m10sm第十波m始まりの社ぞ撫でし黍嵐m変な日本語&中世福建船史料

高知米の農家には泣けるコピー

▲「本州の手作りおにぎり」厦門地下街にて。
 やはり本州のお握りと九州のそれとは,中国人にも違いが分かるらしい。

▲「スパイシー巻貝」
 アップでご覧頂きたい。真っ赤なこれは……食えるのか?てゆーか,それ寿司と言うのか?

くまもんの「謝謝台湾」

▲天空騎士団の掟。調べてみると,結構日本でもプレミアもの。
→m103m第十波mm啓天宮/一つ,心に信仰を忘れないこと

▲くまもんの「謝謝台湾」。熊本大地震の時の援助に対する謝辞らしい。でも,くまもんと手を繋いでる台湾の形のそいつは誰?

りょくちゃ汁と書くなby伊右衛門

▲「りょくちゃ汁」と書かれると,途端に飲む気が失せるのはワシだけか?それとも中国人には,あれは「汁」なのか?
 てゆーか,それをオレンジに混ぜるのは違法行為だと思う。

▲「それは滑らかで豊かな海の」──センスがいいのか悪いのか,何か考えてるのか無茶なのか,ツッコミようがない無力感に襲われる。

名古屋発コメダの台北躍進劇

▲「コメダのパスタ 台湾限定」日本では売らない,何らかの秘密があるのだろうか?

※後日談:と思ってたら,台湾コメダは非常な勢いで増えてるそうな。パスタは台湾から日本に逆輸入されてるほどのものになりつつあるんだって。へえ~。
台湾コメダ、増殖中! – ちょっと台湾で暮らしてみる

▲にしてつバスの旅行プラン
 頭に「にしてつ」はわからないでもない。でも腹に「バス」と書く意図は何なのか。

■小レポ:福の船 冥き陽揺れて那覇港(福建船等資料集)

 料館口考(m103m第十波mm啓天宮/■小レポ:啓天宮×黄廟の複眼で見える風景)ではみ出してしまった福建船舶のデータを,本章に溢れさせておこうと思います。
 自慢ではないけど,ワシは以前は船主であった。プレジャーボートの共有で,しかも強風に揺られて怖くなって乗らなくなったけどね。──という海の男としては非常にヘタレな著者であるけれど,海域アジアを語る上ではどうしても船そのものが登場してきてしまうのでね。
▲広州(泉州?)出土の宋時代(960-1270)の船、残存した船底部を修復したもの

その1 推定される福建船の構造

 当時の福建船というのが,どういうものだったのかは,あまり研究が進んでいないのが実情らしい。当然と言えば当然で,木造の船が現在に伝わっているはずもない。設計図のようなものが残されているわけでもない。
 だからアラブの船の推定から,同様の構造を持っていただろう,と推測することしかできないらしい。

このころ(引用者注:唐代)中国へ来たアラブの船がどんな船だったか、まだよく分かっていない。しかしその大規模で安定した往来から考えて、ローマの商船やハンザ同盟のコグなどに劣らない積載量や航海能力をもっていたはずである。アラブの三角帆、いわゆるラテン帆が地中海へ入ったのがこの時期だったらしいことからすると、東洋へ来たアラブ商船も同じ帆をもっていた可能性が高い。中国文献の調査が期待される。      
唐帝国の側もこの貿易に積極的で、広州や泉州(どちらも南中国)にはアラブ商人の大きな居留地もあった。中国人も海上貿易の利を知り外海へ出て行ける大型船を作るようになったらしい。その船はしかしアラブの船の真似ではなくて中国独自の木造船だった。昔からの内水用の船から外海用の中国型帆船への進化の過程はまだ謎に包まれている。
海と船の歴史2(6章-10章)

▲中国各地の船の船首、船尾の特徴
 ただ,上のように,各地の船の構造特性の比較研究は,ある程度進んでいるようです。
 福建の船は,V字に特化していない,いわばU字のような船底構造を持つ。外航性を持ちつつ,浅瀬にも侵入できるマルチな構造だった,ということでしょうか。ただそれだと,これ以上の大型化は難しかったかもしれません。

唐末期から宋時代にかけて出来上がった中国の航洋船は厚い外板とたくさんの横隔壁/肋板で船体を固めていたようである。1970年代に南中国の泉州(Quanzhou)で発掘された船(図)、ほぼ同時期に韓国南西部の新安(Shinan)で発掘された船はいずれも13世紀後半から14世紀前半、宋から元にかかる時代の中国船で、航洋貿易帆船であろう。船底勾配の大きいV型断面で「開き走り」に適する船型である。
なお同じ中国でも揚子江より北では沿岸一帯が浅水なので平底の船型が普通であり、開き走り向きではない(図37 38)。航洋船としては南中国系のV型が多かったが、平底
船型にリーボードを装備して開き走りに備えたものもあった。たとえば江戸時代に長崎へ来た中国船の中にはこのタイプが相当数含まれている。(前掲海と船の歴史)

▲長崎版画 唐船図・阿蘭陀船図 大和屋版系 天保・弘化頃(1830~40年代)

その2 発掘された福建船の構造

 極めて珍しい例らしく,これが福建船の標準なのかどうかは定かではないけれど,1973年に泉州湾后渚港で沈埋していた船体が発見されています。

 この船は遠洋航海用の貨物運搬船と考えられ,引続き宋代以降に沿江,沿海用として登場する沙船・鳥船・福船・広船の4大船型のうち「福船」に相当するらしい。
(略)宋代の遠洋船は概して幅が長さの3分の1ないし4分の1で,船型としては「宣和奉使高麗図経」所載の中国から高麗に航行していた客船がこれに似ているのではないかという。
※ 北野耕平「中国における古代船舶の三つの新例(Three Newly Excavated Ships oftheAncientHan-,Tan-andSung-DynastyofChina)」海事資料館年報,3:8-12,1975
原典:泉州湾宋代海船発掘報告編写組「泉州湾宋代海船発掘簡報」『文物』1975年 第10期,中華人民共和国文物編辑委員会

▲同宋代木船の出土状況

 木船の残存長は24.20m,船幅は9.15m,甲板以上の船体上部はすでに失われ,船体下部しかなかった。(略)木船の平面形は船首がとがり,船尾は方形であるが,全体として楕円形に近い。船底はとがり底で,舷側は三重,船底は二重の木板構造からなる。船内は13個の船綸に仕切られ,長さ,幅,深さから割り出した積載重量は200トン以上に達するとみられるという。竜骨は2本の木材を接合したもので,全長17.65m, 幅42cm,厚さ27cmある。この主竜骨と尾竜骨は松材を用い,竜骨に接合した船柱にはクスノキを用いて,長さは4.5mある。[前掲北野]

▲宋代木船艤装復元図 

船板は柳杉系統の木を用いていて,比較的保存はよく,最も長い板は13.5m,最も短かい板は9.21mで,幅は38~28cmあった。船板の接合には重ね接ぎと突き合わせた平接ぎの方法が認められた。際間には麻糸や竹材と桐油灰と混和したものを充填し,長さ12~20cmの断面方形の鉄釘を用いていた。
 船内は12の隔壁によって細長い13艙に仕切られている。幅は船幅一杯に大きくて,第8艙のごときは9.15m,深さも2m近くあるが,長さは180cm内外で,最も短かいところでは80cmしかない。隔壁の用材は主として杉で,クスと松を少し混用している。船底と隔壁の仕切り部分には肋骨をとりつけている。材はクスである。
 最も注目すべきことは,前樯の台座が第1艙に,中樯の台座は第6艙に設置されていることで,一般配置の復原図を見ても2本マストをもつ複雑な艤装をしていたことがわかる。[前掲北野]

 ……やはり技術的な面がよく分からず,評しようがないけれど……かなり大きいことは分かる。人間なら一部隊,移住者なら一つの村の人口は運べたでしょう。
 さて,運んだ荷ですけど──この中にやはり木材が混じってます。銭もこういう形で運ばれたらしい。

1 香木,薬物。
 各種香木,胡椒,檳榔,乳香,竜涎,辰砂,水銀,タイマイ。香木は4,700斤内外,胡椒は5升ほどという。
2 木札96枚。
 方形,六角形,菱形の木片で,このうち鑑札のようなもの33枚,荷札63枚。表面に墨書銘のあるものは88枚で,無銘のものは8枚ある。
3 銅銭504枚。
 内容は唐銭33枚,北宋銭358枚,南宋銭70枚,不明のもの約43枚ある。
4 陶姿器多数。
 このうち復原できるもの56個。
5 竹尺,竹の編物,木槌,藤製帽子,シュロ編,鉢などの銅製品,鉄斧などの鉄製品。
6 木製の将棋のコマ,宋版の印刷品,珊瑚珠,ガラス玉。
7 貝殻2,000余個,その他南海と東南地域産の巻貝,石珊瑚。
8 ヤシ殻,桃核などの植物遺品,豚,羊などの動物遺骨。
 さて最後に最も重要なこの宋船の年代については,船内で発見された銅銭の中に,年代が一番新しいものとして南宋の咸淳元宝2枚があり,そのうち1枚の背に「七」の文字があったところから,咸淳7年(1271)が沈没年代の上限と考えられる。[前掲北野]

その3 標準規模:四百科船≒千石船≒百人乗り

 琉球王国が明朝から海船を下賜されていた時期に,その船のうち,明朝の建造記録と琉球の運用記録が併存しているものがある。
※ 岡本弘道「古琉球期の琉球期における『海船』をめぐる諸相」東アジア文化交渉研究 創刊号
「崇武所城志」「戦船」にある「勇字五十九号」がそれで,琉球側の「宝案」に1431(宣徳9)年に琉球謝恩使節が福建で下賜された船「勇字号船」として記載がある。
※ 中国側記録として,岡本は「中国地方志集成」編辑工作委員会編「中国中国志集成」26郷鎮志専辑,上海書店,1992を原典として挙げる。
※ 宝案の記載は1434(宣徳9)年の中山王尚巴志から礼部への咨のうち長史郭祖毎・程安等に関するもの

 この両者の記録を付き合わせると
①(崇武所城志)同船を四百科官船と記録
②(崇武所城志)同船型はこの時期の標準規模で,官船一隻に軍士110名が搭乗すると記載
③(宝案)同船を以後朝貢船として運用
④(琉球藩雑記五)進貢船の中古船が転用されたと見られる19C後半の鹿児島便が「積高」1260石であること
⑤(山形欣哉推計※)1科=522.6リットルかつ1(日本)石=180.39リットルと仮定すると,四百科=1158.82石
※ 山形欣哉「『南船記』における『科』について」海事史研究第53号,1996
となる。以上から,中世標準クラスの四百科船は日本のいわゆる千石船より少し大きい規模のもので,標準定員百人強,積算容量2百キロリットル余のスペックのものだったことが一応推定できます。
 だから,その規模は日本の千石船──江戸期日本の中盤以降の標準クラスだった千石船(文語名:弁才船)──から類推するのが近道です。
 大阪市「なにわの海の時空館」にある千石積の実物大復元模型は,
・全長29.4m
・船幅7.4m
・深さ2.4m
・帆柱の長さ約27m
・帆の大きさ18mX20m
※ wiki/弁才船 中世末期から江戸時代、明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船
 概ね,2で紹介した宋代木船と同スペックのものだということがわかります。つまり,逆に2の考古学データは四百科船クラスの中世・近世の東シナ海船舶の標準として使える,という傍証を得たことにもなります。
 なお,前掲岡本論文が中心テーマにしているのは,琉球宝案が記述する「最大で366人」搭乗の琉球海船や,朱印船貿易に用いられた4~5千石の巨艦の謎ですけど,実戦あるいは実交易には向かない輸送船として,特に海域に緊張感が高まった15C中盤以降は排除されていったという見方をとっています。

▲大阪市の「なにわの海の時空館」にある弁才船の復元模型「なにわ丸」

千石船スペック≈朝鮮出兵標準船

 塩飽水軍と同大工の研究者によると,千石船は,朝鮮出兵用に当時の関船レベルの大型船を塩飽で大量生産した際,制式化された船式が原型だといいます。
 この「大船」大量発注は,文禄元年の豊臣秀次の塩飽代官山への朱印状として史料が残るというけれど,現物が特定できませんでした。ただ,塩飽が選ばれたのは、
①塩飽水軍の大工転業が進む中で
②この地が小西行長知行下にあり
③小西により堺の通商ネットワークと連携し
④各地から船大工等造船技術者たちを集めた「造船所」を形成できたこと
によるものと考えられています。
 この知能集積で生み出された最大のものが「水押」という機構。

朝鮮出兵期以降の新機構∶水押

 西洋船の竜骨に近い機能でしょうか。波を砕いての航行を可能にしたことで,速力と乗員数減を実現。江戸初期には中型廻船に転用され,いわゆる弁才船の基本構造になっていったというのが通説化しているという。
✻塩飽大工の活躍No1 塩飽大工集団は、どのように形成されたのか : 瀬戸の島から
URL:http://tono202.livedoor.blog/archives/5965524.html

 ただ,この時代前後の標準スペックである四百科船との相似を考えると,塩飽の造船知識がゼロベースで創造した,とするのは極論でしょう。塩飽水軍と同様,秀吉の海賊停止で造船業に転身しようとした海賊出身者が,この時期の塩飽に集まったはずで,その中には後期倭寇で中国船の構造に通じた者もいたと推測されます。すなわち,塩飽で集約された知は,当時の海民が有した極めて多方面かつ実戦的な建造術だったてしょう。具体的な技術日記のようなものが出ればとんでも無く面白いでしょうけど……まず普通には発見されないでしょう。その前提たる,技術者の前身もバレちゃうだろうしね。

その4 船舶全体の規模別シェア

 千石船相当の交易船の存在は確かだとして,それらは船舶全体の中でどういう位置を占めていたのでしょう。
 これもやはり沖縄のデータです。時代は新しく帆船時代末期と言っていい1873(明治6)年のものですけど「琉球藩雑記」という大蔵省調(調査)のデータが残っています ※豊見山和行「琉球列島の海域史研究序説:研究史の回顧と二、三の問題を中心に」琉球大学教育学部紀要(68)253-264Vol68 表1
「沖縄県史」第14巻資料編4「琉球藩雑記五」(1965年,琉球政府)172頁

▲1873(明治6)年時点における船舶状況

 豊見山さんはこれを3クラスに分類しています。
A 15反帆クラス:8隻
B A未満3反帆以上:161隻
C 3枚帆以下:740隻
 A群が前に見た千石船クラスです。唐船・進貢船,あるいは楷船と呼ばれた官船で,下記データからすると船長約35m。
 これに対しB群は,百石前後のもので,馬艦船と呼ばれた民間船。同じく船長約14m。このクラスが民間交易の中心的存在と推測されます。3反帆のものは馬艦船の小型版で,山原船と呼ばれる群と思われる。
 以下のC群は小型船。特にクリ船はいわゆるサバニで,船数としては半数以上がこれに当たる。
▲琉球海船の種類別規模
※前掲豊見山,原典:琉球「船舶図面五枚」の付箋(「東京国立博物館図版目録 琉球資料篇」2002年,東京国立博物館,260~262頁)を元に作成
※引用者抽出:楷船及び慶良間船は,それぞれ唐船及び馬艦船と同クラスとして列削除した。

その5 沖縄海外交易用語集

 ついでに,この福船を主とする東シナ海の交易船が沖縄に入った時の様子と,その場面での船舶関係の専門用語に触れておきます。

5-1 侵入路

■宮古口
:(読み)なぁくぐち
:那覇港入口南側
■唐船口
:(読み)とぉしんぐち
:那覇港入口中央
■大和口
:(読み)やまとぅぐち
:那覇港入口北側

王府時代の那覇港には、三つの水路があった。
まず、沖合から湾内に向かって南側=垣花寄り=を<宮古口・なぁく ぐち>中央を<唐船口・とぉしん ぐち>、北側=三重城寄り=を<大和口・やまとぅ ぐち>と称した。
ここで言う<口>は、入口出口を意味する。
宮古口は、文字通り宮古島をはじめ、八重山や久米島発着の船専用水路。
唐船口は、中国<福州。現福建省>航路の大型船用。そして、大和口は薩摩航路の官船が使用していた。国頭からの山原船もここを発着地としていたようだ。※ 週刊上原直彦/「浮世真ん中」(4)*港口<んなとぅぐち>

 区分けすること自体が混雑緩和と管理上の意味を持ったのでしょうけど,おそらく各航路の水深も関係していたのではないでしょうか。

5-2 船種

 船の種類は,まず出発した地域別に旗の掲揚を義務づけられ,それによって判別されたという。近代の戦闘では一般的ですけど,この時代から制式採用されていた方法らしい。大陸中国や台湾でも類似の制度がありそうですけど,聞いたことはない。
■左御紋
:(読み)ふぃじゃいぐむん
:船に掲げられた琉球国旗となった三つ巴の紋。帆柱ではなく艫に二本立てた。
■唐船 :中国航路の官船
■偕船
:(読み)きぃしん
:薩摩航路の官船
■飛船
:(読み)びしん
:唐や薩摩に派遣する緊急用特別船
■馬繿
:(読み)まあらん
:大型は中国、東南アジア航路の貿易船。小型は琉球国内の流通貨物船。主に国頭航路が多かったことから山原舟(読み:やんばらぁ)とも称す。
■しんに :内海漁業用。渡し船
■さばに :漁業専用

5-3 唐船のタグボート

 この件も聞かない話です。海外航路の船が自力で港に入るのは,極めて稀で,タグボートに曳かせていたという。
 このタグボートが上記のどの船種に当たるのかも分からない。でも風物詩になっていた風なので,真実味は高いと思えます。

 現在のようにガソリンを動力としない帆船は、一度コースから外れると自力で軌道修正するのは困難でした。
 那覇港にやってきた唐船や進貢船も、これは同じで、スムーズに那覇港に入れるのは稀で、多くは風と潮に流されて今帰仁方面にひっぱられてしまいます。
 そこで、必要とされるのが、唐船を引き戻すタグボートです。
 もちろん、こちらも人力で、70隻の小舟に1400名の琉球人が乗って、縄を唐船に掛けて、人力で櫂を漕いで唐船を那覇港まで引っ張ったのです。※ ・壮観、唐船を引っ張る小舟の群れ – オーサレ琉球

 ここまでを調べて,手応えに驚いてます。沖縄に残る交易史料から海域アジア史を推量するというアプローチは,他と次元が違うほどに有効度が高いと思われます。なぜ大陸中国はおろか長崎でも伝わらないこうした航海の細部が,沖縄にだけ伝えられるのか?

■小レポ:史料・歴代法案写本について

 尚王権は,交易を基本モデルにして制度設計されている,とは以前から聞いてきたけど,近世沖縄の社会自体が海外交易を目的に構築された,とでも言いたくなる。
 そうした社会では,交易記録が最重要の公的記録となる。その沖縄の交易記録こそ,以前から名を聞く「歴代法案」らしい。15~19Cまで450年近い外交文書写四千件余の蓄積で,第一・第二尚氏を通じての記録です。
▲歴代法案の歴史①成立から関東大震災での焼失まで ※沖縄県教育委員会「歴代法案の栞」

 類似の性格を持つ対馬宗氏文書と異なり,モノに着目する現行文化財保護法上の指定はない。原本は関東大震災時に東京で焼失,さらに沖縄戦時に散逸したという。
 琉球処分後に東京に移した事自体が「もう朝貢はするな」という日帝側の禁令と同義だったのでしょうか。
 ただし,この原本焼失がむしろ契機となったのか,完全写本化の動きが起こり,2系列の写本が完成した状態で沖縄戦時期を迎えています。
▲歴代法案の歴史②完全写本化から現在まで

法案写本台湾大学版と小葉田淳

 奇跡に見えます。
 1930年代ということは沖縄戦15年前です。しかも2系列のうち一組が台湾大学に残りました。戦後の台湾は国民党支配のもと長い戒厳令下に入りましたから,20世紀終わりにようやく沖縄県教委の復原作業が企画されたらしい。
 なぜ台湾だったかというと──

1935年に台北帝国大学の助教授だった小葉田淳が『歴代宝案』に着目し、久場政盛らに依託して旧沖縄県立図書館の副本から写本を作成しました。この写本は戦後に国立台湾大学図書館の所蔵となりました。筆写の際の誤写や、欠損部分を推測で埋めたところもありますが、最も多くの巻が揃っており、『歴代宝案』の全容を伝える重要な写本といえます。[前掲沖縄県教委]

 県教委の書き方には微妙なトゲが感じられ,台湾大学との折衝は感情的にもスムーズなものではなかったのかなと思わせますけど,現在進む歴代法案のデジタル化はこの台大版なくして不可能だったのは否定しにくい。
▲晩年の小葉田淳

 小葉田淳は1905(明治38)年,福井県丸岡町(現・坂井市)生まれ,1928年京都帝国大学文学部史学科卒業。台湾には1930年,台北帝国大学文政学部講師(後助教授,戦後副教授)として渡っているから,研究者としては駆け出しの頃に,法案写本に関わってます。
 細かい自伝や記録が見当たらないけれど,歴史学者としての主な専攻は貨幣史・鉱山史,それと貿易史だという。
※ wiki/小葉田淳

社会慈善活動家・久場政盛

 以上の材料から,普通生まれる疑問は──いくら京大卒の天才でも,台湾に渡った直後の研究者がそんな歴史的作業を行う権限・財力・人脈を持てるものか?という点です。感覚的に言うと,それだけで奇跡は起こらなさそうに見えます。
 そこで,県教委も触れている小葉田淳からの作業受注者・久場政盛なる人物にスポットを当ててみる。この先は,資料によって大きな違いが見られるので,以下,原典に次の番号をつけて進めます。
※(1)歴代宝案 琉球王国の外交文書
※(2)維基百科/历代宝案
※(3)コトバンク/久場政盛

1935年4月,台北帝国大学(今国立台湾大学)副教授小叶田淳为了撰写教授论文《中世南島通交貿易史の研究》至冲绳图书馆搜集资料。
他除了详加引用《历史宝案》外,也委由久场政盛抄写整理放置冲绳图书馆中,多版本但失散欠缺保管的《历代宝案》。[2]

 このくだりは[1]日本語wikiにはありません。──小叶田淳(「叶」は「葉」の簡体字)が論文「中世南島通交貿易史の研究」の資料収集を沖縄図書館でしていた。久场政盛(「场」は「場」の簡体字)が同じ図書館で历史宝案(「历」は「歴」の簡体字)の整理・写本をしていた。
 この当時の状況を久場本人が語った新聞記事がありました。
▲1965年5月27日沖縄タイムスらしき新聞記事の一部(全体は後掲[4]参照):「『歴代法案』は当時,県立図書館でも貴重な資料として持ち出し禁止だったので,まずたん念に下書きしたうえで」と読める。

 つまり普通に捉えるならば,先に久場が図書館で単身写本に取り組んでいた所に,小葉田が偶然来館した。小葉田が久場の作業を知り利用したか,あるいは小葉田の来館を聞いた久場が台湾大学の後援を請うたかして,いずれにせよ写本は久場が基本的に独力で行ったのでしょう。
 5年間かかっています。

1940年,久场政盛以五年时间抄写整理的《历代宝案》共249册全数完工,并交由小叶氏(ママ:「小葉田」と推定)带回台北帝国大学。久场政盛整理后的此《历代宝案》完全依此古书汉文样临摹,该抄本为该书各种晒蓝本与手抄副本中,最为完整且原件原貌的一部。[2]

 久場が写し取った法案を,小葉田が台湾に持ち帰ったのは1940年,太平洋戦争開戦前年です。
 久場という人物は,研究者ではないらしい。郷土史家でもない。単に退職後の役人です。

1876-1968 明治-昭和時代の官吏,社会事業家。尚泰王29年11月16日琉球首里桃原(とうばる)(沖縄県那覇市)生まれ。明治42年沖縄県出身者初の警察署長となる。大正13年退官後は郷土博物館設立に尽力。台北帝大からの依頼で「歴代宝案」を筆写しておさめる。その後はハンセン病患者救済活動に従事し,愛楽園に勤務した。昭和43年9月12日死去。91歳。[3]

 この人がなぜ法案写本にこんなに精力を傾けたのか,よく分からない。ボランティア精神のある,悪く言えば偏執な人だったのでしょうか。
 沖縄の図書館で毎日「法案」正本を借りて写したわけだから,沖縄の研究者や文化行政サイドもバックアップしていない。そもそも,素人の老人が貸出要求すれば応じるほどの管理状態だったわけです。だからこそ,たまたま交易史を研究していた新人研究者のつてしかなく,台湾へ渡ったのも全くの偶然でしょう。
 以下は,上記本人談の出典ですけど……台湾写本をハワイ大学がマイクロフィルム化した際に,久場が自分の写した文面と再開したことを報じる記事です。
▲(4)1965年5月27日沖縄タイムスらしき新聞記事。ネット上で確認できる久場の唯一の写真でした。

 沖縄県教委もその他の媒体も久場のこの五年間の成果を,「一応名前を記す」程度に扱っているのは,現・法案が「素人仕事で生き残った」ことを苦々しく感じているからでしょうか?
 そうだとすれば,それは明らかな愚行です。法案が描き出す海域アジア世界,大卒直後の小葉田が論じようとして偶然に写本を残してしまったそれは,まさに久場の如き素人の虚仮の一念の集合体なわけですから。
 彼らは基本,自由である点しか陸人と異ならない。彼らはいかなるプロでもない。

久米人にとっての歴代法案

 もう一つ,この歴代法案の存在の後ろに見え隠れする集団があります。
 近世沖縄,ひょっとしたら現代にも続くフィクサー集団,久米人です。
 前掲県教委パンフには次のくだりがあります。

(法案の)最初の編集は1697年に行われました。その序文によれば、時の経過に伴い、久米村に長く保管されてきた文書群に破損散逸の恐れが生じたため、王府は久米村の長であった蔡鐸(さいたく)に命じ、1679年頃から整理していた文書群(「旧案」)を編集し、1424~1697年までの文書を49巻にまとめ、二部作成して一部を首里城に、もう一部を久米村に保管させました(第一集)。

 最初の記事は1424年。第一集が王朝に編纂される1679年までの250年以上,普通に考えると,法案は久米人の秘密文書だったと思われます。外交ナレッジの蓄積として,彼らの行動指針になっていた虎の巻だったのでしょう。
 1679年の編纂の動機について,日本のどの記述にもない内容が維基にあります。

1609年,为了害怕入侵琉球的日本萨摩藩毁损《历代宝案》,加上火灾焚毁《历代宝案》正本的教训,琉球国不但继续编纂该书,还秘密手抄全书内文数份,藏放该国多处。[前掲※(2)維基百科/历代宝案]

 ここには「正本が薩摩侵攻時に焼失した」とある。さらにそれが法案の副本化の動機になったとされます。
 確かに,そういったことがなければ写本2冊のうち1冊が久米村に残された理由が説明し辛い。その場合,久米人は薩摩など「野蛮な」日本人から法案文書を守るために,秘密文書を公にし,かつ王朝を利用して複製を急いだことになります。
 さらに,1930年代の写本開始についても──

久米村では明治政府に接収されるのを恐れて、久米村保管本の存在を秘密にしていましたが、1931年に久米村の旧家で発見され、1933年に旧沖縄県立図書館に移管されると、研究者等によって影印本や写本などが作成されました。[前掲県教委栞]

 この「久米村の旧家」をwikiでははっきりと

2部作成されたうちの1部は王城に、もう1部は久米村(現・那覇市久米)の天妃宮で保管されていた。(略)久米村本は秘密裏に保管された後、1933年(昭和8年)に沖縄県立図書館へ移管された。

と書いています。
 つまり久米人は明確に日本を信用してない。久米写本が「発見」された1931年というのはまさに満州事変の年です。彼らの国際感覚は,既に日本の焦土化を予知し,薩摩侵攻時以上に,さらなる複製化を急ぐ必要を感じたのではないでしょうか。
 仮にそうなら……惚れ惚れするほど強かな集団です。沖縄県教委の筆も鈍るはずです。
 さらに一点,海域アジア編として見逃すことの出来ないのは──久米村の天妃宮です。これはまず間違いなく上天妃宮でしょう。
 あの石造りのがっちりした媽祖宮は,外部の立入を許さない,久米人の奥の院でもあったわけです。江戸前半期の1679年から250年,おそらくその前の250年も,つまり合わせて5百年間,天妃宮の暗がりに歴代法案は置かれてきたのではないでしょうか。