FASE84-1@deflag.utinaR409withCoV-2_BA5#夏怒涛いましがた散る余花一輪\屋嘉収容所

※原句∶桜紅葉いましがた鳩十羽行く 海城

名護へ。
台風下 へなへなで
漸くたどり着きましたけど
それでも諦め悪く色々立ち寄ってます。
[前日日計]
支出1300/収入1250
    ▼13.0[363]
    /負債  50
[前日累計]
利益 -/負債 164
九月十八日(天)
1318我部祖河食堂
てびち汁550
1519(名護市大東1丁目9)新山そば
てびちそば450
2000 餃子パイ250
[前日日計]
支出1300/収入1250
    ▼13.0[363]
    /負債  50
[前日累計]
利益 -/負債 214
九月十九日(一祝)

 

たあち 二日目

🛵
時、意を決し出走。
 足は、曲がりはする。原チャですから、左足はフットレストに置いてじっとさせときゃいいだけ。停車時は右足を地につけばよい。
 おお、昨日行こうとして(こけ)た美里A&W、もう開店しとるぞ?
 出来るだけ低スピードで長く走れそうな、ローカル道を選びました。0944、ハイウェイドライブイン。でも風は収まらない。
 0950、うるま川崎ローソン。ここからR8経由でR255に入る。とりあえず空は晴れている。
 0956、栄野日。R255。名護43km。
🛵

台風圏屋嘉は埋もれて眠ってる

003、東恩納。空は相当晴れ間が見えるけれど風がおさまらない。
 1009、うるま石川ローソン。
 1020、ファミマ。距離は稼いでます。12時予報の雨の前にそのまま名護に入りたいんですけど──ブラックブラックを噛む。それでも屋嘉だけは立ち寄ろう。
 赤崎一丁目交差点右折。
🛵

金武に入る。この日はここで初めてお写真。そこまで緊迫の余り写真なんて……。

武に入る。1035。
 1039、屋嘉三叉路を左に入る。 
 1043、集落へ右折。
1043山手から屋嘉集落。緑に埋もれて眠ってるような光景。

1045屋嘉方状集落へ入る。

屋嘉集落の全く面白みのない直線路

050、屋嘉ビーチ前バス停そば。「日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑」。
1052屋嘉収容所跡碑文

▶〔内部リンク〕→m19Im第二十八波mm3-2【特記】あめりかゆの道(ニライF69)/【8/22∶渡具地→屋嘉】七日の苦悩 七千の船

方状の区画全てが収容所

久高島住民強制疎開之記念碑

ス停を挟み「久高島住民強制疎開之記念碑」。
 琉歌一首。

戦世の故に
(イクサユヌユイニ)
生まり島はなり
(ンマリシマハナリ)
屋嘉村ぬ情き
(ヤカムラヌナサキ)
忘してならん
(ワシテナラン)
〔作者名読み取れず〕

※後掲中京大学によると作者銘は「詠む 並里仙八」
 なお裏面文面は「昭和20年 (1945) 太平洋戦争により久高島の住民は強制立退き命令によって生まれ島を離れ、疎開先である屋嘉に移り、当地の皆様に大変お世話になった。よって、ここに感謝の意を表し、久高島住民強制疎開の事実を、戦争というものの実態と共に後世に永く語り継ぎ、平和を守る礎と資する力となることを願って記念碑を建立した。」〔後掲中京大学〕

 神の島・久高島から疎開?(巻末参照)

(裏面記述)当地の皆様に大変お世話になった。

論、収容所の痕跡はありません。ただ……この碑文裏手の、かなり広い方状の区画全てが収容所跡の区割り……と言われればそうかな、と思われるでしょうか。
 同じく、沖縄の町としては不自然な格子状区画にしても、糸満ロータリー北西角(→GM.)のように細部が無秩序ではなく、全面的な人工統制が窺えます。
屋嘉集落 [+]碑文〔地理院地図〕
屋嘉集落の路地

103、底森御嶽を右に入れ屋嘉を一枚。
 屋嘉の御嶽は、北東のヨリブサノ御嶽と西の底森御嶽(神名・コバヅカサノ御嶽)があります〔後掲沖縄放浪日記〕。かつてそれぞれが集落のコアだった可能性かありますけど、根屋やウフカーは集落内で、底森御嶽は琉球国由来記には「金武間切屋嘉村底森御嶽」と記されているようなので、王国時代には双方を含む屋嘉集落が成立していた模様。
見えなくなる屋嘉集落
🛵
海岸から西海岸へ、本島が最もくびれた部分を抜ける(→GM.∶行程)。1115、恩納南交差点を右折。
 名護26km。
 万座毛ビーチの看板。風は東海岸よりやや弱いけれど吹きさらし。とにかくトロトロ運転を心がけよう。
🛵
ス停・屋嘉田。この辺りは東海岸と西海岸が同じ地名が多い。
 1127、やはり恩納から名護間は怖い。交通量がある。路肩も狭い。山になるとそこに結構巨大な枯れ木が落ちてて、回避を余儀なくされます。
 名護市内の端まであと20km!

どう煽られても焦らず35km

この時間の雨雲レーダー。まさに台風の渦の谷間!

1142、県民の森入口。
 1152、希望が丘入口バス停。
 1156、かりゆしビーチ。名護市に入った!
 1214、道の駅・許田。「きょだ」と読む(巻末参照)。黒雲。市街南端まであと僅か!
見えてきた本部半島と派手に逆巻く白波
🛵
冨慶(よふけ)バス停。1227。
 天気予報が変わってる。夕方まで風は収まらないみたいですね、知らんけど。
 市街侵入路まであと300m!という所で──風が滅法酷くなった。どう煽られようと焦らず時速35kmを保つ。南無阿弥陀仏。
 1303、白銀橋を越えて──スーパーホテル沖縄・名護到着。ふう〜!
🛵

我部祖河食堂で初テビチ

り道に確認すると……前田食堂は臨時休業中なんですね。
 そこで……ホテル対面に見つけたこちらへ──入店しますと家族連れで超×超満員!この雨風の中、名護人はさして動じもしないらしい。
 やはりそばは頼まずに……
1318 我部祖河食堂
てびち汁550

我部祖河食堂のてびち汁

ーん、やっば沖縄通い初めにし「味くーたー」よのう、テビチ汁!
 ここのてびちは……トロトロなだけでなく、同時に出汁汁にぴったりマッチしてるところが凄いのです。
てびちどアップ

の若いの3人が「職場でコロナが出ちゃってさあ、休めなくなったわけさ」とか、結構陽気に話してますけど……。
 この食堂は喫煙所が必ずある。台風下でも食後の一服。
 空は未だ黒雲。雨は降らずに済んでます。風は──ようやく収まってきました。
その夜,屋部川沿いに高く浮かんだ我部祖河食堂ネオン

西の路地に迷ってみる。1417。沖縄X(航空写真探索)でちょっと目を引いたエリアでした。

大西は区画整理を拒んだ

大西の路地裏1

大西の路地裏2

護市街は、いかにも乱開発された印象の町です。これは戦時の空爆、米軍の占領(住民は主に田井等収容所へ)、住民復帰直後(1946・7)の区画整理によります。つまり古い町並みはほぼ期待できません。

旧名護町の中でも大字名護に属する中心市街地で、かつて①東江アガリエ大兼久オオガネク、②グスクと呼ばれた3部落と、③宮里を含めた地域で、その後1944年(昭和19)には、大兼久が、④大中、⑤大東、⑥大西、⑦大南、⑧大北に、1947年には城が⑨港と城に分割され、合わせて9つの行政区となった範囲である(図ー1、2)。〔後掲石丸〕※丸付数字は引用者

図2 中心市街地の行政区割〔後掲石丸〕

し、中でも大西と大南は、少なくとも区画整理からは外れたと伝わります。

 町当局は、マスタープランを提示し、関係者の同意を求めたが、区画整理の実施は各行政区にまかされ、以後そこでの対応となった。行政区の判断にまかされた結果、東江では意見がまとまらず、部分的に実施し、大西、大南では実施しないこととなり、城、大東、大中、宮里では実施することになった。各行政区では、土地整理委員を6–7人置き、事業実施に当った。測量や区画整理の設計に携わったのである。
 大南で実施に至らなかった理由として、地主に地元住民が少なく、フィリピンや南洋などの出稼ぎで利益をあげ、土地を求めて移住した屋部とか本部出身の居住者が多かったことが挙げられている。〔後掲石丸〕

図8 従前・事後(1946・1947土地区画整理後)の区画形態(重ね図)〔後掲石丸〕

大西の路地裏3

大西の路地裏4

護十字路とひんぷんガジュマル!1421。
 1425、名護城公園南口。前回、見落としたポイントの補足訪問ですけど……後から掘りすぎなのか、このパターン増えたなあ。

NAGO祠へと城を登る

ひんぷんガジュマル!

園地図にもやはり──「名幸祠」は載ってない。
 ノッポ椰子の広場の先、前回の名護城登り口の手前のはずです。
 1434。ノッポ……のベンチスペースに駐車。
 猫が三匹。守り主?
 ここだろう。歩み入る。
停めたバイクと主の猫さん

「ノッポ椰子の広場」施設配置図。次章⑤⑦を訪れます。

図は後で(⑦そばで)見つけたんてすけど……話が複雑になるのでここで掲げときます。
 図中⑤が名幸祠。⑦がイジグチ屋。この案内板には⑤を「ナングスクと集落に関わりのある拝所」と説明してました。──漠然とし過ぎですけど、とにかく霊地と言いたいみたい。もちろん、「名幸」は「なご」の別表記でしょう。

■レポ:久高島からヒトが去った一年間

 アマミキヨの第一次上陸地とされる久高島は、前掲記念碑によると、1945年後半段階では屋嘉に移され、無人島になっていたことになります。
 全島民の退去は、出典未確認ながら、1945年1月7日に日本軍が発した命令です〔後掲岐阜女子大学など〕。どこへ移転させられたかというと、屋嘉らしい。つまり、日本軍の屋嘉・疎開集落が米軍の強制収容所に引き継がれた、ということになるけれど……そんなことがあるのてしょうか?
 wiki/久高島住民強制疎開によると、「戦争当時は男性はほとんどいない女ばかりの島になっていた。女性たちは知念岬に日本軍の陣地構築作業に駆り出されていた」。どうも誇張を感じる表現だけれど、男の多くが徴兵され、残りの壮年男女は日本軍の陣地構築に動員されていた、という意味でしょうか?
また曰く、「十・十空襲の跡、1945年1月7日に日本軍から強制立ち退き命令がだされ、高齢者など残りの住民が屋嘉に移され」たという。つまり

       上陸前 米上陸 占領後
A 徴兵者  出征   →   →
B 壮年男女 徴用   →  収容
C その他(高齢者・子ども)
       疎開   →  収容

といった複雑な経緯が実態だったことになるけれど──要するに、日本軍は米軍上陸直前までに、久高島を無人にしてます。
 なぜでしょう?日本軍の意図は何だったのでしょうか?

伊江島-久高島-長崎空港比較

 まず、沖縄戦での離島の全てに、日本軍は疎開を命じてません。実際に戦場になったかどうか、それ以前に日本軍が陣地又は兵員を置いたかどうか、いずれの場合も通常は島域からの疎開は命じてません。──だからこそ伊江島では島民が、百名以上の規模の集団自決をしたのです。

11 離島戦線
 沖縄周辺離島や先島諸島も当然沖縄戦の影響下にあった。沖縄周辺離島は津堅島、伊江島が激戦場となった。伊平屋島、久高島などにも米軍は上陸したが、日本軍が布陣していなかったので、そこでは戦闘が展開していない。また、宮古諸島や八重山諸島には日本軍が本格的に布陣していたが、連合軍は空襲や艦砲射撃などを加えたのみで、上陸作戦を展開していない。しかし、先島諸島ではマラリアが猛威を振るい、住民や兵士の間に、激戦場同様多数の死者がでた。
 特に伊江島には、極東一を誇る飛行場を日本軍は建設していた。(略)城山陣地を中心とした日米の戦闘は熾烈をきわめ、二一日までの六日間も白兵戦をまじえた激戦が続いた。住民は防衛隊以外にも女子救護班など、女性までも斬り込み隊に加えられ、多大な犠牲者がでた。また、投降を許さない日本軍の宣伝教育をうけていたので、洞窟内で住民同士の殺し合いであるいわゆる「集団自決」によって死に追い込まれていった例もある。この伊江島の戦闘では、有名なアメリカの従軍記者アーニーパイルが、戦死したことも戦史に記録されている。〔後掲沖縄県〕

 伊江島の例を考えると、陣地構築(伊江島の場合は飛行場造営)に際し、住民の徴用で対応しており、たからこそ住民を置いたまま米軍を迎え撃つしかなかった。
 沖縄神道的に物凄く不謹慎な仮想をしますけど──伊江島類似の、高低差の乏しい平坦な島である久高島は、世界初の階上空港である現・長崎空港とほぼ同サイズです。日本軍に、米軍が沖縄本島東海岸を主攻面にした場合の迎撃用飛行場を久高島に敷設する計画はなかったのでしょうか?

久高島を巡るイメー戦

[左]長崎空港 [右]久高島

 なお、次のような記述もあり、10・10空襲(1944.10.10沖縄空襲)時に、既に米軍は一定の「興味」を久高島に対し示しているように見えます。

 10・10空襲について、久高島の国民学校校長の証言が沖縄県史に記載されている。
「4、5機のアメリカ軍戦闘機グラマンが学校を狙って機銃掃射をやってきました。弾がプスンプスンと飛んできました。それから自然洞窟に逃げようとした、その途中、機銃掃射にやられました。その後もグラマンは何度も繰り返しやってきました」
 さらに島の被害は続く。
 10・10空襲から4か月後、全島民に対して立ち退き命令が下り、無人島となった。そこにアメリカ軍は爆撃を繰り返し、さらに水上戦車隊が上陸して、家屋に放火し、石垣を突き崩し、畑を敷きならした。変わり果てた島の姿を住民が見るのは、疎開先から戻って来てからであった。〔後掲インファクト〕

 漠然とした言い方しかできず恐縮てすけと──つまり、久高島は、日米の模擬戦イメージ上、何かの意味で特異点だった可能性があります。例えば、先の「久高島空港」を1945年4月の上陸開始直後に米軍が建設していたとしたらどうでしょう。日本軍は、久高島をあえて「空白地帯」にしておく選択をし、それが全島疎開という特異な措置に繋がったのかもしれません。

■レポ:許田は名護湾最古の港か?

 後に掲げる史料から、名護湾岸で最も古い土地は、この許田付近だったことが推認されます。
 名護湾を利用する船舶から見て、現・名護市街は最奥。一定規模の人口居住・耕作地を求めるにはこの位置しか選択できませんけど、そうしたニーズのない海民の視点からは、なるほど許田の方が利地と映ったのは理解できます。

名護市内南端〜許田 ※上図左下≒下図右上[上・右上]名護ひんぷんガジュマル [下・中央]道の駅・許田 [下・右下]許田集落

 現・名護市街は、多くの島を浮かべる浅海だったと考えられます。これは古・那覇と似た状況です。
 水深50mラインが最も陸に近いのは、許田沖です。元、許田を拠点にした名護湾の海民たちにとって、北の現・名護市街の海域は「墓地海域」だったでしょう。これも、奥武島方面を本拠にしたと思われる那覇の海民にとっての現・那覇市街──沖映通りの古墓群と同じ関係だと思われます。
同・名護湾東南岸エリアの海底地図〔後掲釣りナビくん〕

 許田の湾入最南端の部分を特に湖辺底と呼んだらしい。港湾名として古くから人口に膾炙します。
※湖辺底(読み∶こへんぞこ)→湖辺底親水公園 (湖辺底公園) 

湖辺底の津口は四辺山をめぐらし、港内の水深く、嵐の中でも波濤が起こらないので避難場所として利用され、沿岸の小型船舶や漁船などの溜り場になっている。湖辺底はその名の通り瓶(クヒン)の底のようになっており、一帯は泥砂土で障害物がないので、馬艦船で接岸荷役ができた。進貢品は首里王府に集めて積み出すのではなく、各地方の主要港津で薩摩の在番役人が立ち会い、収納事務が行われた。湖辺底の津口では、中頭の美里から名護・金武・恩納・久志の五間切の収納が行われた。薩摩への上納は仕上世米といい、進貢事務を「湖辺底払い」という。湖辺湖払いの高は約40石(160俵)、その他にオキヌ(染料)など、上木物に砂糖があった。
 〔後掲日本財団〕

GM.

山原船が浮かぶ湖辺底港 ※撮影者・出典等不詳〔後掲日本財団〕
原コメント「昭和20年代の集落風景 昭和30年代の手水」〔後掲風景結々〕

考古・民俗∶久志から来たか 許田が古いか

方言ではチューダという。沖縄本島北部の西海岸に位置し,名護湾に臨む。福地川河口の砂丘地にあるティミジュ(手水)は,久志若按司が住みついたといわれ,拝所も多い。手水北側に許田貝塚があり,沖縄考古編年後期の土器片が採集され,現在宅地となっている南側にも広がっている可能性もある(名護市の遺跡)。〔角川日本地名大辞典/許田【きょだ】〕

「沖縄考古編年後期」は日本史の弥生〜平安≒BC10-AD12。二千年間よりもう少し絞れても……とは思うけど、「土器はいずれも小片で、詳細な時代の決定は今後の課題である」〔後掲名護市教委1982〕とされて40年経ってる。「現在宅地となっている南側」※から新発見がない限り、多分、分からないのでしょう。
※「遺跡の範囲を決定することは難しいが、南側にも広がる可能性かある。」〔後掲名護市教委〕
 そうした漠然とした特定状況ながら、その位置は──驚くべきことに民謡「許田の手水」縁の湧き水のすぐ南側です。(許田の手水ストーリー∶後掲)

許田貝塚位置〔後掲名護市教委、図6-16〕

 手水の北山上に表記される「クシの御嶽」は、許田の始原の由来のある御嶽。「クシ」は東海岸側に隣接する久志で、上記三家のうちそこの按司を護ってきた「マシドゥイヤー」家を優位とする由縁までが伝えられてます。まさに歴史を通貫する伝承が、現行民俗として生きられています。

(続b)本集落の手水原北側山中にクシヌウガンがあり,久志の若按司がダキアンマーに連れられて来て,マシドゥイヤーの先祖に育てられたという伝承がある。「由来記」のヨリアゲマキウノ嶽はクシヌウガンに当たり,同書にはほかに泊口湊口ノ嶽があるが,現在はない。喜瀬ノロの管掌であったが(由来記),いつの頃からかマシドゥイヤーから神役が出るようになった。(続c)〔角川日本地名大辞典/許田村(近世)〕

※マシドゥイヤーについては後掲参照

名護の手水と沖縄版「恩を仇で返す」物語

 突飛ですけど、何の因果も脈絡もなくヒドい目に遭う、という意味では、手水の娘の物語は浦島太郎に似てます。

現在では湖辺底と許田の間は許田橋がかかり、さらに自動車道の架橋も設置され、交通の便が大変よくなっていますが、その昔は、許田への渡し船も橋もなく、当時の旅人は、許田へ行くのに福地や古知屋又の内海沿いに遠く迂回しなければいけませんでした。
いつの頃か、ひとりの侍がこの地を過ぎ、樋川でのどの乾きを潤そうとしました。そこでたまたま年頃の娘が清水を汲んでいるところに出会い、侍は水を所望しました。娘はもとめられるがままに両手に清水を汲んで勧めたところ、これが縁となって娘は村から連れ去られ、村人をなげかせたという話が伝わっています。その手水の情緒をめぐっては、文苑の取材として文章や詩歌に文飾され、平敷屋朝敏の組踊り「手水の縁」が創作されています。
「手水の縁」は組踊りの一つで、平敷屋朝敏の作といわれています。現存する組踊49種中、唯一の恋愛物で、創作年代は不明です。〔後掲名護・やんばる大百科ミニ〕

「下手な親切は身を滅ぼす」という教訓でしょうか?それとも、沖縄のような風土では本当に遠地や海の向こうからやって来るマレビトが多く、陸人側のそれへの警戒を説いてるのでしょうか?
 いずれにせよ、許田が難所であった頃のお話です。

許田の手水/クシヌカーの祠内部〔後掲アッチャーアッチャー〕

史料∶まんどぅいやー三家小史

 にも関わらず、現集落の祖の入域はごく新しい。琉球王府が成立してからだと考えられていて、許田の元称と思われる「久田」は久志の田、東海岸で不足した耕地を西海岸にも求めた、という意味でしょう。──ただ、前述の古さの臭いと不整合ですから、王府帰属の農耕定住民の定着は数百年前、という理解をすべきです。

王府時代~明治41年の村名。国頭【くにがみ】方名護間切のうち。「高究帳」には久田村と見え,高頭40石余うち田38石余(永代荒地7石余を含む)・畑1石余。草分けの人々がどこから移り住んだか伝承はないが,400~500年前には3軒の家が想定されている(名護六百年史)。その3戸が根屋のマシドゥイヤー・メームトゥ(前元)・メーヌヤーとされている。「港きよらさや湖辺底泊きよらさや那覇の泊」(琉歌全集1371)と謡われる湖辺底港は,地形が小瓶の底に似ていることからこの名がある(国頭郡志)。(続a)〔角川日本地名大辞典/許田村(近世)〕

「マシドゥイヤー」の語義は分かりません。ただメームトゥ、メーヌヤーの「メー」は「前」で、それぞれ「前元」「前の屋」が想像されますから、より古い二家を抑えて古三家筆頭にのし上がった家……ということになるのかもしれません。
 名護湾が経済的に浮上するのは、薩摩島津家方面への重要なハブ港として機能し始めてからです。──このことは逆に、二つ前の時代の「みやきせん」≒北山王国時代にも、島津侵略前の琉球王国にとっても、名護は地勢的に要地でなかったことを意味します。
 かつ、その時代までの「名護」(湾)が許田のことを指していたとすれば、現・名護市街域は単なる墓地(の湖沼エリア)だったことを意味します。

泡盛 手水──まさに娘の手から水を飲む、ある意味おぞましい男の図柄

(続a)慶長14年の島津侵入以後,国頭産の米は仕上世米として,同港か運天港から直接薩摩へ積み出された(名護市史資料編1)。平敷屋朝敏の「手水の縁」の題材となった伝説の伝わる許田の手水(市史跡)があり,琉歌にも謡われ(琉歌全集36),また乾隆5年(1740)安仁屋賢孫の紀行文にも見える。(続b)〔角川日本地名大辞典/許田村(近世)〕

「安仁屋賢孫の紀行文」というのは見つかりませんでした。安仁屋賢孫は近世の沖縄を代表する文人(1676生~1743没)で、乾隆5年(1740)の夏に、数久田(許田-現・名護市街間∶GM.)の轟の滝の景観を詠んでいるので※、同年1740年に許田を訪れたと推定されます〔後掲Nagopedia〕。

※和歌「岩がねの松の梢をくくりきて 流れたえせぬ千代の滝津瀬」
轟の滝(→GM.)〔後掲沖縄 婚活倶楽部えんむすび〕

(続c)明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。地割は7年ごとに割り替え,15歳以上の男子は,1地が田271坪余・畑311坪余(南嶋探験)。廃藩置県後,禄を失った士族が首里・那覇【なは】から移り住み,福地原・湖辺底原に屋取を形成。士族人口比は,間切内でもきわめて高い。(略)明治36年の民有地総反別224町余うち田17町余・畑53町余・宅地2町余・山林8町余・原野143町余(県史20)。同41年名護村の字となる。〔角川日本地名大辞典/許田村(近世)〕

 許田がエリア支配の中心地だった可能性は、維新時のこの武士流入層の多さからも窺えます。ただ末尾の耕作地の少なさからは、前掲(下記リンク参照)の本部半島域への一般的な移入のような農業移民とは考えにくいので──当該流入民がどう定着したのか(あるいはしなかったのか)は不明。

▶〔内部リンク〕
→FASE78-2@運天\きじょかひーだま/近世運天
→FASE78-2@運天\きじょかひーだま/全てが分からない山入端

 では、もう少し史料に基づいた実証的素材を当たってみておきましょう。

おもろさうしの名護

 琉家全集(島袋盛敏・編,沖縄タイムズ,1964)に許田の、湾入の最南端「湖辺底」地名があるらしい。

琉歌に「港きよらさや湖辺底 泊きよらさや那覇の泊(港の美しいのは湖辺底の港、泊の美しいのは那覇の泊である)」(琉歌全集)と詠まれた湖辺底港(クヒンジュク港とよび、瓶底港とも表記)は近世期の重要津口である。〔日本歴史地名大系 「許田村」←コトバンク/許田村〕

 沖縄語話者にとって港と「泊」は異なるらしい。ただこの話題は、じゃあ泊港(現・とまりん)は何なんだとか、「泊」地名の広域性又はアイヌ語起源説※に連なり、ネバーエンディングになるようなので、とりあえず近代港湾と帆船時代の風待港、という程度の差別たと理解しておきます。

※「泊」地名のアイヌ語起源説論者によると、類似地名が樺太まで広がるという。「▽ 日本各地に広がる…【泊(とまり)】と言う地名
…南は沖縄県中頭郡中城村(なかぐすく・そん)泊(とまり)から、日本海に沿って北上し、北は北海道島牧郡島牧村泊に至るまで恐らく途切れること無く百ヶ所に近い【泊(とまり)】と言う名の港があり、また、この「泊」一字の地名に更に字を付け加えて、例えば「寺泊(てらどまり)」等を含めると数百のレベルに上るのかも知れない。
..オット忘れてはいけない。稚内の先の樺太(からふと=サハリン)にも本家の大泊があり、北方領土の国後島にも「泊(とまり)」と言う港が在るのである。」〔後掲ateruy21〕

 とことんローカル地名なのに不思議です。「湖辺底」で検索すると、他に一首次のものが見つかりました。

※1425はおもろ掲載番号のように見えるけれど、検索すると他首がヒットし、不明。

ユーモラスな琉歌に「一四二五 かま小おとがくや 湖辺底やすが 按司のみおとがひや 残波岬」(かま小の顎は湖辺底のようにへこんでいるが、按司の御顎は残波岬のように突き出ている)がある。「大西にし」(残波岬)の対語が「崎さきよだ枝」と謡われる所以である。「走はりやさば」は、〈走らさば〉。〈はしらす〉の〈し〉によって口蓋化が起こり、〈はしりやす〉になった後、〈し〉が脱落したかたち。〔後掲島村〕

 いずれも前掲のような湖辺底の、航行に際しての形状や機能を具体に前提としています。陸から眺めた風情を謳ってません。あくまで船上の旅客視点です。
 試みにおもろさうしのデジタルから「名護」地名を検索すると、6例のヒットがありました。

「名護」を含むおもろ
1_11-606(51) 名護の浦
2_14-997(16) 名護の浦  
3_17-1179(5) 名護の小照る曲
4_17-1180(6) 名護酒
5_17-1181(7) 名護の浦
6_21-1426(33) 又名護の浜に

 つまり、「おもろ」作者層において、「名護」は既知の地名だったことになります。ただ一方で、各首の印象は非常にボンヤリしていて、「あの辺」という広域呼称として用いられた感があります。この点、先の許田「湖辺底」の具体的な用例と対照的です。

絵図郷村帳では名護間切のうちに名護村(東江村か)・かねく村(大兼久村か)・ぐしく村(城村か)の三ヵ村(のちの名護三箇)がみえる。琉球国高究帳では名護村のみとなり、高頭四四七石余、うち田四三二石余(うち永代荒地三九石余)・畠一四石余。以後近世末に至るまで、王府は行政的に名護村として把握したのだろう。東江あがり・城・大兼久ぽーがにくは名護グスクを発祥の地とするなど関係は強いが、三ヵ村がいつ頃分れたのかは未詳。伝承によると、名護グスク西下方のイジグチが城村の旧集落といわれ(略)
〔日本歴史地名大系 「名護村」←コトバンク/名護村(読み)なぐむら〕

 ただそれならば、なぜ「おもろ」において許田や湖辺底より名護の用例数が多い●●●●●●●●●●●●●●●●●のか、どうも釈然としません。仮定するとすれば、許田にいた海民衆が、王府からして北山に連なる敵性を帯びた、「口にしたくない」集団だったから……でしょうか?

名護を謳った「おもろ」集

11-606(51)
一かさすちやらは/だりじゆ 鳴響め/見れば 水 廻て/又真物ちやらは/又名護の浜に/又名護のひちやに/又大和ぎやめ/だりじよ 鳴響め
一かさすちやらは/たりしゆ とよめ/みれは みつ まわて/又まもんちやらは/又なこのはまに/又なこのひちやに/やまときやめ/たりしよ とよめ〔wikisource/こいしのがさしふとのばらが節 11-606(51)〕

 6_21-1426(33)又名護の浜に とかなり重なる内容です。たまたま取り上げていた論文があったので現代語訳等を引用しますと──

[大意]かさす若按司、立派な若按司は、げにこそ鳴り轟け。穏やかななごの浜、なごの直地に、げにこそ鳴り轟け。大和までも、げにこそ鳴り轟け。若按司を見ると、水走るような美しい顔である。
(略)
 このオモロは、「かさす」という沖縄の権力者(久米島の按司)を賛美する歌であるが、その評判は大和までも鳴り轟くようにと祈る場面が歌われる。「沖縄の評判は大和までも届くように」という祈願は、オモロだけではなく、琉歌にも見られ、共通している。〔後掲ヤナ、p312〕

 久米島按司「かさす」を賛美し、大和にまで(その名や威光が)鳴り響け、と謳う文脈で、その前段に名護が出てくる。「直地」は直轄地という意味らしく、琉球王府の対大和ハブ港という意味でしょうか。
 名護の具体の風光というより、大和(≒この場合は薩摩島津)のダブルイメージとして使われてます。

14-997(16)
一吾が思ひぎや/あぐでおちやる/名護の浦/唯一人 遣たもの/おもいはの 肝痛さ/又吾が思ひぎや/住まておちやる/喜瀬の浦
一あかおもひきや/あくておちやる/なこのうら/たゝひとり やたもの/おもいはの きもちやさ/又あかおもひきや/すまておちやる/きせのうら〔〔wikisource/くめすよの主の節 14-997(16)〕

 この唄も面白い。「名護」と併せて謳われる喜瀬は許田西方2kmの隣浦です。
(喜瀬→GM.)
 つまり、ここでの名護は具体には許田である可能性も残します。

17-1179(5)
名護の子照る曲 ゑけ/又見物小照る曲 ゑけ
一なこのこてるは ゑけ/又みもんこてるわ ゑけ
〔wikisource/うちいではとしま嶋そいが節 17-1179(5)〕

「ゑけ」は感動詞らしい〔後掲amaoki〕。「小照る」はうららかな日差し、のような意味でしょうか。よく分かりません。

17-1180(6)
名護酒/親酒 来よもの/親門 開けて/吾 入れゝ/又掟にしや/物言にしや 来よもの/又真羽地の/たれしけち 来よもの/又阿和 屋部の/せにたまり 来よもの
一なこさかい/おやさかい きよもの/おやちやう あけて/わん いれゝ/又おきてにしや/ものいにしや きよもの/又まはねしの/たれしけち きよもの/又あわ やふの/せにたまり きよもの〔wikisource/みやきぜんきこへてだの節 17-1180(6)〕

 6首の中では、最も名護で実際に過ごした実感のあるものです。「真羽地」は分かりませんけど「羽地」は現・名護市街北の羽地内海南奥、屋部は現・名護市街西端です。阿和も地名のように見えるけれど、不詳。これらの近隣地から来た人たちと地酒を飲んでいる風情……でしょうか。
・羽地(中学校) →GM.
・屋部 →GM.

17-1181(7)
一喜瀬の子や 我が弟者/今 有る 庭 居たる/今日から 屡々 見らに/又きちり 越いて 名護の浦
一きせのしや わかおとちや/いみや ある みや おたる/けよから しは〱 みらに/又きちり こいて なこのうら〔wikisource/かねぐすくのろのまぶりよわるおとまり節 17-1181(7)〕

 2_14-997(16)と同じく喜瀬と並列で名護が謳われています。ただその他の句が、すみません、どうにも読めず……大意にたどり着けませんでした。

21-1426(33)
一かさすちやらは/だりじよ 鳴響め/見れば 水 廻て/又真物ちやらは/だりじよ 鳴響め/又名護の浜に/だりじよ 鳴響め/又名護のひちやに/だりじよ 鳴響め/又大和ぎやめ/だりじよ 鳴響め
一かさすちやらは/たりしよ とよめ/みれは みつ まわて/又ま物ちやらは/たりしよ とよめ/又なこのはまに/たりしよ とよめ/又なこのひちやに/たりしよ とよめ/又やまときやめ/たりしよ とよめ〔wikisource/うちいぢへはこゑしのがさしふとのばらが節 21-1426(33)〕

「だりじょ」が全くの意味不明です。「水 廻て」はもしかすると「航海する」語義でしょうか?他は第一首(11-606(51))と同義に思えます。
 いずれにせよ、「名護酒」首を除き、具体の情景ではなく大和のダミーのような、いわば「象徴」として名護は語られているように思えます。

蔡温の「許田湖」に遊ぶ沈丁花

 蔡温(1682(尚貞14)年生-1762(尚穆10)年没)に、何と許田を詠んだ漢詩があります。おもろで全く用例のなかった許田・地名を、蔡温は上記のような琉歌の色彩に対し、江湖(狭義∶長江&洞庭湖)に見立てて遊んでます。

泛許田湖
清湖十里抱村流
此日偸閑獨泛舟
楓樹初飛堤上葉
釣竿殊狎水中鴎
天涯風霞光落
紅面峰高月影浮
纔是滄狼漁父興
敢云我續范蠡遊
(読みくだし)
許田湖に泛ぶ
清湖十里 村を抱きて流る
此の日閑を偸んで独り舟を泛ぶ
楓樹は初めて堤上の葉を飛ばし
釣り竿 殊に狎水中の鴎
天涯風静かにして 霞光落ち
面を紅くして 月影浮かぶ
纔かに是れ滄狼の漁父の興
敢えて言わん 我も范蠡の遊びに続かんと

(現代語訳)
 許田の清らかな湖は、ひろびろとして村を抱くようにめぐりながれ、この日暇をつくって、ひとりで舟を浮かべて遊んだ。堤の上の楓の木が、葉を飛ばしはじめたのは、しのびよる秋のしるしだろうか、湖上で釣り竿をたれている漁夫は、とくに鴎が飛びめぐる。
 湖上は風をもなく静かで、空のかなたの霞に映ずる落日の光も、しだいによわくなってくると、あかく染まった湖面には、周囲の高い峰が影を落とし月も浮かんでいる。こうして湖上に舟を浮かべていると、わずかながらも、あの漁夫の興にちかづくようだ。わたしは范蠡が江湖に舟をうかべた心境に続きたい。
〔原典∶(上里賢一『琉球漢詩選』←後掲日本財団〕

「此日偸閑獨泛舟」(この日暇をつくって、ひとりで舟を浮かべて遊んだ。)、「纔是滄狼漁父興」(わずかながらも、あの漁夫の興にちかづくようだ。)などの記述からは、単なる想像ではなく、蔡温は実際に「許田湖」に浮かんだのかもしれません。湾を湖に例えたのではなく、終始「湖」として描いているのは……何の間違いだったのか分かりませんし、山原船など他の輸送船の記述が全くないのも不思議ですけど──許田が漁夫の里として僅かに描かれた、唯一の例です。

(再掲)山原船が浮かぶ湖辺底港 ※撮影年・出典等不詳〔後掲日本財団〕

〉〉〉〉〉参考資料 

(あてる)ateruy21 2020「アイヌのこともっと知りたい」アイヌ語と日本語の中に残る「縄文語」ーその680
URL:https://urespa21.exblog.jp/31189444/
アッチャーアッチャー@沖縄パワースポット/チューダのティミジュとクシヌウタキ@名護市「許田の手水/後の御嶽/ナーナンギー」 | – 楽天ブログ
URL:https://plaza.rakuten.co.jp/gomachanoklnawa/diary/202312070000/#goog_rewarded
(あまお)amaoki-essay028
URL:https://www.eonet.ne.jp/~rekio/melmaga/amaoki-essay028.htm
石丸紀興 1987「22 名護市における戦災と戦災復興計画 戦災復興計画研究 その2」『都市計画論文集』22 巻 p. 127-132
※JSTAGE URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalcpij/22/0/22_127/_article/-char/ja/
インファクト 2021/米軍は日本軍のいない離島も空襲していた【司法が認めた沖縄戦の実態⑱】 | InFact
URL:https://infact.press/2021/11/post-14575/
沖縄県/沖縄米軍基地強制使用訴訟資料
URL:https://www.jca.apc.org/~runner/oki_sosyo/306o.html
沖縄 婚活倶楽部えんむすび/沖縄のパワースポット~轟の滝~
URL:https://enmusubi.okinawa/2022/04/14/%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%EF%BD%9E%E8%BD%9F%E3%81%AE%E6%BB%9D%EF%BD%9E/
沖縄放浪日記/金武町の屋嘉集落にある2つの御嶽と飲料や生活用水として使われていた大井戸☆
URL:https://oki-night.blogspot.com/2018/04/2.html?m=1
岐阜女子大学 2023/久高島 – デジタルアーカイブ研究所
URL:https://digitalarchiveproject.jp/database/%E4%B9%85%E9%AB%98%E5%B3%B6-3/
島村幸一 2020「『おもろさうし』選詳解Ⅶ」立正大学文学部研究紀要36号,pp53-105
URL:https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/8031/files/%E2%91%A6%E5%B3%B6%E6%9D%91%E5%B9%B8%E4%B8%80.pdf
(ちゆう)中京大学/沖縄 久高島住民強制疎開之記念碑 - 戦争記念物アーカイブ -URL:https://openweb.chukyo-u.ac.jp/~shaken_archive/20170714-4-1.html
釣りナビくん(運営∶マリーンネットワークス株式会社) アプリ URL:https://tsurinavi-kun.com/
名護市教育委員会 1982「名護市文化財調査報告4:名護市の遺跡」
※全国文化財総覧 URL:https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/35851
(なごぺ)名護大百科事典 Nagopedia 試行版 – 数久田
URL:https://sites.google.com/site/nypedia/home/area_nago/sukuta
名護・やんばる大百科ミニ/きょだのてみず 許田の手水
URL:https://www.city.nago.okinawa.jp/museum/api/detail.html?data_id=451&doccode=2102&genrecode=04&genreword=%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E3%83%BB%E5%90%8D%E5%8B%9D
日本財団図書館(電子図書館) 山原の津(港)と山原船(なきじん研究)
URL:https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/00396/contents/0018.htm
風景結々(ふうけいゆいゆい)/名護市 許田集落風景 | 沖縄風景アーカイブ | ~沖縄らしい風景づくりポータルサイト~
URL:https://www.fukei-okinawa.jp/archive/00012430/
ヤナ・ウルバノヴァー 2014「オモロと琉歌における『大和』のイメージ」『国際日本学』11巻 pp305-333 法政大学国際日本学研究所
※法政大学学術機関レポジトリ URL:https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00022499/

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