目録
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甑島初日。 まず平良です。 |
支出1300/収入1290
▼13.0[240]
/負債 10
[前日累計]
利益 -/負債 242
四月三十日(六)
0630デコラーレ クリームチーズベーグル250
1111甑に東風 現在地
刺身定食550
1900きびなご一夜干し250
長寿庵いきなり団子(黒糖,よもぎ)250
[前日日計]
支出1300/収入1300
▼13.0[241]
/負債 10
[前日累計]
利益 -/負債 242
五月一日(天)
川内の港に空木 朝八時
川内駅西口で、組立式自転車を抱えた若い夫婦がワイワイやってます。
8時ちょうどに南国交通バスに乗車。一律150円。
空から雨雲は消えてます。薄雲さすもまず快晴。
川内川を渡る。川岸に鯉幟の行列が、たなびきもせず並びます。
そのまま図書館前を過ぎる。川筋を下るわけではないらしい。アナウンスが国道3号線経由と言ってるのは……そういうことか。阿久根への線路沿いに出るようです。
──えっ?3号?えらく若い番号だな?でも片側一車線と狭い。交通量はあり幹線っぽい。※国道3号については巻末参照
ユニクロ、CoCo壱、ABCマート。
峠を越える。結構な高度です。
停まらないけど東川底バス停。どんな地名だろう?山里の光景が続いてる。
水引地区と表示。二級河川・車道川を跨ぐ。※地名「水引」について巻末参照
0822、車道駅。水引郵便局。次が終点ターミナルとアナウンス。全然海の気配がないけど……。
0824。鉄道を高架で跨いだ。右手に水田。
0827?──唐突に海。深い入江です。中型船舶もいる。古そうな集落ではないけれど……。
0828着。
「爆発的感染拡大警報」とか書いてある。いきなり専用レーンで本格的に体温測定されてから(一応合格)チケットを購入。
この時期は予約しといた方が安全らしい。
一服する時間はあった──と思ってゆるゆる乗船すると、出発15分前にして窓際席は壊滅。中央の共用デスク席に陣取ることに。一階席は50程。他に二階に屋外の席はあるけどちょっと寒い。
港港の向かいに風車が回ってる。
0853、何かあったんでしょうか?遅れて(?)ゆったりと出港。
瀬戸内からすると良港に見える風景ですけど……人家は極端に少ない。港だけがあるように見える場所です。
里港は海上を西へ30km。
スマホのアンテナは……何と一本も立ってない。Wi-FiはW2freeのみ。
二階へ登りたかったんたけど「荒天のため立入禁止」に。それどころか一階ですら立ち歩けないほど揺れてるうちに……右手前方に岩礁が見えて来ました。というか、小さな岩があちこちに出てる。知らずに近づいた船は危険だったでしょう。
背後の山は高い。浜は少なく崖が露出。
瀬戸内海の島のような海岸線の道は、無い。土地勘を得るのにやや苦労しそうです。
「100%絶景の島」とアナウンス。集落にたなびく鯉幟。
0940、接岸。港の背後すぐに、本日からのホテルが見えてます。
甑島コンビニは無し射干 の咲く
〇951チェックイン。体温チェックなし。荷を預ける。
トンボロと呼ばれるのっぺりした地形に集落が広がる。うーん、土地勘が出んなあ。島なのか、ここは島なのか?
まず感覚を馴染ませることにします。昼飯時まで、グルリを足で歩いてみることに。
GM.(経路)
駐在所脇にコインランドリー──があるのは旅行者用なんでしょうか?
里郵便局。県道・桑之浦里港線が通る、一応、集落の中心だと思われます。
裏手の水路は──古い海岸線ではあろうけども、集落地と潟地との境が水路状に残った、という感じのものなのではないかと思えました。
その後方には、島としては珍しい水田地が広がります。きっちりした区画の大きな筆で、金をかけて現代的な圃場整備をしたと思われる……甑島で見るとは思わなかった風景です。
かつ、起伏は極めて緩く、家屋はまばら、人影も薄い。
甑島では、北のここ里と南の手打が主邑のはずですけど──ちなみに、甑島には「コンビニはゼロ」と幾つかのサイトで書かれますし〔後掲ビーウェーブほか〕、実際ありません(2022年現在)。
水鳥の飛び立つ 亀城切通し
海岸線側ではなくあえて西の山手側を通って亀城(→GM.)の西から南に回りこんでみたんですけど──まあ、雰囲気はよく分かりました。
かなりの時間と労力を投じて拓いた農業地と感じます。元の地形は、やはりクリーク(潟)でしょう。
侵入者に驚き、水鳥が飛び立つ。
亀城の元の尾根らしき、切通しを抜ける。両側の樹叢は豊かです。
城登り口先に圃場整理の記念碑。昭和一桁(五年か?読み取れない)。
水路は精緻な造りで、年季も入ってます。コンクリで補修も重ねてあるけれど、元の構造は古いように見えます。
1036、海に出て右折。大根の無人売場。
里八幡なおらい前の内侍舞
海側に出て1038、武家屋敷。いわゆる里麓です。
バス停・八幡宮前。海側の港の岸壁は開発されており、古い構造は残らないようです。
里八幡宮には大般若波羅蜜多経が残ると、案内板にある。音に聴く薩摩藩の廃仏毀釈を逃れ、宮に隠されたものと書かれてます。1688(貞亨5)年寄進、全6百巻〔後掲かごしま文化財事典/里八幡神社の大般若波羅密多経〕。
県無形民俗文化財の内侍舞という、何だか分からないけれど薩摩土着の非常に古い形式の芸能が残るとある。特に「古式の直会」という貴重な神事が含まれる、のがポイントらしい。知らんけど。
1046、宮裏手に達筆三文字の石柱。異様な低さで、一時は埋もれたのかと疑ったけれどそういう感じではない。読めない。
右手に四柱の座像。全て首がない。廃仏毀釈でしょう。
すると、これがこの宮の本来の神体だったのでしょうか。
御神木「小賀玉(オガタマ)の木」。
津口番所跡 ネモフィラの青々と
さて、一応目的地です。ケイダストアー脇に津口番所跡。──と言っても、まあ案内板のみです。
宝永七年(1710)幕府巡検使答書によれば、「異国船津口番所之事」
一、甑島之内、上甑島里村 同中甑村
同下甑島手打村
右津口番所の儀は、城下より士両人づつ差越代合にて不断相勤申候
とあり、役人二名が鹿児島城下から派遣され『島津家列朝制度』、「番所改め」と言うとても厳しい規定があって(略)〔案内板〕
──とあるのだけれど、鹿児島城下から二人来て、というのが、それほどには大変な負担には思えない。大変だったのか?
1101。学校校門に「里地頭仮屋跡」。──「仮屋」は江戸期薩摩が麓設置所に設けた役所で、甑島のものも含め、なぜか移動する役所だったらしい。
この学校の敷地がほぼ仮屋だったというから、大きい。
里小学校は創立150周年。明治四年創立とあります。
昼飯にヤイトガツオを食べちゃった
やや雲が出てきたか。ただ、風は弱まってる。昼からの歩きに心配はなさそうです。
11時を回りました。昼飯の店に入ると──まず住所を書かされてからメニューを出してきました。──調べてみると鹿児島ってCovid19の罹患率はかなり多い。その中でも川内は……なぜかずば抜けて優秀らしい。
1111 甑に東風 現在地
刺身定食550
「本日はぶり、ホシガツオ、いさき、きびなごになります」
いさきは今が旬という。一口で……凍りました。この、魚身の香り高さは何だ?
藁焼きのカツオのタタキにも似た香気が、けれどもカツオと異なる蛋白な味わいから、何とも玄妙に立ち昇る。
きびなごの新鮮さにも驚嘆する。瀬戸内の旬のイワシの刺身みたいな、青臭い甘み。けれどこちらはやはりジャリジャリ感があり、きびなごじゃないと味わえない旨味です。
(中国語)「巴鰹」(バージエン)。台湾語で「煙仔魚」(イエナヒー)、「三點仔」(サムディアマー)
ブリ、カツオも身が生きてる。カツオらしくない蛋白なカツオだな、と思いながら食べたけれど……これはスマ(須萬)という条鰭類スズキ目サバ亜目サバ科マグロ族スマ属の魚でした。ヤイト、キュウテンとも呼ぶ。夏が旬。本場はハワイ、オーストラリア北部、アフリカの東岸までとインド太平洋の熱帯・亜熱帯域の魚で、日本ではホシガツオだけが穫れる──という日本人にとっては一種幻の魚みたいです。
食べてから書くのも卑怯ながら──脂の乗りの良さと滑らかな食感は「全身トロ」とも形容されます。値がつかなかった2010年頃以前には、漁師が好んで家に持って帰って食べる魚だったとも
。
箸を置く。正午のチャイムを聴く。
■レポ:明治国道国道三號と一級国道三号
川内駅から港への途中に通った「国道三号線」は、当時と同様、後から読んでも「違うだろ?」という印象でしたけど──間違ってませんでした。
でも?旧東海道ルートの一号、旧山陽道ルートの二号に対して……ここがなぜ三号なの?
──と調べていくと、これが、マニア的には大変に嬉しいほど物凄くややこしかった。まずは、今後のために資料集をセットしておきます。
国道資料集
▼等級国道
[根拠]道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム〔wikisource/同名,明治9年6月8日太政官達第60号〕
▼明治国道①
[根拠]國道表
〔wikisource/同名,1885(明治18)年2月24日内務省告示第6号〕
國道表〔後掲japan.road.jp〕
[ツール]明治国道の変遷
▼大正国道②
[根拠]國道路線認定ノ件 (大正九年四月一日)〔wikisource/同名,大正9年4月1日内務省告示第28号〕
▼昭和・一級国道③
[根拠]一級国道の路線を指定する政令〔wikisource/同名,昭和27年12月4日政令第477号〕※本法:道路法(昭和二十七年法律第百八十号)第五条
▼昭和・一般国道④
一般国道の路線を指定する政令〔wikisource/同名,昭和40年3月29日政令第58号〕※本法:道路法(昭和二十七年法律第百八十号)第五条第一項
1〜3号線の変遷
【1号】
①(壹號)東京ヨリ横濱ニ達スル路線
②(一號) 東京市ヨリ神宮ニ達スル路線
③起点:東京都中央区〜終点:大阪市
④同
【2号】
①(貳號)同大坂港ニ達スル路線
②二號 東京市ヨリ鹿兒島縣廳所在地ニ達スル路線(甲)
③始点:大阪市〜終点:門司市
④同
【3号】
①(三號)同神戸港ニ達スル路線
②(三號)東京市ヨリ鹿兒島縣廳所在地ニ達スル路線(乙)
③始点:門司市〜終点:鹿児島市
④同
銘文(正):国道第三号路線〈池田 伊丹 神戸/芥川 高槻 京都〉道
銘文(背):明治三十六年八月 大阪府〔後掲歴史街道〕
要するに東京-薩摩ルートの第三段目
明治国道は、開港地と東京を結ぶ目的で構想されます。1号は横浜港、2号は大阪港、3号は神戸港への東京からの道を造ろうとしました。ルートが重なっていたので、自然、1号終点が2号の始点(神奈川)、2号終点手前(京都)が3号始点という、三段跳び的な接続になります。
大正国道は基本的に、軍事道仕様への再編です。薩長藩閥政府ゆえかどうかは決めつけかねますけど、三段跳びの終点を薩摩にした西日本を網羅する道路を1〜3号で構想します。1号は、神国らしく伊勢神宮まで。2号はさらに門司から熊本経由で鹿児島。3号は門司から大分・宮崎経由で鹿児島。
大正国道の2号を、門司で分割したのが昭和・一級国道の2号(大阪〜門司)と3号(門司〜鹿児島)になりました。九州東岸の人達には不幸なことに、大正国道3号のルートはなぜか一級国道10号に「降格」編成されます。
結果から見ると、薩摩に国道3号が走ってるのは、大正国道2号線の薩摩延伸が構想されたからで、全西日本防衛のため、薩摩藩閥の意向、あるいは維新後最大の内乱県の統治上の必要からだと考えられます。何にせよ、大正日本の鹿児島を東京と車道で接続させようとした意思の結果なのです。
■レポ:水引はただ城であった
水引という地名は角川日本地名大辞典上、薩摩川内のここのほか、神奈川県厚木市厚木・戸室(神奈川県厚木合同庁舎所在)と福島県会津郡にしかヒットがない。ニッポン人の慶弔感覚からは微妙な呼称なので、まあそうでしょう。
現地での伝承では、新田開拓時の水利という意味だとされるようです。
水引という語は,往古水田を開くため湿地から溝によって排水,つまり水を引き出したことに由来するとも,また用水路によって水を引き入れて開田したことに由来するともいう。「川内市史」の新田神社実績明細書には「入江の水を引き流してその地を開墾せるにより新田といひ,その水道を水引と号して,いま郷名となれり」とある。〔角川日本地名大辞典/水引〕
ただし、新田由来と言うにはえらく初出が古く、かつ物騒なのです。
夜押寄 水引城 致合戦
単純に言えば、水引城という要地がここにあった。どうやらそれは、水引という地域や集落以前に、存在したようです。
南北朝期から見える地名。薩摩国高城【たかき】郡のうち。貞和7年6月2日付,足利直冬の隠岐三郎左衛門入道跡への御教書に「国分平次郎友重去貞和五年十一月廿八日夜押寄友雄住所水引城,致合戦」とある(二階堂文書/大日料6-13,新田神社文書)。(続)〔角川日本地名大辞典/水引(中世)〕
北朝暦・貞和7年は1351年(南朝・正平6年)……に当たります。北朝帝光明天皇は貞和6年に改元しており、貞和7年であったであろう年は観応2年なんですけど、貞和7年はいわば北朝・直冬暦で、尊氏の隠し子・足利直冬が九州でのみ使った元号でした。
1349(正平4/貞和5)年に京を離れ西へ向かった足利直冬(:尊氏落胤)は、翌1350年の観応の擾乱(直義:尊氏弟)期に九州で勢力を拡大、尊氏の討伐軍・一色氏を駆逐し博多を配下におさめてます。実情をシンプルに言えば──この事態を受け、尊氏-直義兄弟が信じ難い「喧嘩両成敗」で仲直り。尊氏は直義の政敵たる高師直・師泰兄弟を実質的に殺害させる代わりに、直義麾下最有力となった直冬を征討対象とする、つまり尊氏-直義双方が「軍縮」する収拾策です。高師直・師泰兄弟はもちろんですけど、落胤ながら将軍実子の直冬こそモノの哀れです。
1351(観応2・貞和7・正平6)年2月、政治的には尊氏に背中から刺され、軍事的には直義方に殺害されて、目出度く直義が政界復帰。翌3月に直冬は九州探題に任命されますけど、高師直兄弟同様の捨石として、九州で縊り殺されていきます。──薩摩川内・水引の戦いは、物凄く回りくどくなりましたけど、この時のもの。小狡く旗色を鮮明にしてなかった島津が、やはりクレバーに勝者・尊氏に付き、全国趨勢的には誠に哀れな直冬に引導を渡した。──出典不祥ながらwiki/国分氏 (薩摩国)には五代友貞と六代友重につき次の一文があります。
5 国分友貞 (次郎)延文4年8月17日属宮方 於筑後国戦歿。
6 国分友重 (平次郎)掃部介。文和3年6月10日攻知色城、属将軍方、奉従太守師久公最前馳来有軍忠。
太平記には薩摩国分氏は南朝方(菊池方)として記されます。友貞は南朝方として果てたけれども、友重は最初からか裏切ったかは分からないけれど島津同様に北朝の将軍方として動いたようです。〔wikisource/太平記/巻第三十三/282 菊池合戦事〕
※(原文)菊池合戦記述内に宮方として国分次郎(二郎)名を確認できます。
(続)水引城は国鉄上川内駅南方,林田バスセンターのあたりからその後方にあったといわれ,小高い丘陵であったが,現在は砂を取り去り平地化している。往古は屏風を立てたような形をなしていたので屏風城の呼称もあったという。南北朝初期,守護職島津氏につき北朝方に属していた執印友雄がここに居城し,これを南朝方国分友重が攻めたのが前記の合戦である。(続)〔角川日本地名大辞典/水引(中世)〕
まずこの位置ですけど、現・薩摩川内市水引町(→GM.)からはかなり東、GM.上は「地頭館之址」(→GM.:ad.薩摩川内市宮内町)付近と比定されます〔後掲鹿児島県日本遺産〕。地名の推移としては、古代の水引エリアのうち東半・平地部分が新田神社勢力域として割かれ、水引の呼称域は西半山間部のみになったのでしょう。文中の執印友雄についてはさらに後述しますけど、この一族が「執印」※職を務めた新田神社(→GM.)が、「地頭館之址」の800m東北に辺ります。
後掲の五代城は、上記の北西1km余の五代院跡(→GM.)と推定されますから、現・川内港から地峡を過ぎて東側の中流湾入部へ至る際、入域者を監視する位置に水引・五代城は「屏風」状に布陣していたものと推定されます。
執印→総州島津→渋谷高城→奥州島津→渋谷東郷→薩州島津
下記応永18年は1411年。上記の執印氏領有から、この時期には総州島津氏から渋谷高城氏に移り、さらに奥州島津氏、渋谷東郷氏へと巡った後、1570(元亀元)年には薩州島津氏へ移行。──島津宗家が九州を圧する勢いを持つ耳川合戦が、1578(天正6)年です。
(続)「応永記」応永18年の条によれば「去ル間水引西城ヲ自高城有所望,久世領状アリ」とある。これは当時,総州家島津氏の支配下にあった水引城と五代城を渋谷高城氏が所望して,総州家の久世がこれを許したことを意味する。その後,この城の領有は奥州家島津氏,渋谷東郷氏へと移るが,元亀元年には薩州家島津氏の手に帰した。(続)〔角川日本地名大辞典/水引(中世)〕
即ち、中世の薩摩川内の両城域は獲りつ獲られつの激しい争奪の渦中にあったことになります。正当性は旧領を有す新田神社・執印側にあるのは明らかですから、経済・政治的な闘争ではなく軍事力による露骨な争奪と思われます。
地名としての「水引」初出は下記角川によると1485(文明17)年。島津三郎太郎は島津国久(1442(嘉吉2)年生-1498(明応7)年没)しか考えられません。薩州家2代。
(続)初めのうちは城名として現れるが,地名としては「文明記」文明17年3月20日条に,「島津三郎太郎,出水より高城郡に打出られ,芋野に篠立し,十八日湯田の栫を半時が間に攻め落し,同廿日に水引に押寄せ」,永禄6年2月8日付の泰平寺薬師堂鐘銘に「水引地頭 源信乗」とあり(旧記雑録),「上井覚兼日記」にも「水引など寄々之人衆両人計」とか「川内よりの雑務あまた水曳へ相留候」とある。慶長4年正月9日付,豊臣家五奉行による島津氏への朝鮮の役軍功に対しての知行目録に「千二百八石一斗五升 水引村」とあって,初めて村名として現れる(島津家文書3/大日古)。〔角川日本地名大辞典/水引(中世)〕
永禄6年は1563年。この時代にようやく水引の地頭職が記され、つまり水引が耕作地≒生活地として登場することになります。逆に言えばそれまでの間の「水引」は、軍事標号でしかなかったことになる。
■補論・推論:その時、執印氏が川内五大院に居た理由
上記レポでは史料を引用したくった挙げ句、投げ出しちゃいました。
ここで確認したいターゲットは、薩摩正史の本流たる「鎌倉殿」御家人島津氏の周辺に溶け込むようにして、それ以前からの土着勢力があるという点です。後掲「ムカシノコト」さんは「薩摩・大隅に古くから住まう者たち」(1)〜(3)としてその類の氏族を列挙しておられますけど、本稿ではその一例として執印氏のみを試掘していきます。
誰が惟宗氏だったのか?
先述
この「執引」氏というのは先述のように、元々神社の職名です。惟宗康友という鎌倉時代の御家人を初代とします。康友さんは、「禁裏薩摩国新田宮八幡執印職并五大院院主職」を得る。鹿児島姓を名乗り「鹿児島康友」とも称したけれど、結果的に職名「執印」を姓として通称した、ということみたいです。
また、「藤内康友」とも称してる。摂関家・近衛家領の荘園としての島津荘の従者、という意味らしい「藤内内舎人」から姓を採ってます。
「惟宗」姓は、島津氏初代の「惟宗忠久」と同じです。惟宗忠久も、その6歳の時に鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝から当時日本最大の荘園・島津荘地頭職に任命された(1185(元暦2)年)〔wiki/島津氏〕ことをその権力の源泉としてます。「惟宗」姓そのものは未だに不鮮明ですけど※、秦氏帰属の一定範囲の者が並列で名乗った姓とも考えられます。「ムカシノコト」に記される島津・鎌倉入域以前の各氏族の由来を見ると、渡来系の人々が
(wiki/惟宗氏 原典[1]:太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 惟宗 コレムネ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2422-2424頁)
従って、A姓のどの範囲が別途B姓である、というのは自前の物語としては有効でも、歴史の理解としては、ある時期以降の◯を祖と称する集団がB姓を号した、と単純に理解してよいと思います。「執印」氏についても、島津と同類の祖らしき惟宗康友の子孫を号する集団、と理解しておけばよい。
文治年間(1185年-1190年)、新田神社筆頭職の執印職に守護島津氏と祖を同じとする鹿児島郡司の惟宗康友が就き、康友の子孫が執印氏を名乗り(元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が新田宮執印職の当知行を安堵)明治に至るまで、代々俗体で世襲することになる。〔wiki/新田神社 (薩摩川内市)〕
枚聞vs新田 薩摩一宮論争
共通する惟宗姓を祖とする島津と執印両氏は、薩摩一宮論争に際し共同して旧勢力を排してます。
ここでの旧勢力は
蒙古襲来(元寇)で、鎌倉幕府は各国の一宮と国分寺に蒙古調伏の祈祷を命じ、各国の守護に一宮への剣、神馬の奉納を命じた。薩摩国では枚聞神社と新田神社の間で一宮相論が起こっていたため、島津氏(忠宗)は、一宮の決定とは無関係としながらも 剣、神馬を新田神社(同族の執印氏側)に奉納する。これは事実上一宮は新田神社と認める行為で、一宮相論は決着し、古来から一宮であった枚聞神社から新田神社へと一宮が移ることになる〔wiki/新田神社 (薩摩川内市)〕
四代島津忠宗の「一宮決定に見える行為」で、川内・新田神社は指宿・枚聞神社を差し置き一宮「っぽい」存在となったのです。
鹿児島氏の「鹿児島」は現・県名ともシンクロします。執印氏は、由来からするとおかしな表現ですけど薩摩国一宮新田宮宮司職を担い続ける。
かつ、初代執印・康友は五代院院主職にもなる。三代執印・康秀(のち重兼)は国分城に入ります。これがのちの水引城で、ゆえに──やっと話が戻ります。三代後、つまり六代・執印友雄がこの城に南朝方・国分友重を迎え撃つことになる訳です。
惟宗康友が文治年中に執印初代として禁裏御直支配職の新田宮執印職並びに五代院院主職に補せられる。康友は鹿児島氏を称して初め鹿児島郡司並びに弁済使職。康友の子・康兼が2代目執印として、父の職を継いで執印氏を称した。
【寺社領之為領主而自鎌倉将軍家至室町将軍世々為御家人】
以来、執印氏は四八社家の統領として、明治に至るまで薩摩国一宮の新田宮宮司職を継承する。
3代目執印は、康兼の弟が国分寺沙汰職(留守職)並びに同所天満宮別当職に補任し、国分城(水引城)に居城して国分氏を称した国分友久の三男・康秀であり、3代目執印重兼と改めて跡を継いだ。
庶家は他に五代院院主職を譲られた五代氏がおり、子孫の五代友喜は島津義弘の家老を務めている[1]。〔wiki/執印氏〕
この間、執印氏そのものは鹿児島の地を動いてません。
鎌倉殿の十三人の一角・惟宗(島津)忠久が島津荘にやって来て、多分この頃に「印」も何かの由縁で川内に来て、これらの権威に薩摩現地の「惟宗っぽい」集団がモグれ付くような状況が発生したのでしょう。
新田宮に惟宗氏の天下る
さて執印氏が遅くとも鎌倉期から宮司を独占する新田神社、既に触れたように「川内八幡」とも呼ばれる宮は、下記三柱を祭神とします〔後掲鹿児島県神社庁/新田神社〕。
・天津日高彦火瓊瓊杵尊(アマツヒダカヒコホノニニギノミコト)
・天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)
・正哉吾勝勝速日天忍耳穂尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)
遅くとも史料上貞観代(859〜877年)、伝・725年建立。
神亀山上に鎮まり、創祀の年月は詳らかでないが、所伝永万元年の古文書に「当宮自再興経三百余歳云々」とあることより、貞観の昔の再興された事が明らかである(ママ)。三国神社伝記に聖武天皇神亀二年創立云々ともある。旧薩摩随一の大社で、八百六十七石を寄進され、皇室代々の御崇敬も厚く、また島津氏が封を受けて以来薩摩国一宮として藩内の首社に列した。参道石段の中段(御山の中腹)に鎮座されていたが、高倉天皇の承安三年神火により正殿以下悉く炎上したため、安元二年宣旨により今の山頂に御遷座になり今日に至る。〔後掲鹿児島県神社庁/新田神社〕
「神火」により正殿以下悉く炎上した承安三年は、1173年。「宣旨」により現・亀神山頂に再建した安元二年は、1176年。惟宗康友が執印初代として禁裏御直支配職の新田宮執印職並びに五代院院主職に任じられた文治年中が、1185~1190年。なお、惟宗(島津)忠久が源頼朝から近衛家領島津荘の惣地頭に任ぜられた文治元年が、同じく1185年。
平清盛の太政大臣就任が1167(仁安2)年。1173(承安3)年の「神火」の真偽は問い様がないけれど、辺境の怪事件がかくも混迷を増す中央政界でわすか3年の間に宣旨(天皇発の指令書)まで至るはずがありません。
1180年がいわゆる源平合戦。前記一連の経緯には「曲解」した形跡が認められ、その主体と思われる新・惟宗氏=島津・執印氏が平家征討の恩賞として島津荘を得たとするストーリーなら、九州下向は1180年より後である必要があります。
操作の可能性が薄い(現)新田神社創建年:1176(安元2)年だけが、時点・事績とも正確だと仮定すれば前後関係が整合します。旧神社は、真「薩摩一宮」たる牧聞神社より古く
解説によく添えられる「当時日本最大の荘園・島津荘」という装飾も、実態を隠すスパイスでしょう。源平抗争を経て政界を圧し当時知られる日本全域を領する勢いの頼朝党内で、支配域南端の南九州を割り当てられるのは──普通に考えて「左遷」です。けれども、当時の惟宗氏側にとっては島津荘の支配の建前さえ強化されればよい訳ですから、左遷でも栄典でも関係なかったのです。多分、経済感覚で考えれば、戦乱続きの本州よりも南九州をがっちり押さえた方が明らかに繁栄し易かったでしょう。
さて、時点を1176(安元2)年に絞りました。位置情報を再度見直してみます。
亀神山の浮いた海
結論として、薩摩川内の現・川内川下流域の多くは、湾又は浅い潟だった可能性があります。
川内川流域には、300万年前から100万年前まで大きな湖が広がっていました。藤本と大和(だいわ)には淡水魚、カエル、昆虫、植物化石を含む、湖に堆積した珪藻土層が分布しています。東部には約30万年前に噴火した火口湖である藺牟田池があり、周辺には温泉や入来の粘土鉱床などがあります。〔後掲鹿児島フィールドミュージアム〕
(下)万之瀬川河口干潟の全景〔後掲柳田(かごしまネイチャー)〕
鹿児島県の海岸線はボコボコです。現・錦江湾の地形は明らかにどの時代かの火山噴火によるものですけど、川内の現・平野も同様に、藺牟田池を作った火山噴火の名残りらしい。平均してどの程度の水位だったか決め手になるデータがありませんけど、新田神社(神亀山)-水引城-五代院域はこれと関係する可能性が高い。具体的なイメージとしては、神亀山の周囲を浅瀬の水域(淡水の可能性も有)が覆っているか、同山の周囲に干拓地又はその可能地が広がっていたか、という具合ではないでしょうか?
※※画質上、引用者が再構成
島津荘は現・◯町にあった、というものではなく、薩摩・日向・大隅三カ国にのっぺりと広がっていた「荘園」で〔wiki/島津荘〕、かつ所有形態も上図の如く混合し、須らく経営形態も多様、その実態は謎です。
「万寿年間(1024-28年)に大宰大監・平季基とその弟・平良宗が、日向国諸県郡にあった島津院を中心に開発、これを関白・藤原頼通に寄進」──という通説は、では何なのかと言えば、鎌倉後期の島津氏文書の副進※と、「日向国図田帳」※※中に「島津院」と記される場所が都城市の早水町・郡元町・祝吉町付近なのでこれが「島津荘政所」とする推定が混合したものです。
活字本 「大日本古文書」家わけ第一六(島津家文書一)・「改訂史籍集覧」二七・「宮崎県史」史料編中世2〔日本歴史地名大系 「日向国図田帳」←コトバンク/日向国図田帳〕
素人目に見ても、伝えられる島津荘創設から250年以上後の、創設者と別家系の集団が、訴訟用に自権限の確かさの主張根拠として語った記述です。それしかないから寄ってるけれど、客観性が期待できるものでは到底ないのです。
都城・島津院の位置にしても、単なる地名相似と年代の整合のみです。島津荘が諸勢力の連合体で収拾のつかない状態だから、圏域のうち一番近畿中央に近い、つまりまた反乱を起こされても「逃げ易い」場所に居を構えただけにも見えます。
従って、その実質のコア、あるいは次代・平氏島津の本格経営拠点が薩摩川内にあった、と仮定するのは、無理がない想定なのです。──鎌倉期の島津が、自族入域前の平氏の体たらくと実態を理解していたとしても、自らの古みと系統上の箔を付けるために、1288年訴状のように初期から盤石に脈々と経営されて現在に至る……と記すでしょう。
古代阿多と川内の相似性
さて、薩摩川内・新田神社付近のイメージ図として、既に40km南南東の阿多・万之瀬川河口のものを示しました。阿多の中世水域も、川内のものを連想させる広く浅い潟のような湾入を想定しました。

阿多・万之瀬川について既に見た史料の中で、川内・五大院の名に触れていました。再確認しますと──五大院は新田神社の西約1.5kmにあった同社別当寺です〔日本歴史地名大系 「五大院跡」←コトバンク/五大院跡〕。
阿多の項では、既に五大院が阿多に48町の領地を有したことを論じました。

即ち、鎌倉期に入る直前の時代、惟宗=島津=執印氏勢力は、川内と阿多という薩摩半島の当時有望な港町を押さえてその後の島津荘の核を再興しようとした気配がある、ということになるのです。
もっともこの方向性は、先の五大院の記述も著した日隈さんのものです。同氏は「島津荘に関する一考察」では少し再考する形で、次のように記しています。
当該期大宰府官人による「開発」は,豊後国日田郡,筑前国御笠東郷,肥前国小城郡等で行われていた。大宰大監平季基による島津荘立荘は,大宰府官人による「開発」活動の一つであり(33),大宰府による九州南部掌握の動きを示すものである(34)。
同時期大隅国・薩摩国の国司や有力者達から右大臣藤原実資へ南島産の進物が贈られていることが指摘されている(35)。私は,大隅国・薩摩国と南島とは直接交易していたと考えていた(36)。しかし大隅国・薩摩国と南島との交易には,大宰府が関与していたことを指摘された(37)。私は,大隅国・薩摩国と南島との交易は大宰府認可の下で行われていたと考えを修正したい。大隅国・薩摩国には,南島からの交易品が多く入手されていたと考えられる(38)。大宰府が九州南部に関心を有していたのは,南島との交易利潤獲得を意図していたと考えられる(39)。〔後掲日隈/島津荘に関する一考察〕
(34)永山修一「『小右記』に見える大隅・薩摩からの進物記事の周辺」(『鹿児島中世史研究会報』五○,平成七年,同二一年に同『(同成社古代史選書六)隼人と古代日本』に改稿再録),『都城市史 通史編 自然・原始・古代』,第三編古代の都城,第四章島津荘の成立,第二節島津荘の成立,小川弘和「摂関家領島津荘と〈辺境〉支配」(『熊本学園大学論集総合科学』一三―二,平成一九年)。
(35)永山修一「『小右記』に見える大隅・薩摩からの進物記事の周辺」。
(36)原口泉他『(県史46)鹿児島県の歴史』(山川出版社,平成一二年),三章律令国家の変質と中世社会の成立,1国内支配の矛盾と島津荘の成立,薩隅地域と南島・宋との関係。
(37)渡邊誠「平安期の貿易決済をめぐる陸奥と大宰府」(『九州史学』一四○,平成一七年,同二四年に同『平安時代貿易管理制度史の研究』思文閣出版に再録)。
(38)竹内理三「薩摩の荘園―寄郡について―」,永山修一「『小右記』に見える大隅・薩摩からの進物記事の周辺」,原口泉他『(県史46)鹿児島県の歴史』,三章律令国家の変質と中世社会の成立,1国内支配の矛盾と島津荘の成立,薩隅地域と南島・宋との関係,等。
(39)『都城市史 通史編 自然・原始・古代』,第三編古代の都城,第四章島津荘の成立,第二節島津荘の成立。
最後にもう一つ、阿多編への内部リンクを掲げます。経済圏として、阿多-平氏-平泉が三点近
均衡していたというイメージです。

島津氏の薩摩入りは、大きな流れとしては平氏が阿多を押さえる動きの中で行われました。かつ、この清盛征西の後で平氏は軍事的に滅びたわけで、結果として平氏の征西実行部隊(の残存)たる惟宗=島津=執印氏が阿多の跡を継いだ形になりました。──これは安倍・清原氏の経済圏を奥州藤原氏が継いで繁栄させたのと、類似してます。違うのは、藤原氏は源氏に滅ぼされたけれど、島津氏は「鎌倉殿の十三人」の一画が左遷される体でもってまんまと存立し続けたことです。
このデッサンには、けれども、もう一つ先があります。
ヤマト本土が源平争乱に疲弊し、黄金の平泉が滅ぼされる間に、しれっと阿多経済圏を再興した惟宗=島津=執印氏集団が、南九州の西岸に港を要する土地を本拠にしたなら、その志向する交易の対象は大陸中国でしょう。その吹上浜の弧の前面の列島は、琉球の久米島や韓国南岸の巨済島と同じく、格別の地政学的意味を持ったはずなのです。
利に聡い西九州にあって、甑島とはどんな特別な土地だったのでしょう?