015-6中山~戸坂\安芸郡四町\広島県onCovid

大内越を通りたかった

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

017、新幹線口(若草町)バス停。
 ここもまた……こんなバス停があったのか?というバス乗り場です。温品行きでもいいのかもしれんけれどGM.のお告げ通りの27番中山・戸坂東浄団地行きを待つ。
 晴天。いやまあ、彼岸も過ぎたのに凄まじい暑さです。暑さですのに、目指しましたのは中山踏切(中山小学校西→GM.)。
 ここは、三田往来と古代山陽道の交点に当たる場所です。

街道マップ〔後掲広島市/街道マップ〕

田往来
古代には高田郡三田郷(現在の白木町域)から安芸国府へ往来があり、安芸高田市の吉田郡山(俗に・吉田道)と三次支藩(俗に・三次往来・中郡道(なかごおり))への連絡道として、中世以来数多くの武家が駆け抜けました。
尾長の大内越峠より中山・温品・馬木・福田・小河原・深川・狩留家を通り、白木町三田地区から井原市に至ります。
江戸時代には狩留家からは、賀茂・豊田の各郡の年貢米が繰り出され、三田船=三篠川舟運により広島城下に運ばれ、内陸地域への重要な交通路ともなっていました。〔後掲広島市/三田往来〕

 三篠川流路も土地勘のない方には分かりにくいけれど、ほぼ現・JR芸備線の甲立駅(→GM.)から矢賀・岩鼻へ至るラインです。吉田城の安芸高田から広島市可部への谷から見ますと、一本南東の谷です。

内(おおち)越は明治以降のルートとする記述もあるけれど、それでこの名称というのは説得力に欠くように思います。ただ、何のために船を使わずこんな高所を越えて府中湾奥に至っていたのか、その点が理解しにくい。どうもこの矢賀・中山方面からの道の性格が分からない。なぜわざわざ陸路なのか?」──とこの時はまだ疑問に思ってます。
 これはもちろん、前章に記したように17C以前の太田川デルタが「不安定な街道」で、かつ水軍衆の跋扈する多島海だったからです。
──案内の見方がおかしいのか、一本逃したらしい。でも、是非とも大内越峠経由のこのルートに乗りたかった。
 29番のうち大内越峠経由のものもあり、これは中山踏切を通るらしい……と浮気心も起こしてるうち、27番がきた。1036、ようやく乗車。
🚌
宕神社は過ぎました。あ、ここから入るのか。ad愛宕町1。さらに左折。
 学校の東を通る。バス停・三本松というのはここでした。
 山根町郵便局。この辺りの地脈がどうにも読めない。次がバス停・大内越峠。そんなに深い山中ではありませんでした。
 1046、中山踏切下車。周囲にあまり古みは感じない、どころか建設中の高架下です。
 さてと。まずは芸備線沿いに南へ。

舟木第一踏切

男崎社から温品団地を眺めて

d中山西二丁目から南一丁目9。
 1052、吉田物産。
 舟木第一踏切、1055。石垣が少し残る。
 ここから道が線路を離れる。左手西側にそれらしき森山が見えてきまいりました。

男崎神社階段

059、ad矢賀三丁目8で左折。
 この鳥居は……adは左手が中山南一丁目10、右手が矢賀三丁目10。つまり一丁目と三丁目を分かつ位置です。男崎神社は境神でもあるらしい。
 南から伸びてる裏道も、ここでL字に折れて終わってます。
ビニールシートと乱積み石垣

れたビニールシートもある。災害の爪痕でしょうけれど……それを差し引いても、石垣の積みが複雑で乱積みというより無茶な野積みに見えます。
 社屋はコンクリ、ということは一度崩れて実用性を優先してます。本殿は木造のままで、かなり雄壮な造りでした。
男崎神社本殿

右の建物の雰囲気からは、「神域」をあまり意識させません。
 抜けるような空もあって、とことん日当りのいい感の神社です。
男崎神社狛犬と後背のマンション

社なし。つまりこの階段は、この神だけの段です。
──ただやはり八百万神の日本神道です。
祭神:帯中津彦(たらしなつひこ)命、品陀和気(ほんだわけ)命、息長帯姫(おきながたらしひめ)命
相殿神:奥津日子命、奥津比売命、言代主命、須佐之男命
 京都の男崎八幡(石清水八幡宮)からの勧請と伝わる。治暦年間(1065- 1069年)勧請とも〔後掲広島ぶらり散歩/男崎神社〕。
右側通行な男崎神社階段より温品団地

りがけに1113、温品団地方向を一枚。
 1126、水を買って舟木第一を東に渡る。いよいよ日差しは呵責ない。
 おや?団地だけど古いルートらしい水路があるぞ?
芸備線線路脇より

三日市からビリーザキッドの指す方へ

──東へ歩いていくと、えらく閑散としてきました。
 1133、ad矢賀五丁目1。線路引き込みエリアらしい。──JRの選択理由は、広島駅周辺でここが直近の一定面積以上の平坦地だったからでしょう。これは、中世の耕作地の選択にも通じたと思われます。

夏の団地

そらく……ここが三日市地点です。
 これは文政年間に編集された「芸藩通史」の村図に書かれる市※で、下図のCに該当するものと「船越から」は推定します〔後掲安芸の船越から/中世の温品村と矢賀村〕。 ※原典未確認
「三日市」推測地点(下記図上のD又はC~Dにまたがるエリア≒現新幹線引き込み地点)

掲「船越から」の推測は、史書※※の記述する「新堤」(中山川に13Cまでに築かれたと推測される堤防)の立地からの緻密なものです。

※ 安芸の船越から・・山陽道歴史探訪>中世の温品村と矢賀村
※※ 田所氏(国府(現・府中町)の国衙)所領を示した「沙弥某譲状」、1289(正応2年)
原文:温品村田畠・10町
小内・6反、船木口・8反、江良田・5反、黒谷・2反、天*・3反(*の文字は林の下に木)、手箱・6反、新堤・7町

新幹線線路引き込み地点 推定:三日市

 原典は田所氏(国府(現・府中町)国衙→前章Haken2-1:田所氏参照)を示した上記「沙弥某譲状」(1289(正応2)年)です。温品村に「田畠・10町」(≒316m四方)の土地を領したとあり、「船越から」が上図A〜Dのいずれかとする推測は妥当です。
 また「新堤・7町」の記述は、温品10町に並列しており、位置的にはDと推測されうる新田を13C末までに田所氏が拓き、耕地を7割ほど増加させたことを示します。
 こうした動静下で三日市が開かれたとするなら、その間の位置Cが市の場所とするのも自然と思えます。
ビリーザキッドの指す戸坂方向

リーザキッドの指の方向が戸坂らしい。けど……水路(府中大川)を渡れんなあ。
 1144、ようやく橋に出て、信号無視してバス停・中山小学校前に至りました。
 おおっ!こりゃまた何と、丁度昼飯時に!タイミングよくお好み焼きにありつけました。

絆心から稲生社の山へ

絆心の肉玉〔GM.〕

150絆心
肉玉辛麺、ネギ トッピング650
 ここだけの話、全くの通りがかりです。だけど結構な有名店だったらしい。1215、既に待ち客わんさか。
 さて、歩きの方はいよいよメインルート、中山峠越えです。待ち客には悪いけど地図を確認。──お好み焼き屋さんの東脇を小川(中山川)が通ってます。さっき北を邪魔した流れと同じものですけど、これが中山上、つまり戸坂方面への流れの発する東浄の溜池の2百m南まで続いている。そこまでが2km、そこから戸坂までがさらに2kmと距離そのものは大したもんじゃない。当面これに沿って登ってみよう。
 1233、旨かった。いい風が吹いてる。再スタート。
中山小学校西の水路沿い

239、分岐。右の道のみ登ってます。こちらだと思う。右へ。
 すぐに稲生神社。階段上がる。
 明治になって萬休寺(バス停・万休寺前→GM.、稲生神社東約500m)の上陵あたりから移転した神社とある。つまり、この山稜全般が聖地だったと想像されます。
稲生神社本殿〔GM.〕

永四年奉寄進」と刻されている石燈籠が存在していることから、安永4年(1775年)以前には建立されていたと推測されます。[中山稲生神社ペーパー]

 表記される祭神はとりとめがないけれど、地神と想像されます。
・土産之大神(うぶすなのおおかみ)
・大宮能賈神(おおみやのめのかみ)
・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
・大田命(おおたのみこと)
・大穴牟遲神(おおなむちのかみ)
・事代主神(ことしろぬしのかみ)

稲生神社裏手の階段

司不在の神社でしたが、温品の清水谷神社の宮司による毎月の神事を行い、「秋季大祭」は、町内会ごとに幟を立て、獅子舞によって一軒一軒の悪霊を除去し、村と家を神聖にしてから神様を迎える行事など、近隣の村々とは異なった神様信仰の文化が生まれました。[前掲ペーパー]

 つまり、やや独自色のある信仰圏を形成してるらしい。
 裏山から降りれた。ad中山鏡が丘7。元はこっちが正面かもしれません。というのは──

西側車道に出れません

稲生神社裏手階段を下から見上げて

d中山鏡が丘3の線路脇に、写真のような「奉納」柱。位置的に、線路が出来る前の稲生神社参道が疑われます。
線路脇の奉献石柱

多き沿線、1309。
 ただ線路の左に行けない。そのまま道は右山手に曲がる。
 住所表示通り、ここが中山鏡が丘の住宅地らしい(→GM.)。南北の枝道が線路に沿ってるから、明らかに芸備線が敷設された後の住宅ですけど、なぜこんな風に孤立させてるのでしょう?
花は多いが線路を渡れない

面の課題は──西側の車道に出れるのか?出ないと、鏡が丘から連なる団地群に入っていくしかなくなります。
 ad1から再び下る。惣田第一踏切で、ようやく左へ出れました。1316。
 こんな感じのパッチワーク的な地域が多いのも、中山域の特徴でしょうか?

中山峠から戸坂川へ

中山上付近の車道沿線

d中山上一丁目3。
右に線路、左に水路。
渡ってから何だけど……集落は右側の方が古そう。ただ、これらの集落には車道側との連絡路がなく、団地を通るしかないことになります。繰り返しですけど……なぜこんな配置なのでしょう?
 バス停・中山上町。
 1322上町一丁目1。2百mほど先がトップになってる。左右とも団地。いや?左手に小さな祠がある?
石佛社のロック付祠

佛社。ロック付の神様ワンルーム。
 中山まちおこし委員会の看板によると、明43稲生神社に合祀、しかし大正中頃に現在地近くに遷されたという。戻った、とは書かれないし不思議な行程です。
1334トップ間近

330、ad中山北町、バス停同名。
 1336、バス停・第一病院前。トップのセブンで一服。
 暑ッ!
石垣が残る戸坂側路地

346、車道右側へ。側溝に、結構石垣が残ってます。
 1350、バス停・戸坂南二丁目。右の路地が川道っぽいので折れる。ad戸坂大上(おおあげ)四丁目30。
 流れは結構な急流です。
大上の流れに沿って

上三丁目3。いい沿線になってきました。
 蛇行しつつ下る。
 この辺は、車道の左手が団地になってます。対する右手は対照的に、落ち着いた町が続きます。
石段の残る路地入口

芸備線沿いに降る日射

403、三丁目1。ファミリー菜園。
 1405。道が線路の下を左手車道へ抜ける。くぐらずに線路右を直進することに。

戸坂直進路。農村っぽい光景

れ?右手から流れが来た。線路の西で戸坂川に交わる支流です。
 細い道ながら自転車や原チャも多い。中山側の団地道のイメージが強く腰が引けてましたけど……抜けれるはずです。1414。
花多き戸坂直進路

415、戸坂数甲(かずこう)二丁目5。──何ちゅう地名じゃ?武勇譚の残る土地としても「数」とは何のことでしょう?
戸坂直進路に降る日射

の花の多い道、石垣もちらほら顔を見せる。結構古道ではないか。水路の古さも半端でない。
 ただ線路の東沿い、という点だけ取れば、芸備線を道に合わせた可能性は低いわけで、明らかに芸備線より新しい。
がっちり石垣を組んだ水路

字。
 右手には、やっと西へ線路下を抜けるゲートが見えてます。自然に右折西行──しかけたけれども、目的地・三宅神社は左折東行です。初志貫徹。
──ただこの道をまっすぐで、三宅神社常夜燈という安政六年(1859年)銘のある灯籠があったらしい。頑迷固陋。
くぐらなかった線路下ゲート

424、あかしあクリニックが見えた。ここだと思う。右折、山手へ。
 さり気ない細道ながら、上下左右に微妙に揺らぐ道。
奉納石柱の路地へ

427。奉納柱の路地へ左折して入る。
 1429、三宅神社。何だか、集落を隠れ蓑にしているような立地です。

三宅社という磐境

三宅神社(〒732-0017 広島県広島市東区戸坂数甲2丁目2518)位置〔→GM.
三宅神社南側入口

緒に曰く──

祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと 応神天皇) 帯仲彦命(たらしなかつひこのみこと 仲哀天皇) 息長帯比女命(おきながたらしひめのみこと 神宮皇后) [相殿神]天照大神 大己貴神(おおなむにのかみ) ほか合祀五柱神
(略)
創建ははっきりしないが、旧記によれば明徳三年(一三九二年)に八幡三神を勧請したといい、さらに文禄三年(一五九四年)に再興、天明七年(一七八七年)に再建(略)この一帯は八幡山と呼ばれている。往時の鎮座地は南参道下あたりにあり神仏習合の時もあった。いつの世にか現在地へ遷座したという。(略)氏子地域は大上、数甲、山根、惣田、出江の五迫と百田(南)、東浄団地などである。
当神社が勧請されるまで、戸坂一円は狐爪木(くるめぎ)神社の氏子であり、狐爪木神社の兼務社としてお守りしている。[故 木村八千穂宮司記、奉献 ハウスバーンフリート戸坂住民一同 平成19年4月吉日]〔案内板〕

 最後から読むと、狐爪木神社は約1km西、太田川岸に近い宮です。この宮の周囲にも、やや不鮮明ながら古い円周路地が存在しているようです。
 三宅神社と相似を成すこの形状について、同神社HPはこう記します。

 本社は上古、弥生時代の祭祀形式である磐境(いわさか:石を丸い形に囲んだ祭場)による祭事であった。
 相殿に祭る志那都比古神、事代主神の二柱を勧請したのは、貞観二年(860年)=平安時代で、故事をひもどくにつれて、上古、この一帯は海であったことが実証されるとともに祭神との因縁の深いことがわかる。まだ海波がただようころ、まず風伯の神を祀り、神社を中心にして集落を生じ発展していったものであろう。〔後掲狐爪木神社/由緒〕

 なお近い内容は角川にもあります。

狐爪木神社は当村および太田川対岸の東原・西原両村の氏神で,祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后,相殿に風伯神・事代主神。相殿の2神は貞観2年鎮座。安芸国神名帳にも「風伯明神」が見える。〔角川日本地名大辞典/戸坂(近世)〕

 磐境の形状については「丸い形に囲んだ祭場」と決めつけるのは、やや偏向している危険性があります(巻末レポ参照)。形はともかく「囲った聖地」という感性が磐境だとすると、他地の原初神道のそれと、戸坂の狐爪木・三宅両神社のそれが通底してきます。
 戸坂の場合に面白いのは、そこに海神の由緒が絡んできてることです。上記狐爪木神社の記述に加え、両神社とも八幡社です。

狐爪木神社及び(東原)瑞穂・(西原)冬木神社の位置図

宅神社の由緒に戻ると、狐爪木神社の「兼務社」だった旨が記されます。前述の形状からはゼロから勧請したのではなく元々何かの聖域だったと考えた方が自然ですけど──戸坂川支流のこの地は何を宿す土地だったのでしょう?
 狐爪木神社の記述〔後掲狐爪木神社/ホーム〕には「戸坂一円と東原(瑞穂神社)が氏子で、かつては西原(冬木神社)も氏子であった。牛田新町の自在坂神社(猿宮)もお守りしていました。」とある。太田川水運をイメージさせます。この地域の水軍衆を信徒にした、とも考えられますけど、瑞穂・冬木両神社(前掲図参照)には狐爪木・三宅両神社のような円周の道の痕跡は見当たりません。
三宅神社北側参道

へそのまま抜ける。
 車道から北へ行けるはずだけど……道を見ない。勘のみで路地へ、ダメ元で入る。1450。
 ad戸坂山根三丁目11。
旧家な立地の家構え

垣は物凄く増えた。けれど北への道がない。
 1455。三丁目16でやっと道が開けた。左折北行。
 あ!太田川が見えました。

戸坂駅への渓流を下る

太田川を望む

d戸坂惣田二丁目12。1504。
 完全に団地エリアですけど……売れてないのか緑地がポツポツ。道もくねり石垣もある。奇妙な土地です。
緑地の残る半団地

西へ降りてみたけれど──駅に出れない!
 上の道まで戻って、も一つ北へ。1511ad二丁目9。
戸坂駅東側(惣田二丁目)からはなぜか線路西に出にくい。
線路に出れずに歩く戸坂山手道

車の汽笛と停車の音。でも乗れる場所まで行けないよう。
 とか言ってるうち渓流を見つける。今度は方向は間違いない……はず!路地を下る。
駅方向へ下る水路

520。完全にハマってしまってます。
 と?名も掲げないお堂?確実に古そうですけど……GM.の若宮稲荷がこれなのか?
 え?西に鳥居?

路地奥に隠れる戸坂駅

水路下に現れた名を掲げないお堂

車が広島駅方向へ去るのを見るけどもう気にしない。1522。
 謎の鳥居を抜けて──とうとう駅!
駅へ続く謎の鳥居

り口側はad戸坂惣田一丁目17。──のはずですけどなかなか見えてきません。
 あ?ここなの?
 かなり山際にある駅なのでした。集落の背後に隠れるような位置です。
平地側からは山手路地奥に現れる戸坂駅

論、バスならサクッと帰れる。でも……芸備線に乗るのは物凄く久しぶりなので、乗ってみたい頭になってしまってます。でもワシは鉄ちゃんではない。
 1542発で南へ2駅、広島駅まで乗車することに。
 さっきの鳥居付近をGM.でよく見ると「重氏稲荷大明神」と書いてある。あのルートのどこにあったのか定かでないけど……。
 あらら?下校時間らしいぞ?そうか城北があるのか、ここ。
🚈🚈
車。す、涼しいッ!!
 5分強で矢賀に着いて、悔しい。
 でも芸備線がなぜ矢賀→戸坂というS字を採るのか実感できます。しかもこの駅間はかなり山手を通ってる。それをあえて敷設したのは、鉄道敷設時期から相応の集落の密度があったからでしょう。
 1555、広島駅着。

■レポ:原初神道の推定される祭場概念──「囲う」行為

 狐瓜木神社と三宅神社に関し用いた「磐堺」(いわさか)という宗教・民俗用語は、神道上はかなり意味がブレて、各論者が信じるままに用いている気配があります。
 そこでとりあえず、神道でも認めざるを得ない原典・日本書紀に戻って確認します。

高皇産靈尊因勅曰「吾、則起樹天津神籬及天津磐境、當爲吾孫奉齋矣。汝、天兒屋命・太玉命、宜持天津神籬、降於葦原中國、亦爲吾孫奉齋焉。」〔後掲日本書紀について/日本書紀 巻第二 神代下〕
高皇産霊尊(たかひむすひのみこと)は勅して、
「私は天津神籬(あまつひもろぎ)(神が降臨される特別な場所)と天津磐境(あまついわさか)(高い岩の台)を造りあげて、皇孫のために謹しみ祭ろう。天児屋命と太玉命は、天津神籬をもって葦原中国に降り、皇孫のために謹しみ祭りなさい」と言われた。〔後掲日本書紀・現代日本語訳〕

 沖縄神道での「イビ」(イベ)は御神体と聖域を共に指すけれど、書紀では──

「神籬」※読み:ヒモロギ
 ※用字:磐倉/岩倉
 =神体・依代 →榊?
 ≒多くの場合は岩
「磐境」※読み:イワサカ
 ※用字:磐倉/岩倉
     =神奈備?
 =聖域 →注連縄?
  →「鎮守の森」?
 ≒多くの場合は平坦地

と観念されているらしい。「岩」や「平坦地」を標準とする点は、沖縄神道(神体:岩陰や樹、聖域:森)と差別化されますけど、これは単に自然環境の違いとも思えます。

半世紀前の学術調査で撮影した写真を基に、3次元で復元した沖ノ島21号遺跡(岡寺未幾さん提供)〔後掲西日本新聞me〕

考古学的に磐座が明確になるのは古墳時代以降で、沖ノ島遺跡(福岡県)や、天白(てんぱく)遺跡(静岡県)、三輪山麓の三輪山ノ神遺跡(奈良県)などがあり、巨石の周囲からさまざまな祭祀に用いられた遺物が出土する。〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「磐座」←コトバンク/磐座〕

 例示されている地のほとんどが禁足地で写真撮影も厳禁らしい。三輪山の場合、大神神社神地課選定の典型的磐座が26ヶ所マップに記されています〔中山和敬(大神神社の宮司)「大神神社」<改訂新版>1999年←後掲三輪山の磐座群と周辺の岩石信仰〕。うち画像のあるものを二柱挙げます。

山ノ神遺跡の磐座〔(上)wiki/山ノ神遺跡 (下)後掲奈良の宿大正楼〕

 何れも方形の聖地で、沖縄のような自然状態でも、狐瓜木神社の記す円形でもありません。方形か円形かについては、あまり定説がないようです。

その実態については二、三の説があるが、祀(まつ)りのため随時設けた小規模な石囲いの施設と推定される。(略)石囲い施設には円形と方形とがみられるが、用法上の区別は明らかでない。〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「磐座」←コトバンク/磐境〕

 素人的に観念すると、沖縄神道と日本のそれの根本的な違いは、囲う前者では自然状態として拝む者より先に在り、既に神聖だから囲う、という場所が聖域であるのに対し、後者では拝む者が囲うことによって●●●●●●●●聖域になる、あるいは現前化させるという感性の差があるように思えます。
 もう一つ、囲う形である円又は方形です。これは古墳の形状に通じているように連想されます。埋葬という行為もまた、遺体を埋めることによって聖域を作り出す行為でしょうから、先述の「囲う」という宗教行為の対象になり得るのでしょう。