m145m第十四波m天后の眉間の皺や零れ萩m南京寺

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※愛宕町以降のみ

旅好き女子ならパシャリ!もOK

▲陰元禅語「脚下無私皆浄土」(きゃっか,わたしなければ,みなじょうど)

下無私」は禅語なので日常語訳は土台無理なんだけど,「えーえー,私さえ居なきゃいいんでしょ!」みたいな意味じゃもちろんなくて,「脚下」が付してあることに注意すべきなんでしょう。脚元にまとわりつく「私」にさえ囚われなければ。私を脚の下で蹴飛ばしてるところが,禅です。
「あか寺」の別称通りの派手な門造りは,質実剛健な感の白石垣の寺町ではかなり目立ちます。1607,ad寺町4。最終ポイント東明山興福禅寺へ入る。
 実は初めての参拝です。
▲1623本堂外見

烈歓迎。隠元和尚。」と入口に繁体字で書かれてます。ほぼ現代中国のノリです。
 隠元による新興禅宗・黄檗宗は,読経を現在も近世中国語の発音で行うといいます(黄檗唐韻(とういん)※wiki/黄檗宗 原典:中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』岩波書店、2002年10月、第二版)。最も純度の高い中国仏教色を持つ宗派です。
 門を入ってかなり曲がって折れて,緩く登りつつ最奥のお堂にたどり着く。正面の堂でまず目に入ったの「航海慈雲」の額。間違いなく妈祖です。ただし写真撮影禁止。ううむ……。

▲興福寺の媽祖像と随神たち
※ [ながさきプレス観光課]〈興福寺vol.3〉思わずパシャリ!としたくなる 興福寺“旅好き女子必見”なおはなし。 | ながさきプレスWEBマガジン|長崎のタウン情報誌公式サイト

っとるがなみんな!思わずパシャリ,ならいーのか?!
 いやまあ,何だ,この建物が,媽祖堂と書かれてますのです。同段の左手の建物の方が大きい。つまり正面の媽祖は前衛,ドアマン役で,本尊は左の方,という不思議な配置です。建物の名も「開山堂」,「本来はこっちがメインだけどね」と言ってる並びです。

興福寺の参道はどこを通ったか?

▲興福寺見取り図

み解くには寺の歴史の史料が不足してますけど──これは本来,開山堂から大雄宝殿のラインが参道だったのではないでしょうか。右脇に従神扱いで置かれた媽祖の方が参拝を増したので,後から参道を右手にズラしたような──。
 左の開山堂には三柱。中央の額「海天司福主」,案内板「開聖大帝菩薩」。左の額「慈光普照」,案内板「天上聖母菩薩」。右の額「英風千古」,案内板「二官大帝菩薩」。
 つまり開山堂の左手従神も,媽祖堂と同等の媽祖を祀る。どういう経緯でこんな複雑なことになったのか。それに開山堂中央もどうも語感からして海の神です。
 屋外上方に左から「海天活佛」「海天司命」「恩覃寰海」。三語とも「海」を含む。航海守護をここまで打ち出す禅とは──。
▲1630「三江会所碑■」

人の社会活動のセンターとしての機能を有した痕跡が,ここには幾つか残されてます。
 興福寺三江会所門跡。上記写真の碑文が残る。案内板に曰く「江南(現在の江蘇省及び安徽省,上海市)・浙江・江西3省のいわゆる三江の出身者が明治11年(1878)三江会を設立し,事務所を当寺院内に置いた。明治13年(1880),その集会所として三江会所が建てられた。」
 それは明治になってから,中国人が新地に移った頃かららしい。つまり,唐人屋敷から出た後,三福寺は第三の機能,出身別の結束を図りその統制の装置ともなる。出身地別の分化は,あるいは開港より前と以後とで異なる相を持つのかもしれません。

光國も鄭成功も転がして

▲1635聖堂(中島聖堂遺構大学門)移設碑

章で中島河畔に見かけた聖堂とは,儒学の学校のことでした。

儒者向井元升(げんしょう)は正保4年(1647)東上町(現在の上町と玉園町)に孔子廟(聖堂)及び学舎を建て、 立山書院と称した。(略)宝永7年(1710)旧鋳銭所跡(現在の伊勢町、中島川の沿岸)に移り、翌正徳元年(1711)8月竣成した。長崎聖堂というが、一般には中島聖堂と呼ばれた。明治初年廃滅し、杏檀門(きょうだんもん)と規模縮少した大成殿(たいせいでん)を残すのみとなったので、ともに昭和34年(1959)保存のため現在地に移した。 門扉に大学の章句を刻むので、俗に大学門と呼ぶ。
※ 長崎市│中島聖堂遺構大学門

 上町→伊勢町と移った後,遺構が興福寺に保存されてる。明治初に廃止された,ということは江戸期には半官営をいいことに興福寺同様,中国人たちは何かの機能を負わせて利用していたけれど,開港後はバッサリ不要になったということらしい。
 実質,何をしていた施設だったんでしょう?
▲1637妈祖堂。甍が僅かに中国風です。福建のような極端な曲がり方はない。

町を西へ歩きつつ,奇妙な手応えを咀嚼しました。
──唐人が出身地毎に持った三福寺(唐三か寺。興福寺のほか,福済寺と崇福寺。聖福寺を加え四福寺とも)とさらりと解説してあることが多いけれど,禁教徹底のため寺請制度で全市民が寺に割り振られ,中国人の菩提寺が無くなったので,やむ無く各勢力が造ったもの。長崎に自然な信仰による寺社はあまりない。だからこれまで興味はなかったけれど──
 三福寺には,けれどその次の展開があったらしい。幕府,細かくは水戸光國をパトロンに付けた新興禅宗勢力が,17C後半に三福寺に浸透したのです。唐人屋敷形成後も,彼らは事実上の対中継地を有し,そこには今でいう「外交特権」のような特殊な地位を持つ人々がいて,結構平気で長崎の街中を歩いてたようなのです。
 その代表格が,黄檗宗を事実上創始した隠元であり,さらに聖堂の関係者もいたと推測できます。隠元に絞って言うなら,鄭成功や光國を手玉にとった怪物的に政治的な動きをしてる僧です。
 彼らは,どの程度,レアケースだったのでしょうか?
※ m092m第九波mm殿前/鄭成功が隠元禅師を送り出した江頭港
/鄭成功はなぜ隠元を江頭に置いたか?

🚐
649,思案橋バス停。ここからのバスは全部茂木方面へ…えっと?でもどこで降りるんだっけ?ええい,近づいたら降りりゃいい!
 1651,乗車。近づいてきたからベルを鳴らす。真正面で降りれました。
 1702,万月堂でマロンロールを無事購入。
 さてもう夕方だけど,下降を開始しましょう。

▲1708愛宕辺りの車道道

薩摩秘密屋敷への潜入路

密屋敷へ行きたかった。
 秘密だから,おいそれとたどり着けても面白くない。1709,ad愛宕三丁目4,愛宕郵便局対面の細道,と見当をつけ北へ降りる。

▲1710谷への入口

ぐに蔦の絡まる石垣の道になりました。確か,ここも初めて歩くはずです。
 おおっ!
 右手,愛宕山の山容が残照に染まってます。

▲1711愛宕山あおぐ

が夕暮を僅かに覚え,抜けるように蒼い。
 1714,愛宕中央公園。こんな坂地の場所に……よく作ったな!

▲1713薩摩秘密屋敷から仰ぐ坂道

りゃ?橋だぞ?
 ad愛宕三丁目1。この橋より手前のはずなんだけど?
 橋のたもとに第十一番札所渡瀬地蔵堂。

見ては帰れぬ薩摩秘密屋敷

▲1718こっ,これが薩摩秘密屋敷だあ!

の辺りを彷徨き回る。はっきり痕跡は見つからない。不審者に見られても仕方ない。
 ない。
 アパートの奥まで入りこんでみる。完全に不審者である。でもこのアパート,石垣部分はどうもそれっぽい。いや,間違いない,そうに決まった!
──後日,ヒロスケ本にもこんな石垣が写ってたから,大体そんなもんだったんだろうと思われる。間違いない。

▲1720こっこれが第十一番札所渡瀬地蔵だあ!

事,薩摩秘密屋敷を発見して満足したので,足取りも軽く橋を渡ってさらに下る。
 1727。
 愛宕上北自治会掲示板。ここは……エレナの裏から小島川に落ちたら,この辺りに落ちてくる場所らしい。

言うこと聞かない困った道

▲1726エレナの裏の野道みたいな小道

やいや,これは……なかなかの川辺じゃないか!
 1732,小島荘対面を再び左岸へ戻って進む。
 ごつごつと曲がる細道,川音,岸の景観の変転ぶり。薩摩屋敷より余程面白い。いや実はワシはこれを見に来たのではないか?いや間違いない。

▲1730ピントコ坂辺りを仰……いだはずが真っ暗だった写真

▲1733いかにも小島川らしい谷川風情

737,ad上小島二丁目2で唐突に道が右折しました。
 また戻った!と思いきや,こんどは道は橋を渡って右岸と合流。
 言うことを聞かない困った道であります。1741。

▲1739エレナ側への登り道。酷いと言えば酷い,長崎らしい坂がある。

▲1740小島川の渓流を振り返って

君は長崎に夕月を見たか?

えっ!島原飯が移転?
「すぐそこです」と書いてあるけど全然見当たらない。しばらくしたら営業し始めるんだろうか?
 ええっ!ニッキーまでなくなってるのか!何があった長崎??
 と貼り紙をよく見ると,これらは本当に移転したらしい。アーケードの中です。でも今日の夕は「ソースがなくなりました」の臨時休業。明日に掛けるしかないか……と代わりの店を思い巡らす。
──ようし!こういう時こそ,しばらくご無沙汰してたあの店だ!
▲夕月のカレー
816夕月
夕月カレー450
 夕方の雑踏が溢れる観光通りのドアを開けると,途端に静謐に包まれる。何と客は一人だけ。嗜好的には,そりゃこの優しげなカレーと言えない──スパイスがまるで効いてない,ほぼデミグラスソースみたいな──カレーは時流に反してるだろうけれど,ここまでとは──。
 今ググると,70年の伝統を持つ長崎カレーです。写真のアングルで見ると,店名の由来は訊くまでもない。オレンジに近い妖艶なルーの海にライスの島が頼りなく浮かぶ。まさに上弦の月です。違っていたらスミマセン……。
 味が変わったわけでもない。トマトクリームのようなあのソースは,記憶と寸分違わない。でもジリジリと客が離れてる。恐らく若い世代にウケないから新しい客層が出てきてないのでしょう。
 しかしまあ,これは確かに──カレーというより,カレードレッシングです。トルコライスの店でハンバーグにかかってる類。カルカッタなど,このタイプの「カレー」を出す店は長崎に幾つかあるらしく,案外長崎の独自解釈したカレー文化なのかもしれません。

■小レポ[1/2]:在長崎・薩摩秘密屋敷という永久の謎

 幕府の隠密(スパイ)が潜入しても,薩摩からはほとんど帰って来なかった,という話がまことしやかに語られます。
「鹿児島弁=人造言語説」が本気で検討されるほど,江戸期の薩摩における情報鎖国は厳を極めたものだったらしい。
 これから推察するに,薩摩藩が江戸期に何をやっていたか,という史料は今も今後もほぼ出て来ないでしょう。帰れなくなるのはちょっと困る。それはまず諦めてから,事にかかった方がいい。
 でも,論理的に考証を重ねていくことは幾つか可能だと思います。

① なぜ薩摩は鎖国中の鎖国藩を企図したのか?

 まず問いそのもの,薩摩が情報鎖国した理由を考えることができます。
「閉鎖的なお国柄だから」で大抵この点の説明を済ませてあるし,薩摩側も「こういう国なんですう~」で笑って誤魔化してる。けれど,江戸期の行動を考えるに,薩摩人は昭和のビジネスマンに似たメンタリティを有し,従って組織人としては合理的行動を採ると想像します。
 要するに,何か秘匿すべき実態があった。
 現代の鹿児島県でそれを探しても,該当する手掛かりは見事なほどに消去されてる。これだけの結束があれば,消去は可能だったでしょう。
 ならば,なぜ江戸期にはそうしなかったのか,という問いもだから立てることができます。現代には消去すればそれで済む実態が,江戸期には消去できなかった。かの実態が,まさに稼働中だったから,と考えられます。
 さてその実態の稼働した地理的位置は,どこだったか?薩摩領内は上記から想定されるけれど,領外はどうだったか?
 そう,とりあえず長崎では?

② 薩摩が長崎になぜ秘密屋敷を持ったのか?

 長崎に薩摩の「領事館」があってもおかしくはない。18C以前には,そして古い鎖国観ではあり得ないのは,薩摩の長崎での「海外交易場」です。
 けれどこれは,19Cには公式に存在しました。
 1810(文化10)年に公認された長崎での薩摩藩交易場です。場所は西浜町の薩摩藩蔵屋敷で,浜崎太平次所有の蔵,同五島藩に隣接していました。
▲西浜町の薩摩藩蔵屋敷の位置
※ 旅する長崎学 ~たびなが~/長崎と坂本龍馬と船 その2 ワイルウェフ号事件と五島藩

 琉球王国の困窮状態を救済するため,5年限定で幕府の特許を得て,琉球産品を長崎で販売する事業です。と,公式には書かれることが多い。
※ wiki/薩摩藩の長崎商法
 けれども,薩摩は長崎での交易許可を得られればよかったらしい。5年期限は──あまりに露骨なので途中10年停止された時期を除き──明治まで継続される。売り物も,当初禁止された唐薬種も解禁,はっきり中国産と分かるものです。従って,琉球救済も名目に過ぎない。「黒糖地獄」を現出せしめた薩摩が語る言葉でもない。
※ 中村質「長崎会所天保改革期の諸問題─鎖国体制崩壊過程の一側面─」『史観』115,p63-93,九州大学学術レポジトリ,1978

 この通称すら定まってない交易をwiki件名に沿い「薩摩藩の長崎商法」と仮称する。この幕府特許の背景も記されないけれど,これも極めて想像が容易です。おそらく17C末頃の「薩摩藩の長崎抜け荷」が,幕府や長崎奉行が黙認したふりを装えない規模にまで横行したから,後追いで追認したのでしょう。幕府-薩摩間に,上記のような理由・期限・品目・規模の調整とその運用の柔軟性(規制外をどこまで黙認するか)について調整がついた上での特許だったと思われます。
 薩摩の長崎秘密屋敷の一つの可能性は,この特許前の密貿易の拠点としての機能です。長崎の市内から人目を忍んだ,けれど茂木への陸路には遠くないこの場所ならば,裏ルートの交換を粛々と行えたでしょう。
▲薩摩藩の長崎払い「琉球産物」。品名は明らかな中国産。

 次の長崎奉行側から幕府への進言は,薩摩が北国筋越後(ルートの俵物)を琉球国産物を紛れさせて長崎で売ってる,それが長崎交易衰退の原因だとはっきり書いています。

幕閣・奉行の間には,薩摩藩による公許の琉球貿易に便乗した大規模な密貿易や,長崎における「琉球国産物」売捌きが,会所貿易を阻害している現実と,ひいては朝鮮との国交関係への悪影響,換言すれば鎖国体制そのものに係る問題として提起されていた。すなわち,天保六年※三月老中首座大久保忠真が勘定奉行土方勝政に与えた「風説書」に,薩摩領海での抜荷唐物を大量に「北国筋越後辺江相送り売捌■由,琉球国産物之内江取交,長崎表江相廻売捌■品も有之由,……右之趣ニ■間,近年長崎表衰微いたし,同所御役所ニ而も殊之外御金操六ケ敷,薬種・砂糖類等之調進ものも差支■之儀ニ■由」[前掲中村]
※天保六年=1836年

▲「琉球産物」払立代銀の配分。複雑な制度で長崎奉行側が利益を吸い上げたけれど,それでも9割方は薩摩に入っている。

 つまり,「鎖国」日本の4つの口のうち,薩摩は琉球に加え長崎まで抑えかけていました。長崎の交易機能を長崎奉行から事実上奪うという,荒々しくも魔術的な政治経済行動です。

島津はどの程度,長崎市場を支配したか?

 もっと穿って言うなら,幕府が薩摩の交易規模実態を知っていたならば,1810年時点で幕府は長崎交易を実質的に薩摩に委ねたわけです。交易規模については,長崎奉行側が「本商売の方より多く相成」ったと評しており,つまり長崎マーケットで薩摩を中心とする裏経済は長崎会所で動く表経済より大きかったことを前提にしています。

(前略 地役人が)何事も見逃し■故,工社共持出■諸品,近来夥敷之由,端物類,又ハ小間もの類,其外諸品共勝手ニ不正筋取扱■様成行,本商売之方より多く相成[前掲中村]
※原典:通航一覧続辑 第一(一)169-180頁所引天保六年五月ニ四日付「久世伊勢守言上書」
長崎県史史料編第四所収。吉川弘文館,昭40

 前述(→m142m第十四波mm唐館(出)/(期中)幕末長崎奉行言上書の記す5ルート)のとおり,幕末の長崎交易は記録されるだけでも5ルートに分かれてました。
①「琉球産物」と称する(薩摩による)長崎での交易
②中国人水夫の(手回品と称しての)抜荷
③町年寄の(中国人からの贈り物と称しての)「所望物」
④「部屋附」「火元番」の「貰物」
 5ルート(以上)にまで分岐してしまうと,何が表か裏か,どれだけの流量の交易が動いているのか,幕末期には訳が分からなくなっていたでしょう。そして,正規の長崎会所ルート以外が全て薩摩の支配下にあったとすれば……長崎交易は薩摩がほぼ侵略を果たした状態だったわけです。
 薩摩の長崎秘密屋敷の機能の,もう一つの可能性は,この膨らんだ②~④の交易です。日本国内に入った時点から裏ルートになっているこれらの品が,ここに次々と持ち込まれ,茂木から全国へ流れていく。そうした闇専門のブローカー機能は,この時代,薩摩しかを担えなかったはずです。
▲薩摩藩と大名家との縁組一覧
※ 平池久義「薩摩藩における調所広郷の天保の改革─組織論の視点から」

③ 薩摩はなぜ野放しだったか?

 こうした薩摩の振る舞いは,教科書で習う江戸幕府の「圧政」イメージとあまりにもかけ離れています。なぜそれが可能だったのか?
 島津家は,上図のように近隣諸藩と政略結構を繰り返していました。特に1756年から70年,薩摩藩主だった重豪代が甚だしい。
「○○藩とは親戚ゆえ安心安心」なんて平和な感覚とは思えない。むしろ島津にとって江戸時代こそ本当の戦国だったのではないでしょうか。○○藩を拠点に隣の■■藩を探る,とか,ほとんど裏社会の制覇のような発想だったように思えます。逆に,その「実績」ゆえに各藩や商人も「島津ネットワーク」に加担し利用した。
 さて重豪という人は,NHKでは篤姫の夫として映像化された第11代将軍徳川家斉の舅に当たります。15代中最も華美だったこの11代目をして「薩摩の舅どのには及ばん」と言わしめた浪費家だったといいます(「別冊歴史読本82 事典にのらない日本史 有名人の晩年」新人二二来社,2001年8月,31頁)。
▲島津重豪代家系図

 諸大名が財政難に喘ぐ中,重豪が続けた贅沢が祟り,島津家には五百万両の借財が発生したと言われます。現代価値で5千億円と考えていい。薩摩藩は利息も払えない状況で,そこを奇跡のV字回復させたのが調所広郷だった,というのが教科書的解説です。
 
▲島津家負債の拡大状況

 けれど,調所広郷の財政改革の成果が,幕末薩摩の「琉球産物」,俵物,薩摩産物品からの利益だったことを念頭に置くと,その利益回収の環境が出来上がり過ぎていることに気付かされます。──マーケットでの権限と姻戚関係という純資産を溜め込んだ時期とも言えるのです。
 他の藩は同様の行動ができなかった。浜田藩のように藩主導の抜荷は摘発されたし,4口を領さない藩には外国産物がある理由がなく,存在すれば即禁制品だったからです。
 負債の250年賦への切替実施に当たり,薩摩は幕府に35万両の上納金を支払っています。企業的発想で,大局の利益のための投資は惜しまない。
 つまり,薩摩は琉球カードを持つ有利さを生かすために,重豪代以降,幕府と大名の各層へ巨額の投資を行い,密貿易の障害を丹念に除去した,と想像されます。重豪の散財ぶり,というのもそのカモフラージュなのではないでしょうか。
 逆に,そうしたキャッシュバックの計算がなければ,篤姫に代表される幕府中核へのあれほど影響力を,薩摩が持つ必要はなかったはずです。幕政への影響力,というのも目的ではなく,経済政策への根回しの副産物でしかなかった。
 長崎秘密屋敷にしても,狭い長崎市内で如何に中心部でなくとも,会所に匹敵するマネーとそれを携えた人が回っていて幕府や長崎奉行側が認知できないはずがない。
──と色々と状況証拠は揃うけれど,冒頭に断ったように直接の史料はありません。百万両単位の貸借ですから何らかの帳簿で管理されていたはずで,その紙片の片鱗でも出て来れば財政運営の性格は把握できるはずですけど──まず間違いなく,徹底的に焼却されているでしょう。
 けれど,おそらく現代日本を除く史上最大の負債と,この店じまいの徹底ぶりも含め,江戸後期に島津家が企業体に変貌していたその経営感覚は,以上の推定からでもうっすらとは垣間見ることができます。

日本所在の古媽祖像一覧(2006年6月現在)

■メモ:水戸光國と清朝の媽祖信仰推奨の政治的共通性

 上記図は高橋誠一「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」※掲載の日本の古媽祖像の分布図で,実はこの後半年ほどこの図のドットに振り回されてあちこち行くことになった迷惑な(?)マップです。
※ 原典:藤田明良「日本近世における古媽祖像と船玉神の信仰」中央研究院人社中心亜大區域專大中心編『近現代日本社会的蜕変国際検討会論文集』2006
 この図の分布域の偏在からも概ね見てとれますけど,江戸期以前の日本の媽祖信仰には,2系統が存在します。西日本への中国人交易者が直接信仰したものと,東日本の水戸藩推奨の信仰の跡で,大阪にあるのも後者と推測されています。
 水戸藩のそれは,水戸光國が招いた隠元が禅宗とともに伝えたものです。ただ隠元は水戸へ伝えた後に近畿,長崎に戻っていますから,水戸からの伝播は水戸藩,特に光國によるものです。
 光國が個人としてこの「邪教」に特段ハマった,なんて形跡はないし,光國のパーソナリティからも考えにくい。また,キリスト教にあれほど敏感だった幕府に,光國がネゴせずにこれほど大々的な伝播をしたとは思えません。
 ではなぜなのか。この点が,長く不振なままでしたけど──おそらくは当時水戸藩が苦渋していた次の事態と関わっています。

霞ヶ浦四十八津vs水戸藩

霞ヶ浦南東部には江戸初期,幕府の箕和田御留川が設定され,さらに1625年(寛永2)下玉里村の土豪鈴木氏の申請により,〈湖は入会〉の原則を固守する霞ヶ浦四十八津の抵抗を押し切って,水戸藩は湖の北部高浜入を玉里御留川としている。鈴木氏は御川守となり,当初は直営の大網を引いたが,83年(天和3)以降,江戸の問屋,霞ヶ浦周辺の漁民の請負となり,入札によって運上人を定め,運上金を上納させた。

※ 世界大百科事典「御留川」中,霞ヶ浦四十八津についての言及部 コトバンク
URL:https://kotobank.jp/word/%E9%9C%9E%E3%83%B6%E6%B5%A6%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%B4%A5-824999

 17Cの日本近海域は,戦国期の典型的なアジールから陸上藩主の支配下に組み込まれていく過程をたどります。正史の記載にあまり直接は残らないけれど,西日本各藩(例えば水主浦制をあえて採らなかった安芸藩)の記録からも,旧海賊多発地域に共通する,治安上極めて難易度の高い行政分野だったと想像されます。

 水戸藩領の霞ヶ浦や北浦もその一つで,古代からの由緒を持つ香取神宮の信仰をその柱とする海人のギルドが,新設の藩勢力と鋭い対立を演じています。

霞ヶ浦縁辺漁民の自治組織。北浦にも北浦四十四ヶ津がある。平安末期から南北朝期,霞ヶ浦・北浦・利根川の津々の海夫は,香取社に供祭料を貢進,漁猟・交通上の特権を保証され,戦国期から江戸初期には,湖の入会を大原則とする自治組織を形成する。

※ 世界大百科事典 第2版「霞ヶ浦四十八津」解説 コトバンク同上
 藩の陸上勢力と海人勢力が着地点を見つける過程に,どれほど関与したのか定かでないけれど,少なくとも光國の構想としては,東アジア全域に広がりつつあった媽祖信仰を軸に,新しい海上秩序を構築する発想だったのではないでしょうか。
 霞ヶ浦地域で媽祖信仰が特に濃厚に根付いたようにも見えず,「官営海上宗教」政策は概ね失敗に終わったと思われます。この点,元朝や清朝の採った媽祖信仰優遇策のように上手くはいかなかったのでしょうけど──江戸幕府も「そんなの上手くいくものか」とは思いつつ,水戸藩の信仰拡大を黙認していた,というのが東日本での媽祖信仰の政治的意義だった──という仮説はそれほど無理がないように思えます。