m19R_0m第三十七波mあわあわとわだつみ鬻ぐくろのしまm甑島m予習日

※原歌 こしきじま わだつみのうえに みゆれども あわあわとして くろのすむしま[斎藤茂吉]
※※鬻ぐ:(読み)ひさぐ (異字)販ぐ。 (意)売る。商いをする。
「鬻」字は「粥」の本字で「かゆ」(水を多く入れて炊いたごはん)の意も持つ。他に「養い育てる」の意味も。


~~~~~(m–)m・喜界~~~~~(m–)m
海民史に
ちらほらと姿を見せる甑。
ついに機会を得ました。
[前日日計]
支出1300/収入1146
    ▼13.0[240]
    /利益 22
    /負債 232
[前日累計]
利益 -/負債 232
四月二十九日(五祝)
1024岡田珈琲本店
ジャムモーニング(ブルーベリー,アメリカン)370
1136チャオリー
週替りランチ(太平燕,日替り∶白身魚の黒酢あえ)550
2000駅前市場のつけあげ370
[前日日計]
支出1300/収入1290
    ▼13.0[240]
    /負債 10
[前日累計]
利益 -/負債 242
四月三十日(六)

 

五月雨の朝の薩摩川内入り

摩川内駅へと新幹線が速度を落とす中、今日のホテルを確認すると、出水市の宿を取っていることに気付きました。
 鹿児島市内はともかく──薩摩の土地勘って、まだまだ全然出来てません。
 下車した川内のホームで先方に謝って無料キャンセルしてもらい、すぐに川内の宿を取る。幸いGWと言いつつホットなエリアじゃないから……何とか予約は取れました。
 あ〜あ。疲れとるのう。

月29日金曜日、16時。駅からやや遠いのでバスで──川内市立図書館。
 ジャストミートの資料はそれほどありませんでした。
 冒頭に引用しました茂吉歌※は、1939(昭和14)年10月5日~14日の日程で鹿児島を旅し、うち13日には川内町(現在の薩摩川内市)も訪れています。ただ13日の0時50分に川内に着き仮眠、可愛山陵で川魚を食って夕方に鹿児島入りという強行軍〔X/川内まごころ文学館@magokorobgk〕。

※再掲:こしきじま わだつみのうえに みゆれども
あわあわとして くろのすむしま[斎藤茂吉]。「クロ教」≒隠れキリシタン〔wiki/クロ教〕については、堀田善衛の小説「鬼無鬼島」は発表(1957年)前ですけど、吉田絃二郎「一人歩む」※※は発表済なので、目敏くこれを読んでいたか、地場の噂で聞いたかしたものでしょう。
※※改造社から1926年発売。冒頭「草の上」にクロについての記述あり。

塩田甚志「甑島」より

史・考古学の塩田甚志さんという人の「甑島」(吉屋印刷,2000)という本を見つけました。他の本を見つけれず、ほぼこの本の読破で持ち時間を使い切ってしまってます。

作家堀田善衛は、この島を「鬼無鬼島」と名付けて、下甑島の孤絶した小部落のなかに口を閉ざされたまま残るというクロたちの秘められた生きざまを小説に語っている。(略)神社の鳥居などは、そこ、ここに十字架がイメージされていると言われている。〔塩田ibid.〕

 妙に有名なこの信仰については、確実な情報はほとんどありません。研究者もむしろ避けて通ってるのか、それとも下話段階で地元に拒まれてるのか、そこは分かりませんけど──オカルトめいた記述は多いのに、壊滅的に出典を欠きます。※wikiにも記事があるが「検証不十分」タグをつけられたまま。
 現代においていわゆる「隠れキリシタン」は一般に学術研究にも応じており、五島列島では人口比も判明してます(→後掲)。甑島の「クロ」は近代以降の興味本位の対象にされ過ぎたまま、数世代を経てしまっており、当事者側からして当然ながら──もう二度と、平場の事実として記録されることはないでしょう。宮本民俗学が諭す「調査されるという迷惑」の典型例です。
 海域アジア編の本章としては、辛うじて次のような説を見つけただけです。

上甑島浦内内部落に、かつて山羊が大量に繁殖していたことから、これはその昔、宣教師が食糧として持ち込んだ名残りであると語られているがその真偽は分からない。〔塩田ibid.〕

「甑」島の由来

島の島名には多くの説がある。古代の蒸し器から採るものが一般的であるが、九州山系に甑岳あり、霧島山系の韓国岳も甑岳と言ったが、岩や瀬に甑の名を付けたものは九州各地にも多いようである。
 その外に、海洋民族というカシキ族から採るもの、アイヌ語の「クシキ」(kusike)から採るというもの、これは、舟で渡るような離れた場所にある島や浦を表現すると言う。これには「コシキ」、「クシキノ」、「カシマ」、「クシの瀬戸」などがあり、日本最南端の「カシマ」は甑島にあるとの説もあるが、甑島の鹿島は、近世に鹿島神社などを勧請し、それに因んで、昭和代に鹿島村を命名したもので、古代に遡る地名とは思われない。
 その外に、朝鮮語々源説があると言われる。〔塩田ibid.〕

 海東諸国記に「古志岐島」とあるけれど、素人目で原図の該当地域を見る限り、「甑島」と正確に書いてあります。

海島諸国紀中の「甑島」

ろ、ほとんど音からの当て字を使っているこの地図の中で、上記のような音先行の歴史をより色濃く持つ甑島に、正確な漢字が使われてることに驚きます。
「甑」地名の史料初出は続日本紀の769(神護景雲3)年。甑島隼人麻比古らの正六位上→従五位下叙任記事です。隼人大乱が720年からの約一世紀とすると、周辺を同じ「隼人」として抑えたか、点数稼ぎしたかでしょう。同時期直後の他記事は遣唐使の遭難記事(宝亀9年=西暦778年)。

「続日本紀」によれば,宝亀9年11月遣唐船が帰途暴風にあい,10日その第4船が甑島郡に漂着,13日にはその第1船の舮の部分が同郡に漂着している。また「三代実録」によれば,貞観15年3月11日渤海国船2艘が漂着するなど,漂着の記録が多い。なお,「続日本紀」神護景雲3年11月26日条には,正六位上甑島隼人麻比古らが外従五位下に叙されたことが記録されており,すでにそのころ甑島は甑島隼人に領知されていたことが知られる。〔角川日本地名大辞典/甑島郷(古代)〕

▶〔内部リンク〕→m178m第十七波余波mm志布志前川/鹿児島県/■転載:続日本紀 大隅隼人百年戦争記
民具・酒醸造具としての甑〔後掲灘酒研究会〕
くから使用されている米を蒸すための桶を甑という。かつては杉材でつくられた。蒸気熱による板のそりを防ぐために柾目板を使用した。甑の底には蒸気を取り入れる穴(甑穴) がある。甑の形状は底径より口径が少し広く、深さは直径に比べて浅く扁平な形になっている。

 地名由来は、土器「甑」の形状との類似を言うのが穏当らしい。ただ塩田は地元の感性に基づき、その「語感」から解釈してます。

かつては,薩摩方言で,「コシキ」は「こじき」や「癩病者」の意味があり,「コジッジマ・コジッガジマ」と発音されたことから,快い語韻ではなかったようである。〔塩田ibid.〕

甑島の海域史

て本論です。海民行動圏としての甑島について、次の短文がかなり言い尽くしてくれます。

 下甑島の北西岸には神功皇后を祀る大多羅姫神社、御子を祀る御子明神、三韓征伐のおり軍船を繋いだという大内浦などがあり、海神を祀る神社も多い。(略)甑島は東支那海上の航海の道標であり、泊地であり、異教徒や密貿(ママ)の隠れ家ともなった。
 また、倭寇や海賊の基地となっていた可能性もある。〔塩田ibid.〕

 ただし、同時に再確認されるのは、これらも史料的に実証されるものではなく、伝承に過ぎないということです。逆に史料への記載はというと、16C末の薩摩側記録によります。つまり島津氏による貿易統制の反作用として密貿易が「発生」して来る。

天正二年(1574) 甑島で唐船の抜荷事件(上井覚兼日記)があった。
慶長四年(1599) 長崎来航のルソン船が二艘甑島着岸、一艘は阿久根送り。船長は長崎で取り調べられた。
慶長七年(1602) ドミニコ会宣教師など五人が、甑島出身の船長キザエモンと共にルソンから下甑に上陸布教。(略)
寛永十九年(1642)五月 ローマのキリスト教本部のルビンなど八名が下甑大串に着岸、逮捕されて長崎で処刑された。同年七月には、甑島にポルトガル船来着の時の処置が通達され、佐賀藩主鍋島勝茂の家老からは、同藩の通報船を甑島に置くことを提案して来ている。〔塩田ibid.〕

1602年ルソン→甑島を航行した「キザエモン」船長

 上記のうち、1602年のスペイン使節らしい一団の来航に着目してみます。この事件がギラつくのは、対外関係が規模的に興隆したり変化したからではなく、国内政策との不協和が最も大きかったから、と見るべきでしょう。
 注目すべきは船長の日本人らしい名で、いずれも甑島出身と書く。自然、船籍も甑島と推測されます。

宣教師上陸地の碑 (下甑町長浜)
1602年7月3日、長浜出身の船長レオンキザエモンの船でマニラを出発したドミニコ会のフランシスコ・デ・モラレス神父一行5人がこの地に上陸しました。
翌日、長浜海岸に船の帆でテントを張り、一番目のミサを建てたそうです。
後に、島津家久の許可を受けて、薩摩川内市の京泊へ移りました。〔後掲でっさるっ〕

 記録によって違いがあるのは、この宣教師らが「薩摩藩の招聘」により来航したかどうかです。ただ九州側に移った経緯からは、少なくとも薩摩側の厚意が感じられます。

・宣教師上陸記念碑
1602年、スペインのドミニコ会宣教師5名が長浜へ上陸したのを記念して建てられました。薩摩藩の招聘によるもので、長浜出身のレオン・キザエモンの船で来たと伝えられています。その隣の碑は、宣教師が携えてもってきた聖母の御絵を復元したものです。本物は、禁教時代にフィリピンへ移され、現在はケソン市のサント・ドミニコ協会に安置されています。現地では「日本の聖母として崇拝されています。(ママ)

〔GM.〕

宣下甑町長浜の教師上陸地の「日本の聖母」碑〔後掲薩摩川内市商工会〕

はこの旅行でスルーしてしまってますけど──GM.上にもこの地点の碑は記されてます。(→GM./宣教師上陸地 URL:https://maps.app.goo.gl/HFtrvbz1jBmPgsG6A)
 ここのクチコミに、きちんとした分析的評価が掲げてあったので、長文になるけれど引用しておきます。──要点は、関ケ原で西軍につきながら本領安堵されるこの時期の行動としては、相当に危険な、徳川幕府に対して言えば挑発的な行動だったという点です。

1602年、薩摩藩はドミニコ会のスペイン人宣教師モラレス神父を下甑の長浜に招きます。モラレスはそこに教会を建て布教活動を行いますが、のちに薩摩川内にある京泊に移りました。京泊で布教活動や慈善活動を行いますが、1608年ごろから薩摩藩のキリスト教弾圧が始まります。そして1609年にモラレス神父は薩摩を去り、長崎でサント・ドミンゴ教会を建てたのです。
ところで「スペイン人の宣教師」を招聘したのは、スペインとの貿易が目的だったからとも言われています。当時のスペインは世界屈指の強国でしたから、そことの交易は薩摩藩にとってはうまみのあることだったでしょう。しかし1597年には漂着したスペイン船サン・フェリペ号の船員が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている」という発言をしています。その結果、スペイン人の宣教師・修道士など26人が長崎で処刑されているのです。こう考えると1602年時点での「スペイン人宣教師の招聘」はかなり危ない橋だったように思われます。本土から離れている下甑島が選ばれたのは、それを幕府に隠ぺいするためだったのではないでしょうか。
なお1614年11月6日、モラレス神父は宣教師追放令によって国外に追放されますが、のち密入国。1619年3月15日に潜伏先で逮捕され、1622年9月10日に長崎の西坂の丘で殉教しています。お隣の「日本の聖母」の石碑は、モラレス神父が来日時に携えてきた聖母像の写しですが、本体は破壊を免れフィリピンに安置されているそうです。
2024.11.29〔GM.クチコミ/只見壮一郎〕

江戸期「鎖国」下の甑島の明暗

17C半ば、一般に「鎖国」完成期と考えられる時期に、甑島地頭から島津藩へ要望された事項が残ってます。

 承応四年(1655)第五代地頭比志島監物は、藩にたいする多くの陳情の中で、海上取り締まりに難渋していて、大凡次のことを藩に願い出ている。
一、異国船着岸の時の番船として六端帆と四端帆それぞれ一艘づつ置いてあるが、二艘とも古くなり、警固衆を乗せて長鋪まで行き難いので、御船手に申し付けて新造して貰いたい。
二、唐船来着のとき、出費も多かったが、甑には御公儀方の米もないので善処して貰いたい。
三、唐船の曳舟となる小船が一〇〇あまりいたが、五、六十艘となり、この冬に唐船三艘が来たときには、島中が大変難儀をしたので、小船なりと建造するようにして貰いたい。
四、異国船が来たとき、上、下甑に、これに対応できる者がいないので、一、二名派遣してほしい。
 これは『御公儀江比志島監物より御申被成御条書──日笠山文書』の一部の概要である〔塩田ibid.〕

 日笠山家は上下甑島の「社家頭取」(≒宮司職)を独占した神主家です。1615年頃に川内側から何か政治的な強い要請を受けて渡島した家と考えられ※、多分、準・公共的な家柄です。

※「渡島して40年後の承応4年(1655年)に、日笠山氏に対して甑島のすべての祭儀を司る社家頭取(しゃけとうどり)としての裁許状が付与されたという公文書が残っています」〔後掲日笠山家HP〕

「異国船が来たとき……対応できる者」とは、長崎で言う通詞職のような、外交・庶務能力と語学力を有する者……が想像されます。地頭比志島監物家も神主日笠山家も、その任能わざるようなスキルが求められる何事かが発生した、又は発生しかけたのだと想像されるのです。
 また、御用船ほかのインフラの量的な不足を訴えてる。新事態で足りなくなった、というだけでなく、以前の船数が揃わなくなった、といった言い方です。何があったのか推定しにくいですけど、幕藩体制下で居心地が悪くて他へ流れた海民もあった、ということかもしれません。
 では他の港で勃興したような豪商は、甑島の場合どうかと言うと──

芋焼酎「濵崎太平次」

十数艘の大型船を所有し、全国屈指の富豪と言われた指宿の浜崎太平次を筆頭に、阿久根の河南源兵衛、丹宗正右衛門、志布志の中山宗五郎なとがおり、太平次の船は甑島にも出先を置き、テングサを買い付けて、宮崎高城で寒天を製造させた。甑島へは綿を運び、綿布を織らせて晒し、移出したと言われる。
 この頃、寛政十一年(1799)には、鹿児島士長崎八右衛門が三年をかけて、平良港を掘削して甑島第一の良港となし、天然の泊地、浦内湾と共に、上片航路の中継の拠点となった。そして、明鮑(干アワビ)、イリコ(ナマコの煮干し)、カツオぶしなどを移出した。甑島では、伊牟田村の源右衛門船(永徳丸)、平良村の仙兵衛船の名が残っている。〔塩田ibid.〕

 多くの名は連ねてありますけど、甑島土着のマターは酷く少なく思えます。
 伊牟田村は甑島に地名が見つかりませんでした。平良港については鹿児島城下と思われる資本が掘削工事に入った、と記録されます。どうも、外部からのパワーに左右されて事が進んだような手触りがあるのです。
 あと平良港での実際の交易は、俵物が想定されてます。ということは、中国船が寄り着いていたはずです。
 どうも近世甑島は、酷い圧政下の暗黒像が、何となく安直に着色されてる感じがします。率直に言って、どうもリアルでない。

かずらたて〔後掲こころ〕

民俗:かずらたて

俗的にも特色は濃い。ただこれも、即座にだから何、と言えるものはありそうにないです。
「かずらたて」という伝統行事は、①五穀豊穣を祈り②里地区でもともと③十五夜に行う行事。ただし現在は帰省客が多い8月13日に夏祭りと併せて行うらしい。
 山から採ってきたカンネンカズラ(クズ)をつなぎ合わせて長さ50~100mもの綱を作り、それを大蛇に見立てて仮装した若者や、大漁旗を掲げた地域の人々と一緒に、最近は大勢の観光客が街中を練り歩くんだそうな。〔後掲こころ、甑島観光協会〕

かずらたて〔後掲甑島観光協会〕

在、形式化されているカズラタテ行事は、色々の説はあるが、現実には、長崎の蛇踊りの形式を取り入れ、御縁節、ヤンハ、さっこら節、ハンヤ節など島の民謡は、殆ど肥前、肥後からの船便りであったと考えられる。〔塩田ibid.〕

 巨大な影響度を持つ天草の民謡に毒されるのは仕方ない。でも綱毎に戦うのでも競うのでもなく、ただ飛び乗ってウネウネして遊ぶ、というのは、何だか純粋に海にたゆたっているような情景です。何というか、祭としてプリミティブで面白い。

内藤莞爾(昭和48年頃)〔後掲三浦2019〕

内藤莞爾「西南型」標準文化

藤莞爾(1916生-2010没)さんは一般に社会学者に分類されることが多い。けれど、卒業論文は「宗教と経済倫理──浄土真宗と近江商人」だったそうで、戦前は民族研究所に在籍。そもそも内藤さんの研究で最も著名な末子相続研究は、家族社会学が一応社会学に分類され、民俗学からポテンヒットになってる分野なのです。
 内藤・末子相続論の特異点は「西南型家族では日本一般の長子相続が通用しない」という、「西南型家族論」と言われます。
 弟子筋に当たるらしい三浦典子さんは、内藤さんが西南型家族論のモデルを得たのは、1961(昭和36)年の甑島調査であると伝えます。

さらに内藤は、昭和36年に、鹿児島県甑島において行われた九州大学の共同調査に参加している。(略)甑島に関する調査論文は、教育学部の文化人類学者吉田禎吾と共著で「離島村落の社会人類学的研究」を『民俗学研究』に発表している 15)。
 この論文によると、調査地点は鹿島村で、昭和35年の戸数は575戸で、家族関係や親族関係、相続慣行などを調査していることがわかる。この村では、「家」慣行は曖昧で、相続制度も曖昧である。重要なことは、相続に関しては、制度ではなく、財産の分与、位牌の所在、親の面倒をだれが見るかを個別に調査している点である。
 家連合は、男系の家連合である「モンズ」と、血族、姻族の双方を含む 「ヤウチ」があり、モンズを検出することは可能ではあるが、モンズに加入していない家が多く、家連合は総じて弱体化しているという。
 網元と網子の関係も、本分家関係とは無関係で、ヤウチの結びつきがみられる。すなわち同族団ではなく姻族の結びつきが登場してきており、この関係がムラを世帯の平等的集合体にしている。
 ムラの権力に関しては、有力者の集まりである「有志会」があり、この会には公職経験者が入っているが、地域における部落会とは無関係である。
 結果的に、この村では、旧民法で定められた長子単独相続は例外的にみられるだけで、財産は男の子の間で分けられている。いわゆる長子家督が制度化されていないことに内藤は気づいたことがよくわかる。すなわち甑島調査は、「西南型家族のムラ」を発見する契機となったといえる。〔後掲三浦その2,2023〕

※原注15)『民俗学研究』 30巻3号、 1965年

 姻族「ヤウチ」主体の相続モデルを皮切りに、1978年段階で内藤さんが示唆するところでは──

奄美・薩南諸島に発して、鹿児島県に上陸します。そして九州の西海岸に沿って、甑島その他の離島を含めて、天草 ・島原を通って、長崎県を北上いたします。主に東シナ海寄りを北上するのでありますが、しかし壱岐・対馬には渡りません。五島列島に左折いたします。これがさきほど申しあげました理解しにくい、いうなれば 「ベルト地帯」であります。したがって 「西南型」といっても、むしろ「西南九州型」であります。〔後掲内藤〕

 宮本常一さんも(天草・二江に関し)点的には類似の意見を言ってますけど、内藤さんもこの後にあまりこのモデルに言及しておらず、現在援用する研究者も少ない。未完のままになった風が強いです。
 ただ、内藤さんも宮本さんもフィールド調査のプロと呼ばれる人です。理論的にはともかく、彼らは帰納的に西南日本に「何か共通する家族類型」を感じ取ったらしい。
 同時に、内藤さんには戦前の海南島での家族・氏族調査の研究も存在します〔後掲内藤1960〕。この事例では、西南九州とは全く異なる、(汝南寶興を有する周海仙氏など)機能的な氏族社会が記録されており、パシシル文化(ギアツ)類似の安直な海民社会通底論には陥ってません。ただし、それ故にこそ「ベルト地帯」を過度にモデル化するのには躊躇したのかもしれません。

▶〔内部リンク〕→m075m第七波mm龍眼营再訪/試読:ギアツ本文を読んでみる:パシシル文化言及部

近世甑島人口移動論

浦さんによると、内藤さんが甑島に続いて調査した五島列島についての記録では、隠れキリシタンの数と比率が具体に記されます。どうやって調べたのか、驚くべき数値です。ただ本文に書いたように、同等の数値は甑島調査では全く見当たらない。

①五島列島には5千余戸のキリスト教系家族があり、五島全居住戸の17%強に当たる。カトリックが11%、隠れキリシタンが6%強である。かれらの祖先たちは、近世の終わりに長崎本土の西海岸から移住してきた。長子相続は約 2 割、あとは末子相続と隠居分家とその亜型に属している。カトリックと隠れキリシタンという信仰別の差異はみられない。
②当地の慣行は、特に末子相続に傾斜するものではなく、跡とりの続柄にはこだわらないという印象を受ける。続柄の問題より、完全隠居が高率を占め、親は独立した隠居世帯を維持して生涯を終わる。近代家族のように家族集団は夫婦 1 代限りで消滅して、核家族が順次分出する。こうした家系が4割に達している。〔後掲三浦その3,2023〕

※原注11) 内藤莞爾「五島列島のキリスト教系家族」『九州人類学会報』(九州人類学研究会)8、昭和 56年、19-20頁。

 ただし、五島の状況を敷衍するならば、甑島でも隠れキリシタンとそれ以外の者の文化的差異は見出せない。──よく考えたら当然です。他地へ移って「隠れ」た集団が、文化的独自性をあえて保つ戦略を採るはずがない。むしろ信仰以外の分野では、過度にでも、移住先の文化に同化し「無色化」しようとするでしょう。まして甑島は、他地にも増して邪宗に不寛容な薩摩の統制が厳しかったエリアです。従って、もし「クロ」の集団が残存したとしても、それほど全面的に異人の文化を維持したとは考えにくいのです。
 さてもう一点、塩田さんが人口統計的な視点から奇妙な示唆をしています。

天明四年(引用者注∶1784年)旧三月、藩に請うて、下甑郷士吉永仙太郎の家族七人外四十六家族、二〇五人が肝属郡有里字富ガ尾に、百姓は出水に集団移住した。
 文化七年(1810)には、伊藤忠敬が甑島を測量しているが、その「奥地実測録」によれば、下甑島は,一,四四七戸、上甑島は、八九八戸で、甑島の総戸数二,三四五戸、推定人口は一〇,〇〇〇人位と思われる。約六十年後の、明治四年(1871)には、三,四七五戸で、一五,一七二人,同十二年(1879)には、三,四七四戸で、一六,七九五人と増え続けている。〔塩田ibid.〕

 つまり、江戸中期・18Cには恐らく藩もそれと認めるほどの飢餓状況があり、九州本土他域への移住をしていた記録がある。それなのに、江戸後期・19Cには単純には1.5倍ほどの人口増が見られたことになります。
 時期的には、薩摩藩が裏交易を支配した時代と重なります。何らかの理由で海民が急激に戻ったか、あるいは伊能忠敬記録の2,345戸を陸人のみと見るべきか、判定に迷う数値です。

里村の収納小屋(シノウゴヤ)と段々畑 昭和28年頃

補足資料:甑島の交易環境

下は、この旅行前後に見聞きしたその他の情報ストックです。
 eriosyceさんのものを中心に、やや雑記的な内容から、史料や研究がなかなか語らない部分のものですけど──その前に、逆に最も薩摩藩的に堅い記述として、三国名勝図会のものを紹介しておきます。

三国名勝図会の挿絵に登場する江石浦(現・上甑町江石)から望む平港(平良港)〔wikiland/歴史/近世の平良〕

三国名勝図会・平良港

平良港 上甑村の南面、平にあり、往古は此村を矢島と稱せしと可、人家漁釣を以て業とす、此所港なき故、風濤の時、土人患へとせしに、本府士長崎八右衛門隆近、當島に祗役す、此海邊に大池ある故に、其池を以て港を開かんとし、是を官に啓して報可を得、寛政十一年春三月、嵓を碎き、地を鑿て港を作る、三年にして、その功竣る、港口横十歩、深さ一丈三尺、港周廻十町四十歩、港内の深さ五丈餘、舟船の出入自在にして、風濤の患を免る、隆近が功勞永世に及ぶ、此港人煙頗る繁庶なり[後掲三国名勝図会]

 非常に味わい深い。
 平良港(→GM.)の位置を「上甑村の南面」としてます。現在の感覚だと島なら中甑島であり、住所なら上甑町平良。上甑島側対面の集落は郵便局名にもあるように「中甑」。つまり、平良の位置を中甑と記すほど「中甑」の実体が無かった、また下甑の北ではあり得ず、あくまで上甑・里の影響外ぎりぎりの土地として、江戸期・平良は存在したようなのです。

江戸期~明治22年の村名。薩摩国甑島郡甑島郷のうち。「九州東海辺沿海村順」では,文化7年の家数59軒。村高は,「旧高旧領」252石余。甑島郷の地頭仮屋は郷内3か所に置かれ,そのうち1か所が当村であった。また,西部の遠見山に遠見番所,港内に津口番所が設置されていた。寺社には,真言宗本福寺,甑島大明神,六王大明神祠がある(三国名勝図会)。明治10年中甑小学が開設。同22年上甑村の大字となる。〔角川日本地名大辞典/中甑村(近世)〕

「郷内3か所」の地頭仮屋とは上・中・下甑のことでしょう。三国名勝図会の記述中、長崎八右衛門隆近が「當島に祗役」「大池(略)を以て港を開かんとし」たのが1799(寛政11)年。角川が幕府側データ※として記す家数59軒は1810(文化7)年ですから、平良を中心に「中甑」が急増されたのは19C初と見るべきでしょう。

※九州東海辺沿海村順:伊能忠敬の九州測量に先立って、諸藩から提出された測量沿道の郷村関係資料と実際の測量を通して見聞・確認した統計数値などに基づいて作成した村別人家数などの一覧資料。(略)史料名は「九州東海辺」とあるが、鹿児島藩領の沿海全域に位置する海村はじめ内陸街道筋や鹿児島近在の村々、薩摩・大隅両国所属の島々の分も収める。〔日本歴史地名大系 「九州東海辺沿海村順」←コトバンク/九州東海辺沿海村順〕

 次に。三国名勝図会の古称「矢島」は、戦術拠点の性格を想像させます。そもそもここの現地形は「島」ではないはずで、もし比定するなら港口の愛宕神社(→GM.)の高みくらいしか考えられません。
 なお、三国名勝図会は平良港の地名を「平」と書きます。誤字ではないとすると、多分、後の中甑島の中で唯一地勢が平らだった、という意味でしょう。
 上甑島の地形から見ても、この列島での平地はクリーク(潟)の可能性が高い。「海邊に大池」というのはそういう地形を思わせますけど、これを水深を持つ港にする工事は難易度が高かったのではないでしょうか?
 そうした工事を「本府士」(≒鹿児島藩士)長崎八右衛門隆近さんが、個人の発案で実施したように書かれてます。他の事績や家系にヒットがないですけど「當島に祗役」、つまり命を受けて甑島に派遣されたのですから外来者でしょう。発案理由が「人家漁釣を以て業とす、此所港なき故、風濤の時、土人患へとせし」、漁業者が多いのに港がなく悪天候時に難渋したから、と酷く稚拙で、事業の難度に釣り合わないのは、真の意図及び指令が何か別のものだったことを示唆します。
 これに関連して、eriosyceさんの評を見ていきます。

(1835(天保6)年「天保の法難」,1862(文久2)年等について)圧政や弾圧の原因になった事由は様々だが、住民がその事実を他には漏らしたくないようなものばかりだ。
 現在の甑島の人口は著しく減少しているという。上記引用[引用者注∶後掲wiki/甑島/上甑町平良 鹿児島県薩摩川内市の大字]にも、飢饉の際に島民が移住したことが述べられているが、近代になっても、人口の流出は止まらなかったようだ。
 しかし、移住した島民が自らの出自についてはあまり語りたがらなかったのでなかろうか。
 甑島の知名度は恐ろしいほど低い理由については、こうした歴史的いきさつが大いにかかわっていると私は思っている。[後掲eriosyceの日記]

 甑島の人口減については、先述のように一概には言えない。この人の記述を見ていっても、薩摩藩の交易拠点だったことはあくまで噂で、具体の史料的裏付けを欠いてます。ただこの「一切証拠がない」状況は、他の薩摩藩事象に似て、徹底的な隠滅の結果とも推測できる、という反面を持ちます。

長崎の出島が江戸幕府の南蛮貿易の拠点であったことは学校の歴史でも習う。しかし、薩摩藩独自の南蛮貿易の拠点がこの島にあったことは習うことはない。
(略)島が南蛮貿易の拠点であったことを考えると、抜け荷の拠点もここにあったと考えるのが自然だ。
 もし、それが事実なら、薩摩藩は幕府にその事実が藩の外に漏れないように、島民による移住の禁止や、緘口令を敷いたに違いない。
 抜け荷のことに関しては推測の域を出ないが、これが事実とすれば、明治時代になっても、外に対しては、島の秘密を守るという島民の習性は変わらなかっただろう。[後掲eriosyceの日記]

甑島交易のエビデンス

 それで、以下は状況証拠的なものになります。まず、交易物資として可能性のある俵物の入荷の可否について──

明鮑は、甑島に限らずたとえば長崎県の五島列島などでも製造されていましたので、明鮑全般についての文献は数多くみられますが、甑島における名鮑つまり甑名鮑についてはごく限られた記載しか残っていなうため、私が、戦後実家である水産業に従事し、明鮑の製造に関与した時の経験や、この実務を通じて先人から譲り受けた知識を基にして甑島の鮑とその加工について・・・
密貿易品/かって密貿易品として取引されていたといわれているが干し鮑(明鮑)についての記録は見られない。
ただ、『県史』によると生アワビだけが島津家に献上されたと言うことが分かっている。
甑島でも多く獲れるところは限られていて、上甑島が大量に獲れる。
鹿島村や下甑村でも少量は取れていた。[後掲甑島の磯遊び]

 不可ではないけれど積極的な材料はない、という微妙さです。

藺落いおとし茶碗島

 平良から直線5km南西、下甑島最北端の浜に、藺落(いおとし)展望台という場所があります→GM.

行ってないけど藺落展望台からの眺め〔GM.〕

「藺」字はイグサの意味。ここに「茶碗島」があったという、変な伝承があります。あったとすれば、独自の交易品を生産した可能性もあるのですけど……。

下甑島北部の藺落(いおとし)浦付近には、「茶碗島」の伝説が伝わっている。この茶碗島はべつに海に沈んだわけではなく、甑島列島の西方海上にあって、天気のよい日には見えるとされている。そして、その名の通り、やはり陶磁器を産した島だとされているのである。もとより、現実にはそのような島は存在しない。[幻想諸島航海記]

二三年万里ヶ島に行ってくる

 また一つ。当時の隠語として「万里ヶ島」という語が伝わるという。

一説に、近世に甑島では密貿易が行われており、その密貿易を示す隠語として「万里ヶ島に行って来る」という言葉が使われていたという(徳留秋輝「網代」)。[幻想諸島航海記]

 万里島はおそらく、江戸期の説話集、本朝故事因縁集に次のように記載される島のことらしい。

唐土万里島[まんりのしま]に仁王の像を立てて、末世に至り仁王の面赤く成る時島滅ぶと言伝ふ。時に悪人あつて仁王の面を朱にて染めければ、島過半沈んで人皆溺れ死す。此の時明神舟二艘両手に持ちて、薩州野間庄に飛び来り給い、松尾[まつのを]明神と現じ、舟の守護神と成り給ふ。異国本朝の舟、難風に逢ひ漂波の時は立願祈誓すと、云々。[幻想諸島航海記 原典∶『本朝故事因縁集』巻5・120。『京都大学蔵大惣本希書集成』第8巻, pp. 77-78 より引用。ただし、カタカナをひらがなに直し、また送り仮名を直すなど表記を改めた。[……]内は引用者註。]

「仁王の面を朱にて染め」たことに原因して島が沈んでしまう。中国の幻の国・巣州の沈没譚に獅子の面を戯れに赤く塗ったことを原因にするものがあり、「像を赤く塗る」ことに原因する大災厄、という類似性は面白いけれど──

▶〔内部リンク〕→/※5481’※/Range(蕪湖).:上海謀略編 Phaze:夢の蕪湖古都/■メモ:巣州が巣湖になった物語

 薩摩の場合、甑島辞令を受け、実際には洋行しているという事例があるといいます。これもどうやら「噂」のようですけど……。

鎖国の時代、海外渡航は幕府により禁じられていたため、長州藩士や薩摩藩士のこうした洋行は、つまりは密航ということになった。薩摩藩の留学生たちも、表向きは甑島や奄美大島への視察という虚偽の辞令を受け、渡航中に用いる変名を与えられた。[後掲竹旬]

 少しブレのある地点として、いちき串木野市の「羽島」があります。位置は、まさに甑島東対岸の九州本土側。現在は薩摩藩英国留学生記念館の建つ場所です。──「万里島」へ行った薩摩藩士たちが実際に帯びた藩命は、密貿易であったり、渡欧留学であったりしたのだと思われます。
※羽島:GM.地点
※薩摩藩英国留学生記念館∶GM.地点

羽島は鹿児島城下から北西へ約50キロのところにある小さな漁村だが、 薩摩藩はここを長年密貿易港として使っていたようである。[後掲竹旬]

 以前見た森有礼や五代友厚ら、いわゆる薩摩藩第一次英国留学生が1865年にここ羽島から密出国してます。

選抜された留学生は羽島の地に2ヶ月間滞在し、機帆船オースタライエン号に意を決して乗り込んだのです。〔後掲薩摩藩英国留学生記念館〕

▶〔内部リンク〕→m19Q@1m第三十六波mm鞆 /【特論1】存城と廃城/森有礼の初めに見た「アメリカ」



海を渡る朝を待つ

いつい読み耽って、図書館を退出したのが1825。バス停に向かうと、目の前を駅方向へバスが走っていく。あらら。
 時刻表に辿り着いて確認すると──あらら。あのバスが最終便だったの?物凄く早寝のバスじゃねえ?
 仕方ない、というか駅までは好いリハビリになる距離なので……歩いて駅前へ。ホテル山内下の銭湯に、前回に継ぐ二度目の入湯をいたしまして──ここのお湯、好いお湯なんだよなあ〜!
 さてと。明日はやや早いぞ。

■レポ:甑島の「島」は濁るか?

「Dr.コトー診療所」(山田貴敏・作)のロケ地は沖縄県与那国島ですけど、漫画の舞台モデルは下甑村の村立手打診療所だとされています。
 ここで言う下甑村というのは、2004年10月12日に現・薩摩川内市に合併した川内市他7町村の中の一村です。発足は1889(明治22)年4月1日の町村制施行時。以下の6村の合併によります。
下甑村 ← 藺牟田村、長浜村、青瀬村、片之浦村、手打村、瀬々之浦村
 この時、上甑島では8村が合併。ただし上甑ではわずか2年余、1891(明治24)年8月に里村が分離し、結果甑島は三村になります。
上甑村 ← 里村、中甑村、中野村、桑ノ浦村、江石村、平良村、小島村、瀬上村
 なお、1879(明治12)年の郡区町村編制法の鹿児島県施行段階では、甑島は「甑島郡」を構成しましたけど、この郡は1897(明治30)年の郡制施行時に「薩摩郡」に統合されてます(←(旧)薩摩郡・高城郡・南伊佐郡・甑島郡)。
〔wiki/甑島郡、甑島列島、薩摩川内市、下甑島〕
 だから、現・薩摩川内市の市域を海域も含めて表示すると次のような極めて広大なものになります。これを海域、つまり甑島側から見ると極めて強引に併合された感覚を持ったであろうことは想像に難くないのです。

薩摩川内市の市域(海域込み)

2014年「勝手に濁点取るな」事件

 下記の西日本新聞記事は、多分甑島側が怒りとともにスッパ抜いたものだと想像されます。記事のトーンを保持するため、丸ごと転載しておきます。

 鹿児島県薩摩川内市が、東シナ海に浮かぶ同市の離島「甑島」の正式な読み方を「こしきじま」から、島が濁らない「こしきしま」に変更していたことが、市への取材で分かった。国土地理院に今年4月、変更を申請、8月に呼称変更が実現した。市は「市民へ強制はしない」とするが、教科書や地図=写真は帝国書院の地図=は「じま」の表記が大半で、教育現場の混乱を招きそうだ。
 市は「読みが混在していたので、平安時代の文献や合併前の旧村の郷土誌で本来の読みを確認して変更した」と説明。合併5周年記念に制定した市民歌は「ひかりかがやくこしきじま」と歌っているが、「歌詞の変更はしない」とする。
 甑島列島は南西方向に上甑島、中甑島、下甑島が連なり、2004年に合併で薩摩川内市となった。荒々しい奇岩が魅力で県が国定公園指定を申請、市は観光振興に力を入れている。市は「読み方を統一した方が対外的に説明しやすく、観光PRも効果的」と話す。
 県の小学校の副教材「わたしたちの鹿児島県」や帝国書院(東京)の地図には「じま」とルビが振ってある。帝国書院は「国土地理院の情報を確認して来年度発行分から変更する」と話す。薩摩川内市教育委員会は校長会で公的には「しま」を使うことを報告した。上屋和夫教育長は「混乱がないよう指導したい」と述べた。
 一方で島民から反発も。下甑島の市議江口是彦さん(70)は「島の名前は文化や歴史の問題。島民の意向も聞かずに問題だ」と憤慨。椋鳩十さんの児童文学「孤島の野犬」でも下甑島を「じま」と読ませているといい、「議会で撤回を求める」と語った。
=2014/09/24付 西日本新聞朝刊=〔後掲西日本新聞〕

「薩摩川内市民歌 輝け未来へ」中二番冒頭の「こしきじま」〔後掲薩摩川内市〕