m17f5m第十七波濤声m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m熊本唐人通→徳淵withCOVID/熊本県
012-5唐人通→徳淵\八代\熊本県

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神無月に入ってなお夏空真っ盛りな天空。やはりTシャツにしよう。
1140JR新八代から八代行きに乗り換える。一駅。
左手に煙突並ぶ。
1143到着。

相良茶というお茶を売り出してる
未来の館ミュージアムで10/22からだけど「妙見信仰と八代」展
1154旭中央通りの八代駅前交差点。全く面白みはない。右折……ではなく南西に直進してみよう。
1200暁成(ぎょうせい)寺。「一天山」の額
あまりつまらんので左手堤に上がってみる。丁度中州側への小さな橋の地点でした。渡るか?

前川。北岸より

1206大きい。川原には釣りをする悪ガキ一団
橋には「新前川堰」とある。
この川は熊本より水位がやや低い。天井川ではない。
──この川は前川。さっきの橋の中州上手を分岐としてかの球磨川から北に分岐してる。

前川。南岸より

公園に麦島東西町集会所の建物。1219右折西行
公園遊具と麦島の道

南に白鷺橋
席がないかも?という心配は全く要らずがらがら
1227八代飯店
太平燕セット(安蘇高菜ルーロー飯)
驚く。いずれもハイレベル。太平燕はスープが半端でなく,福建めいた透明感を持つ。卤肉飯は本格的に薬臭く,しかもそれが高菜とピッタリ寄り添い,そんな中華はないはずのルーロー飯を作り出してます。
五十年近い老舗らしい。
前川の北への湾入地点

1302橋を北行して渡る。
結構広い。距離を稼ぐ気で堤へと左折。
川のラインが北へ湾を成してる先が徳淵のはずです。
係留船は僅かに一,しかもボート。
1317堤下の道に入ってみる。
ラブホ。野上ポンプ場。
このポンプ場が北からの水路の堰になってて,どうもそれより西は道の配置が古そうです。
さらに北から回り込む。1322
段差が増えてきた。石垣もある。
石垣の空き地を横断

石段を登ると道向こうに墓地。これは抜けれない。1326左折,川側へ戻る。──いや?道の西側に下りがあった。こちらへ入ろう。
横から見ると石垣積みになってる車道

南への段差分岐

八代スナック街

1328小さなスナック街。三次の分岐近くのようです。
右手にアーケード。
1331中央タクシー。前方に寺らしい屋根が複数迫ってきました。
荘厳寺の境内,木陰に猫の昼寝する。

手前は浄土宗荘厳寺。元は古麓城下にあった相良氏菩提寺とある。1336
八代センタービル・サウナ
左にサウナ,右にお寺

妙見祭案内図の八代町割

妙見祭の解説案内板
1341奥の寺と墓場の向こうに公園。その脇を道は少し登ってる。
公園から脇から階段でスナックへ

公園に「木ノ場・膾町・笹掘 跡」の石碑。「相良氏が八代に進出していたころ,徳淵ノ津を中心とした一帯には」「内外交易の拠点として繁栄」「本町筋に向かって湾入した入江であった」などと読めるけれど文字が霞んでる。
公園北の「うえの内科・胃腸内科」を地図で引いてやっと現在位置を確認。この公園南の曲線道はおそらくかつての湾のラインでしょう。

路地道を跨ぐ家屋

1351西行。石段上と車道の間の路地を選ぶ。
暗きょが延々続いてる道です。

川原への階段

美女と河童

深緑のカッパ像前で堤に上がる。1358。ここにもカッパ。「河童九千坊音頭」の石碑?
「かっぱかっぱの九千坊は
天草灘をひとめぐり
徳淵の津にたどり着きゃ
珍客来たりと大騒ぎ」
その隣に「徳淵の津跡」の白杭がありました。平成21年八代市教委。
「 中世以前は球磨川河口三角州の一支流でしたが,野上・麦島の三角州ができて上流をふさいだために入江となり,毎日数百層(ママ)の大小の船が出入りする良港となりました。八代の玄関口として「徳の淵」の名称で親しまれ,名和氏や相良氏ら代々の八代領主は徳淵を大船泊として大陸との貿易を行い,相良氏時代には「中島館」が設けられて,市来丸による中国や琉球等との交易がさかんに行われていました。近世に入って麦島城が地震で倒壊した後,城代加藤正方は徳渕と松江の両村にわたる八代城を築城し,城下町を築きました。細川三斎の時に徳渕の上流を開削して球磨川と結び,前川を造りました。前川の堤防筋には船着場を設けて海上交通の基点としました。
 細川氏・松井氏は徳渕を中心に,下流に川口・浜の蔵・十分の一・船場・沖,上流には枡形等の泊所を設け,長崎や大阪方面との取引を盛んに行われました(ママ)。その結果,関西諸国の物資が大量に八代城下に運ばれ八代地域の繁栄の源となりました。」(全文)

八代史談会の古写真

川原に大きな案内板。「八代史談会」という組織がありここの古写真がある。

年表に
「1555年(弘治元年) 難風を受けて揚子江河口で渡唐船が覆没。覆没船18隻中,16隻が八代船。」とある。出典未記載。
さらに隣に昭29の「河童渡来之碑」というのもある。
なぜか普通の家にも河童がおる。こっちの方が怖いわ。

普通の家にも大河童

1443市役所前バス停。
ここからα1,ルートイン,スーパーホテルと連なるけれどちょっと過ごし易いとは思えない。核がないというか,何ともとりとめない。
1450のバスで八代駅へ。古麓側へ行く気力が尽きました。
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 現在、市の中心部にある八代(松江)城は、3代目の八代城です。
 最初の八代城は、古麓の山岳地帯に築かれた山城で古麓(ふるふもと)城といい、2代目は球磨川の河口に築かれた麦島(むぎしま)城です。中世から近世、山城から平城へと大きく移り変わる時期に、それぞれの時代の特色を示す城が存在した八代は、全国でもめずらしい場所といえます。
[八代市立博物館]

南北朝の対立が続く中で、肥後の情勢に大きな影響を与えたのは、懐良親王(八代宮の祭神)でした。懐良親王は、後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として九州に向かい、薩摩谷山に滞在の後、正平3年(1348)の正月に宇土の津(港)に上陸しました。(略)同16年には、念願の大宰府攻略を果たし、征西府をおいて九州全体を支配する勢いを示します。(略)永徳元年(1381)には菊池城が攻め落とされ、南朝方は「たけ」の御所から、八代の名和顕興のもとに移ります。宮地や古麓一帯には、懐良親王墓と伝えられる陵墓をはじめ、小袖塚や悟真寺などが、奈良木には親王の御所跡と伝えられる史跡として高田御所跡があります。
 明徳2年(1391)には八代宮地原で合戦が行われ、八丁嶽城(八代市古麓)も陥落、戦いは終わりました。この八代での戦いが南北朝時代を通じて最後の戦いといわれ、ここに九州の南北朝時代が終わりを告げることになりました。[八代市立博物館]

キリスト教布教のため日本に来ていた宣教師ルイス=フロイスは、その著書『日本史』のなかで、戦国時代の八代は自然が美しく、清らかで、肥後国で最も栄えた町であると述べています。当時の八代は、古麓を中心とした城下町、宮地を中心とした門前町、徳淵を中心とした港町がミックスした肥後最大の都市として繁栄しました。[八代市立博物館]

徳淵は国内各地はもちろんのこと、琉球や中国からも船がやってきて、交易が行われました。八代からも相良氏の貿易船である「市来丸(いちきまる)」や商人の船などが出ています。弘治元年(1555)には18隻の船団が徳淵から中国に向かおうとして難風に吹き戻されてしまったという記事が『八代日記』に書かれています。
[八代市立博物館]

 天正16年(1588)肥後に入った小西行長は、家臣の小西行重に命じて麦島城を築かせています。麦島城は、球磨川と前川に囲まれた三角州にあり、小西氏の貿易、海上交通、小西水軍の根拠地としての性格をもっていたといわれています。[八代市立博物館]

八代太守が李氏朝鮮へ遣使している記事が見られるし、流球からは、円覚寺全叢が相良氏の琉球への進上物のお礼として砂糖150斤を贈っている。相良の貿易船としては「市木丸」の名が出てくる。「八代日記」は、弘治元年(1555)の記事として、3月2日に渡唐の門出をした市木丸が7月2日に徳淵に帰港したことを伝えている。また、徳淵に住むかさ屋や森などが貿易船を派遣したり、18隻の船団を組んで渡唐の門出をしている。貿易輸出品としては、銀・刀剣などであり、銀については、宮原で銀石が発見され、相良氏は「日本珍物」と喜び、洞雲があらいきり(八代市洗切)で銀の精錬をしている。刀工として「木下」の名が見える。輸入品としては、白麻・唐糸・唐織・蘇香圓・沈香・唐扇子・猩々皮・虎豹皮などが見られる。[熊本県]

■参考資料▼▲

八代市立博物館 未来の森ミュージアム-イベント案内-
URL:http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex1/castle/history.html
【公式】熊本県観光サイト もっと、もーっと!くまもっと。/中世の八代 |
URL:https://kumamoto.guide/look/terakoya/053.html
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