FASE112-1@deflag.utinaR412withCoV-2_BA2#栄いしや何やがいびがなしくさて\兼城城

※後掲角川再掲 糸満の国や栄いしや何やがいびがなしくさて港前なち
和訳:糸満の街が栄えているのはどうしてであろうか。それは拝所のいびがなしを後背に,港を前庭にもっているからだ。
(旧暦8月に行われるウシデーク(臼太鼓))

[前日日計]
支出1300/収入1240
    ▼13.0[①154]
    /負債 60
[前日累計]
利益 -/負債 387
五月五日(五祝)
1311いーばる屋
中味汁定食(本日のおかず:ゴーヤチャンプルー),ジューシー変更 550
1530ル・パティシエ ジョーギ
新都心ロール(チーズ)370
1604 軽食の店ルビー
牛肉ニンニク炒め650
[前日日計]
支出1300/収入1570
    ▼13.0[①155]
負債 270/
[前日累計]
利益 -/負債 117
五月六日(六)

▼▲
0832ゆいレール牧志駅ホーム
五月五日の祝日は割と休んでる店が多いようです。その意味ではこの日に糸満は無謀なんですけど──今日しかない。

大正7年に設立された糸満馬車軌道株式会社が那覇(なは)市垣花から兼城(かねぐすく)村兼城の川尻(現糸満市)に至る県道に軌条を敷設したもので,軌道上を馬車で客車を運行させていた。軌道馬車は垣花から小禄(おろく)村の安次嶺(あしみね)・高宮城・宇栄原(うえばる),豊見城(とみぐすく)村の地覇・座安・翁長(おなが)を経由して兼城村に入り,潮平を経て兼城の川尻に至る間を結んでいた。(略)昭和10年には事実上運輸営業を休止した。〔角川日本地名大辞典/糸満馬車軌道〕

方言ではイチマンンナト・イチュマンンナトという。古くから沖縄の漁業の中心であった糸満漁業の本拠地で,沖縄では漁師のことをイチマナー(糸満人)と呼ぶほど糸満漁師は有名である。(略)はじめは港としての形態を有しておらず,白銀堂(ヨリアゲ御嶽)前の干潟と砂浜を利用していた。波風の荒れる場合はサバニを白銀堂境内に上げたりした。(略)糸満は元来一小漁村で,その漁獲物を女たちが那覇(なは)などの市街地で行商する風習で親しまれてきた。男たちは漁場を求めて県内・県外各地に出漁し,北は日本海,南は南洋各地まで進出した。進出先に定住した例も少なくない。第2次大戦後の糸満港は商業活動で発展し,一時は台湾・香港・日本本土との密貿易の拠点として利用されたこともあった。(略)旧糸満港と糸満新漁港をあわせて糸満漁港と呼び,県管理の第2種漁港に指定されている。港に近接して新糸満造船所がある。糸満の発展と港の役割は不可分の関係で,旧暦8月に行われるウシデーク(臼太鼓)には「糸満の国や栄いしや何やがいびがなしくさて港前なち(糸満の街が栄えているのはどうしてであろうか。それは拝所のいびがなしを後背に,港を前庭にもっているからだ)」と謡われる。旧暦5月4日には港内で伝統行事であるハーリーが行われる。〔角川日本地名大辞典/糸満港〕

あ?昨日がハーリーだったのか!
旭橋。今回は流石にBT向かい,ろうきん・リーガロイヤル側で待つ。糸満行きNo.89は15分に1本ある。
ほら来た。0951乗車。

No.89バスの車窓と車内と

おや?那覇西高校の手前で左折するのか?
天妃歓鍼灸整骨院。

方言ではイチマンという。沖縄本島南部,報得(むくえ)川流域に位置する。(略)地名は,白銀堂近くのシリーンカーという湧泉から,イーチュー(絹)やマン(繭)が出たことにちなむという口碑がある。伊波普猷は,「由来記」に見える伊平屋島屋那覇折目の祝詞の中にある「サキノ御タケ……イトマンノ御タケ」からサキとイトマンが同義語であるとし(沖縄考),さらに「多分イトは岬の義で,マンは磯若しくは干瀬の義であろう」という(日本文化の南漸)。地内を取り囲むようにして走るタカザキヤマの丘陵と,黄金森―天願山―山巓毛を結ぶ丘陵からは陶磁器が採集できる。糸満は七腹に始まり,やがて十三腹に増え,現在民俗行事に参加するハラジュー(腹中)は40を数える。〔角川日本地名大辞典/糸満〕


報得川に沿って

0920糸満入口下車
空が怪しい。
報得川南岸沿い,まつの木通り沿いに登り,橋を渡る。糸満市看板によると,報得川というのはかなり長い川で源流は南城市になる。
報得川流域概要図

報得川の橋から北を臨む

0932大川区公民館
窓の中には便所が見える。真直ぐを見つめていたおばあに「今開いてないですか」「鍵かかってる?」「はい」「じゃあ開いてないねえ」ええ〜?
0931住宅地続く

住宅地続く。
糸満タクシーでトイレ借りて──エラくアパートだらけな界隈です。
兼城の丘が迫ってくる

東の兼城方向はかなり登るらしい。対面の竹林下を左折北行。「②ハマガー【浜川井】」とある兼城自治会案内白杭。0945
②ハマガー【浜川井】

②ハマガー【浜川井】の内部

緑に赤のサイケ葉っぱ

喜界島で見た緑葉の根元が赤いサイケな葉っぱが自生してる?
①ウィーンカー(上ヌ井)

0955リトルハウスNの三叉路から右折南東行。この地点に「①ウィーンカー(上ヌ井)」という,今度は金網で覆われてない井戸。こちらには祠あり。

兼城のンブガー(産井泉)でもある。この井泉があるため,一帯をヒガーバル(樋川原)というようになったという。〔案内板〕

①ウィーンカー(上ヌ井)の祠

祠の文字は読めないか,書いてないかいずれか。横に数本ヒビが入ってる。石積みは上部は野積み,けれど祠周辺は相当精緻な切込接。

1007一つ目の十字路を直進。二つ目,インマヌエル糸満キリスト教会と凌雲寺の看板が仲良く並ぶT字路を右折。

折れた石柱案内「若水坂」

折れた石柱に「上城若水坂」「代々の坂兼城」と書いてある。
おそらくここでしょう。左折,明らかな私有道へ。いや?行けないぞ?
南側,「南方増長天王」の木の御札が貼ってあるところから,道がある。
③ウィーヌトゥンチ(上ヌ殿内)

③ウィーヌトゥンチ(上ヌ殿内)──あれ?番号を辿ってる?

カニマル御嶽から60mほど南にウィーヌトゥンチ(上ヌ殿内)がある。そこに祀られているヒヌカン(火の神)はジトゥーヒヌカン(地頭火の神)だという説があるが,今回の聞き取りで確認することはできなかった。赤嶺と大屋の両門中が管理し,「赤嶺(あかんみ)・大屋(ウフヤ)のトゥンチ」と呼ばれている。棚を真ん中で仕切り,それぞれ3個の香炉が置かれている。〔案内板〕

三ツ石(火の神)

書いてある棚の左下に三ツ石。ガラスコップ三つの供え物。おそらくこちらが古い神様。
火の神の三ツ石と燃えカス部アップ

三ツ石の間には焼いた痕もあり,火の神でしょう。
──ともっともらしくメモってるけど,どうもこの後の見聞からして,火の神の祀り方というのは一つだけ下に置くらしい。棚の上だと火を燃やせない,という手法的なものなのか,それとも「貶める」感覚なのかは不詳。
棚上六柱

また,棚上の六柱も左右で祀り方が違うか,宮子が違うと思われます。両門中に対応するのでしょうか?
左手三柱の米粒

左側の青い青磁の方には,米粒が撒いてあります。
「②カニマル御嶽【金丸御嶽】」……のはずが,石垣が続いて道絶える。

1030右手の小径をすすんで②カニマル御嶽【金丸御嶽】
右手に集落への下り道?かつ左手には山道。
まず直進。
いや?山に道が消えてる?里側には野積の石垣があるのに──?
里側の民家

里側には赤瓦の民家とマヨイガのようなテッポウユリと赤い花が咲く庭。
左手の藪へ。
左手藪道に入る

サボテンと糸満中心部

さっきの家の裏辺りに来た。猫が駆け上がってきてこちらを見てる。守護者らしい。御嶽のイビは見つからないけど,これが御嶽でしょう。
なぜか見事なるサボテン。1042,振り返り一枚。
見晴らしから振り返った「藪」

と写真をとった場所に二つの香炉。
二つの香炉。石積みがあるから向こうがイベ(聖域)でしょう。

出口に向かう。

下の民家を坂道から

先の民家を過ぎ下る。突き当りを右,左,右。
兼城区公民館。[12]シラタキ【ングゥンモー・メーヤマ】
ここに兼城拝所マップあり。かなり細かく調べてあります。

兼城拝所マップ(3画像)
[1/3]拝所リスト

[2/3]拝所マップ北半

[3/3]拝所マップ南半

この兼城区公民館の場所の雰囲気は真栄里の広場に似てる。今は半分園地だけど,元はモーアシビの場とかではないでしょうか?
①ウクマグスクというのは,北側から入るらしい。ただそれより少し西の密集域が気になる。確かに道は面白い形をしてる。西へ。1103
宅地の中,半ば森になってるからすぐ分かりました。ただ結構な坂道!

聖地集中域への坂道。つまりこのエリアは鞍部にある。

「⑨112番地の南西の角にある拝所」

1109「⑨112番地の南西の角にある拝所」
さっきのを見てないと気づかないほど荒れてるけれど,これも三ツ石の火の神に見えます。
「⑨112番地の南西の角にある拝所」の火の神の燃えカスらしき場所アップ

南への何となく昏い道

いや?ここまで来ると行き過ぎてる。何と,黒い車が停まってたのが倉庫じゃなく道でした。西行

「⑧【前盛】の後方にある拝所」

1118「⑧【前盛】の後方にある拝所」。ということはこの丘又は鞍部の名は「前盛」だろうか?つまりいわゆる兼城が「後盛」ということか?
サイコロ状の小社又は祠?

サイコロ状で口なし,屋根あり。香炉一つ,供え物なし。
⑦メーヌトゥンチ【前ヌ殿内】

1120「⑦メーヌトゥンチ【前ヌ殿内】」
鍵のかかった金柵。真ん中より左だけにストーンサークルと高炉。

1125「⑤【幸地】のアサギ」

村の嶽元(タキムトゥ)だといわれている〈幸地〉(コーチ)の屋敷の南東側にコンクリート造りの建物があり,〈幸地〉のアサギと呼ばれている。4個の高炉と火の神が祀られている。(略)〔案内板〕

略部分に「1976(昭和51)年に改築した際の寄附者名簿」として──

「1976(昭和51)年に改築した際の寄附者名簿」

1129写真

(同テキスト化)
波平腹門中
今帰仁腹門中
小禄新地門中
高嶺腹門中
高安腹門中
西門腹門中
大屋腹門中
赤嶺腹門中
仲添腹門中
小禄前ン白腹門中
新門腹門中
宇栄原天保門中
宇栄原新屋敷門中
宇栄原新門門中
宇栄原桃原門中
その他個人

地理的範囲が広い。

「⑤【幸地】のアサギ」の火の神

「⑥【幸地】のアサギの隣にある拝所」では白の股引のオジイがホースで水やりしてたんで退散。
兼城城の森から南方向,▼▲この辺りが根屋ということか。
名残を惜しみつつ1129左折。▼▲

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