参着、以亡室遺跡廿ケ所、譲補男女子息、為塞将来之乖違、去月廿八日、申下 宣旨訖……是平家没官領内……肥後国八代庄……已上廿ケ所、先日被奉譲黄門室家〈将軍家御妹也〉也云々〔吾妻鏡 建久3年12月14日条←角川日本地名辞典/八代荘(中世)〕

※大意:京都の一条能保から亡室(源頼朝の妹)の遺領である当荘など20か所(∋八代)を男女子息に譲与し、将来のため宣旨を申し下した。
※肥後国誌は「八月十日賜官符、以播磨国印南野・肥前国杵島郡・肥後国御代郡南郷・土比郷等為大功田、伝子孫」(1167(仁安2)年の前太政大臣従一位平清盛の項)の「御代郡」を八代郡の誤記とし、これを初出とするけれど、客観的には音も違い疑わしい。

 正和3(1314)年には太田郷宮地白木社供僧宰相房弁秀の債務返済の訴状が出されています〔正和3年4月日(ママ)の八代荘伊賀左衛門入道代光蓮申状(舛田文書/県史料中世3)←角川日本地名大辞典/八代荘(中世)〕。
 政治的に頻出し始めるのは南北朝の時代からです。太平記原文中には「八代」が五箇所ヒットします。

南北朝の対立が続く中で、肥後の情勢に大きな影響を与えたのは、懐良親王(八代宮の祭神)でした。懐良親王は、後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として九州に向かい、薩摩谷山に滞在の後、正平3年(1348)の正月に宇土の津(港)に上陸しました。(略)同16年には、念願の大宰府攻略を果たし、征西府をおいて九州全体を支配する勢いを示します。(略)永徳元年(1381)には菊池城が攻め落とされ、南朝方は「たけ」の御所から、八代の名和顕興のもとに移ります。宮地や古麓一帯には、懐良親王墓と伝えられる陵墓をはじめ、小袖塚や悟真寺などが、奈良木には親王の御所跡と伝えられる史跡として高田御所跡があります。
 明徳2年(1391)には八代宮地原で合戦が行われ、八丁嶽城(八代市古麓)も陥落、戦いは終わりました。この八代での戦いが南北朝時代を通じて最後の戦いといわれ、ここに九州の南北朝時代が終わりを告げることになりました。[八代市立博物館]

 太平記の初出は多々良浜の戦い(1336年3月2日(延元元・建武3年4月13日))の後処理段階のもので──

将軍則一色太郎入道々献・仁木四郎次郎義長を差遣し菊池が城を責させらるるに、一日も堪得ず深山の奥へ逃篭る。是より軈同国八代の城を責て内河彦三郎を追落す也。〔太平記/127 多々良浜合戦事付高駿河守引例事〕

 この内河彦三郎は次の二史料にも書かれ、八代を軍事支配していた者であることは確からしい。

以建武三年四月廿日罷立球磨郡、同廿二日於八代庄、対于内河彦三郎(義真)致合戦之刻〔建武3年5年8月日相良定頼申状案(相良家文書/大日古5‐1)←角川日本地名大辞典/八代荘(中世)〕

肥後国八代庄并球摩郡凶徒内河彦三郎・多良木孫三郎(相良経頼)〔建武3年11月18日の宣隆施行状案(榊文書/南北朝遺784)←角川日本地名大辞典/八代荘(中世)〕

 ここに多良木上相良氏が(北朝にとっての)「凶徒」として登場します。戦国の相良氏は別系の人吉下相良氏で、この一族は南北に分かれて相食んだことになります。
 この時期が尚王家(1406(永楽4)年-)が八代から渡来した頃に当たりますけど(→FASE79-3@deflag.utinaR312今帰仁/折口信夫∶尚王朝ヤマト出自説)、この程度に歴史中に語られるようになっても、なお海民の姿を窺えるような事蹟はありません。先の懐良親王が薩摩谷山から1348(正平3)年に上陸したのも、宇土の津であって、八代ではない。南北朝戦記上の八代は、あくまで陸上の戦略拠点として語られるだけです。

九千坊の港の放つ引力

 ただし、政治状況の推移は、徳渕の港町を中心として回り始めています。

 現在、市の中心部にある八代(松江)城は、3代目の八代城です。
 最初の八代城は、古麓の山岳地帯に築かれた山城で古麓(ふるふもと)城といい、2代目は球磨川の河口に築かれた麦島(むぎしま)城です。中世から近世、山城から平城へと大きく移り変わる時期に、それぞれの時代の特色を示す城が存在した八代は、全国でもめずらしい場所といえます。
[八代市立博物館]

 麦島城は、小西行長の1588(天正16)年の肥後入部後、徳渕向かいの中洲に築城。つまり、水城の発想・技術を小西方が持ち込んだこともあるにせよ、政治・軍事的中心が経済的中心・東淵に統合された形です。

キリスト教布教のため日本に来ていた宣教師ルイス=フロイスは、その著書『日本史』のなかで、戦国時代の八代は自然が美しく、清らかで、肥後国で最も栄えた町であると述べています。当時の八代は、
古麓を中心とした城下町、
宮地を中心とした門前町、
徳渕を中心とした 港町

がミックスした肥後最大の都市として繁栄しました。[八代市立博物館]※引用者が改行のみ挿入

 相良氏の貿易伝が事実ならば、麦島城より前、徳渕は外港として発展してきたことになります。ただし──

徳渕は国内各地はもちろんのこと、琉球や中国からも船がやってきて、交易が行われました。八代からも相良氏の貿易船である「市来丸(いちきまる)」や商人の船などが出ています。弘治元年(1555)には18隻の船団が徳渕から中国に向かおうとして難風に吹き戻されてしまったという記事が『八代日記』に書かれています。
[八代市立博物館]

──18隻もの船団が、一度に、徳渕に着岸するのは地形的に無理です。大半の船は、球磨川河口沖に投錨したはずです。

相良氏は九千坊を率いたか?

 異議が呈しにくいのは、中世相良氏が強い貿易志向を持っていた、という点です。

八代太守が李氏朝鮮へ遣使している記事が見られるし、流球からは、円覚寺全叢が相良氏の琉球への進上物のお礼として砂糖150斤を贈っている。相良の貿易船としては「市木丸」の名が出てくる。「八代日記」は、弘治元年(1555)の記事として、3月2日に渡唐の門出をした市木丸が7月2日に徳渕に帰港したことを伝えている。また、徳渕に住むかさ屋や森などが貿易船を派遣したり、18隻の船団を組んで渡唐の門出をしている。貿易輸出品としては、銀・刀剣などであり、銀については、宮原で銀石が発見され、相良氏は「日本珍物」と喜び、洞雲があらいきり(八代市洗切)で銀の精錬をしている。刀工として「木下」の名が見える。輸入品としては、白麻・唐糸・唐織・蘇香圓・沈香・唐扇子・猩々皮・虎豹皮などが見られる。[後掲熊本県]

 主要史料は八代日記です。この史料は、1484(文明16)年-1566(永禄9)年の相良氏の歴史記録ですけど成立年代・著者※とも不明。

※記述の宛先などから的場内蔵助の著述との説が有力〔史学者・勝俣鎮夫などの説←wiki/八代日記〕

 家臣としての記述でもあり、やや客観度は低くバイアスもありそうですので、まず八代日記以外の史料を確認してみます。
 まず李氏朝鮮への遣使についてです。堀池〔後掲〕は李氏朝鮮・成宗実録の成宗25(1493)年の日本本土からの通行者をカウントしています。
本州  34氏
四国  1氏
肥前  32氏
ほか九州28氏
 計95氏の中に「八代太守教信」がいる。これは西九州の大名勢力としては、平均的な振る舞いといっていい。
 次に相良家文書です。これは江戸期の人吉藩主・相良家伝の1253通の古文書類で、鎌倉〜戦国の記述が注文される。慶応義塾大学図書館蔵、国重文。大日本古文書「家わけ5」所収〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「相良家文書」[服部英雄]←コトバンク/相良家文書〕。
 前掲の流球・円覚寺全叢の砂糖150斤記録はここに載ります。

宝翰三薫某読、万福々々、抑国料之商船渡越之儀、万緒如意、千喜万歓、無申計候、殊種々進献物、一々達上聴、御感激有余、□至于愚老、料々御珍贶(※[貝兄])拝納、不知所謝候、為表菲札、不腆方物砂糖百五十斤進献、叱留所仰也、此方時義、船頭可有披露候、万端期重来之便候、誠恐不備、
大明嘉靖壬寅閏五月廿六日
      全叢(花押)
晋上
相良近江守殿 台閣下〔東京大学史料編纂所編1970『大日本古文書 家分け第五 相良家文書之一』東京大学出版会 ←後掲中山No.5 嘉靖壬寅 1541 五月 二十六日〕(※)は引用者

 宛先が「相良近江守殿」ですから確かに貿易の事実はあったのでしょう。

№ 5 は琉球円覚寺の僧全叢から相良義滋に宛てた書簡で、相良氏が国料を積載した商船を琉球へ寄越したことへの礼文である。琉球側からの返礼の品は砂糖百五十斤であった。嘉靖壬寅は、嘉靖21年であるから、日本側の年号で言えば天文10年(1541)のものであり、時系列的にはこの商船が市木丸である可能性が高い。「万端重来之便期し候」と言うことから、通商の継続が行なわれたのであろうか。ともあれ、市木丸の竣工を契機に、相良氏がまずは中継貿易で栄えた琉球との通商に乗り出したことがうかがえる。〔後掲中山〕


 市木丸については後述します。「万端重来之便期し候」を、この貿易が単発でなく反復されたと読むようですけど、「期し」ですから「また貿易できればいいなあ」という願望から「誠恐不備」──抜かり無く準備してほしい、と要請されてます。ただしその後の再訪記録はない。
 つまり、結果的に単発の交易に終わった可能性は否定できません。
 しかも砂糖150斤は「殊種々進献物」──相良氏→琉球の進上物のお礼です。琉球王への献上と見られていて、よく言って交易の糸口、悪く言えば対等な交易の段階に入れてません。
 なお、これは交易事実には直接関係ないけれど──宮原での銀石発見については、かなり疑問視されてます。宮原銀は実は輝安鉱石だったのでは、という説もあり※、そうだとすれば単に誤報だったことになります。

※原田史教「天文年間における相良氏の銀山開発の実相について」『日本歴史』519 1991年
・「日本」の2字を分け「日字」と「本字」とする
それぞれ壱号から百号まで番号をつける
・「本字壹號」~「本字百號」と印した紙の、文字の中央から左半分を『本字勘合』とし、右半分を『本字底簿』とする(戊子入明記より)
・日本側は『本字勘合』を持って行き、明側は『本字底簿』を保管
・明側は『日字勘合』を持って行き、日本側は『日字底簿』を保管
・勘合の大きさは約、縦82㎝×横36㎝とそうとう大きい
〔後掲Yahoo!知恵袋2019〕

中国史料の記す恐怖の「肥後」

 完全に客観的な史料を抽出してみると、やはり中国側の史料になります。

夷属肥後国得請勘合於夷王宮、遣僧㑡来貢、以未及期、照例沮回、此勘合仍貯肥後〔日本一鑑 No.9 嘉靖乙巳 1545←後掲中山〕

 № 9 は『日本一鑑』の記述で、嘉靖乙巳、即ち嘉靖25年(1545)における勘合に関するものである。「肥後国の者が、幕府より勘合を請け、僧㑡を遣わし来貢した。許されず帰国し、勘合はまだ肥後に残っている。」との文意で、勘合が肥後にあることが注目される。勘合を所持していたとしたならば、その「肥後国の者」は相良氏と考えるのが妥当であろう。ただし、鄭舜功自身は「『浙江通志』『寧波府志』が、肥後に勘合があるとしたのは誤りである」と批判しているため〔神戸2000a〕、№9の記述は『浙江通志』『寧波府志』を引用した記事であろうか。〔後掲中山〕

 勘合が肥後にある、というのが事実、あるいは事実と疑われていて、かつその所持者たる肥後国の夷(えびす)が相良氏だった場合に、初めて相良氏の勘合貿易が実証されるのですけど──大意からして、これは所持者が不正に利用する可能性を恐れた記述です。
 中山が予想する出典を中國哲學書電子化計劃で確認したところ、浙江通志に該当記述は見つからない。寧波府志は三種あり(①(明)張時徹・周希哲、②(清)曹秉仁、③不明)、うち①張・周のものには以下の記述がありました。

4(略)自日本來者云大倭王愞弱不制諸島各擁強爭據王直所竄即西海道有豐前豐後筑前筑後肥前肥後薩摩日向大隅九州(略)我浙直界矣天朝頒賜勘合貯肥後州亦有貯山陽道周防州者各道入貢必納貲請取斟合而行頻年寇邊實九州島夷也時徐海久據柘林是年二月將寇南京浙西諸路出嘉興至皁林遇遊擊將軍宗禪帥驍騎五千人突之殺賊〔後掲張時徹、周希哲「寧波府志」〕※番号は中國哲學書電子化計劃付番

──「大倭王」(朝廷か足利幕府か不明)が「愞弱」(頼りない)ので九州の争いを制御できない。
 何と九州の全国名が挙げてあります。
 続く、問題の「天朝頒賜勘合貯肥後州」(天朝は勘合を賜い肥後に保持させた)部は、周防(大内氏?)とともに倭寇根拠地とする推定です。「南京浙西(略)騎五千人突之殺賊」──南京と浙西から騎馬五千が出兵、賊を突き殺した──という記述の前段です。
「偽使」が疑われる周防大内氏と並ぶ密・勘合貿易の拠点として、少なくとも寧波府志は肥後を疑ってる。そういう文脈なのです。
 なぜ肥後と周防が疑われているのかは、不明です。そんな被疑地に関わらず「八代」や「相良」という名称は記されていないのですけど、これは周防についても同じです。中国側から肥後は「見えない悪の拠点」だったわけで、この状態では中国側史書への記述が非常に残りにくいのも頷けます。
 ただそうなると、相良氏の交易はかなり濃厚に非正規のものだったことになります。
 この点を最多引用元である八代日記で辿ってみましょう。

八代日記「市木丸」に九千坊は乗ったか?

 1538-9年の八代日記には市木丸の造船記述が続きます。

No.2 天文七年 1538 六月 十九日 市木丸御船作始
No.3 天文八年 1539 三月 三十日 市木丸為御覧御簾中様徳口(渕)ニ御下候
No.4 天文八年 1539 四月 十三日 市木丸出船候〔八代日記←後掲中山〕※No.は中山付番

 10か月かけて造船された市木丸は、徳渕で造られました。この船が琉球や中国交易に用いられた、と上記では推定されてたんだけれど──八代日記のトーンなら当然記されるべき、この後すぐに市木丸が琉球へ行った、呂宋を目指した、といった記事はありません。その代わり、次のような同船船頭の博多逗留記事がある。

No.12 天文十五年 1546 二月 十八日 一木丸船頭兵部左衛門博多ニ御登候、四月三十日罷帰候
(略)
No.21 天文二十三年 1554 二月 二十三日 晴廣さま御舟市木丸御作せ候、船おろしニ候、晴廣さま・頼興さま徳渕ニ御下候、休恵斎御申請候〔八代日記←後掲中山〕

 中山は二か月半近いこの滞在を、前後の記事から大内遣明船の警護を努める役柄上、と推定しています。けれどそうした外交渉外業務が、船頭に委ねられるでしょうか?
 竣工1539年から15年も経た時点と、1554.2.23の大々的な相良氏トップ※の視察も考慮すると、市木丸は船舶構造か運用技術かの面で欠陥を抱えており、それを補う「特別講習」を博多で受けた、と考えるのが妥当に思えます。

※相良晴廣は第17代当主、1513(永正10)年生-1555(天文24)年没。頼興はその実父。

No.22 天文二十三年 1554 三月 二日 市木丸渡唐ノかといて、やかて郷(江カ)内仕候
No.23 天文二十三年 1554 三月 四日 市木丸郷(江カ)口まて出候
No.24 天文二十三年 1554 七月 十二日 渡唐仕候市木丸御船徳渕着候、三月二日ニ渡唐ノかといて

 市木丸の中国行きはこの直後に決行されてますけど、出港二日目の「郷口まて出候」記事は何かのトラブルの発生を窺わせます。四ヶ月後の7月12日に徳渕帰港しているのですけど──中国・浙江での交易をしてきたにしては早過ぎます(以下展開部参照)。出港・帰港どちらもの記述にある「ノかといて」を解釈できませんけど……渡唐予定だった、という意味をボカシた表現かもしれません。
 1554年の市木丸航海は、①途中で引き返したか、②上陸前に追い返されたか、③そもそも途中までの護衛に特化したものだったかのいずれかで、交易を予定通りに遂行したものとは考えにくい。



 その後の八代日記に市木丸に触れた記述は、見つかっていないようです。つまり、「官営中国交易船・市木丸プロジェクト」は相良氏の肝入りで15年に渡り進められた野心的なものだったけれど、継続的な収益成果は得られずに終わった可能性が高い。
 一方で、「肥後海賊」は被害国・明側から疑いを持たれる状況が続いたわけです。徳渕は、16C半ばの相良氏による官営化の野望は成らず、海民を主体にした状況のまま江戸期に至った、と考えられます。──海民側が相良氏による「糾合」に合流したとは考えにくい。もしかすると消極的な反抗もあり、それが「市木丸プロ」を挫折せしめたのかもしれません。
 徳渕は終始、九千坊の港であり続けたのです。

徳渕に見える唐船の影

 徳渕碑の現代語訳「1555年(弘治元年) 難風を受けて揚子江河口で渡唐船が覆没。覆没船18隻中、16隻が八代船。」も八代日記中に見つかります(No.29)。ただし原文には「揚子江河口で」に相当する場所記述はありません。
 その他、渡唐又は徳渕関係記述を抽出しますと──

No.13 天文十五年 1546 八月 九日 甑嶋ヨリ二階堂殿八代御越候、唐船可進候由候
(略)
No.26 天文二十四年 1555 三月 四日 八代ヨリ出候唐船、少々今日出候
(略)
No.28 天文二十四年 1555 三月 廿日 かさ屋唐船出候、四不出
No.29 天文二十四年 1555 四月 八日 渡唐之船出候ハ、十一日之難風ニ悉吹ちらし候、十八艘、此内十六艘ハ八代船
(略)
No.33 弘治二年 1556 三月 四日 徳淵森と申候者、渡唐船出候
(略)
No.38 永禄元年 1558 五月 二十九日 去春ノ渡唐船徳渕ニ着候
No.39 永禄元年 1558 九月 二十三日 栖本為着陣、有馬諸勢上津浦ニ着船候、二百余艘〔八代日記←後掲中山〕

「かさ屋」(No.28:1555年)と「徳淵森」(No.33:1556年)が渡唐船を出港させた記録はありますけど、ほとんどが来航記録です。市木丸で懲りた(1554年)相良氏側が、その翌年・翌々年のこの二者のみを特記したのは、相良氏による対外交易の民営化(≒元々海民主体だったものの追認)転換直後で、相良氏も出資者又は委託者に回った「記念すべき」回だったからかもしれません。
 1546年の甑島から来た「二階堂殿」というのは、阿多郡を拠点とした薩摩・二階堂氏※しか考えにくいけれど、なぜ甑島と結びつくか分かりません。

※末裔に二階堂進(1909(明治42)生-2000(平成12)没)

 No.39:1558年の「栖本為着陣、有馬諸勢上津浦ニ着船候、二百余艘」の上津浦は、八代から天草灘を30km西に隔てた港(→GM.)で、通常なら相良側の記述マターではないように思えます。それを敢えて著者が記したのは、相良氏が支援した天草五人衆中の栖本氏〔wiki/栖本鎮通〕の港に、上記の相良氏の経緯からは桁違いの有馬水軍を入れる、示威行動だったとも考えられます。おそらく相良氏の海上経済上の独立企図を挫こうとしたもの、もしくは相良氏が制海権上の従属を受け入れた結果だったのではないでしょうか?

※当時、有馬氏は大友宗麟・龍造寺隆信の圧迫で縮小の一途を辿っており、八代日記の「着陣」が具体的な戦闘を企図したものだったとは想定しにくい。

 有馬氏と言えば、九千坊を調伏して配下に加えた伝承に登場しますけど、伝承上の九千坊達の転居地は筑後川ですから、調伏者・有馬氏として整合するのは江戸期に久留米藩主だった摂津有馬氏で〔wiki/摂津有馬氏〕、1558年に上津浦に200艘を入れた肥前有馬氏とは別系です。
 ただ、これは伝承のストーリー構築上ありうる仮説としてですけど──九千坊の排除者=加藤清正という設定を、伝承者が優先したとしたら、清正時代より後の、整合が保てる「有馬氏」として肥前有馬と摂津有馬を置き換えてしまうという発想は、有り得たのではないでしょうか?この場合の伝承者は民間の語り部ですから、雲上人の血縁など知ったことではない。
 何が言いたいかというと、伝承者がセイショコさん豪勇譚と融合する前に、全く別の伝承だった九千坊=西九州海民の有馬氏糾合譚は、肥前有馬氏の物語だったのではないか、という仮定です。その場合、No.39:1558年の「有馬諸勢上津浦ニ着船」の「二百余艘」こそが九千坊の船団だった可能性があるのですけど──伝承と夢幻から、そろそろ固い史実に話を戻しましょう。

1600年の八代港

1600年代の推定海岸線〔後掲八代市経済文化交流部観光振興課〕

 上図を見ても、当時の海岸線は徳渕や麦島城のすぐ西だったとは言え、球磨川河口はかなり遠浅だったと推定されます。球磨川が如何に暴れ川で、その堆積が現地形を造ったとして逆算しても──やはり現在の八代港付近でないと、投錨できず、そこからは小舟で往来せざるを得なかったのではないでしょうか?
「みんなの海図」で水深を見てみますと、これも現在のものという前提になりますけど──
(上)球磨川河口広域 (下)同拡大

 水深20m域は天草沿岸に近づかないと存在しません。
 地名を見ても、「弁天島」は海民の信仰の痕跡を窺わせますし、河口西の「船瀬」はまさに中型以上の船の投錨地を予想させます。これを前提としますと──

 天正16年(1588)肥後に入った小西行長は、家臣の小西行重に命じて麦島城を築かせています。麦島城は、球磨川と前川に囲まれた三角州にあり、小西氏の貿易、海上交通、小西水軍の根拠地としての性格をもっていたといわれています。[八代市立博物館]

──と記される小西行長の主眼は、やはり「水軍根拠地」、つまり海民の集住地で船員を雇用しやすいがための立地選択だったと考えられます。近世の中型船以上の荷揚げ荷下しが直接できる着岸壁は、どう考えても徳渕には存在しなかった。
 八代日記の記述も、半ばは16C前半から半ばの相良氏の野心的試みゆえ、半ばは商業地を行き交う小規模船網へ、中規模以上の船から海上輸送して荷を受け渡すための唐船入港記述だったと考えられます。これに球磨川の堆積が拍車をかけ、近世以降はゆっくりと交易港としての機能を停止した、というのが掛け値のない徳渕の海運史なのでしょう。その意味では、広島の太田川デルタに似たところがあります。

浜より海〔Poor Things〕