020-1十人町地蔵堂・のぼり(長崎)\長崎withCoV-2_Omicron\長崎県

意識しないと
どうも登れない
唐人屋敷西側へ
向かってみました。

新地蔵を占拠する唐人集団

850、長崎駅前電停でようやく目的地への出発態勢に。
 リュックはパンパン、かつずっしり重い。長崎離脱日です。荷物をまとめチェックアウト、五島町から歩いて電停から遠くなった駅のコインロッカーに荷を入れてたら……思わず遅くなりました。
 今日も休みの店は多そうですけど……通りがかりに大八の営業たけは確認済。
程は今朝まで白紙でしたけど──唐人屋敷に向かって右奥、天后堂から域外後方の道は歩いたことがなかった。確か抜け荷穴のあった辺りです。今回は平地に拘ったので、山手の坂を歩いてない悔いもある。
 電車の車窓から出島を見る。出島の位置には執着してきましたけど──やっぱ出島そのものには興味が湧かないのです。今日もグラバー園に行く気は起こりませんでした。──そう言えば、対蘭交易の帳簿類の分析とか史料的に重厚な出島交易の研究をまだ拝見したことがないのは、史料の性格が中国系と少し違うのでしょうか?
 0858、新地中華街下車。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※新地中華街駅〜十人町地蔵堂

日は人ゴミで見れなかった新地荷蔵跡の案内板に──

元禄11年(1698)、後興善町から出火した火事は、隣接する22町に延焼、樺島町や浦五島町の土蔵33棟に収納されていた唐船20隻分の貨物(代銀3,377貫目分)も全て焼失しました。〔案内板〕

という火事が、防火施設●●●●としての新地(元禄15年(1702)造成)の建設理由と書かれてる。何か怪しい事実関係です。
 この元禄11年の火事は、末次火事、元禄大火、末次の大火などと呼ばれるものです。

〔原田博二『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』河出書房新社 1999年 p16-18←wiki/末次火事 1698年に長崎で発生した大火災〕

大江戸火消しイメージ

 様々に伝えられる被害状況に対し、出火元たけは後興善町乙名・末次七郎兵衛宅と明確。火事の呼称からしてもバイアスが感じられます。22年前(1676(延宝4)年)に断絶した末次平蔵家との関係は、やはり分からんけども、末次薬草園跡を転じた唐人屋敷(伝・1689年稼働)と同様、旧末次家を貶め、かつそのインフラ転用により長崎公所体制への再編が進められていく。不透明ながら激しいそのダイナミズムは、やはり魅惑的です。今日我々が知る「長崎交易」は、概ね、この17C末の末次家没落=原長崎交易崩壊の転換点を経た後の状況を呼ぶものであり、にも関わらずこの時期に誰が何を選択したのか●●●●●●●●●●がまだ定説化されてないからです。

▶〔内部リンク〕→m142m第十四波mm唐館(出)/小レポ:3所見を総合しての諸論点/[前期]東西植物種の宝石箱?十善寺薬草園/薬草園の創始者=末次平蔵

 ただ現・新地には、路地も含めてやはり痕跡の残る余地がありません。末次火事の発生から三百年を経、当初の海上唐物倉庫は輸入品専用から輸出用に、倉庫のみから居住可へと相を転じ続けたのですから、不思議はありません。

そこで考えたのが「海上倉庫」。燃えた土蔵の所有者たちが、唐人屋敷前の海を埋め立てて新地を築く「唐船貨物専用蔵」の建設を長崎奉行に申し出たのです。翌年、幕府から許可がおりて海面の埋め立て工事がはじまりました。実に3年かけて元禄15年(1702)に「新地蔵」が完成。面積は3,500坪。出島(約4,000坪)より少し小さいくらいの人工島で、中には60もの蔵が建ち並びました。
 せっかく造った蔵ですが、正徳5年(1715)に大規模な貿易管理政策「正徳新令」が発令されて日中貿易は縮小し、肝心の貨物が減ってしまいました。空っぽの蔵では意味がありません。そこで日本側の物資も収蔵することに。明和2年(1765)に米と銅、寛政12年(1800)に囲籾(かこいもみ)、昆布やその他の海産物蔵、長崎会所荷物蔵として利用されたということです。さらに安政の開国後になると人も住みはじめました。唐館に在留していた中国人が移り住んだと考えられています。これは最初「不法占拠」として問題になりましたが、慶応4年(1868)には居留地として認められていたという記録が残っています。250年の歳月をかけて「荷物蔵」から「居住地」に変化したのです。〔後掲ナガジン〕

 唐人屋敷方向へ左折。へえ、この前の車道を「福建通り」と言うのか?──この呼称は確かにマイナーらしく、多分古称でもないみたい〔後掲福建ファン〕。

唐人屋敷でまるかね温泉

十人町の銭湯

神堂の西裏通りに銭湯があったっけ?しかも7字対聯までありますけど……。
 GM.上は旧丸金温泉跡地と記されます(→GM.:地点)。映画「湯道」(鈴木雅之・監督,生田斗真・主演,2023)のモデルの一つとされる銭湯だそうだけど〔後掲湯道百選〕、2009年廃業。15年近くを経た状態には見えないので、おそらく観光サイドからの支援で維持されてます。
唐人館案内板地図の天后付近

内板の地図でも、天后西裏手の道は他の外縁より、どこか入り込んで整備されきた感じがあります。ただその格差が朧で、はっきりした意図にまで翻訳できないのです。
土神堂屋根瓦越しに銭湯

日は、妈祖堂には一礼のみして先へ。0922。
 ad.館内町18の「園芸のかわの」から右折西行、濠の橋で言うと森橋へ(→GM.)。
館内町18から西行路

森橋西「円型ブロック」

こ(森橋)から西へも階段があるけれど、階段手前を左折南行。0925。
──とさらっと書いてるけど、このT字地点(→GM.)には西階段はないはずです。上記GM.のグーグルアースでも階段の存在は確認できますから、行き止まりの私道のはずなんですけど──

森橋西「T字」地点集落地図

理院系地図には、上記のような短い道までは記されます。かつ、この階段を上がったブロックは、唐人屋敷一帯では極めて少ない、何だか円型に近い筆の形を示しています。
 何も分かりません。でもこの地形から率直に発言すると──小砦の立地です。
 さて「T字」から左手南は──二股?右手西側の道を選ぶ。ad.十人町12。
山手への細道群

手へ抜けれる細道が非常に多い。戯れに入ってみた西行路地もくねって続きます。
──とメモして進んでしまってるのは、多分この道→GM.。上記の「円型ブロック」の南弧相当の道、とも言えそうです。
稲荷鳥居と広済寺

?ここに、すぐ広済寺なんだ?
 綺麗な切込接ぎの石垣の手前に、まず住江稲荷の鳥居。寺社混淆はもちろん、前記円型の筆構造もあってでしょうか、崇拝の軸方向が交差してる、不可思議な地勢です。
 なお、上記写真右半のコンクリ鳥居が住江稲荷の一の鳥居、2枚後の赤いものは同社前の鳥居です。後掲Artworksさんの指摘では、このコンクリの一の鳥居のみが神明鳥居※になっているという。明治41年築の銘があるので、わざわざその古式に則って建てたらしいのです。

※靖国鳥居とも。笠木(二本の横棒のうち上側)が丸く、かつ貫(同下側)が柱の外に突き出しているのが特徴。たまたま上記画像で、この二点は視認可。

決して稲荷ではない

住の江饅頭の店。傾斜は10度ほどか。

居下正面に住の江饅頭と看板を掲げる、シャッター内に木戸のガラガラドアのある老舗の和菓子屋さん。
──あまり注目して来なかったけど、長崎の各老舗商店街には古い和菓子屋さんが細々と経営を続けられてる例が複数あるらしい。今後具体に注意していきます。
 1640稲荷へ。
稲荷本殿

犬はかなり古びてます。
 注連縄の結び方も変わってます。右手をぶった切ったこの一本結びはどこかで見たか?
──牛蒡型です。向かって右が太いので非伊勢タイプ〔後掲折橋商会〕。
琉球並の摩耗狛犬

手の社の狛犬など、ほぼ琉球並に摩耗しつくされてる。柵で仕切られ近づけない。文化財的にというよりも、教義上、何らかの意味で神聖に扱ってる像だとも推測できます。
 何にせよ、ここの「稲荷」称号は間違いなく既存古社に後付けしたものです※。

※後掲Artworksさんも由緒情報を把握していない。現行保全状況や明治の再建経緯を考えると、管理者側に維持の意思はあるけれど、何かの理由で広報をせずに維持していこうという方針を堅持されている宗教地と推定されます。

広済寺本殿左手の空間

の本殿左手前に遺構の跡のような妙な空間。0939。──便所や倉庫にしてはやや広過ぎ。
 この寺が「十善寺郷財産区管理会事務所」の看板を掲げてます。自治会ではなく財産区が実質の住民組織で、寺に事務所を置いているのか、あるいは単に寺主さんが区長を兼務してるのか。
 どうもスッと胸に落ちない。不思議なバッファ感覚が残る土地です。

寺と神社の境は唐人屋敷外縁

寺と神社の間道

941、寺と神社の間を登る。
「十人町三の組自治会」掲示板。
掲示板左手の煉瓦の露出

の左横、神社の右手後方に煉瓦が露出してる。それほど古くはみえないけれど、その内側か下側には打込接ぎの石垣が続いてるようです。
 ここが唐人屋敷外縁西南角、ということになるのでしょうか?──と当時はメモってます。でも、通説ではそんなはずはない。壕よりかなり外側なのですから。
 ただし──唐人屋敷の範囲は驚くほどに不明確です。この点は、以前2002年の長崎大学と地元専門家が総力を挙げての「境界確定」の過程から確認しました。

内部リンク▶m142m第十四波mm唐館(出)/■史料紹介2:(地理学的所見)傾斜面を埋める唐人城
唐人屋敷の範囲指定上の論点〔後掲岡林隆敏他「長崎唐人屋敷範囲推定及び敷地の形状復元に関する研究」平14(2002)〕

 唐人屋敷の絵図の中には、上記(下図:出典不詳)のように二重の塀を巡らせたものがあり、この図だと濠内の内塀に対し、南西部ではそのかなり外側に外塀があった●●●●●●●●●ように描かれてます。
 この日の箇所に唐人屋敷外塀が存在したことを、否定しない見解はありうるのです。

十人町13北行路

948。掲示板前の十字を階段を登らずに北行※。ad.十人町13。

※多分この地点→GM.

 この道も妙なほどくねりまくる。──先に想定した「円型」が住所表示ではほぼ十人町13に、この道はその西際に相当しますけど、ここに何があったにせよ、西縁だけがこんなに湾曲する必然性はどこにあるのでしょう?
 裏手の石垣は、やはり相当古い打込。

路地裏手の切込石垣

みさき道の始まる地、ロチ寓居地

T字路にぶつかる

面T字路を、三毛猫が左手へ走り抜けました。0955。
 石畳。鈍い陽だまり。
 三毛の消えた左へ折れる。西行。
みさき道70m看板と猫が……何匹も

958、右手北を指すみさき道70m看板?そうか、あそこにも繋がるのか。

▶〔内部リンク〕→010-3十人町\長崎/御崎道はじまりの坂

 煉瓦壁が増えました。──この土地の色彩がよく分からないけれど、ピエール・ロチ寓居址という点だけから敷衍すると、お忍び外国人による表沙汰でない散財の痕跡かもしれません※。
 色々と、グレイなもの、境界上のものが吹き溜まる、そんな場所なんでしょうか、ここは。
 ad.十人町15表示で右折西行。日差しが眩しい。

目的地:十人町地蔵堂

十人町15西行路

004、左手撮影。
 背中を膨らせ凹ませて、寝息を立てて眠る猫。
 1005、ad.十人町16。この辺でしょうか?右折北行。
十人町16北行路

度は通り過ぎてしまった。
 実にさりげないアパート前に、目的地の地蔵堂。
十人町地蔵堂

側の祠は観音開きになってて何か収納してある気配です。ただ、それを秘する気配も濃厚で、中身は全く窺えません。
 このまま北行してみようかな。
十人町地蔵堂内の祠

■レポ:恋花ロチと妖しきニッポン自画像

 ピエール・ロティ(Pierre Loti 1850年1月14日−1923年6月10日)というフランスの作家について、現代の視点から先に断っておくと、世界を股にかけたスケベなロマンス作家であることは到底否定し難い。だからあえてそういう下世話な点には、以下ではもう触れません。
 本名はLouis Marie-Julien Viaud ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー。父親が横領容疑で失職したため、1867年(17歳)で海軍に進み、1906年大佐、1910年予備役。
 後に「ロティの結婚」として再版される処女作「アジヤデ」は1876年(26歳)の作。「イスタンブールでの体験」を自慢して書いたらしきものを、仲間の海軍将校に小説化するようそそのかされて出版に至ったもの。ロティ作品の多くと同じく、半ば自伝かつ半ば仮想のロマンスというスタイル。
 日本に来て「お菊さん」を記すまでもトルコ、タヒチ、フランス領アフリカの奴隷に「手を出した」模様を記してます〔後掲小林〕。ただ、ジャポニズムの展開上は非常に大きな触媒となりました。
 ジャポニズムそのものについては先に触れましたので(下記リンク参照)、本章では、具体のロチ※の文章に触れてみます。

※長崎での一般的記載に則り、以下「ロチ」と表記を統一します。
内部リンク▶018-3森崎裏面・悟真寺墓地(長崎)\\長崎県/■レポ:パリ ロンドンを襲った怒涛の日本病
「ミカド」のポスター。三姉妹のうちピッティ・シングとピープ・ボー〔wiki/ミカド〕



French writer Pierre Loti (1850-1923) on the day of his reception at the Académie française on 7 April 1892.撮影者不明〔wiki/ピエール・ロティ〕

冷淡な観察者・・ロチ

 ロチの日本観の特徴として、ハーンやモラエス※のような日本文化に対する「真の愛情と情熱」〔[3]岡谷公二『ピエル・ロティの館』 作品社 2000年9月 p.116-117←wiki/ピエール・ロティ〕──即ち盲信を抱いてない、という点があります。

※ハーン:パトリック・ラフカディオ・ハーン 日本名・小泉八雲 1850年生-1904年没 アイルランド系・ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家。1890(明治23)年出版社通信員として来日、翌年結婚(女中として住み込んでいた旧松江藩士族の娘・節子)、三男一女をもうける。東京で死去・埋葬。
 モラエス:Wenceslau José de Sousa de Morais ヴェンセスラウ・ジュゼ・デ・ソウザ・デ・モライシュ,1854年生-1929年没。ポルトガルの軍人、外交官、文筆家。マカオの港務局副司令時代に現地女性(亜珍)と結婚し、2人の子をもうける。1899年に在日ポルトガル領事館よ在神戸副領事(後に総領事)として赴任。神戸在勤中に芸者・おヨネ(本名・福本ヨネ)と同棲。1912年のヨネ死没後、引退してヨネの故郷・徳島市に移住、ヨネの姪・斎藤コハルと暮らすが、コハルも先逝。1929年に同徳島市で没、墓所は同市西山手町の潮音寺にヨネとコハルと並ぶ墓塔。

 前に検討したロシア皇太子と同様、この色男は「契約結婚」を決めてから日本に上陸したらしい。異文化理解者として、全くの俗物です。

 ──僕はね、私は云つた、着いたら直ぐと結婚するんだよ。……(略)
 ──さうだ。……皮膚の黄いろい、髪の毛の黒い、猫のやうな目をした小さい女をさがさう。可愛らしいのでなくちやいかん。人形プウペよりあまり大きくないやつでね。──君に部屋を貸して上げよう。──青い花園の中の、植込のこんもりした、紙の家メエゾン ド パピエだよ。〔後掲日本ペンクラブ〕

 この態度をよく、人種差別や女性蔑視といった分かりやすい人権論に還元して語る文脈があるけれど、そこまでマトモに論じるにはあまりに「フワフワ」した軽薄なものに思えます。

 飛んでる鶴を描いた非常に可愛らしい椀の中には、有りやうもないやうな藻草の汁がはひつてゐる。その外、砂糖煮の小さな干肴、砂糖煮の蟹、砂糖煮の隠元豆、酢と胡椒で味をつけた果実。どれも皆大変なものである。何より、併し意想外で、想像も及ばないものばかしである。彼等が私に食べさせる、此の小さな女たちが。たあいもなく笑ひながら、絶え間なく腹立たしくなるやうに笑ひながら、日本特有の笑を湛へながら。──彼等の作法で私に食べさせる。即ちきやしやな箸としなやかな指先とで。私は次第に彼等の顔附に馴れて来た。全体の効果から云ふと上品である。──その上品といふのは例へば私たちの国の上品とは全く別ものであつて、ちよいと一目見ただけでは私には殆ど了解が出来ないけれども、併し長くたつ内には多分気持のよいものになりさうである。〔後掲日本ペンクラブ〕

『全体の効果から云ふと上品』なる言い方はロチの姿勢を端的に表現してます。十分理解できないし、西洋標準とは異なるけれど、まあ上品なんじゃないの?と粗く評価した上で、それ以上の思考は停止し、そのうち心地よくなるんじゃないの?と漠然と眺めてる。無理に理解したふりをしたり、過度に感情移入するよりはマシだけど、暇にまかせてハンドバッグとかペットとかを憮然と選んでる感覚です。
 これは実際、次の、お菊さんとの「結婚」を決めた際にもそんなものだったみたい。

俄かにはひつて来る、真昼の光に醒まされた蝶蝶の如く、世にも稀な物おぢした蛾の如く、隣室の踊り子が、気味のわるい面をかぶつてゐたあの女の子が。その子は無論私を見に来たのである。彼女は臆病な猫のやうに目をくるくるさせる。それから、急に馴れ馴れしくなり、私にすり寄つて来る。赤ん坊の甘つたれるやうな、あどけないわざとらしさで。彼女は愛らしく、しなやかに、あでやかに、よい匂をさせてゐる。石膏のやうに真つ白に、をかしなほど塗り立てて両方の額のまん中にはかなりくつきりした小さな赤い丸を染めてゐる。赤い口もとと僅かばかしの鍍金が下唇を一字に引いてゐる。頸筋は襟足のうぶ毛が沢山生えてゐるために白く塗られないので、日本人の几帳面好きから小刀で削り取つたやうにおしろいを一直線に塗り止めてある。その結果頸の後には自然のままの皮膚の方形がいやに黄いろく露出してゐる。(略)もう探すことをやめて、あの子と私が結婚したらどうだらう! 私は彼女を預り子のやうに大事にしてやらう。私は彼女を今のままにして置かう、すなはち風変りな可愛らしいおもちやとして。どんなにおもしろい小さな家庭が出来ることだらう! 実際、飾物と結婚するからには、それ以上のものを発見するには困難だらう。〔後掲日本ペンクラブ〕

初めて長崎に来た1885年の写真。右からピエール・ロチ、小説「お菊さん」のモデルの「おカネさん」、友人のイヴ(遠藤文彦氏提供)〔後掲長崎新聞〕

「私にとっては永久に謎である」

 次の箇所は、ロチがお菊の三味線を聴く場面。ロチはそこに唄われているものを「永久に謎」として確定させてしまってます。

……私の後の方で、ある小さな物悲しい、人を震へ上らせるような物悲しい音色が──そうして鋭い、蝉の歌のように鋭い音色が、──かすかに聞こえ出した。それから次第に泣くような高い調子となって、真昼の物淋しい空気の中で悩み悶えている日本人の或る霊の甘ったれた怨み言を聞くように響いて来た。彼女の三味線が一緒に目覚めたのである。……(略)
 彼女は私を見ると、急いであわただしくbonjourボンヂュアル〔今日は〕を云ったりしないで、音楽で私を迎へようと思い附いたことが私の気に入った。〔……〕そうして手まねで続けろと相図した。 「──さあ、もっとお弾き。お前の小さな不思議な即興曲アンプロヴィザシオンを聞いてるのは面白いから。」──この笑い好きな国民の音楽が斯くまで哀愁を帯びていられるとは奇体である。併し実際クリザンテェム(引用者注:=菊)の今弾いているものは耳傾ける価値がある。
 ……何処から彼女はそれを得たのだろう?彼女が斯うして弾いたり唄ったりしている時、私にとっては永久に謎である、いかなる言い尽せない夢が、彼女の黄いろい頭の中を通りすぎるのだろう?〔後掲内藤〕

「彼女の黄いろい頭の中」って……頭の中は黒だったり褐色だったりはしないと思いますけど、要するに「白」の頭では到底理解できないものがお菊の黄色い思考なのだと言いたいのでしょう。
 さて、これだけなら前掲ジャポニズムと同様の前世紀の「西洋の妄想」ということになります。でもロチの文芸に関する限り、これに日本の作家がインスパイアされてる。作家、と言っても超一流で、まず芥川龍之介(舞踏会)、さらにこれを受けて三島由紀夫(鹿鳴館)が著述されているのです。

彼女がその仲間へはひるや否や、見知らない仏蘭西の海軍将校が、何処からか静に歩み寄つた。さうして両腕を垂れた儘、叮嚀に日本風の会釈をした。明子はかすかながら血の色が、頬に上つて来るのを意識した。しかしその会釈が何を意味するかは、問ふまでもなく明かだつた。だから彼女は手にしてゐた扇を預つて貰ふべく、隣に立つてゐる水色の舞踏服の令嬢をふり返つた。と同時に意外にも、その仏蘭西の海軍将校は、ちらりと頬に微笑の影を浮べながら、異様なアクサンを帯びた日本語で、はつきりと彼女にかう云つた。
「一しよに踊つては下さいませんか。」〔芥川龍之介『舞踏会』←後掲小林〕

「明子」は、芥川が既作「開化の殺人」で登場させた甘露寺明子という奔放な女性を主役格で再登場させたものと評されてます。
 最終稿では登場しないものの、舞踏会の初稿には上記の海軍将校がはっきりと「ロティ」と固有名詞を記されます。

「存じておりますとも。Julien Viaud(ジュリアン・ヴィオ)と仰有る方でございました。あなたも御承知でいらつしゃいませう。これは『お菊夫人』を御書きになっ た、ピエル・ロテイと仰有る方の御本名でございますから。」〔芥川龍之介「舞踏会(初稿)」←wiki/舞踏会〕

 舞踏会での明子は、次の記述のように中国人から「呆れたやうな視線」を向けられてます。個人的に確証は得難いけれど、一般的な評価としてはこの「呆れ」は、儒教的な評価に立った場合に西欧人の娼婦のように見える振る舞いを揶揄するものと考えられてます。

階段の丁度中程まで来かかつた時、二人は一足先に上つて行く支那の大官に追ひついた。すると大官は肥満した体を開いて、二人を先へ通らせながら、呆れたやうな視線を明子へ投げた。初々しい薔薇色の舞踏服、品好く頸へかけた水色のリボン、それから濃い髪に匂つてゐるたつた一輪の薔薇の花――実際その夜の明子の姿は、この長い辮髪を垂れた支那の大官の眼を驚かすべく、開化の日本の少女の美を遺憾なく具へてゐたのであつた。と思ふと又階段を急ぎ足に下りて来た、若い燕尾服の日本人も、途中で二人にすれ違ひながら、反射的にちよいと振り返つて、やはり呆れたやうな一瞥を明子の後姿に浴せかけた。〔芥川龍之介『舞踏会』←後掲小林〕

 三島由紀夫「鹿鳴館」は三島戯曲の代表作、かつ俳優の実力を要する難作として今なお名高い。

※佐藤秀明(国文学)は本作を「役者の技術だけでなく、身体性や経験、持ち前の雰囲気やパワーまでも総動員しなければ、通俗劇に堕する危険」があると指摘〔[13]「第一部 評伝 三島由紀夫――第三章 問題性の高い作家 『鹿鳴館』」(佐藤 2006, pp. 91–92)←wiki/鹿鳴館〕

 ただし、芥川によるロチ評は世間並みに低いもので、多分、三島によるそれも同じと思われます。

英語版・お菊さんの扉絵 〔後掲みずすまし亭通信〕

※JAPAN: Pierre Loti (192?)Frederic A.Stokes Company

センチメンタルな「がらくた」=オリエント

圧倒的人気を誇っていたピエール・ロティが1924年に没した際、アンドレ・ブルトンをはじめとするシュールレアリストらに「馬鹿者(l’idiot)が死んだ」と称えられ、悦ばれたのは有名である1)。日本でも、芥川龍之介が随筆「ピエル・ロティの死」において「同時代の作家と比べたところが、餘り背の高い方ではなさそうである2)」と、ロティをフランスの文壇の下位に位置づけているが、1920年代の両国の文学界のアヴァンギャルドを代表する作家らのロティに対する評価が、当時の時点ですでに一致していたのは興味深い。
 パスカル・カザノヴァが定義する「世界文学空間3)」の中で、ロティの文学に対する厳しい評価は時代が下るにつれて、国を問わず一般的になっていく。例えば、1948年に出版された『ラ・ガゼット・デ・レットル』の19世紀文学を回顧する特別号で、のちに『メルキュール・ド・フランス』の編集者となる批評家ガエタン・ピコンは「ロティに何の価値があるとも思えない」と述べ、文芸評論家兼劇作家のティエリー・モールニエは、ロティの名が「オリエンタル・バザールとセンチメンタルながらくた」を連想させる存在でしかないとまで言ってのける4)。〔後掲ラヴェル〕

※原注1)André Breton et al., « Un Cadavre », in Tracts surréalistes et déclarations collectives, tome I (1922-1939), textes réunis et commentés par José Pierre, Paris, Éric Losfeld éditeur, 1980, pp. 19-26.
2)芥川龍之介「ピエル・ロティの死」、『芥川龍之介全集』第6巻、岩波書店、1978、p.122.
3)Voir Pascale Casanova, La République mondiale des lettres, Paris, Seuil, 1999. パスカル・カザノヴァ、岩切正一郎訳『世界文学空間―文学資本と文学革命』、藤原書店、2002.
4)Per G. Ekström, Évasions et désespérances de Pierre Loti, Göteborg, Gumperts, 1953, p. 17.

 にも関わらず、芥川・三島、ひいては彼らを触媒としての日本人一般に対する影響度は否定しようもない。この影響度の性格は、もう一人の濃厚な感染者と見られる永井荷風においても顕著です。

自分は遠いアメリカの空の下で、幾度か思ひを此処に走せた当時の事を追想せずには居られぬ。 日本に居た昔も、自分はロツチが美しいトルコの恋物語を読みながら、エジプトやトルコに対しては、 此と云ふ特別な感想を持つ事が出来なかった。物語は要するに美しい架空の物語に過ぎなかった[…]15)。〔後掲ラヴェル〕

※15)永井荷風『荷風全集』第4巻、岩波書店、1992、 p. 288.
※『あめりか物語』(1908)内の記述。ロティの代表的な小説『アジヤデ』(1879)で描写されたトルコを訪れた際のもの。

 荷風は「美しい架空の物語」として、ロチのオリエント又は日本の正体を暴いて見せています。トルコを客体とし、実際に訪れるという当時にしては相当大がかりな投資を経てです。
 ただし、かくして幻想として抽出したオリエントは、なおも荷風を毒し続けた形跡があります。

荷風がセネガルを舞台とした『アフリカ騎兵』(1881)を、自身の『西遊日誌抄』(1905)で引用している点からも、中東やアフリカを描いたロティの作品から影響を受けていることは確定的で、西原や姜らが論じるように、荷風の小説の主人公がロティの小説の主人公と自分の立場を同一視し、その物語で描かれる「オリエント」の枠外に自己を置いて「見る側」の主体になりきっていることは疑いようがない。〔後掲ラヴェル〕

 これに対し、現実の日本に腰を据えた小泉八雲は、ロチの日本国内への最大の導入者の一人とされるにも関わらず、次第にロチに批判的立場を採るようになったといいます。

荷風とは対照的に、ロティを英語に訳し愛読していた八雲は、来日してからロティに批判的な評価を下すようになり、日本人の妻小泉セツと結婚してからは「ロティは日本人女性に対して不公平である」と評するまでになる19)。〔後掲ラヴェル〕

※原注19)Christopher Reed, The Chrysanthème Papers: The Pink Notebook of Madame Chrysanthème and Other Documents of French Japonisme, Honolulu, University Press of Hawaii, 2010, p. 10.

 従って、芥川・荷風・三島といった第一級の文学者たちは、実体としての東洋・日本を離脱した「オリエント」幻想に、それと知りつつ魅了されたと想像せらるるのです。ここの部分で、どうも個人的に共感できるほどこの幻想に惹かれないのですけど──現代に至っても西欧人に影響を与え続けている、何か強力な麻薬的作用を帯びたモノであるらしい。
 繰り返しになりますけど、明治日本の躍進はこの不可思議な誤認の中で加速された部分があると思うのです。ただ、「がらくた」の星雲がなぜこの時代に膨れ上がったのかが、凝視するほどに不思議なのです。

1885年公演でプーバーを演じるRutland Barrington( (1853–1922) )〔wiki/ミカド〕