009-5豊玉(帰)\対馬\長崎県

温泉やってないけど湯ったり

▲「宝島 何でもあるぞー 宝島」ちゃんと五七五だけど……あまり深みはない。

428,万関。
 ここまでは細道が怖い。ここからはスピードが怖い。
 なのでゆるりとしようと,1453,湯多里ランドつしまで温泉にでも──
「温泉ご利用ですか?」「はい,やってますか?」「温泉やってないんです」
……なのに「湯多里」の施設名は掲げ続けるとは,肝が座ってる。

神功皇后は気になって来てみただけ

▲樽が浜の土砂の山

その対面から鶏知・樽が浜へ入る。
 バス停・樽が浜橋──この「樽が浜」地名はGM.ではなかなかヒットしないけれどココ→地点。万関と並び,浅茅湾が最も南東に湾入する地点です。
 川沿いに南へ。
 1503,鶏知小学校入口。もう一つ先だろう。

雞知案内板のマップ〔後掲きさらぎのてげてげプログ〕

名の案内板あり。
「神功皇后が城山へ登られた際,遠方からの鶏の声を聞いて御幸され鶏知と命名された」とある。──ここでも城山(≒金田城)から神功皇后が三韓へ発進した前提になってます。また,清浄とされる鶏が鳴いたのは「遠方」で雞知ではなく,単に皇后が「気になって来てみた」だけ,という伝承が何とも不思議です。

高過ぎる阿比留さん率

▲1511住吉神社の本殿と狛犬

507,鶏知住吉神社(→本地垂迹資料便覧/鶏知住吉神社)。
 祭神をなぜか確認してません。後掲きさらぎのてげてげプログによると「彦波瀲武鵜茅草葺不合尊」──まあウガヤ神でしょう。同プログも驚いてますけど,住吉神社の通常の祭神・ツツノオ三神の姿がないのです。
※ 内田樹・釈徹宗「聖地巡礼 Continued」東京書籍,2017,p281
「鶏知に移る前は浅茅湾の奥の東の沿岸にある鴨居瀬という所でした。」
※ 鴨居瀬GM.

 訳が分からない。鴨居瀬にあった住吉神を,元々のウガヤ神祭祀の場に,冠だけ被せたのでしょうけど,なぜそんなことをする必要があったのでしょう?
 なお当時のメモに「鴨居瀬→上伊勢?」と思いつきを記してます。でも「鴨の居る瀬」という自然さもそれなりに納得できます。それより,鴨居瀬の場所はいわゆる船越の場所です。同じく船越地点であったはずの雞知に,そこから移された理由が何かありそうです。

▲1513住吉神社の小祠

手に少し高みの石垣上に小祠。玉石敷かれる。祭神名なし。
 どうもこちらの神格が高いように感じられます。とすると,この祠に本来のこの祭場の主が祀られているのでしょうか。
▲「阿比瑠」名ならぶ奉寄名

りにふと見かけた奉寄進の石碑です。
 阿比留さんだらけです。
 対馬に阿比留姓は多い。全国阿比留姓の6割が対馬に住み,対馬市民の6.6%,15人に1人が阿比留さん〔後掲名字由来net〕。でもそれにしてもこの奉寄進の表記は極端です。阿比留さん一族の強固なネットワークがあって,それを宮子とする神社なのでしょうか?

阿比留姓の分布〔後掲名字由来net〕

吉神社から南下すると1km足らずで雞知湾。そこから北の湾岸沿いにやはり1km足らずで──
 港の端の方。ここ……のはずだけど?
 探すと,道端に小さく表示板がありました。1529,根曽古墳群。

イノシシ注意 昼夜関係なし

(再掲)根曽1・2号墳図面〔後掲尾上〕

案1内板に曰く──「浅茅湾沿岸の小高い岬にはいたるところ箱式石棺墓が設けられ」ているという(→前章遺跡地図参照)。なるほど,浅茅湾に面した遺跡の多さはそういうことなのか。でもなぜでしょう?
「古墳群」と言いながら,嬉しいことに観光的には手つかずで,里山の茂みのような荒れた山道が続いてます。
 1536,第四古墳とある表示。
▲第四古墳。前方後円墳とある。

〜む。全く分からんなあ。
 古墳というのは,慶州とか「さきたま」みたいに「ここにあるよ」と公園にしてもらってないと,言われないとホントに分からんもので……。
 そのうちこんな看板まで出てきまして,するとそこの茂みにガルルッと待ち構えてるヒトがいそうで……。
▲「イノシシ注意 昼夜関係なし」

跡の茂みから脱出しますと,のんびりと広がるは根曽漁港。
 残照を帯び始めた港に,ぷかぷかと漁船が揺れております。
 ここの集落にも古びた様子はありません。中世や近世の面影は,どうも対馬には薄い。なのにいきなりズドーンと古代に直結してる,対馬はそういう如何にも恐い土地なのです。
▲根曽の漁港

うして厳原に引き上げてきた原チャは,市街を通り過ぎまして南郊外へ──。
 乗り物があるうちに,ここだけは行っておかねばなりません。
 1616,対馬藩お船江跡。

当たり前な顔でスゲえのが対馬

▲お船江

戸期鎖国下にあった時代も,日朝外交史上大きな役割を果たした対馬藩の一つの象徴ともいえよう。」〔案内板〕
 凄い遺構らしい。ワシ個人としてもこんなのは見たことがない。

 国土交通省港湾局の調査によると、我が国では全国266の港湾(一部漁港、海岸を含む)に892の歴史的港湾施設の存在が確認されている1)。しかし、その中でお船江に匹敵する船舶格納施設は見当たらず、現存する船屋としては、規模、残存状況とも特筆すべきものである。
 それにもかかわらず、お船江の建設経緯やその価値の検討に関する歴史的研究は見当たらず、最近では伊東孝の論文があるに過ぎない2)。〔後掲山下〕

※原注
1 国土交通省港湾局環境整備計画室「歴史的港湾環境施設調査報告書」2001
2 伊藤孝「対馬の石の文化」(財)リバーフロントセンター「FRONT」pp66-68,2002

▲1623お船江

まり,凄い割には実態はあまり研究されてません。山下さんの論文の要点を巻末に掲げますけど──完全体で残り過ぎてて,普通の小港のようにも見えてしまい「スゲエ!」感がどうも起こらない。古墳群と同じで──この当たり前な顔でスゲえのが居るのが,対馬らしくはあるんですけどね。

日本書紀にしか用いられない漢字

▲ガソリンスタンドから西対岸

641,畑島さんにバイク返却。よく走るバイクでした。
 宿への帰りがけ,丸栄という川沿いのスーパーに再び赴く。
1912 吉原忍 アーモンドフロランタン300
 魚もR.C.と比較にならない新鮮さだし,なにより地元スイーツが揃ってる。
この「吉原忍」というのをよくよく見ると,鶏知のあの住吉神社から見えたピーターパン・キャラのメーカーことらしい。
 ただ──今,ググッてみるけど何も出ない。
 何と言うのか,くどいのにそれが途中で歯切れ良いというのか,独特の旨さのスイーツです。人口規模から安定した像を結んではいないようにも感じますけど──ここにはやはり何か独自の味覚がある。
▲東横INNのお部屋にあったハングル表記の注意書き

・海 あま aMa
和多都美 わだ(海)つ(の)み(蛇) wadatuMi
八幡 はち(八部隊の)まん hatiMan」
 この日のメモに思いつきを書き綴ってます。媽祖(妈祖)Mazi のM音と,海✕女性的な神道用語の関連ですけど──これは未だにピタッと腑に落ちる答えがありません。
 ただ,忘れかけてたこの国字も続けて書き残してました。
「大日孁(おおひるめ)oohiruMe
「孁」=「霊」+「女」
中国にはなく,日本でも日本書紀にしか用いられない漢字」
 中国の漢字には,人名・地名などの特定固有名詞専用の漢字というのがありますけど,国字では珍しいと思います。おそらくは──作者・舎人親王が紀を記すために造った漢字です。

雞知住吉神社と(北)樽が浜及び(南)鶏知浦
※紫線は引用者

■レポ:これやこの雞知を付けたくなる対馬

 雞知住吉神社の位置は上図の通り。北に樽が浜の入江,南に雞知湾。この間の平地は埋立地又は自然堆積地でしょうから,紫線の楕円内がかつての湾入域と考えることができます。
 つまり太古のある時点までは,東岸から浅茅湾への「船越」だった位置だろうと想像されます。
 現・万関や大小船越は多島海の中にあります。岩礁の危険を考えると,対馬を跨いで南北に市糴(→魏志倭人伝参照)する人々には雞知の「船越」の方がより有用な時代があったと考えられます。
 そこに住吉神社は在る。
 以下は本地垂迹の同神社記述です。住吉神を主神としない住吉神社であることは本文にも書きましたけど,宗像神やウガヤ神(鵜茅草葺不合尊。本地垂迹中の「善神」か?)を祀るからには,萬の海神の複合的祭場だったと考えられ,そこに最終的に最も分かりやすい住吉の名が冠せられたのでしょう。

慶知村
一 住吉大明神  神躰虚空蔵木像也。脇に宗像金像有。
一 勧請之儀不相知。
一 本社九尺に弐間。西向。内に銀之御幣弐本有。
一 拝殿九尺に弐間。 村より寅方に当。道法弐町程。
一 木鳥居有之。
  右何も従上御建立也。
一 善神弐体。木像左右に有。
一 御太刀一腰長さ三尺鞘共三尺六寸。
  銘曰、本州島主義成命冶工作以奉献納神殿伏垂霊鑑惟時(寛永庚午二月吉日対州住長幸作)
一 神山麦壱弐拾俵蒔程。椎木大竹有之。
一 九月十三日御祭礼有之。
  両殿様より為御名代、御馬廻両人十三日之朝府内罷立。慶知村江罷越、御祭に逢。御祭礼相済而上府。於慶知村、御名代宿大尉家。〔後掲本地垂迹資料便覧〕

 最後に記す祭礼時の厳原からの巡行は,泊まる家が決まりになってるほど儀式化していたのでしょうか。
 ともあれ,ここが対馬全体の霊的な要と見なされていた(いる?)ことは以上から窺い知れます。問題は,上に掲げたような地形的分析をしない限り,外地の我々にとって雞知がそんな要に当たると見当がつかない,という点です。
 実態としての雞知は,一体どんな意味で要なのでしょうか?

雞知という点又は大まかな面

 現・美津島町主邑たる雞知が,古代からの浅茅湾東部の要であることは,史料上及び考古学上,次のような事実から疑いようがありません。

 日本列島と朝鮮半島の間の海峡は,古来,文化交流の主要な通路であったが,対馬にはそれを語る史跡が多い。ことに古代における対馬の中心は,浅茅湾と呼ぱれる中央の内海にあったようで,この沿岸に遺跡が集中している。浅茅湾の北岸は豊玉町,南岸,東岸は美津島町で雞知を主邑としている。維知は「類楽和名抄」(るいじゅわみょうしょう)に見え,対馬唯一の前方後円墳が群として存在し,対馬の県直の本拠と見られるところである。〔後掲長崎県美津島町教委2000〕

「対馬唯一の前方後円墳」群,つまり根曽古墳群については後述しますけど,肝心の「なぜそんな古くから知られていたか?」については材料がありません。
 次のような文章もあり,そもそも雞知という地名が表していたエリアすら諸説があるのです。

下県郡雞知郷(長崎県)
郷域については、現在の美津島町雞知を中心として、同町竹敷・黒瀬・洲藻から、東は同町久世保、南は厳原町久田にわたるとする説(地理志料)、北は美津島町小船越まで含め南は同町高浜辺までとする説(地名辞書・津島紀略・国郡沿革考)などがある。(p376)〔後掲千年村プロジェクト〕

 だから当面,本稿での鶏知は要の一次元地点,あるいは漠然とした二次元地域を指すことにせざるを得ないけれど──そこがなぜ重要視されたか,という点に長崎県報告書は二つの観点を提供しています。

 中世には倭寇の本拠といわれた時代もあり,外国に侵された受難の歴史もあるが,近世幕末の動揺期には,ロシア・イギリスの野望にさらされたこともあった。明治になると帝国海軍の基地となり,竹敷海軍要港部が置かれ,また,対馬要塞司令部も雛知に置かれた(美津島町1978)。
 対馬の弥生遺跡は,全島の浦々に存在しているが,特に浅茅湾の周辺に分布の密度が濃厚で,また遺構や遺物の質も高い。これから見て,島の中部の内海地帯が,対馬における弥生文化の中心をなしていたように考えられる。〔後掲長崎県美津島町教委2000〕

 前段の近代海事事情について,前々章の万関建設の話と自衛隊の話とで触れてきました。対馬,というより浅茅湾は,攻守とも容易である反面,ここを彼(敵海軍)に穫られると非常に辛い。ただそれは万関建設後の前提であって,通史的には刀伊や元寇は浅茅湾を上陸地点には選んでません。

(再掲) 刀伊・元寇・朝鮮(応永)・露(幕末)の進攻地点と金田城〔地理院地図〕※赤ラインは金田城〜白獄〜黒土山

※刀伊の入寇:1019(寛仁3)年(推定)女真族
 元寇:1274(文永11)年,1281(弘安4)年元朝(モンゴル帝国)
 応永の外寇:1419(応永26)年 李氏朝鮮
 ポサドニック号事件:1861(文久元)年3月14日 ロシア(ロシア中国海域艦隊) なお,仲裁のため浅茅湾に入ったイギリスも対馬占領を本国政府に提案していたとされる。

 神功皇后や白村江戦後の金田城の運用(前掲金田城路・特論参照)は浅茅湾の複雑な地形を堀とした防御姿勢,又は秘密裡の出撃基地の機能に特化してました。
 即ち,近代の対馬防備隊最寄り町としての雞知と,浅茅湾最奥にして船越の機能による金田城裏口としての雞知は,一元的には論じにくいと考えられます。
 そこで二点目,古代墳墓の異常な集積地としての雞知に目を移してみます。

樽が浜〜雞知住吉神社〜根曽古墳 位置図〔GM.〕

根曽は無体に痛む発想ね

 素人が実見する限りではそう感銘のなかった根曽古墳群の意義は,考古学的にはとてつもなく大きいらしい。この位置にこんなものがあるのが理解不能なのです。

(再掲)根曽1・2号墳図面〔後掲尾上〕

 対馬の中央、東岸に[[鶏知]けち]浦がある。その北を限る岬の東端には、稜線上に3基の前方後円墳と2基の円墳からなる根曽古墳群がある。
 第1号古墳は、最高所に位置し積石塚の前方後円墳であり、全長約30メートル、前方部長さ12.3メートル、幅5.5メートル、高さ1メートル、後円部は径14.5メートルであり、前方部より2.5メートル高い。後円部には主軸と平行して板石石室があり鉄鏃・刀・碧玉製管玉が発見されている。(略)第3号古墳は巨材を用いた板石横穴式石室であり、各壁を一枚石でつくる特異な構造をとる。第5号古墳は箱式石棺を伴う積石の円墳である。
 前方後円墳は対馬では本古墳群と、その対岸の鶴山古墳がそれかとされる以外にないだけに本古墳群はきわめて重要なものであり、系譜的な流れをもつ点や古墳文化の受容や導入を考える上に貴重な資料といえるであろう。〔後掲文化遺産オンライン〕

 つまり,①なぜこれほど多様な古墳が造られたか,②そもそもなぜ対馬に古墳が受容・導入されたのか,という点が全く不明なのです。そして加えて,③そうした古墳築造場所がなぜ鶏知なのか,です。

対馬の中心地は弥生時代には対馬島西海岸(三根地区の三根遺跡や仁位地区)にあったと推測されるが、古墳時代に入り出居塚古墳や本古墳群の築造時には対馬島東海岸の雞知浦に移動している。〔wiki/根曽古墳群※〕

※原典 『旅する長崎学12 海の道2対馬 朝鮮外交への道 海神の島 大陸交流のかけ橋』 長崎文献社、2009年、pp. 28-29

 弥生時代以前の遺跡が浅茅湾を中心とした上島に分布が集中することはすでに良く知られる所だが,高塚古墳は出居塚古墳の築造後には下島東岸,終末期になると下島西岸と南端に現れ,あたかも島の中心的地域が移動したかのように見える。〔後掲尾上〕

 以上3点の謎は,もちろん連関したものでしょう。三根や仁位を中心とした先史時代の営みが突如として①多彩な②古墳を③雞知に造った人々の時代に転換していく,何か単一のインパクトが存在したはずなのです。

対馬地域主要古墳の位置〔後掲尾上〕※赤塗:引用者(雞知地域)

 金田城が白村江戦以前から築城されていたとする説との関連を論ずるものは紹介されてないけれど,そう考えた場合でも,ではなぜ金田城付近に古墳が築かれなかったのか,という点は説明しにくい。

 対馬の下島全体で7世紀代に畿内の影響が色濃く反映されている状況は東海岸のサイノヤマ古墳と西海岸の矢立山古墳群で方形段築の墳形が採用され,矢立山古墳群と南の保床山古墳で銅銃が副葬されていることからも明白である。
 上記三者※は対馬における「畿内型の本格古墳」の出現を,「畿内王朝」「中央政権」の「支配にはいった」か,「結びついた/直結した」ため起きた事象と解釈しているが,「畿内」が「畿内型の本格古墳」という事象出現の要因であったことは諸先学の研究から見ても疑いない。より詳しく言うならば「対馬」との相互関係が要因であり契機だろうが,では両者の関係とはどのような性格のものだったのか?そしていかなる経緯で「対馬」は「畿内型の本格古墳」を採用することになったのか?いかなる意図を持って対馬は「畿内型の本格古墳」を採用したのか?「畿内型の本格古墳」を採用するということは対馬にとってどのような意味があったのか?〔後掲尾上〕

※安楽勉,永留久恵,藤田和裕
 要するに,古墳時代の大和と対馬の関係性は,これまで想定された事のない何らかの異形であった,と考えざるを得ないのですけど──尾上論文は以上の論点に答えを示してはいません。
 ワシもこの雞知ほど怪物的な謎を知らない。ホールドさえ見つけ難いツルッつるの未踏峰です。ただ,この謎がなぜこれほど何も分からないのか,は少し幻視できそうです。──それは海域アジア全体にも共通しますけど……。
「対馬」という系は,どの時代においても閉じてない。それどころか,可能なアクセス先に積極的に自らを開放し,その関係系のサブシステムとなることで漸く存在し得ている。理由は簡単なことで,日本内地の山村のような,閉じた系を作るだけの資源が無いからです。
 質量は無く位置エネルギーだけが有る。そのような「座標」の位置エネルギーは,質量を持つ他者如何で何物にでも変換される。空集合Φが全ての集合の部分集合であるように,「座標」はどの質量系にも飲み込まれ,かついつだって理由もなく離開できる。質量の側からの理解を絶する不義と思えるほどの変化自在ぶりを見せます(≒前章異形婚姻譚)。
──位置と移動のエネルギーを帯びた微質量座標が,系全体の重要なモーメントとして作用する。以前かじった微惑星の太陽系モデルを想起させます。

❝内部リンク❞m19Cm第二十二波mm2唐の船御嶽(ニライF68)/■[異分野参照]太陽系惑星成長過程:原始惑星系円盤(京都モデル)とニース・モデル

m19Cm第二十二波mまれびとの寄り着くは真夜 奥武島m2唐の船御嶽(ニライF68)


(再掲)(木星)トロヤ群の小惑星
凡例(図上,木星は反時計回りに回る)
緑:トロヤ群(うち木星進路方向はギリシャ群,後方はトロヤ群と区別)
白:小惑星帯(メインベルト)小惑星群
褐:ヒルダ群小惑星

 海民の人口規模は,陸民に比べ圧倒的少数です。けれどこの集団は,系全体の構造を象徴し,その構造内部の位相差を具現化した行動を採っています。
 古墳時代の大和と対馬の間にあった何らかの強い相互作用。そのような人々の移動行動を,もう一つ,江戸期の比較的史料の残る例で見ていきます。
▲文政年間以降,明治・大正期までに対馬へ通漁した漁村
(上図:全体地図 中図:うち安芸地方拡大 下図:漁村名一覧)
※(財)広島市文化財団 広島市郷土資料館「広島市郷土資料館調査報告書 第15集 対馬に渡った広島人 ━近世から近代における広島漁民の対馬通漁と移住等に関する調査報告━」平13 「明治十七年 旧藩時漁政調査」等を参考に作成。対馬へ通漁したすべての漁村をすべて網羅しているわけではない。

■レポ:広島発対馬行 夢の抜荷ツアー

 宮本常一が時折,対馬の瀬戸内海出身者を書いているのは読んでました。
 対馬行きから帰ってから,広島市郷土資料館がこのアプローチでの調査を行ってるのを知りました。

イカ釣り業の活発化に伴い,近世以来の通漁によって,着実に資本を蓄積した広島向洋の漁民の中から,特に明治30~40年代にかけて,イカ加工業・スルメ運搬業の経営を目的として移住するものが現れた。(略)今回の現地調査において,先祖代々対馬に居住する在来の人たちから,「広島のもんは,金儲けがうまいけんねー……」というような声が,やや皮肉めいた口調で語られることが間々あった。これは,ある意味,広島人が対馬において経済的に成功したことを物語っているともいえる。実際,現在でも,対馬の基幹産業である漁業の中枢に位置する水産会社の経営者の多くが広島ゆかりの人である。(略)広島人をルーツに持つ人たちが,対馬経済をある意味牽引しているという印象は否めない。[前掲広島市郷土資料館]

広島焼き風お好み焼き屋さんの厳格な掟書き貼紙 
 広島と対馬。普通には──つまり日本史の教科書を読むだけでは,到底思いつかない関係系です。けれど史料とフィールドワークの微細な記述を積み上げると,江戸期以降のそれは相当大きな姿を見せてきます。
 当面,具体のキーワードとして上記から浮かぶのは①イカ釣・加工業,②広島向洋漁民,③広島→対馬の移住 です。

波高し遠出を厭ふ対馬船

 宗氏・対馬府中藩は漁業を振興しなかった,というのは,ここまで一連の宗氏前史史料をご一読されるともっともな事と納得されると思います。
 元々,北九州で少弐氏配下として陸戦に携わった彼らに,芳洲理論で言う「日本藩屏之地」対馬経営が課せられたとき,その浦々に巣食う海民集団はまさに「異形」,信能わざる騒乱と混乱の根源以外のものではなく(下記引用の記述を借りると「漁業と偽って密貿易を行」う者),海に生きる人口は一人でも減らしたかったでしょう。

周囲を海で囲まれた対馬には極めて豊かな漁業資源があったが,それにもかかわらず,江戸時代,対馬藩は島民に対して積極的に漁業を奨励しなかった。これには,二つの理由があるとされている。ひとつは,島内の農業生産力を維持するためである。つまり,島民が農業をおろそかにすることで,ただでさえ少ない穀物生産が,さらに減少することを警戒したのである。いまひとつは,対朝鮮密貿易を防止するためである。つまり,島民が自由に遠洋へ漕ぎ出し,漁業と偽って密貿易を行い,それによって国益が損なわれることを警戒したのである。[前掲広島市郷土資料館]

 先に,「田舎者」と呼ばれた人々に触れました。厳原府中外から徴用された郡内の水夫は元「半農・半漁」の生活者であったという。どのくらいの割合かは分かりませんけど,倭寇又はその予備軍の陸上がりを含むと思われます。
 つまりこのグループは,かつて行っていた遠洋航海を自律的に禁じ手としていたらしい。

❝内部リンク❞009-2@金田城【特論】人参潜商\対馬\長崎県/■裏:人参潜商(密輸)記録集/【民】総潜商化→
←【官】政策的取締緩和

009-2@金田城【特論】人参潜商\対馬\長崎県

藩が朝鮮米を輸入ずる際の運送船,所謂御米漕船は,従来厳原の水夫を用ひて来たのであるが,宝永の頃になると,巌原の水夫が間に合はなくなつて来たので,米の輸入が延滞勝ちとなつて来た。そとでやむを得ず郡内の水夫を徴発してこれに充てなければならない事情となって来た(23)。ところで郡内の水夫といっても半農・半漁を営む対馬に沿いては勿論それは農民である。この農民を藩では田舎者と呼んでゐる。ところで所謂田舎者が御米漕船の水夫となって渡鮮した場合,不図人参等に誘惑されて,つい密貿易に手を染めることが多かつた。〔森晋一郎「近世後期対馬藩日朝貿易の展開:安永年間の私貿易を中心として」三田史学会,1986〕

※注23 同(引用者再掲:宗家万松院文庫)所蔵,宝永八卯年○正徳三年ニ至田舎者潜商之御法度を背候科之者被仰付様之格式

 漁業従事者がいなかったのではなく,沿海漁業(下記で言う「地先」の漁業)に特化していた。

 とはいえ,島民が漁業に全く携わらなかったというのではない。島民が漁業を専業としたり,遠洋での漁業をしたりすることが基本的にはなかったというだけで,地先での漁業は,島民によって普通に行われていた。ただし,それは,農作物の肥料となる藻の採取や,湾内での建網(たてあみ)漁などの簡易な漁業に限られ,農業生産の合間や農閑期に行われるに過ぎなかった。[前掲広島市郷土資料館]

意外に他県で全く通じずにショックを感じる一言「手がたわん」 ≒手が届かない
 希少な専業漁民集落が有名な曲(まがり)です。三根,仁位など浅茅湾,比田勝・小茂田・豆酘など古い港町にもいなかったとは考えにくいけれど,近世宗氏の厳しい海上保安体制下,これと強い関係を持つ曲以外は,倭寇の裔たる由縁を秘して陸上がりして時の趨勢を待とうとしたものでしょうか。

 また,専業漁民も,わずかではあるが存在していた。江戸時代初期に,筑前国鐘ヶ崎(かねがさき)より来島し,厳原北西の阿須(あず)湾内・曲(まがり)に定住したことから「曲海士(あま)」とよばれた集団がそれであり,彼らは,主に対朝鮮貿易の重要な輸出品であった俵物(たわらもの)(干アワビ・煎(いり)ナマコ)の生産を担った。ただ,彼らを除いては,島内に専業漁民とよべる人々はほとんどいなかった。[前掲広島市郷土資料館]

 結果,広大な対馬遠海が空白となり,ここを他国の漁業者が狙って移入してきたわけです。

扇を手に勇壮に舞い、精霊船を送り出す「曲の盆踊」の踊り手ら=対馬市、曲漁港〔後掲長崎新聞〕
※文化庁:全国的に見られる集団の輪踊りとは異なり、対馬では少人数の男性が隊列を組んで踊る形で各集落で伝承されてきた。現在、盆時期に踊っているのは曲を含め5地区だけ

曲集落に伝わる沿革:三韓遠征の立役者・阿曇磯良

 曲海士(まがりあま)と人口に膾炙された集団は,阿須浦に並ぶ五集落の最も北側のものです。
 迂闊ながら今回の旅程,この阿須浦は完全に見逃してます。厳原から北へ向かう時に通った厳原トンネル,あれを通らず東海岸を辿った先の大きな湾です。
──個人的な感覚では,なぜこれだけ厳原府中に近接し,これだけ条件の良い港湾が,交通的にスキップされているのか分からない。

海底地形図 (上)阿須湾 (下)厳原港〔後掲みんなの海図〕

阿須浦ともいうが,湾内に小阿須・大阿須・南室・小浦・曲などの浦があり,それぞれに集落もあることから,全体を総称する名としては阿須湾がふさわしい。阿須の名義は阿曇(あずみ)より訛ったものといわれ,神功皇后の水先案内をした阿曇磯良が,この浦で皇后をお迎えしたという(津島紀事)。島内で磯良と皇后の伝説がある所にはかならず磯良の祠があるが,当湾にはそれがない。〔角川日本地名大辞典/阿須湾〕

 小阿須・大阿須・南室・小浦・曲の五集落の位置が概観し辛いので,次の図にまとめました。現代は小阿須・大阿須は埋立でひと繋がりになって,阿須湾岸で最も大きい集落ですけど,従来は阿須川を挟んで北が「大」,南が「小」だったらしい〔後掲対馬全カタログ/阿須〕。
「阿須」は何と「阿曇」の族名から来ているという。阿曇磯良という人の伝説は記紀ではなく南北朝の太平記に記述されており,海民族の共通の祖のような位置を占めます。現・国歌「君が代」は元々この人を讃えた歌という説すらあるほどです(下記展開参照)。



阿須湾の五集落の位置

 従って,安曇伝承は曲固有のものというより,安曇系海民に広く共有されていたもので,最も新しい時代に「陸上がり」した海民集団・曲の人々がその古い形を伝えた,ということだと思われます。陸の集落としての曲はかなり新しく,まず江戸期に入ってから形成されたもののようです。

(続)湾口北岸を曲崎,南岸を鶴舞崎と称し,中間に鯨瀬があり,一名釜蓋ともいう。南室・小浦とも古い集落で,「海東諸国紀」には,南室30余戸・小浦10余戸と見えるが,阿須は戸数の記載がない。曲は近世になって形成された海人の集落で,小浦の枝村とされていたが,その先祖は筑前国鐘ケ崎より来たと伝え,室町期から対馬の沿岸で漂泊していたことが史料にも見え,島主(宗氏)より八海御免の特権を与えられていた文書もある。曲の海女は近代まで素潜りで知られていたが,近世鯨組の盛時には,曲の海士(男海人)が各地で刃刺として活躍したことが知られている。〔角川日本地名大辞典/阿須湾〕

第二の対馬通漁団:和泉国佐野漁民

 つまり,曲も含めた外来の海民集団群が,江戸期以降の対馬遠洋漁業を独占していくことになるのです。

以上のような事情から,江戸時代の対馬漁業は主に島外漁民によって担われた。もっとも,藩は島内の食糧不足や対朝鮮密貿易を警戒したことから,島外漁民が対馬に定住することを基本的には許さなかった。したがって,彼らは,通漁(漁期のみの期間出稼)という形態をとりながら対馬近海での漁業に従事した。
 対馬に通漁した島外漁民として,まず,江戸時代初頭に通漁を開始した和泉国佐野(現大阪府和泉佐野市)の漁民が挙げられる。(略)定住することは許されなかったため,漁獲物を府中の商人である佐野屋が一手に引き請け,干鰯(ほしひ)やそのほかの水産物を大阪に運搬した。(略)対馬藩は,寛文年間(1661-1673)に島外漁民の入国を禁止するが,この佐野網だけは享保年間(1716-1736)まで特別に操業を許された。[前掲広島市郷土資料館]

 先鞭をつけた集団として,和泉国の佐野網があったとある。曲と同じく,宗氏と強く連携した海民集団だったらしく,要するに大阪航路を事実上受託していたということになりそうです。
 寛文年間(1661-1673)の規制は,同様の利益を狙って来島した海民集団が引きを切らなかったことを意味します。

 対馬藩は,島外漁民に対して大きく分けて3つの規制を設けていた。
 第一に,定住を基本的に禁止していた。(略)
 第二に,漁獲物の自由販売を禁止していた。島外漁民は府中の商人を問屋としなければならず,漁獲物の一切をこの問屋に売却することを義務づけられた。この問屋を「曳下(ひきさげ)問屋」といい,島外漁民に操業期間中の「据浦(すえうら)」(根拠地)と「納屋(なや)」(休憩場所などに使用)を世話するほか,生活物資を貸し付けたりした。また,島外漁民は藩に対して,釣り揚金高の1割の運上銀とそのほか碇銭・帆別銭・切手銭・浦方役所納銀等各種の負担金を納めることになっていた。このような漁獲物の自由売買の禁止と各種負担金の重みにより,不正売買である「抜荷(ぬけに)」・「抜船(ぬけふね)」が横行することになる。
 表(3)は,文政6年から弘化4年(1847)までの「海漁」関係記録(※引用者注)から島外漁民の不正関連記事を抜粋したものであるが,「芸州漁民」による「抜荷」・「抜船」が摘発された事例も多くみられる。
[前掲広島市郷土資料館 ※表註として「対馬宗家文庫」━「御浦方記録」(文政6~8年),「海漁記録」(天保2~6,7~9,10~11,(12~14欠)15~弘化2,3~4)より作成]

 最後の観点でとうとう広島人が登場します。──というか,次の資料の「国名」列の半数以上は「芸州」。つまり3点目該当の安芸人の「犯罪」ですから,江戸期対馬の密貿易の主体として,あたかも惑星・対馬のトロヤ群であるかのように海峡を行き来していたらしい。

(続)ただ,これは氷山の一角に過ぎないと考えられ,宮本常一の聞き取り調査によると,向洋の漁民は漁船に無許可の「魚積船」を伴って行う「抜荷」をごく一般的に行っていたようである。(宮本常一前掲書(※引用者注))
 第三に,操業場所を規制していた。(略)[前掲広島市郷土資料館 ※宮本常一「対馬漁業史」]

広島の盆灯籠。安芸門徒独特の風習で映画にもなった。(青原さとし「あさがお灯籠」2021)

秋高し対馬へ急ぐ広島人

 広島と対馬の縁は,次によると,広島藩主浅野齊賢と対馬府中藩(宗義和)との間に姻戚関係が築かれてから,とされています。ただどうもあまりに唐突です。実際は,安芸人の対馬入りの多発化に伴って,両者の間での共通課題を解決するための姻戚による関係強化だった,つまり姻戚の方が後の可能性があると考えられます。

文化の初め,安芸の広島藩主浅野齊賢の女,対馬の宗義和へ婚嫁の事があって,そのため年々二隻の音信をもたらす船を広島より出すことにした。この船の舸子に選ばれたのが向洋の彦右衛門,庄太郎,勘次,和平次,横浜の五平太であった。彦右衛門は同地の漁民で,広島の家老の家に奉公しており,家老より渡海船の舸子の事を頼まれ,希望者をつのってこれに応じたのが事のおこりであった。
※ 宮本常一「宮本常一著作集28 対馬漁業史」未来社,1983
※文化は1804~1818年。文政の前の年号

 向洋と横浜の具体名が出てきました。次の文章では仁保が出て来まして,このエリア(安芸郡四町)は土地勘のない方にはやや分かりにくいので先に地図を掲げておきます。──このプログでは別稿で歩いた地域になります。

広島平野南東部。左上がJR広島駅,右下がJR坂駅。赤枠とピンク枠が下二図に対応。
概ね右半が向洋,水路を挟んで左半が仁保。
中央くびれの左下辺りが横浜。JR坂駅(図中央左端)の左下(南西)に当たる。

015-7仁保島\安芸郡四町\広島県onCovid


太田川河口の開拓史とかつての仁保島の形状

 元来仁保島及び向洋辺りの村々は古くからの釣漁浦であったが,広島湾の一番奥にあって,沖には島が多く,そこで操業するには海がせまく,早くより,瀬戸内海西部の各地へ出稼漁に行く風があった。[前掲宮本書]

 宮本さんのフィールドワークを根拠にしますけど,その中でも群を抜いて小口海運に長けていたのが横浜漁民集団だったらしいのです。好漁場の伊予魚島(→GM.:地点)というと愛媛県越智郡上島町のそれしか考えにくいけれど──現・瀬戸大橋のまだ東です。広島湾まで80kmはある距離の輸送を生業としてきた人々が,ついに対馬にまて乗り出したのです。

横浜の人々は早くから伊予魚島のあたりでたくさんとれる鰆を広島まで運んだ。元来鰯網の本場で櫓を押すことにたけていた。だから後には魚積船ばかりでなく漁船でもおもかじ押しやとも櫓押しには横浜の人を、やとうようになった(橋本米助翁談)。[前掲宮本書]

▲一本釣久賀型漁船の図
※久賀町教育委員会編「周防久賀の諸職 石工等諸職調査報告書(二)」1981 同地(現山口県大島郡久賀町)から対馬に渡った三人乗り漁船。長さ13.5~19.2m,幅2.9~3.0m。対馬に渡った標準的漁船と考えられている。

対馬沖産直ブリの広島・尾道直送ルート

 ところが対馬における入漁の条件はきわめて悪く,税の重い上に一々厳原の問屋の処分をうけなければならぬ。それでは利がうすいので,魚積船をつれてゆき,それに魚をのせて内地へはこばせた。藩に知れると重科に処せられるが,そういう手段をとって出稼を有利にした。この魚を運んだのは向洋の南にある横浜の人々であった。(略:上記横浜記述)
 釣った魚はこうして広島および尾道に陸あげせられて村々へうりさばかれた。かかる抜荷があって初めてこの漁業は有利に成立ったのである。[前掲宮本書]

 つまりこの「抜荷」の要点は,厳原の曳下問屋をショートカットする点にあったらしい。ただ,上記一覧(→他国漁民の不正関連記事一覧)の芸州人行に「無切手」「無往来」とあるのは,抜荷そのものより対馬(沿海)来島した際の無届けを公式な罪に問われています。沖合の海上での荷渡しは,それだけ摘発自体はほぼ困難だった,とも受け取れます。

【正規ルート】
島外漁民:据浦(すえうら)の納屋を割当
→ 曳下(ひきさげ)問屋:厳原府中の指定問屋
 → 島外へ輸送
【直送ルート】
島外漁民
→ 魚積船:漁場近くの沖合で直接荷移し
 → 広島・尾道へ輸送

 けれど,横浜の船の容量や海上での荷渡という形態から来る規模的制約からでしょう,このルートが運送量の大半を占めることはなく,相当部分が正規ルートの曳下問屋経由の取引だったようです。というのは,次によると厳原側の曳舟問屋業への新規参入が後を絶たなかったらしいのです。

「広島風 大阪風 お好み焼きセット」都内での販売にも関わらず,画像が広島系プログで問題視され,独立運動を喚起した商品。

仲買いの原資は幕府の補助金です

天保九年(一ハ三ハ)には厳原へ入津の縄船烏賊船は合してついに五〇〇艘をこえるに至った。
 この増加に伴って漁船曳下の町人は曳船へ貸付ける物資の購入その他の使途に要する資金に不足を来たし,天保一〇年(一ハ三九)六月一五日,船曳下し町人二七名が,藩へ銀ハ四貫四五〇目の拝借を願い出た。(略)
 かかる拝借銀はのち次第に常例化してき,曳船のまえに藩から金を借り,曳船が内地へかえると拝借銀を返納するのである。このようにすればほとんど資金を要せずして曳船ができる。かくて厳原町人は徒食をほしいままにしたと言っていい。曳船する町人のすべてが問屋ではない。曳船町人は言わば内地の仲買人にあたるのである。ただその魚を買い上げる漁船が一定しており,漁船に対する支配的な権利を持っている。そして漁民のとった魚を問屋に提供する。[前掲宮本書]

 先の人参潜商で見たように,幕末には厳原府中藩の財政は補助金漬けとなっていきます。その補助金が,このような形で町民に還元されていく。──これは公所の利益を共有し繁栄を謳歌した江戸期長崎市民に似ています。
 このにわか曳舟業者たちが,どのような実態で経営を行っていたか定かでないけれど……少数の曳舟問屋の体制が,横浜漁民のゲリラ「商法」で骨抜きになった後もそれだけの新規参入があるのは,彼ら新規業者が横浜魚積船と何らかの新たなWin-winの関係を構築していったからであるように想像できます。

和田竜「村上海賊の娘」イメージ

 例えば,広島漁民の切手を意図的に安易に濫発する,とか,少量を正規ルートで曳舟問屋に卸す約束を交わす,といったところではないでしょうか?
 その点で,次の与三吉さんの事例は色々と味のあるものです。

このように漁船仕出しの旅元方がふえてくるまえに,まず漁船の抜売が大きくあらわれてくる。(略)万松院文書に見えるかかる処分関係のものは必ずしも多いとは言えないし(略)このような抜荷は漁船の少い,組織的でない出漁浦から来た船のものであったと想像せられる。右三例はいずれも防州であるが,出漁船はあまり多くない地方である。しかし出漁船の多い浦では,ある組織を持った抜荷が見られるに至る。
 それには天保二年(一八三一)一二月二二日に科銀三枚を仰せつかった芸州船頭与三吉のような例がある。与三吉は無切手で三人乗の船にのってやって来,同じ芸州の市兵衛の切手前で入津し,鰤七一本を積んで抜荷しようとしたものである。向洋方面から来た抜船の大半はこの様式だったもののようである。つまり渡船の漁船について魚積船のやってくる形式のもので(略)[前掲宮本書]

 まず与三吉さんは,切手を持つ市兵衛さんの一行として来島しています。それなら何が問題になって,抜荷の意図が発覚したのか分からないけれど,両者が結託していたことは紛れもない。

和田竜「村上海賊の娘」一〜四巻挿絵
「漁船について魚積船のやってくる形式」と言いながら,与三吉さんは市兵衛さんの船団とともに来たわけで,その船団は実は二つの役割を持っている,と誰がなぜ指摘できたのでしょう?何らかの密告があったとしても,反論はいくらでもできたはずで,他に何らか複雑な事情が発覚しているはずです。
 全貌は分からないけれど,これは与三吉さんと市兵衛さんが結託して成立する抜荷ではありません。対馬側の誰かが協力しないと成り立たないし,そうすると市兵衛さんに切手が出る時点である程度含みがあったはずです。先に見た出資スポンサー付きの抜荷(→009-2@金田城【特論】人参潜商\対馬\長崎県/スポンサー付き人参密輸団)の例に近い,対馬在住者にマージンが戻るような仕組みが疑われます。その場合,対馬側というのは先の「船曳下し町人二七名」のような共同投資団だった可能性があります。
 実業を尊ぶ宮本さんは,抜荷の犯罪性よりもそちらを非難しています。

かくて対馬そのものの持つ漁業制度には,ぬくべからざる矛盾がひそんでいた。すなわち同島の漁業の中心をなす担い手が地元の者でなく,地元民は旅漁民に稼がせて,その中間搾取をしようとしたのである。(略)日本の最前線としての交易統制のための諸制度がかくの如く有利なる水産諸条件を持ちつつも,それは藩財政及び厳原の町民をうるおしたのみで,地元の浦々の民はついに漁業の企業経営への道を失ったのである。[前掲宮本書]

 その反面教師のような形で「漁業の企業経営」を進めた外来集団の主体として,向洋と横浜の出稼ぎ衆はせっせと地場を固めて今日に至った,と見ることもできるわけです。

幸部辰哉 (画)坂本ロクタク「広島人あるある」TOブックス,2014
※その他●もはや県歌! 広島県民ならだれもが歌える『“徳川”のCMソング』 ●川沿いにやたらと多いラブホテル