これだけ細かく情報があるのに、それが
目録
§
→[前日日計]
支出1300/収入1800
▼13.0[142]
負債 393/
利益107/
[前日累計]
利益 107/負債 –
十ニ月ニ十七日(一)
0806ドライブイン ハワイ
パンケーキモーニング370
1437オリエンタル食堂
ほね汁550
1530(大南ニ丁目12-18)和洋菓子の店 ヤマカワ
名護マサー
マフィン300
[前日日計]
支出1300/収入1220
▼13.0[143]
/利益 80
[前日累計]
利益 27/負債 –
十ニ月ニ十八日(ニ)
Aランチ凍える耳朶にハワイアン
〇722。雨が怖いので早めに出発。
今は止んでる。雨雲レーダーではここ数時間は雨は落ちないはずなんだけど。
0742、数十台のダンプが列を成す。沖の工事に使ってるらしい。そこからも、山手の鉱山からの運び出しにダンプがどんどん通り、なかなか怖い爆走道です。──ダンプそのものも追い抜かれる時危ないけれど、何より路面に砂が舞って滑りやすくなってる。
〇756、瀬底島を見る。
この辺で朝飯を……と探したらここしかありませんでした。店名だけは昔から知ってたここへ、ついに来れました!
0806ドライブイン ハワイ
パンケーキモーニング370
Aランチは昼11時からのメニューだけど、朝は朝でパンケーキとフライ&ハンバーグという1200円のがある。流石にそれはカロリーの無駄使い……ではありますけれども、確かにいい大衆店です。
しかしまあ、名護のドライブインで寒さに震えながら聴くハワイアン、というのもオツなものよのう。おほほほ。
パンケーキにサラダ、ソーセージとベーコン、アボガドとコーヒー。調味料にはケチャップと醤油。確かに……ハワイの日本観光客のホテルのモーニングとかでこういうのが出るのかも……。
久しぶりのパンケーキが染みた。コーヒーと合うかというと……微妙だったけれど。
0845再出発。
眼力の足りぬ眼で本部港
本部市内を抜ける。
湾はかなり開発されてて、古い岸がどこなのか分からない。
丘が多くなりました。
忽然と現れるリゾートホテルのエリア。
謝花-具志堅 聖地の風の寄せてきて
〇858。今帰仁12km表示。
0905、上本部郵便局。丘の最上部付近です。東1kmにカーミパンダという御嶽。
集落名は謝花(ジャファナ)。
1416(永楽14)年の北山滅亡時、謝花大屋子(謝花大主とも)が大堂(うふどう)を経てこの地※に落ちたと伝わる〔角川日本地名大辞典/謝花〕。
ここにも士族開拓集落があったらしい。桃原(とうばる)は謝花村の原名とも言い、のち具志堅・備瀬・浦崎・浜元の各村にまで広がって総称し桃原屋取〔角川日本地名大辞典/謝花(近世)〕。
〇918、具志堅西交差点。えらく墓の多いエリアが続く。
バス停具志堅。何となく地域空間全体が聖域めいてきた……か?小雨。0915。
0918、今泊三叉路を右折、山手の城へ。
ハンタ道 匂いだけ嗅ぐ師走かな
とうとう来た。観光客もまだ少ない時間です。
0934城内へ。あれ?……城内の前にこっちじゃ。
入口下手。ハンタ道……のはずの一帯へ。
現今泊集落から今帰仁城跡への里道は「ハンタ道」と呼ばれています。この道は今帰仁城が城として機能していた頃の登城道として利用された歴史の道で、明治36年に作成された「国頭郡今帰仁間切今泊村全図」の地籍図でもこれを確認することができます。(略)祭祀の時に利用する神道として利用された道で、沿道には拝所があります〔案内板〕
下ってから登りに入る、奇妙な道。荒く石が露出する野道が、段々、ホントの野道に転じていきます。道標も何もない、他では御嶽のような、招かれざる空気。
初回のハンタ道は、こんな感じにやや呆気に取られました。
ちょっと寄るつもりだったのに、道そのものはどんどん先へ続いてます。これは……今回は雰囲気の確認だけで引き返しましょう。
ノロたちの祠はなべて野道の奥
〇952。帰路の中途で矢印のある脇道へ入ってみる。
ここか?「供のかねノロ殿内火の神」の祠。
地元ではトゥムハーニと呼ばれている。今帰仁ノロの次位神役で、「供の」は「お供の(従者)」の語意と解されている。祠は別名「下の殿」と呼ばれている。(略)ノロ屋敷の旧宅であったと考えられている。〔案内板〕
うっ。名前も解説もまるで分かりません。
案内板にあった上記写真は新城徳祐撮影とあります。──あとに少し調べると著作が幾つかある(新城徳佑「沖縄の城跡」緑と生活社,昭和57(1982)年など)。地元の郷土史家か歴史学者らしい。
殿内に祭壇4。供物はない。
隣に荒い道。辿ると別の祠がありました。10時ジャスト。
こちらには案内板の類は全くありません。
──後で城側に「今帰仁ノロ殿内」というのがあると見つけました。多分これでしょう。
やはり殿内に祭壇4。ただこちらには左手に、焼香壇のような石積みがある。
そこから歩道へ出た対面へ。やはり野道の奥。
案内板に曰く「阿応理屋恵(あおりやえ)ノロ殿内火の神」の祠。三箇所ともノロの居所でした。1005。
あおりやえノロの祠は海を向く

今帰仁城内の祭祀をつかさどる国頭地方の最高位の神女として、第二尚氏北山監守の一族の娘や妻などがその職に就いていました。17世紀前半ごろに、今帰仁ムラが現在の地に移動するとともに阿応理屋恵御殿も移動しますが、火之神は旧地に残され拝所となりました。(略)以前は赤瓦屋根が葺かれ、「依庥得福」の扁額が掲げられていました。祠の中には13個の香炉と火の神を象徴する石が13個置かれています。現在でも県内各地から多くの参拝者が訪れます。〔案内板〕
香炉が物凄い数、並びます。数えると13ありました。
奥手に回ると、明らかな構造物の跡。けれどこちらは解説にはありません。
後方道脇に1、突き当りにも1拝所。
奥のものは壁の上にある形です。海方向を眺める格好。
セジ高きユタを擁する聖集落
最初から頭が無茶苦茶に混乱する歩きになってしまいました。
ただ一点。これらノロ居所があった付近は、旧集落地だったことが考古学的に確実視されています、
12 今帰仁ムラ跡
今帰仁城跡の周辺にはいくつかの集落跡がありました。今帰仁ムラ跡では発掘調査が行われ多数の柱穴や土坑、中国産の陶磁器などが発見されています。〔後掲沖縄文化スポーツイノベーション㈱〕
今帰仁ムラ跡は、今帰仁城跡と一体となる埋蔵文化財。9つの屋敷地が想定され、特に東区は石積み遺構の残りが良好でこれが屋敷区画として機能した可能性が高く重要な地域。〔後掲Ariadne portal〕
なぜか、この遺跡はそれほど注目されてないけれど、部分的な発掘報告はなされてます(今帰仁村教育委員会「今帰仁城跡発掘調査報告3 今帰仁ムラ跡 西区屋敷地5の調査」『今帰仁村文化財調査報告書25』2008)。デジタルがなく未読。
即ち、ハンタ道最上部は、セジ(霊力)高きユタを擁する聖集落だった、というのが現段階で妥当な知見です。首里の三殿内に聞得大君に次ぐユタの大元締・大阿母志良礼(オオアムシラレ)が置かれたのを連想します。
運天や羽地内海で触れたように、今帰仁城の位置は政治的・軍事的にどうにも意味が見い出せません。この城はむしろ、麓にあったこの北山の「首里」の神威を示すべく設けられたのではないか……と夢想しますけど、もちろん実証はできません。
さていい加減、マジメな観光客に戻りましょう。城へ。1021。
■レポ:本部港に浮沈したもの
恥ずかしながらこれまでの島々での習慣が手伝って、本部港を、昔は栄えたけれど辺地で衰退していく港──というステレオタイプで見ちゃってました。まず、本部港は衰えどころか大躍進中の港です。
同(引用者:昭和)55年4月1日渡久地新港から本部港に港名変更。
同57年度の入港隻数3,727、乗客16万1,853人・取扱貸物191万5,068t(うち96万8,966tは塩川地区)。
統計年度 2015年度
発着数 8,796隻(7,149,795総トン)[1]
旅客数
699,599人[2]
〔本部港〕※[1] 港湾統計(平成27年度)第2部第1表 [2] 港湾統計(平成27年度)第2部第2表
港湾施設の現状は
防波堤Ⅰ35.2m・
防波堤Ⅱ135.5m・
泊地(水深7.5m)1万700m(^2)・
泊地(水深4.5m)2,435m(^2)・
泊地(水深3.5m)4,190m(^2)・
岸壁Ⅰ(水深7.5m)330m・
岸壁Ⅱ(水深4.5m)137.5m・
物揚場Ⅰ(水深3.0m)185m・
物揚場Ⅱ(水深3.0m)60m・
船揚場Ⅰ51m、
塩川地区は、
泊地(水深4.5m)2,435m(^2)・
岸壁Ⅲ(水深4.5m)60m・
岸壁Ⅳ(水深4.5m)30m。〔角川日本地名大辞典/本部港〕※引用者が改行・下線を追加。青字はそれぞれwikiほか出典。次引用も同じ。
つまり1980年代に比べ積載3倍、旅客は4倍を越える大躍進中。
もう一つ、本文中で見た「本部港」は満名川(→GM.)河口でした。この港は水深も浅く(下図参照)手狭です。ホントの本部港は、ダンプの行列を見た塩川地区から満名川の集落の半キロ手前、新港が連携して機能してるようなのです。
新港は本部で一等古い海
定期船では、かつて新港に発着してた伊平屋島・伊是名島航路は運天に移ったけれど、伊江島航路と水納島航路は健在で夏場の、多分観光用便数は増えてるようです。
本部港からの定期連絡船は、
伊江航路はフェリー城山419tとフェリー伊江島449tの2隻で、平常時1日3便・多客時1日5便、
伊江村営フェリー
本部港 – 伊江港(伊江島)
1日4往復。所要時間は30分。 ※多客期は5-8往復に増便〔本部港〕
伊是名航路は第三伊是名丸374t1日1便、
フェリーいぜな尚円
伊是名(仲田港)⇔ 今帰仁(運天港) 運航時間 約55分〔後掲伊是名村〕※2便/日
伊平屋航路フェリー伊平屋500t1日1便。
通常の2便運航
1便 伊平屋発9時00分 運天港発11時00分
2便 伊平屋発13時00分 運天港発15時00分〔後掲伊平屋島観光協会〕
※ほか水納海運(高速船)
渡久地港 – 水納港(水納島)
1日3往復、多客期には最大12往復まで増便。〔本部港〕
〔角川日本地名大辞典/本部港〕
本部新港の南入口側にはゲンティン香港グループによる20万トン級岸壁を整備。2,400㎡のターミナルビルを竣工してます。ここから受け入れた中国人観光客を、謝花付近のリゾートホテルに泊まらせるヴィジョンのようです。
もう一つ根本的に誤解してたのは、上記新港を新設地と見ていたことでした。他地の通例では、使い辛い旧港を捨て土木力で建造した新港が現在は専ら使われてます……というパターンなんですけど、本部の場合、新港こそが元来の港だったようなのです。
瀬底二沖と健堅港=瀬底港
両港が良港とされるのは、瀬底島の存在によるところ大らしい。
港湾施設は崎本部北西部の新港地区と崎本部南西部の塩川地区の2地区に分かれる。西側約600mにある瀬底島が自然の防波堤となっていたため,新港地区には王府時代から港があり,古来中国・薩摩航路の起点として利用された。「球陽」に「健堅港を叫びて唐泊と曰ふ」と見え,また「瀬底二仲の洋面は,洵に風波猛起の処所に係り,諸舶湾泊するに」とある港は(察度王条附・尚灝王28年条),いずれも現在の本部港の港湾区域に比定される。〔角川日本地名大辞典/本部港〕
健堅という地名は、現在の住所表示では塩川-新港の間のエリア(→GM.)。「きんきん」又は「けんけん」という音が伝わる。後掲参照。
この港を叫びて(呼称して)「唐泊」というのも、非常に興味深い。球陽のみとは言え、大陸からの外航船が入港したことが想像される訳です。確かに、今帰仁城の海岸(現・今泊)や運天、羽地内海では大型船が安全に停泊出来なかったでしょう。
「瀬底二仲」というのは、瀬底島との間の海域の総称のようです。「シークタナカ」と読んだらしい。なお、明治時代の水路誌には「瀬底港」と記されるといいます〔wiki/瀬底島〕。
古くから瀬底島の沖合は難所とされたようです。王朝時代から船舶の転覆・座礁事故が発生していた〔角川日本地名大辞典/瀬底村〔近世〕〕とありますけど、出典未確認。なお、後掲高良はこの難所そのものが「瀬底二仲」だったと推定してます。とすれば、「瀬底島と本部半島の二所の中にある難所」という意味だったとも推測できます。
本部新港再起動史
本部港の歴史は、沖縄戦で四半世紀の間、途絶しています。正確にはこの間、本部港とは塩川港のことを指すような状態だったようです。
昭和19年10月10日の空襲には避難停泊中の潜水母艦迅鯨ほか数隻の艦船が応戦したが,港湾施設は甚大な損害を受けた。昭和20年米軍が崎本部小字塩川原を埋め立てて造成し,仮岸壁を建設して砕石および石材の積出施設とした。のちこの岸壁を民間が使用するようになり,昭和47年5月12日には琉球政府が「崎本部港」として地方港湾に指定,同年5月15日本土復帰に伴って沖縄県管理の地方港湾となった。〔角川日本地名大辞典/本部港〕
本土復帰(1972(昭和47)年)前に指定したということは日本内地間の航路に使用する目処で、日琉間の調整があってのことでしょう。
ちなみに米軍が着目した砕石は、本島全域の、おそらく交通・建設インフラに用いられたのでしょう。
塩川地区の付近には,沖縄本島で使用される砕石の90%以上を産出する本部町塩川・名護市安和があり,その砕石は塩川地区から沖縄本島各地と南部離島および宮古・八重山各諸島さらに鹿児島県下の離島まで搬出されている。同地区も昭和50年に500t級岸壁(水深4.5m)2バースとなった。〔角川日本地名大辞典/本部港〕
日本内地を睨まない航路の発着点として、ようやく本部港が注文されるのは、復帰から海洋博までの間だという。この時に、新港で初めて大型船着岸のヴィジョンが描かれ、これがその後の定期船からクルーズ船までの航路就航に繋がったと見るべきでしょう。
昭和47年沖縄国際海洋博覧会の会場が本部町に決定すると,県外・那覇(なは)からの海上輸送の拠点港が必要となり,昭和47年度から,かつて港があった瀬底島の向かいの崎本部小字石川原地先の海面12万4,800m(^2)を埋め立てて造成し,新港湾の本格的な整備が行われた。(略)石川原の新港地区には,総事業費約40億円で,昭和49年5,000t級岸壁(水深7.5m)2バース,500t級岸壁(水深4.5m)2バースおよび小型用船舶の物揚場が造られた。大型岸壁は海洋博開催時は大型客船用バースとして利用,現在も貨物船や不定期の客船に利用されている。500t級岸壁は伊江・伊是名(いぜな)・伊平屋(いへや)などの北部離島連絡船の発着基地として大きな役割を果たしている。〔角川日本地名大辞典/本部港〕
さて、この全体像を前提にして、やっと、近世以前の「新港」に焦点を絞ることができます。本部港は位置的に、日本本土との航路を重視する時代には浮上しないからです。それは先に触れた「唐泊」の名称に、最も映し出されています。
健堅・久米島ヒャー同盟
方言ではキンキンという。石川原・浜崎・駈原などの集落が域内にあるが,キンキンはもともとの中心集落を指す。沖縄本島北部,本部(もとぶ)半島の西部に位置し,瀬底島の対岸に当たる。海岸から台地にかけて集落が広がる。町文化財に,健堅のヒャー(大親)の墓と屋敷跡がある。〔角川日本地名大辞典/健堅〕
今まで、この土地を見つけることが出来なかったのも道理です。記録はもちろんGM.などネット情報にすら、この地の記述は僅かです。おそらく、他地の人間に踏み込んで欲しくない、という気分が相当強いのだと感じます。
後掲アッチャーアッチャー(2023.8.4及び14)さんのブログの姿勢は、その点、誠実です。出来るだけ、場所は分からないように書いてあります。地理屋としても、本稿で可能な限り場所を明かさない書き方をする旨、ご了解ください。
「ひゃー」という沖縄語は、かなり古語で現代ウチナンチュすらほぼ使わない語らしい〔後掲沖縄方言辞典あじまぁ〕。内地の「野郎」に似た罵倒あるいは見下しをこめた言葉のようです。──これが正しいなら、地域の暴力的頭領のような人を怖れと反感と従属を兼ねて呼んだ語ということになります。
健堅ヒャーが久米島の堂のヒャーと親交を結び,良馬を得て漂着した中国人に与えたという故事から(球陽察度王45年条),14世紀末にはすでに集落が形成されていたと考えられる。「絵図郷村帳」に今帰仁間切けんけん村,「由来記」では本部間切健堅村と見える。(続)〔角川日本地名大辞典/健堅村(近世)〕
察度の中山王即位を通説の1350年とするなら、察度王45年は1395年。
さて、健堅ヒャーが実効支配する集落の存在が推定できるこの年より少なくとも前にあった、前段の健堅ヒャーに係る記述を三項に分けると──
A 久米島の堂のヒャーと親交を結んだ。
B 良馬を得て漂着した中国人に与えた。
C それを中山王察度が注視し記録した。
Bの「漂着」はまず正規の朝貢者※たる記録者・察度側からの解釈で、要するに健堅と久米の両ヒャーが対明交易をしていたのでしょう。Cは中山側が彼らをライバル視していた事を予想させます。
ただその交易Bに、なぜ久米のヒャーとの親交Aが必要だったのか?久米島の近世交易上の役割からすると、寄港地として求められたと考えるのが順当でしょう。
ただ、後掲の1264(景定5)年の久米・慶良間・伊平屋共同での入貢記事(中山世鑑)を考慮すると──最初に対中交易を企画・実施していたのは久米島ほかの島々で、これに健堅・中山・北山(山北)が倣ったという流れにも見えるのです。つまり、健堅ヒャーは交易の先輩である久米島と組んだ、という可能性です。
(続)古老によると,村は北隣の辺名地【へなち】から移動して集落を形成したという。当初は現在の中心集落健堅東方の古島と呼ばれる地に,7世帯が住んでいたといわれる。蔡温の時代,健堅村は崎浜村・石嘉波村・辺名地村とともに1か所に集在し農地も狭く,山林を焼いて農地とするような状態であった(球陽尚敬王24年条)。そのため瀬底島への通耕を行っていたが,のち石嘉波村を瀬底島に移し,残った石嘉波村の耕地は健堅村と崎浜村に分与された(同前)。港に健堅江がある(旧記)。イシヤラ嶽は瀬底ノロ,根所火の神・神アシャギは本部ノロの管掌(由来記)。〔角川日本地名大辞典/健堅村(近世)〕
この辺りの集落史になると、まるで見当がつきません。
瀬底島の耕地の件は後で触れるとして、健堅にノロがいなかった、つまり無宗教色が感じられる点は羽地に似ています。何にせよ、グスク時代以前、この地域は集落毎に覇権を争い耕地を奪い合っていた情景が想像されます。
ケンケンの王国と瀬底島
琉球国由来記は本部間切の習いとして、健堅の頭領が地頭代職を世襲したことを伝えます。
本部間切の夫地頭に健堅大屋子・渡真理大屋子・満名大屋子・石嘉波大屋子・辺名地大屋子・並里大屋子・小浜大屋子の7員がおり、その中の健堅大屋子が地頭代の職に就くならわしであった。この下に首里大屋子・大掟・南風大掟・西掟のサバクリがおり、さらに辺名地掟・謝花掟・浦崎掟・伊豆味掟・天底掟・瀬底掟・備瀬掟・具志堅掟・渡久地掟・嘉津宇掟の11員の掟がいたことになっている。〔後掲高良〕※原典:琉球国由来記(1713年編集)巻2
「首里」大屋子という語にドキリとするけど、これは現・首里=後の尚氏王都ではなく、地頭代補佐に当たる庶務の元締め、江戸時代的に言えば番頭さんの職名〔後掲粟国アーカイブス〕。ただそれにしても、本部半島南半を占める領域です。健堅頭領家は、この連合王国の王家だったわけです。
本部郡瀬底島は人少なく地広し。況んや石嘉波・伊野波・辺名地・健堅・崎浜等の田地、其の島に混在するをや。是れに由りて、両総地頭及び検官具呈して陳泰し、海路相隔り、以て耕転し難く、村邑を移すの事を請ふ。今番、石嘉波邑を瀬底島に移建し、亦其の田畝及び瀬底の地を以て、石嘉波邑に均分す。而して石嘉波、素、受くる所の田地は、健堅・崎浜二邑に分与す〔後掲高良〕※原典:『球陽』※※巻13、尚敬王24年(1736)
※※球陽研究会編『球陽』読み下し編、1974
瀬底島は「人少なく地広」いから(文脈上多分本部半島側にあった)石嘉波が村を移建したいというので、これを移して、元の石嘉波を健堅と崎浜で「分与」しますよ、という届けです。
石嘉波(イッチャファ)は「
おそらく北山故地を弱体化させたい尚氏王権側の政策に便乗した、石嘉波vs健堅・崎浜連合の抗争です。もう一つ穿って見れば、王権側の北山故地内の集落間抗争を激化させたい意向が、底流の策謀としてあったかもしれません。
抗争と言ってもこの場合、石嘉波旧地を両村が分割したのですから、占領して追放したと言えなくもない。ただし──
石嘉波が瀬底島に入った場所は島中央部、おそらく良地です。石嘉波側もより良い耕地に移れた訳で、単に追放された難民だった訳ではなく、拝所として前之嶽・根所火神・神アシアゲを有する堂々たる集落を築きあげてます(祭祀は瀬底ノロ)〔前掲コトバンク〕。
では瀬底島が石嘉波側の「支配下」に入ったかというと、それも違うらしい。球陽(巻20尚灝王28(1831)年条)には、瀬底島出身らしき※「前の地頭代」健堅親雲上という人がいて、曽祖父代から瀬底二沖の水難船を救ったほか、瀬底島民を「指揮」してきたという。
健堅親雲上の功績であるが、『球陽』の記す「善行家風」の額が上間啓秀氏宅(名護市名護)に残っている。イヌマキ製のもので、朱漆地金箔文字縁黒漆、法量は縦143.5cm、横34.2cmである。「善行家風」の文字があり、右肩に「道光十一年(1831)辛卯春吉旦」と明記されている。また、これに関する資料に、瀬底島の上間門中が所蔵し、土帝君祠に掲げられている対聯がある。イヌマキ製のもので「無虚非公在」「誰人不子来」の文字が大書されているが、聯裏書に「唐栄紫金大夫鄭元偉」と記されているので、鄭元偉の手になるものである。同じく裏書に「咸豊元年(1851)辛亥三月吉旦前地頭代健堅親雲上童名真五郎敬立」とある。『球陽』に登場する人物と同一人ではないかと推定されるが、確証はない。また、上間建美氏宅(名護市我部祖河)に篇額があり、「厚徳」の2文字をもち、咸豊元年の年号、それに「王丕烈書」「前地頭代健堅謹立」の文字が見える。対聯の人物と同人で、おそらく『球陽』のいう健堅親雲上であろうか(沖縄県教育委員会『歴史資料調査IV一篇額・聯等遺品調査報告書』参照、1983)。〔後掲高良〕
名護・瀬底島・我部祖河の対聯・篇額等にこの人の名が残る、ということは地方の名士として本部半島全域に活動していた訳です。かつ、この人が健堅ヒャーに連なる「王家」の末と仮定すると、交易者であり海難救助者であった、即ち朧ながら海賊又は海民の性格を感じもします。
【補論】久米島なる特異点
まだ行けてないのであくまで補足になりますけど──久米島の交易史上の位置のみ、資料を集めておきます。
なお、久米島は、現・日本国内所在の媽祖を祀る場所の一つですけど、なかなか計画が立てれないまま今日を迎えてますけど──この面からしても、中国人船員が明らかに一定期間居住したことは確かな土地です。

ゴーヴィルの「琉球覚書」にクゥミシャン(Kou-michan),バーニーの海図にコミサン(Komisang)と見える。(略)白瀬川河口は,古来,那覇・先島・中国との交通船や漁船などの寄港地として,また台風時の避難港として要津となり,ウフンナトウ(大港)と呼ばれた。(略)久米島の名は,日本や朝鮮の史書に古くから見える。「続日本紀」の和銅7年に見える「球美」は(国史大系),久米島のことといわれ,奈良期にはすでに大和との交通があった。「李朝実録」天順6年(1462)に,済州島を発した船が,「琉球国北面仇弥島」に漂着したとある(世祖8年条)。また「海東諸国紀」の琉球国之図には,九米島と記す。冊封使録では,古米山(陳侃など)・粘米山(夏子陽)・孤米(張学礼)・姑米山(徐葆光)などと見える。久米島で建造された船が,国王にほめたたえられたことを謡った「船之かわら居せ并すらおろし之時御たかへ言」(オタカベ16/歌謡大成Ⅰ)に,異称として,「かねの嶋」が見える。(続)〔角川日本地名大辞典/久米島〕
ゴーヴィル「琉球覚書」とバーニー海図に云々という解説は、どうやら「角川日本地名大辞典47 沖縄県」の著者・竹内理三が記した記述を原典とするらしいけれど、他の出典や原典には当たれません。
「オタカベ」は神歌の一種。やはり出典未確認。
続日本紀の「球美」記事は二箇所、714(和銅7)年12月と翌715(霊亀元)年正月、いずれも貢納者の到来を記してます。まず間違いなく平城京で年越ししたのでしょうけど、奄美・信覚・球美のみで52人、これに正月には夜久・度感の者が加わってます。
《和銅七年(七一四)十二月戊午(甲寅朔五)》○十二月戊午。少初位下太朝臣遠建治等、率南嶋奄美・信覚及球美等嶋人五十二人。至自南嶋。〔後掲続日本紀〕
《霊亀元年(七一五)正月甲申朔》霊亀元年春正月甲申朔。(略)陸奥・出羽蝦夷并南嶋奄美。夜久。度感。信覚。球美等、来朝。各貢方物。其儀。朱雀門左右。陣列皷吹・騎兵。〔後掲続日本紀〕
夜久が屋久島と読む想像は容易です。通説では、度感(dugang)=徳之島、信覚(xinjue)=石垣島……というのは多分、現代中国語音から類推しただけです。
これらを一応信じるとすれば、北から屋久島・奄美大島・徳之島・久米島・石垣島──五島からの使節が揃うのを、その年の即位を控えた首皇子(即位後:元正天皇)は待った訳ですから、優先順位はともかく北の大国の動向に敏感だった南島勢力はこの五島だったことになります。
久米島が名を連ね、沖縄本島がないことは注目していいと思います。農業が普及する前の時代、多分、海民の勢力圏だった南島海域において、山がちな沖縄本島は後進地域だったはずです。言い方を変えれば、中世以降のフロンティアに、沖縄本島王権は成立した──のかもしれません。
あ、久米島の話でした。続日本紀の記録はまず信用できそうです。奈良初年に、少なくとも政治的判断の出来る集団がこの島にはいたわけです。
中国との交易記録の初出は、この時代より5百年後。ただこれは先の察度記録同様、自身を本島最初の朝貢国とみなす(先行朝貢国が無いことにしたい)中山側のものですし、そも「琉球」名が台湾を指した南宋代に朝貢関係は成立し得なかった時代です。だから何ら「減点」要素はないと思われる、記録される沖縄初の交易者は久米島・慶良間・伊平屋島です。
(続)沖縄本島との関係は,南宋の景定5年(1264)に慶良間・伊平屋(いへや)とともに入貢したのが最初である(中山世鑑)。入貢とはいうものの,この時期は単に修交的な関係であった。(続)(略)近世には,中国へ往来する船の寄港地として,兼城(かねぐすく)港・儀間港・真謝港などが重要な位置を占めた。また近世末には外国船も多く来航し,食糧などを補給した(球陽)。〔角川日本地名大辞典/久米島〕
南宋入貢「国」三つには、15C初に尚氏を輩出したとされる伊平屋島が名を連ねます。なぜこの三島なのか──という点は、上記のように近世の機能から連想すると補給地になるんですけど、沖縄本島から百kmほどの久米島で補給しないと、さらに五百km西方の浙江・福建に辿り着けなかった、というのも妙な想定です。補給の効能はせいぜい、少し楽になるというほどのはずです。
今とりあえず、続日本紀の5島と中山世鑑の3島をプロットしておき、次に進みます。
久米の島神やれ
おもろには、久米を歌うものが異様に多い。
「おもろさうし」には,「くめ」「くめのしま」と見え,巻21の「くめの二間切おもろ御さうし」の114首をはじめ巻11・13などに,久米島に関するオモロがある。オモロには按司などをたたえたものや,君南風・久米のこゑしのなど神女を謡ったものが多い。君南風は,古くから三十三君の1人で,弘治13年(1500)尚真王による八重山のオヤケ・アカハチの乱平定に参加し,王府軍を勝利に導いた(君南風由来并位階且公事/沖縄久米島資料篇)。〔角川日本地名大辞典/久米島〕
「君南風」は現在も
君南風は伝説では久米島の
西 嶽に住む三姉妹神の三女。長姉は首里の弁 嶽に、次姉はのちに八重山の於茂登 嶽にそれぞれ住まうという(君南風由来并位階且公事)。〔前掲コトバンク〕
久米島の一つ上の姉が八重山、一番上が首里の最高峰地・弁嶽。政治的状況を反映した伝えです。──海神三姉妹という面では、宗像や住吉も連想させます。
試みにおもろそうし巻21〔後掲明治大学〕のみを「くめのしま」ワードで検索してみると、13ものヒットがあります。
印象的な一首のみを以下挙げます。素人として読む限り、これは「初貢」≒中国初入貢の航海と「西嶽に おわる」その旅の終着を讃えたものと思えてなりません。
うちいではややのきくたけの節
13-955(210)一西嶽に おわる/嶽の雪加那志しよ/久米の島神やれ/久米の珍らしやよ/又東嶽に おわる/聞ゑ雪加那志/又にるや地に 着ければ/おうちよのが やぐめさ/又西嶽に 着ければ/にるや地が やぐめさ/又白米に 着ければ/世よ中に 着けれ/又たりろから 聞ゝゑば/けにろから 聞ゝゑば/又久米の島 通れば/金の島 通れば/又金福に おわる/具志川に おわる/又聞ゑ按司添いぎや/鳴響む按司添いぎや/又浦貢 寄せて/初貢 寄せて/又御船 接ぐてうむ/み御船 接ぐてうむ/又今鳴響み 着けて/今勝り 着けて
一にしたけに おわる/たけのよきかなししよ/くめのしまかみやれ/くめのめつらしやよ/又ひかたけに おわる/きこゑよきかなし/又にるやちに つけれは/おうちよのか やくさめ/又にしたけに つけれは/にるやちか やくさめ/又しらよねに つけれは/世よ中に つけれ/又たりろから きゝゑは/けにろから きゝゑは/又くめのしま とうれは/かねのしま とうれは/又かなふくに おわる/くしかわに おわる/又きこゑあしおそいきや/とよむあんしおそいきや/又うらかない よせて/はつかない よせて/又おうね はくてうむ/みおうね はくてうむ/又いみやとよみ つけて/いみやまさり つけて〔後掲明治大学〕
政治史としては、
(続)島の支配者としての按司は,14~15世紀頃に
伊敷索 城に居を構えた伊敷索按司と,具志川城を築いた真達勃按司が始まりといわれる。両者とも島外からの侵入者といわれるが,時期やもとの土地などは不明。〔角川日本地名大辞典/久米島〕
「両者とも島外からの侵入者」というのがどういう伝承か確認できないけれど、そうだとするとほぼ海賊的な侵入者を想定してよい。海民にとって、特に確保すべき地勢又は地点だったのでしょうか?
「琉球国由来記」によると伊敷索按司には四人の子息があり、それぞれが
兼城 村の屋敷・宇江城 ・具志川城 ・登武那覇城 に拠ってそれぞれの地を統治していたが、尚真王(在位一四七七―一五二六)による久米島征伐により滅ぼされたという。〔日本歴史地名大系 「伊敷索グスク」←コトバンク/伊敷索グスク〕
尚真は第二尚氏祖・尚円の子で第三代王。八重山から与那国島までを傘下におさめ琉球の版図を確立したと言われるけれど、どの段階で久米島を領したかははっきりしない。先の君南風の八重山遠征協力の話と並立させると、君南風は尚真側に内通して伊敷索按司勢力を一掃した、あるいは原住民が本島の力を借り島外侵略者を排したと見ることも出来ます。
黒潮の縁に立つ久米島
ところで、先に提起した航海者≒海民から見た久米島の位置です。後掲医療経済オンライン上で太田哲二さん(杉並区議会議員)が、次の説を述べておられました。
古代から琉球王朝の時代、沖縄島から中国大陸へ行く場合、黒潮を横切るのが最大の難所でした。船は沖縄島から久米島へ行って、一旦、停泊する。そこで、10月~2月の季節風(北風)を待つ。強い北風が吹くと、その風を利用して一気に黒潮を乗りきる。さもないと黒潮に流され漂流船になってしまう。中国大陸から沖縄島へ帰る場合は、夏の季節風(南風)を利用する。中国大陸から黒潮にのり北上し久米島を目視できたら一気に黒潮から離脱する。したがって、久米島は、琉球の交易にとって、最大拠点、不可欠な島であった。〔後掲医療経済オンライン〕

上記図は気象庁のシミュレーションです。黒潮の複雑な海流は割と頻繁に変動するとも言われるけれど、このシミュレーションに寄る限り、久米島は黒潮という川の岸辺にある。よみならず、黒潮の水流がやや弱まる箇所、つまり西側=大陸側へ渡りやすい「浅瀬」岸に位置します。
海民から見ると、それは東シナ海の特異点と見えたのでしょう。
■レポ:沖縄海底遺跡ご試食
今回、派生的に久米島の資料を集める中で、新しい考古学アプローチとして注目される水中考古学の触手が沖縄海域の海底に伸びつつあることを知ることができました。当面久米島東沖のオーハ島付近では、海底遺跡が発見され、与那国島のムー大陸めいた憶測とも共鳴してました※けど、現在はそうした遺跡が沖縄海域全般に眠っていることが明らかになりつつあります。
水中文化遺産保護条約 Convention on the Protection of the Underwater Cultural Heritage(2001年11月ユネスコ総会採択)の2009年発効後(ただし日本・仏・独等未批准)、水中考古学は明知の学問へ転換しており、怪しい海底世界の空想は既に根拠を完全に失っています。
海洋資源が豊か、というより純粋な意味で海洋資源でない資源などないこのシマは、水中遺跡の宝島です。宝島であると同時に、けれども危機に晒されており、そのことに地域の考古学関係者が十分に恐怖しています。
本県ではリゾート開発や大規模な埋立・護岸工事も盛んに行われ、砂丘や干潟などの旧地形が年々失われていくとともに、当該地域に所在する遺跡も危機に瀕している。これらの適切な保護を図るには、県内各地の海岸地域及び水中地域に所在する遺跡の分布状況を把握する必要があることから、沖縄県立埋蔵文化財センター(以下当センター)では平成16年度より県内遺跡発掘調査事業の一環として「沿岸地域遺跡分布調査」に着手した。〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター2017〕
平成21(2009)年までの五カ年に渡る「水中遺跡・沿岸遺跡」調査は、沖縄県下の海域を網羅した基礎調査──具体的には水中遺跡211箇所のリストアップ作業──であり、2017年報告書でも結論や新見解が集約されてはいません。おそらく今後の広域的な論考が重ねられる中で、沖縄海域の交易史は全く新しい姿を見せていくでしょう。
それを心待ちにしつつ、当面、端緒となった、また沖縄本島-中国航路の特異点である久米島と、本稿の出発点である瀬底二仲(瀬底島-本部港間)及び今帰仁城直近の今泊の3つの水中遺跡についてのみ、現在分かっていることを以下押さえておきたいと思います。
久米島♢NA-point1◇東奥武海底遺跡
県埋文がリストアップした水中・沿岸遺跡211箇所のうち、水中遺跡は50(沈没船9、水中遺物散布地11、港湾遺跡30)。この小さな遠隔の久米島※に6つ※※が発見されています。水中遺跡は浅海でしか認知されない訳ですから、この「やや多め」な数は実際の来航数が「かなり多め」であることを推測させるに十分です。
※※(沈没船)
101真謝沖海底遺跡
(水中遺物散布地)
99ナカノ浜海底遺跡
100東奥武海底遺跡
(港湾遺跡)
102まちや入江
103真謝港遺物散布地
106兼城の古港
(104大原の石切場跡、105北原の石切場跡は陸上沿岸)
以前に採集された陶磁器200点余は久米島博物館が所蔵している。 これらは中国産の青磁と白磁が大多数を占め、 年代は概ね14世紀後半~15世紀前半に位置づけられる。 付近における船舶の座礁・沈没記録はみられないが、 陸域に同時期の遺跡が確認できないため、当該遺物は海難事故に伴うものと考えられる。
今回の調査では合計94点の遺物 (中国産青磁67・白磁12・青白磁1・褐釉陶器6、 タイ産褐釉陶器2、沖縄産無釉陶器1、 産地不明陶器1、 瓦質製品1、 陶製浮1、 石器2) を回収した (沖縄県埋文2006・2010)。〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター2017 p78〕
沖縄県立埋蔵文化財センター(編) 2010『沿岸地域遺跡分布調査概報(Ⅲ)~遺跡地図・概要編~』同第55集
素人的に興味を感じる点として──タイ産褐釉陶器2は、一つが「釉は片面に黒褐色。水磨の影響を受ける。胎土は劣化し、明赤褐色を帯びる。シーサッチャナライ窯。」。もう一つが「短頸四耳壺。釉は片面に黒褐色、水磨の影響を受ける。胎土は灰色。シーサッチャナライ窯。」。〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター2017 p303・304〕
シーサッチャナライはチェンマイ南100km、タイ最古の王都スコタイ(→GM.)にあった窯です。
後掲沖縄県教委2017報告のリスト中、上記3点以外のタイ産磁器出土例は下記2点のみ。つまり、
・名蔵シタダル遺跡(石垣島)(タイ産褐釉陶器・壺・シーサッチャナライ窯)1点
・今泊海岸陶磁器散布地(タイ産褐釉陶器・壺・メナムノイ窯※※)2点
※※アユタヤ北方70km
久米島の他の水中遺跡では、漁業関係者からの通報で発見された沈没船の眠る真謝沖海底遺跡があります。ただし、大型木材に船釘が並ぶように打ち込まれた部分が認められた以外に、現時点では周辺から他の遺物等が未発見、関連記録類も見つからず、船体の年代や性格は判然としない
南西諸島水中文化遺産研究会・鹿児島大学法文学部物質文化論研究室(編) 2013『水中文化遺産データベース作成と水中考古学の推進 海の文化遺産総合調査報告書-南西諸島編-』特定非営利活動法人アジア水中考古学研究所
ただ、原所在は定かでないけれど、久米島博物館には碇石があります。これだけでも、久米島が中国と民間交易していたことはほぼ間違いないと言えそうです。
宇江城城跡内での伐採作業中に発見されたものである。 石材は凝灰質砂岩で、 法量は全長213㎝・碇軸着装部 (幅×深)19×1.0㎝・固定溝(幅×深)4×1.0㎝・中央部 (幅×厚) 27×15.5㎝・先端部 (幅×厚) 20.5×8.5㎝を測り、 重量は約170㎏を量る。 形態は角柱対称型に分類される (當眞1996)。
※※試みに、重量約170㎏から後掲算式(→参照)により排水量を推計すると
D=G:170/27✕√G
D:82.09362962=170/27✕13.0384
排水量80t超、今日の全長30m程度の中型船に相当します。

瀬底二仲♢NA-point2◇瀬底島沖海底遺跡
やれやれ、ようやく本部半島に話を戻せますけど──前掲球陽(→前掲角川)「唐泊」は、瀬底唐泊遺跡(陸上)の位置に加え、その沖からは過去に中国産青磁や寛永通宝の詰まった甕などが引き揚げられており
、狭義には、瀬底島側の瀬底大橋南500m余の沖合地点を指した地名だった蓋然性が高い。
瀬底海底に眠っていた長州の硯
沖縄県教委は2017報告調査で以下計14点の遺物を新たに回収しています。
・中国産白磁 2
・中国産褐釉陶器5
・沖縄産施釉陶器1
・無釉陶器 3
・陶質土器 1
・石製品 2
最後の石製品は、以下2点。何れも完形でした。
①硯:口径(長軸)9.07cm 石器高(短軸)4.16cm 底径(厚さ)1.08cm 所見「石材:赤色頁岩。使用痕跡弱。硯背に『赤間関』銘。近世後期の赤間硯。重量0.08㎏。」〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター2017 p307〕
「赤間硯」は宇部市・下関市周辺の伝統工芸品の硯。原料・
海底に眠っていた碇石
もう一つは碇石。一石型碇石と推定される形状のもので、海底から引き上げた例は少なくとも沖縄県下では初。
②碇石:口径(長軸)75.6cm 所見「角柱定形型。素材:安山岩。碇軸着装部(幅×深)11.5×1.2㎝。中央部(幅×厚)17.5×14㎝、左側先端部(幅×厚)16.4×12.5㎝、右側先端部(幅×厚)15.3×14.4㎝、重量29㎏。」
一石式碇石は元代以前の形式と考えられています(前掲内部リンク先参照)。ただ沖縄県教委は、中国の碇石を模倣して沖縄で製作したものと推測します〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター2017 p307〕。同じく碇石重量から推計(同リンク先参照※)すると排水量6t、今日の交通船やレジャーボートのクラスの小型船の碇です。
D:排水量 (t)
D=G/27✕√G
D=G:29/27✕√G
D:5.7841=29/27✕5.3852
多分、この規模の舟は当時──一石型碇石との前提から13C以前と仮定すると、沖縄海域には相当一般的に稼働したものでしょう。それが中国発祥の一石型の技術を有したなら、海域に普遍化した技術だったということです。男性の一人力でも持ち上がるこの重さなら、多くが家の石垣にでもされたでしょうから、海底に沈んだからこそ現代人が見れるのだと考えられます。
船の来航は確認できるんですけど、これだけでは何とも色を読みかねます。
さて最後に今泊です。ここの状況はもう、瀬底二仲どころではありません。謎の塊と言ってもいい。
今泊♢NA-point3◇今泊海岸陶磁器散布地
本遺跡は地元の文化財パトロール員から寄せられた情報に基づくもので、 シバンティナ浜・シルバマ・クビリ浜の3ヶ所を中心に遺物が散布している (宮城・片桐ほか2004、 今帰仁村教委2007)。〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター2017 p153〕
今帰仁村教育委員会(編) 2007『今帰仁城跡周辺遺跡Ⅲ』同第24集
シバンティナ浜・シルバマ・クビリ浜。この日(次々章)、それから後も何度も通った今泊集落の
ここに停泊する大中型船舶があるはずがありません。なのになぜ海難事故が起こるのでしょう?
中国磁器11:タイ5:沖縄3:日本1
今回の調査でも、合計24点の遺物(
中国産青磁5
・褐釉陶器6、
タイ産褐釉陶器5、
沖縄産施釉陶器3・
無釉陶器2、
日本産陶器1、
産地不明陶器1、
土器1) を回収した (沖縄県埋文2010)。(続)〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター2017 p153〕※改行、フォントのみ引用者が加工
単純に点数で見ると、中国2:タイ1です。そんな朝貢があるはずがない。この数に対し、後掲のように薩摩侵攻後の時代を含むにも関わらず日本の数は極めて少ない。何か、根本的に他地と異なるトレンドが伺えます。
生産地は中北部のシーサッチャナライ窯や中部のメナムノイ窯が著名ですが、希少な例としては中部のバンバンプーン窯産や東北部のブリラム窯産の製品もあります。これらは器面に装飾が少なく、サイズが数種類に定型化されていることから、製品自体が商品として扱われたのではなく、何らかの物産を収めた容器、いわゆるコンテナとして副次的に輸入されたと考えられます。これらの蓋ふたとして使用された可能性が高いのが土器の蓋で、遺跡出土例では蓋に対応する身(壺形土器)が非常に少ないことや、京の内出土品では褐釉陶器76個体・土器蓋62個体と各々の個体数が近いことからも類推されます。
ではコンテナの内容が気になるところですが、ほとんどが酒であったと考えられています。当時の琉球はタイとの交易を頻繁に行っていましたが、その際に「香花酒 」と呼ばれる酒が輸出されたことが確認されており、琉球でこの酒を飲んだと思われる冊封使の記録も残っています。琉球が何度もタイに赴いたのは胡椒と蘇木を入手するためとされていますが、「香花酒」の存在も理由の一つだったのではないでしょうか。
ちなみに、遺跡からは上記のいわゆるコンテナとは違う製品も出土しますが量的に少なく、琉球はタイに商品としての陶磁器を求めていなかったといえるかもしれません。〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター2012〕
今泊沖ポイントは何だったのか?
(続)これらの資料は、 15世紀~18・19世紀と年代的に幅がみられる。 当該地域は陸側に同時期の遺跡が確認されていないため、 本海域がグスク時代~近世の間に複数回船舶の停泊地として利用されていたと想定される。しかし本遺跡は、 1649 (尚質2・慶安2) 年 作成の 『正保国絵図』 (琉球国絵図史料集編集委員会ほか1992)に記載されている場所ではないことから、 恒常的な港ではなく海難事故等に伴う緊急避難地のような形で利用された可能性が高い。〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター2017 p153〕
要するに県埋文も「?」の状況です。「緊急避難地」と言っても東西に島影もない遠浅の海岸で、風雨や船体不全に何の利があったでしょう?
地理屋として思い付くのは──西から八重岳を目指して沖縄に着く船ならば、この地点に一旦着いた後、東西に方向転換したのでは?という可能性くらいです。
もう一つ幼稚ながら思いつくのは、これらの水中散乱遺物は他地のように船ごと沈んだものではなくて、今泊2〜3km沖合の大中船停泊地からサバニなど小規模舟で運んでいる途中に「うっかり落とした」ものではないか、ということです。
その想定でも、遺跡の状況からも、今泊沖の遺跡分布は広く浅い可能性があります。従って今後も追加で何らかの発見が期待され、それの蓄積を待たないと実証的な物言いはとてもできない段階だと思います。
■復習:今帰仁ムラは誰も知らない
今帰仁城下にムラがあり、神威の高い場所と見なされたことだけは確実なんですけど、その実態となるとまるで分かりません。分からない諸点のみ列挙してみます。
mysterium1:阿応理屋恵 あおりやえ
第二尚氏の6代国王・尚永(しょうえい)王(1559(嘉靖38)年-1589(万暦16)年)11月25日))の幼名が、阿応理屋恵(あおりやえ)王子です。だから人名ではあれ、女性名特有の語感ではないと思われます。
この日、今帰仁城下に居宅跡を見た阿応理屋恵というのは、今帰仁最高のノロ職位です。ただし17C半ばには首里に移され、これの代理職となったのが今帰仁ノロやとものノロだという。もちろん6代尚永の経歴が北山に交差する形跡はありません。
この五文字は一体何なんでしょうか?
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E6%B0%B8%E7%8E%8B
*北山監守と今帰仁阿応理屋恵
URL:〘▶現在リンク切〙https://yannaki.jp/kansyu.html
阿応理屋恵が首里に移った理由を薩摩侵攻に帰する記述もあるけれど、首里こそ薩摩支配の中心だったのだし、「避難」したとは考えにくい。首里でも三十三君(上級ノロ職)の一つとされているので、迫害された訳ではなく、何らかの意味で聞得大君の下位序列に織り込まれた、と当面仮定しておきます。
なお、今帰仁ムラの阿応理屋恵ノロ殿内火の神の祠の向く方向は、薩摩あるいは伊平屋・伊是名島の方角である、という言説もあります〔後掲gusuku365〕。
阿応理屋恵職を世襲したのは、首里王家の女性だったという。かつ、職そのものも、1731年に一度廃止。これが1787年には復活して大正頃まで継承されています。この日に見たような形で拝されている以上、その場所・居所もいつの頃からか今帰仁に戻ってきたものらしい。
また、阿応理屋恵が首里に移った際に火之神だけが分祀されて残った、という記述も見つかります。道標等の文字「阿応理屋恵ノロ殿内火之神の祠」は、この説に立った「殿内にあった火之神だけが残った祠」という意味の文化財呼称だと考えられます。多分、拝む者の感覚からするとあまりそれは関係なくて、ここは阿応理屋恵ノロ殿内であり続けたのではないかと感じています。
mysterium2:今帰仁ムラの四祠
では、この日に参らせていただいた三つの祠はどういう関係にあったのでしょう?
後掲高橋によると、阿応理屋恵按司火神から東方約70mの所に「今帰仁ノロ火の神」祠があるとある。1間半※四方の祠での位置は、の西方
今帰仁城跡の正門前から100mほど下った所に幅2mばかりの旧道がある。この旧道を50mほど北へ行った所の東側に雑木林があり、その中の平地に1間半四方の赤瓦葺きの祠がある。これが今帰仁ノロ火の神の殿で、中には今帰仁ノロ殿内の火の神がまつられている。入口の横には幅1.5m, 長さ2mほどの自然石が横たわっていて、この石の上に本部太原が仰向けに寝たためにくぼんだという伝説もある。また入口から20mほど北の方の道の真中には石畳のようになっている自然石があって、その石のくぼみは、北山王の足跡や北山王の馬の足跡という伝承もされている。〔後掲高橋〕
一方、供のかねーノロ火の神(供ノカネノイロ殿内、トモノハーニー火神とも)は──
今帰仁ノロ火の神の殿の側の小道を北に約50m下った所の参道(中道)と旧道(北山時代の石畳道)の合流点の東、雑木林中の平地にある。以前は木造草葺の建物であったが、近年にコンクリートで三方の壁が造られ、その上が寄棟形式のセメント瓦の屋根によって覆われている。間口は1間半で南向きになっている。内部には代々の供のかねーノロ火の神がまつられている。〔後掲高橋〕
あと、森の外の新しい建物なのでスルーした記憶があるけれど古字利ノ火神(古字利ノロの火の神)があります。
今帰仁城跡と今帰仁ノロ火の神の中間の雑木林の中の平地に赤瓦葺きで軒の低い南向きの殿がある。間口は1間で三方を漆喰で塗り固められており、代々の古宇利ノロの火の神がまつられている。〔後掲高橋〕
これを前掲沖縄県今帰仁村教委の拡大図で見ると、次の位置関係になります。
mysterium3:今帰仁ムラとシニグンニ
以上四祠は概ね今帰仁ムラの範囲の外縁、東南北の縁と、中央(阿応理屋恵火之神)を成しています。なお、上記今帰仁村教委図では、今帰仁ムラ北側に接続して親泊ムラがあり、さらに今帰仁城の反対側・南側には志慶真ムラという別の集落があった旨が記されます。前掲全体図に図示されるように、これら三つのムラは何れも他地へ移動させられているらしい。
もう一点。今帰仁ムラから親泊ムラへ北に入った付近に、シニグンニと伝わる場所があるという。
今帰仁城跡北西の標高約75m余の丘陵上に築かれた石積遺構で、石灰岩の岩盤上に造られている。北東のミームングスクや西のターラグスク、チンマーサなどと関連すると思われる遺構が見渡せる高所に位置している。平面形二重の方形で石段があり、南側には円形状の石塁遺構も見られる。城跡周辺の遺構の中では最も形の整った遺構であるが、香炉や拝所としての形跡は見られないとする報告が多い。〔後掲高橋〕
つまり明らかに人工の石造建築だけれど、城塞とも拝所とも判然としない謎の場所です。次章でたまたま撮った、模型上のシニグンニから今帰仁城方向の画像を掲げて、何のまとまりも作れないまま文章を終えます。
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