015-8広島東照宮奥宮\安芸郡四町\広島県onCovid

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二葉山公園(東照宮正面下)に掲示された桜並木絵図及び古写真

江戸時代,広島東照宮(略)から猿猴橋東詰の松原に至る参道両側に続く桜並木は,広島城下随一の桜の名所でした。[シリブカ公園(二葉の里第二公園)サクラ並木復活記念碑説明文]

令和四年寅の歳
「家康公は,天文十一年(一五四ニ)壬寅年寅刻三河国で誕生され,その折蓬莱山薬師十二神将の寅の神像が忽然と消えた為,家康公はその生まれ代わりだという伝説があります。
 寅は虎が当てられ,日本書紀には,虎を友とした者が虎から万病を癒す針を得た話もあります。」

東照宮本殿西側裏の山桜1
東照宮本殿西側裏の山桜2

夏四月戊戌朔、高麗學問僧等言、同學鞍作得志、以虎爲友、學取其術。或使枯山變爲靑山。或使黃地變爲白水。種々奇術、不可殫究。又虎授其針曰、愼矣愼矣、勿令人知。以此治之、病無不愈。果如所言、治無不差。得志、恆以其針隱置柱中。於後、虎折其柱、取針走去。高麗國、知得志欲歸之意、與毒殺之。(日本書紀∶皇極四年の正月から四月にかけての記述)
夏四月一日、高麗の学問僧たちが、こう言った。【同学の鞍作得志(くらつくりのとくし)が虎を友として、その術を学び取った。あるいは枯山を青山に変え、あるいは黄色い地を白い水に変えた。種々の怪しき術を、ほとんど極めた。その後、虎は虎の針を授けて、『決して人に知られてはいけない。これで治療をすれば病気が癒えないことはない』と言った。その言葉どおり、 虎の針で治療すると、すべての病気が治った。得志は常にその針を柱の中に隠していた。だが、ある時、虎がその柱を折って針を取り、いなくなった。高麗国は得志が帰りたがっていると知って、毒を与えて殺した】と

この話は非常に脈絡のない謎のストーリーなので,大化の改新の蘇我入鹿暗殺事件の真相を藤原不比等が寓話にして織り込んだ,などの奇説もあります。
*小説『讖緯』  十五、虎を友とした男: 宇宙暦研究
URL:https://13662321.at.webry.info/201612/article_7.html

案内板∶二葉山の山道マップ
うち奥宮へのルート部分
奥院登り口辺りの赤鳥居の連続エリア
奥院登り口赤鳥居から市街(広島駅北口辺り)
「左 三ゴコウ神社」の道標

参道の道標に「右 キンコウ神社道 左 三ココウ神社道」
左に道はないけれど,表示を見る中に「三狐呂(さんごろう)稲荷社」というのがあるから左はここへの別の道があったことになります。

三狐呂(さんごろう)稲荷大明神

津軽 #高山稲荷神社。播州赤穂浅野家、#忠臣蔵四十七士 唯一人の生き残り #寺坂三五郎 が藩お取り潰しの際、城内のお稲荷さんを勘請したのが始まり。遠く離れた大阪天王寺 #吉祥寺 に似た話。

*ものづくりとことだまの国/【三五郎稲荷】三五繋がりでケツネにつままれた話【直木三十五】 –
URL:https://x.gd/XcruM

芸州広島藩は浅野家で、二代目藩主の浅野光晟の母・振姫が家康公の三女ということから広島東照宮が建立されました。
芸州浅野家と赤穂浅野家は、いわば親戚関係。
寺坂吉右衛門が赤穂浪士の弔い行脚をするにあたって、芸州浅野家のサポートがあったのかも知れません。しかしそれがなぜ津軽につながるのかは謎。[前掲ものづくり]

御神井∶奥宮より少し下,皆さんが一番ヘバる辺りで一度下って同じ道を登って帰らないといけないから,ほぼ人はいません。名水です。

二葉山シリブカガシ群生林は面積2.5ha,現時点で日本最大

奥宮の,本来の本尊らしき巨石。沖縄なら祠があるその壁面下部に稲荷のお狐様が座すのは,なかなか珍しいと思います。
巨石横手(お狐様側から見て右手)の下方祠。これが本来の祀り方だとすれば,本当に沖縄そっくりなカミ感覚です。
奥宮本殿から広島中心街。この本殿はなぜか真西を向く。なお,地図上はこの裏手にあるはずの鶴羽根神社裏への抜け道は,実際には藪に消えている模様。
奥院巨石上から広島中心街
奥院巨石上から海田方向
奥宮から南を向くと,黄金山,似島富士,厳島が等間隔(角度)で遠望できます。(日本地理院地図)
尾根道の案内板と同航空写真
尾根道の高射砲銃座跡。位置は奥宮巨石の直上に当たる。

大本営は、昭和20年(1945年)1月20日に本土(北海道、本州、四国、沖縄を除く九州)の維持を作戦目的とした帝国陸海軍作戦計画大綱を決定、本土における軍の編制を根本的に改めた。
 それまでの防衛総司令部を廃し、日本列島を鈴鹿山系を以って東西に二分し、東部を第1総軍が担当、西部を第2総軍が担当、第2総軍は中部軍管区及び西部軍管区の防衛を主任務として、連合国軍上陸が予想される南九州を重点に編成され、連合国軍の沖縄上陸の6日後の4月7日には司令部が広島市(二葉の里[1])の旧騎兵第5連隊本部に置かれた。
 連合国軍の主力アメリカ軍は、昭和20年(1945年)8月6日に広島市へ原子爆弾を投下した。これにより第2総軍の総司令部以下全組織は壊滅的な被害を受けた。[wiki/第2総軍 (日本軍)]

なお,第二総軍は8/6の14時に広島市内に戒厳令を布告した,とする見解があります。次の史料から全くの都市伝説ではないらしいけれど,H18〜19に詳細を追った次の調査によると,戒厳令発令の事実根拠は,昭30年代の暁部隊高官の(厚労省懇談会上の)口頭発言で,公文書や行政上の指令レベルのものではないことが判明しています。
「これは戒厳令を発することも考えなければ」位の話が交わされたことはあっても,軍政上の判断はまず下記防衛庁見解による「発令せず」の可能性の方が高いと考えられます。

2^ 戒厳令の記載は広島県発行『広島県戦災史』1988年、また広島平和記念資料館・企画展(防空・救援体制に関する年表)の13:25の項など。なお戒厳令は大日本帝国憲法第14条「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」で規定されており、軍が独断で戒厳令布告するのは違法であるという意見があるが、戒厳令(明治15年太政官布告第36号)第6条では「軍団長師団長旅団長鎮台営所要塞司令官警備隊司令官若クハ分遣隊長或ハ艦隊司令長官艦隊司令官鎮守府長官若クハ特命司令官ハ戒厳ヲ宣告シ得ルノ権アル司令官トス」とあるので天皇直隷の司令官として統帥に参画する第2総軍司令官にも当然戒厳宣告の権限はある。また戒厳宣告の条件「戦時ニ際シ鎮台営所要塞海軍港鎮守府海軍造船所等速カニ合囲若クハ攻撃ヲ受クル時」(同第4条)は被爆時の広島の状況に合致する。(これを「軍事戒厳」という。なお日露戦争講和時の日比谷焼打事件や関東大震災、二・二六事件などに際して宣告されたのは法的にはこの「戒厳令」によるものではなく、緊急勅令によって戒厳令の規定を一部準用した行政措置であり「行政戒厳」と呼ばれる)ただ被爆下の混乱で一次資料が無いこともあり、この戒厳令布告を疑問視する意見もある。[wiki同]

(H19防衛省見解)
「○○様拝啓 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。原爆投下直後に「戒厳令」が発令されたかのお問い合わせですが、「戒厳令」は緊急勅令、勅令で公布されその勅令は直ちに官報で公布し法令集に記載されます。(同封した二・二六事件時の戒厳令を参考にしてください)そのため、第2総軍が独断で公布することは天皇大権を侵犯することになり考えられません。三月十日の東京大空襲時にも長崎原爆投下にも公布されていないので広島も同様と思います。以上のとおりご連絡します。         敬具                                          防衛研究所図書館資料室 」
*広島、原爆後の幻の「戒厳令」になかされる私 – 日記
URL:https://blog.goo.ne.jp/samubuto/e/3ba570f0138d544b61d599c2897a8edf

(H19)
【広島県立文書館を訪ねる】
(略)翌年二月、再び文書館を訪ねると「広島県戦災史」の執筆者の一人と会うことができ、当該部分の執筆者に電話で問い合わせてもらえました。それによると「広島の第二総軍の資料は終戦直後に焼却処分したので、戒厳令の記録も残っていない。私が見たものは昭和三十年代、厚生省援護局が調査の為に開いた暁部隊(船舶司令部)高官の座談会の記録である」ということを教わりました。(略)
【執筆者より史料が届く】
 三月の末「広島県戦災史」の執筆者にお願いして「戒厳令」が記載された史料を送っていただきました。厚生省で公式に記録された書類の中に、短く「総軍は戒厳令をしく、戒厳令は終戦後に及ぶ」という記述がありました。史料は厚生省引揚援護局中国駐在事務所が昭和三十三年(一九五八年)二月二十六日に実施した「原爆関係補備調査」の記録で、その中で第二総軍所属だった旧軍人が発言したその一行には詳しい経緯は書かれていません。以上の調査結果すべてを総合して判断すると、原爆後に広島に戒厳令は出されなかったと結論を出してもよいと考えます。[同日記]

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1204高射機銃陣地から西方,饒津神社方面の尾根道へ
道は未整備。1210滑って谷底に落ちそうになるも木を必死に掴んでとどまる。
1211大岩。拝みの跡なし。
たぶのき,かくれみの,かなめもち,えぶのき,やまもも。かなり雑多な雑木林です。林相が豊か,神域ゆえでしょう。

1217東尾根道

1216「しりぶかがし」と「くろき」の場所で左にも荒れた山道。右を採るけれど,里山に入った風情。石垣らしき跡もある。
海側に見事に太い「くろがねもち」
1220くろがねもち

1220山頂側を振り返る。林相は素晴らしい。
この辺りは鞍部になって平坦だったけれど,そこから再び一時的に傾斜が増す。
1221倒木の塞ぐ道

1223倒木の鳥居

1223倒れかかった樹木をくぐる。上にも横木があり,まるで鳥居です。
1224再び傾斜。ただ下には家並みが見えてきました。軽登山者らしき人に追い抜かれる。
1227鞍部付近

1230道の真ん中に突き出た境界標

1229道に突き出た境界柱二本?新しい刻印だけど「一六五五」の文字。何てしょう?
太鼓の音。おそらく饒津神社からでしょう。
1233右手に校庭,左手にアパート。三叉路というほどでもないけどどちらへでも行ける。木製の垣根のある左手を選ぶ。
鳥獣用捕獲ワナ?何が出るのじゃ?大きさからすると猪っぽいけど……エエッ?早く言えよ!
やはり右手道に戻る。こちらが神社裏だと思う。
1240危険ですので立ち入らないでください

左手道は「この先は遊歩道ではありません。危険ですので,立ち入らないでください。広島森林管理署」立て札。だから早く言えよ。……てゆーか「危険」って何よ?
1242コンクリ道を辿る。
1245明星院東門。饒津神社じゃなかったけど……ここは来たことがなかった。青石之寺院と別称を持ち,約百個の青石はほぼ愛媛県石鎚山麓の採集と案内板に書かれている。真言宗御室派。明治42年から大正9年まで故あって「仁和寺別院」を称した。
1253仁和寺別院

広島東警察署「ゆるさない ハンドル・スマホの二刀流」
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