FASE79-2@deflag.utinaR312withCoV-2_Omicron#今帰仁\ぢぢーうゎーぐゎー

北山王者 門ヲ守護ス

今帰仁城〜今泊集落全体イメージ(今帰仁村)
*今帰仁城跡・今帰仁城跡周辺遺跡/今帰仁村
URL:https://www.nakijin.jp/pagtop/rekishi/nakijinjo/3/892.html
*世界遺産・今帰仁城跡(今帰仁城跡想像図)/今帰仁村
URL:https://www.nakijin.jp/pagtop/kakuka/somuka/3/3/5/306.html

今帰仁城イメージ(今帰仁村)

つぼつ姿を現し始めた観光客に混ざりまして、そしてようやっと、世界遺産・今帰仁城への登りについたのは1021。
今帰仁村地籍標識

りあえずは……ここが入口なのかな?
……と雑にくぐった石門は平郎門。琉球国由来記には「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」の記述があるという〔後掲世界遺産 今帰仁城跡〕。

七五三階段は沖縄じゃねーよ

平郎門から城内へ。実はこの道は戦後の石段

027、大隅郭(ウーシミ)。岩がゴロゴロしてます。「最も高い石垣が築かれた堅牢な城郭」の跡という〔後掲世界遺産 今帰仁城跡〕。
 本格的な発掘調査が行われてない区画、と案内板にある。つまり──整備前の状態でしょう。以前の勝連城と同じ状態です。
1027大隅郭。抜け穴伝説もある未解明エリア

段手前で右手、旧道を進むことにする。1029。
 こちらが本来の登城道だという※。大きな岩盤の谷間を利用し、防衛機能上から幅は狭く急で曲がりくねったのぼり道にしているという〔後掲世界遺産 今帰仁城跡〕。つまり虎口です。

※今帰仁城の復元は、昭和初期の日本神道全盛期に復元の正確性より「今帰仁城の神社化」を企図して行われた部分があるらしい。平郎門からの直線階段道は七五三形式、登る時に疲れ難いと言われる〔後掲沖縄の城〕けれど、これはヤマトの神社でよく言われる観光説明です。

旧道は下りに通りゃ好い感じ

カーザフの「虎口」

ーザフ、と案内板。「湧泉」のカーと「迫(谷間)」のザフという。岩肌の露頭が生々しい。

岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁を誇ったものと想像することができます。〔案内板〕

旧道の石畳……のつもりか、それとも障害物か?

道、かなりキツい!
 当山の石畳道の風情もなく、ただ荒い石畳。破損してるのか、防御上こういうものだったのか判別出来ませんけど……とりあえずシンドい!

▶〔内部リンク→FASE61-3@Re.当山の石畳道
旧道脇の城壁跡

伊是名島遥かにソイツギノイシズ

道脇には明らかな石垣。いや、これはもう城壁なのか?
 1039、階段上。ふーっふーっ。
 ソイツギ(城内下之御嶽)という場所に出ました。境界神でしょうか。

城内下之御嶽

帰仁城内には御嶽のイベ(最も神聖な場所)が2つあります。大庭の北西にあるソイツギは、『琉球国由来記』(1713年)に「城内下之嶽」、神名「ソイツギノイシズ御イベ」と記され、旧暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロが五穀豊穣等を祈願します。御内原にあるテンチジアマチジ(「城内上之御嶽」)や神ハサギ跡と共に祭祀場として拝まれます。〔案内板〕

下之御嶽の海側の焼香壇?

之御嶽は海に向いて拝む方向です。北──伊是名島……でしょうか?
 祭壇向こう、海側に石積みの窪みがあり、ここで火を焚いたように見えます。
下之御嶽の向く海の方向

を海上に凝らせば、伊是名島がうっすらと姿を拝めます。
 東には古宇利島もギリギリ見えてる。
海の向こうに伊是名島

今帰仁城立体構造イメージ

……この辺りから上の呼称が様々あって分かりにくいので、下図にまとめてみました。
 下之御嶽(ソイツギ)がある郭が、⑥大庭(ウーミャ)と呼ばれる面らしい。

今帰仁城最上部の呼称〔後掲世界遺産今帰仁城〕

大庭の面から⑥<⑦<⑧の順に高くなってます。  ⑦が次の城内上の御嶽(テンチジアマチジ)の場所※=御内原(ウーチバル)、⑧が主郭(本丸)。  まだ分かりにくい?──前掲絵図が高低差を理解しやすいので再掲します。
※後掲今帰仁村(/今帰仁城跡・御内原、大庭)に⑦「北殿跡の北側、一段高いところを御内原(うーちばる)と呼んでいます」とあるけれど、後で触れるように山頂部を削って⑧主郭にした(後掲沖縄県今帰仁村教委1991にも同表記有)以上、後者が高所だった蓋然性が高いと考えられます。なお、遺跡報告でも「主郭は域内でも最も高いところに位置し」〔後掲沖縄県今帰仁村教委,p5〕ているとしています。
※※下図では南(図上の上)の志慶真ムラが主郭よりさらに高所にあるように見えるけれど、あくまで図示の都合上で、実際は⑨から志慶真ムラ面にかけては下り坂面。
(再掲)今帰仁城イメージ(今帰仁村)

目の眩むほど深い谷の上に

いうところで先に進みます。1055。
 テンチジアマチジ(城内上之御嶽)は、大庭の郭の東側でした。上図では⑥と⑦の面の境界、いや⑥⑦⑧の外郭の交差点と言うべきかもしれません。
 拝む方向は東北、辺戸岬方向。つまりイビは南西に向いてます。

上之御嶽

縄の古謡「おもろさうし」では「今帰仁のカナヒヤブ」と謡われ、今帰仁グスクの守護神として崇められる最も神聖な拝所です。

 この裏手の谷が……目の眩むほど深い。石積みもこの地形を頼りにしてそうです。最高所でなくとも、元の山影下から谷に突出していたであろうこの地形は、沖縄的な感覚なら聖地とされる地勢に思えます。
 後掲今帰仁村(/今帰仁城跡・御内原、大庭)にはこの面の南側に南殿、北の一段高くなったところに北殿があったとあります。

火の神脇の乾隆年代碑

郭へ上がる。この面の最奥・今帰仁里主所に火の神※。隣に「監守来歴碑記」※※が立つ。年号は乾隆十四年※※※巳巳となっている。ただ内容は北山監守のご苦労を労う内容ばかりで、あまり独立国・北山の想像は膨らみません。

※後掲今帰仁村(/今帰仁城跡・主郭、火神の祠と山北今帰仁城監守来歴碑記)は「今帰仁城監守が首里へ引き揚げた1665年頃に設置」され、かつ「現在の火神の祠は戦後に改築したものを、整備事業に伴い移築し現在の位置にあ」るとしており、現在位置は17C設置時点と異なっている模様。
※※wiki/山北今帰仁城監守来歴碑記 に全文及び和訳あり
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8C%97%E4%BB%8A%E5%B8%B0%E4%BB%81%E5%9F%8E%E7%9B%A3%E5%AE%88%E6%9D%A5%E6%AD%B4%E7%A2%91%E8%A8%98
※※※乾隆14年=尚敬王37年=1749年

発見された今帰仁主郭

第四次調査(1982.10)前の主郭風景(南から北方向)〔後掲今帰仁村教委1991〕

郭付近は早くとも1980年代以降に「発掘」されたものらしい。──斎場御嶽に似ています。もちろん聖地としての尊厳は、これも斎場御嶽と同様、文化財・観光的に荒れているから減じていたものではないでしょう。

▶〔内部リンク→m19Im第二十八波mm4 (ニライF69)斎場御嶽の入場料

 ただ、地形的にここが何処なのか、最近まで判然としなかったし、判然とさせるべきではない土地だったのでしょう。
 右奥の郭⑨への門は、ついこの間の令和令4(2022)年3月まで、工事中で行けなかったと記されます。

今帰仁城跡付近航空写真。海からの距離以上に、ここは深い山中です。

内板によると、13C-14C当初のこの山頂部は──

岩山で平坦部は在りませんでした。そこで先ず、山頂部の岩盤を削り平らにし、次に東西に傾斜した斜面に土留めの石積を築き、その内側に土を入れ版築敷地を造成しました。〔案内板〕

 後掲沖縄県今帰仁村教委及びこの後の歴史文化センターでの展示からも、この点は遺跡層序の精緻な分析で結論づけられています。かなりの労力と技術が投入されて、やっと形成される平地です。

明かされた最上部の版築

九層の版築

築」と案内板にあるのは、盛土を突き固める技術、具体的には文字通り板木の版で囲み込んだ土を突き固める手法のことだという。

※版を使用しない突き固めは、土木考古学上、単に締固めと呼ばれる。土木考古学の最新知見では、両者の区別がつくらしい。

もとは古生代石灰岩でできた岩山の頂上部で、東西に傾斜した地形になっており、そのままでは建物が建つような平面ではありませんでした。(略)本丸の発掘調査で9枚の層が確認され、第8層(13世紀末頃)で丁寧な版築造成が見られます。第8層の厚さは20cmから120cmあり、この層は更に1〜5cmの黄褐色や赤褐色の土層からなり、縞模様になっています。縞模様の層の数を数えると、土を約30回も敷きならし突き固めていることがわかります。〔案内板〕

(後掲)グスク交流センター展示の実写版

991年(整備前)の今帰仁教委報告書原文で、より詳細を確認しておきます。
第1図 調査地区位置図〔後掲沖縄県今帰仁村教委,p5〕
(上)第3図 南北トレンチ土層断面図 (下)第5図 南北同(いずれも一部)〔後掲沖縄県今帰仁村教委,p17〕

留石積自体が人工物ですけど、おそらくこの層が最も元の地形の凹凸をなぞったものでしょう。
 ここに、どの地点にどの程度の版築を施したか、までが以下の通り明らかになっています。地点毎にかなり複雑な設計をして、平地を構成しているわけです。
第5図 東西トレンチ堀断面図(東側拡大)〔後掲沖縄県今帰仁村教委p17〕

第Ⅷ層──黄褐色、赤褐色等の土を突き固めた丁寧な版築層である。まずD-2周辺の原地形最頂部の岩盤をある程度削平し、次にD-1とD-3の傾斜面に土留めの石積みを築き、その内側で版築が行われている。1~ 5cm厚の版築層が、D-1側で28枚、D-3側では多い所で19枚確認できる。遺物がほとんど含まれていないことからして、土は城外から持ち込まれたと考えられる。【時期区分第1期】〔後掲沖縄県今帰仁村教委,p19〕

 元の地形は岩場だったのか、版築の土砂は城外、つまり山の下から運び上げているのです。余程の権力が強い意志を持って築いた平地、ということは明確に分かっています。

カラウカー

路につく。見落としてたカラウカーを確認。1122、帰路右手、大庭東南側。
 こんな高所に水が湧くのでしょうか?──と目を疑うけど確かに湧いてます。

女官たちが髪を洗ったり、水量で吉凶を占ったりした場所と伝えられ(略)祭祀行事である大折目(うぶういみ)の際には、今帰仁ノロ率いる神人たちが巡拝する場所となっていました。〔案内板〕

桜狂い咲き

が狂い咲きしてる?
 地形ゆえなのか霊気なのか、何かここの植物系は変でした。
1129ひまわりのように花弁を広げるアダン

模型上のムーミン谷

田中一村「アダンの海辺」

に地形模型があったので、しばし見入る。
 谷沿いのハンタ道の先にミームングスク(ムーミンではない)、間切の先にシニグンニという砦がさらにあったらしい。
ミームングスクから東の谷沿い(模型上)
シニグンニから間切、城方向(模型上)

際、この城の北側山麓には前章で触れた今帰仁ムラ以外にも、まだまだ様々に不明な場所があるみたいです。つまり、まださらに新たな発見は期待されるのです。

 今帰仁城跡の北側約50メートルの所に、四角く積み上げられた石積みの遺構があります。三段構造になっていて、下の段は一辺が約18〜19メートルの大きさです。南に今帰仁城内の志慶真門郭が、北に志慶真川(ニークン川)の河口が見渡せる良好な場所に立地しているため、今帰仁城の出城ではないかと考えられています。

* 今帰仁村教育委員会「今帰仁村の文化財 今帰仁村文化財ハンドブックvol.2」第2刷,2017

ミやきせんまきりの……

場券の半券を使えるらしいので、ついグスク交流センター(≒博物館)へ。
──こういうとこであまり博物館に寄らない体質ですけど……ここは永く後遺症になるイメージを、幾つも喰らわされました。
 今帰仁の古名を記した史料が様々あり、目を引きました。

海東諸国紀(琉球国之図)1471年 「伊麻奇時利」
オモロ 「みやきせん」
玉御殿の碑1501年 「ミやきせん」
琉球神道記1605年 「今鬼神」
喜安日記1609年 「今帰仁」

海東諸国紀に記される今帰仁(≈伊麻奇時利?)

図の海東諸国紀の地図には──

今帰仁城を「伊麻奇時利(いまきじり)城」、運天港を「雲見泊 要津」、そして古宇利島のことを「郡島 有人居」と記してある。〔案内板〕

辞令上の「ミやきせん」

里王府発給の辞令書を何点か展示。
 1604年、1607年、1612年の3点とも「しょりの御ミ事 ミやきせんまきりの」が書き出しになってます。

出口にさらりと今帰仁文化圏

内部リンク▶FASE79-3@今帰仁から\ぢぢーうゎーぐゎー/■レポ:薩摩の侵攻した「琉球」とはどこか?
島津軍の侵攻経路(本島到達まで)〔後掲上里〕

609年の薩摩の侵攻スケジュールが図示してありました。これに疑問を持てたのも、この時の次のメモが発端になりました。

3/4 山川
(1W)
3/10 奄美大島
   (2W)
3/25 運天港
3/27 今帰仁城
3/29 大湾
4/5 首里

 あと、運天のオモロについてもここで初めて見かけました。
「うむてん つけて こみなと つけて」
 なお、運天の名は、1615年成立のウィリアム・アダムス(三浦按針)「琉球諸島航海日誌」に「vnten」という記述があるらしい。
 で。やっと出口が近づいたところに、次の図が掲げてありました。このイメージこそ、永く永く後遺症として残ったのでした。
 沖縄本島から海を越えて広がる「今帰仁文化圏」──

出口にさらりと掲げてあった「今帰仁文化圏」図

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