FASE79-3@deflag.utinaR312withCoV-2_Omicron#今帰仁から\ぢぢーうゎーぐゎー

コバテイシの下で豊年祭

道505号を北へ越え、今帰仁城直近、古くは麓の今帰仁ムラから移ったとされる※今泊集落に入りました。
 フクギ並木が美しい、と言われる村なんですけど、それより東西の幅広の道が印象的でした。大道(プゥミチ)と呼ぶ馬場跡という。中央部のコバテイシの大木を中心として豊年祭が営まれる〔後掲今帰仁村/今泊〕というから、元のアシビナー(遊び場)のようなパティオが尚王権下で馬場に転用されたのでしょうか。

※移動時は、今帰仁と親泊の2集落で、今も神ハサギは2つ併存します。今泊の名は内地でよくある「新しい泊」ではなく、今帰仁ムラと親泊から一字ずつを取った地名と言われます〔後掲今帰仁村観光協会〕。
今泊の集落風景

今泊でこやぎ売ります

東、今泊の浜。1247。
 歴史文化センターの展示で見た「津屋口」という場所は見つからない。けれど浜の崖沿いにやはり古墓が並ぶ。このどれかなのでしょう。

今泊の浜辺

ンターで購入できた村教委「今帰仁村の文化財 今帰仁村文化財ガイドブックvol.2」2003によると、今泊から崎山、大井川、さらに運天と古宇利集落東側に、この海岸古墓群は特徴的なものだという。
 また──

墓に納める厨子甕は、地元では簡単に調達できるものではなく、那覇の壺屋から港(運天港・炬港)などを介して購入していたのではないかとされています。[前掲村教委]

というけれど……それも不思議です。

今泊海岸の古墓群

摩後侵攻の半世紀以上後に形成された壺屋からでないと入らない葬送品というのは、中世にはどこで造られたんでしょうか?

※壺屋の陶業は、1682年に琉球王朝の尚貞王が産業振興を目的として、各地の3窯場を那覇市の牧志南に統合してから始まったとされる。

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こやぎ売ります 垂れ幕

諸志御嶽は極相の森

は、センターで子どもが書いた地元マップを見まして、そこに書かれていたここに惹かれて目指したのでした。
 1302、諸志御嶽──かと思ってバイクを停めた場所は……ただの井戸らしい。でも、これ凄いぞ。かなりがっちりと、石積みができた水路が後方にありました。

諸志の井戸

──掲村教委ガイドを取り出して斜め読みすると──おそらく諸志のフプガーという場所が、御嶽だったのかもしれません。「フプ」は「主な」「大切な」の意味という。
 ただ、どこが御嶽で古墓なものやら見当がつくような茂みではありません。
井戸から海側への頑丈な石積みの水路

脱時、諸志御嶽の植物群落という標識があった。この藪全体が御嶽……なんでしょうか。
 この勘だけは当たってたみたい。

明治36年に諸喜田村と志慶真村が合併した村(現在のアザ)である。そのため二つの神ハサギがある。国道505号線を横切るように諸志御嶽の植物群落(国指定)がある。亜熱帯地域の石灰岩の上に形成された植物群落の極相状態の森である。中城ノロ殿内があり、中城ノロは崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次の五力村の祭祀を掌るノロである。集落内に焚字炉(フンジロ)(村指定)があり、佐田浜には赤墓がある。〔後掲今帰仁村/諸志〕

「しょし」と読む。ここも多分、諸喜田村と志慶真村から一字ずつとった村名です。今帰仁城お膝元のムラは、尚王権に滅ぼされかけながら共闘して生き延びたのでしょう。

諸志の山道(御嶽後方)
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オリエンタルの骨

324、仲宗根(西)交差点から右折。
 1336、中山交差点。速っ!まっすぐ進めば結構近いものです。

ンキに寄ってから──ついに来れました!
1437オリエンタル食堂
ほね汁550
「まだあるんですか?」と訊いてみたら裏に「ある?」と確認後「あるよ!」
 もちろん本来はチャンポンのつもりでしたけど──急遽!

オリエンタルのほね汁

れ、旨かった──
 小骨がぽろぽろ取れて、時々大きな、おそらく腰骨が入ってるタイプです。肉が蕩けてなくて、なのに絶妙にほろほろと口に吸い込まれる。
 やはり──明日は、「かね」を目指す気になりました。

名護アメリカンちゃんぷるスイーツ

オリエンタル前の城通り

か、終わった気になってしまいました。……次回からの沸騰ぶりからすると、実に勿体ないどころか、信じられませんけど……。
 とにかくやっと開いてたこちらの菓子店へ。
1530(大南ニ丁目12-18)和洋菓子の店 ヤマカワ
名護マサー
マフィン300
ヤマカワの名護マサーとマフィン

というか……ねっちょりしてる。甘みもねっちょり濃厚、ただし、それなのにしつこくはない。
 宮城以上に、昨日のなかむらとこのヤマカワは老舗の由緒正しいアメリカンちゃんぷるスイーツぶりを見せてくれてます。

誰も知らない名護社交業通り

1623名護社交業通り(1)

護社交業通り」と、その西側界隈のやさぐれた一群の通りを呼ぶみたい(→GM.)。GM.では一本の通りでなくて、城一丁目1〜3、8〜10辺りのエリア全体の「愛称」みたいなもののようです。
1629名護社交業通り(2)

交」は現・風営法の運用区分上も社交飲食業として残ってます。全国飲食業生活衛生同業組合連合会(略称:全飲連)は生活衛生団体食品部門中、全国最大の組合で組合員数は14万人。その下部組織・沖縄県社交飲食業生活衛生同業組合の組合員数は22百人(2018年)とされます。構成比1.57%は、沖縄県の人口比1.16%(=145万/1.251億)に対しやや大きいけれど、どうやらこの数字以上に沖縄の表の政治経済に影響力を持つ集団と考えられています。
1634名護社交業通り(3)

縄のこうした社交通りが、一般的には、かつてのAサインの名残りであり〔後掲DANRO〕、かつ、沖縄の場合はいわゆる風俗に属する社交飲食業への許容度が内地より高いことは知られています。
 名護社交業通りの沿革に触れた記述は、ほぼ皆無ですけど、沖縄市(旧・コザ)のBCストリート※や那覇市の桜町通りと似た経緯が推測されます。

※旧名:ビジネスセンターストリート の略称。現・センター通り。

1636名護社交業通り(4) ──名護の女帝??

在の名護社交業通りは、我々ナイチャーからすると寂れた場末に見えるけれど、現実の盛り場としては十分……かどうかは呑んでみないと分からんとしても、この時の宿からは深夜まで酔客の喧騒が低く地鳴りのように聞こえていたのでした。
1638名護社交業通り(5)

は、接触者PCRセンターの臨時会場を令和3年12月に金武町に設置、297人を検査し、陽性者は0人。令和3年12月に本部町に設置、114人を検査し、陽性者は0人。令和3年12月から令和4年1月まで名護市に設置、4,528人を検査し、308人(6.8%)の陽性者を確認した。
・また、感染拡大に対応するため、令和4年6月から同年9月及び令和4年12月から令和5年3月まで接触者PCRセンターの臨時会場を石垣市に設置、5,197人を検査し、964人(18.5%)の陽性者を確認。令和4年1月から同年10月に宮古島市に設置、1万3,579人を検査し、1,830人(13.5%)の陽性者を確認した。 〔沖縄県公表PDFファイル〕

 この時期の公表データは上記の如し。この日27日の沖縄県感染者5人。この前後の感染者の多さは、沖縄県による大規模な接触者PCRセンターの臨時会場設置によるものだったようです。八重山で多人数の確認がなされてますけど、本島では断然、名護が重点地域。

1639名護社交業通り(6)

(再掲)共同売店マップ(英語版)
∶本島北部〜奄美域に偏在して発展した大正〜昭和の集落営店舗群
→m190m第十九波mうるま新報2巻(ニライF65)/船舶規定[全文]とその海上法規観

■デッサン:「みやきせん」海域交易圏

 以下はこの当時、初見として綴った北山文化圏の素描です。現時点(2024年)での補足をアクア色で追記し、当時の見解はあり得る見方としてあえてそのまま表示してみます。
「今帰仁」(なきじん)という読みも特殊です。「今」を「な」と強引に読ませてる。「新しい」という漢字を付すことで何かを表現しようとしたのでしょうか。

みやきせんに たつくも
こかねくも たちより
大君に おゑちへ
こうて はりやせ
かなひやふに たつくも
なむぢやくも たちより
大君に おゑちへ
こうて はりやせ
[伊波普猷「おもろさうし選択」]

 この地名については、前章〔→内部リンク〕で既にまとめました。
 全く分からないけれど「みやきせん」は今帰仁の古称であることは明確になっています(→前章参照)。折口信夫はこれと謎の神名「かなひやふ」が対句になっていることを指摘しています。
*谷川健一 折口信夫「琉球王国の出自」榕樹書林,2012年

(再掲)辞令上の「ミやきせん」

 例えば、後掲明治大学のおもろそうしデータベースで「みやきせん」ワードを検索すると28ヒット・19首があります。うち次の2首に「かなひやふ」が併記される。
・ふいのとりの節 13-829(84)
・しよりゑとの節 13-912(167)
「かなひやふ」ワードを単独で検索すると、上記2を含め13ヒット11首。
 なお、「みやきせん」には後の聞得大君と同様に「きこえ」が付される(+聞ゑ≒聞ゑ今帰仁)例が以下4例あります。
・6-336(46)やまたらすざべが節
・17-1194(20)
あおりやへ節
・17-1208(34)
うちいではねいしまいしが節
・17-1212(38)
うちいでやらいふさきが節
「聞ゑ」という琉球古語は、一般に大君の美称辞であるとされます〔wiki/聞得大君〕。この点だけを重視するなら、「みやきせん」は、朝貢用の男性国王を要しない時代の最上位ノロを指した、とも仮定し得ます。

折口信夫∶尚王朝ヤマト出自説

 前掲書での折口信夫の主張は、沖縄国王の系譜は名称の類似から肥後八代に辿ることが出来るとするものです。──第一尚氏始祖・尚思紹の父親、鮫川大主は元々、伊平屋島伊是名の住人であったが、島を脱出してのち馬天浜にやってきて漁をしてくらしていたとされます[さめがわ大ぬし由来記]。第二尚氏を含め王統の出身は伊平屋島であるとするのは、同王家の自認するところですけど、折口はこれを来島の方向性と捉えてヤマト方面から海を越えて来訪した可能性を示すわけです。
 尚氏発足時に、聞得大君がヤマトとの間を行き来していた点には既に触れました*。尚王統の初期において、確かにヤマトの影が様々にちらつくのです。
*FASE60-2@deflag.utina3103#三津武嶽,ウフンミウタキ,世持殿/■小レポ:尚氏政権より前の聞得大君
 ただそれを、沖縄王権がヤマト出身である、ということだけで論じると、沖縄の独自発展説の当否論に終わってしまいます。このことは、もっと大きな情勢の痕跡なのではないか──というのがこの文章のヴィジョンです。

小右記∶10C末の奄美島者襲撃事件

 いわゆる元寇は文永・弘安の役(1274年・1281年)ですけど、この後1291(正応5)年と1297(永仁5)年に「瑠求」から島民が連れ去られた記録が残ります。さらに1301年には──

1301年11月、この牛深の沖の甑島周辺に約200艘の正体不明の異国船が出没し、島津氏をはじめ、天草氏、菊地氏なども色めき立った事件が起こりました。[牛深資料館展示]

という「事件」が、いわゆる「正安の蒙古襲来」として鎌倉幕府に記録されてます。
 冷静に考えると分かるように、正応・永仁・正安の「元寇」がモンゴル帝国の軍事行動だったとは考えにくい。
 単独で捉えれば、海賊的行為としか映りません。──国家が民間の海賊を私掠船※とし、事実上の海軍運用を図る例は、大英帝国:フランシス・ドレークの例など枚挙に暇がありません。

※しりゃくせん、英: Privateer, 仏: Corsaire

 いわゆる前期倭寇は14Cに活動したとされます。「高麗史」の記す初出は1223(高宗10)年の「倭寇金州」(同5月条)と言われる。──ただ、本稿で繰り返しているところですけど、倭寇はある時点で編成されたり解散したりするものではなく、海民の活動が陸人との関係上「寇」となるかどうかの視点の問題です。
 さて、さらに2百年遡った平安時代の997(長徳3)年、太宰府発の文書に南島の海賊が記録されてます。奄美嶋人が西海道諸国を襲撃した事件です。──正史からすれば突飛にも映るこの事件の典拠は、藤原実資の日記「小右記」(同長徳三年十月一日条)。ちなみに中央側で列席した協議者には左大臣・藤原道長の名前も見えています。

奄美嶋者乗船帯兵具、掠奪国嶋海夫等、筑前・筑後・薩摩・壱岐・対馬、或殺害或放火、奪取人物多浮海上、又為当国人、於処々合戦之間、奄美人中矢、亦有其数、但当国人多被奪取、已及三百人、府解文云、先年奄美嶋人来、奪取大隅国人民四百人、同以将去、其時不言上、令慣彼例、自致斯犯歟、仍徴発人兵、警固要害、令追捕也〔藤原実資「小右記」長徳三年十月一日条←後掲日隈及び柿沼引用〕

 この時は300人の人間を連れ去っているけれど、これは「先年」に大隅国で400人を「奪取」したのに味をしめてなしたことと推測しています。──役人の観点からすると、「先年」の隠蔽してた事件を、今回(997(長徳3)年)の報告で黙ってると糾弾される恐れが出たので、さらっと補足情報として報告したのでしょう。太宰府域が被害地でなくとも、南九州は何度か「侵略」されてたわけです。

漂到流球国記の描く中世琉球人

 また、連れ去った人々は「奪取人物多浮海上」とある。奄美ですから当然ですけど、族は船で来ています。それも3〜4百人を拉致できる規模の船(団)です。
 人身売買市場は南西諸島では珍しくないどころか、茶飯事だったらしい。前期倭寇前後の琉球と朝鮮の折衝が妥結すると、琉球から必ずと言っていいほど俘虜の返還がなされており、琉球に周辺地域からの「奪取」者のマーケットが存在したことはかなり確からしいとされます。
 なお、漂到琉球国記(1243年)には肥前松浦党と天台僧慶政が漂流の末に上陸した島で、「喜界か南蛮(奄美)か」と予想した船員に対し「(あの恐ろしい)琉球ではないか?」と意見を言う者がいて、一同絶望した、との記述があります。その後には原住民の海賊に襲われた上、これと和解に至って中国へ渡海する筋となっている。奄美・喜界より南が異界視され、現実に危険だったことを窺わせます。
 この「奄美・喜界より南」は、現在の地名から漠然と現・沖縄本島かと想像されてしまうけれど、よく考えるとその確定も怪しいことが分かります。

恐らく風葬洗骨の習俗ある琉球で葬屋に用いられた仮屋を見ての印象でなかったかと思われるが、「今昔物語」巻十一中の記事にもあるように、中世には琉球は食人種の住む島であるとの観念がひろく行なわれていたことを思うと、かれらの速断と恐怖もあながち無理からぬところといわねばならない。一行はその後村人に会い米を与えて代りに紫苔と芋とを贈られ無事に宋への渡航を終るのであるが、巻末には、赤巾をもって頭をまとい、赤衣を着て腰に銀帯を用いた琉球人が軽舟を駆って弓を射る様を描いた絵が添えられている。それは決して素人ならぬ巧みな筆致で、筆者擬政に大いに絵心のあったことを知らせてくれる。〔後掲柴田〕

 13Cに描かれた画は、宮内省書陵部が公開しているものを見ることができます。

漂到流球国記(図書寮文庫)〔後掲書陵部〕

 また、後掲柴田が漂到流球国記とダブルイメージと推測する今昔物語の記述は、次のようなものです。

 仁寿元年四月の十五日に、京を出て鎮西に向ふ。
 仁壽三年[853年]八月十三日、宋商良暉の船で出航。
 東風忽に迅して、船飛ぶが如く也。
 十三日の申時に、北風出来て流れ行くに、次の日、辰時許に琉球国に漂着つ。其の国は海中に有り。人を食ふ国也。
 遥に陸の上を見れば、数十の人、鉾を持て徘徊す。・・・
「此の国、人を食ふ所也。悲哉、此にして命を失てむとす」  :
 其の時に、俄に辰巳の風出来て、戌亥を指て飛が如くに行程に、次の日の午の時に、大宋嶺南道福州連江県の辺に着ぬ。〔後掲今昔物語の由来〕

 沖縄本島から幾ら「俄に辰巳の風出来」たとしても、翌日に福州に漬けません。中世末までの「琉球」は、現在の「小琉球」(台湾屏東)地名に見られるように、まず台湾であって沖縄本島や八重山ではありえません。

(部分拡大)漂到流球国記(図書寮文庫)〔後掲書陵部〕

 けれど、中世当時のヤマト側の朧な地理感覚から考えて、現・沖縄か否かと白黒がつく問題かと言えば、それも違うように感じます。
 漂到流球国記の図画の写実性を信じるなら、南海の海民の世界が大まかに「琉球」と呼ばれていた可能性も、また否定できないのではないでしょうか。
 つまり中世琉球は誠に「其の国は海中に有」ったのだと。

 少なくとも10〜13Cの南西諸島は、決して「南洋の楽園」ではなかった。
琉球弧上の喜界島の位置

喜界島城久遺跡∶琉球〜薩摩間空白地域の海民集団の可能性

 前記の奄美島人の太宰府襲撃事件について、「日本紀略」(998(長徳4))の記事には「貴駕島に南蛮を捕へ進むべきの由を下知す」とあります。
「貴駕島」は現・喜界島を指す──とするのが定説になりつつあるのは、21Cになって奄美大島東海上の喜界島で遺跡が発掘されてからです。

***喜界町教育委員会「城久遺跡群 大ウフ遺跡・半田遺跡」『喜界町埋蔵文化財発掘調査報告書(12)』2013年

 当時の毎日新聞の解説は次のような表現から始まります。

『喜界島ショック』が考古学、歴史学の世界を揺さぶっている。
* 伊藤和史(毎日新聞編集委員)毎日新聞2007年6月20日東京夕刊文化面

 喜界島の現人口は7千。面積は57km2で八丈島より小さく三宅島より大きい。
 鹿児島から400km、沖縄本島から200km。「おもろそうし」に「ききゃ」、「中山世譜」に「奇界」、「球陽」には「鬼界」と書かれ、「kk」音以外は名前も定かでない。中山系の伝説時代まで自らの歴史書を持たず、文献史料のほとんどないこの場所から、大きな遺跡が出るような歴史常識はそれまで存在しなかったのです。

城久遺跡位置図

八世紀後半から一二、三世紀ごろにかけての推定一三万平方メートルの大集落である。出土品が異様にすぎた。中国や朝鮮半島の青磁や白磁、日本の東海地方や九州の陶器……。周辺の島や沖縄本島方面にはないものが多量に見つかっている半面、地元産の土器はほとんど出てこないのだ。[前掲毎日]

 面積的には吉野ヶ里遺跡の1/5程ですけど、まだ発掘は継続されているし、何より遺跡は山間部で、既に転用されている平地部と合わせると島全体がこの時代に開発されていた可能性もあります。
 刮目すべきは「地元産の土器はほとんど出てこない」ことです。これはこの場所が、極めて「国際」的な位置を占めていたことを示します。この点は、奄美大島の倉木崎海底遺跡で12C後半〜13Cの中国産陶磁器が大量に引き揚げられた事、さらに徳之島が主要な生産地と推定されるカムィ焼(カムィヤキ、類須恵器)が朝鮮南部の陶器に類似する事との相関について、研究が進みつつあります。

『太宰府の研究者には違和感のない遺物だそうです』と、発掘担当の喜界町教委、澄田直敏さんが苦笑する。九州・太宰府の遺跡がそっくり海を越えてきたような様相なのだ。異様さは陶磁器類だけではない。四本柱の大型建物群や、サンゴを敷いた長さ四五メートルもある道路など、これまた南西諸島では考えにくい遺構も現れた。[前掲毎日]

喜界島の遺跡地図(前掲町教委報告。次表も同じ)
喜界島の遺跡一覧表

 日本側史料では俊寛の流刑地や平家落武者伝説でしか取り上げられていないこと海域が、海民にとっては極めてホットな場所だった可能性が出てきたわけです。──というより、平家が難を逃れた、例えば阿多忠景(伝・平忠景。阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏。「吾妻鏡」元暦元年(1184年)の条)が「鬼界ヶ島」に逃亡、源頼朝が同島を征討したのも、この地が海域側からは要地だと理解されていたからなのかもしれません。
 ただし、毎日新聞のこの記事は次のような結び方をしています。

ここ数年、歴史の中の沖縄像が大きく変わってきた。長くヤマト(日本)の一地方として描かれてきた沖縄を単なる周縁ではなく、自立した地域世界として描き直す試みが急速に進んでいるのである。(略)ところが今回、その歴史観から見れば辺境に位置する奄美大島の、そのまた『属島』とも称される喜界島からヤマトが、それも最先端のヤマトが現れたのだ。喜界島や奄美大島の方が●●●●●●●●●●●先に発展し、沖縄本島の●●●●●●●●●●国家形成を促した●●●●●●●●といった見解が今後は力を得るのかも知れない。[前掲毎日]※黒丸は引用者

 南西諸島の先行文明は沖縄本島か奄美か?──というのは、近代史での差別-被差別観に基づく、まさに陸人の視点です。喜界島の遺跡の内容や地勢は、ここが海人にとっての要地だったことを示すのであって、それは陸の政治勢力の歴史における傍流であることと矛盾しない。
 問題は、薩摩と琉球の間に、中世から近世にかけ、いかなる海人がどういうネットワークを構成していたか、という点です。
 この時の興味に端を発し、後日実地訪問することになりました。

▶〔内部リンク→m19S_00第三十八波mm喜界島mRe.着いた日


(再掲)北山文化圏

なぜ「みやきせん」圏を認識するか

 先に今帰仁資料館の出口で見た「北山文化圏」は、本部半島から奄美までの円を描いていました。
 おそらく、中山系の伝承(例えば、琉球・舜天王統三代義本の子孫が奄美大王(奄美大主・奄美大守)として大島を支配した伝承∶義本王伝説)に基づき琉球支配域を地図に落としています。
 けれど、海人の視点、つまり陸上政治勢力の領域に捕らわれずに見るとどうなるか?
 第一尚氏始祖・尚思紹の父、鮫川大主が今帰仁北方沖の伊平屋島から来た伝承には既に触れました。久高など南部東方とは別に、不思議なことにこの北側にもアマミキヨ渡来伝説があります。
 あまり書かれませんけど、「アマミ」キヨは奄美キヨではないのでしょうか?
 折口信夫の尚氏=肥後八代出自説も、陸の八代と言うより、西九州〜薩摩〜奄美〜今帰仁に広がる中世の東シナ海東縁地域から、尚氏とその母体勢力が来た──と理解することはできないでしょうか?その発進元がヤマトかウチナーか、という無益な民族主義的議論にならないのではないでしょうか?
また、特に中山=察度朝貢権益を継承したと自認する尚氏王権にとって、もし尚氏が北山を由緒としたとしても、それは絶対に否認しなければならなかったでしょう。尚氏の発祥は伊平屋島であっても、被制服地・北山であってはならなかった──というバイアスの存在も仮定できます。
 さらに「琉球は倭寇が創った」という最近の議論も、前期倭寇という形でも表出したこの海域の海人が、明との交易ネットワークを築く過程で琉球王朝が成立した、と捉え直せば、本島の「栄光の歴史」が犯罪者集団から始まったかどうかという倫理的な視点に埋没せずに済むと思うのです。
 そこで本稿では、中世海域としての薩摩〜琉球間を、作業仮説として「みやきせん」域と呼んでみたいと思うのです。
 その「クニ」は、次のような場所と想定されます。

「みやきせん」海域人活動エリア(想定)

前々章で掲げた8Cヤマト及び13C南宋入貢国のマッピングを併記します。

内部リンク▶FASE79-1@#今帰仁まで\ぢぢーうゎーぐゎー/【補論】久米島なる特異点
続日本紀5島※と中山世鑑3島※※(久米島はタブリ)プロット
※続日本紀「球美」来貢記事:714(和銅7)年12月と翌715(霊亀元)年正月の推定国名
※※中山世鑑:南宋・景定5(1264)年入貢国名

 このエリアに、漂到琉球国記や今昔物語が記したと思われる中世「琉球」=台湾を加えた島孤全海域を「みやきせん」海域と捉えるべきだと、現在は考えます。この海域は、中山王権と敵対又は並立するものではありません。後進・沖縄本島の中山王権、さらには陸上勢力としての北山より前にあった、海民のクニです。

「みやきせん」海域中心の琉球史解釈

 この海域の東シナ海での位置は、当時の航行技術を前提に、中国・日本・朝鮮の陸上政治勢力の支配域外縁で、けれど交易は可能な、程良いバッファゾーンになり得ることは容易に想像できます。
 中世日本の陸上政権がその存在を認識していたなら、前期倭寇に苦しんだ朝鮮はもちろん、中国側もその海域を認知していたでしょう。
──そもそも、前期倭寇の母体勢力は、前代の元朝が海上勢力に浸透した結果生まれた蒙古遺臣、あるいは西域から戦闘部隊として中国に移った「アラン族」とする説もあります。
先述の「元末版私掠船」集団の存在を前提とすれば、オーナーを失った彼ら海民が、自由な活動海域として東シナ海東縁の島孤を選んだ、とも想定できます。
 その海上勢力が「みやきせん」海域にあったなら、明が朝貢関係というフレームで海域実効支配を目論む上で、この海域に意識を集中したとしても不思議はないのです。

明朝服属と「三山統一」

中山世子武寧、父察度の卒を告げ、詔により襲爵を認められ中山王に封じられる
これより先山南王承察度卒す この年従弟汪応祖明に入貢し、詔により山南王に封じられ、山北王の例により冠服を賜わる

[「明実録」1404年記事,村井章介「明代『冊封』の古文書学的検討──日中関係史の画期はいつか」『史學雑誌』127-2,2018 による訳]
[岡本弘道「明朝における朝貢國琉球の位置附けとその變化 一四・一五世紀を中心に」東洋史研究,1999]

 この辺りの明実録上の朝貢史料は、既に原典を挙げ個別に確認しました。原文は、上記前段は太宗文皇帝實錄卷二十七、後段は卷三十にありますけど、論点は同年記述の前後関係です。

▶〔内部リンク→FASE77+@#北山入り/【特論】硫黄の王権
→「山北王の例により」:原文

 この史料は、明朝が中山より先に南山、それよりさらに先に北山と朝貢関係を築いたことを示唆しています(先行した山北王は「冠服を賜わ」っただけで朝貢とは言えないとの反論も有)。琉球方面との外交関係がなかった明が、新たに朝貢を求め、倭寇勢力の取り込みを図ったとするならば、その相手は前期倭寇の根源地たる「みやきせん」海域の政治勢力を選ぶのがむしろ自然でしょう。
 ただし、前掲「硫黄の王権」で確認した通り、尚氏王権がその朝貢の正当性・唯一性を確保するために、①察度が最初の朝貢者で(→察度①❞1372(洪武5)年12月)、かつ②尚氏が察度の継承者である、という論理が久米の外交エリートによって組み上げられたのでしょう。この論理からすれば、北山は察度より遅れた朝貢者で、尚氏は先行者・察度の朝貢権を継ぐ優位者ということになるのです。
 さて、そこまで精緻に組み上げられた中山朝貢権益は、ひとり琉球側の利益のためではなく、より大きな東アジア国際秩序からの要請でもありました。後掲岡本の書く「海禁令の下では必然的に密貿易者とならざるを得ない海商勢力に對する一種の『受け皿』」、これこそが琉球尚氏王権の存在理由であり、より根本的には琉球に王権が成立した理由でした。

對倭寇政策に特定して考えると、日本との朝貢関係の中で日本の政治権力に倭寇の禁匪を求める路線から、朝貢體制の枠外にある倭冠勢力・密貿易者の勢力に對しては海禁・海防・勘合制度などによって徹底的に排除してゆく一方、琉球という新興勢力を朝貢體制の中により積極的に組み込み、海禁令の下では必然的に密貿易者とならざるを得ない海商勢力に對する一種の「受け皿」とすることによって、海域アジア世界の状況を「體的秩序」のもとに収斂させていく路線──その意味では単なる對倭寇政策というよりはより廣い意味での「對海寇政策」と呼ぶべきか──への轉換があったのではなかろうか。さらには琉球に對して従来以上にテコ入れを行ない、有力な朝貢主瞳に育てることによって、海域アジア世界の中で朝貢體制の「正常な」運営を進めることを、洪武帝は目指していたと考えられる。そのためには既に明朝に恭順を示している中山王・山南王のみではなく、もう一つの對立勢力であり倭寇勢力と結びつきかねない存在である山北王に對してもメッセージを迭る必要があったのであろう。[前掲岡本]

 本稿では、岡本さんよりさらに過激に考えたい。即ち、明洪武帝が朝貢させようとした第一目標は山北・今帰仁だった、と。
 この点の史料上の読み込みは、「【特論】硫黄の王権」で確認しました。三山朝貢期は、一種の最終選考過程だったとも言え、当初は山北(北山)王も最有力候補者だったことが窺えます。

▶〔内部リンク→FASE77+@#北山入り/【特論】硫黄の王権

 上記のとおり倭寇勢力が「みやきせん」海域に巣食っていたならば、向倭(帰順倭寇)の主体は今帰仁であることが望ましい。ごく自然な発想だと思います。
 けれど、そうはならなかった。山北は朝貢したけれど、より一層、倭寇の「受け皿」として適格な勢力が現れたからです。
 いや、先の毎日の言うような奄美・喜界≒「みやきせん」先行論を勘案するなら、北山より適格な他者が現れたと言うよりも──山北・今帰仁を陸の拠点とした「みやきせん」海域の海民が、中国王朝との朝貢フレームに適合する政体を試行錯誤しながら創造した。それが中山王権だった、という捉えが実態に近いのではないでしょうか?

15C三山の対明交易回数推移

*前掲本文∶『明實録』は原則として歴代皇帝の治世毎に編纂された編年體の史料であり、明代全體を通じて琉球の朝貢状況を収録するが、その情報は主に入貢の日附、正使等の名前など断片的なものに過ぎない。朝貢使節の規模や朝貢品の内容など、具體的な情報は琉球側で保存された外交文書集である『歴代寶案』に拠らなければならないが、 『歴代寶案』は古琉球期の文書については脱漏が多く、 通時代的な検討には難がある。 このような雨者の史料的性格に注意しつつ、 『明實録』から確認できる朝貢頻度と『歴代寶案』から確認できる朝貢船派遣頻度について、西暦編年を基準に十年期單位での三山各勢力別の時代的推移をグラフにしたのが圖ーである。
**前掲注∶) 三山別の朝貢頻度の集計には和田久徳「明實録の沖縄史料(1)」(『お茶の水女子大學人文科學紀要』第二四巻第二分冊 一九七一)、「明實録の沖縄史料(2)」(『南島史學』創刊號 一九七二〉、「明實録の沖縄史料補正」(『歴代寶案研究』第三・四合併號 一九九三)、野口銭郎 『中園と琉球』(開明書院 一九七七)所収「琉明往来表」を、朝貢船派遣頻度の集計には赤嶺誠紀『大航海時代の琉球』(沖縄タイムス社 一九八八)所収「進貢船一覧表」を、それぞれ参照した。なお朝貢船派遣頻度については基本的に『歴代寶案』によって確認できる洪煕元年(一四二五)以後のみを對象とし、『歴代寶案』でその関連文書が缺落している期間(一四四二・正統七〜一四六二 ・天順六)を含む一四四〇年代・一四六〇年代については 『明實録』によって補足している。
 なお本論考において「朝貢」として扱う事例は、必ずしも定期朝貢のみを對象とするものではなく、慶賀・謝恩などの名目によるものも含めて朝貢関係を前提とした使節派遣に附随する貿易活動、すなわち「朝貢貿易」の機會を獲得しうる諸事例とする。[前掲岡本]

対明清朝貢用ペルソナとしての中山尚王権

「みやきせん」の対中姿勢はおそらく面従腹背。朝貢には応じ、正式交易の機会は得つつ、一方で適度な倭寇活動は為すに任せた。──というより、広域的海人の集合体だったとすれば、今帰仁城の主の命で反明活動を全面的に中断せしめるような中央集権的な政体ではそもそもなかったのでしょう。
 それに対し、西・南九州を中心とする海人、さらに、絶対数は少ないけれど中国系の海人が入り始めていた後進の沖縄本島南部には、彼らを通じて中国系政経術が浸透し始めていたのでしょう。明中央は、次第に沖縄本島南部の国家らしい国家の方がコントロールしやすいと考えるに至り、ここに政府から中国人を送り込み、沖縄本島の国家化を助長する。
 いや、この点──中山の国家的体裁と、中華帝国側のそれへの支援は、多分上記とは因果関係が逆でしょう。明(清)側が国家形成プロジェクトの全てを構想した訳ではないでしょうけど、倭寇懐柔策として送り込んだ政経人材が、統治アドバイザーとして機能し始め、結果的に王権形成の気運を高めていった。
 さらには──北山王権もその気運に対照的な存在ではなく、むしろ「みやきせん」海域でも中山王権形成類似の運動が起こって陸上拠点≒朝貢用ペルソナとしての、今帰仁・北山王権が体裁を整えていったのでしょう。ただ先進域である分、その「国家らしさ」が中山に劣っていて、最終的に明朝の「お気に入り」にはならなかった。

 これによって一家また一家と定着した中国海商集団が、久米三十六姓と考えられます。彼らは浙江や福建に近い地の利を生かし、本島南部の新交易ネットワークを構築するとともに、これを統治する政体を整えていきました。

琉球へのテコ入れ政策として中國人の派遣が行なわれたことは、必ずしも後の久米村に繋がる渡来中國人集團がこのような派遣中國人のみによって形成されたことを意味しない。琉球の入貢が始まる洪武五年前後には、既に琉球に中國人の存在が確認できるのであり(60)、また既に中國人を含めたある程度の海商勢力が存在したからこそ、洪武帝もテコ入れ政策によって海商勢力の「受け皿」にしうる存在として琉球を認めたのであろう。それにしても洪武期後半の朝貢頻度の急上昇に見られる如く、琉球への中國人波遣の効果は決して過小評價しうるものではなく、琉球優遇政策の中でも大きな位置を占めていたに違いないのである。[前掲岡本]

 従って、琉球は明朝が造ったのでも倭寇●●●●●●●●●●──後に後期倭寇と重複する中国海商も含めて──が創ったのでもない●●●●●●●●●。おそらく船舶の航行能力の進歩もあり、東シナ海の新しいコアが本島南部に形成され、そこに前期倭寇と重なる「みやきせん」海人と後期倭寇の根ともなる福建系など中国海商が流れ込み、さらにこれを好都合と見た明からの優遇措置を受けて──と一度「みやきせん」が●●●●●●●●●●形成した交易ネットワーク●●●●●●●●●●●●が累乗的に再編●●●●●●●されていったのです。
 例えば、岡本さんが上記引用の注60として挙げる長史程復もその立役者一人でしょう。

(60)『明太宗實録』永楽九年四月癸巳の條に見られる長史程復は、四十年に渉り琉球王を補佐したとあり、逆算すれば彼は洪武五年前後には既に琉球王に仕えていたことになる。[前掲岡本]

 してみると、ほとんど突如として佐敷に出現しグスクとは異なる日本型山城構築術で三山を統一したとされる第一尚氏の実質初代王・尚巴志も、そのような「みやきせん」海域から漂着してきた半倭寇系海人集団の裔でしょう。例えば──空想ですけど、大内氏の北九州進出で南へ逃れた武士集団が比較的穏健な海人集団と混ざって佐敷に拠点を造った。それ以前から繋がりのあった中国系海商の財政支援と構想を得て、当時武装倭寇のために使えなくなっていた北九州-朝鮮-浙江ルートに代わる福建直通ルートとこれによる新交易ネットワークを構築した。
 ここで想定したような、琉球国家形成集団のプッシュ要因があったかどうかは不詳です。中世の混迷する陸上政治勢力の狭間で、いずれにしても海民は西九州から「みやきせん」海域に滞留し、流入すべき利ある海域を求めていたでしょう。従って、何がプッシュ要因か、換言すれば折口設の八代のような流入元の確定はあまり必須の作業ではないと考えます。実際に佐敷に流入した成員は、各海域から流れてきた雑多な海民たちだったでしょう。
 それが全くの外れでなければ、三山統一が比較的短期間だったのも、北山にすんなりと監守が置かれる運びになるのも──要するに、新ネットの方が誰もが儲かったからでしょう。

今帰仁間切の集落総替え

「すんなり」と書いたのは、三山統一が事実上の中山、さらに正確には尚巴志新勢力への吸収合併に近い状況が想定されるからです。今帰仁城陥落に至る過程での「戦闘」は一応物語としてはあるけれど、ヤマトの戦国時代に比べあまりにも現実味がなく、かつ後に触れる薩摩侵略時の方が遥かに被害が大きかったと思われるのはそのためだと思われます。
 ただ、その後の今帰仁の陸上基盤にたいする壊滅的施策は、誠に容赦がない。テイストとして大陸中国の征服地行政を連想させます。
 今帰仁城直下、ハンタ道の先にあったらしい集落は、現・今泊のある海岸線に全戸が移動させられたらしい。それも、時間差のある形で移されたことが、今帰仁村教委の仲原さんや関西大学の高橋さんの丹念な地理的研究で相当浮き彫りにされています。

*仲原弘哲「今帰仁のムラや集落の移動」『すくみち』第13号,今帰仁村教育委員会・今帰仁村歴史資料館準備室,1990年
 なお、仲原さんは集落移動を①ムラ全体の移動、②ムラ内一部集落の移動(分離独立)、③ムラ内での集落移動の3分類に分けている。
*高橋誠一「琉球今帰仁城周辺の集落とその移動」『関西大学東西学術研究所紀要(36)』,1-27,関西大学東西学術研究所,2003年

(前々章再掲)第2図 今帰仁村周辺遺跡位置図(一部)〔後掲沖縄県今帰仁村教育委員会〕

 これらの研究で、少なくとも今帰仁間切、ほぼ本部半島北半の集落は根こそぎ移動していることが分かってきています。
 また、尚巴志の出身地・佐敷の津波古には次の伝承があることがフィールドワークで確認されてます。
──尚巴志が北山を討ったとき、北山王の三男・外間子と四男・喜屋武久子を人質にして馬天へ連れてきた。世の中が落ち着いてきた時に、もう殺そうかという話もでたが、生かしておくことにしたので、津波古の人口の1/3は北山系統の人になった。

*津波古公民館(→GM.)*原田信之「沖縄県佐敷町の第一尚氏史跡群とその伝承」新見公立短期大学紀要第25巻,2004

 沖縄本島全土に残る「今帰仁拝み」の風習は、こうした移動集落が相当数あって、かつ彼らが移動後もアイデンティティを持ち続けたことによるものらしい。

内部リンク▶FASE75@deflag.utinaR311withCOVID#与那覇うさん嶽/天孫は今帰仁を拝んだか?
「先に進むとナチジナーという拝所があります。ここは本島北部の今帰仁(なきじん)に向かってウトゥーシをする遙拝所です。」〔後掲沖縄の裏探検〕

 日本における「佐伯」地名への東夷移住と同じです。──というのが穏当な判断でしょうけど。 ただ、「今帰仁を拝むのは北山難民だけなのか?」という点は、徐々に疑わしく思えてきています。おもろそうしに歌われる「みやきせん」(→前掲)は、主に中山の側による讃歌に思えるからです。北山難民側の怨念と混じった信仰とは別に、中山側の琉球文化の源泉地への朧げながら自然な崇拝(もしかすると鎮魂あるいは罪悪感)もまたかなり普遍的にあって、その相乗が現在に残る今帰仁拝み……のような捉え方を今は持ってしまっています。

尚氏が辿ったとされる謎の伊平屋→佐敷ルート

珍説∶「みやきせん」集団の佐敷移民

 どーせ個人の暴論集なので、書いてしまいます。尚氏本拠・佐敷に北山人、というのは、皇都に薩摩人、という古代にはあったらしい取り合わせに相似しています。
 佐敷その他に北山人がいるのは、捕囚としての強制移動でなく、「単に」移民したからではないのか?──少なくとも仲原さんは、移動の時期が1609年(島津の琉球侵攻時の今帰仁焼討)からどれほど遡れるかは不明とし、高橋さんもこの点の判断を避けています。また、今帰仁城南前面のハンタ原から移住したと見られる今帰仁=現・今泊西側集落が、集落構造上*は力関係で勝っていたという高橋さんの見方もある。
*今帰仁・親泊集落中間部における道路交錯エリアの東西道が、今帰仁側の延長であることが多いことから
 同様に、佐敷への北山人移住が捕囚としてでなく新天地への移民としてなされたなら、それは三山統一の後ではなく前だった可能性もあるのではないでしょうか。つまり伊平島から今帰仁を経てきた倭寇や日本武士団を含む移民集団が、既存勢力のまだ少なかった佐敷に移り、拡大。圧倒的な武力と城郭構築術で一気に本島中央部に王国を名乗れる体裁を築くに至った、と。
 その場合、「みやきせん」は滅ぼされたと言うより、当該分派に限って言えば、北山が後進地域の沖縄本島を征服したというのが近いことになります。

内部リンク▶m17e@m第十七波余波mm阿多(兼009-1@豆酘\対馬\長崎県)【特論2】隼人東征

隼人多く来たる。方物(ほうぶつ)を貢(みつ)ぐ。是(この)日、大隅隼人・阿多隼人と庭で相撲す。大隅隼人勝つ。〔日本書紀〕

 このプロットは、別掲「隼人がヤマトへ東征した」とするストーリーに似ています。隼人の傭兵集団に由来するヤマト朝廷は後付けで勝利者になり、そのストーリーの元で山幸は海幸に勝利したことになり、隼人を支配した。江戸城を建てたのは大工さんだけど、太田道灌でもなく家康が建てたことになり江戸を支配した。実際の行為者と、後世に伝わる物語は区別しなければならない、という点は割と歴史の常識ではあります。
 ついでに書きます。──沖縄民族主義的なメジャーな発想では、琉球王国の独立性を汚すような本稿の趣旨は、容れざるものとお感じになるかもしれません。けれど全体の論調からお察し頂けると思います。沖縄人は、中国の権謀術数に長けた介入に政体を自己再編成して対応したこの変幻自在ぶりをこそ、メティスの知(内部リンク→m000m噴出孔mm海域アジア編首頁/メティスの知)の発露として誇るべきです。その摩訶不思議な位置に450年間もに渡り、さらにヌメヌメと形状を変化させつつ存立し続けたのが「琉球王国」だからです。

北・北山征服戦争

 以上のように、三山統一から喜界島攻略までの歴史からも「みやきせん」海域の後ろ姿がちらちら見えました。
 年表として掲げます。

1416年❴A+0❵第一尚氏が北山王国を滅ぼす
→その領土・与論島と沖永良部島が中山に服属
1447年❴A+31❵第一尚氏四代・尚思達王、奄美大島征服[李朝実録]
1450❴A+35,B❵〜1462年 第一尚、喜界島をほぼ毎年攻撃[李朝実録]
1458年❴B+8❵護佐丸・阿麻和利の乱
1466年❴B+17❵尚徳王、兵3千(2千とも)で喜界島に親征、制圧
同年 那覇に泊地頭(現・泊港)、及び奄美各地の年貢収納蔵を天久寺に設置(大島御蔵)
1469年 第一尚氏、第二同氏に交代
1493年 奄美海域で琉球と「日本甲船」が紛争、琉球が勝利[朝鮮王朝実録「成宗実録」成宗二十四年(1493年)条]
15C末❴B+50❵〜16C大島の地名表記が「間切」名称初出。 間切毎に「首里大屋子」が置かれ、その下位に大屋子・与人・目差・掟・里主など設置
**喜界島をゆく(2005年4月30日~5月2日) 
URL:https://yannaki.jp/kikaijima2.html〘▶現在リンク切〙
wiki/奄美群島の歴史

※鎌倉開幕めいた北山滅亡1416年

 当たり前の史実として語られている1416年北山滅亡ですけれど、これはその史料記述は意外に頼りない、ということに気付いた研究者もおられるらしい。原典が高価なのでwikiで済ませますけど──

蔡温本『中山世譜』には北山侵攻は永楽14年(1416年)におこったと記述されているが、蔡鐸本『中山世譜』、『中山世鑑』には永楽20年(1422年)3月13日〜17日におこったと記述している。〔wiki/尚巴志の北山侵攻〕

 両書とも尚氏王権史の代表的著述ですけど、明史のような正史でも、明・清実録のような公式記録集でもありません。ただし、中山世鑑の方は第二尚氏第10代国王・尚質の命で摂政・羽地朝秀が編纂してますから、官定とは言えます。1650年成立。

※ 念のため確認しましたけど、羽地朝秀は北山滅亡時に中山に内通した羽地按司の血縁者ではないと思われます。「中山世鑑」序に尚質を「尚円公七世嫡孫」、著者・羽地朝秀自らを「尚円公嫡孫浦添王子若王月浦六世後胤」と記しています。これを疑わないならば10代王尚質と羽地朝秀はいとこの関係にあるわけです。後に「王子」に称せられた※※との伝えからも、「羽地」姓は単に羽地間切の按司地頭に任じられた(1640年羽地御殿の家督を継いだ)ためで、家系は尚氏王族です。
※※伊波普猷『琉球の五偉人』小澤書店、1916年

 中山世譜の方は、1697年に蔡鐸を中心とする編纂チームが製作開始。基本的には中山世鑑の漢訳で、これに部分修正を施し1701年に完成(蔡鐸本)。蔡鐸の子・蔡温が加筆修正、王府系図座に編纂が継承され現行形態まで書き継がれました(蔡温本)。
 構成は正巻13+附巻7。天孫氏から舜天を経て最終代の19代尚益までの事績を記載する沖縄史の基礎史料ですけど──「正巻」とは中国との関係を中心にまとめた部分、附巻はそれ以外という構成です。要するに中国向けに琉球統治の正当性を証明するための「履歴書」作りが製作目的です。
 何のために深入りしてるかというと──つまり蔡鐸本の北山滅亡=1422年記載が、蔡温か王府系図座かの手により訂正されたのが、北山滅亡=1416年という年次だということです。滅亡時点から三百年経てからです。
 蔡温らが、多分中国から指摘されるとヤバい何かの矛盾を見つけ、故意に修正したとしか考えられません。
 歴史家たちはその理由を追求しています。本稿ではその困難な作業はアポケーしますけど、以下はその論争の概要です。

これに和田久徳氏は、蔡温が北山侵攻を永楽14年としたのは『明実録』の北山王の朝貢は永楽13年(1415年)4月を最後に止まっているためであろう。しかし、北山は三山の中で最も朝貢回数が少なく、永楽13年の前は10年近く前の永楽3年(1405年)12月なので最後の朝貢の直後に北山王国が滅亡したとは言い切れないとし、これは蔡温が若くして清に渡ったことで染み付いた「国があれば朝貢をするはず」という中華帝国的思想から来ているものとし、琉球王国内の資料や北山監守を設置した時期から考えるに永楽20年(1422年)が北山侵攻の正しい年であるとした。〔wiki/尚巴志の北山侵攻〕

※和田久徳著「琉球王国の形成-三山統一とその前後-」榕樹書林, 2006

 まとめると、1422年なり1416年なりというのは、即ち北山滅亡とは、北山が●●●●●●●●●●明朝への朝貢を止めた●●●●●●●●●●ということです。中国からの視線しか気にしてない中山王権にとって、それだけが問題だった。三山が争っていたのは琉球の覇権ではなく、唯一の朝貢者が誰かという一点だけでした。
 さらに換言すると、北山滅亡と記される「戦争」は本当の意味で実証されているとは言えないのです。三百年も経てから簡単に書き換えられてしまうような戦史です。ワシ自身原文に当たってないので確信は持てませんけど……「北山滅亡」譚

2、300騎ほどが馬を捨てて走り寄り、柵を引き破り、官軍が攻め入ろうとしたが北山軍は鏃を揃えた矢を雨のように射掛けたので寄手は引き上げたが大半が討ち取られた。しかし、寄手は多勢だったのでこれをものともせず新手を次々に投入して攻めたてると北山軍の矢が尽き、太刀、長刀で押し出してき、魚鱗の陣、鶴翼の陣で時に攻め、ときに攻められるを繰り返していた。〔wiki/尚巴志の北山侵攻〕

 想像されるのは、羽地按司その他有力大名、北山三王の神輿を担いでいた勢力が尚氏王権に吸収されることで、北山は自然消滅した、という展開です。これも中山-北山という捉えではなく、伊平屋島に由来する「みやきせん」分派=新興中山王権・尚氏と、旧・「みやきせん」側との「内紛」と捉えるなら全く意外な話ではありません。この場合、北山滅亡とは「みやきせん」の内部クーデターに過ぎなくなります。
──どこかの古代史で聞いたような話です。そう、九州王朝説に似ています。

「みやきせん」後掲者としての琉球王国

 中山の北山攻略(吸収)、先の読みだと三山の対明窓口一本化というのは、尚氏王権が「みやきせん」海域のプレイヤーたる位置をやっと得た、というのが正確だと考えます。
 奄美大島を版図に加えるのは北山滅亡から31年後。さらにそれから20年かけて喜界島をやっと征服し、それで力を使い果たしたように第一尚氏は1469年に滅びます。(見方によっては、みやきせん海域の平定という設立目的を達したのを確認した株主=明朝によって、解散させられます。)
 またこの推移は、「北山」が勢威を振るった時代、その集団の中心地は沖縄本島ではなく●●●●●●●●●●●●奄美・喜界だったとの推測を生みます。

 第一尚氏64年間は、三山統一から、その北側にあった衰えたとは言え南西諸島の本丸だった「みやきせん」∶北・北山を含む本当の琉球統一王権への過程だったと考えられます。
 それがいかに第一尚王権にとって大事業だったか、逆に言えば「みやきせん」側がなおこの段階でも存在感を持っていたか。その傍証としてさらに一つ、この喜界島遠征の20年の中途に護佐丸・阿麻和利の乱が挟まれていることも挙げられると思われます。既存領域の支配を盤石にしたから他海域たる喜界を併呑しようという局面であれば、後背に当たる本島中北部が反乱を起こすことはあり得ないでしょう。北山滅亡後の段階で「みやきせん」集団は本島北海域に、まだ厳然として存在し、それどころか反攻にまで出た。それが即ち護佐丸・阿麻和利の「乱」と記されるものだったと捉えると、第一尚氏時代と呼ばれる63年間の「みやきせん」統合戦争の実相により近くなると考えます。

馬・硫黄の琉球朝貢品数量

朝貢交易量:1470年ピーク

 大方の予想に反し、第一尚氏の琉球と洪武帝の明朝との間の朝貢量は、各品目とも喜界島攻略から第二尚氏●●●●●●●●●●●への交代の時期、1470年頃をピークに以後減少に転じています。

*前掲岡本作成。原資料は、「歴代寳案」に依拠して作成された小葉田淳「中世南島通行貿易史の研究」(日本評論社,1939)掲載の「馬匹・硫黄進貢表 其一」(同書268-274p)及び「附搭貨表 其一」(同書298-303p)

 つまり第二尚氏への交代は、それによって交易量が増大した、という因果関係ではない。むしろ、交易量の打ち止めが第二尚氏の新体制を求めた、という時系列です。
 これは、喜界島征討から読むならば、前期倭寇根拠たる「みやきせん」海域を攻略する交換条件として多量の朝貢が認められ、攻略を終えた段階で明朝は交易量を現金なほど一転して減じた、と解釈するに足る時期の一致と言っていいでしょう。

蘇木・胡椒・番錫の琉球附搭貨物数量

 第一尚氏は向化(親明派)前期倭寇の新統合の核として造られ、反明的倭寇たる「みやきせん」海域にぶつけられ、征討が終われば用済みになった、と捉えるのが最もドライな解釈でしょう。
──この図から生まれるもう一つの疑問は、後代、対明清進貢交易によって経済を維持してきたと解される「琉球王国」が、それでは何の交易で利益を得ていたのか?という点です。一つは、同時期の東シナ海交易全体が向かったように東南アジア方面との交易ルートを拡大した、という解釈。もう一つは、進貢交易に付随するグレイな民間交易をジリジリと拡張させた、という見方でしょう。それらの関連史料又は研究は稀ですけど、いずれにせよ相当に太い進貢交易外のルートが存在していなければ、「琉球王国」は存立し得なかったはずです。
 けれど、そう考えると、元々対中朝貢用の看板だった「琉球王国」看板を、琉球人がなぜなおも掲げ続けてきたのか、という疑問も生まれます。帰納的に結論されるのは、付随領域が拡大しても進貢交易はその何らかの核として欠くべからざるフレームだった、ということですけど……そこから先の見通しは残念ながら未だ立ちません。

琉球はいつ統一されたか?

 この推測に基づくと、第一尚氏の喜界島攻略は非常に大きな琉球史のターニングポイントになります。この島への着目はこのアプローチからのものでした。
 ところで、喜界島は平地の多い島です。とても軍事的に強力な防衛地点になるようには思えません。
 この島で第一尚氏軍を迎撃した、勘樽金(かんたるがね)という人物の伝承があります。喜界島旧家・泉家の家譜には、この勘樽金が「勝連親方」の子どもとされます。
 この親方(琉球王朝の役職)は喜界島郡主だったという伝えもありますけど、その子が琉球に武装抵抗したのですからそれはやや矛盾があります。
 喜界町白水には、勝連親方の旧居とされる「勝連屋敷」跡が残されています。

白水・勝連屋敷跡

15世紀の中葉、琉球領内において勢力があった勝連の勢力が喜界島に進出していて この屋敷に勝連親方が住んでいたと伝わっています。勝連親方の「親方」とは琉球王国 の位階のことだそうです。屋敷内に力石と称する二個の石がありますが琉球三山時代に 勝連の殿様が城を築いた際、喜界島民に夫役が課され全島の若者を集めてこの石を持ち上げさせて 体力を試し夫役の人夫として使えるか判断したという由来があるそうです。
※『喜界町誌』より

*喜界島のオススメ情報が満載!喜界島ナビ:勝連屋敷
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「喜界町誌」ほか諸研究は、この事実に依って、三山時代から琉球に征服を受けるまでの間、喜界島は琉球の勝連按司の勢力・連合下にあったとします。
 その事と、護佐丸・阿麻和利の乱を喜界島征服に先立って鎮めなければならなかったこととの相関を考えると──本島より奄美を下に見る過去の琉球歴史学のバイアスも考慮すれば──喜界島「みやきせん」勢力が少なくとも勝連半島、もしかすると護佐丸のいた読谷辺りまで、つまり本島北部にまで拠点を持っていた可能性があります。
 もっともこれは帝国主義的又は陸人的に、喜界島の軍が北部を面的に占拠していた、というのではないでしょう。「みやきせん」海上勢力のネットワークが北部を取り込んでおり、今帰仁が中山王権に統合された後もそれは15C半ばまで変わらなかった、という絵が描けるということです。
 だから第一尚氏は、新ネットワークを担う王権の存亡を賭けて東アジア海域ネットワークへの「本登録」権を賭けて「みやきせん」本城・喜界島を落とさなければならなかったのです。
 ところで、この想定から振り返ると、今帰仁城陥落を「いや大事業でした!!」感を持って書かなければならなかった中山尚氏側のニーズが想像できます。第一尚氏は、困難な三山統一戦争の●●●●●●●●●●最終勝利者でなければ●●●●●●●●●●ならなかった●●●●●●。強力な政治勢力がまだなかった本島中南部に吹き溜まった漂泊者集団が、何とか本島からは北の海上大勢力──つまり明朝の敵視した前期倭寇直系集団を追い落としたけれど、本来の領海は依然として彼らが実効支配している。それが恒常化している状態を中華の中心としての明朝に知られたなら、朝貢主体としての「琉球王国」看板を降ろさざるを得なくなるからです。
 実際、第一尚氏はその統治機構の機能を疑われ、明朝とその派遣エリートにより、第二尚氏に組織改編させられた、と解されます。

薩摩の侵攻した「琉球」とはどこか?

 この状況を、北から薩摩島津家は長らく窺っていたはずです。島津は鎌倉武士に始まる陸の武士団の出身ですけど、伊作時代にその編成した海民は第一尚氏の実質の祖・尚巴志とほぼ同時期に北に流れた「みやきせん」分派だったと推測されます。※

※島津9代忠国が、宇治城に入ったのが1450(宝徳2)年とされる。忠国が琉球王に送った「太平書」に対する琉球・尚徳王の返書が1461(明・天順4=日・寛正2)年〔wiki/島津忠国〕。

 今帰仁の博物館で見た、1609年の薩摩の琉球侵攻の日程を振り返ってみますと──

1609年
2月26日 山川港集結、家久閲兵
3月4日 (順風を待って)出港
同日 口永良部島着
3月6日 口永良部島着出船
3月7日[a]奄美大島到着
3月12日 奄美大島深江ヶ浦を出船、大和浜を経て
3月16日 同島西古見着。先行13艘は徳之島へ先行
3月20日 (順風を待ち)同島出船、徳之島秋徳港到着
3月21日 10艘が沖永良部島に先発
3月24日[a+13](順風を待って)本隊が徳之島出発、同日に沖永良部到着、先発隊と合流して夜を徹し本島へ
3月25日 今帰仁運天港到着
3月27日 今帰仁城入城、放火
4月1日 (那覇港入口の鉄鎖を警戒し)大半が陸路で行軍開始、一部が首里に侵入・放火するが、大半は那覇に撤退
4月4日 国王下城、名護親方屋敷へ移る。
4月5日 「城内之荷物御改」(宝物目録作成)開始
4月16日 崇元寺で薩摩軍トップ(樺山・平田)と尚寧王が対面
5月15日 尚寧王は鹿児島へ出発

*wiki/琉球侵攻 日本の戦闘
**原典∶『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ2』「肝付兼篤書状」
「島津軍侵攻と琉球の対応」(『新沖縄県史・近世編』沖縄県教育委員会、2005)
島津軍の侵攻経路(本島到達まで)〔後掲上里〕
※出典 同上里「島津軍侵攻と琉球の対応」『新沖縄県史・近世編』沖縄県教育委員会,2005

島津軍の侵攻経路(本島到達後)〔後掲上里〕

 三つ、印象的な点があります。
 まず、沖縄人が現代語るほど過激ではない。本島の今帰仁以降はほぼ威嚇行動です。少なくとも九州や朝鮮での、鬼神のような島津軍の動きとまるで違います。

※薩摩侵攻時の今帰仁城についても、「島津氏は最初に今帰仁城を攻め、炎上させ」たといった記述をよく見るけれど、「薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上したとされています」〔後掲世界遺産 今帰仁城跡〕というのが正確らしい。城炎上は、従軍将・肝付兼篤の書状による戦功報告に記されるのみで、どうやら沖縄側の一次史料にはない。前章のとおり城最高所には1665年頃設置と推測される「監守来歴碑記」があることとも勘案すると、象徴又は再利用を避けるため破壊したという非常に緩い措置だったと考えられます。1609年に今帰仁攻防戦があったどころか、そもそも城の帰趨に注目していた者がいなかったと考えるのが順当です。

 次に、沖縄本島より前に日数の大半をかけていること。特に奄美で2週間近く留まって、大島を完全に掌握することに注力してます。
 最後に、この行程に、第一尚氏が攻略に20年●●●●●●●●●●を費やした喜界島が●●●●●●●●●出てこない●●●●●こと。
 一点目と二点目が物語ることは明白です。島津は琉球侵攻の主目的を、「みやきせん」海域の掌握に置いていた。奄美大島では長期の統治に必要な植民施策を慎重に打ったと思われますし、仮に今帰仁城だけでは大規模破壊があったと仮定しても尚王権からそれ以北を切り離す象徴的行為でしょう。
 また、その後に琉球より北のみを直轄に置いたのもそういうことでしょう。奄美以北では、その後の琉球以前の伝統からの切り離し策も徹底していたらしい。伊波普猷によると──

*伊波普猷「をなり神の島」(全集五巻:鬼界雑記)
**喜界島をゆく(2005年4月30日~5月2日) 
URL:https://yannaki.jp/kikaijima2.html
[寛永元(1624)年]役人や神職の冠簪衣服階品を琉球から受けることを禁止
[寛文三(1663)年]大島諸島の家譜及び旧記類を取り上げ焼却※

※都成植義「奄美史談」(鹿児島県大島郡教育会,1990)以降定説とされてきたが、近年の史学専門家によると根拠を欠くとされ、否定されつつある。例えば、弓削政己「奄美諸島の系図焼棄論と『奄美史談』の背景∶奄美諸島史把握の基礎的作業」法政大学沖縄文化研究所(法政大学学術機関レポジトリ),2012 ほかを参照。

[享保17(1732)年]役人の金笄朝衣広帯などを着ける琉球風を厳禁

 なので、現在に伝わるノロの辞令書など琉球的な重要書類は、島津支配下では秘蔵されていたものといいます。
 ただ、喜界島の各集落には琉球から植民してきた支配層が多くいました。それでも喜界島が薩摩側史料にあまり記されないのは、なぜなのか。
 書けないほど徹底した非道をしたから……とは、島津のドライな政策上考えにくい。そこで上記3点目を考え合わせるなら──島津は、反琉球感情が最も強かった喜界島に何らかの調略を済ませて、「みやきせん」海域を復活させるという体を取ったのではないか──と想像できなくもありません。
 先に喜界島が尚王国軍に長く抗したことを思い返してみましょう。NIKKEI STYLEで本田さんは「薩摩ほか南九州の諸勢力の支援を受けることで持ちこたえることができた可能性が高い。」としているけれど、確かに喜界島の抵抗を支援したのは勝連や今帰仁だけでなく、南九州もこの海域勢力を庇護しようとした公算は高い。喜界島発掘を指導した愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通教授も「喜界島にとって鉄は沖縄に対する重要な戦略物資になっていたのではないか」とします。逆に言えば沖縄と対等の経済圏というビションは長く存在し、それが薩摩の「侵略」のむしろ大きな順風になっていた気配を感じるのです。

*NIKKEI STYLE/本田寛成「南島史が塗り替わる 12世紀製鉄炉跡の衝撃 歴史新発見 鹿児島県喜界島」2015
〜13C  喜界島海人圏
     ▼元末
14C 前期倭寇
     ▼琉球成立
15〜16C「みやきせん」海人圏(≒北山)
     ▼江戸幕府
17C 薩摩海域ネットワーク

 結果として、薩摩の海域ネットワークは、表の「鎖国」体制を次第に凌駕する裏経済ネットとして対外交易圏を事実上傘下に置くに至ります。
 つまり薩摩の「琉球」侵攻は、江戸期の長期スパンで見ても「大成功」を収めています。──それが住民側から見ると「収奪」に見える、というのは……ドライに言ってしまえば、あくまでアプローチの問題です。経済圏全体が興隆しなかった場合、そこにはより深刻な「貧困」が現出したはずだからです。

薩摩海域経済圏にとって琉球王朝は何だったか

 こう考えていくと、琉球第二尚王朝の持った二重の宗主国体制も、また別の意味を持ってくるのではないでしょうか。
 薩摩人は、前期倭寇から第一尚王朝を経ての沖縄本島の対中国交易の本質を、長く見据えてきていたはずです。表の正規の朝貢と並行して、裏の「穏健倭寇」としての私貿易を両輪で継続してきた経済圏だということも。そして後者の裏交易は、依然として「みやきせん」交易圏を明清公認で引き継いでいました。
 だとすれば、尚王朝は、そもそも薩摩侵攻以前から二重性を有していた、と考えることはできないでしょうか。
「琉球統一王朝」という看板自体が、北・北山や奄美、喜界の領域(海域)に実効力がない、という意味でも、また裏交易のカモフラージュという意味でも、お芝居と言えばお芝居でした。かつその芝居は、明王朝の弛まぬ演出によるものであり、その表裏並立構造を薩摩はよく知っていたでしょう。
 だから薩摩が「みやきせん」海域を引き継ごうとすれば、裏経済側に回るしかなかった。必然的に表経済、朝貢の看板を尚氏から掛け替える先が見つからなかったし、別にそれは尚氏に掲げ続けてもらって支障はなかったのでしょう。
 おそらく、その反動でジュンガルと和平にこぎ着けた清朝側からの揺り返しが18C前半に来てます。1734(享保19)年の平敷屋・友寄(へしきや・ともよせ)事件という蔡温改革下の峻烈な事件は、琉球人50名ほどが磔刑など極刑に処されているけれど、一説には琉球の薩摩化を阻止するものとも見られています。1717(康煕55)年の広東での地丁銀施行、1720(康煕59)年の広東公行設立、1722年の唐物崩れと、この時代に東シナ海上の経済秩序は清朝の締付けの本格化を背景に大きく変動しています。
 琉球の二重宗主体制は、薩摩が選んだというより、外交史に語られない東シナ海交易圏のギリギリの折衝で──単に支配-収奪関係の中でではなく、より生々しくドライな経済外交の応酬の結果として──薩摩と琉球が選ばざるを得なかった外交姿勢だったと思えます。

うけもち神の海

 長々と見てもなお皆目見えない「みやきせん」海域の実体感に、最後に僅かにタッチしようと再チャレンジしてみます。
 喜界島の各集落の資料を見ると、あまりにも繰り返し「保食神社」という名前に遭遇します。試しにGM.(グーグルマップ)で喜界島にエリアを設定し、この名前を検索してみると──

喜界島の保食神社(GM.検索結果)

 喜界島は神社が48もある極めて宗教性の高い島です。保食神社はうち20。

*喜界島酒造くろちゅうマガジン52 喜界島の神社のはなし
URL:https://www.kurochu.jp/magazine52.htm

 もう少し広い範囲をとってみても、保食神社は喜界島に集中してます。ところが周辺の島には、奄美大島にすら存在していないのです。

南西諸島の保食神社(GM.検索結果)

 保食神(うけもちのかみ)は日本書紀にしか登場しません。それも一場面だけ。古事記ではスサノオ神が大氣津比賣神に食を乞うたけれど、それを鼻・口・尻から出して穢いので殺してしまう場面が相当します。

天照大神在於天上曰「聞、葦原中國有保食神。宜爾月夜見尊就候之。」月夜見尊、受勅而降。已到于保食神許、保食神、乃廻首嚮國則自口出飯、又嚮海則鰭廣鰭狹亦自口出、又嚮山則毛麁毛柔亦自口出。[日本書紀]

大蔵山受母智大神画
 月夜見尊も、最後は保食神を殺して天照神に絶交される。いわゆる死体化生神話、民俗学でハイヌウェレ型神話と呼ばれる「死んだ神から世界、人間、農作物が生まれる」物語です。ただ日本書紀では、保食神が住むのは芦原・中国です。
 文化の波及を象徴するもされるこの保食神は、九州まで広げると次のようなエリアに祀られます。
九州の保食神社(GM.検索結果)

 お気づきのとおりこのエリアは、まさにこの文章で扱っている「みやきせん」海域そのものです。初期の同海域の共通神が日本神話に受け継がれたのでしょう。中国から伝来した諸文化を継承しつつ「師を殺す」形で乗り越える形で。──と自信ありげに書いてますけど……日本神話の最古神の一柱、著述側からは忌みつつ祀られたらしきこの神が、なぜ海民に、どのように広まっていたのかは、正直想像がつきません。未だ追加材料もありません。
 ただし、この神は沖縄本島では、今帰仁・勝連を含め祀られることはありません。本章で扱っている海域デッサンを前提にするなら、この沖縄本島に海域ネットワークが達する一つ前の古層の信仰です。「みやきせん」海域について語っているはずの本稿では、今帰仁的なものが、本質に近づくほど見あたらなくなります。
 古層の色彩の拡がりは色々と確認できるのに、それが連なっていかない。実はこのことにこそ、この海域の存在形態が見えるのではないでしょうか。
 一定の空間に形成されたマーケットが、常に異種の要素を吸い込み、むしろそれによって生き継いでいくような流動体としての海域、とでも言うのでしょうか。

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