009-6厳原(西)\対馬\長崎県

さあ帰国日。
あ!
厳原を忘れてた!

厳原で見た17茶

810,遅くなった。東横INNからRedCaeeage前を南行。
 0813,ボス スパイシーコンソメ25。──厳原はなぜか朝ごはんスポットが見当たりません。
 ふれあい処右折西行。閉まってる民俗資料館を過ぎる。
 市役所前。金石城砦前に「李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑 이왕조종가결흔봉축기념비」案内板。これだけハングルが付してあります。
 0823,府中金石城に入る。

「発端は享禄元(1528)年に起きた一族の内紛であった。当時の居館であった池の屋形を焼失し,金石原に難を逃れた一四代宗盛賢(のちの将盛)が新たに建てたのが金石屋形である。〔案内板〕

 池の屋形(→前掲金田城(往))がここで再度出て来ます。宗氏が初めに府中厳原に構えた拠点ですけど……やはりどう考えても分かりません。
▲碑

829,御結婚奉祝記念碑。
 ホントに凄い供え物。しかも雑多です。……韓国の17茶があるぞ?
 碑裏面に刻印。昭和六年に建てられてる?対馬で何をここまで祝ったんでしょうか?
▲雑多な供え物

石と,平たい横石が混在してる。なかなか妙な積み方をした石垣です。街中のとはテイストが異なる。
──今日,内地に帰るという時になってようやく,厳原を全然知らなかった自分に気付かされてます。

万松院に山寺の風

▲金石城脇の石垣

料で何度も見る「万松院」(巻末参照)の入口は,山寺風の質素なもの。あえてイメージをコントロールしてるはずです。それに気付くと,これはかなりスゴいバシだと,それは分かったんですけど──
▲0842万松院

石は日本三大墓地の一〔後掲冒険県〕!奥の階段から先はかなり深そうです。
 案内板には「史跡藩主宗家墓所」とある。
 北方の上中下の他に西方の裏御霊屋がある。こちらの方が本堂裏です。
▲階段見上げる

万松院には登らない

853。うーん,こんな厳重な場所だと,するっと抜けれる道はありそうにないな。登らず引き返す。
 金石櫓かから右へ登る。「清水山城」と矢印が出て来ました。
▲ジグザグに登る

グザグに登っていきますと,東横INNが見下ろせる丘に出た。──そんなん見下ろしてどうする。
 長崎みたいには,あまり山肌に古くから道が延びてはいない感じです。かと言って防御施設に特化されてもいない。不思議な空気です。
▲東横INNと厳原集落

の等高線ラインを辿ってみよう。0905。
──今地図を見ると,そんな道はないはずなんですけど……この時はとにかく進みました。

万松院〜八幡神社付近の地理
▲竹藪の家屋

東横インが見え過ぎる

藪の細道。でも半公道として続いてる雰囲気です。
 茂みの隙間に見える風景からすると──まさに東横INN方向へ急傾斜。だからそっち行ってどーするんだ?

寝ても覚めても東横イン……別に広告料はもらってませんけど。

も他に下り道は……ないぞ?

この道より我を生かす道はなし、 この道を行く。〔武者小路実篤後掲〕

──なんて格好をつけてる余裕もなく,とにかく下っていくけれど,理解できるランドマークは唯一つ,東横イン。
▲細道を下る

れれ?ここはどうやら……神社本殿の後方だぞ?
 どこをどう通ったんだ?
 全く分からない。でもまた見えてきたのは東横イン。お前,出たがりか?
▲またも東横INNと集落

今は語らぬ砲弾が並ぶ

くして転がり落ちるように辿り着きましたのは,厳原八幡宮神社。
 ……だと思うけど……というのが当時の偽らざる心境でした。まさかこんなところで泣きそうになるとは思わなかったけど,とにかく東横インに感謝しつつ,お参りしたのでした。南無阿弥陀仏。
▲0927何気に砲弾

や,ホント,それなりに拝もうと思ってたんだけど──え?砲弾?
 九州や瀬戸内の神社に朽ちかけたのが奉納してあるのは時々見るけど,ここに並ぶのはモロ,使えそうな完全体です。特に日露戦では,砲弾が「戦利品」として持ち帰られることがままあり,一時は奉納数2万3千を数えたそうな。大戦時の金属類回収令のほか,戦後の占領米軍の視線を忖度して大半が処分されたので,今残るのは相当信心の集まった「御神体」ばかりとのこと〔後掲mocharina〕。ひょっとしたら,日本海海戦直後にはもの凄い数が並んでたのかもしれません。
▲0935石塔群

りてきた森の影に呑まれそうな石塔群。これはあまり他のプログ類に書かれてないけれど──あちこちから集約した気配があります。
 台座の石垣は古いから,石塔集約前には何かをするための空間だったように思えますけど──不明です。
▲ハングルの絵馬

雑多な神様の好い社です。

手に安政三丙年の文字が読める方石。社は北へ連なってる。森へ入る山道もある。
 案内板を見つけた。天神神社。祭神・安徳天皇,菅原道真公。道真公合祀は貞治元年とある。
 0923。隣は宇努刀神社(祇園社)。祭神・須佐男命。元は上県佐賀村より延徳三年に遷したとある。構造上はここが中央神に見える。
 延徳三年──1491年です。1408年,八代・宗貞茂が佐賀館を築城(現・峰町)した後,宗氏が佐賀→厳原の本拠移転時に連れてきた,ということになります。

の砲弾はこの宇努刀神社の建物の右手に何気に並んでます。
 その右が本殿でした。八幡宮神社。仲哀,應神(対馬ではなぜかこの用字が多い),武内宿禰のほかに姫大神がやはりいる。
 本殿左手に,さらに三柱の記名のない祠。丁寧に祭ってある。奥の大きな社は平神社と案内板。
 ここは本地垂迹資料便覧の項目外です。でもこの複雑さは……中世以降の府中厳原史を最初から見守ってきた重厚さを感じます。
 好い社です。

(上)萬松院境内倉庫時代の対馬宗家文書〔後掲長崎県対馬歴史研究センター〕
(中)毎日記が収められた収蔵庫(@長崎県立対馬歴史民俗資料館)〔同上〕
(下)整理された文書〔後掲文化庁〕

■レポ:対馬宗家文書が読まれ始めた。薩摩は?

 宗氏の文書は,専用の蔵とかではなくて菩提寺・万松院に,上記画像(上)の状態で野積みされていたと推測されます。上天妃宮に外交記録を保存した琉球・久米の例に近しい扱いです。
「万松院文書」という呼称はそこから来てますけど,現在文化財として号されるのは「対馬宗家文書」です。
「野積みされていたと推測」と書いたのは,上の写真は江戸とか明治のものじゃなく,20Cの状況だからです。

「宗家文庫」の移転
(古川祐貴「対馬宗家文書の近現代」〔『過去を伝える、今を遺す』山川出版社、2015年〕)〔後掲長崎県対馬歴史研究センター〕

 対馬歴史研究センター所蔵の総数約8万※のうち,5万余が文化財指定されたのが2015(平成27)年です。つまり「邪魔だけど捨て辛い反古群」としてたらい回しされた末,リスティングがようやく終わり,これから読解されようとしているのです。

※後掲対馬歴史研究センター所蔵分以外に,後述の他所所蔵数を合算すると12万点。以下の阿比留さんカウントでは20万以上と書かれ,「広義」の文書の範囲をどこまでと捉えるかで未だ議論が分かれる模様。当面,本稿では少なめの12万点を母集団として話を進めます。

重要文化財「対馬宗家関係資料」
【平成24年9月6日】
日記類/記録類
…………16,667点
【平成27年9月4日】
文書・記録類/絵図・地図類/典籍類/印章類/書画・器物類
…………35,279点
  計51,946点
〔後掲長崎県対馬歴史研究センター〕

江戸時代を終えるころには,総点数,二〇万点以上といわれる膨大な『宗家文書』が,日本国内と倭館に残されることになる。それは大名記録でありながら,「鎖国」時代における異色の国際性に富む,希有な大古文書群の誕生である。〔後掲阿比留 原典:田代和生『新・倭館ー鎖国時代の日本人町』ゆまに書房,平成二十三年〕

対馬宗家文書が書かれた場所

 この文書には何が書かれているか?──前掲・人参潜商章(ex.【民】総潜商化→←【官】政策的取締緩和)の抜荷事件史料はほぼこの文書が出典でしたけど,ここでは少し統計的に。
 出口の数量から遡るしかありません。文書の現存場所は7箇所,うち最大量を蔵するのが長崎県対馬歴史研究センターの8万点(12万点中2/3)。これに次ぐのが面白いことに,韓国国史編纂委員会(3万点弱)です。

対馬宗家文書保管所の変遷(左半分:作成場所側)(田代和生「国立国会図書館所蔵『宗家文書』の特色」〔『参考書誌研究』76、2015年〕より引用、一部加筆 )〔後掲長崎県対馬歴史研究センター〕
対馬宗家文書保管所の変遷(右半分:保存場所側)

 在韓国の数量確認は,2011年の日本政府調査で判明してます。「1926年と38年に朝鮮総督府が宗家から購入」したものとされます〔後掲日本経済新聞〕。
 朝鮮総督府は1922(大正11)年に朝鮮史編纂委員会を設置,関係史料の蓄積に着手。その矢先に宗氏子孫が文書売却を企図したのに飛びついたらしい。これが日本敗戦後に韓国政府に引き継がれた。

当時宗家当主であった宗重望は、大木遠吉(貴族院伯爵議員)らと「礦山事業」に手を出し、失敗、「巨財をなくして」いた。こうした中で重望は死去し、若年の宗武志(たけゆき)が当主となるのである(一九二三年)。宗家の後見をしていた大木は、「(宗家の)家計維持の一助」とすべく(7)、「宗家文庫」の一部売却を黒板勝美(くろいたかつみ)(東京帝国大学教授、朝鮮史編修会顧問)に持ちかける。黒板も『朝鮮史』の編纂に資すると判断して購人を決意。大正一五年(一九二六)に「金弐萬五円六拾銭」で購人した(8)。同年五月に養玉院(ようぎょくいん)(対馬宗家東京菩提寺)保管分が、七月には対馬(根緒屋敷跡)保管分がそれぞれ搬出され、朝鮮史編修会のある京城(ソウル)へと送付されたのである(9)。(略)”家宝的位置付けにあった史料“も含めて、編修会が蒐集した資料は、同会の廃止(一九四六年)に伴って申奭鎬(シンソクホ)(元編修会修史官)に引き継がれる。彼はソウルに国史館を立ち上げ、資料の保存を図るとともに、国史編纂委員会の設立(一九四九年)後はそこに資料を移し、事務局長となった。国史編纂委員会に宗家文書が伝来するのはまさにこのような事情からであり、韓国(朝鮮)側の関与を無視することはできない。〔後掲古川〕

原注 6「対馬の最高級人物宗武志」(『対馬評論』一九四九年五月一七日付)。
7 黒田省三「在韓対馬史料について」(『古文書研究』六、一九七三年)六六頁。
8「対馬島宗家文書購入関係資料綴」(大韓民国国史編纂委員会所蔵K00000021628)。
9 売却は対馬(根緒屋敷跡)保管「宗家文庫」の一部だけでなく、東京(養玉院)保管分の一部にまで及んだ。

 先の文書移管経緯の表に戻ると,元の出所はA:対馬藩庁(厳原)・B:倭館(釜山)・C:江戸屋敷です。最初はB:倭館分がそのまま朝鮮半島に残ったかと疑ったけれど,対馬藩の文書管理体制は極めて厳格で,倭館文書も一度は厳原に集約されたようです。

(再掲)対馬宗家文書保管所の変遷(左半分:作成場所側)〔後掲長崎県対馬歴史研究センター〕

近世、対馬藩の表書札方において10番長持編成で管理された。明治以降、一部東京の宗家へ移送されたが[註20]、その多くは非現用文書となった。本体にあたる長崎県立対馬歴史民俗資料館「宗家文庫」の資料は、明治初期に桟原屋形の蔵に集められた[註21]。1885〜1886年に陸軍用地として桟原屋形が買い上げられると、厳原町宮谷の根緒屋敷跡に移転した。昭和初期、厳原町の万松院西側の空地に移転して宗家文庫となったが、対馬宗家文書はこの文庫の2階にあった。〔後掲東〕

※原注 11)田代和生「総説対馬宗家文庫の調査を振り返って」前掲『対馬宗家文庫史料絵図類等目録』(略)
19)東昇「対馬藩の御内書、老中奉書の選別ー18世紀後期における文書管理の転換ー」『アーカイブズ学研究』7,2007(略)
20)前掲,東昇「対馬藩の御内書・老中奉書の管理について一文書箱と「年寄中預御書物長持入日記」一」pp.43-44.
21)前掲、田代和生「総説対馬宗家文庫の調査を振り返って」p.308.

 第三位量の九州国立博物館(14千点)は,文化庁が購入したものです。宗氏は1997年に文書を業者に売却したけれど,これを慌てて文化庁が買い集めたものらしい〔後掲東〕。
 つまり,現存文書保有団体が複数あるのはほぼ宗氏の売却によると考えてよい。
 作成場所毎の比率は推定し辛いけれど,朝鮮総督府購入分がある程度は倭館作成分と重複すると想定すると,それは少なくとも8万点。荒く言って半数は倭館作成分であろうと推測してよい。
 現場の貿易・外交記録を恒久的に記録,事後の参照検索資料としようとした史料が,約10万点含まれるはずなのです。
 現在,九州国立博物館は「対馬宗家文書データベース」を構築し,検索機能付きの史料一覧をネット上に置いています〔後掲〕。残念ながらデジタルデータそのものには辿り着けないし,テキストデータでもないのでワシ位の素人ではどうにも使えないけれど……21世紀に入ってようやく,この文書群は本格的に研究の俎上に乗せられたのです。

毎日記(倭館日誌)の表紙補強材に使用された,老中「秋元但馬守凉朝」※発→宗家当主宛の私文書状
(上)同毎日記 (中)補強材使用の私文書 (下)判読文字〔後掲山口〕

※秋元凉朝:延享4年(1747)~西の丸老中。但馬守。宝暦10年(1760)~明和元年(1764)本丸老中

琉球・長崎・松前口にも史料群

 同様に琉球口の記録が,歴代宝案として沖縄・久米に残されていることを,別章で確認しました。15~19Cまで450年近い外交文書写の蓄積が四千件余。
 郷土史家・久場政盛さんの私的作業による写本が戦火をくぐり抜けて現存しています。

❝内部リンク❞m10sm第十波mm変な日本語&中世福建船史料/■小レポ:史料・歴代法案写本について

m10sm第十波m始まりの社ぞ撫でし黍嵐m変な日本語&中世福建船史料


▲歴代法案の歴史①成立から関東大震災での焼失まで ※沖縄県教育委員会「歴代法案の栞」▲歴代法案の歴史②完全写本化から現在まで

 現在沖縄県が強力に牽引して,歴代宝案の復元事業が進められており,2021年末からデジタルアーカイブを稼働させたところです(→沖縄県教委「琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ」URL:https://ryuoki-archive.jp/)。これはごく一部ですけど既にテキストデータも含みます。
 長崎口の記録史料としては,有名な華夷変態があります。──今試みに,国文学研究資料館サイトで華夷変態5巻のデジタルサイトを見ると298コマあります。華夷変態全体は35巻ですから一万コマ以上がネットで画像閲覧可能です。……テキストじゃないからワシにはすらすらとは読めんけど。

華夷変態閲覧サイト。(鄭)「子龍敗軍」記事の目次が見える。〔前掲国文学研究史料館〕

 残る松前口については,元々それほど文書集約が進んでいなかったようです。ただやはり相当の文書量を誇ります。──やはり今,北海道大学「北方史料データベース」(URL:https://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/)を開くと,「日本北辺関係旧記目録」だけでヒット数は6727件ありました。残念ながら蔵書検索のみで,ネット閲覧できるのは一部ですけど。
種田家文書閲覧イメージ〔前掲北大・北方史料データベース〕

 このように,「鎖国」下の四つの口には何れも膨大な文書が蓄積されています。交易も外交も,過去の経験のナレッジを前提とせずに有利に展開させることは不可能で,そうした数十年から百年分のナレッジを自前の脳細胞に記憶するようなアナログな方法は非現実的だからです。その規模のナレッジはデジタル化せざるを得ない。
 さて,何が言いたいかといいますと──

マクロなる薩摩官製千年史

 教科書的には「鎖国」下の4口ではない薩摩藩は,「旧記雑録」と呼ばれる
①全国有数規模
 (鹿児島県史料百冊超)
かつ
②時点の継続した史料を
 (平安〜江戸:約千年超)
③藩政時代に編纂しています。

薩藩旧記雑録〔後掲文化遺産データベース〕

薩藩旧記雑録
さっぱんきゅうきざつろく
 島津家関連の、鹿児島(薩摩(さつま))藩領域にある史料の年次順史料集。島津家文書をもとに、1041年(長久2)から1895年(明治28)までの文書、記録を収載している。基本を鹿児島藩記録奉行の伊地知季安(いじちすえやす)が編纂(へんさん)を始め、その子季通(すえみち)が協力し1897年ごろの分まで補追した。季通が島津家に提出した原本が島津家本で、国宝島津家文書に含まれ、現在は東京大学史料編纂所の所蔵。この原本の名称は『旧記雑録』となっており、前編(長久2~天文23年を収載)48巻、後編(弘治元年~正保元年を収載)102巻、追録(正保2年~明治28年を収載)182巻、附録(年次不詳を収載)30巻の計362巻と膨大で、長期間にわたる史料を編者の高度な見識で選択した。鹿児島史の根本史料集で、全国の地域史料集の中で藩政期に編纂が始められていることでも類例がない。『鹿児島県史料』として全巻公刊された。内閣文庫と鹿児島県立図書館に稿本がある。〔三木 靖:日本大百科全書(ニッポニカ) 「薩藩旧記雑録」←コトバンク/薩藩旧記雑録〕

 ①規模は対馬・長崎・琉球を超えるとは言えないまでも,②平安代に遡り,かつ③藩が記録の体系化を企図した,この②③の点では他の大名家に例がありません。──考えてみれば当たり前です。「鎖国」四つ口は,江戸期の外交政策の結果,その結節点として浮上したわけで,それ以前に蓄積されるべき記録はほぼ存在しません。また,それを体系化するニーズを通常,それらの藩が持つでしょうか?
 こう考えると,四つ口でない薩摩にこんな巨大な記録群が残ることの不思議さが実感できると思います。
 旧記雑録は,なぜそこにあるのか?

鹿児島県史料〔後掲鹿児島県〕

とても綺麗な薩藩旧記雑録

 鹿児島県立図書館の郷土資料コーナーの書架には鹿児島県史料がずらり(令4:106冊)。一冊約400頁として4万頁。活用方法の専用パンフがあるほどで,かなり利用数もありますし,県HPからも目録と概要(構成文書)まで閲覧できます〔後掲鹿児島県→(再掲)URL:http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/kensi.html〕。
 ただし,テイストが先に見た四つ口のいずれとも全く異なります。
 純粋な行政記録なのです。現場色がないというか,ドキュメンタリーの要素がない。
 例えば慶長の役(第二次朝鮮出兵)での順天城援軍時の模様は,次のように語られます。

同十八日寅之刻より数百艘之番船被掛候之条、不及是非午之刻末迄遂防戦、朝鮮大船四艘、江南大船弐艘其六艘切取、互引退候、手前わつかの小船共にて数百艘之大船ニ掛合、数刻相戦候之条、手負之儀者不及申、倅・者共歴々遂戦候、併此防戦者其日小西を始順天人数不残繰取候、然則高麗在陣之御人数各被成帰帆候之条、我等弐も昨日壱州勝本迄着船候、呉々於高麗度々遂防戦、得勝利候段、更以又八郎ノ手柄ニあらず、ひとへに聖門様御祈念之給と奉存候、何様急度可罷上候間、以面上可奉得尊意候〔後掲古文書を楽しむ会〕

 確かにもの凄い鬼島津ぶりですけど──個別の日本兵も朝鮮兵もどこにも出てこない。純粋に軍記物であり,武士の功労勲章の記録になってます。
 そういうものは他の大名家にもあるけれど,薩摩の記録量が突出して膨大なのは,単に政治・軍事の記録が多いという事では説明できないように思えます。そんなに多量の軍記物だけがニーズのあるわけがない。
 つまり,量の突出に比して内容が綺麗過ぎる。クリーニングされた印象をどうも受けてしまう。
 そこで旧記雑録の作成経緯を調べてみると──何ともおぞましかったのです。

伊地知季安親子の墓(興国寺墓地※)。刻印によると右が季安さん。すると左が旧記雑録を補追した子・季通さんでしょうか。
※「市営バス冷水線の比丘尼坂バス停の東側山手」〔後掲かごしまデジタルミュージアム〕

連座の罪で40年間在野の学者暮らし

 先述の通り,編者・伊地知季安(いじちすえやす※)は鹿児島藩記録奉行。
※本人の日記には「すえよし」とある〔wiki/伊地知季安〕。
 父親の実家・本田氏は記録奉行を輩出する家で,季安の烏帽子親・本田親孚をも記録奉行。
 第三軍参謀の伊地知幸介との血縁は未確認。

 1782‐1867(天明2‐慶応3)
江戸後期の薩摩藩士。諱(いみな)は季彬,のち季安,通称小十郎,号潜隠,字は子静。薩摩藩第一等の史学者。1808年(文化5)近思録崩れに座し喜界島遠島,11年赦免後も仕官の途をとざされ,ようやく52年(嘉永5)記録奉行にあげられ,没年まで薩摩藩の根本史料を編集して《薩藩旧記雑録》前後編150巻の大著,ほかに《西藩田租考》《南聘紀考》など多くの著書を著す。【原口 虎雄】〔世界大百科事典 第2版 「伊地知季安」←コトバンク/伊地知季安〕

 近思録崩れ※への関与は「近思録派のリーダーであった秩父季保が伊地知家の本家筋に当たっていたのが理由」(wiki同上)とされる。事件の性格的にも季安さんが積極的に関わった可能性は少ないでしょう。

※近思録崩れ:1808(文化5)-1809年にかけ77名の処分者を出した島津藩最大のお家騒動。原因は複数挙げられ複雑だけれど,「近思録党」の政策として①参勤交代の10年保留,②非殖産的な新規事業の停止,③琉球貿易の拡大,④本来下級武士職の喜界島代官を一所持格で勘定奉行等に下命〔wiki/伊地知季安〕などが挙がり,調所広郷に先立つ財政改革運動だったと思われる。

 この連座遠流後,1847(弘化4)年の再士官まで実に40年,つまり26歳から66歳までの間,季安さんは藩から干されます。ただその間,在野の学者として独力で藩内の史料を収集,「旧記大苑」なる目録を作成するなどの成果を残す。──なぜ無職の季安さんがそんなインセンティブを持ち,そんな事業が可能だったのか,説明する資料はありません。やや陰謀史観的に見るなら,この在野時代,既に何らかの密命を帯びて動いていた可能性もありめす。
 この活躍ぶりが「藩の記録所(いわゆる公文書館にあたる)に嫉視される所となり,天保14年(1843年)には藩命によりそれまでの著作すべてを上納させられると言う処分」を受ける〔wiki/伊地知季安〕。──理由は語られない。63歳までに蓄積した成果を強奪されたのです。「このことによって季安の博識ぶりが当時の藩主・島津斉興の目に留まることとな」って島津10代斉興代に再士官,11代斉彬代には記録奉行となる。1867(慶応3)年死去の際は御用人。享年85。 
 以上の季安さんの生涯で,最も理解不能なのは,理由不明の研究没収(1843)から再士官(1847.10)という連続性です。この間,藩内でこの知的に凶暴な史家をどう扱うか,最終的には藩主の決をとるような議論がなされたと推測されます。その議論の対象は,季安という人間より,彼が在野で蓄積した史料群の扱いだったでしょう。また,40年の日干しからの再士官は,その議論の結果,季安に対する要求が行われ,その見返りとしての任官だったでしょう。
 先に白状すると実証史料はありません。でも,藩から季安さんへの要求とは何だったと仮定できるでしょう?

島津斉興像(尚古集成館蔵)。中間試験前のワルの学生みたいな人だったらしい。

伊地知季安「軍司令」のミッション・インポッシブル

 季安さんが1847(弘化4)年10月に帰ってきた官職は,御徒目付・軍役方掛でした。翌年(1848(嘉永元)年5月),つまり半月余にして同じ軍役方掛に置かれた軍賦役に転任しています。「軍賦役」は,家老にして財政再建大臣の調所広郷が設置していた職です。──16年後,禁門の変で戦闘指揮をとった西郷隆盛は,軍賦役・小納戸頭取でした。つまり,幕府をやや憚った名称ながら「軍司令官」です。
 季安さんの経歴に狭義の軍歴はありません。
 東アジア史に視点を拡大すると,アヘン戦争が1839-42年。調所広郷の軍賦役職新設は高まる東シナ海への西欧からの波を考慮したものでしょう。
 これらの情勢と最も符号する仮説は,季安さんはいわゆるインテリジェンスとして再任官したということでしょう。(初代?)軍賦役としては,まず海外軍事情勢の分析から薩軍近代軍事力整備のプランニングまでをミッションとされていたはずです。──そういえば,季安さんが号した「潜隠」という文字は,単なる隠遁や寂びとしてはややドギツい漢字に思えます。
 では,在野時代の最も突出した分野・地誌学ではどうでしょう?
 季安さん再任官の翌1848(嘉永元)年,財政改革を牽引してきた調所広郷は,幕府老中・阿部正弘※から密貿易の疑いで糾問され,同年12月急死(通説:服毒自殺)。

※政敵・島津斉彬サイドの(藩直轄地の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易)情報提供を受けていたと目されている。〔wiki/調所広郷〕


 この時期,幕府外交法制上は完全に「黒」の領域に両足を突っ込んでた薩摩藩のトップは,その【A】外交・通商記録,さらには【B】薩摩が中世以降千年間「海上王国」として営んできた歴史を,ドキュメントとして一切焚書する,という一大決断をしたのではないでしょうか。薩摩藩記録方の実力ナンバーワンのスペシャリストへの嫉妬を抑え込んででも藩主叉はその近隣が季安さんを官に引き戻したのは,没収(実質的には強制調査)した彼の史料群に【B】の形跡が随所に見てとれ,かつそれを整理した季安さんならば【B】の痕跡を無矛盾・最短手順で抹消するのに適任である,と踏んだから──というのが本節の仮説です。
 薩摩藩主は交代の度に激烈な政治闘争を繰り返してきたポリティカルな人種ですけど,なぜか(だからこそ)叡明な王が揃い踏みです。その側近も極めて実力主義で登用されています。この「全地域史料総検索=『不適切』史料抹消プロジェクト」,つまり現在「薩藩旧記雑録」編纂として伝わる事業は,彼らにして初めて構想し得た(文化的には最凶の)ものでしょう。
 当然,季安さんの現状からしての威嚇効果も計算された要求だったはずです。40年干された老境の学者に「再任官するなら,命を賭して事業の完遂を誓え」「さもなくば,史料群を奪われ,野に降りたまま死ね」と選択を迫ったものと想像できます。最初におぞましいと書いたのはこのことですけど……ある意味で「綺麗な」薩摩を未来に至るまで防衛する最高機密ランクのインテリジェンスに登用するなら,この位の事をして責任者を無形の幽閉状態に追い詰める必要はある。そう薩摩のエリート層は,極めてクールに計算したと考えられるのです。
 本稿では,自分でもしつこいかな,と思うくらいに江戸期の海の裏経済運営体・薩摩にこだわってます。
 以上の仮定が正しければ,その実証とは,ほとんど伊地知季安さんとの知恵比べです。この薩摩一の史家が藩の総意を受けて結果的に高度な情報操作を成した後から,丹念に「裏」の痕跡を見つけなければならない。
 ただ,四つ口以外でこれだけ膨大な史料群があるということは,当時の現地史料──例えば(一部が坊津で見つかっているような)会計史料やメモ類,交渉記録など──もまた莫大な量が相当箇所に存在したはずで,それがポロッとどこかの旧家の蔵から出てくる可能性が,完全なゼロとは考えられません。
 また,「海上王国・薩摩」の仮説的イメージがどちらかと言えば歓迎される風潮も,最近はやや起こってきています。そうした発見が必然的に握りつぶされる時代でもなくなってきています。
 その蔵の扉が開く時を,待ちたいと思います。

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