目録
静かなる京の内の藪

静かな場所でした。

藪はくちゃくちゃとして、しかも明るい。
美しい京の内の森

四カ国語の看板がなければ、ここが首里城だと忘れてしまう清寂です。

放置すればすぐに藪になるはずです。どう維持管理すれば、こんな木漏れ日の森になるのでしょう?

入った北口から出る。
マップを見るとやはり南東側(下図右上)に郭のような構造があります。つまり京の内は緩やかな「城」でもある、ように見えます。
琉球城跡が琉大だったころ

西口・木曳門(→GM.)の(門番の)おじいに石畳への道を訊く。
「暑いし、かなりハードですよ!」と脅される。確かに、天のお日様はより苛烈さを増す真昼。

門の外に……琉球大学跡碑?隣には「史跡首里城跡」という文字が掠れた石杭。完全に不明。察するに、「琉球城跡」が「琉球大学」に転じて暫く経たということになるけれど──?(巻末参照)
1427左折、駐車場へ。真珠道の名を記す碑を、とうとう見る。
ちなみに真珠湊碑文はさっきの木曳門下を右だったらしい。スルーしちゃった!

長石に戻る。でも単なるレプリカでした。
真珠道碑を左折、京の内の裏まで回る。
京の内の裏 首里城南口

1436、バス停・首里城南口。
口って──口、開いてたらこんなに大回りしねーよ!せめて一歩下がって首里城南側にせんかいっ!

だけど──キャッスルマンション首里。この辺りが京の内の真裏の位置だけど……京の内からは崖下になってます。恐らく、直接の道は無かったか、秘道だったかだと思います。
つまり、突っ込んだ如く、本当に南口だったのかもしれません。昔には。

バス停・金城町。やはり三叉路を回るしかないか。地勢的には山から出口がある雰囲気はあるのだけれど……。
1445。三叉路下側の城下保育園(→GM.)手前の階段を選ぶ。左折、下降。


GM.上はそんな地点はありませんけど、左手東への屈曲地点で小さな川を渡りました。多分この地点→GM.。
なお、地理院地図はこの川との交点を表示します→地理院地図※。古い佇まいを感じさせる好い道行きです。
※以下もポイントについては地理院地図の表示が詳細な場合が多いので、この方法によります。
段違い道 行き止まり道 進む

1451、眺望。多分那覇湊方向、というところ。

段違いの下の道へ出てみる。1455→地理院地図。
おおっ!20度はある傾斜の坂道に出ました。右折。
これが、以前伺った雨乞い御嶽(→GM.)西直下になるはずです。

「この先行止り」とあるけれど??
いや、行っちゃえイッちゃえ!

凶悪な坂を下つてチョコラート

11505やはり!!車は行止りだけど歩きでなら抜けれました!
直進。エンゼルハイム首里金城町(→GM. →地理院地図)。

凶暴な下り道を下りる。1510。
行手、南には巨大な丘。金城ダム隣友会自治会掲示板。

デザートラボチョコラート。1513。
金城四丁目バス停。ここで右折西行。繁多川一丁目方面へ南西に抜けるには、ここから西へ0.5kmズレる必要があります。

首里城南麓まで舟で宮古人

バス停石畳前。
南を流れるこの金城川というのは……どす黒い川です。深い谷底を黒々と流れ、その音だけが響く。川岸の基層は相当古く、継ぎ接ぎで川を御そうと苦闘してきた気配があります。

金城橋と識名平(ナカグスクバシとシチナンダ)
金城橋は,琉球王国時代,首里・識名台地の間を流れる金城川に架けられた橋である。橋の創建年は不明。1677年に木橋から石橋に建て替えられた(「金城橋碑文」建立)が,1809年の洪水により損壊。(略)この付近は,かつて金城川を遡って船の往來があった頃,宮古の人々が,海上安全を祈願して川岸の洞くつに魚の形を刻んだという伝承から「魚崎原」(イユサチバル)という地名(略)が残っている。
〔案内板〕
船の往来?かつ、それが宮古人だった?まるで分からない。

でも、後から調べる限り、金城川を船が通っていたのは、少なくとも信じられている定説のようです。
古地図の描かれた300年前の那覇市中心部には国場川と安里川の河口が広がり、中央に浮島と呼ばれる小島(現在の久米から若狭)があった。
首里と海は近接しており、小型船が深く入り込んだ河口から安里川~金城川を遡って首里城南麓まで往来し、物流の一端を担っていた。〔後掲沖縄県立図書館〕

只それが宮古人というのは──宮古の人が連行されて小船運送に従事させられたのでしょうか、それとも宮古の物資だけがこのルートだったのでしょうか?

■レポ:琉大法文キャンパスが京の内御嶽に戻るまで
この訪問時も、それから暫く後までも全く知りませんでしたけど──首里城は四度灰になったとよく言われます。でも三度目の灰燼の後、首里城ではなくなった時代のことは、この時に見た「琉球大学跡」石碑しかほとんど伝えるモノがありません。
沖縄ナショナリズムに浸らずにドライに言えば、戦後の首里城は既に、ハウステンボス並みの人工物です。かつ、沖縄人を刺激しないよう、それを塗り隠すために国費を注ぎ込んでいるという意味では、醜い構造物です。
うちなんちゅの誇りを込めた場所だということは尊重したいけれど、同時に事実は事実として認知しなければ──あなたが沖縄人だろうと日本人だろうと──奴らに騙されたままです。
1987年までキャンパスだった「首里城」
1948年12月 ・連合軍最高司令部の琉球局長ジョン・H・ウェッカリング准将は米国琉球軍政本部教育部長アーサー・E・ミード博士、沖縄民政府文教部長山城篤男氏と共に首里城趾等を視察し、前教育部長スチュアート中佐の計画に基づき、ここに大学を設立することになった。
1950年10月30日 ・琉球情報教育委員会(軍政府指令第13号)を設置。同委員会は琉球大学理事会としての機能も果たした。
1951年1月10日 ・琉球大学に関する基本法(琉球列島米国民政府令第30号)を制定。同基本法により琉球情報教育委員会は琉球大学理事会となった。〔後掲琉球大学〕

5)昭和62年現在現況図
琉球大学は昭和57年3月まで首里城跡地を大学キャンパスとして使用し、その後は西原町に移転した。この現況図(引用者注∶上図=図3)は琉球大学の建物が撤去される以前の地形図で、写真一2はその状況を空中撮影したものである。〔後掲首里城公園/2編6章2枚目p186〕

京の内も例外ではありません。しかも京の内については、戦前に既に小学校になっていた、と記録されます。
「旧首里城図」は昭和6年頃の地形図面で、当時は下之御庭の南側に連続する京の内石積はすでに撤去され、小学校が建設されていた。京の内は幾列にも石積が連なり複雑な城郭を形成していた。地盤はこれらの石積と関連が強く、南から北に向かって徐々に地盤は下がっていたと推測する。〔後掲首里城公園/2編6章6枚目p190〕
考えてみれば当然のことで、大日本帝国も米軍も、その行政機構が首里城を旧態のまま維持する意思を持つはずがありません。
琉球大学時代の京の内は、「法文学部等研究室」の敷地だったようです〔後掲首里城公園/2編6章〕。

1992年11月3日首里城供用開始
首里城公園は、現行日本法制上、都市公園のうち国直営の国営公園です。これは全国に計17あります。
沖縄県にある国営公園は二つ。首里城公園は、1976(昭和51)年開園の海洋博覧会地区の16年後、さらなる「あめ玉」※として造られました。運営者は一般財団法人沖縄美ら島財団ですけど、経営組織は内閣府沖縄総合事務局国営沖縄記念公園事務所。
・設置目的 沖縄の復帰を記念
・所在地 沖縄県那覇市
・第1期開園 平成4年度
・計画面積 4.7ha
・閣議決定年 昭和61年11月28日〔後掲国交省〕
「沖縄の復帰を記念」とは、沖縄本土復帰20周年記念事業という意味です。文化復興でも、まして文化財保存でもありません。──同じ国営公園(公共空地)として、2020(令和2)年に明治記念大磯邸園が「明治150年関連施策」として開園しましたけど、同列の「記念事業」です。
現代沖縄における「御嶽復元技術」
けれども……だとすると本文で見たような、現・京の内の厳かな聖域は、どうやって形成されたのでしょうか?
それが「造りもの」であることは、繰り返しですけど首里城本体と同様なのです。京の内はなぜあれほどまでに「本物の御嶽っぽい」のでしょうか?
京の内エリアは城内で最も重要な祭祀空間として機能していた。京の内は今後の発掘調査や関連す る調査・研究を踏まえて、公園計画における位置づけを明確にし、整備方針を定める。〔後掲国交省4枚目p188〕
あまり書かれないようですけど、首里城復興の中で、京の内は特に繊細な旧態復元と、それ以上に緻密な整備方針の議論が進められた形跡があるのです。膨大な京の内の発掘報告と同様、沖縄人の意思を代表した有識者による書かれない議論が交わされ、沖縄最高の聖地感を宿す御嶽が復元されたのです。
一応の根拠としてですけど、後掲首里城公園の「国営沖縄記念公園首里城地区
計画・設計の記録」(発行年:平成7年(1995年)3月)は、2編「復元整備計画・設計編」の最終章に、特に「京の内」として第9章を設けています。
御嶽の植生は、一般的に大きな森を持ち、その中に拝所が設置されている場合が多い。これは拝所周辺の林分が神域として保護され、その土地の自然が集積された形で残されたことによる。
京の内の植生は、神木となるビロウ、クロツグ等を含めた石灰岩自然植生か主であったと思われる。ただし、西側区域の一部が龍潭の土で造成されていたとすると酸性土壌を好むヤマモモ、イジュ等の植生があったとも考えられる。
植生の分布は、「旧首里城図」と「首里城古絵図」をベースに配植した。京の内の場合、一般の御嶽と異なって城として機能していることから、防御的意味での植生の管理、また祭祀空間としての広場を確保する必要から、非常によく植生か管理されていたとも考えられる。〔後掲首里城公園/2編9章〕
それは、これまで訪れた、沖縄のふとした公園の脇の御嶽や古墓群を見てきて十分連想できる気がします。沖縄の聖地は、物凄く激しく破壊されてきた分、それを復元する工法的・行政的「技術」もほとんど草の根で磨かれていったのだと想像せられるのです。

沖縄には、ごく最近にも新たな聖地が創造される事例を幾つか見ました。だから、古い聖地の破壊は悲惨で取返しがつかないことではあるけれど、それを「再生産」する技術や意思は、沖縄ほど本気で行われるのならアリだろう──と信じます。
結論∶首里城は、沖縄にあっては何度でも何度でも建て直されるべきです。沖縄人によってならば。

〉〉〉〉〉参考資料
URL:https://www.library.pref.okinawa.jp/archive/contents/cat39/map-knowledge.html
(こくど)国土交通省/政策・仕事>都市>公園とみどり>国営公園
URL:https://www.mlit.go.jp/toshi/park/toshi_parkgreen_kokuei.html
/(資料)国営公園等事業について
PDF URL:https://www.mlit.go.jp/toshi/park/content/001475079.pdf
(しゆり)首里城公園 デジタルミュージアム > 平成の復元の記録
URL:https://oki-park.jp/sp/shurijo/digital_museum/7018
/国営沖縄記念公園首里城地区
計画・設計の記録 発行年:平成7年(1995年)3月/章ごとのダウンロード
/第2編 復元整備計画・設計編/第6章 城郭基盤造成
PDF URL:https://oki-park.jp/sp/userfiles/files/shurijo/digital_museum/data/midori_02_06.pdf
/第2編第9章京の内
PDF URL:https://oki-park.jp/sp/userfiles/files/shurijo/digital_museum/data/midori_02_09.pdf
(りゆう)琉球大学/大学情報/沿革
URL:https://www.u-ryukyu.ac.jp/aboutus/history/


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