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観光ホテルの山手まで

内に前田食堂のにんにくソースの熱を宿したまま、原チャは北西へ。海沿いの低い丘を越えるとホテルリゾネックス名護。
 対面に駐車。天空はドロドロと曇るも雨は落ちて来ない。

安和集落から海上の黒雲

入端御嶽
〔日本名〕名護市山入端(ホテルリゾネックス名護北対面)
(沖縄戦時:米軍上陸時、住民は阿楚原山中に避難するも4月初旬には収容所へ)
〔沖縄名〕やまのはうたき、やんばーうたき
〔米軍名〕-(第29海兵隊第3大隊発進地付近)

445山入端御嶽。バス停・ホテルリゾネックス名護の裏。
 平地の社の右脇から、ブロックの段が上へと続いてます。
 登ろう。

※気付かなかったけれど、他ブログの記事では、ここの鳥居はお宮に向けて神社名の銘があるという〔後掲沖縄てくてく歩記〕。
奥宮への階段

聖域です。

。内部には縦長の神石一つ。手前に何かを焼いた跡がある。
 後掲沖縄てくてく歩記さんの見立てでは、この奥に「裕光」と書かれた額があるという。「裕仁」との繋がりでしょうか?

奥宮

りは原生林。
 聖域です。
 左右後方ともに随神はない。ぽつりと単独で高みに祀られてます。
奥宮の森

向は西面、即ち海を望みます。
 明治、もとい。琉球処分後に流入した士族らが故郷を望む方向に、この祠を建てたようにも思えましたけど──巻末参照。
奥宮階段からリゾートホテル付近を見下ろす

安和クバ御嶽の子宫

西へ600m。安和の集落に入る。家並みには特に特徴がない。
 第一安和十字路の一つ先、「いずみがー弁当」の十字路を右折北行、山手へまっすぐ行くと小高い丘にぶつかり三叉路になる地点でした。
 1503。安和のクバの御嶽。

クバの御嶽前の集落風景

和のクバの御嶽
〔日本名〕名護市安和484
〔沖縄名〕あわのくばのうたき、むらのふさてぃ、ふばぬたきばん
〔米軍名〕-(第29海兵隊第3大隊発進地付近)
〔後掲名護・やんばる大百科ミニ〕

こにある大岩を神体(イベ)にしている模様。
 他のブログにさらに奥に入る記事もあるけれど、ここから先には立ち入るべきではないように感じます。素朴ながら、本物と感じる御嶽です。

クバの御嶽

の後方の穴というか、ベランダというかの形が面白い。
 記号論者なら、子宮をイメージするのではないでしょうか。

八重岳-安和クバ御嶽ライン

本殿後方の穴

の真下にも二箇所焼香壇がある。ただ焼いた跡はない。
 斎場御嶽を連想すると、過去にはここが信仰の中心だったかもしれません。清掃はしている形跡があるので、現在もそうなのかもしれない。
 帰路につくと日照。
御嶽後方の祭壇二柱

和のクバの御嶽のイビは、この岩の後方のクバ(ビロウ)の森全体で「村の祖先神を祀っ」ているという〔後掲名護・やんばる大百科ミニ〕。
 地図で確認すると、この時訪れた祠の北方300m程が森になってます。これが御嶽。その方向、真北に八重岳の高みが位置します。安和集落から、もしかすると海上から見ると、神聖な景観だったものと思われます。
安和のクバの御嶽位置図(航空写真)
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パイ工房初食

護市長選挙が近いらしい。市内に帰ってきたら、実質的な選挙公報カーが大声を張り上げてました。
 これを追い抜いて……さて、スイーツタウン・名護探訪です。
 地図を広げて行程を作る。まず、パティスリーボンシャンス(宇茂佐の森一丁目17-2)を目指したけど──閉まってました。
 そこでその横手、ローソンから入ったこちらへ。──名護は不思議な構造で、アカギ通り半ばのここ(→GM.)からの何気ないT字路が名護十字路までを貫く基幹道でした。
1530パイ工房おしゃれ
アップルパイ200

ホントに旨くてあっという間に食べて、撮るのを忘れてたので──GM.掲載のものから。

多餃子大の小さい小さいパイが、ドイツのパン屋みたいな感覚でどろどろと置かれてます。これをスティックで取っていく。1個60円なので気楽です。
──後で食べてホントに驚く。何だこのパイ生地は?硬さからするとほとんどパンかクッキーのようです。ただサクサク感は……くっきりと残っている。味覚もクッキーじみてるのに、やはりしつこくない軽みがあります。
 この後、何度も通い、うち結構幾度もフラれてきたお店の初食でした。

辛くないマスタードビーンズクッキー

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護十字路方向へ直進。
 昨日見かけた「和洋菓子の店 ヤマカワ」(大南ニ丁目12-18)を通るも──閉まってました。
……こちらは後日も何度もトライして、その度に閉まってまして……不定期度が非常に高い名店でした。
裏道歓楽街

こでこの裏道、カレーハウスたんぽぽの近くへ。この辺りは初回の歩きの時に気に入ってたから、少し記憶にあったんだけど……やはり土地勘という程のものはありません。
 どこだ?目的地「caramel cafe」は?──地図を睨むと、どうも路地奥らしい。でも看板はおろか、入口も見つからないぞ?
 ダメ元である路地を入ると──あれ?ここか?民家の軒先じゃないの?
1545caramel cafe
マスタードビーンズのクッキー200

初、軒先の商品だけ見えてまして……でも売り子がいない。あたふたしてたら、奥からお姉さんが出てこられました。
 見てると不思議なのに気付く。お姉様曰く──
「マスタードをクッキーに入れてみたんです、いや辛くないんですよ」
 結構真顔に説明する。シェルと同じく……真摯な菓子造りの女性が多いんでしょか?
ここへは迷って着くべきだと思う。だから住所や目印は書かない。

酔うようなマドレーヌ

ちらは安心して、最後に参りました。
1600(城一丁目4-11市営市場内)なかむら製菓Nakamura Seika
マドレーヌ200
 宮城製菓と対面してるお店。くんぺんなど法事琉球菓子から洋菓子までを置いてる、内地には絶対ない、でも長崎の万月堂とかにはちょっと近い不思議な雰囲気の店です。

名護市営市場内の中村製菓

ルトにも惹かれますけど……おばちゃんが出してくれた試食で食ったこの品の──やはり好い意味のアメリカンな味覚に転んでしまいました。
 酔うようなマドレーヌです。
 しつこくもないのに、軽く軽く跡を引きずる甘み。
 
 26日の沖縄県内感染者21人。
黒雲夕暮れの名護十字路

■レポ:本部半島の沖縄戦(兵団戦)

 北部の沖縄戦は速やかに終了した、と軽く書く記述が時々あるので、特に記します。
 三つの点で間違いです。一つは、米軍が圧倒的だったからこそ山深くに逃げ込んで出るに出れなくなった住民があること※。二つには、当初からゲリラとして組織され戦い抜いた護郷隊の存在、これは別途深掘りします。残る一点は、初戦でも残存拠点では極めて激しい戦闘があったこと。

※昭和20(1945)年3月23日以降の空襲で、名護町民のほとんどは山中深く避難した〔後掲総務省/名護市〕。

 北部にいた両軍は、日・大隊と米・師団です。独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊)に対し、米軍は第6海兵師団を主力としました。つまり海兵隊です。
 4月15日になっても、伊江島と本部半島山岳部だけは未だ完全制圧されていません。

沖縄戦の戦闘経緯(沖縄県平和祈念資料館より提供)〔後掲沖縄市役所〕

 制圧されていない、というより北部の日本軍は集団としてはこの二箇所にしかいなかったようです〔後掲沖縄市役所〕。米軍は4/13に辺戸岬に達し、その日から日本軍を初めて相手にした、という感じです。4/11頃から砲撃は開始していたけれど、地上部隊の進撃はこの日になってからで、これはかなり正確に日本軍の配置を把握していたからとも想像できます。

 安和方面から第5中隊第2小隊が守備する安和岳地区に米軍の一部が進出してきたが、交戦1時間の後に撃退した。第5中隊長は予備隊の船舶工兵第26連隊の山形小隊を安和岳の第2小隊の右に増援配置した。また歩兵砲中隊は米軍砲火の合間を見て終日射撃をおこなった。
 宇土支隊長はこの日、乙羽岳ならびに302高地の第3遊撃隊(第1護郷隊)第3中隊ならびに県立3中生を中心とする3中鉄血勤皇隊を八重岳に移動させ、3中鉄血勤皇隊を各隊に配属させた。〔後掲棒兵隊 4/13戦況記述〕

 善戦しているような記述ですけど、八重岳に後退してますから戦線は崩壊したっぽい。
 沖縄北部に唯一配備された国頭支隊(支隊長:宇土武彦、通称「宇土部隊」)は、前年1944年10月に伊豆味に本部を置いてます。宇土支隊長が「ほとんど毎日のように酒色に耽(ふけ)っていた」とか、「われわれが勉強していた公民館も慰安所になった」とか様々な醜聞を残しつつ〔後掲琉球新報デジタル/山の戦争(19)〕、半年近く駐留した伊豆味をこの日抜かれ、乙羽岳からも撤兵して八重岳に兵をまとめてる。

伊豆味位置図

十三日正午ニ至ル地上戦況
 国頭方面ノ敵ハ逐次国頭支隊主陣地帯ヲ包囲スルノ態勢ヲ整ヘツツアリ 当面ノ敵ハ戦車操縦使用困難 山地ハ軍犬ヲ使用シ捜索ヲ周密ニシテ慎重前進ス
 尚老幼者多ク戦意大ナラサルモノノ如シ〔戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』←後掲棒兵隊〕

というのが首里の32軍記録ですけど、翌4/14には北部最大の激戦とされる伊江島攻撃が始まるわけで、急変する戦況の全体像は誰にも把握出来てなかったのでしょう。

〔後掲シリーズ沖縄戦〕Dive bombers operating during pre-invasion bombardment, Ie Shima, Ryukyu Islands. Taken by USS TEXAS (BB-35). Speed Graphic 15” lens, 1/200” F6.3 K-2 Filter. 伊江島上陸前の急降下爆撃の様子。戦艦テキサス(BB-35)から撮影。15インチレンズ付きのスピード・グラフィック・カメラで撮影。(1945年4月14日撮影、写真が語る沖縄、沖縄県公文書館)

 米軍は三方から本部半島を攻めています。
①名護市世冨慶海岸上陸→半島を時計回りに包囲進撃
②呉我海岸上陸→湧川
③屋部海岸上陸→本部町伊豆味
 宇土部隊が多野岳(→GM.)、つまり本部半島を捨て転戦したのが4/22ですから〔後掲総務省/今帰仁村〕、本部半島の集団戦闘は1週間で終結していますけど……この状況での1週間は凄まじい抵抗戦を戦っていると思います。
本部半島における米第6海兵師団の作戦経過概要図(昭和20年4月9日〜19日)〔後掲棒兵隊〕※米軍戦史「最後の戦い」挿図第18要説

 4/14付けの米軍戦況図が下図です。ちなみに南側の「(RES)」の☒ボックスが記されるのがこの日訪れた山入端から安和集落付近。
6th MAR DIV ADVANCE ON MOTOBU PENINSULA 14 APR 45〔Chapter 06 | Our World War II Veterans←後掲シリーズ沖縄戦〕

 八重岳中腹にあった八重岳野戦病院(沖縄陸軍病院八重岳分院→GM.)を称する施設は、実際は掘っ建て小屋であったという。八重岳での一週間戦で担ぎ込まれた負傷者は、麻酔が足りず、意識があるまま手術されたともいう。この病院で各自に手榴弾が配られたのが4/16〜17だったという〔後掲本部町立博物館、NHKアーカイブス/八重岳の野戦病院壕〕。沖縄戦での銃後の集団自決としては、ごく最初のものではないかと思います。
 現在は、平和学習に多用されています。
第6海兵師団の歩兵が山の頂上で八重岳を臨み、砲兵が日本陣地を砲撃する。
HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 6]〔後掲シリーズ沖縄戦〕

シャプレイ大佐の率いる海兵3大隊は、4月14日、八重岳の東部を攻撃し、夕方までには山の第一稜線を完全に確保した。ここでは退却する日本軍が機関銃や小銃で撃ちまくってきたが、その数はたいしたことはなかった。だが、日本軍は海兵隊の行動をよく観察していた。接近路を機関銃や迫撃砲で待ち構え、いつもの戦法で、二、三の部隊を素知らぬ顔で通過させ、その背後から射撃してくるのだった。
〔「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 134頁←後掲シリーズ沖縄戦〕

 どの資料にも正確な人数は記されないけれど、先に日・大隊vs米・師団の戦いと書きました。日本軍の大隊は標準560人編成〔wiki/大隊〕、米軍海兵師団は現・第一師団が16千、戦時の師団規模が2万とされます。ただし、現地徴集の増員なのか、八重岳の日本軍は3千という数字もあります〔後掲NHKアーカイブス/清末隊陣地壕〕。
 日本軍を最大、米軍を最小と見積もっても5倍の兵力差です。今机上で分からん程だから当時空の米軍には、目の前の山深い山岳にどれだけの日本兵が潜むか、まるで見通せなかったでしょう。
 それで本部半島山中に激戦を経た後、名護5km東の多野岳に移動、おそらく国頭丘陵部でゲリラ活動を続ける護郷隊群との合流を図ったのでしょう。既に米兵で溢れていた現・名護市域や収容所の設置された田井等を、南からの避難民に紛れて移動したのでしょうか?

北部の沖縄戦と護郷隊〔wiki/護郷隊〕

※原典 防衛省・自衛隊 沖縄防衛局 北部訓練場(28)過半返還に伴う支障除去措置に係る資料等調査資料等調査報告書 平成29(2017)年12月
独立混成第44旅団第2歩兵隊(宇土部隊)の戦史資料〔後掲琉球新報デジタル/山の戦争(44)〕

■レポ:山入端小史

 まずこの三文字の地名が読めませんでした。当時も読めずに訪れてます。
 通常「やまのは」と読むようです。ただ下記「高究帳」は「やまによは」、「由来記」は多分「やまにょうは」か「やまじょうは」と読む。「やま」と「は」だけが固定で、その途中が流動している特異な音です。

近世の山入端は、名護間切に属し、「絵図郷村帳」と「高究帳」には、「山によは」と見え、「由来記」(1713年)には「山饒覇村」とある。「高究帳」に見る石高は、安和と一緒で18石余り(田14石余、うち永代荒地5石余含む。畠は4石余)で、名護間切では一番石高が少なく、また畠の比率が高い村であった。〔後掲Nagopedia/山入端〕

 上記末尾の「畠の比率が高い」とは、最も地味のない土地だったことを意味するでしょう。
 これが古・山入端原から現・山入端への移動の前か後かが分からないけれど、書き方からして後、つまり現・山入端のことだと思われます。

※角川のみであるけれど、方言で山入端を「やんぱー」と読む〔角川日本地名大辞典/山入端〕とある。また史料「当時用候表」で山饒波村と記す〔角川日本地名大辞典/山入端村(近世)〕ともいう。

古山入端原から新山入端への移動

山入端が、故地である古山入端原から現在地に移ったのは、1737年のことである。「球陽」の尚敬王24年の記事「察法司、諸郡の山林を巡見して、村を各処に移す」の中で、その村の移動のことが述べられている。それによると、当時の国師蔡温が、山林保護のために、名護山林内にあった山入端村を安和兼久に移したというのである。〔後掲Nagopedia/山入端〕

 古・山入端原は、よく分からない。「昭和18年(略。中山は)隣の旭川と共に分区独立した。それまでは、(略)古山入端は屋部・宇茂佐・宮里に属していた」〔後掲Nagopedia/中山〕とあることからすると──

古山入端原(推定)と現・山入端の位置関係

──上記緑囲いの辺りだと推定されます。
 でも、前章【補論】なかやま 中山 亡国の移民団末尾で触れましたけど、中山域内7班のうち1〜5班がフルヤマヌファバル(古山入端原)とされること〔後掲Nagopedia/中山〕からすると、現・中山の少なくとも南半分は古山入端だったようにも思えます。

※集落の読みの観点に戻ると、この「ふるやまぬふぁばる」音を最古の読みと考えるのは一定の説得力がありますけど、前掲由来記の「山饒覇村」字(→前掲)と併せて考えると「山の覇」の可能性があります。「覇」は単独の中国語では、横暴なボス・顔役・盟主の意味の漢字です。

 球陽に記される移動理由は、今帰仁に頻発した報復的移動〔後掲高橋〕ではなく、蔡温の山林保護政策によるものと読むのが通説らしい。原文「察法司、諸郡の山林を巡見して、村を各処に移す」が、なぜ蔡温による山入端集落の移動と確証を持って読めるのか、原文に当たれず自信が持てませんけど──ひとまず通説に従います。蔡温の山林ほ策は、「環境保護政策」と捉えられ、やや強権的なものが多い蔡温の政策中では極めて好意的に評価する論者が多いものです。
 ただよく考えると──既存集落を他地へ強引に移動させることが、なぜ山林保護に繋がるのか、ちょっと奇妙です。例えば当時の中山に、木材伐採で生計を立てる集団があり、移動後の古山入端原が植林された、という事実があるのならその認識と整合します。でも後の中山域内1〜5班が古山入端原だったわけですから、そこは山林でも植林地でもなかったはずで、矛盾があります。
 続けてNagopediaを読みます。

また、言い伝えによると、初めは屋部ウェーキの岸本親雲上の計らいで、名護兼久にその移住先を定めたが、住民の反対にあった。次に宇茂佐兼久を選んだが、そこでも住民に反対され、やっと落ち着いた所が現在の安和兼久だという(名護六百年史)。〔後掲Nagopedia/山入端〕

 即ち、受入れ先選定が酷く難航したと伝わります。上記三箇所とも「……兼久」ですけど、兼久は沖縄古語で海浜・砂浜を指します〔後掲沖縄の裏探検〕。現用字「山入『端』」と同様に、語感的には「不要地」に近いと思われます。これらに、先に挙げた「山の覇」説を考え併せますと──古山入端原には近世北部において、何らかの理由で疎まれた(横暴と怖れられた)集団が居たけれど、(蔡温の山林保護以外の理由で)政治的に圧迫されて18C前半に故地を追われた、と解釈できる可能性があると考えます。
 この点を補強できる材料としてもう一点、中山の小字名として「古山入端原」(ふるやまぬふぁ)と「新山入端原」(しんやまのはばる)が並立していることです〔後掲Nagopedia/中山の小字〕。単に移動したなら現在のように、何れか一方が「山入端」と呼ばれ、もう一方は「山入端」ではなくなるはずです。新xxと古xxが並立するのはどちらもがxxだった時期があった、というのでなければおかしい。
 逆に「古山入端原」地名が「ここはもう山入端集団が住んではならない土地である」という強い含意を宿している……とも考えられます。ただその場合は、普通は忌まわしいその古名そのものを消したいと考えるのではないでしょうか?でも山入端は新旧が並立していたのです。

追放されたのか? 進出したのか?

 現・山入端への移動当初、戸数が7戸だったという伝え※があります〔津波高志「沖縄国頭の村落」新星図書出版,1982←角川日本地名大辞典/山入端村(近世)〕。

※津波高志さんは(2024年現在)琉球大学法文学部教授で社会人類学・民俗学専門。原典で確認できていないけれど、分野的に史料からの引用ではなく、伝承収集によるものと推測しました。

 この「7戸」も、古集落から移動したならあり得ない数字です。

ところが、その移住地は水利が悪く、田を造ることができなかった。ただ、集落の東、潮平川原の海岸には潮平川という湧水があった。1875年、山入端と関わりの深い世冨慶の岸本寿照が地頭代に就任した時、その潮平川の湧水を利用し、潮平川原の低地に田を造る計画を立て、翌年小規模ながら田を見ることができた。しかし、当時の技術では水位の調整やダムの水漏れを防ぐことができず、やがて荒廃していった(前掲書)。〔後掲Nagopedia/山入端〕

「潮平川」という川は見つかりませんけど、現在に至るまで「潮平川湧水」(すんじゃがーゆうすい)という、嘉津宇岳一帯をかん養域とする豊富※な湧水が知られます〔後掲環境省/沖縄県の代表的な湧水〕。環境省サイトによる所在地は名護市屋部736-2(→GM.)、これは山入端御嶽やリゾネックス名護より500m名護寄り、前章本文末で3枚の海の写真を撮った地点です(→なごみなとぅ 名護湾)。

※名護市水道部は1982(昭和57)年に潮平川取水ポンプ場を築造〔後掲環境省/沖縄県の湧水把握件数〕。つまり、現在、名護市の水源にも活用されています。

潮平川湧水位置図

 水資源がタダな感覚のヤマト内地と異なり、湧水を知る者には非常なる益地です。
 第三点目として、これも前章で掲げた名護湾の海底地形図を再掲します。
(上)沖縄本島北部 (下)名護湾 の水深〔後掲釣りナビくん〕

 同じく潮平川湧水の地点が、陸近くに深い水深を持つ場所であることが分かります。この場所を「アサシキナ」と呼んでいたと、角川は記します。出典不詳てすけど、おそらく水難記録に記されたものでしょう。

1813年、屋部村の地船が北谷沖で遭難しているが、その船が出帆したのが潮平川原の前のアサシキナという海岸であった。屋部の遠浅の海岸に比べ、その海岸は深く船が着けられるようになっていた。また、通難した船には山入端村の大文子・仲村渠仁屋が乗船していた(前掲書)。〔後掲Nagopedia/山入端〕

「大文子」というのはあまりデータがヒットしないけれど、琉球の役職らしい〔後掲粟国アーカイブス〕。
「仲村渠仁屋」も不詳ですけど、1664年に尚質王が康熙帝即位の慶賀使とした恵祖親方の船が福建・閩江で海賊に襲撃される事件に、金壷の盗人として登場する名です〔wiki/北谷恵祖事件〕。時代が違うので、海賊の頭領の襲名の可能性があります。
 一例のみの記述ですけど、つまり山入端の住人は、そこを海洋拠点とした海民だったかもしれないのです。

古島から移動後も,羽地間切古我知・我部祖河【がぶそか】・伊差川の3か村にかなりの土地を有したらしい。夫地頭・掟の2役が置かれたのは,村が裕福であったためといわれる(名護六百年史)。〔角川日本地名大辞典/山入端(近世)〕

 これらの点を繋げると、山入端の集団は中山・古山入端原から「追放」された難民だったとはとても考えられない。むしろ現・山入端から潮平川湧水付近に「進出」した。それは少なくとも水資源と大型船舶停泊地たりうる益地であることを、認知しての行動でしょう。この移住地は多くの陸人からは愚かな選地に見えたけれど、新山入端は謎の財を生み、羽地から伊差川に広大な所有地を持つに至った。
 前記では再び我部祖河の地名が出てきてます。前々章で見たハニジターブックヮの近世農業振興(■地名レポ②:がぶしか 我部祖河 からの眺望)の財源、それ以上に先進の発想力は、山入端集団のさらなる再投資の結集だったのかもしれないのです。

全てが分からない山入端

 では「球陽」1737(尚敬王24)年記事は何だったのか、と言えば、整合的な解釈としては、地元での対立を解消するために山入端集団を「改易」した体を採った、というところでしょう。ただ狡猾な蔡温はそれだけではなく、本当にこの集団を山林保護に活用したのかもしれません。

同治4年(1865)杣山の植林は,首里辻山杉敷505坪に杉穂10本,下かし山杉敷150坪に杉穂200本,同山唐竹敷510坪に唐竹苗10本,あんのかた山同352坪に同10本,三つ山又山桐木敷500坪に桐木苗10本で,ほかにかか山「道并間ふけ仕置」のため松御禁止敷1,500坪と定められた。同年首里辻山弥帆かんたん見立の松木1本が,大風で倒されている(地方経済史料9)。〔角川日本地名大辞典/山入端(近世)〕

「首里辻山」がまず分からんけれど、那覇市若狭の波上隣接地に残る辻原墓地跡の別称が「辻山」とされます〔後掲結〕。現・那覇市の風俗街・辻󠄀を、首里と呼んだとは思えないけれど、別の辻原地名はヒットしません。だからこれは確定し難い。
 いずれにせよ、山入端の集団は本島中部地域で植林活動を行ってます。蔡温ほか行政側がどう誘導したらそうなるのか分からないけれど、山入端の集団は環境破壊者ではなくてむしろ逆のようです。
 上記は日本で言うとほぼ江戸末年です。下記には、その15年後の人口628人、それが38年後(+23年後)には1173人とあります。

山入端の近代の人口を見ると、まず明治13年には戸数103、人口628人(内男325)である。同36年には1,173人(内男570)を数え、名護間切11力村で第4位の人口規模に達するとともに、この間人口は1.9倍も増えている。また、同年の平民人口947人に対して士族人口は224人(19.1%)である。〔後掲Nagopedia/山入端〕

 名護で第四位の人口集中域だったこと、この時代にしては士族人口が多めであること、という2点だけを説明できる仮説としては、山入端が琉球処分後の士族を大々的に受け入れたことになります。
 さて本稿の最大の興味である海域アジアの側面では、先に触れた山入端の海民疑惑が問題になります。ただしこの同1903(明治36)年から10年ほどの間に興隆した鰹漁業への参入には、山入端は失敗してます。

明治の終わり頃から盛んになった鰹漁業の影響で、大正12年には山入端にも鰹漁業組合が設立された。船は、18t・30馬力の「宝恵丸」一隻であった。同組合は業務不振のために翌大正13年に解散した(名護六百年史)。〔後掲Nagopedia/山入端〕

 失敗というより船を一隻しか用意してません。この一隻が集落の総数なのか、鰹漁船への投入数だけなのか不確かなので、これも断定しかねます。
 軽くは解けない謎が、山入端には多過ぎます。
 最後にもう一つ、この日に訪れた山入端御嶽の由来ですけど、古山入端原にあったとされる御嶽を移したとする推測をされてる方がおられました。

『琉球国由来記』(1713年・王府編纂の地誌)に、今の名護市中山の小字古山入端原に在ったとされる御嶽として、「セキカケナカモリノ嶽」の名があるそうだ。今の山入端御嶽は、移住して来た7戸の家族が祖霊神を祀る場所として、セキカケナカモリノ嶽を遷したのかもしれない。〔後掲沖縄てくてく歩記〕

「セキカケナカモリノ」の名は角川日本地名大辞典(/山入端(近世))にもあり、この嶽と神アシャギがあって、屋部ノロの祭祀だったと記されてます。
 先述のように相当に裕福な集団だったという事実と、この独自ノロを持たず隣接地・屋部に祭祀を「委託」していた点は、古俗を引きずる傾向の強い琉球にあって相当特異的に見えます。要は、宗教に淡白な集団だったということです。
 この類型は牛深せどわでも当たりました。いわば「海の勤勉革命家」集団です。

内部リンク→m17f1m第十七波濤声mm熊本唐人通→牛深(起)/熊本県 012-1唐人通→牛深拝んだら「海に出れば?」と叱る神

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