
目録
御嶽でピースで記念写真
観光地になったんだ…。
1512,斎場御嶽に着いて仰天しました。にゅ……入場券300円??有料ガイドが1日10回転以上??
世界遺産になっちゃうと,あの静寂の御嶽がこんなことになっちゃうのね……。思わず帰ろうかと思ったけれど──でも今回の行程,ここだけは見ておきたい!
ここ何回かの御嶽巡りで初めて入場料を払います。
〔日本名〕沖縄県南城市知念久手堅
〔沖縄名〕せいふぁーうたき
〔米軍名〕-
よしよし,払った払った。日本の寺社は当たり前な顔で拝観料取るけれど,琉球神道で他にこんなとこあるんでしょうか※?……という場所に,他ならぬ最高聖地がなっちゃった。それは個人的にかなり衝撃だったのですけど──
その先にさらにビデオ鑑賞ルームで「学習」してからの入場となります。
ワシが思う位だから,うちなんちゅは感じないもんだろか?御嶽って絶対,そーゆーとこじゃないぞ?!
斎場御嶽の短い砲戦
入るだけでとっても疲れてしまったので……1530,観光客群れる本道でなく元々の海側参道を行ってみる。
この道は初めてです。整備はされてるけど人はよほど少ない。
砲台跡?ええっ?ここに?
案内板に曰く──「中城湾臨時要塞の一翼を担うもので,重砲兵第7連隊第2中隊第2小隊(通称吉岡部隊)が構築」とある。──帰路,アメリカ人が写真撮ってたけど。
斎場御嶽から久高を狙う大砲
1536,目的地ウローカー。
御嶽に入る時の禊場,と伝わる場所です。
今はほとんど水が枯れてます。黒い蜥蜴が泳ぐ小さな水溜まり。
水神と碑。
この先は藪道。整備の跡なし。実際にも途切れてる。
──とこの時は踏み入るのを止めたんですけど……実際に進んだ人もいる。見たい方はこちら〔→後掲沖縄発 役に立たない写真集〕。
ただ個人的には……拝みの前の禊場だったなら,ここから直上の斎場御嶽に入れるはず,と期待したのです。なぜこの道は藪に埋もれているのでしょう?
▲1540道の尽きる地点
「亀甲墓。正面に久高島。明らかに正面向きに構築されてる。」──とメモしてるけど,写真と他の方の記述を見る限り……ウローカー砲台の西側の奴だろう?
けれどこの位置は,斎場御嶽と同じく久高島を眺める位置にあるのもまた確かなのです。旧日本軍の砲台がなぜ久高島を向いているのでしょう?
迎賓館とおみくじ売り場
ウローカから三庫理が抜けれなかったので,渋々本道で観光客に紛れる。
1549大庫理(うふぐーい)⑧。「神女たちが聞得大君を祝福」する場所。
ここが佐敷勢力の拝所と想定すると,聞得大君の帰還を迎える場所だけれど,ものものしい空気とこの位置は……聞得大君の霊的なボディチェックの場所に思えます。
1551,御嶽の艦砲穴。先のウローカ砲台は,三月末の米軍陽動艦隊を砲撃した途端に反撃を受け破壊されたというから,そのとばっちりでしょうか。
三叉路。「三角岩」とは逆の左側へ進んでみる。
▲寄満の祭壇
寄満(ゆいんち),1553。
案内板には──「国王のために食事を作る厨房」「第二次世界大戦前まで,その年の吉兆を占う馬の形をした石(うまぐわーいし)が置かれていました。」とある。
いわば迎賓館とおみくじ売り──右手どん詰まりの何か奇妙な聖地です。
右手,メジャールートに帰る。
1557,岩場,奥に壷。「シキヨダユルアマガヌビー」,参道側には「アマダユルアシカヌビー」と表示。
「お正月の若水とりの儀式にも使われる霊水」と案内板。前者が聞得大君用の,後者が首里城の王子(中城御殿)用の水撫で(ウビナディー)場所だったと伝わる〔後掲らしいね南城市〕。聞得大君のものが上位にあるらしい。また,国王のものがないのも気にかかります。
そして16時ジャスト,久方ぶりに三庫理(サングーイ∶「三角岩」)に着く。たまたま観光客はやや少ない時間でした。
▲1604三庫理(サングーイ∶「三角岩」)越しに見る観光客
てどこん てぃりくん
斎場嶽神に 伏し拝で祈る コロナ魔物や 除きて給り
(せーふぁたきがみに ふしうがでぃいぬる ころなまじむんや ぬきてぃたぼり)〔後掲南城市役所,令和3年度南城市琉歌募集事業受賞作品【大賞】比嘉道子さん テーマ「垣花樋川」〕
▲三庫理奥・久高島遥拝所から久高島
「三庫理」(さんぐーいー)は,お馴染みの三角形の空間を形成する岩塊の呼称。入口から見て右,三角形通路の西側に垂直に切り立つ石灰岩。その岩壁北側直下に香炉10。岩壁の頂は「ちょうのはな」(頂の鼻)と称す〔後掲沖縄文化・観光ポータルサイト〕。
従って,三角通路にも俗に言う「久高島遥拝所」(上記写真)にも名は,ない。
世世界遺産の申請書にいくら色々書かれていても,ここについて分かってることは,本当にない。
何も分からない場所からの景色は,美しい。
1623,退去。
GM.(経路∶斎場御嶽-佐敷城跡)
▲「手登根」標識
手登根(てどこん),1634。──琉球王国時代に記録のある地名。琉球音は「てぃりくん」。限りなく中国語的な音です。
それはともかく日が暮れて来ました。もう一箇所,行けるかなあ。
1641。佐敷グスク(上(ウイ)グスク)。道の屈曲点,やはりどうも気になる。バイクを止める。
沖縄のグスクとしては不思議過ぎ
▲1645佐敷グスクの鳥居
停車して初めて気付きました。空気は確かに濃厚なんだけど,その濃さがどうも……日本の古い港街の門前町のそれなのです。
案内板。「三山を統一した尚巴志とその父尚思紹の居城跡」「沖縄各地のグスクにみられるような石垣はまだ発見されていません。」
ここは何か異質です。沖縄ではない何かが混入している臭いがある。
なのに石垣は全くない。
沖縄の城(ぐすく)としては不思議過ぎる。一旦最奥まで進んでみましょう。
▲1649奥拝殿の「御神体」
最奥の拝殿には「御先祖様 佐敷世之主 国之主」と五七五で書かれた丸石。焼香跡と賽銭。榊が供えてある。
日本風だけど僅かにズラしてる。だって日本のどの神社が,本殿の外側に御神体を放置してるでしょうか?
ステ & 若 二神
▲1652最奥のイビ?
更に拝殿奥に,微妙にもう少し高い,沖縄的な何もない場所がありました。ここが,おそらく本来の,上グスク之嶽のようです。
枯葉の野にコンクリートブロック3つ。祭壇の逆台形の石には三菱みたいな,家紋のような彫込。御神体がどれなのか,分からない。
「琉球国由来記」には,祭神としてステツカサノ御イ○若ツカサノ御イベの二神が記されています。〔後掲案内板〕
「ツカサノ御イベ」が対になり,かつ後者が「若」ということは,他方の「ステ」が尚思紹で,その父子=第一尚氏初代と二代,ということでしょうか?
72名戦没 うち大東亜25 防衛隊33
▲カマド跡
平場(階段下)まで戻る。拝所としてはここの方が肝心に思えました。
階段脇に「カマド跡」。「火の神を祭ったところと考えられています。」と案内板。
慰霊塔。72名の戦没者名は区分されており──
支那事変2
大東亜戦25
防衛隊33
勤皇隊6
義勇隊3
篤志看護婦2
軍属1
とある。おそらく時系列,沖縄らしい数字の並び。大東亜と防衛・勤皇隊を分けているのにも,分からないけど意味を込めてそうです。
菱形にN◯
▲1654内原の殿
階段下広場の隅っこに「内原の殿」※という看板。シンプルだけどここにも家紋があります。菱形,本殿のと同じに見えます。
※ここでは「カマド跡」として挙げた方形建物を「内原の殿」の主要建物と紹介するサイトもあり,どちらが真か,あるいは総称なのかはよく分かりません。
▲1658家紋
家紋は,琉球にはありません。
薩摩藩の侵略以降,琉球で家紋が流行りかけたけれど,それでは中国に琉球占領がバレるので薩摩は使用を禁じたという。ただし,上記「菱形にN◯」家紋は,尚氏が使った家紋(円内に三つ鎌)でもないようです〔後掲宮里〕。
様々な人々が流れ着く限られた場所
▲1700もう一つの拝所
佐敷ヌル殿内だろうか?この隣,一番外れにももう一柱あった祠の写真を撮ってます。
竈のようにも見える。ただ,真ん中に柱が立っているようにも見える。
何か互いに異質なものが幾重にも塗り重ねられた場所のようです。尚氏初代の群像というのは,そのうちの一番新しい表象のように思えます。
▲1706帰路,佐敷集落
豆殿(→対馬編)や,日本で言えば西九州のように,潮の目からして様々な人々が流れ着く限られた場所,というのがあるのでしょうか?
この夜はそのままぐったりと寝入ってます。知念半島は,濃過ぎました。いやその時は,何が濃いのかも分からないまま,幸せに疲れ果てたのでした。
■レポ:斎場嶽と佐敷城とが出会う海
埋蔵文化財という面では,斎場御嶽は意外に突出していない。
おそらくそもそも掘れないのだと予想するけれど,周辺からの出土情報もヒットはありません。だから少なくともここを中心に港町が賑わっていた,という光景は実証されていません。
三庫理周辺からの出土したもの
ほぼ唯一,斎場御嶽最奥にして秘所,三庫理からは,金製勾玉や中国青磁器・銭貨などが出土しています。
発掘調査では三庫理内から、弥生時代の土器や沖縄在来の土器などが出土していることから、その歴史は貝塚時代までさかのぼると想定されています。
また、貝塚時代の出土品には意図的に焼かれたイノシシの骨が出土していることから、当初からこの場所が祭祀性を持っていたと考えられています(発掘場所はシキヨダユルアマガヌビー及びアマダユルアシカヌビー周辺。次章参照)。〔後掲沖縄文化・観光ポータルサイト〕
三庫理の三角岩からシキヨダユル・アマダユルの拝所全面に広がるウナー部全体の広範囲より弥生時代の土器が発見されている。弥生中期の土器とともに、沖縄在来の土器が検出されたが、石器や貝器という生活必需品が全く検出されていない点が特殊である。また、意図的に焼かれたイノシシの骨が多量に出土したことは、その場所の祭祀性を意味するものと考えられる。〔後掲南城市教委2018,第2章4貝塚時代〕
「中世~近世の信仰を考えるうえで極めて貴重な資料である。」〔同サイト〕として国指定重要文化財になっている,というのが通常の観光情報です。
これが文化遺産オンラインでは次のように詳述されます。
本件は、沖縄県斎場御嶽の三庫理から出土したものの一括である。
「イビヌメー」の上層からは金製・玉製・ガラス製の勾玉がそれぞれ三箇ずつ、中国南方産の青磁碗六箇、龍泉窯産の青磁皿三箇と、円形状に敷き詰めた状態の古銭五〇六枚が出土し、下層からは中国〓州窯産の盤一箇と古銭二八枚が出土した。またこの「イビヌメー」に近接する「チョウノハナ」からは金製の厭勝銭九枚が出土した。上層から出土した銭貨のうち、寛永通宝は一六九七年初鋳の新寛永通宝であるので、これら一括の埋納年代は一七世紀末を遡らない。〔後掲文化遺産オンライン〕
イビヌメーは「イビの前」,つまり露天に石の香炉や台石が置かれる場所のことです。三庫理の香炉のことでしょう。
これら出土品の国宝指定は2001年。斎場御嶽が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして世界遺産になったのが2000年12月。世界遺産の根拠をやにわに造ったようなタイミングです。
岸本新名護市長が七項目条件付きで辺野古基地移設受入を表明(12/27),翌日(12/28),「普天間飛行場の移設に係る政府方針」が閣議決定されたのが1999年12月〔各詳細は後掲名護市役所参照〕。沖縄県への飴としての性格を明瞭に持つ世界遺産登録に,先の文化庁のドライかつ,まどろっこしい表現での国宝指定がトップダウンで指示されたと考えるのが,状況証拠からは妥当でしょう。
2021年3月にチョウノハナから香炉を盗んだ沖縄市の男(自営業)は「『香炉を移すように』という声が聞こえた」と動機を語っています〔後掲沖縄タイムス+プラス〕。声はどこへ移せと言っていたのでしょうか。
ともかく,以上から推測できるのは,斎場御嶽の文化財的価値は実質それほど高くはない。世界遺産登録の根拠付けに文化庁を一種不貞腐らせたほど,この御嶽は,端的に言えば霊的権威のみ突出した場所だということです。
さて問題は,斎場御嶽のこの偏った性格が何に由来しているか,という点です。それにまず,地理的にアプローチしてみます。
寄満とナーワンダーと安座真嶽
斎場御嶽の謎として,なぜ三庫理側への道とは別に三叉路になっているのか,という点があります。
もう一方の道の最奥・寄満については,前掲のナーワンダーグスクへの参道という解釈のほか,交易場説があります。
4.寄満(ユインチ)
ユインチとは王府の言葉で「台所」を意味しますが、ここでの意味としては「寄せて満ちる」の文字のとおり、当時貿易で栄えた琉球王国に寄せられ、満ちた交易品の数々が集まった場所とされています。石段は5段あり、簡単に誰もが上れたところではないことが伺えます。〔後掲らしいね南城市〕
この「交易場説」は,あちこちに掲載されているけれど,名前からの解釈でしかないようです。意図的に同じ命名がなされている首里城の寄満は,王宮の厨房以外の意味は持たない〔後掲世界遺産首里城〕。
もしかすると台湾などに残る神前での重要契約※を行う場所だったのかもしれない,とも想像はしますけど,実証的推論の域ではないのでここではひとまず議論外に置きます。

斎場御嶽-佐敷間に陸上直接路はない
寄満への道は,西へ向く。首里はあり得まいけれど,そのまま佐敷まで伸びていないか?
斎場御嶽は北西の須久名山から伸びた尾根の突端にあります。──これも日本神話に頻出する少彦名命※と音を共有する興味深い地名です。
南西500mに久手堅の集落がある。対して真西の手登根(→本文参照)までは3km。その向こうが佐敷城(ad.佐敷(字)佐敷)です。この間は観光客が通常通らない道も含め,一般道は通じていない。ニライカナイ橋展望台という高所を通ってのみ通じているから,古くは陸路では山道以外は縦断できなかったのでしょう。
にも関わらず,上記遺跡地図にはナーワンダーグスク(グシク∶寄満西方の丘)ないし安座間城(→GM.)という場所が見えます。
ナーワンダーグスクは
「斎場御嶽の祭場としての古態」ともいう※。この観点からは,このグスクと寄満の一体性が強調されます。元あった神体の鏡を皇室が持ち帰った,という伝承もある。
後掲おもろそうしからは,斎場御嶽祭祀の初期にはナーワンダー(≒「なでるわ」をそれと比定)が重要視されたとする説もあります。
ナーワンダーが王権祭祀から消えたのは、1677年ごろだと思う。王府が国王の久高島行幸を廃止したのが、1673年だった。〔後掲追跡アマミキヨ/ナーワンダーグスク登頂(3)〕
1670年代に斎場御嶽の祭祀に何か構造的な変化があり,そこにナーワンダー城の祭礼上の「没落」があった可能性があります。
また,こうした不明瞭な性格で,文化財指定理由本文に特に記述がない(次章1955年天然記念物指定〔琉球政府〕参照)にも関わらず,ナーワンダーは常に文化財指定地域に含まれてきています。斎場御嶽についての表で語られない何かの意図の反映とも感じられます。
安座間城は北の安座間集落東手前に入口がある。標高120m。〔後掲グスクへの道標/安座真グスク〕
佐敷方面への軍事用山間道の存在を否定はしないけれど,斎場御嶽からすぐ西のこの場所にしてこれほど孤島状態ということは,陸路の利用はあまり想定すべきとは思えません。
(安座真)集落の南端からは隣村の久手堅へは丘陵への上り道になっている。明治、大正時代はこの道はまだ存在せず、知念方面には、集落の東側から丘陵頂上まで通じる山道が唯一の道だった。〔後掲Kazu Bike Journey〕※括弧書きは引用者
ここでもう一つ問題が浮かびます。斎場御嶽の位置は何なのか,という点です。その位置選定が海路の視点だったとすれば,古くから有人島だったとみられる久高島を最高聖地にすればいい。その途中の遙拝所として選定した,というには,斎場御嶽中の三庫理はあまりに片隅感があり,御嶽中核とは見なし難い。
最高聖地に対し失礼ながら──斎場御嶽はなぜこんな中途半端な位置にあるのでしょう?
海に面した朧なる痕跡群
斎場御嶽の交易場所説のほかには,同御嶽〜佐敷に残る海のくらしの痕跡は,けれども大変に少ない。
戦後,佐敷の新町(湾の西側∶津波古交差点(∶GM.)〜やしの木ロード付近)はバックナービルと呼ばれる米軍住宅区画があり,最もアメリカンに開発されたエリアでもある〔後掲HUB沖縄〕。古いものが残るはずもない地域なのです。
にもかかわらず,次のような事象があります。
フッチャー石∶船舶の係留柱?

佐敷地区の小さな林の中に突き刺さるように立っている石です。高さは190センチ、幅は30センチから40センチくらいあります。14世紀に手登根の役人が中国のから(ママ)持ち帰ったものと伝えられていますが、船着場で船をつなぎとめるのに使われた石であるとの説もあります。フッチャー石は、平成14年[ 西暦2002年]に佐敷町の有形文化財に指定されています。(現市指定史跡)〔後掲南城市役所/フッチャー石〕
仮にこの地点に船を係留したのならば,おおよそ現・国道331号線が原・海岸線ラインに当たることになります。
前掲「バックナービル」より南の佐敷〜知念村久手堅辺りの道は,復帰前の44号線で,軍用ではなく政府道でした〔後掲沖縄On the Road,「軍道、琉球政府道」,wiki/国道331号線〕。それ以上は分からないけれど,軍事車両規格に強引に合わせずやや柔軟に海岸線をなぞったと仮定すれば,フッチャー石のエリアだけでなく現・331号が概ね元の海岸とする推定もできます。
次の図でも,R331の海側と山側の集落ドットの密度や道配置が性格を違えるように見えます。すると,佐敷城はR331ラインが南東に大きく湾入した位置の直上にあったことになります。
即ち,この古・佐敷湾が第一尚氏勃興のパワーの源泉です。
安座真の「ヌー」祓い(ヌーバレー)
前掲安座真城の北岸,斎場御嶽の直近集落にして久高島への船の発着する安座真集落は,人口572人(2021(令和3)年4月現在)。イカ漁などの漁業港で,戦前に敷設された馬車軌道※の終点。〔後掲aha!安座真(その1・2),沖縄CLIP〕
安座真公民館※の敷地には池があり,戦後これを埋め立てて児童用の「あしびなー(遊び庭)」を造った〔後掲aha!/安座真(1)〕というから,遠浅で埋立が古くから進んだ土地だったのかもしれません。
なお,斎場御嶽への参拝者が上陸した船着き場がどこにあったかは不明。通説としては,安座真からサンサンビーチを跨いだ南と目されています。
斎場御嶽までは、往事は与那原あたりからの海路が多く、安座真の待垣泊に着いて、御門口を経由して御嶽へ登ったという。
遺構は確認されていないが、現在の安座真サンサンビーチの南側あたりであったと考えられている〔後掲南城市第2章5(2)表2-3表側「旧船着場(マチガキドゥマイ)」〕
この土地にヌーバレーという祭りが残る。旧盆ウークイ(お送り)の翌日に挙行されます。ウークイで帰りそびれた霊をグソー(あの世)へ送り返す行事とされ〔後掲沖縄CLIP〕,日にちも内容も非常に普度に類似します。由緒の定かでない鬼が満ちているので霊界へ祓おうとする儀式です。
「ヌーバレー」の趣旨として伝えられるのは
「ヌー」とはイノー(礁池)の欠け口のことで、ここから文物のみならず、さまざまな霊も入って来るので、それらの霊を再びヌーから払う(バレー)ので「ヌーバレー」と言う〔後掲沖縄CLIP〕
「ヌー」は水が流れる場所で、色んな霊が集まってしまうことから、悪い霊を追い祓う(バレー)という言葉が語源だと言われています。〔後掲aha!/安座真(2)〕
つまり,安座真エリアは出処の定かならぬ霊,中国でいう鬼が溜まってしまう土地と観念せられていたということになります。だから祓いの場,聖地が必要だった,と考えると,それはそのまま斎場御嶽に当てはまります。
安座真を村立て給う三兄弟
後掲「kazu」の接した伝承の一つによると,安座真集落の村立て(=村の開設)として「三兄弟」説が著名だといいます。
別の言い伝えでは、長男の玉城仁屋、 次男の具志堅大屋子、三男の仲里大屋子の三兄弟が垣花村から移住して村建てをしたともいわれており、集落ではこの三兄弟のことを三様 (ミサマ) と称し、村創設の神として祀っている。〔後掲Kazu Bike Journey〕
別の伝えでは,けれども村立ての一族は山上から降りてきたともされるという。つまり降りた元の地は,安座真グスクです。
安座真集落の村立ては、現在の集落の後方にある丘陵上部にあった安座真グスクの周辺だったという。この場所に、はじめて住むようになった血族集団がどれなのかは不明。時が経つにつれて人も多くなり、安座真城の麓は生活するのに狭くなり、不便をきたしたとされ、1768年 (尚穆王17年) に、生活するのに便利な現在の場所である江敷原 (現在のテーラヤシチ) 付近に移ってきた。安座真村の本家である大門門中、玉城門中、門川門中が新たな村の傾斜地の高い所に位置しているので、これらが、元々の村に住んでいたことが判る。〔後掲Kazu Bike Journey〕
1768年と言えば第二尚氏の後半です。琉球国王が久高島行幸を止めたほぼ百年後。薩摩侵攻から160年も後の時代まで,安座真グスクは生きた村だったことになります。
そんな後代まで山上に居していながら,「生活するのに便利」だと突然海際に降りてきた,というのはどうも変です。この時,プレ安座真一族に何が起こったのでしょう?
おもろに歌われた斎場御嶽(さやはたけ)
以下二首のおもろそうしは,尚真王と聞得大君が斎場御嶽で八重山征伐(1500年)の戦勝を祈願した時期のものと推定されています。
一首目の「なてるわ」が,その前に「寄り満ち」が出ていることもあり,ナーワンダーグスクに比定されています。
きこへきみおそいが節
1-34(34)
一聞得大君ぎや/斎場嶽 降れわちへ/うらうらと/御想ぜ様に ちよわれ/又鳴響む精高子が/寄り満ちへに 降れわちへ/(略)
/又威部の祈り しよわちへ/浦々は 寄せて/又司祈り しよわちへ/撫でる曲は 寄せて/(略)
一きこゑ大きみきや/さやはたけ おれわちへ/うらうらと/御さうせやに ちよわれ/又とよむせたかこか/よりみちへに おれわちへ/(略)
/又いへのいのり しよわちへ/うら(/\)は よせて/又つかさいのり しよわちへ/なてるわは よせて/(略)
聞得大君が/斎場御嶽に降り給うて/穏やかに/物思うようにあられる/また 霊力高い聞得大君が/寄満に坐しておられる/(略)
/また 神聖なる聖所で祈り給う/国中の岬を代表する拝所で神女が祈り給う/なでるわ(霊的守護力)を集めて/(略)
〔後掲おもろそうしテキストデータベース,追跡アマミキヨ/ナーワンダーグスク登頂(3)〕※青字∶原文 赤字∶和訳〔追跡アマミキヨ※※〕,次引用も同
※※追跡アマミキヨは,外間守善氏校注「おもろさうし」岩波文庫刊を参照して意訳したとする。
※※※22-1533(26)にも類似の歌あり。
本当に分からない。
①斎場御嶽に来た聞得大君は寄満で祈ったこと,②その祈りは霊的守護を目的としたこと,その位です。ただそうなると,「な」と「わ」の音が共通するだけの「なてるわ」が本当にナーワンダーを意味するのかどうかも怪しい。
また,「寄り満」で検索するとおもろそうしには13箇所のヒットがあり,斎場御嶽に関するものは上記2首(1-34(34)及び上記※※※22-1533(26))のみ。他は次の一首以外は首里と具志川のものです。次の知念の歌はよく読み取れないけれど(安座間の語が出るので斎場御嶽の可能性も否定できない),一応挙げておきます。
19-1314(34)
うちいではほいのとりの節
一知念集め庭に/世う 寄り満ちへれ/又安座間集め庭に/又今日の良かる日に
一ちゑねんあつめなに/世う よりみちへれ/又あさまあつめなに/又けおのよかるひに〔同〕
次の歌にも,斎場御嶽での祈りが何に向けてかははっきりと書かれません。ただ,状況的に国王の八重山征討軍の船出を対象にしたものと推定されています。
13-853(108)
一せぢ新神泊/雲子寄せ泊/波風 和やけて/斎場嶽 君々しよ 守れ/(略)
/風直り 煽らちへ/赤の御衣 煽らちへ(略)
一せちあらかみとまり/くもこよせとまり/なみかせ なこやけて/さいはたけ きみ/\しよ まふれ/(略)
/かさなおり あおらちへ/あかのみそ あおらちへ/(略)
霊力新たな港/宝の集まる久高島の港から船が出る/波風を穏やかにして/斎場御嶽の神女たちよ、王の船を守れ/(略)
/ノロは鷲の羽の髪飾りを風に揺らして/美しい衣を風になびかせて(略)〔同上〕
「王の船」「久高島」と訳される部分も,原文には明確に書かれるものではありません。ただ,斎場御嶽で国家的な航海の守護を祈願したことだけは,ぼんやりとイメージすることはできます。
中城湾最奥・佐敷に出入りする航海者の視点から
さて,次の図は斎場御嶽を中心にした広域の,海底水深をイメージ的に記した日本地理院地図です。
ここで指摘したいのは──佐敷湾に出入りする船は斎場御嶽又はその後方のナーワンダー城の山を目印にし,その西沖合に船を係留し,小型船に乗り換えて佐敷に上陸又は離岸したであろうことです。
1 中城湾への侵入可能航路
まず黒い位置,即ち水深の深い位置に注目します。南部では,久高島と奥武島の位置がこれに当たります。それと中城湾内では佐敷付近。
より正確に海図でみるとこうです。
喫水線の計算も中世船舶の構造も理解不足なので,潮の満干に関わらず船底をスらない水深として,ひとまず20m(上図水色線)を選択します※。
※※進貢船サイズの船高5.4m+本檣30.3m=35.7mを現代船の最大高相当(下記参照)と想定すると,35.7m×(12m÷57.91m)≒喫水相当7.4m。これに干満差最大2mを加えると荒く10mが算出できます。
久高島から知念半島南東岸で水色線は,海岸線に相当近づきます。けれども南西-北東に伸びるこのゾーンの北西(佐敷湾側),即ち久高島の南西-北東の延長には大変遠浅になっています。
久高島の南西すぐの水道を通ると外海から湾に入れますけど(現・久高島定期便航路),その東西は進貢船サイズの船は通れません。海底地形を知る案内人がいなければ座礁の危険があります。
逆に言えば,海底地形を熟知した土地の海人は佐敷湾からこの水道を通じ任意のタイミングで南外海に出動できます。
同北東は,ウガン岩の海面下に久高島と同程度の面積の浅瀬があり,ここは完全に通れません。津堅島近くまで回り込む必要があります。
2 中城湾侵入後の佐敷までの航路
津堅島南方から湾に入った船は,斎場御嶽とナーワンダーを目安に南西に進むことになります。
ここで触れておくべき点が二つあります。まず,斎場御嶽方向へ進み過ぎると,あるいは斎場御嶽付近に上陸しようとすると,海底の急斜面のため,思いがけず座礁する可能性があります。
もう一点は,この侵入航路を辿る船から,古・佐敷(佐敷城のある佐敷(字)佐敷)は知念半島北端に隠れて見えない,という点です。
仮に,あなたが海底地形を知らないで中国とか安南とかの水軍を率い,佐敷城に籠もった水軍を持つ琉球軍を攻撃すると考えて下さい。──通れるように見えた久高島東西,上陸出来そうに見える斎場御嶽東岸で何隻かを座礁させつつ佐敷城を探すも,これを発見できずマゴマゴするうち,久高島南西通路から密かに抜け出た琉球軍に背後を突かれます。
佐敷城はどう考えてもさしたる山城ではありませんけど,水軍本拠としては,相当計算し尽くされた「迷宮」に思えるのです。
3 中城湾から出撃する水軍の視点
以上から推測すれば──前のおもろで描かれる久高島に集結していた水軍とは,久高島北西,つまり斎場御嶽直下に集まったそれでしょう。おもろで想定される通り八重山征討を想像すると,時期を見て,久高島南西水道を通って一気に南外海に出たでしょう。
逆に敵水軍が攻め寄せた場合,久高島周辺の海底地形を自軍だけが知るなら大きなアドバンテージになったでしょう。先述のクローカー砲台が久高島を向くのは水軍戦術上は有意でした。航空写真とソナーを多用した米軍にすぐ猛烈に反撃されましたけど。
中城湾に大中型船が繁く入出港した頃の,斎場御嶽(ナーワンダー)のランドマーク性。それが斎場御嶽信仰の本質ではないでしょうか。
斎場御嶽が祓った前期倭寇の悪霊ども
水深の問題のないサバニなど小型舟時代にも,久高島南西の実は複雑な(海底)地形とその引き起こす潮流変化は,同じくランドマークを必要としたでしょう。
ただ,それは第一尚氏勃興期,前期倭寇残党の中型船がまさにヌー(諸々の悪霊)のように中城湾に寄り集まった時代に,より真価を発揮し始めた。その効用が華々しかった時代が,16C初頭の尚真王による八重山征討など琉球大統一時代だったのではないでしょうか。
中山世鑑に書かれる開闢御嶽の順を,前期倭寇の到来地のそれと仮定すると分かりやすい。当時の「世論」的なものがあったのか,明王朝が慄いた彼らは中城湾に三々五々到来していったのでしょう。
前期倭寇の残党の誘蛾灯にしてその秩序維持のための信仰の基盤として想定しなければ,斎場御嶽の中途半端な位置と陸上拠点としてはさして強力でない佐敷の位置は説明できないと思います。
つまり,倭寇統合新興国家・琉球の時代の象徴にして存在証明が,斎場御嶽です。
やがて17Cに入り,琉球の海軍力が衰え,薩摩の侵攻を許す※時代に入ると,こうした性格は実質的に消滅します。民衆から遠かった分だけ急速に忘れられ,儀式も廃れて御嶽そのものが森に飲まれていった──というのが宗教の場としての斎場御嶽の歴史でしょう。
映画「人魚の眠る家」を思い出します。ここは,琉球王朝とともに,一度眠りについた御嶽。それを拝観料をとる世界遺産として復活させるべきだったのでしょうか?