m103m第十波m始まりの社ぞ撫でし黍嵐m啓天宮

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

目録

啓天宮にトイレを造れ

▲膀胱の導く路地の裏の道
035。トイレを借りる体で広州街へ南行。
──って,お爺ちゃん,さっきトイレ行ったばかりでしょ?
 なッ何を言うか,だから借りる風体で,と言っているのである。
 萬華教会。トイレなし。
「啓天宮75m」とある表示を見つけたので,それを追ってみる。そっちにトイレの表示もあるし。
 1039,右折北行。これも住所表示は広州街となってます。で,トイレ,トイレ……げげっ,午後6時オープン?夜間専用かい!!昼間の人のことも考えろ,昼間のことも!!!
──って本気で探しとるがな。

▲1047啓天宮

。左『天同國運神臨閣艋渡迷津』右『啓■民心源溯湄洲開覺路』
宮は西向。道の西側には左から碑,巨木,焼却塔の3点セット。」
と全然余裕で,もちろん尿意など欠片もないのだけれど,なぜかこの時は言葉少なにメモしていて我ながら不思議──と強がっている場合ではなくなってきております。
 でも対聨に「源溯湄洲」とある通り,ここは龍山寺地区の媽祖廟でした。自分の耳目が霞んでるので先達の方々の記録により,巻末でまとめます。
 ただここにはこんな人がいるらしい。

▲啓天宮のグラサン順風耳さん

風耳は耳が良いのだから、グラサンよりやるべきことがあるのではないか。[後掲deroren]

 なかなかの名言である。であるけれども,もし万一この方にお目にかかっていたとしても膀胱のヒクつきは収まらなかったと思われる。

▲1048宮の西面。3点セットは揃ってるけど駐車場になっとる。

黄氏祠に便所作って 頼むから

050河南路へ出る。南行。
「黄氏大宗祠」とある門だけが東側に立つ。と思ったら東北方向に何重にも柵のある社。何でそんなに厳重?氏だけの祭祀場ということか。

▲1053黄氏大宗祠の門脇より河南路を見る。

西に金義殿とあるアーチ。でもトイレを探そう。東行。
──と当時はなぜか(もういいって)足早に後にしたこの祠は,厦門の鎮海路から目指した江夏堂に割拠していたあの江夏黄氏だったのでした!
※ m081m第八波mm江夏堂/■小レポ:私設・イミグレーションとしての江夏堂

▲1142河南路。この道で艋舺の町はぷっつりと終わる。かつての川岸ということか。

れどころではないのである,当時のワシは。
 もはや失敗は許されない,というところに追い込まれていたのである。非常事態である。なので大本命を目指したのである。──龍山寺あるいは駅!
 と俄に観光客に紛し(てゆーか観光客だけど)小走りに境内に駆け込むと……おおっ!長らく工事中だった本殿西側の地下トイレ,完成しとるやないか!さすがは龍山寺じゃあ!わはははは。
 いや,笑っとる場合か?

台北艋舺に熱海あり

▲(後掲)辣味螺肉→スパイシー巻貝,肉鬆軍艦 豚肉フレーク
※ m10sm第十波mm変な日本語

や~皆さんお元気ですかッ?今日も楽しく参りましょう!!!がはははは。
 とてもスッキリしたので気分も晴れ晴れと,折角なので辺りを一巡り。
 台北きっての観光地です。重慶路は越えないと日本から離脱できないらしく,上記のような変な日本語も氾濫中。
 龍山寺前,つまり龍山路站上のパティオの東脇,康定路から東に新富市場と東三水街市場という細い市場が延びてます。パティオの半ばから西に延びてる市場はその延長線に当たるらしい。
 パティオ南縁,和平西路の南にも清蓮宮というきらびやかな門がある。これも祠は西向きらしい。その西隣には艋舺熱海という日本料理屋あり。宮の前宮跡地かもしれません。
▲日本レストラン「艋舺熱海」──艋舺と熱海?南国繋がりか?
※ 公式:艋舺熱海海鮮餐廳

一つ,心に信仰を忘れないこと

の」の隣界隈も捨てたものでもないらしい。阿鴻という知高飯と鱸魚湯なる全く未知のもんを看板にしてる店にもそこそこ客は入ってる。
 華西路アーケードの南延長辺りは歓楽街化が進んでるらしい。けれど普通に住民も歩いてて,屋台もある妙な界隈です。近づかない方が無難,と情報も雰囲気も語るんだけど,ここにしかない空間が確かにある。
 あと,今回刮目した卤白菜(→前頁参照)は結構あちこちの店のメニューになってる。流行りの部類だろうか。
 きゃりーぱみゅぱみゅが来た!と看板になってる占い屋を見かける。本人の許可は多分取ってない。

▲1315占いコーナーのきゃりーぱみゅぱみゅ

下に潜ってみれば,紙細工の台湾神の売り場を見つける。今回まともに土産屋らしいとこがなかったのでここで物色することに。神様の種類はかなりあります。福建世界にはどうしてこう,地方のマイナーな神様が乱立するんだろう。
「妈祖はないの?」と訊いてみたけど,ないらしい。よく考えたら,天后信仰の象徴,例えば自分の車や家に飾っておくものとかは何なんだろう?キリスト教の十字架みたいなもんです。あるいはそういうものはない。それがないほど,むしろ土地に根付いてると言えるのか?

▲地鉄(地下鉄)で前の男のTシャツが「天空騎士団七の誓い」なので頬が緩むのを抑えるのに苦労しました。
※ m10sm第十波mm変な日本語
※※ 後で調べると,何とこのTシャツはプレミアものの類いでネット販売もされてました。

353,板南線で台北車站へ。
 いつも悔しがる台北站南のエリアへ先に行ってみることにする。
 先に見た通り,ここが旧台北城の内城もどきが存在した場所です。(→m094m第九波mm王記府/大陸にはあり得ない方形城域)──とは当時は押さえてなかったんだけどね。

これはこれで旨い「唐揚げ」台湾素食

地を通る。やはりこの界隈はいい。個人的には最初の頃に拠点にしてた懐かしい地区でもあります。
 牛肉拉麺大王という店がある。有名店らしいけど面や臭い,何より客層からして雰囲気だけと見た。

▲(再掲)清光緒※代台北城西半分地図──現台北駅南エリアが中央朱書の建物群に当たる。
※ BTG『大陸西遊記』~台湾台北市 ②(萬華区)

れで,これも懐かしいこちらの店に入ることに。
1429三信素食店
ハムもどき,唐揚げもどき,豆干,ツル朝顔の炒め,緑色野菜炒め,トックみたいな餅,酸辣湯,炊き込みご飯500
 紙ペラペラの皿で取りにくい,のはいつものこと。でもやっぱ旨かった。
 唐揚げの辛味あえはホントに分からなかった。いや分からない以上に,これはこれで旨い「唐揚」なんである。これがあのハムになると,これでしか味わえないいい「肉」なんである。これどこに売ってんだろ?

▲素食バイキング店にて

菜2種も素晴らしくイケた。紫の汁を垂らしてるのはツル紫だと思うけど,緑色のはほうれん草かチンゲン菜に似てる,でも違う何か。でもヌメリと歯応えがいい旨味になってます。
 トックと書いたけど,この餅はホントにトックなんだろか?固い餅で杏とヨモギみたいに感じられますけど,それぞれの味覚が餅にうまく溶け合ってます。
 酸辣湯はちっとも辛くない。その意味ではものたりなかったけど,その分野菜の出汁が出てて,しかも辛味と絶妙の深度でジョイントされてます。福建四川とでも呼ぶべき味覚です。

眠れない漢族もあり 台北城

▲1532アパートに掛かった広告群。「猫認養」(猫を飼ってもいい)もペットブームの今どきの漢族めいてるけど,「失眠」(眠れない)漢族もやはりいるんだなあ。

の日,ここまでで艋舺天后,啓天宮と2つの媽祖宮を回ったことになります。
 台北の媽祖の祀り方はどうも,大陸とも香港とも異なるらしい。それはようやく気付き初めてました。
 1527,淡水信義線で芝山へ北上。さらに3つ目,巌恵済宮を目指します。

▲清代の艋舺料館口の画像(枕木製作廠,年代の詳細不明)

■小レポ:啓天宮×黄廟の複眼で見える風景――――阿里山材,放木排,大甲渓

 啓天宮を調べていて,上の写真をfacebookで見つけました。他に類似のヒットはなく,大変貴重な画像に思えます。
 以下のレポは全て,この白黒写真のイメージに引きずられたと言っていい。
「料館口」は啓天宮のあった場所の古称だという。

この媽祖廟の名は啓天宮。そしてこの地は料館口という。
(略)ここにあったのは貯木場で、福建から運んだ建築材や、淡水河上流から運ばれた造船材などの溜まり場であった。(略)
料館媽祖啓天宮は咸豊年間(1851~61)に建立され、当時は淡水河に面していた。
※ derorenのホ~ムペ~ジ: 料館媽祖啓天宮(台北・萬華)

「番害」からの守護神

 料の館,と中国語で言う時の「料」とは,測る,の意味らしい。転じて処理する,の意ともなり,ここにあった木材の加工場の建物を呼称するようになり,さらにその地名に転化していったのでしょう。

「料館」則是鋸木廠製材廠之意。
※ 艋舺 啟天宮: 啟天宮沿革(一)

 これにはもう一つ傍証がある。啓天宮の奥に祀られる別の神です。位置的にはこれが秘仏あるいは避難神のような扱いだと思えます。

奥に祀られている池府王爺。台北では王爺信仰をあまり見かけなかったが、我々がたまたまそういう廟に出会わなかっただけだろうか。
 さて、この王爺は別名「番王爺」というらしい。
 山中で木材を伐り出す人々は「番害」に遭うため、この神に祈って免れようというものだと『台北歴史深度旅遊』にある。料館口らしい祭神ということになろう。
※なお「簡介」によれば、大正6年にここに遷したとある。[前掲deroren]

 閩南に広く信仰される王爺が「番害」──「蕃」族に襲われる危害を免れるための神とされるのは,その信仰者が度々,「蕃族」側からは自分たちの土地に無断で入って木材を搬出していく行為を繰り返していたからでしょう。
 料館口への移設前にどこにあったか分からないけれど,木場の港口にでも設けられていたのでしょうか。そういう作業者たちが頻繁に出入りし,無事に木場まで運べた度に守護神に感謝を捧げた,という神でしょう。

アールー姐さん 木材業で大儲け

 当時からこんな成語が伝えられているという。艋舺の三巨頭,というニュアンスでしょう。

第一好张德宝,第二好黄阿禄嫂,第三好马俏哥
台湾江夏种德堂金墩黄氏大宗祠

「第二好」(第二位の権勢者)として挙げられる「黄阿禄嫂」(ホアン・アールー,「嫂」は「姐さん」)が,黄氏大宗祠を祀っている黄氏に連なる女傑らしい。
 祀られる族名は「晋江黄氏金墩派」。「晋江」を直近の出自とする黄氏の集団という意味で,伝承上のルーツが「江夏」郡だから「晋江江夏黄氏」と表記されることもある。金墩派はよく分からないけれど,そのまた分派,ということらしいけれど,そこに突っ込むと異説が多々あるようなのでここまでにする。
晋江江夏黄氏族史考略 黄鸿源
 で,この黄阿禄姐さんが早世した旦那・黄昭禄の跡を継ぎ,木材業で大成した。

黄阿禄嫂是黄昭禄的妻子。黄昭禄在清道光年间与其父从池店潘湖迁居台湾后,通过做木材生意发家致富,却在1866年,因病突然弃世。其妻黄阿禄嫂接下生意。多年的用心经营终使黄家成为艋舺数一数二的大富豪。[前掲黄氏大宗祠]

 泉州市街から数km南,現・池店鎮潘湖村(GM.)から台湾へ,旦那の父親が移民したのは,清道光とあるから1821~50年です。旦那の死が1866年,それ以降が姐さんの辣腕が発揮された時代だったことになる。
▲現・啓天宮の位置(GM.)
▲艋舺古地図(推定:清末)。分かりにくいけれど,淡水河岸の湾曲部がかつての料館口と思われる。

地域開放された自宅用媽祖

 料館口での木材集積と加工業の需要は,最初は軍需だったとある。これが民需に転じて,清末頃の鉄道建設時代に枕木をメインにするようになって発展した,という経緯らしい。枕木の官需ルートを開拓したのが姐さんだったということかもしれません。

除將上料供軍需造船外,餘者加工後供為民用,因而成為原木集散要地。直至光緒年間築造鐵路所用之枕木,乃在此處製造,因而得名。[前掲宮沿革]

「枕木製作廠」名となったこの木場は,木材物資の交易拠点ともなっていました。それも福州から海を越えて運んでいたとある。これを「福材」と呼んでいた,というから本格的にあてにされてた資材だったようです。

艋舺木材商經常與內地福州載運木材(福杉)來台之紅船交易,亦在此處起卸。所有紅船來台,因恐在洋上遭遇不測風雲,故船中皆奉祀媽祖神尊,祈以庇佑往返平安。[前掲宮沿革]

 この際の台湾海峡を越える航海の危険さから,船中に媽祖を祀って道中の平安を祈った。
 大陸内地からの船を「紅船」と呼んでいるけれど,この呼称の由来や意味は分からない。
 ただ媽祖を祀り始めた,つまり啓光宮の創始は1841年です。

相傳道光二十一(西元一八四一年)年間,有內地紅船運送木材到埠,(略)時當地木材商萬順料館黃姜生、黃萬鐘(昭祿)父子,發其虔誠心意,迎奉聖母神像祀於黃家正廳(昔為黃家住宅即本宮現址)。[前掲宮沿革]

 大陸から木材を運んできた黃姜生と黃昭祿の父子,つまり姐さんの旦那とその父親が,この時の航海で誠心を発し(何が有り難かったのか,の記述は中国語が難しくて分からない……)当時の自家に媽祖を祀り,それがそのまま宮になったのだという。つまり自家の仏壇を地域に公開したという妙な成り行きだけれど,その後に

迨至大厝蓋成舉家遷入後,原擬將奉祀於舊宅之聖母亦迎祀於大厝。[前掲宮沿革]

とあるから,黄家が大成してもっと大きな家に引っ越した際,旧家を宮として地域に開放した,ということでしょうか。
 以来,この媽祖は艋舺ローカルでは大切に拝まれる社になっているという。

從此艋舺居民稱該行館為媽祖館,聖母則稱為料館媽祖。[前掲宮沿革]

──艋舺住民にとって聖母と言えば即ち料館媽祖である。

不透明点:料館口への荷はなぜ番害に遭ったか?

 さて忘れそうになるけれど本編は海域アジア編である。
 以上の諸事実は,それぞれパーツだけだと完結したように聞こえるけれど,大きな矛盾を孕んでいます。
 料館口への材木は福建から来ている,ということになっています。なのになぜ,その運搬者たちは,台湾先住民の襲撃のことを指すであろう「番害」を恐れたのか?
 木材需要甚だしい新開拓地・台北ではあり得ない。でも確かに媽祖は祀ってあり,福建からの材木は来ていたはずです。外洋に,台湾先住民が漕ぎ出して漢族を襲った,とも考えにくい。
 だから定説通り,台湾内陸部からの材木も料館口に来ていた,と考えるしかない。しかも廟を設けて祈るほど,一定規模の集団が先住民に襲われていた。
 けれど,そんな記録は──かなり探しましたけど,どこにもないのです。

 そうすると,一つ考えられる仮説が生まれます。料館口に来ていた,福建から来たことになっている材木は,少なくともその一部が台湾内陸部から搬入されていたのではないか?
 つまり,役所向けには福建材を運んだと称して,現実には台湾内陸の材木を搬入したのでは?
▲郵便切手に描かれるランダイスギ

運ばれた「福建材」ランダイスギ

 当時,料館口に陸揚げされた福建の木材として最も有力なのは,現在福建の名産とされる広葉杉ではないかと思われます。

本来、漢字の「杉」は広葉杉(コウヨウザン)のことを指したといわれる。現在でも中国においては日本の杉の仲間を「柳杉」と呼び、杉(コウヨウザン)と分けて呼ぶ。
(略)台湾に変種のランダイスギ(巒大杉)C. lanceolata var. konishii がある。
※ wiki/コウヨウザン

 海峡を隔てるけれど同緯度にある台湾では,その変種・ランダイスギ(巒大杉)を産する。戦前の日本にも多量に入ってきていた品種で,その乱伐のため今は非常に貴重になっているものです。
 台湾材を福建材に詐称するためには,両者が同一品種である必要があります。外観の差異を詳細まで確認できてないけれど,ランダイスギを陸揚げしていれば詐りを見抜くのは容易ではなかったのではないでしょうか。
 その分布は,現代の段階では以下のようになっています。
國家公園區域內巒大杉分佈地點 * 淺色部份為國家公園範圍,深色點為物種分佈位置 * 分布圖僅表示歷年保育研究報告的調查地點中,有紀錄到該物種的區域位置,不代表空白部分完全沒有物種分布。
※ 臺灣國家公園|巒大杉 Cunninghamia konishii
 台湾中部より少し北,緯度的には台中のライン,宜蘭より南西のエリアです。
 随分山奥です。当時のインフラ状況下で,ここにある樹木を,どう伐り出すことが可能だったでしょうか。
▲阿里山森林鉄道ルートマップ
※ 地図と鉄道のプログ/2008年9月18日 (木) 台湾 阿里山森林鉄道を地図で追う

阿里山深部からの鉄道以外の木材搬出法

 この地域の木材が大々的に出荷され始めるのは,台湾ツーリストなら聞いたことがあるであろう,あの鉄道が出来てからです。

阿里山林業鉄路の開発初期は木材の運搬がメインであり、山間部の住民の交通と生活物資の運搬を担う重要な役目を果たしていました
林業鉄道-歴史紹介-用途の変遷

通称「阿里山鉄道」。全長72.5キロの軽便鉄道である。軌道幅は762ミリと狭く、車両も小さいが、連続スイッチバックやスパイラルの存在で知られ、アンデス高原鉄道やインドのダージリン鉄道などとともに「世界三大山岳鉄道」の一つに挙げられる。
 起点となるのは嘉義駅で、ここから阿里山までを結ぶ。途中の二萬平までは1912 年に開通し、1914 年に阿里山まで区間が全通した。嘉義駅の海抜は30メートルで、阿里山駅は2216メートル、沼平駅は2274メートルなので、その標高差は2000 メートルを軽く超える。最高勾配は66.7パーミル(1キロあたりの高度差が66・7メートル)であり、平均でも約30パーミルと、世界でも指折りの険しさとなっている。
この鉄道は木材の運搬を目的に敷設された。輸送には後述する米国製の蒸気機関車が導入され、「シェイ」の愛称で親しまれた。後に木材の運搬手段としての鉄道は役割を終え、現在は伐採そのものが禁止されている ※ 片倉佳史(台湾在住作家)「阿里山~鉄道とともに進められた森林開発」片倉佳史の台湾歴史紀行第十五回,交流2019.11 No.944

 この鉄道敷設は,日本人が山中に良質な材を発見してから開始したものです。逆に言えば,そのために鉄道が必要なほど搬出は難を極めた。
▲同ハイライトとなっている獨立山三重ループ(前掲 地図と鉄道のプログ)
 そんなところの材を,こっそりと搬出するならば,その方法は河川利用しか考えられないと思います。

事例1:四川岷江

▲四川での木材流送
※美国人西德尼·戴维·甘博,1917年-1919年在中国共拍摄了
 日本では和歌山県の筏師が有名ですけど,少し前まで木場のある町とそこへの搬入水域には相当数の類似の職人がいました。
 ただ,それが漢族圏にもいたのか?
 情報を当たっていくと,四川の岷江で主に成都へ材を流していた人々がいたようです。1980年代まで続いていた業らしい。
 ここでは木材流送を「放木排」と呼んでいたようです。
老照片揭秘老成都老职业:放木排惊险高危(组图)_图片频道_新华网

事例2:東北鴨緑江

 東北地方の鴨緑江にも,長白山の木材を海港まで流す仕事があったらしい。距離が長いので「扎小排」「放小排」「扎大排」「放大排」「收排」の五行程に分かれるけれど,やはり総じて「放木排」と書かれます。1990年代までは残存していた文化という。
安东旧忆:鸭绿江上放木排_江上放木排 – 调色盘网络

事例3:河北馬家寨村

 これは現・河北省に当たるらしい:→GM.。安新県の馬家寨村というところは,日本で言う木地師の伝統村のような集落らしい。

坐落於安新縣的馬家寨村,是一個有著六百年歷史的造船村。(略)人人都有一手造船技藝,無論錛鑿斧鋸,還是撂線放木,都身懷絕技。雄安「水木匠」-白洋澱邊造船人 馬景文 楊亞蒙 – 台灣高等教育出版社

 この村人の「絶技」の一つに「放木」というのが数えられています。専属の職というより,木材を扱う上での基本技術の一環だったようです。

論考:水上居住者の技能としての「放木排」

 漢族圏での水上居住民については,昨今の民俗研究が少しずつ注目するところとなりつつあります。

在全球化巨浪的席卷下,有谓地方社会已不复存在。不过在中国社会,特别是传统乡土社会中所展现的情况仍然是“五里不同风,十里不同俗”“一方水土一方人”“各处乡村各处例”。
中国地方社会与民俗丛书总序_先晓书院

「一方水土一方人」──水や土に親しみ,時々人に戻る。──彼らは陸上民からは,人と見られない存在でもあった。
「各处乡村各处例」──各所の郷村で各所のしきたりに従う。──固有の文化に固執することなく,在地の文化に臨機応変に溶け込んでいった人々,つまり本章で何度か触れてきた水上民です。

以中国东南部为例,地方社会就是一个“在移动中”的社会,这是说人民和货品均沿着古道与河流在市集之间,在一个令人惊叹的距离内流动着。当中的船民、放木排工人、手推车运输工人、季节性工人等便是经常参与流动的一群。[前掲先晓书院]

「放木排工人」木材流送業という仕事あるいは職業人群は,この水上民の一態様とされています。
 彼らは,水上生活者でもあり,運送業者にもなり得,かつ木材流送業者にもなり得た。さらに海民にも,特定の政治風景のもとでは海賊になることもあった。その変化自在ぶりこそ,マージナルマンの持つメティスの知(→首頁参照)のなせる業でした。
 そうすると,その創始から海民のくにだった台湾にも,放木排をなしうる彼らは当然にいたと考えられるのです。

参考:「放竹仔」に関する聞き取り調査

 akihito aoi(漢字,所属等不詳)という研究者が2013年に行ったフィールドワークを見つけました。これによると二仁渓,曾文渓,烏山頭ダム周辺,濁水渓4系統の「放竹仔」(伐採した竹を筏に組んで下流へ流す)を確認できたという。時代としては,植民地末期から1950年代までのもの。
台湾調査2013夏 記録[前半] – VESTIGIAL TAILS/TALES : akihito aoi’s blog

木材流送路たる河はどこだったか?

 木材流送の痕跡は,以上の事例からも推察できるとおり,その痕跡が残ることはない。沿線の陸上民の目にたまたま止まれば,風物詩か写真として残されることがあり得る程度でしょう。
 ただ,その河川は,一定の幅があり,かつ流水量のあるものだったはずです。

▲台湾河川地図
台湾河川地図 – 旅行のとも、ZenTech

 もう一つ条件があります。先に挙げたランダイスギの生息地を上流に持つこと,です。
 さらに第三の条件として,この流送は官警の目を掠めて密かに行われたと考えるのが妥当でしょう。沿線にあまり大きな町のない,急流だけがあるような河川です。
 そこで,前掲のランダイスギ生息地と台湾の主な河川図を並べてみます。

▲前掲 巒大杉分布-台湾河川図対照

 東部の河川は概ね短く,規模も小さい。阿里山最奥を上流に持ち,前記の3条件を満たすのは,大甲渓か濁水渓かしかあり得ない。
 それぞれ台中の北と南で海に注ぐ大河です。

史料:重刊宋本十三經注疏附校勘記

 史料面での裏付けがないか,と一応当たってみたけれど,予想通りはっきりしたものはありません。
 漢籍電子文獻資料庫にあった清代の史料で,「木材」を検索してみると,相当のヒットがあります。内陸材に関する記述はやはり少ないけれど,その中に以下のものがあります。

重刊宋本十三經注疏附校勘記(清)阮元審定,盧宣旬校清嘉慶二十年(1815)南昌府學刊本
重刊宋本十三經注疏附校勘記 / 重栞宋本周禮注疏附挍勘記 / 地官司徒下 / 附釋音周禮
注疏卷第十六 / 林衡 ..[清嘉慶二十年(1815)南昌府學刊本]段2822
…者賞之損麓之財者罰之故注云不則罰之也○若斬木材則受灋于山虞而掌其政令法萬民入出時日之…
248-2頁
…至政令○釋曰上山虞官尊故設之是以此林衡若斬木材期於虞邊受焉○注法萬至之期○釋曰案山虞云…
249-1頁第6/23筆:重刊宋本十三經注疏附校勘記 / 重栞宋本周禮注疏附挍勘記 / 地官司徒下 / 附釋音周禮注疏卷第十六 / 掌荼 ..[清嘉慶二十年(1815)南昌府學刊本]段2832
…知掌荼所徵入委人者以其委人掌斂野之賦凡疏材木材所斂者眾故知此掌荼所徵亦入委人也…
251-1頁第7/23筆:重刊宋本十三經注疏附校勘記 / 重栞宋本禮記注疏附挍勘記 / 檀弓上第三 / 附釋音禮記注疏卷第六 ..[清嘉慶二十年(1815)南昌府學刊本]段8935
…云在旁曰帷在上曰荒帷荒所以衣柳則以帷荒之內木材為柳其實帷荒及木材等揔名曰柳故縫人云…
114-1頁   
…為柳其實帷荒及木材等揔名曰柳故縫人云衣翣柳之材注云柳之言聚…

 正直,記述が難解で語学力が追い付かないけれど,木材搬出が荒しと見られたり,罰則対象になっていた様子は伺えます。その背景は後段でもう少し掘り下げますけど,とりあえず内陸部からの木材搬出は取り締まり対象になっていたことは察せられます。
 なので以下,状況証拠から推定を進めていくことにします。

検討1:濁水渓

 河川規模だけを見ると濁水渓→GM. が最もふさわしいように見えます。
延長 186.6 km
平均流量 164.8 m³/s
流域面積 3,156.9 km²
水源の標高 2,880 m
 ただこの濁水渓は,台湾を代表する大河だけあって,目立つ。沿線の町も,彰化など古くからの人口密集地です。ここで木材流送をしていれば,必ず統治側の目に止まったでしょうし,何かの記録にも残ったでしょう。

流域の平野は肥沃な農業地帯であり、清時代に対岸の福建省や浙江省からの移民による開拓が進められた。水利に恵まれていることから、コメの二期作や小麦の栽培が盛んである。また分流を利用して網目状に張り巡らされた水路により市街が発達した。そのためこの地域の人口密度も高く、2007年現在で彰化県は台湾の県の中で最も人口密度が高い。
※ wiki/濁水渓

検討2:大甲渓

 これに対し大甲渓→GM. はやや中級規模です。ただ,急流で沿線の町は控えめです。
延長142 km
平均流量31 m³/s
流域面積1,244 km²

標高差3,500m以上に対して延長は140kmあまりという急流河川で、平均斜度は2.6%である。(略)大甲渓の上流部は良好な森林環境が保たれている。このため水中生物が多く住む水中環境が形成され、台湾の河川の中で最も多くの生物が生息している。
※ wiki/大甲渓

 加えて,上流の自然環境は今も豊かです。大甲渓を消去法的に候補とみて,今度はこの沿線の文化的痕跡を見てみます。

大甲渓沿線の媽祖及び虎爺信仰

 この半年後に沿線と言える豊原の媽祖宮を訪れています。
※ m19Fm第二十五波mm5豊原福徳
 この時にすら見逃してますけど,大甲渓の媽祖と言えば巡行で有名な大鎮瀾宮(台中市大甲区:GM.)です。
 大甲渓の流域には,呆れるほど媽祖信仰,それも古めかしいものが多い。
大甲区媽祖文化 > 台中市
 また,鎮瀾宮には艋舺啓天宮と同じように別殿に虎爺が祀られます。啓天宮におられる番害の神は王爺でした。
 似ています。
 これらの神は,媽祖信仰に付随するもの,あるいは媽祖の外敵からの防御面が特化された神格なのではないでしょうか。
鎮瀾宮.台中大甲拜拜(歷史悠久香火繚繞終日不斷的媽祖廟宇) @愛伯特吃喝玩樂全記錄
 虎爺と王爺の関係は色々語られています。でも自分たちの土地の戦闘的な守護神,という側面は非常に似ていて「虎爺也成為王爺」──虎爺が即ち王爺と成る,つまり同一神扱いされることもあるらしい。

虎爺最早是山神、土地神及城隍爺的座騎;後來更演變成王爺、媽祖等諸神的座騎,並有守護廟境(略)
後人就將虎爺和王爺、戰神等共同祭拜,虎爺也成為王爺、戰神的腳力。
虎爺將軍介紹 @ 岡山協和宮四駕班 :: 痞客邦 ::

 つまり,材木流送のために未開の台湾に来た海民たちが,媽祖を奉じて河川を遡っていった,という痕跡に思えるのです。

台湾先住民はなぜ「番害」に至ったか?

 さて,では彼らが襲われ,それを免れることを祈った「番害」はなぜ発生していたのか?

開拓者達は先住系諸民族に対して、酒肉、布、ガラス玉等を与え慰撫しながら開拓をした。ときには集団を組んで暴力的に闖入したので、「民(漢)蕃紛争」を呼び起こした
※ wiki/理蕃政策

 先住民からすれば当然です。漢族は彼らから購入したり,許されて移住してきたわけではありません。
 怒り狂う先住民に対し,王爺を拝みつつ木材搬出を行った清代には,防御したり融和したりするので精一杯だったらしい。

1722年(康熙61年)に清朝は「土牛界線(中国語版)」を設け、この境より奥の開拓を禁止した。これが「隘勇線」の起源である。[前掲wiki隘勇制度]

 清代の漢族台湾は,隘勇線のこちら側だけでした。統治側は,むしろラインを越えての「侵略」を禁じていた。木材流送者たちは,これを破って「略奪」を行っていたわけで,力関係に圧倒的な格差があるけれど一種の海賊行為をしていたとも言えます。

(隘勇制度とは)台湾原住民の襲撃に備えるために設けられた一連の防衛組織のことを指す。「隘勇線」とは、先住民族の住む山地を砦と柵で包囲して閉じ込めるものであった。
※ wiki/隘勇制度

 移民のとめどない増加によって彼我の戦力差が逆転すると,この隘勇線が,当初清朝側が意図しなかった「封じ込めライン」に転じていきます。
 これを本格的に進めたのは新しい統治者・日帝だったことは,右寄りの方も含め事実として知っておいた方がいい。

日本統治時代の台湾において、(略)「隘勇線」には、電話線および必要な地点には砲台の設備を設け、高電圧鉄条網、地雷なども使用された。[前掲wiki隘勇制度]

 こうなるとほとんど,現代ニッポンの熊侵入防止柵のようなものになってきます。
 けれどそれが最終形態にまで至るのは1904(明治37)年。この時の台湾総督は何と,この直後に日露戦で英雄視されていく兒玉源太郎です。
※ 兒玉までの台湾総督
(初代)1895年~:樺山資紀
   1896~:桂太郎
1896~:乃木希典
1898~:兒玉源太郎
1906~:佐久間左馬太
※ wiki/台湾総督府

1904年(明治37年)の鳳紗山方面の隘勇線圧縮作戦は、「生蕃」を高山に追い上げて食料を断ち、餓死を迫る残酷な作戦だった。1909年(明治42年)には、5カ年計画で軍隊を投入して総攻撃を行い、全島の「隘勇線」を圧縮して包囲網を狭め、「生蕃」を標高3000メートル級の高山が連なる台湾脊梁山系に追いあげ[前掲wiki隘勇制度]

 この文章の主目的は,通常善政が協調される日帝台湾経営の残虐性を指摘することではありません。「番害」の回避を神に祈った時代状況,漢族こそ少数民族であった状況下の台湾は,現在からは認識を逆転させないと見えて来ない,という指摘です。
「放木排」に従事した海民たちは,果敢な冒険家であるとともに,その後のジェノサイドもどきの先駆者でもあったわけです。

付記:日帝の理蕃政策トリビア

 とは言うものの,日本統治側が先住民との折り合いをつけるまでは,想像以上に非情な状況が続いたようです。客観的に見て,特に下記の枕頭山戦役での激戦もあり,日本は早くから全滅政策を放棄し,しばしば戦前軍部の現評価とは異質な,見方によっては卑屈又は卑劣なほどの柔軟路線で対処し続けて終戦を迎えている。
出典凡例▲ 菊地一隆「台湾北部における日本討伐隊とタイヤル族─対日抵抗と「帰順」─」
【隘勇制度史その他】
・隘勇制度そのものは,日本統治時代の終焉まで廃止されなかった(「隘勇」職名は1920(大正9)年に「警手」と改名された)。[前掲wiki/隘勇制度]
・隘勇制度の始めは私設。1788(乾隆53)年に官設化。▲
・日本領有と同時に廃止されるが,「蕃界」事業の中核となった樟脳局が1900(明治33)年に「防蕃費」予算を確保し官設復活。同局はその監督を県知事に委任。実態としては,本島人(漢族)が多く,かつ「アヘン吸食者」が過半を占めたとも言われる。▲
【枕頭山戦役】
・1907(明治40)年にタイヤル族強硬派と日本の戦闘。タイヤル族側の伝承では「日本兵は1000人中,672人も死んだ」「日本軍が白旗を掲げたところで,談判に入った」▲
▲枕頭山戦役関係図及び桃園付近の新旧隘勇線位置図。現・国際空港付近がタイヤル族の抗日戦争の主戦場でした。

【ライ社疑惑】

ライ社(パイワン族)約二〇〇戸は警察隊に鎮圧された。帰順式後も,日本人警官に反感をもった一部の原住民が帰順を認めた頭目を批判した。頭目は警察に「反乱計画がある」と,日本人ライ社の一一人を密告した。一一人は潮州府警察署に連行された。その後,警察から「全員自殺」と家族に伝えられたが,遺体も戻ってこず,誰も信じなかった。▲
※ 出典:林えいだい「証言 台湾高砂族義勇隊」草風館,一九九八年,八九~九〇頁

【帰順促進策】

(1907年,帰順の意を示した頭目に対し桃園庁長は訓戒し)頭目にはそれぞれ五〇円ずつ,副頭目には二五円,蕃丁には二〇円など「賞金」を与えた。また豚を屠殺して料理し,酒をふるまい,かつ毛布などを与えた。その見返りに「生蕃」にとって命の次に大事な銃器を提出させ帰順させたのである。▲

一九一〇年春以来,隘勇線前進のため,隘勇気線内に含まれるガオガン蕃の中のタジャフ(略)の計七社の新帰順蕃の頭目,副頭目など代表者ら五七人が大津総長の計らいで,桃園を経て台北観光をすることになった。▲

【蕃匪の連合】
・漢族の抗日勢力(旧清軍兵,黒社会構成員,その他日本に反感を持つ者など出自は様々)は,「桃園で日本軍に敗北」(?)した後にタイヤル族に合流した。▲
・逆にタイヤル族の抗日指導者は,国民党支配下での「桃園忠烈祠」にも名を連ね,抗日英雄視される。▲
【先住民の感染症状】
・日帝統治開始以降,先住民集落で「流行性感冒,マラリア,赤痢が流行」▲(日本からの流入?)し,この医療・予防の要求が帰順を促進した可能性もある。
【タイヤル族側に属した日本人】
・渡邉:大分県臼杵出身。1900年,小松組で樟脳採取時にタイヤル族頭目関係者と昵懇となり,刺青もし,娘ももうけ,蕃語も習得。後に桃園庁の通訳となる。▲
・佐藤:長崎県五島出身。タイヤル族の「養子」となる。日本当局から一時期,小松組襲撃事件の教唆犯と目される。▲
【治安側総括】

一八九八年児玉総督※就任後,対蕃警備方策を立ててから一九一五年佐久間総督の「五カ年計画大討伐」の完了に至る実に一八年間は,総督府の政治は理蕃にほとんどの精力を集中せざるを得なかったとされる。(略)「蕃害」に殺害された者は日本人と台湾人合計七〇八〇人※※に達した。▲

※菊地注:児玉は鎮圧と招降を使い分け,抗日軍を消滅させた時期で,かつ初めて種々の計画が立案され,実施された。
※※出典:警務局理蕃課「時局下の高砂族」,台湾総督府臨時情報部『部報』第八号,1937年11月21日

▲伐採されたペニヒの伐根(阿里山)

■データ:漢族移民と日本人によるタイワンスギ原生林の破壊

 人間界における台湾史はこのように無惨に展開されたわけですけど,自然界における台湾史も目を覆いたくなるものがあります。
 林業大学校の視察レポートらしき次の記述を見つけました。特に自然保護団体的な偏重を帯びない,真面目な科学的視点で綴られています。
※ 小山「台湾、阿里山のヒノキ林一林業大学校20周年記念事業『台湾のひのきと玉山』に参加して」

 1895年に日本が台湾を統治したことをきっかけに、日本人が山林の調査に乗り出し、阿里山に千年以上の樹齢を持つヒノキの巨木林が、10万haにわたって成立していることを発見しました。これをきっかけに1912年、山麓の嘉義(標高30m)から阿里山(標高 2200m)まで森林鉄道が敷設され、伐採が始まりました。
 その結果、現在では千年以上の巨木はほとんど失われ、写真のような伐根ばかりになってしまいました。[前掲小山]

 確認しますけど,日本の台湾統治は僅か50年間です。その半世紀で,10万haの原生林が事実上消滅しました。
 先日焼失した首里城の柱はタイワンスギだったと言います。常用する木造家屋の素材として,当時の日本には垂涎の自然林だったのでしょう。
 ただ,さすがにそのまま伐り続けるのはまずい,という意識は当時にもあったらしい。

 とはいえただ伐採しただけではなく、伐採と平行して造林が進められました。現地での植栽試験の結果、初期成長が最も優れていた日本原産のスギ(Criptomeria japonica 台湾名:柳杉)が選ばれ、伐採地に積極的に植えられました。このため、現在では阿里山で最も多く見られる樹種になっています。[前掲小山]

 昭和初期でしょう。きちんと研究を重ねて日本の杉が育つと踏んで植栽に踏み切った。これだけの産業需要があったからには,純粋にどの種が生態系に適合するか,というよりは,日本人が慣れ親しみ高く売れる日本杉が育つかどうか,という観点にバイアスがかかったであろうことは容易に想像できます。
 この点が,日本の二重の破壊行為となっています。生態系へのアプローチを誤ったという点では,後者の方が破壊度は大きかったと評しうるかもしれない。

 日本統治時代から阿里山で積極的に植栽したスギでしたが、伐期に達して伐採を始めると大きな問題が発生してきました。成長が早かったために年輪幅が広くなってしまい、加えて心材色が黒かったというのです。[前掲小山]

 つまり,日本の杉は台湾では育ち過ぎた。健康な杉材は育たず,建材としても低レベルで,おそらく他種へも悪影響を与えた。阿里山の奥山の生態系は根本的に破壊された。
 杉単独の生育は,育ち過ぎたほどだから図に当たったわけで,彼らの仕事に瑕疵があったわけではないですけど,数十年後の結果には繋がらなかった。アプローチが誤っていたのです。

そこで、外来種から在来種への樹種転換が図られるようになり、近年になって阿里山でもスギを伐採してペニヒに改植する動きが出てきました。
 今回見てきたペニヒの人工林はいずれもスギの伐採跡地に造林した林分で、8年生で樹高2.7m(胸高直径5cm)、18 年生で樹高10m(胸高直径20cm)でした。[前掲小山]

■資料集:正史としての福建→台湾の木材輸送

 以上では異説としての「福建→台湾木材輸送偽装説」を記しました。ただ,そういう偽装が成立しうるとすれば,それは元々,福建材が台湾で需要が高かったからです。その点について,前記の検討をする中で見つけた文献を,記録が明確な日本統治代の資料を中心にまとめておきます。
※ 参照 松浦章「1910年代初期における福州と台湾間の帆船航運」WAKUMON 21 No.17,(2001)pp.21-34

1「通商彙纂」(明治41年)中の台湾ジャンク船に関する記述

臺灣戎克 此地ニテハ臺船トシテ知ラル。其多クハ泉州府及南臺ニ登録セシモノニシテ二百担乃至五千担ノ貨物ヲ積載ス。
此外又タ臺灣籍戎克アルモノハ外國旗ノ下ニ洋海關ノ取扱ニ係リ勿論不開港地ニ出入スル能ハサルモノニシテ常關ト関係ナシ。(中略)
一、臺灣戎克ハ臺灣石炭、蔴苧及小雑貨ヲ當港ニ輸入シ當港ヨリハ材木、紙、茶糟及小雑貨ヲ輸出ス。 ※『通商彙纂』明治41年第3号「福州ニ於ケル戎克貿易 自三十五年至三十九年」

 記述者の立場から考えて「當港」は福州ですから,福州→台湾の移送品のトップに木材が挙がっています。

2 国史館台湾文献館に所蔵される帆船の船籍登録の記録データからの知見

本来は清朝中国の台湾省籍の帆船であったが、甲午中日戦争の結果、1895年以降日本が台湾を統治すると、多くの台湾船籍の帆船が日本籍に登録している。その初期の83隻を見るに40%もの帆船が福建省泉州府恵安縣で造船された船舶で占められていた。[前掲松浦]
※ 松浦章「日治時期台湾和中國大陸之間的帆船航運」『臺北文献』直字第150期、2004年12月、51~82頁

 一見,何のことか分からないけれど,松浦さんはこの記述の前に「船籍を外国籍として、清朝の旧来の税関である常関での徴税を逃れ、外国船として洋関での徴税扱いを受けるジャンクがあった」と記しています。つまり,日中戦争(中国名:甲午中日戦争)以前の段階で,外国籍を偽称して関税を逃れていた福建船舶が多数あったところ,台湾の主権国が変わったのを幸いに日本籍に鞍替えして名実ともに「外国船舶」化する動きが,新統治者日本を戸惑わせるほどに福建貿易商のブームになっていたことを示すデータです。
▲長崎版画 唐船図・阿蘭陀船図 大和屋版系 天保・弘化頃(1830~40年代)

3「通商彙纂」明治45年(民國元年,1912)第16号に見るジャンク船積載量

福州に入港した台湾戎克船は年間83隻で、積載量が合計3,045噸であった。平均すると1隻当たり36.7噸になる。福州から台湾に向けて出航した台湾戎克船も合計83隻で、合計2,970噸、平均1隻当たり35.9噸になる。このことから台湾戎克船の積載量はほぼ30噸台後半の約40噸ほどであったと見られる※ 同「明治四十四年全年中」「出入港戎克船月割表」記述より松浦集計

 松浦さんが明治31~2(1898~9)年の日本船籍新規取得台湾戎克船83隻について別途行った集計では,噸数概算で最大50噸,大多数が20噸前後だったとされており(松浦章「日治時期台湾和中國大陸之間的帆船航運」『臺北文献』直字第150期、79頁),15年ほどで1.5倍以上に大型化していることが推定できます。いずれにせよ,これ以前のジャンク船も大きさはこの20トンクラスを想定していけばよいと思われます。

4 日本側が記録する福建からの輸入品の背景

 新統治者日本にとっても不思議に思うほど,在台湾の漢族は福建省からの多大な輸入品に頼って生活していたらしい。

當地方民ノ需要スル台湾生産品ハ廢鐵、通草、碎牛角等零碎ナル貨物ニ過キサレトモ台湾ヘノ輸出品ハ當地重要商品ナル材木、茶粕、紙等ノアルアリ且ツ台湾土人カ今以テ舊慣ヲ墨守シ其日用品ハ多ク之レヲ福建ニ仰クヲ以テナリ ※『通商彙纂』明治45年第16号

 福建材の需要は台湾での木造家屋のためのものとされている。それは,台湾の温暖湿潤な気候上,木造家屋が適切だったためです。

臺北城廂、及淡水・基隆等處、内地商家、居集最盛、而苦本島屋宇洞暗、不通風氣、殊為鬱朦、現在各處建房屋、均照内地風氣規式、希圖廠亮、四面通氣、以便楽、所需材木板料頗多、而臺北山林、本不産杉材、皆仰給於対岸福州者居多。但内地材木、宜於合用、只奈相隔太遠、運費甚大、而價稍形昂貴、建築家不免望洋之歎 ※『臺灣日日新報』第254号、明治32年(光緒二五、1899)3月10日「南材北炭」

 ここで言う「内地」は,記述者が台湾の新聞社なのですが,遠くて運賃が高いとあるので日本本土を指すのでしょうか。では台湾の材はどうかというと,ここでは「本不産杉材」杉材が産出されないからダメだ,と記述されています。つまり台湾奥地の木材のことは認識されていない。

5 宮中档乾隆朝奏摺にある台湾密入国者の記述

…閩省環山阻海、田少人多、所産米糧、往往不敷民食、而漳泉二府為尤甚。査漳泉民食、向藉台湾商販、源源接済。近年臺郡偸渡之人日多、米價亦不能平減、是以青黄不接之時、漳泉一帯市價日昴、… ※『宮中档乾隆朝奏摺』第三輯、815頁。乾隆十六年(1751)九月二十八日付の福州将軍の新柱の奏摺

 漳州や泉州での経済的困窮が甚だしいので,台湾への密入国者があとを絶たない。このために米が不足して来ていて,漳州や泉州で米価が高騰している,とある。台湾での米需要が増大したわけですが,それが福建での米価に影響するほど,福建の米供給は台湾米を頼るようになっていたことも読み取れます。
 台湾→復権の米供給について直接記したものとしては,

…今自五月下旬起至七月初旬止、據厦門税口委員彭誉稟報、台湾進口商船共三百一十隻、運厦米二萬五千四百石零、… ※ 同第三輯、399頁。乾隆十七年(1752)七月十七日付の福州将軍新柱の奏摺

という厦門の関税当局の短い記録があります。1752(乾隆17)年5月初旬~7月初旬の2か月間に台湾から311隻の商船が入港,米25,400石を輸入した。
 また,船舶往来に対する海賊の攻撃について,

…四月初間、臺邑船戸洪協華即在鹿仔港外被劫、五月望後、又有臺邑船戸徐得利在大甲渓口外被劫、其鳳邑船戸許得萬、李長茂、臺邑船戸陳鄭全三船、均於夏末秋初、在北路洋面被劫、…七月二十五日、在蓬山港口拿獲廣東潮陽縣王萬利紅頭船一隻、又在武楽洋面拿獲台湾縣船戸魯源茂彭仔船一隻、倶經解往彰化縣究訊、又於七月三十日在後龍洋面、見有無字號泉州船一隻、正在尾追蔡長吉商船、… ※ 同第四輯、442頁。乾隆十七年十一月二十七日付の閩浙総督の喀爾吉善の奏摺

とある。「被劫」つまり攻撃のあった地点として,1752(乾隆17)年4月は「鹿仔港外」,5月は「大甲渓口外」。夏の終わりから秋の初めは「北路洋面」での被害が多く,7月25日には「蓬山港口」と「武楽洋面」,7月30日には「後龍洋面」,と続く。
 この中に「大甲渓」の名前も登場しています。不明な地名があるので,場所を確認して地図に落とすと次のようになりました。▲1752年海賊出現域レーダー

 サンプル数が少ないので一般化して結論づけることは難しいですけれど,少なくとも1752年台湾海峡での海賊出現エリアは現・台中北西沖に集中していたと言えそうです。この偏りが攻撃側の分布からきていると仮定するなら,台中・彰化域,もしかすると大甲渓に自由海洋民がいた推測もできそうです。また,逆に被攻撃側,商船航路の密度から来るものと仮定するなら,台北域~南閩の航路は台中~台南まで陸寄りを通り,台南から初めて台湾近海を離れて膨湖島を経て厦門に達する,という二段階を採っていたことが想定されるのかもしれません。

6 イギリス領事報告の福州入出港帆船の記録(1846年1月1日~6月30日)

▲1846年1~6月福州港入港出港台湾ジャンク船
 これも貴重な記録です。この領事は福州在駐ですから「入港」は台湾→福州,「出港」は福州→台湾です。船名と入出港の別,積み荷だけをテキストに落とすと以下のようになります。
Kin shiug fa:入港 Sugar,hemp,hides,horns,&c.
Kin tih shing:入港 Indigo,sugar,henmp,&c.
Kin kee le:入港 Indigo,henmp,rice,&c.
Kwo yu hing:入港 Indigo,sugar,hemp,sharks’fins
Kin paou shing:入港 Indigo,sugar,rattans,shark’s fins,etc.
Kin wan tae:入港 Sugar,hemp,rudder,anchors,etc.
Chin kea fa:出港 Oilcakes and timber

 台湾→福州方向は砂糖・米(Indigo)・麻(henmp),福州→台湾方向は1隻だけですけど木材(timber)が積まれています。もう一品,トップに上がっている「Oilcakes」は単純に訳すと油かすですが,どういう品のことなのか分かりません。

7 1898(明治31・光緒24)年の福州発材木船の遭難記事

鳥趕者、清國帆船也、自福州運杉出帆、欲往淡水港、因于月十九夜、即舊暦十月初六夜、風雨疾驟、行至打邊対面見燈臺誤認為淡水目望高□遂回棹直人、不意見岸、知非力難強為、遂掛石□、時船棹経已損去、船内一人、足脛被其砍破、而其餘有三人、皆付流水、其一流在錫板人、亦湾以外両人、不見其屍、噫斯船出、其三十一人、而幸有二十八人、聞即日土地公埔支署。(下略) ※ 『臺灣日々新報』第170号、明治31年(光緒二四、1898)11月26日「帆船沖岸」

 これは単に事故の記事ですが,福州から台湾淡水港へ杉を運ぶ帆船が遭難に遭っています。死者が出た事故で,日本の江戸期にあったような他で荷下ろしをしたことの偽装とは思えませんから,木材輸送の福建→台湾ジャンク船ルートが存在したことを証明しています。
▲蘭潭風景区(嘉義市)に設置された王文志の作品