GM.(経路:島ちゃんまで)
目録
変電所の坂も真っ青 古波蔵坂
古波蔵は誠に迷宮でした。
ウブガーから「にーちぇ」のある北東側へは,すぐそこ,二百mほどのはずなのに……結局かなり東からしか回り込めませんでした。何がこういう道割にさせてるのでしょう?
1108,三叉路。ad.古波蔵一丁目,右側28,左側22。右手の坂を登れば,方向からしておそらく「にーちぇ」辺り……と考えてたのでした。右折,1110。
▲1115無茶苦茶な急坂
確かに道は通じてたけど……これは凄い!長崎飽の浦の変電所の坂並み,しかも左右にうねってる!!
何でこの距離で,こんな丘越えになるんだ??
さらに……下に降りるのは階段。担いで降りる。ad(住所表示)は一丁目28。降りたら30。
楚辺の老舗2店
ふ〜。やっと平地に還れました……。
楚辺交差点を右折。
トーエ洋菓子店。おおっ,良さそうなお店です。黄色いパーラー風の暖簾が老舗の雰囲気ぷんぷんに漂わせてます。
軽食なじみ前で一服。
ここも良さそうな……というか深そうな店です。──後で調べても,「味くーたー」かつ庶民派の飯を出すらしい。
▲1125軽食なじみ前
目的の島ちゃんに向かうと……まだ開いてない。
隣の材木屋に大勢の背広姿。初荷か何かだろうか。
──とこれを避けてウロウロしてると……?
すぐ南隣の路地?
空いた時間の消化までに,ふらふら入り込んでしまいました。
豆腐ロードの終点に路地
以下3枚,写真を撮ってるだけです。
ただ,雰囲気には呑まれました。この楚辺という場所は,表通りも決して華やいではいない,先に見つけたようなド沖縄な老舗も並ぶ界隈ですけど……何だ,この泥臭さは?
▲楚辺の路地裏道2
奥へ進むにつれ,廃屋も目立ち始めました。
人の姿はまるでない。
側溝もないから計画的に造られた地区とは思えないのに,道は妙に真っ直ぐに伸びる。下の写真のように道路をツギハギしてる跡も見受けられます。
▲楚辺の路地裏道3
幸いそう長く歩き回ることなく,裏の車道へ脱出できました。雰囲気からして曲がりくねって続いていてもいいのに,最後まで道は直線。どういう道なのか,さっぱり見当がつきません。
1135島ちゃん
マーボー豆腐(並)550
▲豆腐汁
前頁の古波蔵ウブガーと豆腐の名産の関係は,後日に知りました。なぜ楚辺で豆腐なのか,ずっと変に思ってきたけれど──
与儀,古波蔵,上間,繁田川,真地と,この首里城南面域は「豆腐ロード」とも言える一帯らしい。〔後掲宮里〕
▲麻婆豆腐
初めて目にするガーブ川
元々,沖縄食文化圏には豆腐屋はなかったという。熱々のまま水にさらさない製法※からだと思われるけれど,各家庭で作るのが当然だったから,それがこの豆腐ロードに残ったのは,単に水がキレイだからという以上の理由がないとありえないような気がしますけど……何でしょう?
逆に言えば,現在の「島豆腐」という表示は,観光客へのアピールではなく法規の除外規定適用品であることの明示なのです。
※※食品別の規格基準(昭和34年厚生省告示第370号)/豆腐の保存基準
正午頃,自転車を返却しかけてから,ようやく妙に……身軽なのに気付く。
あれ?鞄は?
肩掛けのポーチを持ってない!
──まあ余程疲れてたんでしょうね。
島ちゃんに忘れた?と自転車を暴走させて引き返す。ないという。ということはどこかでスられたな……
──と諦めかけて,いやいやと記憶を探る。──確か中村屋で……鞄を足元に置いたぞ!
再度北へ爆走してそば屋へ駆け込むと──
「だめだめ,全部使ってしまったさあ」とおばちゃん,棚から鞄を出してきた。
何かの拍子にか,おそらく中の確認をされた時にだろうけどチャックは壊れてたけど中は問題なし。
2時間近く経ってたんだけど──その間気付かないのもどうかと思うけど──さすがはうちなんちゅ!感謝感謝です……。
ただこの爆走二往復……ここにあの与儀十字路の歩道橋も含んでますから……どっと体力を使った。
ついでながら,与儀公園の北側に初めて「カーブ川」を見つけました。前からどこにあるのか分からなかった公設市場下の川。
何処へ行ったか分からなくなる深淵
1300,県庁前で下車。
駅ロッカーから荷物を回収して再度ゆいレールを待つ。
国際通り端のA&Wが見えてる。この駅もこんなに便利なんだ。
後日掘り下げましたけど,この日にはこんな感想を最終日の行程に対し持っています。──今日の観音宮は媽祖だとは思えない。ただ尚久が「萬歳嶺」に建てた「観音」という動機や発想と,縁起の最後の「馬」の字の奇妙さには少し疑念が残るんですけど。
何より宮島と同じ千手観音──禅寺に祀るものでは,本来はなかろう。
1309,奥武山公園。沖宮が賑わってる風です。
1314,那覇空港
どこに行ったのか分からなくなるほどの多彩さだった。
このどこに行ったのか,というのが海域アジアの手触りなのだと思う。それは近しいようで遠く,すぐ見える浅さのようでとてつもなく深みにある。
写真は総数で585枚撮っておりました。
■転記:沖縄島豆腐店一覧
後掲宮里さんの手書き地図だけれど,凄いものだと思う。謹んで転記させて頂きます。
やはりどう見ても,人口比をはるかに越えて那覇に偏在しています。
豆腐の商業化に関し何らかの特殊条件があると思う。
人口に比べ集中している他の地域として,西原と糸満が挙げられそうです。シンプルには,ないちゃーが多かった土地,という推測も立たないではないけれど──やはりそれだけとも思えません。
■レポ:那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):A面【謎編】
本文に書いた恥ずかしいすったもんだで3度跨いだ「ガーブ川」を,まず埼玉大/今昔マップ on the web で見てみます。
牧志の国際通り近くに顔を出している以外は,地図上には見えませんけど,川幅の太さからしても暗渠になって伸びていることが想像されます。
下図は,その暗渠化する前の1919年の同範囲のものです。
はっきりとガーブ川が出現します。これが南東でひめゆり通りを越えた地点が与儀公園です。この地点を拡大してみます。
三日月湖になりかけの極端な蛇行をしています。この部分は,完全に整形した良い子の川辺に変身して,今や与儀公園の桜(寒緋桜)の名所。
与儀公園小史と野生のガーブ川
その頃,つまり与儀公園設置前の光景が次の写真です。
後掲沖縄県によると,与儀に「県立農事試験場」が置かれたのは1931(昭和6)年。
上の写真でも,かなり細くなってるガーブ川が,それでも立派な堤のラインを維持していることが分かります。
それ以前の,暴れ川だった頃の「野生」のガーブ川が想像できる画像は稀なようですけれど──ずっと北の沖映通りのものが残っていました。
与儀の旧景も類似のものだった,とざっくり想像して先に進みます。
ガーブ川の汚濁と奇跡の復活
ガーブ川の由来は,沿線が昭和初期まで湿地帯だったことから,沖縄語で湿地を意味する「ガーブー」とするのが定説らしい〔後掲wiki/ガーブ川〕。
沖縄県で最も汚れている川とも言われる※のは,平たく言えば,元の沼地に戦後一気に人口が流入し,その排水が注がれたからでしょう。1980年代以降しかデータはないけれど,BOD(生物化学的酸素要求量,主要環境指標)の推移は次のとおりです。なお,この定点観測地点には四条橋(与儀公園付近)が選択されており,一般に汚濁の最も著しい地点の一つに数えられていたと推測されます。

地点:四条橋(与儀公園付近)
年度 BOD
1983年 69
1988年 64
1993年 41
1998年 22
2003年 17
2008年 7.0
〔出典:後掲wiki
原典[7]沖縄県環境保健部編・発行 『平成5年度 水質測定結果(公共用水域及び地下水)』 p.34、1994年
[8]沖縄県文化環境部環境保全課編・発行 『平成19年度 水質測定結果(公共用水域及び地下水)』 p.42、2008年〕
四半世紀で汚染物質は1/10に減じています。ただBOD7水準は,令和代の最も汚い川・全国トップの倍なので──wikiの書かない直近数値を探すと……。
四条橋は水質汚濁防止法下の観測定点に選ばれなかったらしいので,その下流に当たる,沖縄県公式数値中,河川ポイント13の久茂地川:泉崎橋の数値を同5年スパンで拾ったのが以下のもの。
※水質汚濁防止法(昭45法138)15条及び17条に基づく公表数値
2018年 1.1
2020年 0.6
〔沖縄県「令和2年度 公共用水域及び地下水の水質測定結果」概要版及び個票(河川),2022〕※数値はBOD75%値(測定値中上位から75%順のものを採る)。
2019(令元)にはおそらく初めての「<0.5」(≒測定不能)をカウントしてます。この種の環境問題は何が解決要因と即断できないでしょうけど……与儀公園北側付近の整備※と時期を同じくしていることも確かです。

(左下)1937年同/天久から波之上方向 (右下)現在同〔後掲ホリーニョ〕
ガーブ川の流れていた那覇
さて本論となります。ガーブ川はどこで海に出たのか?言い換えると,どこまで,外洋船が遡れたのでしょうか?
地形,地名及び考古学上,現・与儀,細かく言えば与儀公園〜与儀十字路〜船増原公園の付近と考えられているようです。
助走として,ガーブ川自体の経路をwiki〔後掲ガーブ川〕を基本に項目立てて整理しておきますと──
(西行)
2.字寄宮 ※一部暗渠
(北西行)
3.寄宮二丁目 ※暗渠
(西行)
4.寄宮一丁目
(北西行)
5.与儀公園
❴1-5近似線:GM.経路❵
6.樋川二丁目 ※神原小-神原中の間から暗渠
7.壺屋,牧志三丁目-松尾二丁目境界線
8.水上店舗第四→三→二→一街区 ※一街区=市場本通り-むつみ橋通りの間
9.沖映通り ※暗渠
10.牧志一丁目(ジュンク堂書店前) ※西行とともに開渠
11.十貫瀬橋付近で久茂地川に合流
【地形】那覇の見知らぬ海岸線
「1700年以前」※の那覇の海岸線は次のようであった,というのが現在のところの定説です。
中程,長虹堤の南方を最初は少し東に入って南南東に伸びていくのが古・ガーブ川。これが図中の「船増原」東側付近,つまり与儀公園西側付近にまで入り込んでいます。1800年の海岸線(黄色)は与儀までやや川幅が広い,という程度ですけど,1700年のそれは川幅というより与儀までが湾だった,あるいは現・水上店舗から壺屋,与儀までにまたがる内陸湖を形成していた形です。
本当でしょうか?現代人の感覚からは信じられませんけど,それ以上に,確かに論拠は薄い。次の図は微地形ベースで那覇の海面を図上で上昇させたものです。
確かに似たような形に沈みます。
ただし,細かく見ると,そんなに「沈む」と無くなってしまうはずの久米が,17Cにも活動していることは文献上確認されています。前頁でも見た三重城などは完全に海中に没していたことになります。
この点の説明として,
那覇市北西部はかつて浅い海が広がっており、ガーブ川下流部も船増原(樋川付近)まで入り江となっていたが、1451年に長虹堤と呼ばれる堤防が造られてから陸化が進んだ。〔後掲wiki/ガーブ川〕※原典:那覇市企画部文化振興課編 『那覇市史 通史篇第1巻前近代史』 p.24、那覇市役所、1985年
──1451年築造の長虹堤による人工の堆積助長,つまり緩い「環境破壊」が発生し,この「被害範囲」がガーブ川を中心に長虹堤より南内陸側だった,という見方です。
この説の実証がどういう形でなされているか不詳ですけど,例えば次のデータなどは堆積物の質的なバイアス──土壌中の含泥率が長虹堤以南に顕著※──を示してはいます。
【地名】プロト那覇の地図
論拠としての地名を挙げるのと兼ね,中間的に時空の位置を整理しておきます。
ブラタモリのスタッフが思い付いた言葉なのか,「オールド那覇」という語があります。本稿で扱っているのは,それではありません。
「オールド那覇」とは要するに久米三十六姓居住地のことです。近世琉球になって首里王権の黒幕化した勢力にして,現在も沖縄政財界の支配層の拠点で,史料的にもそのほとんどが彼らの視点で書かれてる。(∵史料を彼らが書いてるから)
前々章(首里観音)と本稿で対象にしてるのは,久米時代以前,あるいは久米の史料作成者が触れないけれど通史的に存在していた首里・那覇。「ブラタモリ史観」と差別化する意味で,これを「プロト那覇」と呼んでおきます。
上図の青丸地点にそれが存在したとするのが,本稿の立場です。文献史料を非文献で補足する現代の史学手法によって,それは次第に浮き彫りにされつつあります。
「古市の虹」さんが,やはり自作した次のマップで,プロト那覇の位置に焦点化します。
ブラタモリの「オールド那覇」は,かつて陸域那覇とはっきり切り離された地域だったと思われます。切り離された場所だったからこそ空いていたので,新来の漢族が流入したのです。
「那覇」は南(現・ひめゆり通りライン)にあったけれど,北(現・久米大通りライン)に実権を奪われた。戦後那覇は両者の中間(現・国際通りライン)に再建されました。
船増原:ふなましばるに船は着いたか?
ではプロト那覇域を拡大します。
「船増原」と「ケーシンダー」という地名が書かれています。
この二つの地名について,各サイトとも「琉球時代からの古い地名」とは書いてますけど,論拠は示されず,調べても出てきません。地元団体らしき後掲与儀八三会も
與儀村の事跡については、琉球国由来記、及び旧記球陽、この他の文献にも何等記録されたものがないので、今のところ不明である〔後掲後掲与儀八三会〕
とするので,「與儀」(与儀)そのものも含め本当に史料はなく,口伝の類だと思われます。
与儀十字路の角には原が4つあり、それぞれ宮城原(与儀公園)、宇蘭原(那覇署)、西原(神原中側)、船増原(裁判所側)です。〔後掲グダグダ(β)〕
与儀原も含むと5つの「原」がある。※船増原は通常「ふなましばる」と読む。
グダグダβ著者がこの地点を真和志民俗地図で調べたところ,ガーブ川支流が入り込んでいました。
これらの「原」をプロト那覇の定形地名群と仮定すると,そこは細かい流れが入り込んだ湖沼域だったことになります。
この船増原は,沖縄X(航空写真探索)で目についたので既に訪問しました(→FC2:F55森口公園ほか)。
なお,後掲沖縄の風景(船増原の水路(2))には,船増原の古名が「ハルナ」だったと書かれます。
ケーシンダー≒気仙沼≒鹿島 珍説
取っ掛かりがありそうな船増原ですらこんな有様なので,「ケーシンダー」に至ってはほぼヒットはありません。
漢字すら当てられていないのですから,間違いなく口承の地名でしょう。
語の響きは漢語っぽいけれど,中国語又は福建語でそういう読みの何かを思いつけません。──なので,以下は妄想の類と思ってお聞きください。
語の類似から思い付いたのは「気仙沼」(宮城県)です。
「気仙郡」なる郡名は「続日本紀」弘仁2(811)年の条が初出とされ,古い。語源に関しては諸説あり──
∴「ケセモイ」で「最南端の港」を意味
(戦前,気仙地方の教育長・金野菊三郎が提唱)
【日本語説】
1)「かせ」「かし」:(古語)船を岸に繋ぎ留めておく棒や杭
※茨城県「鹿島」:船着場を意味する「かせ間」が語源。気仙沼も同語源。
2) ケセ :は「削りを背負う」,転じて岩磯,即ちリアス式海岸
3)「滊先」:(漢語)「海道の入り口」の意。音に当て字したと解する。
〔後掲wiki/気仙沼市〕※下線は引用者
「河岸(かし)を変える」の河岸として,現代語でも通じる語法です。沖縄語での頻用度がはっきりしないけれど,海域共通の古語である可能性は強い。
なお,「氣先」なる漢語は確認出来ませんでしたので,当面捨てます。
次に「シカンダー」の後半語幹ですけど──
例文①んだ、くにひゃー・や[こら、こいつめ](語気を荒く脅す言い方)
②んだ、わんねー、んじくー[どれ、俺は出かけてくるねー]〔後掲沖縄の心〕
「石敢當」の「當」ではないでしょうか?
地名「池武當」(いけんとう:沖縄市)や「大当」(うふどう:読谷村)などでも使われます。漢字の語彙「それより先へ進めない所に行きつく(突き当たる)」〔後掲ok辞典〕
つまり,シカンダーは「船着き場の突き当り」を意味していたのではないか──と一応の整合性のある回答が出来てしまったので……とりあえず書いてみました。
【考古・民俗】幻の「けーしんだー」と現の「なーぐしぃくぬ」
与儀十字路の名物歩道橋が撤去されるに当たり,2022年2月7日の沖縄タイムス朝刊に地下から石橋が発見されたニュースが踊りました。
前から探してたカーブ川の入江で、船着場の『ケーシンダー』ではなかろうか?船着場の側は、古い旅館が〜與儀橋 今からおよそ100年前大正時代に與儀と開南を結ぶ入江の橋だった。〔後掲与儀小学校区まちづくり協議会〕
協議会の記述にはブレがあり,おそらく発見当初は「ケーシンダー」の遺跡と信じられたっぽい。3月頃の記事ではいずれも大正時代の橋と統一されているから,市教委の調査結果がそう断じたのでしょう。
ただ,ここに橋が,つまり入江又は支流口があったことははっきりしてきています。
知事公舎内の宮城社(みやぎむい)
同協議会は続いて,(山原)船の着岸地から仰ぐ位置に御嶽があったことを記しています。
知事公舎が、近くにあり、その場所は、『宮城杜』みやぎむいの御嶽があります。船でガーブ川を登り、見上げた森とも言われてるとか?
「ナーグシィクヌウタキ」と呼ばれ、与儀八三会が管理してます。〔後掲与儀小学校区まちづくり協議会〕
レファレンスには次のような資料所在回答があります。
『那覇市史 資料篇 第2巻中の7』(那覇市企画部市史編集室、那覇市役所、1979年) p498-503 「與儀の拝所と井戸並びに家の祭り」
「『琉球国由来記』によると、与儀村には、宮城ノ岳、ヨリノ岳、神里ノ岳の3つの岳がある。知事公舎内にもウ岳があり、前の主席官舎床下にあったのを外へ勧請して金網ごしに拝んでいるそうである。もしかしたらここが由来記の宮城ノ岳かもしれない。」と記述あり。
『琉球國由来記 琉球王府編』(伊波 普猷、風土記社、1988年) p254-255 「宮城の嶽」
「宮城ノ嶽、與儀村、神名アフライノ御イベ」と記述あり。〔後掲レファレンス協同データベース〕
まず,伊波編の由来記によれば,文献上の名称は「宮城ノ嶽」です。──別の箇所に那覇市史が見つけたらしい3つのイベは,記述があるとしても具体にどこなのか比定できません。
次に,那覇市史は宮城ノ嶽が基本的にはどこにあるのか明定できない,でも経緯から考えて知事公舎にある御嶽がそれだと推定する,という立場を採っています。
「行政主席」は米軍統治下の琉球民政府の行政府のトップの地位です。歴代行政主席は宮城ノ嶽(の神体?)を床下に隠していたらしい。米軍の理解が得れないと考えたのでしょうか。いずれにせよ,行政トップがそこまで秘匿して伝えるものと,沖縄人には信じられてきた御嶽だということです。
霊的にそのようなものを持つ「宮城」とは,どういう土地でしょう?通常の漢字文化圏では宮城とは,王府の建物を指します。──県知事公舎は戦前には主に久米二丁目にあったから〔後掲那覇市歴史博物館/知事官舎跡〕,現・公舎の場所の場所が戦前に何があったのか,全く分かりません。
ここは流石に,ふらりと迷い込んだふりはできそうにありませんし。
「與儀」:南山旧王家の裔の里
字が異なるけれど,知事公舎の位置はまさに与儀公園の隣です。そうなると与儀そのものについても調べたくなります。
地名・与儀の由緒は完全に不明。古い書き方では「與儀」と書くようです。
姓の用例はあります。後掲名字由来netによると,
【全国順位】11,923位
【全国人数】およそ540人
540人中,440人が沖縄県,200人が那覇市,50人が小禄・寄宮に在住。極めて在地性が強い集団らしい。
後掲「なまえさあち」では,出自を「庶民」カテゴリとした同サイトに対し,與儀姓の方から次の要請が寄せられていました。
與儀家は(毛氏)お墓に記されています!琉球王朝時代、座喜味城跡、中城城跡を治めた護佐丸の末裔になります。首里城主筋は(尚氏)電話帳で調べて頂くとお判り頂けますが、與儀門中男性には必ず名に清の字を付けないといけない仕来りがあり、昔から現在同姓同名います。あと長男筋しか家紋を持てない等があります!〔後掲なまえさあち〕
久米三十六姓の中には,確かに,毛文彩という人を祖とする毛氏与儀家があります。与儀親雲上の職を得ていたという〔後掲Ameba〕。
いつの,どういう人でしょう?
この毛文彩は,那覇手の名手・新垣世璋(1840〜1920年)が渡唐する際の進貢使の長として名を残します〔後掲头条百科〕。清実録にも記録がある〔後掲清實錄同治朝實錄/1867(同治6)年辛亥の条:「琉球國使臣毛文彩於午門外瞻覲。」〕。ただ他の事歴の記述がみつかりません。
18C前半の平敷屋・友寄事件の関係者に「阿天麟・与儀守包」という人がいます。この頃まで,与儀名を冠する職の者には阿姓が多い。〔後掲琉球の風光/平敷屋・友寄事件〕
三山統一の1429年から続いたと考えると約四百年,与儀には南山旧王家の華族が住んだことになります(主な本拠は八重瀬の阿氏前川殿内)。この点は,大城城残党が移り住んだとする儀間(後掲リンク参照)の沿革に似ています。
それが18Cになって毛家に住み変わった事情はよく分からない。そもそも三十六姓に毛氏は先に触れた毛国鼎(後掲リンク参照)も含め十一家もあって,互いにどういう関係にあるのか,微力にして読み解けません。
ただし,南山系の王家を奉ずる残党集団がおそらくは与儀の土地を開き,久米系の与儀毛氏はこれを受け継いだのであろう,という点はかなり濃厚に事実っぽい。
さて,個別にはとりとめのない痕跡ながら,与儀が琉球王朝初期頃までは遡れる古い土地で,それはここまで山原船が入ってきていたプロト那覇港だったからであろう,ということは推量できました。けれども,前々章の茶湯崎橋はそこから首里に繋がっていたことを連想すれば,この疑問に至らざるを得ません。
プロト那覇港・与儀シーカンダーは,どこへ繋がる港だったのでしょう?
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