009-2@金田城【特論】人参潜商\対馬\長崎県

この章の構成
:対馬口の政治史 (主に白石-芳洲論争〜吉宗密輸)
:人参潜商(密輸)記録集
:「衰亡」〜維新期の対馬口(主に帳簿史料)

目録

雨森 朝鮮方辞めたってよ

 前章で取り上げた雨森芳洲は,朝鮮方佐役を1721(享保6)年に自ら辞しています。
 芳洲がこの職に就いたのは1698(元禄11)年ですから在職23年間,つまりほぼ四半世紀努めた朝鮮方佐役です。中国語とハングルを独習したこの人の,外交の表舞台へのインセンティブは相当高かったはずです。
 その辞職理由をwiki(雨森芳洲)はこう書いています。──「朝鮮人参密輸●●●●●●など藩の朝鮮政策に対する不満●●●●●●●●●●●●から,享保6年(1721年)に朝鮮方佐役を辞任し、家督を長男の顕之允に譲った。」
 この後の芳洲の教育活動(私塾を開く。朝鮮外交心得「交隣提醒」著述)を見ると,つまり,藩方針への抗議として自ら職を辞したのです。
 そのまま読むと,対馬藩が朝鮮人参密輸を政策としていた,と読めます……けど?少なくとも表向き,対馬府中藩はそんな無体な組織じゃないはずです。そういうことをやってたのは薩摩島津藩であって,それをやらないから対馬口の貿易は没落したわけですから。
 だから,亨保6年に対馬-朝鮮外交上,何が起こったのか気になったわけですけど──この穴がまた,えらいこと底無し沼でして,ついに本章を別立てするに相成りました次第です。

芳洲は何を観たから辞めたのか?

 試して頂けるといい。この件については,ほぼヒットがありません。じゃあ芳洲のオーバーリアクションだったのか?というと,明らかに大事件だったらしく──

 享保六年には、渡海訳官全員●●●●●●による組織的な人参潜商●●●●●●●●が行われるという、前代未聞の大事件が発生している(8)。〔後掲斎藤〕
(8)田代和生「江戸時代朝鮮薬材調査の研究」慶応大学出版会〔同注〕

「潜商」という語が「密貿易」を意味するのは,なぜか対朝鮮関係でだけのようです。原語が朝鮮語なのでしょうか?抜け荷そのものでなく,その荷による取引のことだと解しても,長崎関係文書は単に「密売」と書くようです。

雨森芳洲肖像画(江戸期)。鼻がデカかったらしい。

 コトバンクに朝日日本歴史人物事典の記述が転載されていました。これによると争われたのは「厳罰主義」の硬軟に関わるものであったようです。芳洲はおそらく「硬」の尖峰として「潜商議論」を牽引したものらしい。

亨保6(1721)年藩内に朝鮮訳官による密貿易事件が起こり,穏便に処理して癒着を図る藩当局に対し,同門の儒者松浦霞沼と共に,以後の密貿易根絶のため厳罰主義●●●●を内容とする「潜商議論●●●●」で反論した。このとき自説を容認されなかったため,朝鮮方佐役を辞任し,家督までも長男顕之允に譲って隠居を図るなどして当局に抵抗,藩政に対しても厳しい態度をもって臨んだ。〔朝日日本歴史人物事典「雨森芳洲」〕※コトバンク/雨森芳洲

 四半世紀間,芳洲が殉じてきた「鎖国」≒国家統制型日朝交易関係が,藩を後ろから刺す形で脱骨した。それへのレジスタンスとして芳洲は,ガチガチの儒教理論で完膚なきまで論破した後に辞職した,ということになります。純度の高い儒者の業です。本稿の海域アジア編的な観点からすると,かりそめにも存在した「鎖国」が対馬海峡ではこの頃から崩壊過程を辿ったと解せる可能性があります。

新井白石(1657(明暦3)年生-1725(享保10)年没,白石は号,諱は君美(きみよし,きんみ))肖像画

白石:対馬口不要論vs芳洲

 芳洲時代までの江戸期政治家というのは,現代ニッポンの反知性志向からして恥ずかしくなる程に理論を炸裂させてます。
 有名な白石vs芳洲の論戦は,互いに対馬口を巡る極論をかざしてる。両者のぶつけ合ったドキュメントは後掲田代2000に網羅されてますけど,その根幹をより分けると──まず白石は,対馬口を長崎口に統合する案を大っぴらに模索してたらしい。

信使来聘時分,(新井)筑後守殿(杉村)三郎左衛門え御挨拶二,御新令之儀信使請不被申候刻は御隣交相止可申候,御隣交相止候ても何そ差支申儀は少も無之候,乍然人参は病家之為重宝成薬種に候得共,是以長崎口より高直二御調被成候は,御望之通可持来候二付,朝鮮より人参不出候ても差支は有之間敷との御噂二て候(中略),南京は大国之事候故,代物買二して高直二御調させ被成,又ハ人参持来候唐人え勝手二罷成候様被仰付候は,現銀二て無之,代物二て長崎口より近年出候斤数二倍仕候様二も持剰義も可有之候哉〔後掲田代2000〕※下線は田代
※※田代注(10)宗家文書『公義より銀吹改之儀二付江戸贈答一件』(長崎県立対馬歴史民俗資料館所蔵)。なおこのころの状況は,田代和生『江戸時代朝鮮薬材調査の研究』(慶應義塾大学出版会,1999年)58-60頁にも詳しい。

 以下は上記についての田代さんの解説です。

正徳四年六月十九日,国元家老五名の連記による直右衛門宛の書状(10)に,
(上記原典)
とあり,かつて通信使来日のとき(江戸家老の)杉村三郎左衛門に対して,白石が御新令を承諾しないならば,朝鮮との御隣交を止めることも辞さないと,強い口調で脅していたことを明らかにしている。しかもそのやりとりの中に,白石は人参輸入について,長崎口から高値をもって輸入すれば,希望通り入手できるとし,対馬経由でなくても「差支は有之間敷」という噂もある,などと述べて藩当局者を震えあがらせていた。この白石の言葉に対して,対馬藩側では,南京(中国)は大国なので(銀以外の銅等による)代物買いで高値に輸入させたり,あるいは人参を持ってくる中国商人を優遇するなどすれば,「長崎口より近年出候斤数二倍仕候様二も持来義も可有之候哉」と,現実に起こり得る話として受け止めていたことが分かる。〔後掲田代2000〕

 白石の問題意識は銀流出量の縮小にあり,対馬口の長崎口統合による流出口の一本化で管理を確実にしようとしたのでしょうか?その障害が対馬口でしか入手できない高麗人参にあり,これを長崎口で交易する現実性を確認する段階にまで白石サイドは入っていたらしい。

 白石が薬用人参確保のため,長崎口を利用する案を持っていたことは,正徳三年(一七一三)六月提出した 『改貨議』(11)のなかに,
  もし朝鮮の人参にて数少<候はんには,長崎表にて人参を買いとり候はん事,何事があるべく候はん歟
とあり,確実なことである。さらに若松正志氏の研究(12)によると,正徳五年(一七一五)九月,老中久世大和守は,過去五年分の唐人参輸入高と価格の書き上げを長崎奉行ヘ命じ,同年十一月銀・銅の輸出をできるだけ抑えながら唐人参を一年間に一〇〇〇斤ほど輸入できる方法を具申するよう,ただしこのことが世上に流布しないように気をつけよという指ホを出したという。白石案に従って、長崎口からの人参大量輸入の計画が,着々と進行していたことを窺わせる。〔後掲田代2000〕
※田代注(12)若松正志「唐人参座の設立について」『京都産業大学日本文化研究所紀要』第二号一九九七年)一四三頁。

雨森芳洲肖像画(江戸期)

白石vs芳洲:土地拝領論

 史料上の芳洲の行動は,正徳年間から亨保初めに多忙を極めています。

1711(正徳元)年 朝鮮通信使趙泰億に随行(対馬→江戸)
1714(正徳4)年 (9月)対馬発
1716(正徳6)年 (4月)将軍家継没,吉宗新将軍就任
1719(亨保4)年 朝鮮通信使の応接儀礼等を白石改革以前に戻す決定
同年 (4月)帰国(江戸→対馬)
同年 朝鮮通信使洪致中に随行(対馬→江戸)

 白石との論戦は,1711年と1719年の朝鮮通信使江戸行き時点間の5年間です。
 この間,1716(正徳6)年4月の将軍職の家継→吉宗移行により,白石は江戸城政界で発言権を失っています。けれどそれから3年後,朝鮮通信使応接から白石改革色が抜かれるまで,対馬府中藩は芳洲を江戸から帰さず,つまり対白石臨戦体制を崩しませんでした。
 芳洲の江戸行きは,少なくとも当初,極秘だったようです。

今度之御用之儀は随分隠密ニ申段,御用人中幷六郎右衛門外ニは不申聞候〔後掲田代2000〕

※宗家文書「交易料之銀減少之儀被仰出候付て往復之状控」(国立国会図書館所蔵)
※※瀧六郎右衛門。勘定方役人。芳洲理論前段となる銀輸出量確保→交易利益→武備充実 論の草案を平田直右衛門への請願書として作成。

 1714(正徳4)年11月22日夜,雨森芳洲は(江戸家老)平田直右衛門に付き新井白石に面会します。いわゆる第一回会談です。平田は藩公文書(宗対馬守書付※)を,雨森は,最終行にわざわざ「船中すから覚書に仕り」と記したメモ(芳洲書付※)を,白石の手には二通の書類が渡りました。
※対馬からの船中で作成した覚書である,との意。万一の際,宗氏への責任追及を避ける状況作りと思われる。田代2000巻末には両原文全文を掲載。
 江戸に着いて少なくとも一か月,芳洲は江戸の御年寄と添削を重ねたらしい。白石は,書付二通を読まずに文匣※に入れ,その後の会食を雑談で終えています〔前掲往復之状控 11月28日付直右衛門書状,後掲田代2000〕。白石は書付の雛形を直右衛門から得て目を通しており,「一藩の存亡をかけた激しい議論の応酬に発展」〔後掲田代2000〕することを両者ともに慎重に避けたと解されています。
※読み:ぶんこう 厚紙に漆を塗って作った手箱。書類入れや小物入れとして用いる。
 これだけのナイーブさで,白石vs芳洲会談は正徳5年4月の第三回までだけでも半年間,裏側の根回しも含め火花を散らして続いたようです。



 吉宗代後半の1736(元文元)年の人参代往古銀交付時の増歩(手数料加算)導入(→後掲田代2000記述参照)により,実質的に対馬口での銀輸出は緩やかに打ち切られていきます。白石vs芳洲会談から四半世紀も経ない,芳洲の存命中(1755年没)に,銀輸出停止は現実化しているのです。
 見通しの的確さ,というより,最悪の事態の到来を想定し,その状態を前提としたリスクマネジメントとして,瀧の「平和を換金する」リアルな財政感覚と芳洲のクールな論理思考が相乗され,その後の宗氏の経済行動を規制する原理が創出されており,見事です。
 では対馬府中藩渾身の公式文書中に書かれた「土地拝領論」は,どんな文言のものだったのでしょう。

公式文書「宗対馬守書付」主要部=芳洲理論根幹

 先に原文,後に田代さんの要約を掲げます。三箇所の赤字は,双方で対照させています。

 対州は外国を引受,日本藩屏之地にて御座候故,武備厳重に無之候ては決て難成処に候(略)
権現様御代再被結和好候巳後,朝鮮と交易仕候儀御免被遊,其所務を以対州井基肄・養父両所領之不足を補ヒ,都合拾万石以上之格之人数を召置,当職をも務来り候(略)
日本永久之弊相止不申,其上交易之餘利を以て当時之武備相立候事心外之至に奉存候付,乍恐奉願候は,彼国国用として以前より渡し来候銅之類ハ其数も少く候間,格別之事に御座候,天下至宝之銀貨は自今以後一切御停止に被 仰付,銀貨交易之力を頼不申,対州井基律・養父両所領之不足を補ひ,只今迄之人数を無異議召置,永々迄武備無断絶相嗜,日本之大弊も省き,先祖以来之大願も相叶候様に被

〔後掲田代2000 原典:「宗対馬守書付」『交易料銀記録』国立国会図書館所蔵〕〔後掲田代〕

 日本国経営における対馬の重要性から論を始めています。その「武備厳重」たるは,交易による利潤に支えられる,と続くのですけど,これは「其所務(交易)を以対州井基肄・養父両所領之不足を補ヒ」──
対馬防衛費①②=所領納税額①+交易利益②
という図式をまず掲げているのです。「対馬防衛費は対馬(+既存所領)だけでは不足する」点をまず公理にしてる。

対朝鮮関係を一手に引き受ける対馬藩の役割は,「日本藩屏之地」としての武備を充実させることにありそれを朝鮮との交易による利益でまかなってきた。だがいっぽうで,この交易による「天下至宝之銀貨」を年々異国へ渡すことは,甚だ惜しむべきもので,先祖代々このことを快く思っていなかった。武備のために「国内不動之品」で輸出銀に振り替えて下さることは,あるいはお認めいただくやも知れないが,かといって銀の輸出を止められ,また武備を充当させる手当てもして下さらなければ,「所領被召上候同前にて,差当り身上及破却」ことになろう。近年の諸国鉱山の趨勢を鑑みて,「当時後代迄の弊」を除くよう先年仰せ出されたが,「誠以御尤千万」なことである。しかしさりとて輸出銀を減らされれば,「私所領損削」同様になろう。そこでつぎの二点について,お認め願いたい。
①「国用」として以前から輸出してきた銅の輸出は,僅かな額であるから格別のことと(輸出を許可)していただきたい。②銀は,「自今以後一切御停止に」仰せ付けられる代わりに,「対州井(飛地領の)基雛・養父両所領之不足を補」えるような措置を講じていただきたい。〔後掲田代2000〕

 ②交易利益を削ぐならば,その代替財源②’が必要になる。銀輸出量削減に反対するのではなく,削減②or新規所領追加②’の選択に議論を転換しているのです。
 分からないのは,対馬側がそれでもって「新規所領追加②’なんて出来ないだろ?」と不可能な選択肢を仮想として挙げたのか,あるいは本気で新規所領追加を企図したのか,という点ですけど──その後の推移を見ると,対馬府中藩が交易に執着した痕跡は少なくとも表には出てきません。後者の「代替財源許容論」に本気で開き直っていたと推測されます。
 対馬サイドの脳内では,対馬口は既に閉じていたのです。

吉宗評判記暴れん坊将軍 第一話画面

暴れん坊将軍vs雨森芳洲

 芳洲が自らの進退により牙を向いたのは,対馬ではなく江戸だったのかもしれません。
 田代和生「渡海訳官使の密貿易」(朝鮮学報150輯 29-84 1994年)の概要は,次のようなものです。

享保6年(1721)対馬で発覚した朝鮮訳官使による大規模な密貿易事件は、吉宗による人参国産化政策を遂行するために特別に不問にふされることになり、その結果、対馬藩儒者の間で激しい「潜商議論」が起こる。〔研究者詳細-田代和生〕※URL:https://k-ris.keio.ac.jp/html/100000029_ronbn_2_ja.html

 つまり,芳洲が拒絶したのは,吉宗主導の密輸行為だったらしい。しかもその目的が目的でした。

1721年、日本の将軍・徳川吉宗は対馬に重要な命令を下した。対馬が運営する倭館を通して、薬材として使われる朝鮮の草と木、鳥と獣を全般的に調べて報告しろということだった。(略)しかし「調査」の本当の目的は違った。朝鮮から朝鮮人参の生草を搬出しようということだった。(略)いわば、一種の‘輸入代替産業育成計画’だった(田代和生、『江戸時代朝鮮薬材調査の研究』)。
 当時、朝鮮は朝鮮人参生草の搬出を厳格に禁じていたため、「薬材調査」という名目で朝鮮人参を手に入れようとする巧妙な計画でもあった。〔後掲中央日報〕

 対馬府中藩は,この吉宗の密輸の使いっ走りとして活動したとされています。後に見るように密輸摘発に余念のなかった対馬府中藩に,相当の動揺を生む事態だったと想像できます。
 芳洲は,何かの意味で彼らのやるせない気分を負って,いわば人身御供として辞任せざるを得なくなったのではないでしょうか。

1721年7月、対馬は調査事業の責任者に越常右衛門という人物を倭館に派遣した。(略)倭館は李碩麟をはじめとする朝鮮人協力者らに莫大な資金を渡した。(略)事業が始まった直後の1721年10月、対馬の島主・宗義誠は、倭館が搬出した朝鮮人参を将軍徳川吉宗に進上した。桐箱に朝鮮の土を入れ、土が乾かないように苔まで敷き、朝鮮人参の種苗を慎重に運んだ。対馬は1728年までに35本の朝鮮人参生根と60粒の種を将軍に進上した。〔後掲中央日報〕

 対する朝鮮側の取締りは,記録が見当たりません。日本での珍重をそれほど当てにしてなかったのか,日本での国産化が可能とは考えていなかったのか。

朝鮮政府は1721年から30年間続いた日本の「朝鮮薬材調査事業」の存在を知らなかったとみられる。景宗から英祖初年まで続いた激烈な政争のためか。朝鮮政府も知らない間に日本は朝鮮人を買収し、朝鮮の山野を掻き回したのだ。〔後掲中央日報〕

「吉宗密輸」による高麗人参の日本国産化は成功した,と書く記事もあるけれど,その後の,いや現在も続く朝鮮本土産の高麗人参の珍重ぶりを見ると,品質や数量※はともかく国際マーケットで同格に立つような代替品は日本では開発できなかった,と考えるのが妥当です(厳密には下記参照)。
 慌てなかった朝鮮は,結果からすると正しく将来を見ていたことになります。



サブちゃんなど江戸町民と戯れる暴れん坊将軍

吉宗暴れて対馬の口の閉じる音(銀輸出実質停止)

 白石の成し得なかった銀輸出停止は,吉宗代の意図的な貨幣低質化(元文小判発行※)を期に緩やかに実現されます。人参往古銀は継続発行されたけれど,国内のインフレと割増された引換率のため相対的に高騰して使えなくなった,ということらしい。

 朝鮮への銀輸出は、元文元年(一七三六)の貨幣改鋳を契機に調達の主導権を幕府側に握られたことが原因で衰退する。すなわち改鋳の翌年、対馬藩は勘定奉行細田弥三郎より、悪鋳のため輸出用に再度の「(元文期)人参代往古銀」(純度八十%)交付する旨の通達を受けたが、同時に通用銀(元文銀純度四十六%)との品位差・吹賃等を合算した約二十%増歩での引替条件が提示された。かつて特典として容認されていた無歩引替は二度と適用されることなく、高額の引替条件が対馬からの銀輸出減退に拍車をかける結果となる。往古銀引替は、宝暦四年(一七五四)の五〇〇貫目をもって最後となるが、その数年前から往古銀は朝鮮へ渡ることなく、借金の返済のために上方に留まることが多かった。ちなみに宝暦二年(一七五二)、貿易用に対馬から朝鮮へ運ばれた銀は僅か10貫目であり、間もなく朝鮮への銀流出は途絶する(田代和生『近世日朝通交貿易史の研究』前掲註11(引用者略)、三二一-三二五頁)。〔後掲田代2000/第三章注20〕

 田代さんは1752(宝暦2)年の実質的な銀流通途絶を記す。森さんは次のとおり,明和(1764-1772年)の対馬口の貿易停止を書いていて,18C後半,つまり芳洲辞任の四半世紀余で朝鮮交易の公式ルートは「追年壅塞同様之躰」となって崩壊したことになります。

されば明和の頃朝鮮貿易が一時杜絶えたために同藩の財政窮乏を告げ,やむなく貿易再開まで当分のうち大坂御金蔵より銀三百貫目づつこの年より廻すことにした。そして貿易再開に努力すると共に,家臣逹に対しては奢侈禁止・倹約奨励を訓諭してゐるのである(註29)。殊に義質が家督を継いで藩主となり、文化十四年七月はじめて入部した際発した諭逹書の中において,
  抑當國ハ他部と違,不毛同様之地所故,無是非朝鮮と貿易之浮利を以國用之第一来,いかにも不本意次第,巳前より御城主様御素願之訳に候処,其時運廻り来らざる而巳ならず,貿易ハ追年壅塞同様之躰なり,出入算法全不引合難澁至極之末,比年朝鮮國凶歳打続き取引禰相塞、轉内危急差臨候。略下
 朝鮮貿易が対馬源の財政にとつて如何に死活間頸であったかを充分に賤知し得るであらう(註30)。そしてこの時も幕府より肥前国松浦郡其の他に二万石の地を貰つて辛うじて危急を凌いだのであった。〔後掲森〕

※注29 一一九対馬錐知町中江勝氏所蔵御法令書
30 洲河生虎筐氏所蔵、文化十四年七月宗義質論逹写

 けれど皮肉なことに,いわゆる「芳洲理論」が多用されるのは,この交易途絶下においてでした。

※吉宗「文字銀」発行の衝撃

 吉宗代の銀貨の底質化と一口に言うけれど,それは歴代最低だったという意味ではありません。次のような一覧を見ると,むしろ中庸をとっています。ただ,前代までのトレンドに逆行してました。

慶長〜元文期(1596-1741)の銀座における銀吹立高とその品位等〔後掲梅木〕

 文字銀以降も3回の改鋳が行われています。①銀位と②鋳造量だけを一覧にします。

文政銀(新文字銀・草木銀,1820(文政3)年通用開始)
/①35.25%〔造幣局・明治〕
/②224,982貫〔旧貨幣表〕
天保銀(保字銀,1837(天保8)年通用開始)
/①35.25%〔造幣局・明治〕
/②182,108貫〔旧貨幣表〕
安政銀(政字銀,1859(安政6)年通用開始)
/①13%〔旧貨幣表〕,13.50%〔造幣局・明治〕
/②102,907貫〔旧貨幣表〕 
〔wiki/文政丁銀・天保・安政〕

 銀位8割だった慶長銀が家宣代までゆっくりと,2割まで下がる。これを家継代,つまり新井白石が慶長銀の品質に戻す。戻したのに吉宗※が,また含有率を2/3程に落とします。この64%銀位時代は約80年続き,江戸期中最長の銀貨となります。
 その後の上記三銀貨は,幕末のハイパーインフレに対応し,相当メチャクチャな経済政策として鋳られています。──最後の安政銀たるや,「銅の含有率の多い銀合金は真鍮色から銅色を呈するため,貨幣製造時に,表面を銀色に見せるための色揚げが行われた。これは焼きなまして表面に酸化銅の皮膜を生じた丁銀を加熱した梅酢につけ,酸化銅および銅を溶解し,表面に銀が残るというイオン化傾向を利用」して銀貨らしく見せていたそうな〔wiki/安政丁銀〕。
 従って,吉宗だけが銀財政失策の犯人というわけでもありません。

※一説によると,当時,町奉行だった大岡忠相の進言の影響が大きく,徳川吉宗自身はしぶしぶ承諾した。〔wiki/元文丁銀,河合敦 『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』光文社、2006年 三上隆三 『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年〕
宗 義達(そうよしあきら/そうよしあき:1847(弘化4)〜1902(明治35)年,対馬府中藩第16代藩主),1871(明治4)年外務大丞

そして補助金漬けへの道

 幕府が一応否定しなかった芳洲理論は,対馬口途絶から代替土地の拝領を帰結せざるを得なくなります。でも太平下の江戸時代,渡す土地はないから,さらにその代替として補助金が多用され,それが次第に加速していきます。

朝鮮貿易の不振が続くなか,藩財政維持のため対馬藩がとった手段は,幕府から事あるごとに資金援助を仰ぐことであった。対馬藩が幕府から得た下賜金や拝借金(銀・米を含む)は,元禄十四年(一七○一)「人参仕込用」金三万両(拝借)に始まり,加速度的に増大して幕末まで四十回以上におよぶ。このうち「拝借」とは,指定された年限内で返済する義務があったが,現実にはほとんど無期限で,しかも完済されない場合が多く,実態は「下賜」に近い状態にある。文久二年(-八六二)までの一六〇年間にわたる下賜・拝借を総計すると,下賜金がニ八万四〇〇〇両,拝借金が四一万三〇〇〇両,拝借銀が―二〇〇貫目(金で二万両),拝借米が三万石と、実に莫大な額になる(21)。〔後掲田代2000〕

田代注(21)鶴田啓「一八世紀後半の幕府・対馬藩関係」(「朝鮮史研究会論文集」二十三集)から、下賜・拝借の項目のみを合算。

 以上は一応,現在で言う償還金の形態のものですけど,この他に純・補助金的な金銭も濁流となって対馬に入ります。戦後の沖縄を見るような財政状況です。

対馬府中藩「年々手当」拝領の内容〔後掲田代2000〕

 概算してみると,119年(1746-1865)補助金10.84万両(1817年2万石を除く),年平均約千両ですから,償還金の規模が圧倒的です。
 下賜金+拝借金+拝借銀の計で71.7万両。これを現代貨幣価値27万円/両※として換算すると1,936億円。この間約160年として12.1億円/年です。

※推計方法 下記Max+Min/≒27万円
345千円【Max】:大工日当23人分(18C後半)〔後掲貨幣博物館〕217,100:1861年そば一杯16文196,135円【Min】:1867年そば一杯22文〔後掲日本銀行高知支店〕

 対馬府中藩の格式十万石≒270億円/年※と比べると5%弱。現代の対馬市財政※※よりは救われてますけど,自律を求められた江戸期の藩としては破格の「厚遇」を恒常化させてます。

※10万石≒10万両/年≒270億円
※※対馬市歳出予算規模35,718千円
地方税収入2,969千円
地方交付税依存度38.6%〔後掲対馬市,原典:2021年総務省地財計画〕

 この厚遇の,ある意味での悲惨さと相まって,第16代(維新期)宗義達が外務卿に就任した事実は,明治初年の日本にとって直近の外国だった朝鮮問題のスペシャリストとして対馬府中藩が重用され続けたことを意味します。
 その時代に端を発する征韓論が,やがて「満州=生命線」論に発展していった点につき,田代さんは面白い「暴論」を綴っています。それは芳洲理論の発展形だったのではないか,というものです。

これはあくまでも仮説であるが,幕末期対馬藩内を混乱に陥れる「移封論」,そして軍事的色彩の濃い「朝鮮進出論」でさえも,形を変えた「芳洲理論」と見倣すことができるのではないかと筆者は考えている。すなわち「芳洲理論」には,芳洲が予見したように国替論が内包されており,また”藩屏の地””武備の充実”Iといった「防衛」論は,裏を返せば「侵略」論にいつでも置き換えることが可能だからである。問題は,芳洲の時代に回避された国替論が,あるいは朝鮮国あっての対馬という意識が,いつ頃どのような藩内の思考の下で変化していくのか。〔後掲田代2000〕

商品・高麗人参 オタネニンジン チョウセンニンジン

 さて,以上の表経済の動向中で語られる人参の重みは,裏経済でのそれより圧倒的に軽いように感じられます。
 数量的な比較はまず望むべくもありませんけど,この手触りを信じるなら,白石らの銀流出量規制に関わらず朝鮮人参の大多数は裏経済下で流れ続けていたことになります。
 後半では裏経済での動静を見ていきますけど──その前に,この交易品自体について復習しておきます。
 セリ目 Apiales
 ウコギ科 Araliaceae
 トチバニンジン属
Panax
 オタネニンジン(種)
P. ginseng(学名:Panax ginseng C.A.Mey)
 和名:オタネニンジン(御種人蔘※) チョウセンニンジン 古くは「加乃仁介 久佐」(カノニケ草)

※「御種人参」は吉宗代以後の国産化奨励の中での尊称と言われる。

 英名:Chinese ginseng Korean ginseng
 漢名:人蔘 棒槌
 朝鮮名:인삼 インサム
 産地(現時点) 中国東北部,朝鮮半島,日本の長野県・福島県・島根県
※栽培は非常に困難で,18世紀初頭の李氏朝鮮で初めて成功したとされる。〔wiki/オタネニンジン セリ目ウコギ科の植物〕
 品質に応じた羅参-上参-尾参という名称もあった,と森さんは書きますけど,これは取引用語でしょうか。

一体朝鮮の産物は
人参 虎皮 豹皮 紬 木綿 [サ/宇]布 白面紙 白米 絹 水獺皮
等であるが,人参は忠清道内七ケ所,慶尚道内七ケ所,全羅道五ケ所,黄海道三ケ所,江原道十三ケ所,平安道十一ヶ所,咸鏡道十五ケ所を数へ,国王服用品が羅参と呼ばれたのをはじめ種類が非常に多く,優良品を上参と呼び,屑物を尾参と呼んで値段が違った(註10)。〔後掲森〕

 宗家文書によると,亨保年間で朝鮮→日本の価格差は2.6倍であったという。これは長崎での売値なので,消費者への出荷元たる下関や大阪ではさらに高値がついたと推定できます。

人参は朝鮮においても薬用として貴ばれたが,我が国においては特に貴重薬として尊ばれ,非常な高価薬であった。亨保十年頃,朝鮮にて一斤銀一貫五百五十目にて仕入れて来たものが、長崎にて一斤四貰目にて売り捌かれてゐるのであり,約二・六倍の高値を以て取引されてゐるのである(註11)。またそれが如何に珍重されたかは,唐人参を長崎平戸等にて仕入れて来て,これを下関その他にて朝鮮人参と称して売ったことなどによっても窺はれる(註12)。従つて極少量で葵大な利潤を収め得るので,後に述べる密貿易者逹の大部分はこの高価薬人参密輸による一攫千金の欲望に駆られて法禁を犯してゐるのである。〔後掲森〕

※注10 東華事考
11 宗家万松院文庫所蔵,享保十年拔船僉議囚人共口問拷問口書二月十日條
12 同所蔵,享保十年拔船本人石橋七郎右衛門丼同類之旅人肥前皿山嬉野次郎左衛門船頭平戸大嶋德左衛門同前水夫与左衛門口書
現代の市場に並ぶ朝鮮人参〔ソウル・京東市場〕

 他の例からも,密輸「事件」の記録の多さは必ずしもその時期における密輸自体の隆盛を意味しません。表の刑事的取締との衝突の多さと比例しているだけです。

スポンサー付き人参密輸団

 大型密輸の摘発は,亨保年間以前,17C後半〜18C前半のものが目につきます。出資者と運び屋,実行犯の役割分担がしっかりなされていて感心します。

密貿易は潜商と呼んでいるが,その大規模のものは船を仕立てて私かに朝鮮に渡航する所謂拔船である。この拔船にも対馬人,対馬藩で所謂御国者許りにて共謀して行ふものと,他国の人々が企てる場合とある。そして御国者ばかりの場合は資本が僅かであり,従つて仕入れ帰る人参も少量であったが,他国の人々の場合は相当大規模な場合が多かった(註4)。彼等は数名乃至十数名も共謀し結托して拔船を行ひ,資本を投資する所謂銀元と拔船実行者とあり,それには多くの場合朝鮮に渡航した経験のある対馬人が加はつてゐる。〔後掲森〕

※注4 宗家万松院文庫所蔵,享保十年囚八石橋七郎右衛門就病死長崎御奉行石河土佐守様え御届之御使者勤之日記

 上記は1715(享保10)年,下記は1664-5(寛文4-5)年。寛文事件の方は,対馬・博多・長崎・薩摩と九州大連合のような広域組織に運営されてます。薩摩に至っては硫黄まで用意してますけど,これは交換財としてでしょうか,帰路の運搬商品としてでしょうか。

たとへば寛文四,五両年朝鮮へ拔船密貿易を行ひ,同七年発覚処刑された対馬人扇格衛門・同大久保甚右衛門の一味には,筑前博多の伊藤小左衛門が銀元として投資し,その手代高木初右衛門・久兵衛・伝兵衛の三人が準備に奔走した。殊に伝兵衛の如きは,銀子を上方へ持ち上り,朝鮮向きの物貨を仕入れてをるのである。その他博多の問屋ぜんの孫右衛門・伝右衛門・とうつき藤兵衛・市右衛門等が関係してをり,このほか長崎商人では薩摩屋次郎助・塗師屋九右衛門・伝兵衛・博多屋又右衛門・山形屋吉兵衛・浅見七左衛門・矢野賀右衛門・対馬問屋塩屋多兵衛・同筒見多左衛門・麦屋乃三右衛門・源五右衛門等が関係してをり,殊に薩摩屋次郎助は薩摩の問屋であって,同問屋で朝鮮へ持ち渡る硫黄を調へてゐる。また対馬人としては扇格衛門のほか大久保甚右衛門・木原市右衛門・[示申]官惣兵衛・亀岡平右衛門等が加つてをり,筑前の孫左衛門が船頭として渡鮮してゐるほかは大体対馬人が渡船密貿易に従事し,博多長崎人は投資者となってゐるのである。またこの他にも直接渡鮮のことに奔走したもの,或は朝鮮通辞として拔船に乗ったもの等あり、非常に多くの人人が関係してゐる(註5)。〔後掲森〕

※注5 同所蔵(引用者追記:宗家万松院文庫所蔵),寛文七年拔船覚記

←【官】人参密輸迎撃用11地点監視網

 対する対馬府中藩は格好だけでなく,本気で監視・取締体制を築いてます。対馬がいかに大きいとはいえ,11〜15箇所の遠見番を置けば,ほぼ死角なく外周全てを遠望できたでしょう。

 そこで同藩は拔船・潜商に対しては厳重な監視を実施した。即ち対馬の西岸一帯は朝鮮との交通に便してゐるのでその西北隅に関所を設けた。今佐須奈関所の模様を見ると,馬廻り四人(内二人は郷侍)・中小姓四人(内二人は郷侍),徒士二十五人(内六人は郷侍),右の外に足軽・小人・船手以下叉者共が駐在した(15)。また遠見番所は東西共に十五ケ所あったが,後木坂村・志多賀村・廻り村・阿連村の四ケ所を減じて十一ケ所置かれた。次に北端の豊村,上,下両縣を繋ぐ大船越,南端の豆殷村の三要所は押船(追船)即ち進跡船の碇泊地とし,平常も追船方御目付・御徒目付等の役人を遣し,吟味を遂げ,村民にも疑はしい船の警戒を命じた。更に朝鮮草梁にも藩士を在番させたが,それは番頭・馬延り・大小姓・徒士・足軽・小人船手以下又者共に至るまで凡そ五六百人を数へたのである(16)。〔後掲森〕

※注15 同(引用者追記:宗家万松院文庫)所蔵,享保十年囚入石橋七郎右衛門就病死長崎御奉行石河土佐守様御届之御使者勤之日記六月九日條
16 同上

 押船(追船)≒進跡船を備えて,となるとほとんど戦国期の村上水軍です。また,豊村・大船越・豆酘の3箇所からの迎撃体制は,主攻面は東,つまり日本側に見えます。西側はよかったのでしょうか。
 そのまま鵜呑みにすると,日本→朝鮮の銀輸出を封じるけれど,朝鮮→日本の人参は諦めていたことになります。

 以上の関所・番所において怪船を発見すると追船を出してこれを拿捕し,厳重な荷物調べが行はれる。荷物桧査の結果,拔船の容凝が生じて来ると,容凝者に対して更に厳重取調べが行はれ,時には拷問にかける場合もあったが,他藩の者の場合は拷問を避けることになってゐた。また他藩の者の場合には一応取調べの上,その藩に引渡すのである(17)。そして外国へ抜船することは,鎮国令以来所謂大禁となってをり,それは長崎や西国筋で抜荷するのとは訳が違い,異国へ拔船することであるから非常に重大問謳であったので(18),若し密告して出るものがあれば,仮令同類であつてもその科を許して褒美を与へるといふ法令をさへ出した程である(19)。〔後掲森〕

※注17 同(引用者追記:宗家万松院文庫)所蔵,享保十年四月十二日豆酸御内院浦に而被召捕候囚人嬉野次郎左衛門 肥前之佐賀被差送候を御領分田代に而引渡候次第覚書
18 同所蔵,享保十年同十一年同十二年江戸年寄中より之来朕以頭書及返答候写
19(空白)

草梁在番藩士「五六百人」

 人数に注目してみる。
 対馬府中藩の藩士数がどうしても分からないけれど──1700(元禄13)年の赤穂浅野家五万三千石には548人の藩士がカウントされてます〔後掲忠臣蔵新聞〕。

元禄13年浅野家侍帳〔後掲忠臣蔵新聞〕

 一般に,概数では百石につき藩士2人と言われるけれど,幕府の軍役規程は細かかったらしく,「知行高1万石については,人数235人」〔後掲日本大百科全書(ニッポニカ)「軍役」※コトバンク〕とあり,十万石の格式とされた対馬府中藩士はやや少なめとしても約二千人を数えたと推定できます。
 藩士の3〜4人に1人が常時,海外勤務を主とする朝鮮交易のイミグレーション業務に当たっていたことになります。
 芳洲理論中で「武備」と書かれるのは,主観的にはこの出入国監視のことなのでしょう。
 対馬府中藩が,交易利益が不振になった後までもこの過大な課役を負い続けたとすれば,不思議なほどの生真面目さと言うしかありません。
密輸用の仕切りの中に貨物を積み込む密輸業者ハン・ソロとチューバッカ
「広い銀河だ。いつだって、どこかの誰かが探してるぜ…密輸業者を」byハン・ソロ

【民】対馬海上保安網突破策あれこれ→

 これに対する抜船側は,小さな船で夜間の航行,あるいは朝鮮船の偽装を企てたらしい。

 次に彼等が抜船をする場合に乗った船は六人位い(ママ)の天道船より,多くて十数人で乗り組んで居り,余り大きな船ではなかった(註7)。そして対馬の関所は島の西北隅にあり,また遠見番所も東西併せて十ーケ所あったので,拔船をする者逹は平戸壱岐から対馬の沖合を経て朝鮮と往来する場合,以上の遠見番所の所在地を考慮し,夜中危険地点を通過するようにしたり(註8),或は帆を二つ張つて朝鮮船に見せかけたりして,種々監視の眼をくらますことに苦心してゐるのである(註9)。〔後掲森〕

※注7 同所蔵(引用者追記:宗家万松院文庫所蔵)、享保十年囚人石橋七郎右衛門就病死長崎御奉行石河土佐守様江御届之御使者勤之日記九
8(空白)
9 同所蔵、享保十年抜船本人石橋七郎右衛門並同類之旅人肥前皿山嬉野次郎左衛門船頭平戸大嶋懐左衛門同所水夫与左衛門太右衛門口書

 博多からの出航を想定すると,位置的には現・ビートルと同じ対馬北方,比田勝沖に航路をとるのが自然ですけど──

現代の下関-釜山間の高速船ビートル航路図〔後掲ワッタカッタ!〕

豆酘や大船越にも追船基地を置いたということは,変則的な航路,例えば長崎や平戸方面から直接朝鮮を目指すようなルートを敢えてとる船もあったのでしょうか。

草梁倭館の坂の下

 日本から朝鮮に着いた船が,少なくとも拠点としていたはずの「倭館」とは,江戸期の大半(1678年以降)は草梁倭館を指します。

四代目までの釜山倭館の位置変動
(1407年~1592年:185 年間)
 ①釜山浦倭館→
(1599年~1607年:8年間)
 ②絶影島倭館→
(1607年~1678年:71年間)
 ③豆毛浦倭館→
(1678年~1876年:198年間)
 ④草梁倭館

▼内部リンク▼ ■史料:東莱富山浦之図とその辛い読み解き/三浦から四代目までのプサン倭館 〔展開〕
倭館の位置の変遷
※ 前掲朴 図 倭館の変遷 尹珍淑「日帝下釜山市の都市構造」から引用

 草梁(초량,チョリャン)倭館は,現在の草梁洞というより,要するに現・国際市場に相当するエリアの全てです。
 府中(現・厳原)で訓練された藩士が続々とこの十万坪※の租界エリアに送り込まれ,おそらく実習も兼ねた衛兵として治安下に置いてます。

※出島(4千坪)の25倍,唐人屋敷(9,400坪)の10倍

1727年に雨森芳洲が対馬府中に朝鮮語学校を設置すると、その優秀者が倭館留学を認められた。住民は常時400人から500人滞在していたと推定されている。さらに対馬から交易船が到着すれば、倭館滞在者が急増したことは言うまでもない。倭館の安永年間の普請に関わったのは、早田万右衛門などである。〔wiki/倭館〕

 ここで,草梁周辺のもととして「坂の下」という地名が書かれます。非正規取引がその場所で行われたとされる場所です。

また拔船が朝鮮に到浩した場合,密貿易者逹が取引する場所は,多く和館の近所の坂の下というところであって,ここには日本語を話せる朝鮮人が多かったので,其処に行くと自由に取引が出来たのである。〔後掲森〕※森は注10として出典を付しているが,注10は空白となっている。

 和館(倭館)の近所ということは,日本(対馬)居留民封じ込めエリアと通常の朝鮮人居住地のボーダー域で,双方の監視が散漫になる点から密売人が跋扈した,という状況だと思われます。「坂の下」という俗っぽい語感も猥雑な感じです。
「坂の下」とはどこでしょう?──以外にも,芳洲の筆の中にこの地名が登場しています。そこでしばし,再びこの男の記録を辿ります。

再び雨森芳洲肖像画,アップ

【民】若き芳洲 坂の下へと通い詰め→

 雨森芳洲が実際に朝鮮に初滞在したのは三十五歳のとき,1702(元禄15)年2月という。既に長崎で中国語をマスターしていたからそれで通じると思っていたのかもしれないけれど,7月まで居て,現地朝鮮語を学習することに決めたらしい。

帰国後さっそく朝鮮詞の巧みな者について稽古をした。そして翌元禄十六年、三十六歳の時に再度朝鮮へ渡り丸二年間逗留し、『交隣須知』一冊、『酉年工夫』一冊、『乙酉雑録』五冊、『常話録』六冊、『勧懲故事諺解』三冊を仕立、そのほか『淑香伝』二冊、『李白境伝』一冊を自分で書写したというのである。
『酉年工夫』、『乙酉雑録』というのは、その干支から宝永二年(一七〇五)の滞在中の覚書きと判る。『常話録』は日常会話の手控えのようなものであろう。(略)〔後掲若木〕

 書写媒体の全ては分からないけれど,淑香伝などは若木さんの推測では恋愛小説※だったらしい。「手当たり次第」に写してみた,ということでしょうか?──昔,「一番早く語学力を高める方法はその国の恋愛かポルノ小説を読むこと」と教えを垂れた英語の教師がいたけれど……その辺を押さえてたからなのなら芳洲は語学習得のプロです。座学→書写→実用と着実に実戦語学力を鍛えてます。

※後掲若木注8には「孝宗朝の末期には漢文体の小説がハングル体にして広まり、同時にハングルで書かれた多彩な小説類が出まわるようになった。『淑香伝』の類はそのような当時の現代通俗恋愛小説とみられる。」とある。

 芳洲が実用の場として選んだのが,まさに坂の下(記録の表記では「坂ノ下」)でした。

 芳洲が滞在したのは一六七八年(延宝六)四月に設置された釜山の草梁倭館である。草梁倭館は旧館(豆毛浦倭館)よりはるかに規模は広大であった。およそ十万坪の敷地を有し周囲には石垣がめぐらされ、守門と宴席門(北門)のニカ所が出入り口で許可証なしには内外への出入りはできなかった。田代和生氏が掲出された屏風図によれば、東南面が海に接し、東面に桟橋が突き出た港があり、背面の竜頭山(中山)という山の東側の麓に倭館の建物が並んで建っている(注9)。芳洲は倭館のうち外交を司る裁判屋、あるいは通詞屋に滞在していたと考えられる。芳洲は倭館から坂の下へ下り、「雨天」「炎暑」に耐え言葉の稽古に励んだ。今に忘れられないことは坂の下から帰ってから習った言葉など書写していると目がくらみ、命を縮める思いだったと回想している。〔後掲若木〕

 注9については後で触れることとして,先に注目したいのは「雨天」「炎暑」に耐え,「命を縮める思い」をして坂の下へ通った,という表現です。これは,芳洲の通学路がかなりの距離だったことを意味します。
 草梁倭館十万坪は33万㎡≒575m四方です。今の国際市場を想像しても,端から端まで歩いて「命が縮」む気はしません。
 芳洲は明らかに草梁倭館の外に通学していたはずです。そんなことが可能だったのでしょうか?

【民】草梁の倭館の飛び地=坂ノ下

 まず「命が縮む」云々が誤訳又は後世の誇張だった可能性を,原典で潰しておきます。──「縮む」原文は確認できなかったけれど,「目之くらみ候事も有」った旨の原文は確かにありました。

芳洲の手になる「詞稽古之者仕立記録」(9)にはみずからの朝鮮語学習の状況について「毎日坂之下へ参リ令稽古…炎暑之節坂之下へ(原文:旧仮名)罷帰り習ひ候言葉なと書写候時目之くらみ候事も有之候……」と記述している。一方「雨天之節者守門軍官又ハ通詞を呼相勤候」とあるので雨天の日以外は「坂ノ下」へ出かけ呉判事から朝鮮語を学んでいたのである。したがって芳洲が学んだ朝鮮語は都地方で使われる標準語であったと思われる。なお和館から坂の下まではおよそ二キロメートルの距離があり「炎暑之節……目之<らみ候事も有之候」というのはその通りであったと思う。〔後掲泉〕

※注(9)『芳洲外交関係資料書翰集』(雨森芳洲全書三)関西大学出版部、昭和五十七年。

 芳洲が朝鮮語を習ったのは「呉判事」だと書かれます。泉論文ではこの記述の前段になりますけど,以下の文章がありました。出典とする「閑窓独言」は対馬藩医の古藤文庵(生没年不詳)による聞き書集で,「院長」名で芳洲についても書かれている史料です。

先にもあげた『閑窓独言』には,
  右(学文稽古のため和館滞在)ノ節呉インギト云仁都ヨリ下リ坂ノ下久敷逗留セシメ候付親敷仕ラレ朝鮮詞ハ専ラ其人ヨリ習ハレ候由(8)。
とあって,朝鮮語を「都ヨリ下リ坂ノ下二久敷逗留」していた「呉インギト云仁」に専ら習っていたと伝えている。「呉インギ」とは都から赴任してきた訳官と考えられ元禄十七(宝永元)年二月四日に東莱へ到着した「別差呉判事」のことと思われる(「館毎日記」同日条,呉判事は前任者が都へ召喚されたため訓導李痕知とともに着任した)。訳官(訓導,別差)の宿舎は通称「坂ノ下」(現,釜山直轄市中区瀛州洞)にあり訳官はここを拠点に東莱府や和館の用をつとめていた。また「坂ノ下」には対馬の使節が朝鮮国王像に礼をつとめて拝する粛拝所などもあり日本人は通行札さえ所持しておればこの「坂ノ下」までは出かけられたのである(通常は和館から出ることを許されていない)。〔後掲泉〕

※注(7)『對馬叢書第六集 閑窓獨言』(村田書店刊、昭和五十四年)104〜105頁。
(8)同書105頁。

 呉判事を泉さんは朝鮮側通訳と推定しています。ここでようやく,坂ノ下の現在位置が類推されました(朱書下線部)。「瀛州洞」(영주동 ヨンジュドン)は現・地下鉄の中央(旧・中央洞)駅と釜山駅(鉄道駅直結)の中間山手に当たります。ワシはほとんど行ったことがないけど,初韓国の時に泊まった辺りで,観光的には夜景スポットとして有名らしい。
 ここなら確かに国際市場からひと歩きする場所で,しかも結構な高台です。毎日通うのは「命を縮める思い」だったでしょう。

釜山駅・中央〜瀛州洞(영주동 ヨンジュドン)付近:赤線内〔GM.を横に繋ぎ合わせた〕
草梁倭館推定位置(下部緑枠)と瀛州洞(영주동 ヨンジュドン:上部赤線内)の位置関係

【民】草梁倭館東側の港町

 草梁倭館の北側から東側の広いエリアには,こうした日朝の狭間にある中間地帯があったようです。密貿易者たちがどこに船をつけたのか定かではありませんけど,この付近に出没していたらしい。
 さて,後回しにしていた若木論文注9を以下掲げます。

(注)9 田代和生『近世日朝交易史の研究』(創文館、昭和五十六年刊)の口絵に「草梁倭館屏風」(長崎県厳原町岡部虎男氏所蔵)の写真が掲載されている。その図は山の麓からなだらかな斜面をへて港や海を見下ろすように描かれており、その山間の麓から館守屋をはじめ裁判屋、東向寺(輪番僧が詰めていた禅寺)、通事家、開市大庁、横目家、番小屋、倉庫などの建物が港の方へと続いている(同氏「朝鮮に開かれた日本人町」産経新聞•平成十年二月十日ーニ月十六日)。また、上垣外憲一『雨森芳洲』(前掲書九一頁)に「倭館図」(韓国国立博物館蔵)が掲出されており参考になる。〔後掲若木〕

「草梁倭館屏風」という図絵は確認できなかったけれど,おそらく次のようなものを指すのだと思われます。瀛州洞に当たる坂ノ下は,このエリアのさらに北に当たりますけど,似たような猥雑な港町だったと推定されます。

18世紀の釜山浦草梁倭館図。海上の島は絶影島だから現・竜頭山から東南方向を望んだ光景と推定される。〔wikiwand/倭館〕

 逆に港側から竜頭山への視線で描いた図が下のものです。
 絵図中央の山麓が現・南浦(旧・洞)駅〜中央(旧・洞)駅辺りということになる。この坂に並ぶ建物が「館守屋をはじめ裁判屋,東向寺(輪番僧が詰めていた禅寺),通事家,開市大庁,横目家,番小屋,倉庫などの建物」と思われます。
「開市大庁」は文字からは公設市場と思われます。
「東向寺」の名の由緒も,やはり文字面からですけど東=日本人の専用寺院ということでしょうか。この寺については幾つか史料への記載がヒットします。
釜山草梁倭館図。現・釜山港から西を望む付近と推定される。〔後掲釜山でお昼を〕



 東向寺の藩のオフィシャルな機関,事実上の出入域管理事務所という位置付けから考えると──草梁倭館から竜頭山を跨ぐ東側が官(公)の港湾,その北側が民の港町たる位置付けで棲み分けられつつ隣接していたと考えられます。
 なお,江戸期当時の海岸線は現在よりずっと竜頭山側に近かったと推測されます。湾沿いの帯状の町が,倭館の壁で,公式には明確に,実質的には緩く区分けされていたはずです。

戦前の釜山中心部の地図
「旧日本居留地」が旧・草梁倭館の跡地。海岸部の「旧海岸線」ラインが概ね草梁倭館期のものと推測される。〔wikiwand/倭館〕

【民】帰国者を手招きする厳原徘徊商人

 大規模密輸団の帰国後の荷降ろしは,厳原ではあり得なかったらしい。下関ですら足がつくから,大阪が最も好まれたようです。ただ,大阪への航路をどうとったのかなどの点は,おそらく大阪側での摘発事例が少ないのでしょう,よすがにできる史料がありません。

更に彼等が密貿易を終つて無事日本に戻った場合,その密貿易品たる人参は多く長崎・平戸・博多・下関・大坂等で売り,このほかにも讃岐の多度津等で売却してゐる(註11)。そして朝鮮人参は禁制品であり且つ珍品であって,これを売却するには長崎奉行所の差紙を必要としたので,差紙のない密輪品を売却するには下関等の田合では足がつき易く,これに反し,大坂は密輸品を紛らかすにも便宜があり,また大坂は人参が高値に売れ,しかも戻りの場合相当の品々を調へることが出来るので,拔荷は多く上方に運ばれて取引された(註12)。〔後掲森〕

11 同所蔵(引用者追記:宗家万松院文庫所蔵)、享保十年抜船御餃議囚人共口問拷問口書・同享保十年抜船本人石橋七郎右衛門並同類之旅人肥前皿山嬉野次郎左衛門餡頭平戸大嶋懐左衛門同所水夫与左衛門太右衛門口慮
12 同所蔵、享保十同十一同十二年抜船一件御国中集書

 これとは別に,次の1717(宝永7)年事件を一般化させうるとすれば,小規模売買の場合には厳原で闇取引が行われていたようです。――――この情景は,アジアの街角での闇両替や,一昔前の中国での外幣両替の状況を見るようです。あの辺りでそういう素振りをしていれば,何となくそういう輩が寄って来て,物陰でササッと取引が成立してしまう。こういう「犯罪」は,お上からすると最も取り締まりにくいものでしょう。

宝永七年人参密貿易の件で,逮捕された日吉丸船舟添五左衛門の自白によれば、朝鮮より密輸入して来た人参を,対馬厳原の川端で行き摺れに出遭うた博多船の船頭市右衛門という者に売渡したが,その取引には,先づ出遭った際,見も知らぬ市右衛門の方より朝鮮入船の船乗と見て呼びかけられ,売物が泣(ママ)いかと開かれたので,大豆はあるがそのほかに売物なしと答へたととろ,宿所を聞かれ,これに教へたれば,暮方に家に訪ねて来た。そこで母を外出させて置いて人参を取り出し見せたところが取引契約が成立した。翌日再び市右衛門が銀子を持参したので,また母を外出させでその留守に人参を売却したと述べてゐる(15)〔後掲森〕

※15 同(引用者追記:宗家万松院文庫)所蔵,宝永七寅年十二月十二日日吉丸梶取曾右衛門 舟添五右衛門 水夫貞右衛門市兵衛伝四郎順市丸水夫栓右衛門御法度相背候口書並口上書

 網羅的な取締に実効性がなくなれば,一部的な摘発時の措置に脅威を持たせるしかない。乗物の切符の全員検札と一部検札の差をイメージして頂くとよい。対馬の抜船摘発時の科刑の苛烈さは,現代人の想像を絶しています。

中国語の倭寇歴史記事より:囚われて連行される倭寇のイメージ画

←【官】抜船は獄門・斬罪 家族は奴隷に

 次の文章の末尾辺りは読み慣れないと,何が書いてあるのか腑に落ちにくい。

 従つてその犯人が逮捕された場合には,対馬藩だけの問題ではなく,直ぐ様江戸の幕府に報告され,その指揮を仰ぎ,犯人は一応長崎に送つて拔船犯人としての吟味を受け,刑罰を課せられ,対馬にさし戻して処刑した。その処刑は極刑を以て臨んだことは,寛文七年拔船事件にて裁判を受けた対馬人扇屋格右衛門・小茂田勘左衛門等が長崎に送られて吟味され、小茂田勘左衛門・扇格右衛門は礫刑,その男子は斬罪,吉田孫兵衛以下五人は獄門,原野与一左衛門以下四人は斬罪,家財闕所,妻子兄弟姉妹・下人は曳科に処せられ奴婢とし,私領は領主の自由に任せ,津江七郎兵衛以下四人は追放の判決を与へられ,各々処刑されている(20)。〔後掲森〕

※注20 同(引用者追記:宗家万松院文庫所蔵)所蔵,寛文七年拔船覚記拔書

「曳科」というのは,奴(婢)刑と同義らしい。密貿易をした本人が死刑(∋磔)や獄門(≒懲役)というのは長崎の例でも見かけるけれど,その一族全部を奴隷に落とすという意味らしい。

また享保十年拔船を企てた対馬藩町人石橋七郎右衛門・佐賀藩町人嬉野次郎左衛門・平戸領船頭徳左衛門等の場合には,婚野次郎左衛門・船頭徳左衛門等は各人その藩へ引渡したが,石橋七郎右衛門のみは対馬藩より長崎奉行所に報告,同人牢死したので長崎奉行の裁判により対馬厳原において改めて斬罪獄門の刑に処せられ,その妻子・兄弟•姉妹は曳科を以て奴婢にされてゐるのである(21)。〔後掲森〕

※注21 同所蔵,享保十・同十一・同十二年拔船一件御国中集書

 年限を区切る又は一代限りのものから,子孫に及ぶ「永代奴」までがあったようで,武士団の誰かに賜る記述もあるから「褒賞」としても用いられたらしい。
 戦国期を中心に一族郎党死罪というのはあるし,奴婢刑そのものは他地でも例は皆無ではないけれど,これだけ常用されたのは対馬だけのようです。倭寇時代の名残り,と決めつける材料もなし,現在でもその解釈に歴史家の頭を悩ませています。

 犯罪人を奴碑となす所謂奴(婢)刑は,對馬藩に限った譯ではないが,對馬藩の如く具はれるものは,少くとも近世時代殆ど他に存在しなかつたらしい。(略)
 對馬藩の奴刑は,幕初から幕末まで近世を通じて行われた。(略)
 只,刑法上奴婢なる語が用ゐられたのは,「奴婢被成下幷返上」一に就いて見る限り,元禄末頃かららしい。(略)
 尚ほ,奴刑は對馬藩のみに行はれたのではなく,對馬藩領一般に行はれたのである。(略)
 對馬奴刑は,殆どあらゆる犯罪に對して適用せられるのであるが,本編例示の諸判例中にも屢々その例を見出す通り縁坐者(『曳科之者』)に對しても適用せられるのであつた。〔後掲金田〕

 次の実例は,「人参」を「丸鱈」(タラ)の中に仕込んで「潜商」しようとしたかどにより,「御家中永代奴」に処した上で賠償金を課せられた判決です。

卯(享保二十年)二月廿八日」科銀九枚」平田源七雇者峯○右衛門」右者人参拾七匁丸鱈之内仕込可持渡仕於朝鮮相顯去年以来人参取渡候者厳敷可被仰付旨申渡置候處御法を不相守致潜商為重科依而御家中永代奴可被成下候得共侍中之弟候故以御宥恕右之通科銀被仰付候事〔後掲金田,科人帳六所収〕

  
 もう一つ,「最高級武士に對する奴配屬書の形式を傳へる」事例として金田論文に紹介されていたものを掲げます。高い身分の武士までも,家族を奴婢化する刑罰の対象外ではありませんでした。

生田×右衛門(28)を潜商の罪でその母も「曳科」して永久奴とした判決〔後掲金田〕※原典:家来拝領執達

 どう解釈するかは置いて,海上保安に関しては,対馬宗家は恐怖政治に近い体制を採っていたのは事実らしい。ただこの苛烈さは,それに見合うだけの民側の知能犯罪の実態ゆえでもあります。

【民】→隠蔽摘発合戦記←【官】

 以下,森さんが挙げてるのは,全て摘発実例として史料に綴られたものです。ただし,原典名から察せられるとおり,拷問での聞書も含みます。
 まず,購入資金として日本から朝鮮に持ち出す銀(子・貨)についての工夫の数々は次のとおり。

 しかしながら密貿易を行ふ者達は,藩の巌重な取締に対抗し,その手段が,次第に巧妙となり,朝鮮における人参購入の資本としての銀子を,或は夜具蒲団の中に縫ひ込み,或は船の浪斥きの所に仕込み,或はつき入網碇の本より三尋位いの間を置いて玉銀を木綿袋に入れ,細長く縫つて船中で三四百目位いづつに仕込み,そのほか銅荷拵の莚包の中へ仕込んだり,或はまた港で船を繋ぐ碇にはしらかしを結び付けて入れ置き,村人に頼んで夜中に銀子を結へ付けさせて引取るという方法も用ひた。また銀子を船中に密に乗せて置き,かますに入れ二尋位いの綱の切れを結び付け,和館に着船し,荷改の朝,船の[舟魯]楫の脇からかけはた二尋程隔つているところへ沈めて置き,荷改の終つた夜に引上げるといふ手も使った(17)。〔後掲森〕

※注17 宗家万松院文庫所蔵,元禄十五年壬午宝永ニ乙酉ニ至朝鮮佐須奈網浦書付控

 最初の「夜具蒲団の中に縫ひ込」む辺りは分かりやすいけれど,最後の辺りの沈めておいて荷改めの後に回収する手法となるとほとんど奇術の種明かしの領域です。
 朝鮮から持ち帰る人参となると,けれども品質を落としては元も子もありませんから,銀よりもっと芸が細かい。

 次に朝鮮より人参を持ち帰るには,米俵の中に人参を仕込んだり,荷改めの場合苧綱切等を俵に入れて置き,其下に人参を埋めて置き,改めがすんでまた荷造りをする際に,予め埋めて置いた人参を右の切屑と一緒に俵に仕込んでしまふといふ方法をとった。或は水竿の中に隠し,或は蓬の下編目五節通り程のととろに人参八十目程のものを一節づつ編込んで置き,荷改めの際は蓬を逆様にして見せて役人の目をくらまし,或はまた人参を樽に入れ蝋詰にして朝鮮島へ夜分持参して船に積込む。また前日より島へ持ち渡って船の碇泊してゐる近所へ沈めて置くこともあった。或はまた和館の蔵の壁が一重だったので,鼠の穴や,其他の割目等の中に人参を入れて置き,米の積込みの際人参も取り乗せるといふこともやった(18)。或はまた米櫃の中(19),或はまた雪駄の中に隠したこともあつた(20)。殊に時には和館の官吏と結托も行はれる等,種々の手段が講ぜられた(21)。〔後掲森〕

※注18 同前(引用者再掲:宗家万松院文庫所蔵,元禄十五年壬午宝永ニ乙酉ニ至朝鮮佐須奈網浦書付控)
 19同 所蔵,元禄十五年朝鮮佐須奈綱浦書付控
 20 同所蔵,享保十年拔船御僉議囚人共口問拷問口書
 21 対馬仁位村仁位信義氏所蔵文書巳十一月二十三日大綱村下知役平山忠右衛門等口上覚

 前半の出典18・19部分は1702(元禄15)年の佐須奈(現・対馬市上県町)での事例で,この時期にかなり大きな捕物があったようです。
 また,最後にポロッと一例ある倭館官吏を,おそらく高額で買収しての共謀事例も,ゼロではなかったようです。
 これらを全て文書化してる藩側の摘発術も,ほとんど現代マルサの専門性を帯びてます。

これに対し,対馬藩の荷改めは厳重を極め,朝鮮からの帰国船が夜分対馬に帰着した場合には,その夜は船頭さへもその上陸を禁止する。水竿は肌皮のないよう削り立て丶置くこと。火床の下船梁,末代船梁,蓬の内,皮かぶりの丸木,水竿,表の閂板の辺り,荷改めの時みさを積んだ立て木・押込・帳箱・掛硯・箪笥・桶箱・木厚に造つた器・櫓の上のみきさの木・馬乗りが帰国の場合は馬の下帯,米櫃,どぐ,大工の細工箱・水夫の褥・以上の検査を励行すること,また水夫の荷物積込みの時,脇へ寄せて置くこと等,巌重且つ綿密な荷改め船改めを行って密貿易の防止に努めてゐるのである(22)。〔後掲森〕

※注22 宗家万松院文庫所蔵,元禄十五年朝鮮佐須奈綱滞書付控

 ところが,以上の奴婢刑を多用する厳罰主義と徹底的取締により一応順調だった対馬の繁栄は,それによる人口構造が厳罰主義を許さなくなる結果を生んだようなのです。

【民】総潜商化→
←【官】政策的取締緩和

 この変化がいつ頃なのか確定し難いけれど,後半の方針変更が宝永年間(1704-1711)とされるから,18C初,すなわち芳洲時代以前にはそれがトレンドになっています。長文ですけど,因果を明らかにするため続けて引用します。
 この点でも,対馬口の「鎖国」は江戸中盤には破綻を迎えているのです。

 しかるに対馬藩のとった取締厳重主義と厳罰主義に一つのヂレンマが起つて来た。といふのは藩が朝鮮米を輸入ずる際の運送船,所謂御米漕船は,従来厳原の水夫を用ひて来たのであるが,宝永の頃になると,巌原の水夫が間に合はなくなつて来たので,米の輸入が延滞勝ちとなつて来た。そとでやむを得ず郡内の水夫を徴発してこれに充てなければならない事情となって来た(23)。ところで郡内の水夫といっても半農・半漁を営む対馬に沿いては勿論それは農民である。この農民を藩では田舎者と呼んでゐる。ところで所謂田舎者が御米漕船の水夫となって渡鮮した場合,不図人参等に誘惑されて,つい密貿易に手を染めることが多かつた。対馬藩はその犯行発覚の場合には、本人に対する厳罰は勿論のこと,連坐所謂曳科により,父母を除く妻子・兄弟・姉妹を奴婢として来たのである。しかるに兄弟・姉妹まで曳科として奴稗にすると,公役を負担すべき戸口を減少させる所謂竃を潰すことになり,その負担が村内一般にまで及んで来ることになる(24)。その一例としては,対鮮貿易における三津の一つの豊崎の如きは,そのため農家十四戸潰れ,四十余人の戸口減少を来したのである(25)。しかも藩の米漕船の水夫は本人の好むと好まぎるとに拘らず,強制的に徴集されたもので,それらが不図密貿易に手を出したために,このようた結果を生むのである。従つてこうした結果は藩の政治上,また財政上反って不利を招くことになるので,藩も遂に巌罰主義を拾てて,刑罰の緩和を計らざるを得なくなった。そこで宝永八年十一月六日には,潜商の罪科を犯した本人に対してはそれ相応の刑罰を加へるが,以後は従来免除して来た父母は勿論のこと,兄弟・姉妹の曳科を免除し,唯妻子のみを曳科に処する。但し,本人が死刑の場合にはこの限りに非ずとした(26)。〔後掲森〕

※注23 同(引用者再掲:宗家万松院文庫)所蔵,宝永八卯年○正徳三年ニ至田舎者潜商之御法度を背候科之者被仰付様之格式
 24 対馬豊崎町洲洞生虎虞氏所蔵,六月十八日須川万右衛門口上覚
 26 宗家万松院女庫所蔵,宝永八卯年○正徳三年ニ至田舎者潜商之御法度を背候科之者被仰付様之格式

 対馬の経済水準が向上し,都市-農村格差が縮まり,田舎者=府中(厳原)市域外の農村労働者がこぞって小口密輸へ欲望の主体となった。簡単に言えば,中流経済層が急拡大し,対馬が総・潜商化した。そうなると,それら全てを17C同様に摘発すれば社会が崩壊する。
──これは別に,対馬人を侮辱しているつもりではありません。経済開放後の中国人の「爆買い」と帰国時の莫大な買い物荷物を想像すれば,中流化したての市民が小商いの欲望に高揚するのはむしろ当然です。あるいは,唐人屋敷に出入りする長崎人が「所望物」「貰物」と称して小口商いしたのと変わりはしない。
 社会のメジャー層が共有する欲望は,それを否定する権威の存立を決して許しません。
 芳洲辞任の引き金となった「吉宗密輸」は,結果的に対馬府中藩の恐怖通商の転機を象徴していたのかもしれません。

▼内部リンク▼ [期中]高級軟禁地 カンナイ・バレー/幕末長崎奉行言上書の記す5ルート〔展開〕
役人の前を唐人屋敷へ堂々駆け込む長崎町人たち。渡邉秀詮「長崎唐館交易圖」(神戸市立博物館)上:全体 下:部分

 多弁なる宗家文書群に記されないので定かではなくとも──銀の事実上の禁輸,朝鮮交易規模の没落後も,密貿易とも言える小口交易を通じて,朝鮮人参は対馬に流入し続けたと想像します。
 そもそも江戸期中盤以降,薩摩藩が組織的な裏交易を始めた時代には,対馬が単独で密輸の「線」を抑えることなどできなくなったはずです。

キネマも、晴れ着を買うのも、義歯を作るのも釜山〔後掲NHK,比田勝の年寄りより聞書〕

といった,国境を日常的に越える時代が,年表に書かれることなくやがてやってきます。

「海と陸の間にあり,輪廻する魂の休息と修練の地」バイストン・ウェル〔聖戦士ダンバインより〕

江戸中期以降 対馬口は閉じたか?

──と書いて筆を置こうとしたけれど,どうにも気持ちが悪い。
 芳洲辞任の時期は1721(享保6)年,江戸時代の中間点にすら達していません。対馬府中藩の交易が銀輸出途絶で減退していったのなら,いかにそれが緩やかでも,なぜ幕末まで釜山に倭館が存続したのでしょう。
 つまり,この交易減退時期には何か,単なる縮小以外の要素が含まれたはずです。

 正徳年間に人参・白糸の輸入がかげりを見せはじめ,元文年間以降には銀輸出の停滞,それにかわるべき銅調達の不振も手伝い,私貿易は急速に悪化する。それに伴って藩財政は悪化し,幕府からの拝借・拝領金下賜も度重なっていった。(略)
 輸出品に関しては銅が銀にとってかわり,以後輸出の中心となった。更に輸入品は倭館における銅輸出に関する「新法」が制定された明和初年頃から急速にその様相を変えはじめ,従来の人参・白糸中心から,新たに薬種(黄苓中心),煎海鼠中心に変質していったのである。
 対馬藩が幕府から私貿易「断絶」を理由に永続御手当金一万二,〇〇〇両を受けた安永五(一七七六)年当時は私貿易の変質が定着しだした頃であった。変質した私貿易は安永年間にもかなりの規模で行れて(ママ)いたとはいえ,決して藩の財源不足を補いきれるものではなかった。つまり,私貿易「断絶」の案出は私貿易変質後も不足する藩財政の一助たるべく,幕府からの多額の永続的援助を期待した,対馬藩当局の苦肉の策ともいうべき,全くの虚構だったのである。〔後掲森(晋)・結語〕

 教科書的な概要を整理すると,次のようになります。

江戸中期以降の対馬口
交易トレンド概要
【輸出】銀→銅
(【財源】自前→幕府補助)
【輸入】人参・生糸
   →黄苓・煎海鼠

 対馬口は輸出銀低迷により閉じたのではなく,交易構造の激変を経て,なおも継続したようなのです。ではその規模はどうなったのでしょうか?

銅つながり:「熊本はどう?」熊本市公式移住情報サイト

輸出銅数量と補助金,開市率

 次の表は,1767(明和4)〜1781(天明元)年の,銀を代替する形で朝鮮への輸出に供された銅の数量です。

明和4(1767)年〜天明元(1781)年輸出銅買入及び輸出状況〔後掲森(晋)〕

※原注 典拠)輸出高は「館守毎日記」(国立国会図書館所蔵宗家記録)による。他は田代和生「対馬藩の朝鮮輸出銅調達について」(『朝鮮学報』66輯p.186)の表を改作。
※※*1(残高)=(許可高)-(買入高) *2輸出高については1斤未満切捨。

 減るどころか,1770年代にピークを迎えてます。銀も含めた輸出総量が判明すれば全体像が把握できるのですけど──この時期には,教科書的には銀はほぼ流通していないはずですから,総輸出量が緩やかにアップしていったとも読めます。
 にも関わらず,対馬府中藩は私貿易が「断絶」(→前掲史料参照)したとして幕府からの補助金を激増させています。

 自然明和年間の宗義暢代〔宝暦十二(一七六二)〜安永七(一七七八)年〕には,藩財政は更に悪化した。すなわち「……猶以交易手切二及速々身上之逼迫ハ増々畳累仕,既ニ身代実以全不相立ルニ決定仕,家中撫育も難相成(26) 」状態に陥いり,明和七(一七七〇)年には幕府から毎年三〇〇貫目宛の拝領を受けることになった(27)。ところが、同年にこの三〇〇貫拝領とは別に翌年より三か年(28)分の合計九〇〇貫目の前借を願い許されている(すなわち翌明和八年から九か年の間は二〇〇貫目宛拝領を受け,差引一〇〇貫目は上納にあてる)。これをみても,当時の藩財政が私貿易の衰退により明らかに逼迫した状態にあったことがわかる。(略)
明和五年の実際の銅輸出高は、十二万三,一六五斤と許可高をも越える程の値を示している。これは恐らく明和二年以前酢屋などからの調達残銅と思われる。また明和七年に前三年に比し,十六万四,六〇〇斤と三倍以上の調逹ができたのは前述の通り,この年七月からの三〇〇貫目拝領,及び九〇〇貫目の拝領銀前借による資金獲得成功によるものとみてまちがいなかろう。その後明和八年は七万二,一〇五斤,翌安永元(一七七二)年には二万九〇〇斤と落ち込むが,同二年から四年までの三年間は年平均十四万六,七八三斤余と,買後れ残高も含めかなり順調に調達が行れていた。〔後掲森(晋)〕

※原注(26)『猪三郎書付』(27)『御触書天明集成』(岩波書店)二六四九。尚明和四年にも「勝手向連年困窮」を理由に金一万五,〇〇〇両を受けている(同二六二九)。
(28)右同二六五四。

 森(晋)さんの論文の趣旨は,幕府補助金の増額前提となった私貿易の低迷は,虚偽申告に近かったのではないか,というものです。
「私貿易」とは,藩が関わらない,という意味ではなく,藩の輸出入品を専用の公設市場で売買する,ということ。定まった品を定価で交換する官営ではなく,価格を市場原理に委ねた交易形態です。対馬府中藩は,それが明和以降は無くなった,と幕府に言っているのです。

明和3(1766)年〜天明2(1784)年開市状況〔後掲森(晋)〕※引用者が月別内訳を詰めた。

※典拠 「館守毎日記」(国立国会図書館所蔵宗家記録)
※※αはその部分の記録が欠けていることを示す。

注80 倭館内開市大庁で三と八のつく日に月六回①開かれる。但し正月三日②は不開催。その他倭館に貿易品の入荷がある時は別開市(別市)が開かれた。私貿易はこの市において取引が行れた(ママ)。更に銅•水牛角の荷見せ検査の時看品市を開く場合があった。尚本稿において開市率とは
開市数+別市数/71(閏月の時は77)×100
で計算している。〔後掲森(晋)〕※丸付き数字は引用者

※引用者推定 71=6回/月①×12月-1:②正月三日(不開催)
77=6回/月①×(12月+1月(閏月))-1:②正月三日(不開催)

「開市率」は,公設市場の定例日(6回/月)中,実際に開催される率ということです。もちろん開催して実際に取引される物量や金額と完全に比例してはいないでしょうけど──先の銅輸出の横ばい状況からすると,特に安永年間のこの開催率の高さは,官→私の比率移動があったように見えます。

対馬口が低迷したのは19Cになってから

 上表は1782(天明2)年までの開市率ですけど,その後の明治維新までの同率をグラフにしたのが下図になります。
 上部のグラフは,銅座から藩が得た輸出銅許可額を指します。上下のラインのトレンドが逆方向にほぼ合致します。

宝永10(1760)年〜明治3(1870)年開市率及び輸出銅許可高の変遷〔後掲森(晋)〕

※数値定義再掲及び引用者解説
註1)丸付き実線:開市率,隔年(西暦偶数年)の絶対値
 2)丸付き点線:1)の値の5回分移動平均
 3)丸無し実線:輸出銅許可高(銅座における調達許可高)
 典拠)「館守毎日記」「朝鮮渡銅御願記録」「銅一段ニ付而之書立」(いずれも国立国会図書館所蔵宗家記録)

 つまり,19Cには輸出銅は相当に際限なく許可され,それは暇なく市場に投じられて輸入品の代金になっていった。財務管理のない,いわゆる自転車操業状態を想像させますから,この段階で藩の官営交易は確かに衰亡していたらしい。
 けれど,この19C段階でも草梁倭館は稼働しているのは,ここが維新期の外交舞台となり,不要人員の処分が行われていることから明らかです(→後掲明治初年史料参照)。
 19Cの草梁倭館では,一体何のビジネスが行われていたのでしょう?

1824(文政7)年対馬府中藩の財務分析

 安永の「私貿易断絶」宣言以降,明らかに対馬府中藩は少なくとも幕府に二枚舌を使ってます。田代さんの1986年の研究(後掲「近世後期日朝貿易史研究序説:『御出入積写』の分析を通じて」)も,その実情を嘘のない(少ない)財務数字で検証しようとしたものと察せられます。
 以下,やや会計・簿記的に数字を追っていきます。田代さんの表記全体をイメージとして上部に,項目-数値のテキストを下部にそれぞれ掲げています。
 時点は1824(文政7)年,上記グラフでは開市率の下降がボトムに達した段階になる。記録原典は宗家勘定方作成(表紙記名「杉村」)「文政七年五月考 御身代御出入積帳」(天理大学図書館所蔵)です。
 とは言え,日本最古の簿記類似の帳簿・三井大阪両替店のものが確認されているのは1800年ですから──対馬府中藩のそれももちろん複式ではありません。

収益ベース×藩全体・銀収益:交換比率4/3

 簿記的にはPL:収益に相当する貸方勘定科目の内訳で,借方が銀になる部分が以下の財務記録らしい。別に米の会計があるから,以下は資産の全体を表してはいないようです。

※「六銭」は対馬府中藩中で使用した勘定用換算単位で,銭60文=銀1匁レートのこと。田代さんは実質レートを
元文銀1匁=銭103文
に固定して,
元文銀×103/60=六銭
式で換算しています。
 また,同様に金(両)と銀(匁)のレートは
金1両=銀65匁
としています。
 なお,パーセント比は横計算により単純に端数処理しており,縦計は100%に丸めていないようです。

表2 対馬藩所務金(銀)

原表〔後掲田代1986〕

金12,000両/幕府下賜金
金21,698両/
 内訳/(区分)/比率(%)
 六銭 119貫180匁余
 /田代取立銀/4.9
 六銭  10貫290匁余
 /恰土•松浦取立銀
       /0.4
 元文銀338貫300匁
 /恰土•松浦米大坂売払代
       /24.0
 金     520両
 /御蔵入切手分その他
       / 2.4
 金     922両
 /下野取立金/4.3
 六銭  83貫220匁余
 /対州郡中取立銀
       /3.4
 六銭  896貫380匁
 /朝鮮公貿易所務分
       /37.0
 金    4,413両
 /対州運上その他取立分
       /20.3
 金     700両
 /奥方(長州)様御入輿年々御朱金
       /3.2


総計 金33,698両
/六銭合計1,109貫070匁
 ≒元文銀 646貫060匁
 ≒金     9,939両
/元文銀合計338貫300匁
 ≒金     5,204両
/金合計   金6,555両


/計(幕府下賜金除く)
        21,698両
〔後掲田代1986〕

 収益総額は,幕府下賜金除きで21,698両①。前掲貨幣博物館レート(→1両=27万円)を用いると現代の約59億。
 外数の幕府補助金(下賜金)が1.2万両②≒32億。①+②3.3万両に占める割合は約36%。
 以下の官私交易への投資額は金約7千両だから,①+②3.3万両中約2割を交易に投じて,16百貫≒25百両の利益を回収しています。投資額の1/3超が利益になるのだから,1725(亨保10)年の+160%(→前掲資料参照)ほどではありませんけど,現代感覚ではかなり旨味のある商売をしていたように思えます。
 2割×1/3と考えれば,年間で資産の8%を増やせる交易環境だったわけです。ただし,この収益は銀会計のみですから,本当は銅部分がどれほどの規模だったかを考慮する必要がありますけど──その部分の数字はありません。

「別幅人参」:宗義和宛ての書契に添えられた「人参2斤」提供を謝する別幅の書面〔後掲長崎県立対馬歴史民俗資料館 原典:1857(安政4)年「家定様信使記録」〕

費用ベース×官:上海ネットワーク下部構造の色彩

 費用と言っても輸出入品の対照という形にならざるを得ませんけど──1824(文政7)年の草梁倭館には,実に多用な産品が入り乱れてます。同様の江戸期前半の表が作れてないので明示できませんけど,(輸出)銀→(輸入)人参といったモノカルチャー的な構造からはかけ離れてます。

表5 官営貿易の輸入品販売・輸出品調達価格

原表〔後掲田代1986〕

輸入品販売
支給数/①差引/②販売数/③代価(六銭)


公木※709束18疋
/①20束   判事へ
   1束18疋 代官方へ
/②438束 上木
  (1束=l貫125匁)
  250束 次木
  (1束=900匁)
/③715貫250匁
 (計算では717貫750匁※※)
人参5斤
/①2斤 以酎庵ヘ
/②32匁 倭館病人用
  (1斤=2貫250匁)
  1斤  対馬病人用
(1斤=2貫400匁)
1斤128匁 大坂売
  (1斤=4貫500匁)
/③10貫950匁
人参代吹銀42貫075匁
/①(空白)
/②42貫075匁 江戸銀座売
  (文字銀85貫500目)
/③153貫900匁
大豆 317俵余
/①20俵 通訳官ヘ
/②297俵余(1俵=24匁)
/③7貫139匁
小豆 13俵余
/①(空白)
/②13俵余(1俵=位3匁)
/③542匁
その他(筆・墨・油など,別幅・求請物)
/①②(空白)
/③8貫600匁


計 896貫957匁•••①
(計算では898貫881匁)



輸出品調達
I 品目数※※※/①単価(元文銀)/②代価(元文銀)/③代価(六銭)


水牛角 435本
/①1本=45匁
/②19貫575匁
/③35貫235匁
丹木 6,335斤
/①1斤=3匁
/②19貫005匁
/③34貫209匁
胡椒 3,400斤
/①1斤=3匁3分
/②11貫220匁
/③20貫196匁
明礬※※※※ 1,400斤
/①1斤=9分
/②1貫260匁
/③2貫268匁
荒銅 28,373斤54匁
/①100斤=243匁
/②68貫947匁余
/③124貫104匁
吹銅 6,416斤80匁
/①100斤=265匁
/②17貫003匁
/③30貫605匁
封進物箱染用
 丹木 60斤
 明攀 10斤
/①(空白)
/②189匁
/③340匁


小計
/①(空白)
/②(137貫199匁)
/③246貫957匁


他に長崎除き物※※※※※
 水牛角215本,胡椒 1,100斤,
 丹木1,665斤,明礬100斤
/①②(空白)
/③33貫102匁


計 280貰059匁•••②


差引①−②=616貫300匁余
 (計算では618貫822匁)
〔後掲田代1986〕※丸付き数字は引用者。なお,計を「小計」「合計」に改めた。

※引用者注
公木:(田代)「公課として徴収される木綿」

 官営貿易とは,朝鮮国王と対馬藩主との儀礼的な物品の贈答形式をとる「進上・回賜」と,一定の品を朝鮮政府が公木(公課として徽収される木綿)で買い上げる方式の「公貿易」の二種があり,本来は対馬から朝鮮へ派遣される使船一艘ごとに行なわれるべきものであった。しかし1630年代の「兼帯(けんたい)の制」確立後,進上は「封進(ふうしん)」と改称され,年間の封進・公貿易額を総計して,すぺて公木で決算する方式が定着していらい,一括して定品・定額制の官営貿易として考えることができるようになった。そしてこの方式から.支給される公木のうち.一部を米に換える「換米(かんまい)の制」がさらに案出されている。〔後掲田代1986〕

※※原典史料の誤算と思われるもの。田代さんは正しい計算数値と一応併記している。
※※※(原注)封進物のうち,日本朱・その他(紋紙・屏風など)は,送使方入目とされ,ここでは除外されている。
※※※※(引用者注)明礬:みょうばん,硫酸アルミニウムカリウム

 なお,※※※※※部(長崎除き物)については,同論文で田代さんが次のように書いているのが参考になります。

対馬蕃ではこれらの中継品(引用者注:水牛角・胡椒・明礬(みょうばん)・丹木。朝鮮への再輸出用産品)を長崎で調達するにあたって,「対州除き物」扱い,すなわち一般商人の入札に付す以前に,良質なものを優先的に取引でき,また時によっては相場より廉価に購入すること(14)を許されていた。この「除き物」は宝永六年(1709),老中土屋相模守の許可を得たことに始まり,そのころは貿易が盛んであったことから「除き物」の上限を,水牛角2,000本,胡椒20,000斤,明肇15,000斤,丹木10,000斤とされていた。その後享保期(1720-30年代)に至ってこの措置は一時中断したり,またその後間もなく復活しても上限額が減らされることなどがあり,文政年代の調達定(15)額は,水牛角650本,胡椒4,500斤,丹木8,000斤,明饗1,500斤とされて,水牛角は以前の二分の一,胡椒は四分の一,明饗に至っては十分の一という著しい減額である。〔後掲田代1986〕

原注(14)通常,一般商人の入札には「三歩掛り銀」(輪入品薄札値の3%)が課せられるが,「除き物」には,これがないことが多い(「大意書」巻十三,会所有銀口々納払名目仕分書『近世社会経済叢書』七巻。山脇悌二郎『長崎の唐人貿易』p.148,吉川弘文館,1964年)。もっとも天保十四年(1843)の記録によると(『唐紅毛之品対州平戸并九州諸家除取候一件調書』長崎図書館,渡辺文庫),水牛角は銅の代納とされたために調達が無くなり,胡椒は落札値段の五カ年平均(3.129匁),丹木は一般商人同様,払い代に三歩銀を加え,明鬱は元代の40割増しとされ,かなり条件が厳しくなっている。ただしこれも商人の入札以前に良品を選ぶことができ,これらの代価の支払いは,二年後の延べ払いとされていた。
(15)『古川家覚書写』九州大学所蔵。宗家記録『分類紀事大綱』三十二,国立国会図書館所蔵。
※引用者注「除き物」「除物」の用語は当時からあったとも考えられるけれど,現代研究者の造語かもしれない。上記原注の史料名からは「諸家除取候一件」のように言われたらしい。

 まず輸入品では,人参は僅か5斤,うち以酊庵※へ2斤差引かれ,国内への純粋な輸入は対馬と大阪へ各1斤のみ。もはや希少品扱いです。

※禅僧による事実上の国際郵便・応接機関
「対馬にあった禅寺(瞎驢山以酊禅庵)の称。天正八年(一五八〇)景轍玄蘇が開創。現在の長崎県対馬市厳原(いずはら)町国分の臨済宗南禅寺派西山寺にあたる。江戸時代、幕府は五山の碩学(せきがく)(=学僧)をここに派遣して、朝鮮との往復書簡のことや朝鮮からの使者の接待のことなどにあたらせた。慶応四年(一八六八)廃止。」〔精選版 日本国語大辞典「以酊庵」←コトバンク/以酊庵〕

 代わりに公木(木綿)がメジャーで金額換算で約8割。29年後の対外開港後にイギリス(領インド)等からの流入で国内産業が押されていく前の段階で,細々と朝鮮からその予兆が始まっているわけですけど,対馬側の旨味は人参ほどはなかったでしょう。
 驚くべきは,人参代吹銀の「輸入」です。後述しますけど何と人参の代替としての逆・銀輸入です。
 輸出品は6割超が銅(荒・吹銅計)ですけど,残りの多くは「長崎除き物」(水牛角・丹木・胡椒)となっています。つまり長崎からの輸入品の再輸出です。
 単純化すると,19Cの対馬府中藩は,それ以前より漠然とながら概ね,銅と長崎除き物を払って木綿を買っていたことになります。でもここは,産品の移行に卑小にとらわれるのは危険だと思います。パラダイムの転調に着目した方が正確だし,面白い。
 輸出入とも,他からの再流が流れ込むようになってきてます。対馬口が二国間交易の枠を越えて,長崎を含む世界経済ネットワークの部分に推移したことを,これは意味していると考えられます。



倭館図※に描かれる草梁倭館の市場付近の日本人の姿
※1783年(正祖7年)卞璞(生没年未詳)画

費用ベース×私:黄芩(コガネバナ)と煎海鼠

 次の表は私貿易,対馬府中藩が草梁倭館の市場で売買した分の収支です。官営と全く構造が異なります。

表6 私貿易の銅輸出と輸入品販売

原表〔後掲田代1986〕

翰出銅(比率%)/①輸入品/②販売数/③売値(六銭)/④代価(六銭)(比率%)


37,800斤 (51.6)
/①牛皮15,000枚
/②15,000枚
 /③1枚57.73匁
 /④865貫998匁(61.6)
12,041斤余(16.4)
/①煎海鼠15,000斤
/②14,250斤
 /③1斤平均約6.84匁
 /④ 97貫520匁(6.9)
8,571斤 (11.7)
/①黄苓50,000斤
/②45,700斤
 /③1斤6.3匁
 /④287貫910匁
次項計(20.7)
/②クズ1,800斤
 /③1斤1.8匁
 /④ 3貫240匁
(上記に含む)
7,375斤(10.1)
/①牛角16,100斤
/②上1,800斤
 /③1斤12.25匁
 /④ 22貫050匁
  下記二項計(7.5)
/②中8,900斤
 /③1斤7.08匁
 /④ 63貫012匁
      (上記に含む)
/②下5,400斤
 /③1斤3.67匁
 /④ 19貫810匁
      (上記に含む)
6,000斤(8.2)
/①上用人参2斤
/②80匁 (1斤=160匁)
 /③1斤21貫600匁
 /④ 10貫800匁(0.8)
1,500斤(2.0)
/①爪※※1,500斤
/②1,500斤
 /③1斤2.42匁
 /④ 36貫300匁(2.6)


合計73,287斤余
 /④小計1,406貰640匁
  −(諸経費)230貫757匁


 売上合計1,175貫883匁◎
〔後掲田代1986〕

※(原注20) 輪入品によって,5%から20%の「欠入目」が引かれるが,実態は不明。
※※爪:(原本文記載)「溶かして『朝鮮べっ甲』とされる。」
:(引用者注)朝鮮べっ甲は「海亀の甲のまだらのところに水牛の角や牛角、馬爪などを入れて作った模造の鼈甲。」(精選版 日本国語大辞典「朝鮮鼈甲」/朝鮮鼈甲 ※コトバンク/朝鮮鼈甲) よって,朝鮮べっ甲の原料としての馬爪等と推定される。

 人参は7%程度。代価換算で輸入品の6割が牛皮になってます。この牛皮は,明治期に至るまで朝鮮からの主要輸出品で(前述展開最下部表参照),これを契機として従来の国内皮業は価格差から一掃され,ほぼ全部を輸入する情勢に一転していきます。

※ 田代さんは「これだけ大量の牛皮が,どのような用途に消費されたのかようわからないが(略)大阪に送られ,そこで何らかの加工用とされたものと考えられる。」〔後掲田代1986〕とする。この点に関連し,後掲高垣2014は,「十八世紀後半以降,皮問屋への出荷を担った」「地方の『えた』と直接関連を持つ,皮問屋の手代たちであった。」とする。後掲阿南2002でも「享保期以降の輸入皮革の減少に伴って,渡辺村皮商人は府内・豊前・筑前など九州一円に姿を現す」事実に着目しており,部落史学のアプローチからの流通経路解明が進んでいるけれど,牛皮の出荷元として対馬口が相当に大きな比重を占めた可能性は否定し難く,研究の進展が期待されます。

 黄芩は,和名コガネバナ(漢名:黄金花)と呼ばれる漢方薬剤で,中国(山東省・河北省・内蒙古自治区・山西省等)を原産地とし,享保年間に朝鮮半島経由で渡来したもの〔後掲日本漢方生薬製剤協会〕。健胃消化薬や止瀉整腸薬として用いられます。「享保年間」に,人参と同じく,やはり吉宗が朝鮮半島から収集したものと伝わるので,対馬府中藩が関与した可能性も高い。

黄芩〔後掲国立国会図書館 原典:丹羽正伯「丹羽正伯物産日記」※〕※1739(元文4)年「諸国産物帳」の姉妹本と思われる。同人著『九淵遺珠(きゅうえんいしゅ)』 (杏雨書屋・岩瀬文庫蔵) の抄写本

 第三位項目として煎海鼠(いりこ)が7%弱。これは長崎での除き物(水牛角)の決済用です。

対馬藩ではこの水牛角の長崎入荷不振に対処するため,天明(1780)年代から朝鮮産と対馬産の煎海鼠(いりこ)(長崎から中国へ輪出される海産物の一つ)を水牛角の決済にあてることにし,さらに調達定額の650本に達した場合は,対馬産の煎海鼠1,000斤を無償で長崎会所に提供する約束を取り交わした。〔後掲田代1986〕

 つまり,19C前半の俵物の一つ・煎海鼠は
朝鮮(産品)
→対馬(決済)
 →長崎(産品)
  →中国(消費)
という複雑な流れ方をしていたらしい。
 また,ここで対馬産以外で書かれるのが朝鮮産しかないことから,北部日本(北海道含む)の煎海鼠は対馬に入っていないようです。それと,長崎追加決済用として朝鮮産が許されてないのは,対馬産より朝鮮産は低く見られていたと推測されます。

煎海鼠の製造絵図(乾燥工程)〔後掲味の素 原典:安藤徳兵衛(3代目歌川広重)「大日本物産図会、対馬国海鼠製之図」明治〕

 全体として感じられるのは,動物由来のマニアックな希少品が多いことです。日本では被差別部落が扱ったと推測される動物由来品ではなく,朝鮮からわざわざ輸入しているのは何か理由があるのか,どうもピンと来ないけれど──朝鮮側から見た対日輸出品は,かなり偏った産品だったようなのです。

PL係数 販売原価×私:収支を一元管理帳簿の不在

 以上の分野別帳簿による利益を比較すると
官営貿易利益618貫822匁
私貿易利益1,175貫883匁
と官:私≒1:2になりますけど,私貿易係数からは明らかに売上原価相当額の除算がなされてないので,田代さんはこれを別に積算しています。
 ただ,該当帳簿がなかったということは,田代さんが行った私貿易の利益計算を,対馬府中藩は決算過程での検証として行っていなかったことになります。これは私貿易「断絶」の宣言を考慮した幕府向けのポーズで,利益は例えば「裏帳簿」のようなもので算定されていたのでしょうか。それとも,現代でいう公営企業か特別会計のように独自採算部門のような意味合いで,本当に放置していたのか。つまり,藩としての管理を意図的に放擲していた理由が,何かあるように思えます。

表7 輸出調達代価

原表〔後掲田代1986〕

代価(六銭)/内訳
318貫162匁余
/私貿易用
  荒銅1,626斤余
  代銀(元文銀)
      3貫951匁余
  (100斤につき243匁)
 同吹銅63,583斤余
  同  172貫806匁余
(100斤につき265匁)
  計  176貫757匁
(六銭 318貫162匁)
43貫615匁
/私貿易用
  吹銅8,077斤
  代銀(元文銀)
     24貫231匁
  (100斤につき300匁)
  細工下地銅密買値段による
  (六銭43貫615匁)
46貫512匁
/官営・私貿易銅買入資銀の利息(10ヶ月1歩)
  荒銅30,000斤
  代銀(元文銀)
     72貫900目
  吹銅70,000斤
  同  85貫500目
  計  258貫400目
六銭にして
     465貫120目
4貫361匁余
/私貿易用細工下地銅(吹銅)買入資銀の利息(10ヶ月1歩)
54貫000匁
/輸送船(御米漕船)一艘建造費
 元文銀30貫目
 (六銭54貫目)


合計466貫650目


1,175貫883匁◎
− 466貫650匁
= 709貫233匁
(史料には669貫200匁余)──私貿易利潤


銀1匁=銭108文
〔後掲田代1986〕

 文中の「密売値段」などは気になるところですけど,後述に回します。この田代さんの補正で,
官営貿易利益618貫822匁
私貿易利益 709貫233匁
と「ほんの少し私貿易の方が儲かった」ような係数を出してありますけど──本当でしょうか?
 例えば最大項目の銅は「私貿易用」のラベルを付してあるだけで,現実の運用では官営貿易に用いることは十分ありえたでしょう。帳簿管理として見た時,「対馬口(上記でいう官営)貿易は幕府支援でギリギリ黒字に浮いている」というという収支を作るために,操作したと決めつけられなくても,相当程度まで操作可能な帳簿状態のように見えるのです。
 官営・私両表を再掲してから,数値を総括してみます。

総評:三部門フレームで捉える文政対馬口経済

 1824(文政7)年の朝鮮-日本間の交易フェーズとして,上記官営・私の他に密貿易を加え3層で捉えていきたいと思います。
 帳簿のない密貿易フェーズは,仮に規模・品ともを上記私貿易並みと想定します。──19C前半は朝鮮側を主体とする密貿易が江戸期を通じて最盛期で,小さくとも表経済と同程度以上ではあったと考えられるからです(データ:下記展開内)。ただし,長崎とのオフィシャルな外交を前提とする金融取引は,私貿易でもですけど,密貿易では不可能ですから,その部分は除外して考える必要があります。



※再掲 「六銭」:対馬府中藩中で使用した勘定用換算単位 銭60文=銀1匁レート
(田代換算前提)元文銀1匁=銭103文 金1両=銀65匁
 ∴ 元文銀(匁)×103/60=六銭(文)
(文政8年6月以降の定値段→後掲)銅100斤=240匁
(現代貨幣価値換算)現代貨幣価値27万円/両←根拠は前掲
∴六銭1貫≒27万円/65×1000≒415万円

 以上の前提に立ち,表経済の官私に加え①密貿易部門を含め,かつここから②金融(財務要素:≒現代感覚での「両替」)を除外したものをPL(損益計算書)にやや無理矢理に落としてみます。

PL形式への再集計:官:私:密=0:1:2?

 以下は,縦にPL集計要素(売上高→売上総利益→営業利益),横に官・私・密の区分と三者計をとったクロス表です。
 なお,数値は六銭で統一し,貫で四捨五入して単純化しました。


区分      
    官営貿易 私貿易 密貿易
売上高 3,611 897 1,406 1,308
(比) (100.0%) (24.9%) (38.9%) (36.2%)
▲財務要素
※官:公木・人参代吹銀
 私:煎海鼠
▲ 967 ▲ 869 ▲ 98 0
 再計 2,644 28 1,308 1,308
▲売上原価
※私:私貿易用荒・吹銅調達代価
▲ 732 0 ▲ 366 ▲ 366
 売上総利益 1,912 28 942 942
▲販売費等 ▲ 462 0 ▲ 231 ▲ 231
 営業利益 1,450 28 711 711

 C/F視点で売上原価(この場合は輸出=交換原資)732貫を投資額とすると,販売費(主に輸送費や箱代〔後掲田代1986〕)控除後の営業利益1450貫は約2倍。──「密貿易推計」部は私貿易規模に準じてあり,かつ官営のるから,売上原価算入数は該当数値がなくゼロ,営業利益も±ゼロに近いので,これはほぼ私貿易によるものです。
 つまり,江戸後期(1824(文政7)年)の対馬府中藩官営貿易とは,大半が「両替」※でそこでの利益はほとんど生じていません。その両替は,私貿易のマーケットで輸入品購入用の貨幣を準備したものです。
 この金融措置の規模が官営の規模又は朝鮮側の許容枠を超過したからか,文政期には既に私貿易をも侵食した結果が,私貿易での俵物(この場合,煎海鼠)輸入だと思えます。

※日→朝輸出:銅 及び俵物(長崎除き物)
 朝→日輸入:公木(木綿) 及び銀(再輸入)

 実質の交易は私貿易(及び密貿易)に移っているのに,対馬府中藩は幕府に対してはそれが存在しない(「断絶」した)と説明しきったまま幕末に到った。芳洲理論に基づくこの説明は,幕府補助金等支援額をなし崩しに増やす目的は果たしたでしょうけど,それは官営貿易の「紐付き」化に結集するわけで,もっと大きな背景として,官営貿易以外のマーケットに利益の源泉を移す財政プランがないとそんな舵切りはなされないように思えます。
 対幕府へのポーズとしての官営貿易の空洞化と,私(密)貿易の利益の不透明化。
 この歪な両輪運営を前提とし,
【A】官営最大輸入品・公木(木綿)のフロー
【B】人参代吹銀の逆輸入
【C】③維新期の草梁倭館の状態
の3点を最後に各論的に探っていきます。

河内木綿の生産工程を描いた図
(上)綿の収穫 (下)出荷。「さおばかり」と呼ぶ道具で重さを調べている。
19Cには木綿は国内産業化されていた。〔原典:綿圃要務※〕
※大蔵永常・著,1833(天保4)刊

【A】公木(木綿)の行方は誰も知らない

 官営貿易中,クロス表では金融要素として除算した公木709束18疋(六銭715貫250匁又は717貫750匁)は,要するに朝鮮からの輸入代価専用「貨幣」だったと想像されます(→前注参照,実物は朝鮮製高級木綿)。
 広義の官営貿易規模1091束中,400束分は公木に交換されず直接米になり,鷹物※換分を除算した数値を田代さんは狭義の公木輸入額として算入していたわけです。
※朝鮮鷹は,オオタカの広大な生息地を持つ朝鮮からの貴重な鷹狩り用の鷹としてニッチながら重視されてきたと推測され〔後掲丸山〕,朝鮮側は恒例的に鷹を支給してきたところ,公木制時代には支給した公木で対馬側に自前で調達させる形になったらしい。

表3 封進・公貿易×輸出・輸入クロス表〔後掲田代1986〕
※マーカーは引用者(青:表内対照関係 上表2者計=下数値 赤:下表との対照(下表も同様) 緑:前掲官営貿易輸入額との対照)
表4 朝鮮米輸入全体構造表〔後掲田代1986〕

 ここで問題にしたいのは,対馬側に引き取られた公木709束※のその後のフローです。
※公木1束≒現代価値415万円 ∴709束≒30億円
(∵官営貿易実績 公木709束≒六銭715貫又は718貫 よって1束≒1貫で概算可)

 田代さんもこの点に疑念を持ったらしく,次のように整理されています。

17世紀末.これらの公木は,国内に送られずに倭館の蔵に留め置かれ,①私貿易市場において再度「輸出品」として朝鮮側に売られていたが,このころは②国内販売用として大坂へ輪送されていた(12)。
注(12) 宗家記録『大坂為登品之覚』対馬歴史民俗資料館所蔵〔後掲田代1986〕※丸付き数字は引用者

 ①は,とりあえず同時期の私貿易項目中には確認できません。また,確かに木綿は江戸初期以前は輸入品の比率が高い高級品でしたけど,やはり国産化が進み,②上方でわざわざ売る利があったように思えません。
 ①「再度『輸出品』として朝鮮側に売られ」る,つまり対馬側が「自由に朝鮮物品を購入する」行動は公木制上前提とされている以上,それは「密貿易」ではありません。これほどの巨額になると,例えば対馬府中藩が御用商人に委託して公木による輸入を図るのも自然です。その場合,御用商人の商取引は,財源の違いと委託関係を除き,密貿易商人と違いが見い出せません。
 この公木フロー(715or718貫)は,前掲クロス表中の「密貿易」列の売上原価数値(表中▲366)に流れ込んでいるのではないでしょうか?
 実は,当該売上原価数値は私貿易の荒・吹銀調達代価に準拠させていましたけど,幕府銅座で一元管理されている銅が密貿易に流入しえたとは思えず,矛盾がありました。朝鮮国内で通用し,公式には大阪で売ったことにすればよい公木(木綿)なら,いつでも密貿易に投資できます。
 これが正しければ,実際の密貿易規模の売上原価はクロス表の倍,つまり売上高又は利益ベースでも私貿易に倍する規模だった可能性があります。即ち,利益規模の官:私:密 比は0:1:2を仮想され得ます。
 これが現実だったとしても,特に悪質な意図によるものでないことは理解して頂けると思います。幕府や対馬府中藩がいかに厳格な姿勢を取ろうと,現実の経済ルールが,上記三区分の垣根をみるみる低くしてしまってたからです。

銅つながり:「熊本はどう?」熊本市公式移住情報サイト

【B】大江戸銀銅金融と対馬の暗躍

 この部分の詳細制度を理解しようとするとやや疲れるので,ご興味のある方のみ下記を展開して頂くとよい。
 銀・銅の流出を防ぐ幕府の金融政策は,ツギハギ状に積み重ねられる中,当事者の対馬府中藩や朝鮮側窓口もやむを得ない対応を重ねていく。その対応の蓄積が,本筋の「鎖国」政策そのものを実質的に崩す,端的に言えば「密貿易」に近いものになっていく情勢がよく分かります。
 この複雑な操作のために,官営「貿易」は金融取引に……語弊を恐れずに言えば堕していきます。元の制度が自由競争を前提としていないために必要となる,浪費的な操作です。
 説明対象数値としては,下記表銅価の推移のほか,官営貿易内の「人参代吹銀」輸入についてです。

参考記述〔後掲田代1986〕▼展開
図 輸出銅購入価格(100斤につき)文政2年〜8年〔後掲田代1986,宗家記録「御免銀銅小紐」(対馬歴史民俗資料館所蔵)より作成〕


【C】幕末まで存続した「衰亡後」の草梁倭館

 以下は前章で触れた書契問題(→前章)の発端となった維新新政府の新書契を対馬府中藩士川本九左衛門が釜山に届けた時の記録です。草梁倭館がまだ存在し,のみならず「館員整理」,つまり業務の無くなった者への帰国指示を行っていますから,この時点まで草梁倭館に要員が詰めていたわけです。

(再掲)戦前の釜山中心部の地図
「旧日本居留地」≒旧・草梁倭館の跡地ラインが戦前までくっきり残るのは,その実質的「衰亡」がほぼ無かったことを示しています。〔wikiwand/倭館〕
 しかも,この要員引き揚げの後の状況が面白い。翌年には「早くも東京や大阪の商人が朝鮮に進出し始めた」ため,朝鮮側は慌てて「にわかに潜商の取締りを開始し,5月からは兵士を動員し密貿易の取締を行なった」というのですから,東京から密輸人が押し寄せて釜山の港は急激に混乱を呈したのでしょう。
 つまり明治初年にすら,草梁倭館の海上保安は相当有効に働いていた,と推定せざるを得ないのです。

(資料)明治初年の草梁倭館運用状況 ▼展開



「府中絵図屏風」レプリカ第1・2・5・6扇(上)とうち府中湊(下:5・6扇上部)〔後掲長崎県立対馬歴史民俗資料館〕

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