GM.(経路)
目録
東照宮 桜辿れば猿猴橋
Covid19華やかなりし頃、運動不足の解消というか何てゆーかで、JR広島駅北の二葉山に何度かアプローチしました。
本稿は、まあその時々の記録の断片ですね。
江戸時代,広島東照宮(略)から猿猴橋東詰の松原に至る参道両側に続く桜並木は,広島城下随一の桜の名所でした。[シリブカ公園(二葉の里第二公園)サクラ並木復活記念碑説明文]
現在は広島駅施設と高架が出来て、想像しにくいルートです。あえてGM.にルーティングさせるとこんなルートになります(→GM.:行程)。
誰の手で二葉の山は保たるる
下記は、令和四年を寅の歳として紹介する東照宮の案内板内の記事です。
家康公は、天文十一年(一五四ニ)壬寅年寅刻三河国で誕生され、その折蓬莱山薬師十二神将の寅の神像が忽然と消えた為、家康公はその生まれ代わりだという伝説があります。
寅は虎が当てられ、日本書紀には、虎を友とした者が虎から万病を癒す針を得た話もあります。〔広島東照宮案内板〕
広島二葉山に東照宮が据えられたのは政治的事情はもちろんあろうけれど、江戸初期、草創期の広島の宗教的な要地がこの山の海側斜面だったらしいことは、朧気ながら否定しにくい事実なのです。
さて、東照宮の設置時期ころから何となく神聖視されていたらしいこの山麓を──今現在、誰がどういう名目で管理してるのかよく分かりません。位置は東照宮の裏ですけど、最もよく用いられる呼称は金光稲荷、でも個別の社は単に金光教か稲荷信仰とも思えない多様さなのです。
要黐 朱塗鳥居の百二十
東照宮裏手辺りにある行程略図が上記ですけど──実際にはかなり曲りくねります。
下記が拡大。標高は139mと記され、登山とは呼べない「お散歩」ではありますけど、ホントに散歩気分だと少し意外でツラいです。
登り口には遥拝所。「登山」がツラい信徒のための社でしょう。
で。参道の道標に「右 キンコウ神社道 左 三ココウ神社道」と読める文字きあります。
左に道はないけれど、表示を見る中に「三狐呂(さんごろう)稲荷社」というのが見つかります。かつて左手西側へは、三狐呂への専用道のようなものがあったことになります。用字からして本格的にお狐様。稲荷信徒が二葉山聖地群からの分離独立的な動きでもしたのてしょうか。
登り始めると、しばらくは赤鳥居が連続して伸びていきます。この造形は稲荷には多い、一種の流行でしょう。
なお、奥宮までの階段は約五百段、うち朱塗鳥居は百二十余基〔後掲だまけん文化センター〕。
赤鳥居が途切れる辺りからが、古来の二葉山信仰の情景と思っていい。
サンゴロウ潜む森は
シリブカガシ
赤鳥居が途切れた先辺りに、登り口からの左分岐に表示にあった三狐呂(さんごろう)稲荷大明神が姿を見せます。
この三漢字は広島にしかヒットがないけれど、
上記二社の先の例、津軽関係説はなぜか色濃い。
津軽 #高山稲荷神社。播州赤穂浅野家、#忠臣蔵四十七士 唯一人の生き残り #寺坂三五郎 が藩お取り潰しの際、城内のお稲荷さんを勘請したのが始まり。遠く離れた大阪天王寺 #吉祥寺 に似た話。〔後掲ものづくりとことだまの国〕
芸州・赤穂の浅野家繋がり、かつ豊臣五奉行筆頭家への徳川姻戚関係が絡まった緊張関係の中で、二葉山東照宮の聖地エリアは整備されたようです。ただ津軽はもちろん、狐神が関わる理由は不明です。
芸州広島藩は浅野家で、二代目藩主の浅野光晟の母・振姫が家康公の三女ということから広島東照宮が建立されました。
芸州浅野家と赤穂浅野家は、いわば親戚関係。
寺坂吉右衛門が赤穂浪士の弔い行脚をするにあたって、芸州浅野家のサポートがあったのかも知れません。しかしそれがなぜ津軽につながるのかは謎。[前掲ものづくりとことだまの国]
上の御神井は、行ってみて疲れたので一度しか訪れてません。でも水は霊妙に美味いです。
この一帯の二葉山シリブカガシ群生林は面積2.5ha、現時点で日本最大とのこと。
東照宮東脇を「風呂の谷山」といい、ここにも御神井と呼ばれる豊かな井戸があります〔後掲広島東照宮〕。一見見る以上に、ここは水利の豊かな土地らしい。
二葉山巨石の根には御狐様
「奥院」と東照宮側は呼ぶ巨石エリアは、茂みから唐突に現れるのですぐにそれと知れます。
沖縄、大げさに言うと斎場御嶽に似てます。ただ、明らかな巨石信仰なのに、上の画像みたいに岩の根に置かれるのは狐さんなのです。
祀り方には、どうも幾つかバリエーションがあり、不均一ですらあります。
巨石前を西へ通過したところのお堂が、奥宮らしい。見晴らしは良いけれど、そんなに聖地っぽさはない。
沖縄なら封じられてる岩上へのルートも一応採れます。少し足元に気を付けると、巨石の上に登れます。登っていいのかどうかは──問題ないと思います。知らんけど。
まず下記は、広島城方向。中央ビルはアーバンビューグランドタワー。左手海上は似島。
広島湾低く見下ろす高射砲
下のは海田市方向。二本のビルはどちらも広島駅南側で、シティタワーとグランクロスタワー。その後方の高みが黄金山です。つまり──
下のキャプションのようなシンプルな言い方をして良いかどうかはともかく、かなり眺望はよい。
この眼下が一面の砂州だった情景を想像すると、水軍の見張り場としてはこの上なかったでしょう。その一つの証左として──
大戦時にはこのすぐ上の尾根に、高射砲陣地が置かれました。見張り(防御)と火砲(攻撃)の何れが主だったのかは不詳。ただ下記のように米軍がちゃんと目をつけてるので、軍事的には当然の要地だったみたい。
陣地の址は今もモロに見ることができます。広島に原爆が落ちたのは、素直に考えて本土決戦西部軍の中核だったからです。
大本営は、昭和20年(1945年)1月20日に本土(北海道、本州、四国、沖縄を除く九州)の維持を作戦目的とした帝国陸海軍作戦計画大綱を決定、本土における軍の編制を根本的に改めた。
それまでの防衛総司令部を廃し、日本列島を鈴鹿山系を以って東西に二分し、東部を第1総軍が担当、西部を第2総軍が担当、第2総軍は中部軍管区及び西部軍管区の防衛を主任務として、連合国軍上陸が予想される南九州を重点に編成され、連合国軍の沖縄上陸の6日後の4月7日には司令部が広島市(二葉の里[1])の旧騎兵第5連隊本部に置かれた。
連合国軍の主力アメリカ軍は、昭和20年(1945年)8月6日に広島市へ原子爆弾を投下した。これにより第2総軍の総司令部以下全組織は壊滅的な被害を受けた。[wiki/第2総軍 (日本軍)]

海側に見事に太いくろがねもち
さて以下は──高射機銃陣地から尾根を西へ歩いてみた時の記録です。
1204、陣地から尾根道を西行開始。道は未整備。
1210──滑って谷底に落ちそうになるも、木を必死に掴んでとどまる。
1211、大岩。拝みの跡なし。
樹木にいちいち品種表示。たぶのき、かくれみの、かなめもち、えぶのき、やまもも。かなり豊かな林相の雑木林です。神域ゆえでしょうか。
1216。「しりぶかがし」と「くろき」の場所で左にも荒れた山道が現れました。右を採るけれど──里山に入った風情があります。石垣らしき跡もちらほら。炭焼き小屋でもあったのでしょうか。
海側に見事に太い「くろがねもち」。
1220頃に歩いた辺りは鞍部になって平坦だったけれど、そこから再び傾斜が増しました。
意外にも、この辺から先が結構難所になりました。
倒木の鳥居をくぐり迷う山
倒れかかった樹木をくぐる。1223。上にも横木があり、まるで鳥居です。
1224、再び傾斜。ただし……下には家並みが見えてきました。軽登山者らしき人に追い抜かれる。──やはり道を知ってれば軽く出れるルートなのです。
1229、道に突き出た境界柱二本?新しい刻印だけど「一六五五」の文字。何てしょう?
太鼓の音。おそらく饒津神社からです。
1233、右手に校庭,左手にアパート。三叉路というほどでもないけどどちらへでも行ける。木製の垣根のある左手を選ぶ。
鳥獣用捕獲ワナ?何?何が出るのじゃ?大きさからすると猪っぽいけど……エエッ?早く言えよ!
やはり右手道に戻ります。こちらが神社裏だと思う。
左手道は「この先は遊歩道ではありません。危険ですので、立ち入らないでください。広島森林管理署」の立て札。だから早く言えよ。…………てゆーか「危険」なのは何?
1242、コンクリ道を辿る。
1245、明星院東門(→GM.)。饒津神社じゃなかったけど……とにかく生還。ふう。
鬼門・二葉山を護る明星院
明星院の前身・妙壽寺は、1589(天正17)年の毛利輝元による広島移城時(←吉田郡山城)に輝元母の御位牌所として建立、宗旨は褝宗と伝わります〔後掲明星院〕。後代の浅野氏に至り真言宗寺として傅正院殿(浅野長政)位牌を安置しているから、以来引き続いて当主ゆかりの寺になってて──その背景として、広島城の鬼門を封じる位置にある二葉山(この場合は明星院山とも呼称)の呪術的機能があって、それを発動させるのが明星院、というような説明もあるみたい。知らんけど。
つまり、宗教的要地としての二葉山を江戸初期の歴代藩が強引に仏教的に位置づけようとした寺、と捉えられるんですけど──
庶民感覚での反感が激しかったんでしょうか。9代藩主・浅野斉粛の代に境内西半分を神社化したようです。wiki(浅野斉粛)によると、1835(天保6)年、明星院に浅野家の初代浅野長政を祭神とする社を建立、これが後の二葉御社、現・饒津神社であるという。廃仏毀釈の流れの中、具体的な神社化がそんな風にカモフラージュされて進んだのでしょう。
寺の方は1842(天保13)年の火難後、維新時の寺領廃止を経、1909(明治42)〜1913(大正2)年頃の本堂再建まで、実に67年以上機能を停止したらしい。
青石之寺院との別称のほか、「仁和寺別院」の称もこの1909〜1913年と伝えられるので、この時期に何かの巻き返しがあったと推測されます。また、「広島城の鬼門」説もこの時期に思いつかれて、過去からそうであったように語られている、という可能性もあります。
広島東警察署の「ゆるさない ハンドル・スマホの二刀流」というキャッチが旗めいてます。
何かこの「二刀流」という、刮目するほど斬新でもない表現がこの時期、日本のあちこちに出現したのはなぜでしょう?
■注記:虎の術を修めた鞍作得志さん
「虎から万病を癒す針を得た話」というのは、そもそれ自体で意味不明です。虎はその身体のどこに針を持つのか?針が鍼灸のことなら、外傷も含む万病を治せるの?その人は虎から針を、どう受け取ったの?
物凄くシンプルには、虎はスーパーパワーである、ということでしょうけど──そもそもこんな謎の話を、日本書紀がわざわざ採用したこと自体が謎です。探すと原文は、こうでした。
夏四月戊戌朔、高麗學問僧等言、同學鞍作得志、以虎爲友、學取其術。或使枯山變爲靑山。或使黃地變爲白水。種々奇術、不可殫究。又虎授其針曰、愼矣愼矣、勿令人知。以此治之、病無不愈。果如所言、治無不差。得志、恆以其針隱置柱中。於後、虎折其柱、取針走去。高麗國、知得志欲歸之意、與毒殺之。(日本書紀/第二十四巻∶皇極四年の正月から四月にかけての記述)
夏四月一日、高麗の学問僧たちが、こう言った。【同学の鞍作得志(くらつくりのとくし)が虎を友として、その術を学び取った。あるいは枯山を青山に変え、あるいは黄色い地を白い水に変えた。種々の怪しき術を、ほとんど極めた。その後、虎は虎の針を授けて、『決して人に知られてはいけない。これで治療をすれば病気が癒えないことはない』と言った。その言葉どおり、 虎の針で治療すると、すべての病気が治った。得志は常にその針を柱の中に隠していた。だが、ある時、虎がその柱を折って針を取り、いなくなった。高麗国は得志が帰りたがっていると知って、毒を与えて殺した】と〔後掲讖緯〕
〘▶現在リンク切〙URL:https://13662321.at.webry.info/201612/article_7.html
訳が違ってるのでは?と思えるようなハチャメチャなストーリーですけど、漢文も合致します。念のため、別の訳文も掲げておきます。
夏四月一日、
高麗 に遣わされた学問僧らが、
「同学の鞍作得志 は、虎を自分の友としてその化身の術を学びとりました。あるいは、枯山を変えて青山とし、あるいは黄土を変えて白い水にするなど、種々の奇術を尽して極まることがありません。また、虎が得志に針を授けて、『夢々人に知られてはならぬ。これを使えば治らぬ病は無い』と言った。果して言う通りで治らぬことはなかった。得志は常にその針を柱の中に隠していた。後に、虎がその柱を折って針を取って逃げた。高麗国 では得志が帰国したいと思っていることを知って、毒を食べさせて殺してしまいました」
と報告した。〔後掲古代日本まとめ〕
高麗が出てくる唐突さもですけど、人に知られてはならぬ、との禁秘を課しつつ「どんな病もたちどころに治せるよ」とくすぐる詐欺師のような口上は、浦島太郎的です。そもそも得志さんはストーリー中では一度も「帰国したい」なんて言ってないのに、なぜか突然殺害されてしまうのです。
ではこの話は一体何なのか?──という謎もまた、あまり解けた実感を持つ人はないみたい。下記の「大化の改新」説も、どうにも「?」です。
この話は非常に脈絡のない謎のストーリーなので、大化の改新の蘇我入鹿暗殺事件の真相を藤原不比等が寓話にして織り込んだ、などの奇説もあります。〔ibid.〕
なお、中国語の成語には「小人得志」というのがあり、百度百科によると「旧指道德低下或行为不正派的人。指人格卑下的人取得权势」とあり、なかなか意味が難しい。Ciciに整理してもらうと、こういう感じでした。
──「小人得志」とは、能力や資質が低い人が、たまたま高い地位や権力を得て、得意になっていることを意味します。(略)
この言葉は、中国の故事「韓信」に由来しています。韓信は、優れた軍事能力を持つ人物でしたが、若い頃は貧しく、地位もありませんでした。しかし、後に楚漢戦争で活躍し、漢の初代皇帝である劉邦に重用され、大将軍にまで昇進しました。しかし、韓信は自分の功績を過信し、傲慢になり、劉邦に反逆を企て、結果的に殺されてしまいました。
「小人得志」は、このような人物の末路を戒める言葉として使われています。
■レポ:1945.8.6広島戒厳令
「日本の一番長い日」などには東部軍や西部軍の名や役職が登場するし、どうも機能はしてたらしい……というのがよく分からないけれど、1945年に入ってからは広島には第二総軍司令部が置かれてたのは確からしい。場所は騎兵第五連隊跡と伝えるものが多く、それならば鶴羽根神社前、現・広島東警察署(→GM.)ということになります。
上記図でイメージだけはつかめますけど──フォッサマグナ以西、本土決戦想定区域中でも前線に近い日本内地の半分が、広島を中心に布陣してた訳です。
さて。この第二総軍が8/6の14時──つまり原爆投下5時間余にして、広島市内に戒厳令を布告した、とする見解があります。
次の史料から全くの都市伝説ではないらしいけれど──
2^ 戒厳令の記載は広島県発行『広島県戦災史』1988年、また広島平和記念資料館・企画展(防空・救援体制に関する年表)の13:25の項など。なお戒厳令は大日本帝国憲法第14条「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」で規定されており、軍が独断で戒厳令布告するのは違法であるという意見があるが、戒厳令(明治15年太政官布告第36号)第6条では「軍団長師団長旅団長鎮台営所要塞司令官警備隊司令官若クハ分遣隊長或ハ艦隊司令長官艦隊司令官鎮守府長官若クハ特命司令官ハ戒厳ヲ宣告シ得ルノ権アル司令官トス」とあるので天皇直隷の司令官として統帥に参画する第2総軍司令官にも当然戒厳宣告の権限はある。また戒厳宣告の条件「戦時ニ際シ鎮台営所要塞海軍港鎮守府海軍造船所等速カニ合囲若クハ攻撃ヲ受クル時」(同第4条)は被爆時の広島の状況に合致する。(これを「軍事戒厳」という。なお日露戦争講和時の日比谷焼打事件や関東大震災、二・二六事件などに際して宣告されたのは法的にはこの「戒厳令」によるものではなく、緊急勅令によって戒厳令の規定を一部準用した行政措置であり「行政戒厳」と呼ばれる)ただ被爆下の混乱で一次資料が無いこともあり、この戒厳令布告を疑問視する意見もある。[wiki同]
H19防衛研究所図書館資料室回答
探してみると、H18〜19に詳細を追った次の調査記録がありました。
(サイト)広島、原爆後の幻の「戒厳令」になかされる私 – 日記
(URL:)〘▶現在リンク切〙https://blog.goo.ne.jp/samubuto/e/3ba570f0138d544b61d599c2897a8edf
概略としては──戒厳令発令の事実根拠は昭30年代の暁部隊高官の(厚労省懇談会上の)口頭発言。ただしこれによっても、少なくとも公文書や行政上の指令レベルの発令ではなかったことが判明しています。
「これは酷い!……戒厳令を発することも考えなければ」位の話が交わされたことはあっても、軍政上の判断はまず下記防衛庁見解による「発令せず」の可能性の方が高いと考えられます。
(H19防衛省見解)
「○○様拝啓 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。原爆投下直後に「戒厳令」が発令されたかのお問い合わせですが、「戒厳令」は緊急勅令、勅令で公布されその勅令は直ちに官報で公布し法令集に記載されます。(同封した二・二六事件時の戒厳令を参考にしてください)そのため、第2総軍が独断で公布することは天皇大権を侵犯することになり考えられません。三月十日の東京大空襲時にも長崎原爆投下にも公布されていないので広島も同様と思います。以上のとおりご連絡します。 敬具 防衛研究所図書館資料室 」
続いて、広島県(文書館)の回答も次の通り。
(H19)
【広島県立文書館を訪ねる】
(略)翌年二月、再び文書館を訪ねると「広島県戦災史」の執筆者の一人と会うことができ、当該部分の執筆者に電話で問い合わせてもらえました。それによると「広島の第二総軍の資料は終戦直後に焼却処分したので、戒厳令の記録も残っていない。私が見たものは昭和三十年代、厚生省援護局が調査の為に開いた暁部隊(船舶司令部)高官の座談会の記録である」ということを教わりました。(略)
【執筆者より史料が届く】
三月の末「広島県戦災史」の執筆者にお願いして「戒厳令」が記載された史料を送っていただきました。厚生省で公式に記録された書類の中に、短く「総軍は戒厳令をしく、戒厳令は終戦後に及ぶ」という記述がありました。史料は厚生省引揚援護局中国駐在事務所が昭和三十三年(一九五八年)二月二十六日に実施した「原爆関係補備調査」の記録で、その中で第二総軍所属だった旧軍人が発言したその一行には詳しい経緯は書かれていません。以上の調査結果すべてを総合して判断すると、原爆後に広島に戒厳令は出されなかったと結論を出してもよいと考えます。[同日記]
船舶司令部は陸軍組織で、戦線拡大に伴いとめどなく伸びた輸送ルートの維持のために組織された陸軍船舶部隊を統括した組織。「暁部隊」は通称号の兵団文字符が「暁」だったので用いられた通称らしい。〔wiki/船舶司令部〕
この組織のコアは、日中戦争開戦段階で1937(昭和12)年8月に第1船舶輸送司令部が動員された時期には、少なくとも司令部を広島市の宇品に置いていたようです。
ただ1945年8月6日の状況は、もう少し属人的だった模様。つまり、第2総軍の高官が一掃された状況下で、爆心地から4kmを隔て少し山陰でもあった宇品で船舶司令官(佐伯文郎陸軍中将)が辛うじて生き延びていた。翌7日以降は宇品を「広島警備本部」として市内の救援活動や警備活動の指揮をとることとなり、県庁・県防空本部も指揮下に入れます。こうなると具体の指揮系統としては佐伯中将をトップに立てるしか選択肢がなく、事実上、暁部隊が被爆地広島の行政を統括することになってしまっていたようなのです。
「広島警備本部」は多分、最低限の治安維持組織でしょう。それが被爆翌日の7日にやっと出来ているのでふ。被爆当日午後に行政行為として「戒厳令発令」と捉えられるような何者かによる何事かがあったとしても、それはいずれにせよ正常な組織決定だったとは考えにくいでしょう。
防衛省や広島県の「発令されなかった」という結論は、いずれも論理的にはやや苦しい。それでもお役所が結論をここまで明確に言い切っているのは、絶対に認めたくない「戒厳令発令」類似行為があった、と疑えなくもありません。現代において「戒厳令」が何となく暴挙と捉えられているからでしょうけど、当時のリスク管理上はむしろ適切な行為だったのかもしれません。
例えば長崎では、原爆投下3時間後に列車が岩屋橋付近まで乗入れ、諫早へ被爆者を運びました。広島でも、太田川デルタを用いた被爆者輸送は行われた模様ですけど、この船舶群をどこが統括したのかは伝えられていません。
