目録
火ヌ神だった三ツ石 腹減ってたんで
W三ツ石のエリアから北に回ると──細い道。
腹減った。でもどーせバスはないので……入る。入るとすぐ拝所。
もちろん何も表示はありません。マップ上はおそらく……越地西側のアジシーじゃないだろか。知らんけど。
推定「越地西側のアジシー」の○三マークの香炉と紙コップ
北の樹木の絡んだ岩を神体にしてる。
これも左右にある。手前右手には香炉1つ、奥手左手には香炉4つ、それぞれに紙コップが置いてある。
いや?樹木の根元の少し高い場所にももう一つ。つまり計三祠。
どれも正面には「○三」の紋章が彫られているようです。
右から撮影。
──賢明な読者諸氏はお気付きかもしれません。多分……前章最後のW三ツ石が祀り方から言っても②「地頭ヒヌカン」でしょう。なぜならここに三祠③④⑤が並んでるからです。
よほど腹減ってたのか、当時は気付けてません。
ただし、真ん中の下記は「越地ヌトゥン」でしょう。
越地の白い石灰岩と四ツ香炉
「道と道との間に出ている石灰岩は,これが元の地表なのではないか。」と、当時は変なことを気にしてます。
確かに──集落内にはこんな露出岩は見かけません。「越地」は前章巻末(→角川)で見たとおり古氏族又は古地名ですから、最古の霊地として原地形の景観が守られてきた可能性はあるのです。
この後、次のような「公園」を通過してます。恐らくはロンドン杜公園グランド(→GM.)として保護されている地域でしょう。
ここにも確かに石灰岩の露出が続いてます。
公園を抜けると営業所近くに出れそう。
そのまま行こう。──ともうこの辺りは、当面歩く道しか見えてませんでして。
腹減った。1346。
「ハブに注意」の図書館の昼下がり
この辺りが最高所らしい。西へは下りになってます。
ここに……あるのか、市立中央図書館。しかも閉館中だし。
園内に「ハブに注意」表示。だからなぜこの山中に建てる?
怖くなるような無人の下り道。
あえて見上げますと……山手に続く道が何本かあるようです。亀甲墓がぱらぱらと見える。
──後に調べると、ドンドンガマという洞窟がこの山中にあり、それが後に唄になった際に「ロンドンガマ」と呼ばれたのが始まりという。
場所は後掲「黒しばわんこ」さんのサイトに詳述されてました。
なぜかここには宗教的な色彩は書かれない。──前章で考えたように、この丘が真栄里グスクの海側の砦だったとすれば、神性を持たないのは不思議です。
唄の中味(→巻末後掲)からすると,外来者の軟禁場所だった、と想像したのですけど──
いちゅまんで喰らえ 激震・南部そば
何れにせよ、もう山道を上がっていく気力が尽きてました。
1359、市街地。かねひでを見る。
1406、あったぞ、南部そば!
──と腰掛けると,番号待ちしてるらしい。この時間で??幸い,無茶苦茶には混んでない。
南部じゅうしーセット550
「南部」というのがてびちを指すんでしょうか?
一口そばを頬張って、激震。
こんだけ沖縄に来てて、なぜか沖縄そばだけは感動したことがなかった。サブで出されれば、コーレーグースを入れて辛い汁として楽しむ、という感覚でした。
空腹は最高の……というのもあろうけど、この日初めて沖縄そばが旨いと思った。
麺に、ゴムのように歯への押しかえしがあるんである。
てびちは、汁モノのトロトロ感ではなくあくまでそばに合う、よく調味料に浸かった味くーたーなもの。
そば汁も確かな深みがある。出汁に透明感がある。てびちから出た脂の色で視覚的に濁ってるけれど、味覚的には素晴らしくクリアな出汁です。
その完成度の中で、この麺なのです。これはちょっと……困ったな。
糸満は元祖観光の街でいい
南部そばの潮崎町三丁目辺りは糸満市街の海側埋立地。帰路は、糸満道路沿いに橋で市役所側へ渡って歩くことになりました。
元祖観光の街?(上記)──CDも出てました〔後掲たまんショップ〕。色々ツッコミは出てますけど、えーねん沖縄なんだから!!
半ズボンの女が歩いとる?
都会風でも風俗風でもなくて至極純朴そうな娘さんですけど……だから寒くね?
でもって……金亀ストアー?
糸満の路地 翻る「さしみ」旗
結構遠かった。1452やっと市役所の筋。やはり遠い。
川岸には少しだけ、やや昔の石積みが残ってます。
11454。川を越えた先で路地に左折してみます。
真栄里と同じく、新しい家屋も前面の玄関隠しのパーテション(ヒンプン)があります。
所どころに微高地があるようです。埋立時の堤跡でしょうか、あるいは土木技術がそれほどなかった時代の工事の粗さのゆえでしょうか。
名護の社交街を想起させる、好い路地街です。
1501。ちょっとだけ飲み屋街っぽくなってきたか?でもどうも、色彩のはっきりしない場末っぽさがあります。沖縄っぽいドヤ街です。
沢山ある「イカ汁」という表示、これはどうも那覇辺りでの「イカスミ汁」と同じものらしい。ないちゃーにとっては衝撃のあの真っ黒さですけど、「墨」は最早ここでは当たり前みたいです。
なお、調べる限り、やはりあれは豚肉+白イカ+イカ墨で出した汁を基本にしているようです。
帰路車中 初めて学ぶ山巓毛
一軒、入ってみる気になりました。
1508桜食堂
骨か?それとも「おすすめ」表示のてびちか?と迷いに迷った挙句、断腸の思いでてびちを頼む。すると
「すみません,てびちがもう……」
とのこと。これは神のお告げなり!では……
「じゃあ骨汁ね」
と頼むと店主。
「あ、骨も……」
う~む。ならばチャンポンかカツ丼?と思いかけた末に、こうなったら全く予想もつかないのを食いたいという、自暴自棄な方向に進んでしまいました。
肉丼550
前田系の焼き肉を期待したけれど、やはり期待通り!!
ここのは野菜にニンニクの効いた肉汁が乗り移って祟ってる、という感じです。良い!
GM.で那覇への交通を調べると、糸満ロータリーから出てるらしい。発車時間の都合、東へ急ぐ。
ロータリー北東角の丘下も亀甲墓の砦のようになってます。山巓毛(さんてぃんもう)公園という場所らしい。この下に──
1540カミガー•アジガー
ゴミ捨て場のようになってる。けれど、位置的にもかつては重要なガーだったでしょう。
帰りのリュックはメチャ重い
とすると?ロータリーの場所が元々の海岸線だったんでしょうか?――――とこの日初めて過去の水辺を気にしたメモを残したのは、那覇バス466への乗車直前でした。1544。
1550。うとうとしかけてたら車内アナウンス。
「次は~ナハ~」
ええっ!? 寝てるうちにもう??と慌てたら、電光表示に「座波」(ざは)と表示されてました。
1651、開南下車。
オミクロン下ですけど一度だけ、と公設市場を彷徨う。開南側の店はいくつかなくなってる。でも、タコス屋赤とんぼもみーちゃんの店も健在でございました。
桜劇場の喫茶でエスプレッソ。なぜかここの野外は未だに喫煙可。
そうそう、場所は開南近くでしたけど、沖縄図書の古本屋を見つけました。もしや………と探すと――――あるではないか!今帰仁村史!事典に近い分厚さで,旅行者が買って帰るのは狂気の沙汰ですけど――――何と25百円です!即決で購入。
おそらく細部の一次史料はこの辺りにしかないという手応えです。でもリュックはこりゃあ…………帰りのリュックが重いぞ。
航空写真と(下)集落地図:地理院地図最大縮尺-300x188.jpg)
■レポ:ロンドン-白銀堂ベルト素描
この日不思議に感じた「ロンドンの杜」の聖性については、恐らくこのエリアをシンプルに捉えすぎていた、率直に言うとナメていたからだと、今は思っています。
真栄里西側集落すぐのロンドンの杜や千寿会の施設がある付近は、いわば里山だったのでしょう。上記航空写真でも集落地図でもロンドン杜の西、千寿会北辺りに亀甲墓らしきものが見えますから、この辺からが聖域になっている。
GM.上「真栄里グスク」と記されるのは、それよりさらに百mほど西。まず間違いなく、この一円の丘が禁足の御嶽だと思います。
傍証として、その西側R256沿いに「拝所」とだけ書かれる場所があるようです。真栄里グスク方向を向いていますから、多分遥拝所です。また、後掲「世直浜」の位置だと推定します。1枚だけ以下の画像を入手できました。
さて、上記地点のほか、この日には見上げるだけに終わった「山巓毛」、及び参拝対象として高名な白銀堂の三か所の位置関係を掲げて、細論に入っていこうと思います。この三か所、概ねR259の東淵ラインが旧海岸線であったことになります。
山巓毛:南山王国滅びの地
帰路のバス停、ロータリー北東角の
ここに祀られるのは他魯毎さん。「たるみー」又は「たろまい」と読む。なお、怠け者だったという伝承は特に残っていないらしい。
三山時代の1429年、南山最後の王・他魯毎が、中山の尚巴志王の攻撃を受け、妻子とともに自害した場所でもある。 (略) 2006年2月、「山巓毛と白銀堂」として、水産庁により「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定された。[wiki/山巓毛]
たるみーさんが何者なのかは、諸説ありよく分かりません。以下の記述は、恐らく球陽、即ち滅ぼした側の尚王朝側のものです。
在位15年(1415~29)。タルミーは「たろう」に接尾敬称辞「もい(思い)」がついた形。尚思紹9(1414)年,諸臣が連合して,父汪応祖を殺した達勃期を討ち,翌年王位につけ,明の成祖の冊封を受けた。世子代を含め計8回明に入貢。尚巴志8(1429)年中山王尚巴志に亡ぼされた。(略)出自について正史『球陽』は汪応祖の長子とするが,ほかに巴志の子とする説,さらには他魯毎政権は中山の傀儡とする説まで様々である。〔朝日日本歴史人物事典 「他魯毎」(田名真之)←コトバンク/他魯毎〕
父親とされる汪応祖の名も、次の白銀堂に関わるのでご記憶ください。
墓は山巓毛公園の崖下にあるそうです。画像を見るとかなり大切に祀ってあります。
白銀堂と「でぃきぐしく按司」の御船
山巓毛の4百m北にあるのが白銀堂(はくぎんどう)。
海人の街、糸満の年中行事に密接した拝所です。沖縄に夏を告げる伝統行事、糸満ハーレーの安全祈願もここで行われます。
ここは昔、ヨリアゲノ嶽と呼ばれていたそうです。琉球王国時代の資料に「ヨリアゲの嶽 神名シロカネノ御イベ」と書かれている場所です。
「ヨリアゲ」というのは、海流によって魚などが流れつく場所を指す言葉。「シロカネ」というのは、白砂を意味する言葉だそうです。〔後掲沖縄旅行記〕
ハーレーそのものも、南山王室を起源とする伝承があります。
ハーレーの進行の開始は御願ハーレーである。開始の儀礼として、ハーレー歌の二番に、「でぃき城按司の乗る船・・・」と歌われる事から、神人による南山王汪応祖の祖霊に対し村舟に鎮まり頂き、各爬琉船とハーレーシンカのみそぎとして村船を三回廻り開始の旗振り合図を待機する。ハーレー舟は権現化し神舟となる。〔後掲サバニ〕
なお、このハーレー歌全三番は次のようなもの。
ハーレーの歌
一、首里天加那志 百々とぅまり エイヤ末まりよ サーヘンサーヘンサーヨサー 御万人ぬ 間切よ サー 拝み揃りら サーヘンサーヘンサ-ヨ サーサーサー
二、でぃき城御按司ぬ 乗いみせる エイヤ御船よ サーヘンサーヘンサーヨサー 世果報待ち受けてぃよ サー 走ぬ美らさ サーヘンサーヘンサーヨサーサーサー
三、玉寄ぬ御祝女 ただやあや エイヤびらぬよ サーヘンサーヘンサーヨサー 三ケ村男達よ サー 御囲いみそり サーヘンサーヘンサーヨサーサーサー
訳(糸満市史)
首里の王様は 百歳まで幾久しくお元気でありますよう
国民みんなで仰ぎ拝みましょうでぃきぐしく按司の 乗られる御船は
世果報を待ち受けて その走りの美しさよ玉寄の御ノロのお力は並々のものではありません
三ヵ村の男たちを どうかご加護ください
〔後掲サバニ〕
一番は王の、三番は管轄ノロのご機嫌窺いでしょう。二番が恐らく元の歌で、「でぃきぐしく按司」=汪応祖というのも何かの隠語だと思われます。密かに南山王統に毎年拝んでる。
そもそもハーレーと南山王統がどう関わるのかも、幾つか伝承があって定かでない。
南山時代に南山王が糸満の海で行われたハーレーを山巓毛にて観覧したという伝説がある。〔後掲サバニ〕
十四世紀の後期に南山王弟汪応祖が中国の南京に留学中に観覧して帰国後漫湖にて爬琉船競争を行ったことが始まりとされている。〔後掲サバニ〕
つまり何れにせよ、ハーレーの御祭神が白銀堂の神様で、それは数百年前に滅びた南山の旧王統なのです。
ロイヤリティの断絶が、那覇地方と南部では見えないところで深く存在し続けてる……のでしょうか?
それにしても。「ヨリアゲ」(寄りついて上がる≒流れ着く)の語感は次に見る真栄里の「海やから」にどこか共通する印象があります。
沖縄は、外部から色んな異人が流れ着く場所です。その漂着物(者)から沖縄が生まれた、というイメージは、受水走水の伝承からニライカナイ伝説まで共通したものがあるという印象を持ちます。
ここ(引用者:白銀堂)にヨリアゲノ嶽があることによって、糸満の地に、古くから漁業集落のあったことが推定できるのである。〔後掲谷川,p.155〕
伝・南山王国船着の場所
南山王国の対明進貢の船着は、①報徳川河口及び②「南ン潟」(ヘーンガタ)と伝えられています。
伝・報徳川河口船着と照屋グスク
①報徳川河口と言っても、兼城橋(照屋城直下→GM.)までは船が入っていたとされてます。この位置は後掲糸満市/字兼城の「屋号地図」で確認できます。
※メーンガー:GM.
ただ観光用に確定的な書き方をするものが多いけれど、これもあくまで伝承と地名考です。糸満市教委による照屋グスクについての専門的知見は、次のような具合になります。
グスクの城壁は野面積みで、両側の浄水湯敷地内で観察される。残存部から平面観を考えると「L」字状に近似するが、過去に破壊を受けていて保存状態は極めて悪い。この「L」字状の石積みは北側(丘陵郭斜面)にさらに伸びていたと地元の人は証言しており、そのことから南北に長く、西側に短い城壁が推定される。この城壁の近くに深く堀り込んだ円形状(直径30cm前後)の遺構が認められる。城壁との関係については不明で、時代もはっきりしない。
同グスクの崖下直下には報徳川が蛇行しながら流れており、地元ではこの河川内の窪地を唐船小堀と称し、近くに唐船嶽と称す信仰地がある。
この類の名称は、交易時代の産物としてみる向きがあり、仲松弥秀氏はここのほかに、市内真栄里にある真栄里グスク先端部の「帆ヶ先」もこの種のものとして指摘している。(註 2) 照屋グスクは、その直下にある「唐船小堀」の存在などから南山王時代の貿易公庫であったとする説やあるいはまた南山城の出城であったとする考えもあり、その性格については未確認要素が多い。(註 1) (略)(註 2) 仲松弥秀『古層の村』 1977年 〔後掲当真、本パートは金城亀信・著、p136〕
伝・南ン潟船着と「糸満クリーク」
②「南ン潟」は昔は入江を成しており、「門中墓があるあたり」が船着と考えられているという〔後掲立命館大学説話文学研究会〕。②の湿地帯は、小字潟原のほぼ中央に残る「ガタガー」(潟井)がその痕跡であるとされます〔後掲Kazu〕。
小字潟原の位置は、糸満市HPのマップで確認できました。後掲Kazu画像をGM.アースで探していきますと、ガタガーは次の位置と判明しました。──って現地に居るうちなら歩けば確認できたんですけどね。
そう知れてしまえば、「潟原」という小字名そのものがクリークを意味していることは明白です。豊見城糸満線のバス道を海岸線として、この小字から門中墓西辺りまでが潟を成し、そこをサバニが埋めていた時代の情景を……誠に朧げながら想像できるのです。

1年の殆どを海で過ごした漁船が帰港し,びっしりと停留しています。この頃,船で生活する人々の世帯が約130世帯ありました〔尾道市立中央図書館 同写真キャプション〕
ロンドンに棲む「海やから」
糸満市立図書館から上ばかり見てたけど、ロンドンガマという洞窟はこの北側斜面にあったらしい。→GM.
なかなか挑戦心をそそるマップですけど、多分、北のサンエー糸満店側から入って行けば藪を抜けずに着けます。
それで気付いたのは、、図書館以南の高地だけが聖域じみてるのではなく、図書館からガマの一円が亀甲墓の点在する「緩い聖地」だったろう、という点です。
ロンドンガマには「海輩」の伝承があります。海から流れ着いた人(々)が溜まる森だったというのです。
かつてこのガマには海からの漂着者が住み着いていました。
この男は漁に関する技術が巧みであったことから、地域の人からは「海やからー」と呼ばれました。
そんな「海やからー」に地域1番の美女が恋をし、このロンドンガマで逢瀬を重ねるのです。
「海やからー」に嫉妬した地域の青年たち。
彼を殺そうとしましたが強靭な男を相手に幾度となく失敗し、嫌がらせに歌にして恋路の邪魔をしたのです。
その歌が、エイサーでも踊られる「海ヤカラ」という曲で今に残っています。
[前掲黒しばわんこ]
そも「ロンドン」というのは、流石に他の意味は考えられません。8人の英国人漂着者に由来します。そこからエイトマン→糸満という地名語源説〔後掲つれづれ気まぐれ ほか〕は、まあ米軍統治下の英語常用時代に考えつかれたダジャレだと思うけど。
本稿で皇祖を含む大陸系漂流者が打ち上げられたと考える西九州のように、沖縄本島にあって、糸満沿岸は雑多な人間たちが流れ着き易い海辺だったようなのです。
『記』で、海幸彦が「此者隼人阿多君之祖」と割注されるのはなぜであろうか?〔後掲宮﨑〕
海やからに惚れてぃ 退くにも退けぬ
民謡「海やから」の全四番は、次のようなものでした。
一、誰がし名付きたがどんどんぬガマや遊び美童ぬ忍び所
たがしなじきたが どんどん ぬ がまや ’あしびいやらびぬ しぬびどぅくる
taga shi najikitaga doNdoN nu gama ya ‘ashibi miyarabi nu shinubi dukuru
(‘umiyakara doNdoN suuri ‘ei suuri以下ハヤシ略)
○誰が一体名付けたのかドンドンの洞窟は 遊び娘が忍び遊ぶ所
二、ドンドンガマ通てぃ 忍で ちゃさ我身や 出じみそりヤカラ 語て遊ば
どんどんがまかゆてぃ しぬでぃちゃさわみや ’んじみそり やから かたてぃ’あしば
doNdoN nu gama kayuti shinudi chasa wami ya ‘Njimisori yakara katati ‘ashiba
○ドンドンの洞窟(に)通って忍んで来ちゃたさ 私は 出てきてくださいな (やから)語って遊ぼう
三、海やからに惚れてぃ かむるむんかまん 道端に泊まてぃ 親ぬ哀り
‘うみやから に ふりてぃ かむるむん かまん みちばたにとぅまてぃ ’うやぬ’あわり
‘umiyakara ni huriti kamuru muN kamaN michibata ni tumati ‘uya nu ‘awari
○海で働く男に惚れて 食べ物(を)食べない 道端に泊まり 親は苦労(する)
四、なてぃんならりらん ぬちんぬかりらん いちゃさびが里前後ぬ事や
なてぃんならりらん ぬちんぬかりらん ’いちゃさびがさとぅめ ’あとぅぬくとぅや
natiN narariraN nuchiN nukariraN ‘icha sabiiga satumee ‘atu nu kutu ya
○行くにも行けない 退くにも退けない どうしましょうか 貴方 将来の事は〔後掲たるー〕
「海輩」の「輩」は、ヤマトでは「下賤」「悪者」といった語感です。「海から来(て住み着い)たゴロツキ」という語感に聞こえる。ただし、沖縄語には「輩者」又は「輩」(やっからー)という言葉があるけれど、逆に「働き者」の類のニュアンスで悪意を含まないという。海での労務者に使われることが多いようです。〔後掲あまくま ほか〕
「海輩」がエイサーで踊られるのは、ここに唄われてる「禁断の恋」のムラ秩序のボーダー感がスリルとして心地よいからのように感じられます。社会秩序、倫理観念、人種言語、それらを軽々しく踏み越える存在たる「海輩」が、ロンドンの杜には群れていた。糸満や真栄里、ひょっとしたら南山王などの統治側がなぜ彼らを駆逐しなかったかと言えば、水夫・水兵の要員として必要だったからでしょう。そう呼ぶには非常に特殊だけれど、琉球版の「水主村」がここにあったのではないでしょうか?
おそらく古くは、あるいは現在捨てられたり隠されたりした歌詞があって、それはもっと過激に差別的だったかもしれない。「海やから」はムラ秩序にとって、「禁断」どころではない異次元人だったのではないでしょうか。さらに想像を逞しくするなら──そうした島津には見えない透明人間みたいな海輩こそが、即ち糸満ちゅだったとは考えられないでしょうか?
※(メモ)ユノーシ(世直)浜
ロンドン杜と並び不思議に感じた地名に「世直浜」(→前章)がありました。
「世直」という語には沖縄の、どうやら古層らしい事象の記述で時折出くわします。「ヨナフシノ御イベ」(→m19Im第二十八波mm1大城城(ニライF69)/【琉球国由来記】大城の祭祀がなぜ独自か?)のような形で古語・神語にもあるようです。
宮古の漲水御嶽にまつわる創世神話には、最初に宮古島に降りたコイツノ(恋角・古意角)の孫に
また、琉球王国繁栄の予祝の意とされる「
──既にとっても訳分かりませんけど、もう一つ。
1685年(貞享2=尚貞17) 両島の大あむは,島の諸女の上に坐することになった 24)。また同治13年(1874=明治7) 宮古島仕上世例帳に,「頭以下目差役迄,夫婦幷大阿母諸上納物令免許候,尤右役儀召揚候共可為同断事」とあることは,旧来の慣行を踏襲したものとみられ,しかも八重山の大阿母も同待遇を受けたであろう 25)。
宮古大あむのもとには,掟あむ・作事が各1人いた。やはり免税の恩典を受けていた。村落には司がおり,大あむがそれを支配した。女官御双紙に村々に 2, 30人の世なふし神(世直神)がいると記してあるのは,司以下の村落神女のことである。首里王府が任命するのは大阿母だけで,司は大阿母の任命になっていた。〔後掲宮城〕
25)近世地方経済史料巻10 「租税制度1」所収。
これは下層のノロというより、元々の土着勢力としてのノロが「世なふし神(世直神)」を称していたと解するべきでしょう。ただし、前掲宮城をはじめ他のノロ関係の記述にはこの語は出て来ず、元は八重山独自の呼称とも考えられます。
すみません、仮説はありません。何か非常に重要な語句のように思われるのですけど……。
なお、ならば琉球・八重山独自の概念かと言えば、さにあらず、ヤマト内地でも相当使われます。琉球のは①だと言えなくもない。
① 凶事を吉事に転換させるように祝いなおすこと。縁起なおし。
[初出の実例]「風にゆらは世なをしと先家さくら〈当則〉」(出典:俳諧・崑山集(1651)四)
② 世相を改めよくすること。世の中のゆきづまった制度、乱れた風紀などを改革すること。
[初出の実例]「巨大な破壊によって、所謂『世なおし』が行われるのであろう」(出典:人間が機械になることは避けられないものであろうか?(1948)〈渡辺一夫〉)
③ 特に、江戸中期から明治の初めにかけて、士庶の中に醸成された反権力的、脱体制的意識や行為をさしていう。
[初出の実例]「百姓一揆、世直しといった類の集団的行為」(出典:底辺の美学(1966)〈松永伍一〉被害の傷み)〔精選版 日本国語大辞典 「世直」←コトバンク/世直〕
また、「世直神社」というのはヤマト内地に四社見つかりました。これがまた、時代も場所もバラバラで、どんな仮説も構築させてくれません。皆さんは思い浮かびますか?
①ad.千葉県成田市船形字手黒834(麻賀多神社内)
※祭神:稻倉魂命
←日本武尊が瀛津鏡を奉斎
〔未知の駅 總フサ/房総のヒーロー?日本武尊ヤマトタケルの伝説②2020〕

②ad.広島県庄原市東城町東城426
←天正19(1591)年、五品嶽城(五本竹城)城代渡辺内蔵正が領内守護のため伊勢から勧請
〔みんカラ/世直神社(庄原市・旧東城町)〕

←幕末の福井藩士鈴木主税を祀る
〔福いろ|福井市公式観光サイト/世直神社〕

←石祠右側面銘:明治十七申年九月
〔タヌポンの利根ぽんぽ行/二宮神社〕
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